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2020年03月04日

“神”になろうとしていた !? 織田信長の新常識

異説・織田信長

織田信長は「中世の常識を破壊し、近世を切り拓いたパイオニア」として、それまで誰もしたことがなかったことを次々とやってのけた人物です。

しかし、信長は型破りな“革命児”としてのイメージが強過ぎるため、その業績が実際以上に誇張されてしまう場合があります

例えば、有名な比叡山延暦寺の焼き討ちでは、比叡山すべてが灰になるまで焼き尽くし、僧侶三千人以上が殺されたと言われていますが、実際にはこれほど大規模な焼き討ちはされていなかったことが近年の地質調査で判明しています。

他にも10年以上に及んだ一向一揆との戦いでは、敵対した一向宗徒を女子供に至るまで一人残らず虐殺したと言われますが、これも誇張された部分はあると思われます。

勿論、信長がかなりの一向宗徒を殺したのは事実です。

しかし、延暦寺の焼き討ちにも言えることですが、被害者側が世間に信長の残虐非道を訴えるため、やや大袈裟な物言いをしたことも否めないでしょう。

このように信長ほどの歴史的人物になると、良いことも悪いことも誇張することで、より一層その人物像を際立たせようとする傾向があるのです。

ここでは、これまで語られてきた人物伝に隠された裏側を探っていきます。

というわけで、今回は織田信長の知られざる事実について語りたいと思います。

長篠の戦いで「鉄砲三段撃ち」はなかった

天正三年(1575年)織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が激突したのが長篠の戦いです。

この合戦のクライマックスといえるのが、織田徳川軍による「鉄砲三段撃ち」でしょう。

火縄銃は破壊力は抜群ですが、その反面、弾込めから発砲までの時間がかかることから、それまで実践には不向きとされていました。

信長はその弱点を補うため、三千挺もの火縄銃を揃え鉄砲隊を三列に並べることで連射を可能にし、これによって武田の騎馬隊を壊滅させたのです。

このことから、長篠の戦いは鉄砲の威力が最も発揮された合戦として有名になりました。

しかし、長篠の戦いにおける「鉄砲三段撃ち」は江戸時代以降に小説などで描かれたことであり、それがいつの間にか「史実」として伝えられたと考えられます。

信長の側近・太田牛一が書いた信長の一代記『信長公記』によると、長篠の戦いについて「武田の騎馬隊が馬防柵の前に押し寄せた時、鉄砲の一斉射撃で大半が撃ち倒され、あっという間に敵がいなくなった」と記述されていますが、「鉄砲三段撃ち」の描写はどこにも描かれていません

鉄砲隊の一斉射撃により武田の騎馬隊が壊滅的なダメージを受けたことは事実でしょうが、「鉄砲三段撃ち」の正式な記録は存在しないのです。

【それがだいじWi-Fi】
「楽市楽座」は信長が最初ではない

信長が登場する以前、室町時代までの商業には「座」という商工業者による同業者組合が存在していました。

当時の商人は座に加盟して一定の税金を納めなければ商売ができないという閉鎖的な仕組みでした。

天正五年(1577年)、前年から安土城を築城していた信長は、座の特権を撤廃して新興商人による自由な商売を認めることで城下町の発展を図ったのです。

この楽市楽座によって安土城下は大きく発展しました。
安土城天守閣.jpg
復元された安土城天守閣

この楽市楽座という新しい商業政策は信長によってクローズアップされましたが、信長が最初に行なった政策ではないのです。

戦国時代の始まりとされる応仁の乱以後、特権階級の力が衰えたことで、商業においても座の支配力は低下していました。

そして16世紀に入ると、各地の戦国大名は自国の経済活動を活性化させるため、新興商人による自由な取り引きを認め、市座などを設けない楽市を奨励したのです。

つまり、信長以前から座の制度は衰退しつつあり、各地で自由な商業取引は始まっていたということです。

実際、天文十八年(1549年)に近江(滋賀県)の戦国大名・六角定頼が「楽市令」を最初に制定していたことが正式な記録として残っています。

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信長は自ら「神」になろうとしていた

豊臣秀吉やコ川家康が死後に神として祀られていることは比較的有名です。

秀吉を祭神とする「豊国神社」、家康を祭神とする「東照宮」がそれですね。

しかし、なんと信長は生きながらにして神になろうとしていたのです。

信長は安土城にハ見寺(そうけんじ)を建立し、信長自身がここの“生き神”になったといいます。

信長と親交があった宣教師、ルイス・フロイスの記した『日本史』によると、信長は自己を神格化する宣言を行ない、

「命を持った地上の神として信長自身を奉り礼拝せよ」

との高札を安土城下に立てたとされています。

さらに、信長の誕生日である5月12日を聖日として祭典を開き、この日には部下や領民にハ見寺への礼拝を強要したというのです。

信長は領民たちにハ見寺への礼拝すれば「商売繁盛」、「健康長寿」が叶えられると説きました。

ここで注目すべき点は、それまでの既存の仏教のような来世における救済ではなく、現世の利益を唱えたところです。

これはいかにも現実主義者の信長らしい発想といえるでしょう。



まとめ

  • 長篠の戦いにおいて鉄砲隊の一斉射撃はあったが、「鉄砲三段撃ち」の記録はない

  • 楽市楽座は信長によりクローズアップされたが、信長が最初に行なった訳ではない

  • 信長はハ見寺を建立し、自らが“生き神”になろうとしていた


生きながらにして神になろうとは、やはり信長には計り知れないスケールを感じますね。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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