アフィリエイト広告を利用しています
<< 2021年03月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
カテゴリーアーカイブ
検索

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2020年05月01日

源平合戦にまつわる義経の伝説的エピソード

枚挙に暇がない義経伝説

このブログでは源義経について過去に何回か語りましたが、義経は文治五年(1189年)閏4月30日、藤原泰衡に攻められて衣川で自害しています。

つまり、昨日が命日ということになります。

その後、義経の首が鎌倉に運ばれたのがちょうど梅雨〜夏にかかる時期だったため、腐食が激しく顔の判別が難しかったことから、義経は衣川で死なず生き延びたという「義経北行伝説」を以前に紹介しました。(11月11日付ブログ参照

この北行伝説でもわかるように、日本人には“判官びいき”の感情があるため、悲劇のヒーロー義経には様々な伝説が語り継がれています。

「義経北行伝説」は(もし義経が衣川で死んでなかったら?)という仮定で創作された要素が多分にあるのですが、生きている間にも数々の伝説が存在します。

義経の家来だった弁慶11月13日付ブログ参照)でも紹介しましたが、五条大橋における弁慶との出会い、安宅関での勧進帳などもそうですね。

義経は“戦の天才”として有名ですが、天才と呼ばれる所以は合戦の最中にも伝説を残していることもその理由の一つといえるでしょう。

というわけで、今回は源平合戦における義経伝説について語りたいと思います。

「逆櫓」の論争 (屋島の戦い)

文治元年(1185年)2月、義経は平氏追討のため、讃岐(香川県)の屋島に向かうことになりました。

しかし、おりからの暴風雨により船での出航は困難を極め、軍議が開かれることになりました。

この軍議の席で、鎌倉の頼朝の命令によって義経軍に派遣された梶原景時と義経の間で起きたのが「逆櫓」(さかろ)を巡る論争です。

景時は荒天時での海上戦を想定し「船に逆櫓を付けてみてはどうか?」と義経に提案します。

その理由について尋ねられると景時は「騎馬なら進むも戻るも手綱一つで自由に動かせるが、船の場合そうはいかない。しかし、船の前後に逆櫓を取り付ければ方向転換がしやすくなる」と説明しました。

これを聞いた義経は

「最初から逃げることを考えてどうする?戦というのは引くことを考えるべきではない」

と反対しました。

すると景時は「優れた大将は進むべきところは進み、引くべきところは引くもの。ただがむしゃらに進むことだけを考えるのでは猪武者にも劣る」と、義経を諫めます。

しかし、義経は

「猪など動物のことは知らぬが、戦はひたすら攻めて勝ってこそ、真に敵をねじ伏せられるというものだ!」

と、今にも太刀を抜かんばかりに凄み、一歩も引かなかったのです。

義経は景時の提案を無視して強行軍で船を進め、通常なら3日かかるところをわずか6時間ほどで四国に上陸することに成功しました。

一方、この論争で面子を潰された景時は、義経の無謀な行動を頼朝に告げ口し、これ以後頼朝は義経に対して不信感を抱くようになったといわれています。

希釈せずにそのまま使える次亜塩素酸水、除菌水ジーア
「弓流し」 (屋島の戦い)

文治元年(1185年)2月に行なわれた屋島の戦いにおけるハイライトは、やはり那須与一による“扇の的”の逸話ですね。(7月23日付ブログ参照

屋島の戦いでは、扇の的の他にも義経にまつわるエピソードがあります。

義経は騎馬で海に入って戦っている最中、誤って弓を落としてしまいます。

すると義経は周りにいた家臣たちが止めるのも聞かず、敵に討たれそうになりながら馬上で前屈みになり必死に腕を伸ばして弓を拾ったのです。

その後本陣に戻ると、家臣たちに「なぜ弓くらいのことで、命の危険を顧みず無謀な真似をしたのですか?」と問い詰められました。

これに対し義経は

「弓が惜しかったのではない。あれが叔父・源為朝4月3日付ブログ参照の剛弓ならば、わざと落としてでも敵に拾わせて誇るだろう。だが、自分の弱い弓が敵の手に渡って『これが敵の大将の弓か』とあざ笑われるくらいなら、命に代えても取り戻す」

と答えたのです。

家臣たちは(大将たるものはかくあるべき)と、義経の心意気に感動したといいます。

あなたはどのタイプ?ライフスタイルに合わせて宅配コースを決めよう
「八艘飛び」 (壇ノ浦の戦い)

文治元年(1185年)3月、源平合戦のクライマックスとなったのが壇ノ浦の戦いです。(3月23日付ブログ参照

戦場となったのは本州と九州の間を流れる関門海峡で、潮流の激しい中での船上の戦いでした。

戦いの前半は平氏方が優勢でしたが、午後になり潮目が変わると形勢は逆転、平氏方は次第に追い詰められていきます。

夕方になり平氏方の敗北が決定的になると、平家随一の猛将・平教経(のりつね)は「かくなる上は敵の大将と組み討ちして死に花を咲かせようぞ!」と覚悟を決め、義経の船に乗り移ってきたのです。

教経は義経を見つけると「我を生け捕りにしてみよ!そうなれば鎌倉へ下り頼朝に一言物申す!」と叫び勝負を挑みます。

義経は不慣れな船上での組み討ちは不利と考え、船の後方へ退きます。

しかし、なおも追ってくる教経を見た義経は思い切って船端を蹴り上げると驚異的な跳躍をみせ、二丈(約6b)先の自軍の船に飛び移ったのです。

これが世に言う義経の「八艘飛び」(はっそうとび)です。
八艘飛び.jpg
 八艘飛びをみせる義経像

この神業とも思える義経の跳躍を見せられた教経はとうとう追撃を諦め、もはやこれまでと最後に源氏の武者二人を両脇に抱え込んだまま海に飛び込みました。

しかしながら、八艘もの船に次々飛び移ったというのはさすがに出来過ぎた話で、実際に義経が飛び移ったとされるのは一艘だけです。

さらに言えば、不安定な足場の船上で甲冑を付けたまま一気に6bもの跳躍が可能だったかを考察すると・・・・多少の誇張はあったかもしれませんね。



まとめ

  • 「逆櫓」の論争とは、義経と梶原景時による戦いに臨む姿勢についての激しい口論

  • 「弓流し」とは、自らの弓を敵に奪われることを恥じた義経のプライドを示した行動

  • 「八艘飛び」とは、敵に追われた義経が船上でみせた驚異的なジャンプ


「八艘飛び」は相撲の戦法の一つにもなっており、昔でいえば舞の海などの小柄な力士が稀に使う技ですね。

2020年03月16日

宿命のライバルに「塩を送る」 上杉謙信の魅力

敵将までも魅了する人柄

前回のブログでは上杉謙信の生涯について語りました。

謙信は戦国武将の中でも特に人気のある武将として知られていますが、その理由は単に(戦が強かったから)だけではありません。

自らの私利私欲ではなく、正義のために戦ったというのも人気の所以でしょう。

謙信はライバルたちとの戦いを通して、いつの間にか相手に尊敬の念を抱かせてしまうような不思議な魅力がありました。

例えば、宿命のライバル・武田信玄は謙信について

「あれほど勇敢な男と戦ってはならぬ。我が死後は謙信と手を結んで甲斐の国を守れ」

と、子の勝頼に遺言しています。

また、謙信の関東遠征で何度も対戦している北条氏康10月3日付ブログ参照)も

「信玄や信長は裏表があり信用できぬが、謙信だけは一度請け負ったら、たとえ骨になっても義理を通す男。故に肌身を分けて若い者にその精神を見習わせたい」

と、子の三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子に出しているのです。

何度も対戦して本来“憎き敵”であるはずの相手に、ここまで言わせる武将は他にいないのではないでしょうか?

他の戦国武将とは一線を画す謙信の個性的な性格や謎とされる部分もその魅力の一部といえます。

というわけで、今回は上杉謙信にまつわる様々なエピソードについて語りたいと思います。

一度引退したことがある

一回目の川中島の戦い後、越後(新潟県)国内の武将どうしで争いが起きて謙信の領国経営を揺るがせる事態が起こりました。

これは、越後の弱体化を図ったライバル武田信玄の調略ともいわれています。

謙信は仲裁に奔走しましたが、家臣間の争いはなかなか収まらず、これに嫌気がさした謙信は国主の座を捨て紀伊(和歌山県)の高野山へ登って引退しようとしたのです。

しかしこの引退騒動は、当時まだ不安定だった謙信の領国経営の安定化を図るための芝居だったとする説もあります。

というのも、突然の引退宣言に慌てた家臣たちに対し、謙信が国主に戻る条件として

1.家臣たちが謙信に忠誠を誓う誓紙を連名で提出すること

2.忠誠の証として人質を謙信の元へ差し出すこと

という2つを提示したからです。

その結果、家臣たちは争いをやめ、改めて謙信の元に結束することを誓いました。

しかし、領国経営安定の為とはいえ、謙信がそんな小細工を弄するでしょうか?

デリケートで実直な謙信の性格から考えると、私利私欲にまみれた家臣たちの醜い争いに、本当に嫌気がさして辞めたくなっただけかもしれませんね。

あなたの生活をちょっとお得にするcolleee
謙信は実は女性だった !?

謙信は一度も妻を持たず、生涯独身を貫いたことで有名です。

これは、神仏に対する信仰が篤かった謙信が戦の戦勝祈願のために女色を絶っていたからといわれています。

しかし、信仰のためとはいえ、子供を作って家名を保つことは戦国大名にとって必須の使命だったはずです。

なぜ謙信は妻帯しなかったのでしょうか?

そこで浮上したのが、「謙信女性説」です。

ある史料によると、謙信の死因が「大虫」だったとの記録があります。

大虫とは婦人病のことで、謙信が亡くなった時の49歳という年齢もこの婦人病の死亡率の高い年齢と一致します。

また、謙信は毎月10日頃になると合戦中でも戦いを休止させることが多かったといいます。

これは、いわゆる生理日と重なったからという見方もできます。

その他にも、上杉家の古文書などにみえる謙信の筆跡は女性的な字だったといわれています。

とは言うものの、謙信の肖像画を見ると顔に髭が蓄えられていますよね?

これに関して女性説の立場から言うと、死後に付け加えて描かれたものとみられています。

戦国時代は女子の家督相続が認められていましたが、徳川幕府の時代になるとそれが認められなくなりました。

つまり、もし謙信が女性だったとしたら、幕府がそれを理由に難癖をつけて上杉家を取り潰す可能性があったのです。

そこで、上杉家は謙信が女性であった証拠を隠すため、謙信の肖像画なども男性のように描き替えたということです。

Happy Plugs公式サイト
ライバルとの友情から生まれた言葉

「敵に塩を送る」という言葉があります。

これは、(敵の弱みに付け込まず、逆に救いの手を差し伸べること)という意味で、ライバル信玄とのエピソードから生まれた言葉といわれています。

永禄十年(1567年)信玄は北条・今川との三国同盟を破棄して今川の駿河(静岡県)に侵攻することを決めました。

これに対する報復措置として、北条・今川の両家は武田の甲斐(山梨県)への塩の輸送を全面禁止にしたのです。

当然のことながら、塩は人間が生きていくために欠くことのできない資源なのですが、山国の甲斐では塩を生産することはできず、信玄は苦境に立たされてしまいます。

一方、謙信も今川家から甲斐へ塩を送るのを止めるよう要請されていました。

しかし、謙信は塩止めは武将にあるまじき卑怯な行為だと批判し、

「我は兵をもって戦いを決せん。塩をもって敵を屈せしむることをせじ」

(私は武力で戦いを決したい。塩止めで敵を屈服させるようなことはしたくない)

と、今川の要請を拒否し甲斐に塩を送ったといわれています。
上杉謙信銅像.jpg
 春日山城跡の上杉謙信像

現在の新潟県糸魚川市と長野県大町市を結ぶ国道148号線は通称「塩の道」と呼ばれ、越後から信濃(長野県)を経由して甲斐に至る日本海から塩を輸送するルートとして語り継がれています。

食事宅配サービス【食のそよ風】
まとめ

  • 謙信は家臣どうしの争いが絶えないことに嫌気がさし、国主の座を引退したことがある

  • 謙信が生涯独身を貫いたことの謎から実は女性だったとする説もある

  • 隣国から塩止めをされて困っていたライバルの信玄に敢えて塩を送った逸話から「敵に塩を送る」という言葉が生まれた


「敵に塩を送る」という逸話は創作された美談だと言う向きもありますが、謙信の(弱きを助ける)というポリシーから考えれば、あながち創作とも思えないですね。

2020年03月06日

家康も舌を巻いた!? 命懸けのいい話

徳川家にまつわる人物エピソード

徳川家康4月17日付ブログ参照)は常日頃から「我が宝は家臣」と語るほど家臣を大事にしていました。

家臣たちの忠誠心の高さに感謝する家康の気持ちがそう言わしめたのでしょう。

三河武士を中心とする家康の家臣は主君に対する忠誠心が高い他にも、律義でまっすぐな性格の者が多いという特徴があります。

それは時として、忠誠心をも超えてしまうほど度が過ぎる場合があるのです。

つまり、主君に対する忠誠心を曲げてでも守ろうとする自分の生き方を貫くということです。

何よりも自分のポリシーを一番大事にするのでは、主君に対する忠誠心を疑われてしまうかもしれません。

しかし、そういう純粋でまっすぐな精神を愛した家康の器の大きさもまた、家臣たちを惹きつける相乗効果があったのではないでしょうか。

というわけで、今回は家康の家臣にまつわる“ちょっといい話”について語りたいと思います。

自分の手柄より敵との約束を守る

藤堂仁右衛門 天正五年(1577年)〜 慶長二十年(1615年)※改元前


仁右衛門は本名を高刑(たかのり)といい、藤堂高虎の甥で徳川家に仕える武将でした。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い9月15日付ブログ参照)の時、仁右衛門は叔父の高虎と共に東軍として戦いました。

仁右衛門は戦いの最中、主戦場から離れたところに一人の西軍武将を見つけました。

その武将は西軍の主力であった大谷吉継の家臣・湯浅五助だったので、好機とばかりに勝負を挑みました。

この時、五助は負傷しながらも自害したばかりの主君・吉継の首を埋めているところだったのです。

五助は

「らい病(ハンセン病)に侵された主君の首を敵に晒したくないので、もしこのことを黙っていてくれたら、喜んで私の首を差し上げよう」

と仁右衛門に懇願しました。

仁右衛門はこれを承知し、約束した上で五助と戦い首を取りました。

戦後、自害した吉継の遺体が見つからなかったので、家康は五助の首を取った仁右衛門に尋ねました。

すると仁右衛門は

「拙者、吉継殿の首のありかは存じておりますが、五助と約束を交わした故、たとえ殿であっても教えることはできません」

といい、決して口を割らなかったのです。

これを聞いて怒った家康は「吉継の首のありかを教えないのならば、お前の首を斬ることになるぞ!」と脅しましたが、仁右衛門は「どうぞ御成敗下さい」と全く動じません。

首のありかを教えれば大きな手柄になるにも関わらず、死んだ敵将との約束を頑なに守ろうとする仁右衛門に感心した家康は、秘蔵の槍を仁右衛門に与えたといいます。

お財布と心が笑顔になる家事代行サービスCaSy
家臣を庇って大名の座を捨てた男

天野康景 天文六年(1537年)〜 慶長十八年(1613年)


康景は家康の幼少時代から仕えていた武将で、家康が今川家に人質に取られていた時にも行動を共にしました。

コ川幕府が開かれて間もない頃、康景は駿河(静岡県中部)の興国寺に一万石の所領を与えられた大名でした。

ある時、城普請の材料として蓄えていた竹が付近の農民たちに強奪される事件が起きました。

康景の家臣はこの最中、竹が強奪されるのを防ぐため、やむなく農民の一人を斬ってしまいます

この時、農民が斬り殺されてしまったことを問題視した家康は、側近の本多正純を通して康景に斬った下手人を引き渡すよう命じました。

しかし、康景は

「城の大切な材料を守ろうとした家臣に罪はない。罪があるとすれば、それを命じた私にある。なので家臣を引き渡すことはできない」

と拒否しました。

すると正純は「これは大殿(家康)の命令である。大殿の命令が絶対であることはそなたもよく存じておろう」と説得しました。

それでも康景は

「たとえ大殿の命令であっても家臣を引き渡すことはできない。大殿の命令が絶対であるというのなら、私が大殿の家来を辞するまでのこと」

と言い放ち、なんと所領を放棄して浪人になってしまったのです。

自ら大名の座を捨ててまで家臣を庇った康景を惜しんだ家康は康景の死後、康景の子を再び徳川家に取り立てるよう計らったといいます。

子育てママに大人気!無料で家まで届けてくれる宅配クリーニング「リネット」
コ川の武名を守った“命懸けの嘘”

大久保彦左衛門 永禄三年(1560年)〜 寛永16年(1639年)
大久保彦左衛門 (1).jpg

彦左衛門は本名を忠教(ただたか)といい、徳川家中においても“天下のご意見番”として主君・家康にもしばしば諫言した剛直な三河武士として知られています。

慶長二十年(1615年)大坂夏の陣がいよいよ佳境に入った時、家康は豊臣方の真田幸村5月6日付ブログ参照)の決死の猛攻に遭い、やむなく本陣の一時退却を余儀なくされました。

この時、幸村軍によって家康本陣の旗が倒されてしまったのです。(5月8日付ブログ参照

合戦において、総大将の旗が敵に倒されることは武将にとって負けにも等しいかなり屈辱的なことでした。

その後、幸村軍の猛攻を何とか凌ぎ本陣に戻った家康ですが、旗が倒されたことを問題視し、本陣を守っていた者を責めました。

ところが、彦左衛門は

「御旗は一度として倒されておりません」

と言ったのです。

家康が「わしはこの目で見たのだ!」と言っても彦左衛門は譲らず、家康との押し問答が続きました。

ついに家康は「あくまで嘘を申すのなら、お前を斬る!」と凄みましたが、彦左衛門は「私の申し上げたことが信じられないというのなら、どうぞお斬り捨て下さい」と、最後まで折れませんでした。

彦左衛門は徳川家の名誉を守るため、命を懸けて最後まで嘘をつき通したのです。

家康は怒りながらもその気持ちを感じ取っていたので、嘘と知りつつ結局彦左衛門を処罰しませんでした。

オリジナルコンテンツ数No1!【ABEMAプレミアム】
まとめ

  • 藤堂仁右衛門は自分の手柄よりも死んだ敵将との約束を守った

  • 天野康景は罪を犯した家臣を庇って大名の座を捨てた

  • 大久保彦左衛門は徳川の名誉を守るため、命懸けで主君家康に嘘をつき通した


ここまで徹底して自らの信念を貫き通す彼らには、不器用ながらも男の生き様を見せつけられた思いがしますね。

2020年01月29日

これぞ内助の功! 戦国武将を支えた妻たち

“縁の下の力持ち” だけではない妻の存在感

雪が降った昨日の寒さから一転して今日はびっくりするほど暖かかったですね。

普段の冬の服装では暑いくらいでした。

何しろ今日は4月上旬〜中旬くらいの気温だったとか。

九州では道路が冠水するほどの大雨が降るなど、夏ならともかく今の時期としてはちょっと考えられない異常気象ですね。

僕個人としては、寒さが苦手で冬が好きではないので、暖冬のままいつの間にか春になってくれたら理想的です。(笑)


さて、今日は戦国武将を陰で支えた女性たちを紹介します。

10月16日付のブログでも帰蝶(織田信長の妻)、松(前田利家の妻)、玉(細川忠興の妻)の名言について語りましたが、今回紹介するのは夫を歴史の表舞台に引き上げた女性たちです。

今でも良妻賢母な女性を妻に持つ夫が出世すると“内助の功”などと表現されますが、戦国時代は男尊女卑が酷く、政略結婚が横行するなど女性が「道具」のように扱われていた時代でした。

なので、女性の活躍や努力も軽視され、女性が表舞台に現れることはほとんどありませんでした。

そんな時代にあって、夫の出世に多大な貢献をしたと評価されている女性は並大抵ではないと思われます。

というわけで、今回は内助の功の代表とも言える戦国武将の妻について語りたいと思います。

自らの身を削って夫の面子を立てる

煕子(ひろこ 明智光秀の妻)


美濃(岐阜県)の豪族・妻木範煕の娘であった煕子は、光秀と婚約した後に疱瘡(天然痘)を患い、完治後もその痕が全身に残ってしまいました。

これが理由で破談になることを恐れた範煕は、煕子とそっくりな妹を煕子と偽り光秀の元に送りました。

しかし、光秀はこれを見破り、

「たとえ見た目が変わろうとも、私が妻として迎えるのは煕子だけです」

と宣言し、改めて煕子を迎えたといいます。

その後、光秀が仕えていた斎藤道三が息子の義龍に討たれてしまったため、光秀は浪人となり諸国を放浪した後、越前(福井県)の朝倉氏に仕えることになりました。

当時、朝倉家では家臣たちが月に一回持ち回りで会合を開き、回ってきた家では客人たちをもてなすのが恒例行事でした。

やがて光秀の順番が回ってきましたが、当時は日々の暮らしにも困窮するほど貧しく、とても客人をもてなす余裕などありませんでした。

困り果てた光秀が妻に相談すると、煕子は「わかりました。私にお任せ下さい」と快く引き受けました。

会合の当日、煕子は立派な御馳走や酒を用意してもてなし、客人たちはみな満足して帰りました。

客人たちが帰った後、光秀が今回の費用はどうしたのかと妻に尋ねると、煕子は頭にかぶっていた頭巾を取り、自らの髪を売って資金を調達したことを告白しました。

妻の献身に感激した光秀は「俺は必ず出世してこの恩に報いる。そして側室(正妻以外の妻)など一生持たない」と誓いました。

事実、光秀は戦国武将としては珍しく側室を持つことはなく、生涯煕子を大切にしたといいます。

街の本屋さんを応援するオンライン書店【e-hon】
夫の“ここ一番!” を心得ていた妻

千代(ちよ 山内一豊の妻)


一豊が織田信長に仕えて間もない頃、安土の城下に馬商人が「東国一の名馬」という触れ込みで10両もする高額な馬を売りに来ました。

一豊にも一目でわかるほど素晴らしい名馬でした。

しかし、当時500石取りしかない貧しい武将だった一豊にとって10両はとんでもない大金であり、とても買うことはできませんでした。

残念に思いながら家に帰って妻にこのことを話すと、なんと千代は黙って10両を夫に差し出したのです。

驚く夫に千代は

「このお金は私が嫁ぐ時、“この金は夫の一大事の時に使いなさい” と両親から渡されたものです。今こそその時だと思うので、ぜひその名馬をお買い下さい」

と答えました。

さっそく一豊はそのお金で名馬を買いました。
千代.jpg
千代と名馬の像

そうして間もなく、信長は京都で盛大な馬揃え(閲兵式、軍事パレード)を開催し、一豊も例の名馬に乗って参加しました。

たくさんいた名馬の中でも一豊の馬は一際目立つ存在で、信長の目にも止まりました。

一豊の身の上を知った信長は

「貧しい身でありながら、これほどの名馬を求めるとは武士の誉、天晴れである」

と、一豊を褒め称え、その場で一豊に1000石を加増したのです。

これによりきっかけを掴んだ一豊は、やがて土佐(高知県)一国を支配するほどの大名にまで出世しました。

【サイト制作】業者を無料で見積比較できる一括.jp
“ダメ夫” を支えて名門を復活させた妻

(はつ 京極高次の妻)


初は「浅井三姉妹」の次女で、織田信長の姪にあたる女性です。

姉の茶々が豊臣秀吉の側室(後の淀殿)、妹のが二代将軍・徳川秀忠1月24日付ブログ参照)の正室という大きな権力者の妻になったのに対し、初が嫁いだ京極高次は地味な存在でした。

高次の京極家は室町幕府の中でも「四職」に任命されていたほどの名門でしたが、戦国時代の下剋上の波に呑まれ既に落ちぶれていました。

それにも増して、この高次という男は「ダメ男」と言われても仕方ない人物だったのです。

高次は、本能寺の変では明智光秀に味方し、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家側、さらに関ヶ原では最初西軍についた揚句に東軍に寝返っているのです。

つまり、ことごとく負け組を選んでしまい、よくもまぁここまでと呆れるほど優柔不断で先見性のない男だったのです。

そんなダメ男を支えたのが妻の初でした。

いくら京極家がもともと名門だったといっても弱肉強食の戦国時代にそんなことは関係なく、室町時代に名門といわれた名家の多くは滅びています。

普通なら一度でも負け組についてしまった時点で即滅んでも不思議ではない時代です。

しかし、高次が何度も救われ、さらに名門復活といえるほどの出世ができたのは、初が天下人・秀吉の寵愛を受けていた姉の茶々に事あるごとに働きかけていたからといわれています。

高次が秀吉に目を掛けられていたのは、実姉が秀吉の側室(松の丸殿)になっていたこともありますが、やはり妻である初の存在は大きかったでしょう。

徳川の時代になっても、初の妹が二代将軍の正室だったことから、高次は幕府から破格の厚遇を受けました。



まとめ

  • 明智光秀の妻・煕子は自らの髪を売ったお金で客人をもてなし、光秀の面子を保った

  • 山内一豊は妻・千代が与えてくれたお金で名馬を買い、このことで出世の糸口を掴んだ

  • 京極高次は妻・初の支えで名門の京極家を復活させることができた


光秀の妻のエピソードは大河ドラマのネタバレになるかも?(笑)

2019年11月29日

信玄を支えた名将たち

武田家にまつわる人物エピソード

10月23日付のブログでは織田家にまつわる人物エピソードを語りましたが、第二弾の今回は武田家です。

言わずと知れた“甲斐の虎”・武田信玄4月10日付ブログ参照)は戦国最強の武将ともいわれる名将です。

しかし、武田信玄が後世に語り継がれるほどの名将といわれたのは、信玄一人だけが傑出していたからではなく、彼を支えた有能な部下が多かったこともその理由といえます。

“武田二十四将”と呼ばれた甲州軍団の中核をなす家臣の面々は、戦国ファンなら誰しもが認める名将ぞろいです。
武田二十四将.jpg

永遠のライバル・上杉謙信との違いは、この家臣に恵まれたかどうかの差だったともいえるのです。

信玄ほど家臣に恵まれたとはいえない謙信ですが、もし謙信に武田二十四将に匹敵するくらいの有能な家臣が揃っていたら、あるいは信玄を圧倒していたかもしれません。

でも、信玄が有能な家臣を多く召し抱えられたのは、信玄には絶大な人望があり人心掌握術にも長けていたからこそです。

謙信は戦の天才ではありましたが、この点では信玄に一歩及びませんでした。

というわけで、今回は信玄を支えた名将たちについて語りたいと思います。

若き信玄に苦言を呈した傅役

板垣信方 生年不詳〜天文十七年(1548年)
板垣信形.jpg

信方は信玄の父・信虎にも仕えた武田家の筆頭重臣でした。

信方は信玄の傅役(もりやく=教育係)でしたが、国主の信虎は度重なる戦と重税などの失政により、領民や家臣の信頼を失っていました。

そこで、信方は信玄に父を国外へ追放することを進言しました。

さすがの信玄も父の追放には躊躇しましたが、信方の国を守るための決死の覚悟を感じ取り、父を同盟国である駿河(静岡県)の今川家へ追放し、父に代わって甲斐の国主の座に就きました。


こうして国主となった信玄ですが、まだ若かった信玄は昼夜を問わず遊び呆け、漢詩などにも没頭して国主としての執務を疎かにする怠惰な日々を送っていました。

これを見かねた信方はひそかに漢詩を猛勉強して、信玄の前で即興の詩を詠んでみせました。

(信方は漢詩など知らないだろう)と内心馬鹿にしていた信玄は驚きましたが、信方は

「主君のなさることを家臣が理解しないのは具合が悪いと感じましたので」

と語ったので、信玄は何とも気まずくなってしまいます。

この機に信方は、国主としての心構えや領国経営の何たるかを信玄に熱く語りました。

これを聞いた信玄は今までの生活態度を大いに反省し、今後は領国経営に専念することを涙ながらに誓ったといいます。


信方は、信玄が北信濃(長野県北部)の村上義清と争った上田原の戦いで惜しくも討死しました。

【それがだいじWi-Fi】
武田家の武名を惜しんだ忠臣

馬場信房 永正十一年(1514年)〜 天正三年(1575年)

もとは教来石(きょうらいし)景政という名でしたが、断絶していた甲斐の名門・馬場氏を信玄の命で継ぎ、馬場信房(信春とも)と名乗りました。

信虎・信玄・勝頼の武田家三代に仕えた信房は、信虎追放時も信方と共に信玄擁立に尽力しました。

信房は40年を超える戦のキャリアを持ち、生涯70回を越える戦闘に参加しましたが、かすり傷一つ負わなかったほどの戦さ巧者ぶりから“不死身の鬼美濃”の異名で恐れられる猛将でした。(※美濃は信房の官職名「美濃守」から)


信玄が今川・北条との三国同盟を破棄し駿河に攻め入った際、当主の今川氏真の住む館を攻め火を放ちました。

この時、今川家の財宝が焼失するのを惜しんだ信玄が「財宝を運び出せ!」と命令しました。

これを知った信房は

「敵の財宝を奪い取るなど、貪欲な武将として後世の物笑いになる」

と、部下が運び出した財宝を再び火中に放り込んだのです

後でこのことを知った信玄は、財宝よりも武田家の武名を惜しんだ信房にいたく感動し、欲に目が眩んだ自分を深く恥じたといいます。


信玄の死後、長篠の戦いで信房は一旦兵を引いて好機を待つことを勝頼に進言しますが聞き入れられませんでした。

信房は織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に壊滅的な打撃を受ける武田軍の殿を務め、勝頼が逃げ延びるのを見届けた後、敵陣に突撃して華々しく討死しました。

この時の信房の戦いぶりは、織田信長の一代記『信長公記』に「馬場美濃守の働き、比類なし」と記されるほど見事な最期でした。

お財布と心が笑顔になる家事代行サービスCaSy
恐れられた“赤備え” 強さの秘訣

山県昌景 享禄二年(1529年)〜 天正三年(1575年)

もとは飯富(おぶ)源四郎という名でしたが、信玄の嫡男・義信が謀反を企てた時に連座して死んだ源四郎の兄のことを配慮した信玄が、断絶していた甲斐の名門・山県氏を源四郎に継がせ、山県昌景と名乗りました。

昌景は自らの部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから「赤備え」として諸将から恐れられ、相手はこの赤備えを見ただけで勇猛な兵ですら震え上がり逃げ出したといわれます。

昌景が最もその武名を轟かせたのは、三方ヶ原の戦い12月20日付ブログ参照)です。

武田軍の先鋒を務めた昌景は徳川家康の本陣まで切り込み、討死寸前のところまで追い込まれた家康は「山県とは恐ろしき武将ぞ!」と心底震え上がったといいます。

後に家康は武田家が滅んで甲斐を領有すると、昌景の赤備え隊だった旧臣を井伊直政にそっくり仕官させ、「赤備え」を復活させました。

家康にとって三方ヶ原での昌景の強さがよほど記憶に残っていたのでしょう。


ある時、昌景は「山県隊はなぜそんなに強いのか?」と訊ねられると

「常日頃の訓練も重要だが、一番大切なのは戦に臨む心構えであり、いつも初陣のように合戦に臨む覚悟で慎重に策を練り、たとえ勝てると思ってもそれを確信できない限りは戦わないことである」

と、昌景流の“戦の極意”を語ったそうです。


信房同様、昌景も長篠の戦いで討死しますが、昌景は全身に銃弾を浴びても馬から落ちず、軍配を口にくわえたまま絶命したといわれています。

まさに猛将・山県昌景にふさわしい壮絶な最期でした。

子育てママに大人気!無料で家まで届けてくれる宅配クリーニング「リネット」
まとめ

  • 信玄の傅役・板垣信方は不真面目だった若き信玄に国主としての心構えを説き、改心させた

  • 馬場信房は敵の財宝よりも武田家の武名を惜しみ、財宝を火中に投げ入れた

  • 山県昌景は強さの秘訣として「戦には常に初陣のつもりで臨み、勝算がない限り戦ってはならない」と語った


こうして見ると、やはり「名臣あっての信玄」と言えそうですね。
プロフィール
カナケンさんの画像
カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
プロフィール
ファン
最新コメント
鎌倉幕府 vs. 朝廷 承久の乱 by 工藤電気屋 (05/28)
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。