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2020年01月13日

大将軍 源頼朝の生涯

意外 !? アンチヒーロー頼朝

今日は成人の日です。

総務省の発表によると、今年の新成人は122万人で昨年より3万人少なく、やはり少子化は進んでいるようです。

男女別の割合は男性63万人に対し女性59万人で、男性の方が4万人も多いのは意外でした。

二年後の2022年には日本でも「18歳成人」となりますが・・・これは難しいところですね。

学力や体力などについては確実に向上してますが、その反面、一般常識や精神年齢はどうでしょうか?

これらについては昔の人の方が「大人」だったような気がします。

勿論、個人差はありますが、現代では女性は25歳、男性は30歳位でようやく「本当の大人」なのかなと感じています。(僕も含め)

昔と比べて学力的知識が上がり、利口になったからといって成人年齢を引き下げるのは、やや短絡的ではないかと思ってしまいます。

やはり、学力や体力だけでなく、一般常識や精神年齢、そして社会的責任など全てを引っくるめて、大人扱いするのに相応しいかどうかを判断すべきではないでしょうか。


さて、今日1月13日は鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなった日です。(正治元年 1199年)

頼朝は鎌倉幕府の初代将軍として小学校の社会でも勉強するので、誰もが知る歴史上の人物といえるのですが、これほど有名な偉人であるにも関わらず、実はあまり人気がありません

その理由として、腹違いの弟・義経を利用して打倒平家を果たしておきながら、結局その義経を自ら死に追いやった冷酷非情な人物としてのイメージがあるからです。

逆に義経は”悲劇のヒーロー”として判官贔屓が多い日本人に好まれ、義経が英雄化されればされるほど、その敵(かたき)である頼朝憎しの感情が高まっていったと考えられます。

そういった意味では、いわば“アンチヒーロー”にされてしまう頼朝ですが、頼朝が日本の新しい時代を切り拓いた偉人であることに間違いはありません。

というわけで、今回は源頼朝について語りたいと思います。

波乱に満ちた青年時代

源頼朝 久安三年(1147年)〜 正治元年(1199年)
源頼朝.jpg

頼朝は源氏の棟梁だった父・義朝の三男として尾張(愛知県)で生まれます。幼名は鬼武者。

平治元年(1159年)平治の乱で義朝が敗れ、殺されてしまいます。

頼朝も逃亡中に捕えられ、平清盛2月3日付ブログ参照)のもとに送られました。

武家の掟として、清盛は頼朝を処刑するつもりでしたが、清盛の継母・池禅尼の必死の助命嘆願により一命を取り留めます。

その理由は、頼朝が池禅尼の亡き息子に生き写しだったためと『平家物語』には書かれています。

しかし実際には、この頃の頼朝は武士としては腑抜けた少年だったので、清盛が殺すまでもないと軽視していたからとも言われています。

ともあれ命拾いした頼朝は、伊豆の蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)に流罪となり、この地で20年間、流人生活を余儀なくされました。

この間、頼朝は平家方の武将で頼朝の監視役だった北条時政の娘・政子と結婚しています。

源氏の嫡流として平氏から厳しい監視を受けながらも、頼朝は虎視眈眈と“来たるべきチャンス”を窺っていました

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頼朝、ついに立つ!

治承四年(1180年)京都で源頼政が挙兵したのをきっかけに各地の源氏が立ち上がります。

同年8月、頼朝は20年の沈黙を破り、ついに伊豆で平家打倒の兵を挙げました

しかし、まだ小勢だった頼朝軍は、石橋山(神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親の大軍相手に惨敗を喫してしまい、その後船で安房(千葉県南部)へ逃れます。

房総半島に移って体勢を立て直した頼朝は10月に鎌倉へ入り、以後この地を本拠地としました

一方、東国での源氏挙兵を知った平氏は、平維盛を総大将とする追討軍を東国へ差し向けました。

頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉から出兵し、駿河(静岡県中部)の富士川を挟んで維盛軍と対峙しますが、維盛軍が水鳥の飛び立つ羽音に驚き敗走したのは有名な話です。

こうして戦わずして勝利した頼朝は鎌倉に凱旋し、以後は平家追討のために頼朝自身が鎌倉から動くことはありませんでした

寿永二年(1183年)平氏を都から追い出し京都を占領した源義仲1月20日付ブログ参照)ですが、粗暴な振る舞いが多かったため都の人々から反感を買い、朝廷は頼朝に義仲追討を要請します。

要請を受けた頼朝は、範頼義経の二人の弟を派遣して義仲を討たせました。

範頼と義経は平家を追って引き続き西国で奮戦しますが、その間にも頼朝は朝廷から東国の行政権を得て、公文所や問注所を設置するなど、武家政権を開くための土台作りを着々と進めていました

二人の弟の活躍により平家滅亡には成功しましたが、この活躍で朝廷から大きな信任を得た義経の存在が目障りになった頼朝は次第に義経と不仲になり、ついに義経追討を決意します。

文治五年(1189年)頼朝の追っ手から逃れ奥州藤原氏の元に身を潜めていた義経ですが、頼朝に脅迫されていた藤原泰衡に裏切られ、とうとう自害に追い込まれてしまいました。

すると頼朝は、追討人である義経を長らく匿っていた罪を口実に泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅亡させました。(9月3日付ブログ参照

そして、建久三年(1192年)頼朝は征夷大将軍に任命され、ここに名実とも鎌倉幕府が成立しました。

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史実が変わった !? 頼朝にまつわる真実

以上、頼朝が将軍になるまでの経歴について語りましたが、頼朝に関して長い間「公然の事実」と信じられてきたことが実は間違っているのではないかという疑惑があるのです。

  • 鎌倉幕府の成立時期
    鎌倉幕府の成立は上記したように建久三年(1192年)で、“イイクニ”と覚えたものですが、これはあくまで頼朝が将軍に就任した年であり、実際にはこれ以前に幕府は成立していたのではないか?とする説が有力なのです。
    現在最も有力視されているのは、平氏が滅亡し、頼朝が諸国に守護・地頭を設置した文治元年(1185年)説です。
    その他にも、頼朝が鎌倉に入り関東をほぼ制圧した治承四年(1180年)説、朝廷から東国の行政権を得た寿永二年(1183年)説などがありますが、いずれにしても建久三年(1192年)よりも早く鎌倉幕府は成立していたと考える方が正しいようです。


  • 頼朝の肖像画
    上に掲載した頼朝の肖像画は有名なものですが、実はこれにも疑惑がかけられていて、現在この肖像画はほとんどの学校の教科書から削除されています
    この肖像画は当初、鎌倉時代の絵師・藤原隆信によって描かれたとされ、京都の神護寺に所蔵されているものですが、描かれている冠や太刀は頼朝の時代には存在しなかったといわれ、また、目や鼻など顔の部位に関する表現様式がずっと後の時代である14世紀の様式と一致している点が指摘されています。
    では、この肖像画の人物は一体誰なのか?
    神護寺に遺されている文献から推察すると、室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟である足利直義が最有力と考えられています。

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まとめ

  • 源頼朝は弟の義経を利用した挙句、死に追いやった冷酷非情な人物のレッテルを張られ、偉大な将軍といわれる割にあまり人気がない

  • 頼朝は囚われの身から長い流人生活を経て、打倒平家を果たし鎌倉幕府を創った

  • 長年史実と考えられていた建久三年(1192年)の鎌倉幕府の成立や頼朝の肖像画は現在否定されている


僕も「いい国創ろう鎌倉幕府」とあの肖像画はつい最近まで当たり前のものと信じてました。
歴史ってまだまだわからないことが多いですね。(笑)
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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