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2020年05月06日

“日本一の兵” 真田幸村

戦国ファンを魅了する誇り高き名将

明日5月7日は真田幸村が亡くなった日です。(慶長二十年 1615年)

幸村といえば、最近では4年前の大河ドラマ『真田丸』(主演:堺雅人)の主人公として人気を博しましたね。

幸村は戦国武将の中でも特に人気が高く、数年前の“戦国ブーム”の時には人気bPの武将に選ばれたほどです。

実は・・・何を隠そう僕も幸村の大ファンなのです。

僕の場合、「好きな戦国武将」というより、「すべての歴史上の人物」で一番と言えるくらいです。

僕は高校時代に日本史と出会い、その後戦国時代が好きになってから幸村のことに興味を持ち始め、幸村に関する文献・史料・小説・マンガなど一時はかなり読み漁りました。

僕は旅行好きと言いつつ、あまり史跡などを見に行くことはないのですが、幸村の故郷・長野県の上田には何度も足を運びました

このように幸村に関しては僕個人の思い入れが強過ぎる分、今回のテーマにはいつもと違う妙なプレッシャーを勝手に感じています。(笑)

また、幸村の経歴に関しては不明な点も多く諸説あるのですが、そういった部分については僕の個人的な見解もありますので予めご了承下さい。

というわけで、今回は真田幸村について語りたいと思います。

真田家“切り札”としての人質

真田幸村 永禄十年(1567年)?〜 慶長二十年(1615年)
真田幸村.jpg

幸村は武田信玄に仕えた真田昌幸の次男として生まれます。幼名は弁丸、後に源次郎。

元服時に父が崇拝する信玄の実弟にあやかって「信繁」を名乗らせたとされています。

名前に関しては、この「信繁」が正式な名称と思われますが、「幸村」と呼ばれるようになったのは本人死後の江戸時代に講談などの物語で人気になってからと考えられます。(ここでは以下「幸村」とします)

父昌幸は武田家滅亡後、家名存続を懸けて目まぐるしく帰属先を変えていましたが、天正十三年(1585年)越後(新潟県)の上杉景勝に属すことになり、幸村は人質として上杉家に送られます。

その後、昌幸は次に豊臣秀吉に帰属することになり、幸村は大坂へ送られて今度は秀吉に仕えることになりました。

昌幸が景勝や秀吉といった大物に人質として幸村を送ったのは、幸村が両家の友好関係を維持する人質としての使命を全うできるだけの器と信頼していたからと思われます。

昌幸の狙い通り、天下人秀吉に可愛がられた幸村は秀吉の馬廻衆(主君を護衛する騎馬隊)となります。

秀吉の重臣・大谷吉継にも気に入られた幸村は、吉継の娘を娶り豊臣大名に名を連ねました。

文禄三年(1594年)11月、幸村は従五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任されます。

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コ川の大軍を迎え撃つ親子鷹

秀吉の死後、幸村は真田家に戻ることになりました。

慶長五年(1600年)7月、徳川家康が上杉討伐に赴いた際(9月15日付ブログ参照)、幸村は父や兄と共に家康に従軍し会津に向かいました。

しかし行軍の途中、上方で石田三成が挙兵したことにより家康は行軍を中止し引き返すことになりました。

この時、真田家では家康と三成のどちらに味方するかで意見が分かれます。

議論の結果、幸村は三成方についた吉継の娘を妻にしていたことから父と共に三成方につくことを決意し、家康の重臣・本多忠勝の娘を妻としていた兄・信幸(のち信之)は家康方につくことになったので、真田家は親兄弟で袂を分かつことになりました。

幸村が三成方についたのは妻のためだけでなく、自分を可愛がってくれた秀吉に対する恩義も少なからずあったと思われます。

徳川軍から離脱し真田家の本拠地・上田城に戻った昌幸と幸村は、江戸から中山道を進んで上田城に向かってくる家康の嫡男・秀忠を迎え撃つことになりました。

秀忠率いる徳川軍約3万8千に対し、真田軍はわずか2千5百と実に10倍以上の兵力差がありました。

これだけの兵力差がありながら、昌幸と幸村の親子は堅城・上田城をバックに地の利を存分に活かして徳川の大軍を翻弄し、見事に徳川軍を撃退してみせました。(9月19日付ブログ参照

しかし、上田城が勝利に湧いたのもつかの間、美濃(岐阜県)の関ヶ原の戦い本戦では西軍(三成方)がたった一日で敗れてしまったのです。(9月17日付ブログ参照

このため、昌幸はやむなく徳川に降伏、上田城も明け渡すこととなりました。

東軍についた信幸の必死の助命嘆願により、昌幸と幸村の命は助けられましたが、二人は紀州(和歌山県)高野山麓の九度山村へ流罪となりました。

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隠忍自重の九度山

九度山村での流人生活はとても貧しく、上田の領地を引き継いだ信之からの仕送りはあったものの、それでも生活は苦しい状態でした。

そこで、真田親子は内職で紐を作り、それを売ることで生活の足しにしました。

これが後に「真田紐」と呼ばれる代物です。
真田紐.jpg

慶長十六年(1611年)6月、父の昌幸が亡くなったことで故郷上田からの仕送りも途絶えてしまい、幸村の生活はますます苦しくなっていきます。

この頃になると幸村も次第に年を取り、流人生活での苦労も重なって歯は何本か抜け落ち、髪やひげも白髪が目立つという風貌に変わっていったようです。

そんな折、世の中の情勢は徳川と豊臣の関係が不穏になり、もはや両者の戦いは避けられない状況になっていました。

そこで豊臣家は、徳川を撃退した経歴を持つ幸村に白羽の矢を立てたのです。

九度山に使者を派遣して黄金200枚と銀30貫を支度金として与え、さらに勝利のあかつきには50万石の領地を与えるという条件で幸村をスカウトしました。

幸村は快くこれに応じることにしましたが、一つ大きな問題がありました。

流罪人の幸村は紀伊の浅野家から厳しい監視を受けており、豊臣家の待つ大坂に行くためにはこの監視を振り切らなければならなかったのです。

そこで幸村は一計を案じます。

幸村は「日頃世話になっているお礼がしたい」との口実で、監視役の村役人たちを屋敷に招いて酒宴を開き、散々酒を飲ませて彼らが酔いつぶれたのを見届けてから村を脱出したのです。

この時、普段から幸村を慕っていた村人たちは敢えて見て見ぬふりをして、幸村一行を逃がしたともいわれています。



まとめ

  • 真田幸村は若い頃、人質として上杉家や豊臣家を渡り歩いた

  • 関ヶ原の戦いで幸村は西軍として父と共に上田城に籠城し徳川の大軍を撃退したが、西軍が敗れたため九度山に流罪となった

  • 豊臣家が幸村をスカウトした時、幸村は監視役人を酔い潰れさせて九度山を脱出した


次回は幸村のクライマックスとなる大坂夏の陣です!
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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