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2020年04月10日

甲斐の虎 武田信玄

こんなところにもコロナの影響が・・・

明後日4月12日は武田信玄が亡くなった日です。(天正元年 1573年)

信玄は言わずと知れた“戦国最強”を謳われた甲斐(山梨県)の戦国大名ですが、このブログにおいても川中島の戦いやライバルの上杉謙信に関連して何度か登場しました。

信玄は現在でも地元・山梨県では英雄とされていて、県民の多くは呼び捨てにせず“信玄公”と呼んでいます。

山梨県では毎年信玄の命日前後に「信玄公祭り」を開催していて、この催しは県下最大のイベントとしてかなりの盛り上がりをみせています。

僕も何年か前にこの祭りを見に行ったのですが、昼過ぎくらいから夜まで甲府市内を多くの武者行列が練り歩き、沿道には溢れんばかりの見物客が詰めかけていました。

しかし、今年は新型コロナウイルスの影響で「信玄公祭り」は中止となってしまいました。

県としては、コロナの影響が比較的早い時期に収束すれば、今年の11月頃に開催したい意向があるようです。

それにしても、なぜ信玄は同じく武田家当主であった父の信虎や子の勝頼とは比べものにならないほど県民に人気があるのでしょうか?

というわけで、今回は武田信玄について語りたいと思います。

父を追放して家督を相続

武田信玄 大永元年(1521年)〜 天正元年(1573年)
武田信玄.jpg

信玄は甲斐守護・武田信虎の嫡男として生まれます。幼名は太郎、あるいは勝千代。

15歳で元服した時に12代将軍・足利義晴の偏諱を受けて晴信と名を改め、後に出家してからは信玄と名乗ります。

父の信虎は度重なる戦争と重税によって甲斐の諸豪族や領民の信頼を失い、甲斐の領国経営は困難な状況に陥っていました。

この危機的状況を見かねた信玄は、天文十年(1541年)6月、重臣たちと共謀して信虎を同盟国の駿河(静岡県)に追放し、自らが甲斐国主の座に就いたのです。

信玄が父を追放した理由は、父が信玄を疎んじて弟の信繁を寵愛し、信繁に家督を継がせようとしたからという説もありますが、本当にそうであるならば、戦国時代の風潮からして信玄は父や弟を殺していたのではないでしょうか?

個人的な怨恨がなかったからこそ、信玄は弟を殺すことなく、失政を重ねた父を追放するまでにとどまったと考えられます。

国主となった信玄は、甲斐の金山開発、信玄堤(釜無川の氾濫を抑えるために設けられた堤防)に代表される治水事業など民政家として優れた手腕を発揮します。

さらに、領国統治のために甲斐の分国法である『信玄家法』(『甲州法度之次第』)も定めました。

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現実主義の信玄と理想主義の謙信

外交的には、まず信玄は信濃(長野県)攻略を主眼に置き、有力豪族の諏訪頼重を滅ぼし、信濃守護の小笠原長時を駆逐しました。

北信濃の豪族・村上義清には二度の敗北を喫しますが、最終的には義清の駆逐にも成功します。

そして、義清らに助けを求められた越後(新潟県)の上杉謙信3月13日付ブログ参照)と川中島において宿命の対決を果たすのです。

川中島の戦いについては、9月10日12日付のブログで詳細を語りましたので、ここでは割愛します。

素朴な疑問として、信玄と謙信はなぜ何度も戦ったのでしょうか?

これは、征服した領地を守る為に戦わなければならなかった現実主義の信玄に対し、弱い者を助けることで信玄に“正義とは何か?”を戦いを通して示そうとしていた理想主義の謙信、譲ることのできないお互いの強い信念による激突だったという見方ができます。

要するに、信玄と謙信では戦いに臨むスタンスが根本的に違っていたと考えられるのです。

こう考えれば、川中島合戦後に信玄と謙信がお互い自分たちの勝利を豪語していることにも理解できます。

信玄は最終的に北信濃の領地を死守し、謙信も激闘によって信玄に“正義の戦い”を十分に見せつけた、つまり、両雄はそれぞれの「戦いの目的」を達成したので勝利宣言したのではないでしょうか。

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遅すぎた上洛作戦

五度にわたる謙信との戦いにピリオドを打った信玄は、いよいよ天下取りに乗り出します。

しかし、信玄の行動はあまりに遅すぎました。

まず、「人生五十年」といわれた時代に、持病を抱えた身で50歳を過ぎてから上洛を志したことです。

そして何よりも、謙信と延べ12年も川中島で戦っている間、それまで取るに足りない存在でしかなかった織田信長がメキメキと力をつけ、ついには信玄を上回る勢力にまで成長させてしまったことです。

それでも信玄は、元亀三年(1572年)10月に上洛作戦を開始、12月には三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝します。(12月20日付ブログ参照

しかし、信長との対戦を目前に控えた三河(愛知県東部)野田城を包囲中に信玄の病状が悪化、やむなく武田軍は甲斐へ引き返すことになりました。

そして帰途の途中であった4月12日、三州街道の駒場(長野県下伊那郡阿智村)でついに信玄は息を引き取りました。

死因は労咳(ろうがい=肺結核)と考えられています。

信玄は

「我が死を三年間隠し、領内の備えを固めたら必ず都へ攻め上れ」

と息子の勝頼に遺言したといわれています。

ライバルの謙信は食事中に信玄の訃報に接すると、箸を投げ捨て「惜しい相手を失い残念でならない」と涙を流したそうです。



まとめ

  • “戦国最強”を謳われた武田信玄は父を追放して甲斐国主の座に就いた

  • 川中島の戦いは信玄は征服した領地を死守するため、謙信は正義を示すために戦った

  • 信玄は50歳を過ぎてから天下取りを目指したが、志半ばに病没してしまった


ちなみに、僕が見に行った時の信玄公祭りでは、笑点メンバーがメインゲストとして参加しており、地元出身(大月市)の三遊亭小遊三師匠が信玄役を務めてました。(笑)
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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