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2020年05月18日

電光石火の奇襲! 桶狭間の戦い

今川義元は“愚将”ではない

明日5月19日は桶狭間の戦いが行われた日です。(永禄三年 1560年)

桶狭間の戦いといえば、織田信長が歴史の表舞台に現われるきっかけとなった出来事として有名ですね。

尾張(愛知県北西部)の小大名だった信長が、この桶狭間の戦いの勝利により天下取りを志すことになるのです。

一方、相手の今川義元は、この戦いで不覚を取ったことで“愚将”のレッテルを張られてしまうことになります。

しかし、義元=愚将というのは、信長の武勇伝をより際立たせるため、後の歴史家が義元をことさら悪く言ったためと考えられます。

本当の義元は愚将どころか、むしろ名将と言ってもいい人物です。

義元は五男でありながら、名門・今川家の家督争いを勝ち抜き、内政にも力を注ぎ領国の発展に貢献しました。

外交面においては、甲斐(山梨県)の武田、相模(神奈川県)の北条と三国同盟を結ぶことで無用な争いを避け、西国進出に専念しました。

その結果、父祖から受け継いだ駿河・遠江(共に静岡県)に加え、三河(愛知県東部)も手中にし、義元は“東海一の弓取り”と呼ばれるほどの武将となったのです。

信長と義元、二人の武将の運命を大きく変えた桶狭間の戦いとは何だったのでしょうか?

というわけで、今回は桶狭間の戦いについて語りたいと思います。

「天下取りのための上洛」は誤り?

永禄二年(1559年)、織田信長が尾張国内の同族との争いを勝ち抜き、ようやく尾張の大半を統一した頃、駿河の今川義元は尾張の一部にまで進出していました。

これに対し信長は、今川方に奪われた鳴海城と大高城を奪還するため、この二つの城の周辺にいくつかの砦を築きました。

信長の父・信秀の時代から織田家と今川家の国境を巡る争いは続いていましたが、義元はこの争いに決着をつけようと考えていました

永禄三年(1560年)5月12日、義元は2万5千の軍勢を率い、駿河から西に向かって出陣しました。

従来、この出陣は義元がいよいよ天下取りを目指して上洛を試みたものとされていましたが、実は義元がそのような意向を示したという記録はどこにも存在しないのです。

どうやら義元のこの出陣は、鳴海城と大高城周辺の織田勢を蹴散らし、尾張の一部を完全に領国化するのが目的であったと思われます。

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信長の意外な行動

同18日、尾張国境の沓掛城に入った義元は、大高城周辺に築かれた織田方の丸根・鷲津の両砦を攻略するため、本隊5千を残して2万の軍勢を差し向けました。

義元の沓掛城入城の知らせを受けた信長は、その夜居城の清州城で軍議を開きましたが、軍議の場はとても重苦しい雰囲気に包まれていました。

何しろ、敵の今川軍が総勢2万5千もの大軍であるのに対し、信長の軍勢はせいぜい2千5百程度だったからです。

10倍もの敵を相手に軍議も停滞する中、肝心の信長は軍議の結論が出る前に早々と寝所に入って寝てしまったのです。

総大将である信長のこの行動を見た家臣たちは呆れ、半ば諦めムードが漂っていました。

翌19日未明、今川方の攻撃開始の知らせを受けた信長は起き上がると、意外な行動をします。

この時、信長は幸若舞の『敦盛』を舞ったといわれています。

『敦盛』とは、

「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也」

で有名な幸若舞の演目の一つで、信長は好んでよく舞ったとされています。

恐らくこれは、今川との決戦に死を覚悟して臨むという信長の決意を示した舞いと思われます。

信長は側近の小姓5人だけを引き連れて、午前4時頃に清州城を飛び出します。

その後、信長の出陣を知った家臣たちもあわてて信長の後を追いました。

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運命を懸けた豪雨の中の奇襲!

城を飛び出した信長は午前8時頃に熱田神宮に着き戦勝祈願を行ないますが、ここで丸根・鷲津の両砦が陥落したという知らせを受けます。

次に信長は熱田神宮から善照寺砦を経由して中島砦に入りましたが、この頃には後から清州城を出発した家臣たちが追いつき、信長の軍勢は2千ほどになっていました。

一方、義元は丸根と鷲津が落ちたことを知ると、本隊5千で沓掛城を出て大高城へ進軍の途中、田楽狭間(桶狭間)付近で休憩をとっていました。

この時、信長は間者からの知らせで義元の動きを把握していたのです。

ここで両軍の動きを図で確認します。
桶狭間の戦い.jpg

午後1時頃、突然視界不良になるほどのどしゃ降りの大雨が降り出したのを機に、信長はこの豪雨に紛れて今川本隊に奇襲を仕掛けることを決断します。

信長は

「この戦に勝てば、この場にいる者は全員、末代まで尾張の国の英雄として語り継がれるであろう!」

と、豪語して全軍を鼓舞しました。

まさか敵がこちらの本隊を直接攻撃してくるとは思ってもみなかった今川軍は突然の奇襲に慌てふためき、パニック状態に陥ってしまいます。

一方の信長軍は最初から義元の首だけにターゲットを絞っていたので動きに無駄がなく、一直線に義元のいる本陣まで辿り着いたのです。

急襲を受けた義元も奮戦したのですが、信長軍の服部小平太に一番槍をつけられ、最期は毛利新助に首を取られてしまいました。

なお、この戦いで今川軍の先鋒として戦い、丸根砦を陥落させた松平元康(後の徳川家康)は、義元の討死を機に故郷の岡崎城に帰って独立を果たすことになりました。



まとめ

  • 桶狭間の戦いにおいて今川義元が出陣したのは、天下取りのためではなく織田信長との争いに決着をつけるためと思われる

  • 信長は出陣の際『敦盛』を舞い、この戦いに命懸けの覚悟で臨む決意を示した

  • 義元の動きを把握していた信長は、豪雨に紛れての奇襲攻撃により見事義元の首を挙げることに成功した


※昨年の7月後半から毎回一生懸命、一切の手抜きをせずこのブログを書き続けてきましたが、残念ながら、ここまでこれといった成果を上げることができておりません。
そのため、最近ではこのブログを書くためのモチベーションを上げることもできず、正直、このまま続けるのが困難な状況に陥っています。
なので、今後どのような形でやっていくかが決まるまでの間、お暇を頂きたいと思います。
毎回読んで下さっている方に対しては大変心苦しいのですが、どうかご理解下さい。

2020年05月15日

政党政治の崩壊 五・一五事件

政党内閣制の確立

今日5月15日は五・一五事件が起きた日です。(昭和七年 1932年)

五・一五事件は昭和初期に起こった軍部によるクーデター事件ですが、同じクーデター事件でもこの4年後に起きた二・二六事件2月26日付ブログ参照)に比べると、あまりクローズアップされることがありません。

しかし、五・一五事件は戦前の日本政治史において、大きな転換をもたらした重大な事件なのです。

大正十三年(1924年)に起きた第二次護憲運動により、憲政会を第一党とする護憲三派内閣(憲政会・政友会・革新倶楽部)が成立したことによって、その後は衆議院における第一党が内閣を組閣する政党政治が行われることが慣習化しました。

これを「憲政の常道」といいます。

現在ではこれが当たり前ですが、当時は陸海軍などの軍部の力が強く、政党政治を維持し続けるのは決して簡単なことではありませんでした。

この民主主義の根幹ともいえる「憲政の常道」を崩壊させたのが五・一五事件なのです。

というわけで、今回は五・一五事件について語りたいと思います。

昭和恐慌による政党政治への不満

まず、この当時の日本の状況を説明します。

昭和四年(1929年)10月、アメリカのウォール街で起こった株式の大暴落をきっかけに恐慌が発生、これが世界恐慌に発展しました。

翌年、世界恐慌が日本にも波及したことで、企業の倒産が相次いで失業者が増大、日本も深刻な恐慌状態となったのです。(昭和恐慌)

さらに、アメリカの恐慌で日本の生糸輸出が激減し繭価格が大幅に下落したため、農業においても大きな打撃を被りました。

その上、都市部の失業者が農業を求め地方に流出したため、農家の貧困も深刻化してしまいます。

この昭和恐慌の一因となったのが当時の浜口雄幸内閣の経済政策でした。

浜口内閣は財政を緊縮して物価の引き下げをはかると同時に、産業の合理化を促進して国際競争力を高めようとしました。

昭和五年(1930年)1月、経済政策の一環として、貿易の拡大を目的に行なわれたのが金解禁です。

しかし、産業の合理化を進めたことで失業者が増えるという結果を招きました。

さらに、金解禁も欧米諸国に追随する形で行われたのですが、この時既に世界恐慌が始まっていたので、金解禁により日本の金が大量に海外へ流出することとなってしまったのです。

また、外交においても、同年にイギリスで開催されたロンドン海軍軍縮条約において日本が締結した条約内容に軍部が不満を抱いたため、浜口首相が東京駅で狙撃され重傷を負う事件が起きました。

このような政党内閣による経済政策の失敗や外交政策に対する不満が、やがて軍部の政治介入を顕著化させてゆきます。

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ファシズムの展開

昭和六年(1931年)3月、狙撃された浜口首相が不在だった内閣の混乱に乗じて、ある事件が起こります。

桜会(陸軍の組織団体)の橋本欣五郎と民間右翼の大川周明が、政党内閣を倒し軍部独裁政権の樹立を目指してクーデターを画策したのです。

しかし、軍事政権の首相に担ぎ上げようとしていた宇垣一成が離脱したため未遂に終わりました。(三月事件)

さらに同年9月、中国で満州事変が起こると、翌月に橋本と大川は満州事変に呼応する形で再び軍事政権樹立を画策しますが、これも未遂に終わりました。(十月事件)

この二つの事件はいずれも未遂に終わったものの、事件首謀者に対する処分の甘さが更なる軍事テロを招くことになります。

昭和七年(1932年)2〜3月にかけて、日蓮宗の僧侶であった井上日召が「一人一殺」、「一殺多生」を掲げて組織した右翼団体・血盟団が、政府や財界の要人を狙ってテロ事件を起こしました。

血盟団の団員たちは、前蔵相の井上準之助と、三井財閥の理事長・団琢磨を相次いで暗殺したのです。(血盟団事件)(※井上は金解禁を行なった浜口内閣の大蔵大臣)

このように政界や財界に対する不満からテロ活動が横行するようになり、次第に政党内閣の存続にも暗い影を落とすようになります。

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首相官邸を襲撃!

満州事変後の昭和六年(1931年)12月に組閣した政友会の犬養毅(いぬかい つよし)内閣は、昭和恐慌により落ち込んだ経済の立て直しを図り、浜口内閣が行なった金解禁の再禁止を断行します。

一方で満州事変後の陸軍の行動を黙認し、軍部とも協調を図ろうとしました。

しかし翌年3月、陸軍が中国国内に建国した満州国を犬養が承認しなかったことで、軍部は犬養首相に対し態度を硬化させてゆきます。(3月27日付ブログ参照

それから2ヶ月後の昭和七年(1932年)5月15日、海軍の青年将校と民間の右翼団体が国家革新を唱え、首相官邸・警視庁・日本銀行を襲撃したのです。

首相官邸になだれ込んできたテロリストたちに対し、犬養首相は冷静に

「まあ待て、話せばわかる」

と、何度も繰り返して彼らを諭そうとしました。

多少の話し合いは行われたものの、首謀者の一人が突然「問答無用、撃て!」と叫んだのをきっかけにテロリストたちは次々に銃弾を放ち、ついに犬養は撃たれてしまいます。

犬養は重傷を負いつつ、なおも彼らと話し合おうとしたのですが、既に首謀者たちは立ち去り、犬養もその夜に亡くなってしまいました。
犬養毅.jpg
 殺された犬養毅首相

五・一五事件により犬養内閣が倒されたことによって、8年間続いた政党政治は終わりを告げました。

以後は軍部が政治の実権を握るようになり、やがて日本は太平洋戦争への道を突き進むことになるのです。



まとめ

  • 第二次護憲運動以降、政党内閣による政権が慣例化したことを「憲政の常道」という

  • 政党内閣に対する不満から三月事件・十月事件・血盟団事件などのテロ活動が横行するようになる

  • 五・一五事件で犬養内閣が倒されたことにより政党内閣は断絶、「憲政の常道」は崩壊した


実は五・一五事件の時、アメリカの喜劇王・チャールズ・チャップリンが来日していて、首謀者の中には「チャップリンを殺せばアメリカと戦争ができる」と考え、チャップリン暗殺を目論んでいた者もいたそうです。

2020年05月13日

鎌倉幕府 vs. 朝廷 承久の乱

鎌倉幕府成立後も公武の二元政治

明日5月14日は承久の乱が起きた日です。(承久三年 1221年)

承久の乱とは、討幕を目論んだ後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んだ幕府対朝廷の全面戦争です。

源頼朝1月13日付ブログ参照)は平氏を倒し征夷大将軍となって鎌倉幕府を開きましたが、これで武士の世が全盛を迎えたわけではありません。

なぜなら、西国では京都の朝廷による支配力が依然として強かったからです。

つまり、鎌倉幕府が成立してからしばらくの間、東国は鎌倉幕府、西国は朝廷が支配するという、いわゆる“二元政治”の状態が続いていたのです。

この状態、朝廷側の貴族たちにしてみれば面白かろうはずがありません。

何しろ、つい最近まで”貴族の番犬”などと蔑んでいた武士たちが、今では自分たちと肩を並べて支配者層に君臨しているわけですから。

このような不満を抱えていた朝廷が、再び貴族政治の復活を目指して挙兵したのが承久の乱です。

というわけで、今回は承久の乱について語りたいと思います。

朝廷の復権を目指す後鳥羽上皇

建久9年(1198年)わずか19歳で天皇の座を譲位し院政を開始した後鳥羽上皇は、朝廷の権威回復のため意欲的に行動します。
後鳥羽上皇.jpg
後鳥羽上皇 治承四年(1180年)〜 延応元年(1239年)

まず、それまで院の警護を担当していた北面の武士に加え、新たに西面の武士を設置して院の軍事力を強化しました。

さらに、朝廷内で幕府寄りの公家であった九条兼実らを排除することで、上皇は鎌倉幕府と距離を置く方針を示したのです。

承久元年(1219年)1月、朝廷に対し好意的だった三代将軍・源実朝が暗殺(1月27日付ブログ参照)されたことで、上皇は幕府に対してますます不信感を抱くようになります。

その結果、幕府が提案した「上皇の皇子を次期将軍として迎えたい」という申し入れを上皇は拒否したのです。

源氏将軍が途絶えたことにより、情勢が不安定になった幕府の様子をみた上皇は今が好機と捉え、ついに討幕を決断しました。

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“尼将軍”の説得で幕府方は結束

承久三年(1221年)5月、上皇は鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣(上皇の命令書)を全国に発令、幕府に宣戦布告しました。

幕府の実質的支配者である義時が「朝敵」とされたことで、東国の御家人たちの間に大きな衝撃が走り、幕府内でもただならぬ動揺が広がっていました。

一方、上皇も院宣の効力に絶対的な自信を持っており、やがて東国の武士たちが幕府を討ち、義時の首を自分の前に持ってくることを確信していました。

しかし、動揺する武士たちに喝を入れたのが、義時の姉で今は亡き源頼朝の妻であった“尼将軍” 北条政子でした。

政子は朝廷に対し弓を引くことをためらっていた大勢の御家人たちの前で

「あなた方が亡き頼朝公から受けた御恩は山よりも高く、海よりも深い」

と、涙ながらに訴えたのです。

さらに政子は、「もし、この戦いに我々が負ければ、武士は再び貴族たちに組み敷かれて惨めな地位に成り下がる」と、情に訴えるだけでなく実利的にも御家人たちを諭しました。

政子の懸命な演説に感銘を受けた幕府の御家人たちは、一致団結して朝廷に立ち向かうことを決心したのです。



幕府の支配は全国へ

政子の説得により結束した幕府方は、義時の嫡男・泰時と義時の弟・時房の二人を総大将として京都の朝廷に向けて進軍を開始します。

その後、幕府方に賛同する東国の武士たちが各地から続々と集まり、幕府方の総兵力は19万にも膨れ上がりました。

対する上皇方では、上皇の予想に反して院宣に応じた武士は少なく、2万数千程度しか集まらなかった上、中心となる武将もいなかったため統率力にも欠く状態でした。

上皇方は圧倒的な兵力の前になすすべもなく、幕府軍はわずか一ヶ月で京都を完全に制圧、戦いは幕府方の圧勝に終わったのです。

戦いの後、以下のことが決定しました。

  • 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)へ、順徳上皇は佐渡(新潟県)、土御門上皇は土佐(高知県)へそれぞれ流罪

  • 上皇に味方した公家や武士の所領約3千ヶ所を幕府が没収

  • 朝廷の監視と西国御家人の統率のため、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置


承久の乱の結果、それまでの朝廷と幕府による二元政治が終わりを告げ、朝廷の権威は失墜、鎌倉幕府は西国も含めた全国的な政権へと発展したのです。



まとめ

  • 後鳥羽上皇は鎌倉幕府と距離を置き、討幕の機会を窺っていた

  • 後鳥羽上皇の挙兵で動揺した御家人たちを北条政子が説得し、幕府方は再び結束した

  • 幕府方が勝利したことにより、鎌倉幕府は全国的な政権へと発展した


承久の乱で幕府の軍門に下った朝廷はそれから百年の間、後醍醐天皇の登場を待たねばならなかったのです。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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