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2016年01月21日

源義経が天才だと評判をあげた「一ノ谷の戦い!」



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第11回目は「源義経が天才だと評判をあげた「一ノ谷の戦い!」」です。


元記事ははここ






一ノ谷の戦い

平安時代の末期の1184年3月20日に摂津国福原および須磨(神戸市辺り)で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。一ノ谷合戦を考えるための文献史料としては、九条兼実の日記『玉葉』、同時代の日記形式で記述した歴史書『吾妻鏡』、それによく知られている『平家物語』がある。

源義経の奇襲によって源氏が勝ったと言われている。平氏方の陣の背後、鵯越ひよどりごえの急勾配の坂を一気に馬で駆け降り平家を討ったと言われている。義経の戦上手を伝える「鵯越の逆落さかおとし」の名場面として有名である。

背景

源義仲と源頼朝の対立

木曾義仲が京都に入り、戦いに敗れた平家は西海に逃れて屋島に拠を移していました。しかし全てに荒っぽい義仲を後白河法王は嫌い、義仲が法王の命を受けて西海に平家と戦いに行った隙に義仲打倒の命を源頼朝に出してしまいます。いったんは京都に戻って後白河法王を幽閉し、征夷大将軍に就任する義仲ですが、源範頼・義経の連合軍に破れ、義仲は戦死、巴御前は北陸へと落ちていきます。(1184.1.20 宇治川の合戦)

この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。

三種の神器

日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣)を指す。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。この神器の内、鏡と剣の形代および勾玉を所持することが皇室の正統たる帝の証であるとして、皇位継承と同時に継承される。

八咫鏡(やたのかがみ)

記紀神話で、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

草那芸之大刀(くさなぎのつるぎ)


草薙剣(くさなぎのつるぎ)の旧名で、古事記では草那芸之大刀と記される。記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現島根県安来地方の中国山地側、奥出雲町)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。後、ヤマトタケルノミコトが譲り受け、移動中、周りを火で囲まれたとき、姫を守るため自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたとき帯刀していたことから予定調和の剣とされる。「焼津」の地名はこのとき草を焼いたことによる。

合戦の経過

源氏の内輪もめを好機とみた平家は京都を奪回すべく、現在の神戸の生田神社のかいわい、一ノ谷に陣を構えます。平家が安徳天皇を擁していることに苦慮した後白河法王は和平の道を探り、2月8日までは攻撃しないから話し合おうと平家に伝えたのですが、範頼・義経の軍はそれを無視して戦争を始めてしまいました。

1184年2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。
最初範頼の軍が東から、義経の軍が西から攻めて挟み撃ちにする予定だったのですが、熊谷直実たちが無茶な先陣争いから戦闘の発端を開いてしまい、まだ義経たちが六甲の山の中を進軍している内に、眼下では死闘が繰り広げられる結果になります。

ここで義経はその崖を駆け下りて戦闘に参加することを思い立ちます。そこで道案内をしていた地元の猟師に「この崖を降りれないか?」と尋ねますと、猟師はびっくりして「無理ですよ。時々鹿が駆け下りているのは見ますけど人馬には不可能です」と答えます。 すると義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿に降りれて馬に降りれない筈がない」といい、手近な馬を2頭崖から突き落としてみました。 1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。すると義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と号令、義経は30騎ほどの先頭に立って崖を降りて行きます。 すると、殿に続けと、その他の者も大勢続いて降りていきました。途中からは佐原義連が崖を降りる先頭を務めました。これを「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」といいます。

断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。こうして思いも掛けない方角から敵軍が来たのに驚いた平氏は混乱して総崩れになり、昼頃には一ノ谷の合戦は決着が付いてしまいました。 この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。

戦後

範頼軍は平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、義経・安田義定軍は、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われているが『平家物語』や『吾妻鏡』など文献によって多少異なっている。

後白河法皇は捕虜になった重衡と三種の神器を交換するよう平氏と交渉するが、宗盛はこれを拒絶し、合戦直前の休戦命令に従っていたにも係らず、突然源氏に襲われたということに対する抗議と「休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」との後白河法皇への不審を述べ立てている。

合戦に大勝した鎌倉政権軍も戦略目標である三種の神器奪還には失敗しており、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦いはまだ続くことになる。



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2016年01月18日

「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第10回目は「「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇!」です。

元記事ははここ






第16代仁徳天皇


「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇


日本の天皇は古代から今日まで続いています。世界中でも驚かれ、そしてそれは誇れることです。

日本の天皇は、初代の神武天皇以来2600年間、国民を「おおみたから」と呼んでいます。

国民は奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。
仁徳天皇は、その姿勢で政治を行い、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれています。

このように天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛して、天皇と国民が家族的な感情で結ばれた状態を理想としてきました。それは他の国々には見られない日本独自の伝統です。そして皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきました。
ちなみに仁徳天皇は日本武尊の曾孫です。


皇位継承


父親の応神天皇が崩御され、最も有力とされていた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と仁徳天皇は、互いに皇位を譲り合い、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が亡くなった為、仁徳天皇が即位することになる(「日本書紀」では皇子は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したとのこと)。実に応神天皇が亡くなられてから、三年後のことである。

民の竈(かまど)の話

民の竈は賑いにけり

仁徳天皇が即位したのは313年と言われています(諸説有)。
宮殿は難波高津宮(なにわのたかつのみや。大阪市中央区)。

屋根も葺(ふ)き直さず、色も塗らず、垂木や柱に飾り気のない質素な建築だったという。
仁徳天皇はこう考えていた。「民は耕作や機織りで忙しい。民を余分な宮殿造りに徴集しなければ、自然に富裕するというものだ」。

即位して4年目に、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられた。
そして、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と向こう三年の租税を免じた。

三年がたって、天皇が三国峠の高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申された。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されましたといいます。

ここまでは、よく知られた話ですが、実は、この話には、さらに後日談があります。
このお話を聞いた諸侯が、「皇宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道にモノを置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。それでもなお税を納め、宮殿を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます!」と、申し出たというのです。

それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。そして六年の歳月がすぎたとき、やっと天皇は税を課し、宮殿の修理をお許しになったというのです。

その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように生き生きと伝えています。

「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る。」

民は、仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、誰に促されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したというのです。それも、昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って皇宮の修理にあたった。ですから、いくばくも経たずに、皇宮は、きれいに治ったのです。
だから仁徳天皇は「聖のミカド」と呼ばれるようになった。
仁徳天皇がお亡くなりになると、人々は、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作った。

そう日本書紀に書かれているのです。正式名称は「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(にんとくてんのうもずみみはらなかのりょう)」という。

日本初の大規模土木事業

なんと仁徳天皇は大規模な土木事業を行っています。
  ・難波の堀江の開削
  ・茨田堤(まんだのつつみ)の築造
  ・山背の栗隈県(くるくまのあがた)での灌漑用水の設置
  ・和珥池(わにのいけ)・横野堤(よこののつつみ)の築造
  ・感玖大溝(こむくのおおみぞ)の灌漑用水の掘削と広大な新田の開発

上記の5つの事業を行ったことが日本書紀に記載されています。
こうした大規模な土木工事とういうものが、誰のために誰がするものなのかといえば、まさに地域に住む民衆のためであり、民衆が働き、民衆が互いに協力し、民衆の真のリーダーがこれを推進する。公共工事としての土木事業は、水害から多くの人々の命と暮らし、そして田畑の作物を守ります。それは要するに、みんなの暮らしが安全で豊かになる、それをみんなで行う、ということです。

世界最大の陵墓「仁徳天皇陵」

世界三大墳墓

仁徳天皇陵はクフ王のピラミッドと秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられます。その大きさは全長486メートルと世界最大の大きさを誇ります。


お墓が出来るまで


民衆は仁徳天皇がお亡くなりになると、その遺徳を讃え、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作ったとあります。

大規模な古墳が平野部に集中していることから、古墳が出来たとされるのに、1つの説があります。それは、地元の土木工事の結果である。
堤防や、新田開発、灌漑用水の掘削などの大規模土木工事は、大量の土砂の掘削を伴なう。その土砂は、どこかに積み上げなければなりません。土砂の積み上げと、工事を遂行し、みんなをまとめてくれた大将の遺徳を讃え、みんなで感謝する。その一石二鳥が、古墳という盛土の墓所となったのではないか。そんな説です。
逆にいえば、古墳のあった場所は、古代において、その古墳で使用された土砂をはるかにしのぐ、大規模な土木工事が行われたところである、といえないかという仮説です。

大仙陵古墳という名前について

仁徳天皇のお墓でない可能性があるとの指摘があり、最近の教科書では「大仙陵古墳」となっているみたいです。
大きい山のような形状から「おおやま」つまり「大仙」となったみたいですが、「山」ではなく日本ではあまりなじみのない「仙」をわざわざ使い、「占領」をイメージさせるような意図が見え隠れします。

しかし、1684年の「堺境」と言う書物では、江戸時代の初期にはすでに当古墳が「仁徳天皇陵」と記載されているということと、日本人のルーツにも関わる大事な問題なので、このサイトでは仁徳天皇陵という名前で統一します。

発掘調査

1872年に堺県令税所(さいしょ)篤等による発掘が行われている。石棺の周辺から、甲冑・鉄刀、硝子坏・太刀金具が出土しました。この時の図などの記録の大半は関東大震災により焼失したためほとんど残っていない。



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2016年01月04日

日本とトルコの友情の物語!「エルトゥールル号遭難事件」



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第9回目は「日本とトルコの友情の物語!「エルトゥールル号遭難事件」!」です。

元記事ははここ







■日本が海外となした心と心のキャッチボール。

エルトゥールル号遭難事件

1890年の出来事です。   
トルコ皇帝ハミル二世が日本に派遣した特使一行を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路、暴風雨に遭遇してしまいます。   
そして、和歌山県串本町沖合で、岩礁に衝突し遭難しました。

この遭難事故で、トルコ特使を含む518名が死亡してしまいましたが、死を免れた69名は、地元漁民の手厚い救護により一命を取りとめます。
このとき串本の村人たちは、台風により漁ができず、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護しました。

貧しい村人たちにとっても、ほんとうに命がけの救助と介護だったのです。
そして遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。

この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられます。
後日、遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられました。


後日談〜山田寅次郎〜

この話に同情した山田寅次郎という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて 義捐金を集め、それを携えてトルコに渡ります。



1892年、イスタンブールに上陸した山田寅次郎は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁します。

山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くしました。

この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャがいます。
そのケマル・パシャこそ、トルコ革命の指導者であり、トルコ共和国の初代大統領、トルコ共和国の建国の父といわれるトルコの大英雄です。







さらに続きます。〜イラン・イラク戦争〜

時代は下って1985年。
エルトゥールル号遭難から95年後のことです。

イラクのサダム・フセイン大統領が、「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言します。
3月17日のことです。



イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたのだけれど、緊急事態です。
どの飛行機も満席で乗ることができません。

世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したのだけれど、残念ながら日本政府はすばやい決定ができなかった。
自衛隊機の出動は、海外への派兵は憲法違反にあたると、当時日本の最大野党であった社会党(いまの社民党)が猛反対したのです。

そして、日本人だけがテヘランに取り残された。
宣言の刻限は、刻々と迫ってきます。

空港にいた日本人は、パニックに陥る。



そのとき、一機のトルコ航空の飛行機が到着します。

トルコ航空の飛行機は、日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。
タイムリミットまで、わずか1時間15分前のできごとでした。

このとき、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかったのです。

後日、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語ります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。

それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


さらに後日談があります。

時代がさらに下って、1996年のことです。
新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンしました。

トルコ政府は、これを大いに喜び、日本とトルコの友情のためにと、柏崎市にトルコ共和国の建国の父  ケマル・パシャの像を寄贈してくれます。
 

ところが1999年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻します。
トルコ村は資金繰りが悪化する。

2002年には、柏崎市がトルコ村を買い取るのだけれど、2004年には、トルコ村は倒産してしまいます。

その結果、日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、
「像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態」に放置されます。
 
  
ちなみに「ケマル・アタテュルク像」の寄贈に際し、ケマル・アタテュルクは本来トルコ建国の父であり、トルコの人々は、彼の凛とした軍装を好むけれど、トルコ大使館は、武装を嫌う日本に最大限に配慮して、非軍服姿の像を寄贈してくれています。
非軍服姿の「ケマル・アタテュルク像」というのは、それだけでもものすごく貴重な像なのです。

心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋市長に伝えます。
 
けれど社民党系の会田洋(あいだひろし)市長は再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、支援を申し出た製菓会社のブルボンの再建計画も無視します。
 
さらに柏崎トルコ友好協会が柏崎市長会田洋に出した要望書、催告書も共に無視します。

この件では、トルコ大使館も激怒し、

「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出しています。
(これも無視しています。)
 
結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、2010年3月18日、東京のお台場「船の科学館」に移設されて修復するとともに、一般公開され、今年5月中旬、修復終了とともに、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されました。




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