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2015年12月09日

総理大臣の靖国神社参拝問題。首相の靖国参拝は問題になるのか!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第8回目は「総理大臣の靖国神社参拝問題!首相の靖国参拝は問題になるのか!?」です。

元記事ははここ








靖国神社

靖国神社は、元々1869年6月29日に明治天皇の思し召しによって「東京招魂社」という名前で建てられたが、1879年に「靖国神社」と改称された。国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。

「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

靖国神社には現在、幕末の1853年以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。

靖国神社の御祭神

靖国神社には、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達だけでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています。

このように多くの方々の神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的が唯一、「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にあるからです。

A級戦犯合祀

「A級戦犯」とは、1946年4月の極東国際軍事裁判(東京裁判)で起訴された日本側戦争指導者二十八名のことです。
1948年11月の判決で、全員が死刑を含む有罪となり、翌月23日(平成天皇の誕生日)に死刑が執行されました。

國神社には、「A級戦犯」とされた方々の内、刑死された七名と、受刑・未決拘禁中に病死した七名の計14名が昭和殉難者として、1978年に合祀されています。

「A級戦犯」とは「平和に対する罪」を含む理由により起訴された人々ですが、「平和に対する罪」は当時、国際法上の犯罪とされていませんでした。GHQは「A級戦犯」を裁くために、国際法にはない罪状を起訴事由に含めたわけですが、これは明らかな事後立法であり、近代刑法の原則である罪刑法定主義に反します。

ちなみに、B級戦犯の理由である「通例の戦争犯罪」は当時から戦争犯罪ですが、C級戦犯にあたる「人道に対する罪」は当時は国際法上の戦争犯罪ではありませんでした。

その後、「人道に対する罪」は国際法上の犯罪として確立されましたが、「平和に対する罪」は今日においても犯罪概念として確立しておりません。 「A級戦犯」とされた方々は、国内法の犯罪者でないことはもちろん、内外の国際法学者は、裁判自体が違法なものであったと認めています。

日本国政府は独立を回復すると、戦争裁判の犠牲者を「法務関係死亡者(略称・法務死)」として扱い、一般戦没将兵と同様の措置を講じてきました。その政府の対応に基づいて、國神社は「昭和殉難者」として合祀してきたのです。

ちなみによく誤解されていますが、岸信介、笹川良一は起訴はされたが、無罪になったのでA級戦犯ではありません。もっと厳密には松井岩根もA級戦犯ではありません。

靖國神社に代わる国立追悼施設建設問題

A級戦犯分祀論と並んで出てくるのが、靖国神社とは別に「無宗教の追悼施設を作る」という意見です。

無宗教だから政教分離に違反しないし、誰でもわだかまりなく追悼できる、というのですが、そもそも追悼行為自体が宗教行為です。 政教分離論の中では最も愚かな考えであると思われます。

さらにこの施設で行うのは追悼のみです。戦死者を顕彰すると戦争の肯定になるし、慰霊となると宗教行為となるから、ということですが、追悼のみ、つまり「悲しいですね」と悼むだけの施設を税金を掛けてわざわざ新たに作るということです。

無宗教の施設をと言う人には宗教や伝統についての観念が抜け落ちているのではないかと感じます。

そして一番の問題は、「作っても誰もお参りしない」ことです。

慰霊を考えている人は、靖国神社にお参りします。 しかし、無宗教の追悼施設を主張する人達は、もともと国の為に命を掲げて亡くなられた方に感謝していない人が多いからです。おそらく、靖国神社、千鳥ケ淵戦没者墓苑、全国にある護国神社のいずれにも参拝したことがない人たちによる主張だからです。







首相の靖国参拝について

首相の靖国参拝をめぐってもたらされる主な議論は、

・「A級戦犯」を祀る國神社への首相参拝は問題である
・東京裁判が不当だとしても、日本が講和条約で東京裁判を受け入れている以上、首相参拝は問題である
・首相が参拝するなら「A級戦犯」を分祀すべきだ
・政教分離に違反している。
・外国が批判している。

の5点である。

国内法では、犯罪者でない為、首相が参拝することは国内においては何の問題もありません。

また、個人参拝は良いが公式参拝は駄目だとする意見も存在します。

靖国神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰めています。この人達に感謝を示す人は、国の代表でなくてはなりません。
なので、むしろ個人参拝は行かなくても良いが、公式参拝は必ずしなくてはならないことです。

その当時の価値観で判断せずないがしろにすると、今後日本の為に命をかけて守ってくれる人はいなくなってしまいます。

サンフランシスコ講和条約

サンフランシスコ講和条約とは、第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約(『日本国との平和条約』)である。
終戦記念日は、1945年8月15日でなく、講和条約に調印した1951年9月8日、条約発効の翌4月28日とする議論もある。(ポツダム宣言受諾の9月2日という議論もある。)

サンフランシスコ講和条約受諾ですが、問題となるのが11条の「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする(以下略)」という文です。

一般に、第一次世界大戦までは、交戦国間が平和条約を締結して戦争状態を終結するにあたっては、条約中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」(アムネスティ条項)を設けて、戦犯(交戦法規違反者)の大赦を行うのが慣例であり、また、当該規定がなくとも、戦争終結に伴う戦犯の赦免は、国際法上当然のこととされてきました。

つまり、講和条約第11条は、アムネスティ条項を削除した上で、条約発効により主権を回復した日本政府が、戦争裁判の結果、服役中の受刑者を、日本政府の判断のみで釈放、赦免することがないよう、刑の執行を講和条約発効後も日本側に義務づけた規定なのです。

この11条の訳が「裁判を受諾し」となっているので誤解を招くのですが、英語の原文は「accepts the judgments」となっています。なので、「裁判の受諾」でなく、「判決の受諾」なのです。裁判の内容も含めて受諾したのではなく、諸判決を受諾したという意味です。

それに従い、講和条約の発効後も、国内外で約1,200名の戦争裁判受刑者が引き続き服役していました。
しかし日本政府は、戦犯の釈放・赦免を求める全国民的な運動や国会決議を受けて、関係国と早期釈放について交渉し、A級は1956年3月31日までに、B・C級は1958年5月30日をもって関係国の承諾を得て全員が釈放されました。

講和条約により主権を回復した日本が、戦争裁判の判決理由や正当性まで認めなければならないとしたら、そもそも何のための講和条約締結なのかわからなくなります。

A級戦犯分祀

首相参拝をめぐって、「A級戦犯」14柱を國神社の御祭神から分祀すべきだとする 議論があります。

「A級戦犯」とされた方々を國神社が合祀していることに何ら問題のないことは明らかです。

この「分祀論」の本質的な問題は、國神社の尊厳に直接関わる御祭神に関する事柄が、政治や報道の場において軽々しく、それも誤解に基づいて議論されているというところにあります。

そもそも、神社祭祀における分祀とは、人々の崇敬心に基づいて新しく神社を創建したり、あるいは神社に新たな御祭神を祀るために、元宮となる神社から御神霊をお迎えするための祭祀のことをいいます。

もとより、特定の祭神を御神座から「分離」するという意味での「分祀」は、神社神道の教学の上からも有り得ないものであり、このことは、國神社及び神社本庁が表明している通りです。

つまり、「分祀」をすると、神社が増えていくのであり、離れる訳ではありません。分祀というのは読んで字のごとく、「分けて」「祀る」ということです。
(例えば全国の稲荷神社は伏見稲荷大社から分祀されているわけですが、分祀されたからといって、大元の伏見稲荷の神さまがいなくなるわけではありません。)

政教分離に反する

政教分離について書いている憲法20条は、戦争放棄を書いている憲法9条以上にタブー視されています(公明党が与党にいるため)。

靖国神社参拝に関する政教分離の話は、靖国神社批判の為に出てきたものですが、はじめは靖国参拝によって軍国主義が復活するといった批判でした。
しかし、20年以上経ち、軍国主義が復活しなかったので、次に出てきたのが「政教分離に違反する」です。

しかし、厳格な政教分離など不可能です。

宗教系の私立高校、私立大学への補助も違憲になってしまいます。

この「政教分離」を日本に押しつけたアメリカでは、大統領が就任式で聖書に手を置くし、上下両院には専属の牧師がいて祈祷を行います。

毎年8月15日に首相が出席して日本武道館で行われる「全国戦没者追悼式」の壇上には「戦没者之霊」と書かれた標柱が立つが、政教分離上の問題にされたという話は出たことがない。

外国が批判している

外国と言っても、世界中でこれを批判しているのは戦争当時存在していなかった中国(当時は国民党の中華民国、現台湾)、韓国(北朝鮮)だけです。他の国は要人或いは武官が靖国神社に参拝している国が多数です。

日本の全てに文句言ってくる(首相が参拝していなくても文句を言ってきていたであろう)韓国は別として、中国の言い分を見てみると、侵略戦争の責任者であるA級戦犯を靖国神社に祀り、そこに首相が参拝するのは許せない、ということです。

興味深い事実は、A級戦犯が初めて合祀された後に大平首相、鈴木首相が20回近く参拝していますが、その時には中国は何も抗議していない、と言うことです。これは朝日新聞や毎日新聞などの日本のマスコミが大騒ぎして忠告したので、中国側も何も言わないわけにはいかなくなったという面が大きい。

1985年に、朝日新聞の加藤千洋という記者が「中国、日本的愛国心を問題視」という記事で、8月15日中曽根首相の参拝について繰り返し批判を書きます。戦後40年近く、A級戦犯が合祀されてから7年間、中国も何も問題にしていなかったにも関わらずです。

そしてそれを受けて社会党の田邊誠(2015年現在は民主党)が、わざわざ北京まで行って胡耀邦総書記( 当時 )に『 なんでもっと怒らないのか! 』と抗議します。それでも民主改革派で経済重視派だった胡耀邦総書記は、中曽根首相の靖国参拝に対して抑制的でした。

すると田邊誠は旧満州に行き、そこで演説などで更に煽ります。
その結果、『 靖国参拝反対 』が中国全土に広がり、胡耀邦は政治生命が危うくなった。
『 胡耀邦が危ないぞ 』というので、中曽根首相は翌年から靖国参拝をやめることになります。

なので、この外国(中国)の批判も、朝日新聞のねつ造から始まったものである。

ちなみに、靖国参拝とは関係がないが、この民主党の田邊誠氏は、わざわざ日本からお金と設計を持って行き、中国の南京市に南京大虐殺記念館を建てた人でもある。



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2015年12月06日

稀代の策略家・毛利元就はどうやって中国地方を制覇したのか!?



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第7回目は「稀代の策略家・毛利元就はどうやって中国地方を制覇したのか!」です。

元記事ははここ






毛利元就

室町時代後期から戦国時代にかけて、活躍した戦国大名。

安芸(広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと評されるに至る。

用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。

出生

1497年、安芸の国人領主・毛利弘元の次男として鈴尾城(安芸高田市)で誕生したと言われる。

兄・毛利興元が家督を継ぎ、1506年に父・弘元が死去すると、そのまま多治比猿掛城に住んでいたが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。
その哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。

1511年に元服し、分家を立て、多治比(丹比)元就を名乗るようになる。多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。

1516年に兄・興元が亡くなり、その子・幸松丸が跡を継ぐも幼少のため、元就が後見人として家中を主導した。

西国の桶狭間

毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に動揺した毛利家に、佐東銀山城主・武田元繁が侵攻。

武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として出陣します。
元就にとって初陣でしたが、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死します。

武田元繁はその報に怒り、毛利軍と激突します。
戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。
この戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、毛利氏の勢力拡大の分岐点になった。

また、この勝利によって「毛利元就」の名が世に知られるようになる。

その後、鏡山城の戦いでも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。

甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就が27歳で家督を継ぐことになった。

元就の家督継承に不満を持った坂氏などの有力家臣団の一部が元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。

事件はこれで治まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。
元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。

驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。

勢力拡大

1529年に外戚で強大な権力を持っていた高橋氏一族を討伐。

高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。

1535年には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。
一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。
宍戸氏と誼を結ぶことで周防国守護の山内氏とも繋がりができた。

その他、天野氏や、熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。

1533年、周防国守護の大内家を通じて朝廷に4,000疋を献上し、毛利の先祖同様の従五位下右馬頭に叙任されることに成功している。
当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。

1537年には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。

1539年には、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。当主の武田信実が逃亡しています。

しかし、翌年、尼子氏が3万の軍勢を率いて、毛利家の本拠地・吉田郡山城を攻撃。

元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となっていきます。

同年、再度武田軍の銀山城を攻めこれを攻略します。この時、元就は夜間に火を点けた草鞋千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある。

この戦いで安芸武田氏は滅亡します。

1542年に大内義隆を総大将とした尼子氏に対する第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし、大敗。

大内氏、尼子氏がこの戦いで安芸国内における影響力が低下し、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場の脱却を目指すようになる。








毛利水軍

1544年、強力な水軍を持つ竹原小早川氏に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を養子に出し、水軍の取り込みにかかった。

竹原小早川氏に対しては、尼子派の山名氏に攻められた際に、大内軍と共に毛利軍も援軍に駆けつけている。
その戦いの最中、徳寿丸は元服して小早川隆景を名乗るようになった。

毛利元就隠居

。1546年、元就が隠居を表明して毛利隆元が毛利家当主となるが実権は元就が握ったままだった。

1547年には、妻の実家である吉川家に元春を送りこむ。
当時吉川家当主であった吉川興経は、家中の統制ができなくなっていた。

そこで吉川家の養子になった元春に家督を継がす為に、吉川家の家臣団は現当主を隠居させ、元春を当主に据えた。

小早川隆景を送りこんだ小早川家も小早川現当主を出家に追い込み、隆景を当主に据えることに成功し、小早川氏の水軍を手に入れた。

これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

厳島の戦い

1551年、周防・長門などの大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される。

元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。
隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。

元就はこれを背景として、徐々に勢力を拡大して行く。
安芸頭崎城を陥落させ、平賀家を傘下に治めると、尼子晴久の安芸への侵入を撃退した。

この毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。
元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。

そこに石見の吉見氏が陶隆房に反旗を翻した。
陶隆房は元就に援軍の依頼を出したが、陶が安芸の国人衆達にも出陣の催促を出していた。これは、毛利に安芸の権限を与えるという約束に反しており、息子・隆元が陶隆房に不信感を持っていたこともあり、陶隆房との対決を決意した。

しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。

正面から戦えば勝算は無い。
そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

1554年、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。

そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。

晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。
元就はこれを撃破したが、今度は陶晴賢自身が大軍を率いて厳島で対峙した。

厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。

大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。

1556年に石見銀山を尼子晴久に取られるも、1557年に、大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。

これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

1558年、石見銀山を取り戻すべく毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃し、落城させるも続く山吹城を攻めあぐね、撤退中に奇襲を受け尼子晴久にまたもや大敗している。

尼子氏・大友氏との戦い

1560年に尼子家の当主・尼子晴久が死去すると、1562年に出雲侵攻を開始する。

跡を継いだ尼子義久は毛利軍を迎え撃つも、元就は白鹿城を攻略し、難攻不落の名城・月山富田城を包囲して兵糧攻めにもちこむことに成功する。

それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。

この段階に至って元就は、粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。

1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。

こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がったのである。

稀代の謀将の最期

1560年代の前半より元就は度々体調を崩していた。1571年に、つぃに吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。

三本の矢

死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。

元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。
息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたという話である。

家臣・周辺国人への気遣い

元就は、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。

その際、家来が酒が欲しいと言えば「普段から酒ほど気晴らしになることはない」と差し出し、下戸だと言えば「酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」といって餅を振る舞っていた。



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2015年12月03日

実は下剋上ではなかった!?家柄が良かった北条早雲!



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第6回目は「実は下剋上ではなかった!?家柄が良かった北条早雲!」です。

元記事ははここ






北条早雲

戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。

出自

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とされてきたが、最近の研究では備中荏原荘(現岡山県井原市)で荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であったことがほぼ確定している。
早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。

早雲はその父と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。
後北条氏の重臣である大道寺氏や内藤氏も備中から出ている。

駿河下向

早雲が下向した原因は駿河・今川氏にある。
今川氏は足利一族であり、足利尊氏に属して戦功をあげ、駿河・遠江の守護職になった家柄であるから、一貫して足利の忠実な部将の一人であった。

その当主の今川義忠が討死し、義忠の室・北川の生んだ竜王丸(氏親)はわずか6歳。竜王丸が幼少のためお家騒動がもち上がり、朝比奈氏などが一族の小鹿範満を擁立して二派にわかれて争い、家臣団も分裂。そのために竜王丸は母・北川と駿府をのがれて身をかくした。

このお家騒動に調停役として竜王丸の母・北川の縁者として早雲が浮上したのである。

そして、早雲みずから竜王丸の後見人になるとともに、反目し合っている家老たちを説得し、妥協案を出して紛争をみごとに解決したという。

その後、京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

1487年、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。

龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた。
このとき早雲は、6人の部下を連れている。荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛の6人だが、伊勢にいたとき知り合った友人で、早雲の志を聞いて、ともに下って来た者たちという。この6人が心を合わせて早雲を助け、北条氏の基礎を築いて行くことになる。







伊豆討入り

伊豆を支配していたを支配していた足利政知が没すると長男の茶々丸が異母兄弟の潤童子とその母・円満院を殺害して、強引に跡を継いだ。

同じく異母兄弟であった足利義澄が将軍に就任すると、母・円満院と兄弟の潤童子の敵を討つため、茶々丸の近隣に城を持つ早雲に敵討ちを命じた。

これを受けて早雲は、伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。
このとき伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らは早雲にいち早く参じたとされる。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている。

早雲は伊豆国の統治を始め、高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。
また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民はたちまち早雲に従った。

そして、それまでの重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定されたと言われる。

伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、1494年頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。
早雲と今川氏親は連携して領国を拡大していく。

小田原城奪取

早雲は相模の大森藤頼にたびたび進物を送るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子(獣を追い出す役割の人)を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。
早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。

数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたと言われている。

今川氏の武将としての活動も続き、1501年から1504年には三河にまで進んでいる。

相模平定

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出す。
早雲と今川氏親は、徐々に相模に勢力を拡大していった。

1509年以降は、早雲は今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。

江戸城にいた上杉顕定(扇谷上杉家)が大軍を率いて越後に出陣すると、この隙を突いて早雲は江戸城に迫った。
江戸城の当主上杉朝良は上野に出陣していたが、兵を返して早雲に反撃。

1510年まで、早雲と武蔵、相模で戦った。
早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷上杉家との和睦で切り抜けた。

大軍を率いて越後に出陣していた上杉顕定は、長尾為景の逆襲を受けて敗死している。

その後、早雲は、扇谷上杉家に属し相模で大きな力を持っている三浦義同と戦った。

三浦氏の岡崎城を攻略し、三浦義同を住吉城に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は三崎城に逃げ込んだ。

早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。
扇谷上杉軍が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破。

さらに三浦氏を攻略するため、鎌倉に玉縄城を築いた。

1516年、扇谷上杉軍が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、三浦義同の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に三浦義同は討ち死にする。

名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。

その後、早雲は房総半島に渡り、1517年まで転戦している。

1518年、家督を嫡男・北条氏綱に譲り、翌年に死去した。

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

エピソード1

『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている。

エピソード2

伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。



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