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2016年01月04日

日本とトルコの友情の物語!「エルトゥールル号遭難事件」



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第9回目は「日本とトルコの友情の物語!「エルトゥールル号遭難事件」!」です。

元記事ははここ







■日本が海外となした心と心のキャッチボール。

エルトゥールル号遭難事件

1890年の出来事です。   
トルコ皇帝ハミル二世が日本に派遣した特使一行を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路、暴風雨に遭遇してしまいます。   
そして、和歌山県串本町沖合で、岩礁に衝突し遭難しました。

この遭難事故で、トルコ特使を含む518名が死亡してしまいましたが、死を免れた69名は、地元漁民の手厚い救護により一命を取りとめます。
このとき串本の村人たちは、台風により漁ができず、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護しました。

貧しい村人たちにとっても、ほんとうに命がけの救助と介護だったのです。
そして遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。

この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられます。
後日、遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられました。


後日談〜山田寅次郎〜

この話に同情した山田寅次郎という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて 義捐金を集め、それを携えてトルコに渡ります。



1892年、イスタンブールに上陸した山田寅次郎は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁します。

山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くしました。

この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャがいます。
そのケマル・パシャこそ、トルコ革命の指導者であり、トルコ共和国の初代大統領、トルコ共和国の建国の父といわれるトルコの大英雄です。







さらに続きます。〜イラン・イラク戦争〜

時代は下って1985年。
エルトゥールル号遭難から95年後のことです。

イラクのサダム・フセイン大統領が、「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言します。
3月17日のことです。



イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたのだけれど、緊急事態です。
どの飛行機も満席で乗ることができません。

世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したのだけれど、残念ながら日本政府はすばやい決定ができなかった。
自衛隊機の出動は、海外への派兵は憲法違反にあたると、当時日本の最大野党であった社会党(いまの社民党)が猛反対したのです。

そして、日本人だけがテヘランに取り残された。
宣言の刻限は、刻々と迫ってきます。

空港にいた日本人は、パニックに陥る。



そのとき、一機のトルコ航空の飛行機が到着します。

トルコ航空の飛行機は、日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。
タイムリミットまで、わずか1時間15分前のできごとでした。

このとき、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかったのです。

後日、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語ります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。

それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


さらに後日談があります。

時代がさらに下って、1996年のことです。
新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンしました。

トルコ政府は、これを大いに喜び、日本とトルコの友情のためにと、柏崎市にトルコ共和国の建国の父  ケマル・パシャの像を寄贈してくれます。
 

ところが1999年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻します。
トルコ村は資金繰りが悪化する。

2002年には、柏崎市がトルコ村を買い取るのだけれど、2004年には、トルコ村は倒産してしまいます。

その結果、日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、
「像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態」に放置されます。
 
  
ちなみに「ケマル・アタテュルク像」の寄贈に際し、ケマル・アタテュルクは本来トルコ建国の父であり、トルコの人々は、彼の凛とした軍装を好むけれど、トルコ大使館は、武装を嫌う日本に最大限に配慮して、非軍服姿の像を寄贈してくれています。
非軍服姿の「ケマル・アタテュルク像」というのは、それだけでもものすごく貴重な像なのです。

心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋市長に伝えます。
 
けれど社民党系の会田洋(あいだひろし)市長は再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、支援を申し出た製菓会社のブルボンの再建計画も無視します。
 
さらに柏崎トルコ友好協会が柏崎市長会田洋に出した要望書、催告書も共に無視します。

この件では、トルコ大使館も激怒し、

「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出しています。
(これも無視しています。)
 
結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、2010年3月18日、東京のお台場「船の科学館」に移設されて修復するとともに、一般公開され、今年5月中旬、修復終了とともに、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されました。




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2015年11月25日

世界一の親日国パラオとの関係!



日本観光サイト「ジャポニズム」から人気の記事を紹介!

第5回目は「世界一の親日国パラオとの関係!」です。

元記事ははここ






・1919年のパリ講和会議によって、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になる。

・1944年、ペリリュー島の戦いでパラオのペリリュー島においてアメリカ軍と戦う。

・1945年8月、日本の敗戦と共に委任統治が終了し、アメリカの信託統治となる。

・1992年の独立に向けた住民投票で日系人のクニオ・ナカムラが大統領になる。

・1994年に独立。日本と国交を樹立する。

・1996年、崩壊したKBブリッジの再建を日本が無償で行う。

・1999年、首都コロールに日本大使館開館。

・2005年の小泉首相の靖国参拝にたいして支持を表明する。


パラオの植民地の歴史

1885年にパラオはスペインの植民地となります。
14年の支配を得て、パラオの人口は90%も減少します。

その後、これ以上収奪するものがないと判断したスペインは、ドイツに450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいます。

ドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などを行うもあまりうまく行っていません。

その後、第一次世界大戦でドイツが負けると、1919年に日本の委任統治領になります。その日本の統治で、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめます。

どうやって作ったかと言うと、日本の国費を使い、日本人がパラオに渡り作りました。
人口6000人くらいの国に、軍隊を除いてなんと2万5千人の職員を派遣しています。

そして、戦後はすべてのインフラをパラオの住民たちに無償で譲り渡しています。

日本の敗戦と共に約50年間アメリカの委託統治を受けることになります。

パラオの国旗
parao.png

パラオの国旗は、国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗です。周囲の青は太平洋を表し、真ん中の黄色い円は月を現しています。

月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。


KBブリッジ崩壊

KBブリッジはパラオ本島と首都(現在はコロールではなくマルキョク)があるコロール島の間に架かっている約250メートルの橋です。

1977年に、日本の鹿島建設の半額の入札を行った韓国の建設会社SOCIOによって建設されました。

建設直後から橋の中央部分がへこみ始め、補修・補強工事を何度も行うが1996年に真っ二つに折れて崩壊します。

電気・ガス・水道などのライフラインが通っていた為、首都機能が麻痺し、国家非常事態宣言を発令されます。
韓国の会社に賠償請求をしようとするも、倒産しており出来ませんでした。

日本は、それを受けて、飲料水の緊急輸送や仮設橋の設置などの建設を行い、さらに日本のODAにより橋が再建されます。

橋の正式名称は、「日本・パラオ友好の橋」(Japan-Palau Friendship Bridge)であり、通称で「日本パラオ友好橋」とも言われています。

ちなみに建設会社は鹿島建設で、それ以来パラオでは頑丈なもののことを「カシマ」と言うらしい。

日本人になりたかった。(2015年1月3日 産経新聞)

 〈君が代は 千代に八千代に さざれ石の〜…〉

明快な日本語で「君が代」を歌い上げた94歳になる老女は、続けて「海行かば」を口ずさみ始めた。

 〈海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍〜〉

歌詞の意味は理解しているという。ロース・テロイさん。
「テルコ」という日本人名も持ち、「日本人になれるものならなりたかった」と言った。

「緑の島のお墓」を作詞したアントニア・ウエンティさん(85)は「蛍の光」と「仰げば尊し」を歌って
涙を浮かべ、童謡の「浦島太郎」を歌って、「この歌は、『両親がしてはいけないということはやって
はいけない。罰が当たるよ』という意味を含んでいる」と言った。

テロイさんのいとこにイナボ・イナボさん(故人)という男性がいた。
元パラオ共和国政府顧問で、生前は、「日本軍と一緒に戦いたかった」と何度も口にしていたという。

イナボさんは平成7年8月15日、靖国神社での戦没者追悼中央国民集会に参加した際、
雑誌のインタビューにこう話している。

「日本には大切なものが4つあります。
天皇陛下と靖国神社と富士山と桜の花です。アメリカ人から『日本は小さな国だけどもルーツ、
根っこがあるから強い。それは天皇陛下と富士山と桜だ。それはアメリカにはない』と聞きました」

「日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。
それで日本を尊敬しているわけです。
皇室と神社がある限り日本は倒れない。
日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。
天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています」
 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。

天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、
「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。
天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。
(2015年4月8日から9日にかけて国際親善と慰霊の為、訪問が実現)








ペリリュー島の戦い

ペリリュー島とは、パラオ諸島のの中の小さな島です。その島で大東亜戦争末期、日米両軍によって73日間の死闘が繰り広げられました。

当時、ペリリュー島に東洋最大と言われる飛行場が建設されており、ペリリュー島はフィリピン防衛の要の島でした。

1943年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画します。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともにアメリカ軍と「戦おう」と決めました。

パラオの村民の会議は、古来からの習慣で村人全員が参加します。
話し合いは全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。つまり全員が日本軍と共にアメリカ軍と戦うことを決心したのです。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。

当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
中川大佐がペリリュー島に赴任したのは1943年で、日本を出る時、奥さんに「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

そういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み「一緒に戦うこと」をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。

ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。

一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙の後です。

中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。断られたからではありません。土人と呼ばれたことがショックでした。怒りではありません。 あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。それが「土人?」信じていたのに。それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。ただただ悲しくて、悔しくて。みんな泣いてしまいました。

何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。島民たちは、悄然として船に乗り込みます。

島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。

汽笛が鳴りました。船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。誰もが笑っています。歌声が聞こえます。そこには中川隊長の姿もありました。他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。素敵な笑顔だったそうです。

当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。

1944年、ペリリュー島の戦いが始まります。日本軍10,500名、米軍総員48,740名です。

開始のその日から補給を断たれた日本軍の数百倍の火力をペリリュー島に投下し、「2,3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とす第1陣28,000人のアメリカ軍が島に上陸を始めます。

その時です。日本軍の反撃が始まり、米軍の第一次上陸部隊は大損害を被り、一時退却をしています。
この戦闘で米軍の血で赤く染まった海岸は今でも「オレンジビーチ」と呼ばれています。

1か月半後には、米軍第1海兵師団が全滅しています。
米軍の司令官は心労から心臓発作を起こし、後方に送られています。

さらに、1か月後に、兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。

そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。

水も食料も補給が全くない状態で、3日で終わるとされた戦闘は実に2か月半経過していました。

戦闘後、散らばる日本兵の遺体をしばらく経って戻ってきた島民たちがひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれています。

また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、1947年に投降しています。

日本軍の戦死者10,695名・捕虜202名。米軍の戦死者2,336名・戦傷者8,450名、島民の死者・負傷者0名。

チェスター・ウィリアム・ニミッツ(ペリリュー島の戦いの敵将である司令官)
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸戦にも見られない最高の損害比率(約四十パーセント の損害=米海兵師団の第一連隊を全滅させた)を出した。すでに制空権をとっていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出し て、この島を占領したことは、今もって疑問である」と仰っています。

また、ペリリュー島にある「ペリリュー神社」にある石碑に
「諸国から訪れる旅人たちよこの島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ。米太平洋艦隊司令長官 C.W. ニミッツ」
という文を残しています。

パラオ独立記念の歌(ペリリュー島の戦いを歌っています。)

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる
  (注:ペ島=ペリュリュー島のこと)

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 兵士は桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

東日本大震災

国家を挙げて日本を支援してくれています。
この時にパラオ大統領は以下の命令を出しています。

「パラオ共和国憲法に定められた権限により、私、パラオ共和国大統領ジョンソン・トリビオンは、 2011年3月25日を日本における地震と津波の被害者に対して喪に服する国民の日と宣言し、 パラオ国民の同情と敬意を示すために、パラオ国内および世界各国のパラオ政府機関に対し、同日より5日間、半旗を掲げることを命じます。
2011年3月21日 大統領 ジョンソン・トリビオン」

日本に併合して欲しいと申し出があった。

パラオは佐藤内閣の時代に沖縄返還で揺れていた日本に、日本の一行政区にして欲しいと申し出たことがあります。当時パラオはアメリカの信託統治領だったので、対米関係を重視していた日本は丁重にお断りしています。




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