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2017年08月29日

「日本語の起こり成り立ち3/3後半」最終回

「日本語の起こり成り立ち3/3後半」最終回

(前回の話)
明治維新に関わった多くは下級武士でしたので明治政府内でも方言でのやり取りに十分なコミュニケーションが取れない状態だったと思われます
この事も明治時代に統一された日本語を誕生させるきっかけとなったと思われます
まず取り組んだ事は日本の標準語を決めることでした
そしてさらに外国の言葉、文化、考え方、思想、習慣、科学技術等を日本人に分かる形で訳する「造語」作りの成功が明治政府が近代化をより早く推し進める原動力になったのでした
そして、日本語として最後に乗り越えなければならない関門が残っていました
それは「言文一致」です

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日本語として最後に乗り越えなければならない関門が残っていました
それは「言文一致」です

「言文一致とは何か?
話し言葉の統一の遅れとは?」

これまで日本では話し言葉と書き言葉は別なものだったのですが、これに対して英語では話し言葉と同じ発音で書いていたのです

文明開化で多くの西洋人と交わるようになった日本人はこの日本語の非合理性に気づくようになったのです
そこで起こった言文一致運動の立役者になったのが明治の小説家たちでした

まず、二葉亭四迷が明治二十年に発表した小説「浮雲」では落語を参考にした語り口が好評でした
「早く顔が視たい
如何様な顔をしているか
顔を視れば
どうせ好い心地が
しないのは知れていれど
それでいて
只早く顔が視たい」
現在でもこの落語調の調べは違和感なく読めます

その口語調の流れに待ったをかけたのが森鴎外、明治二十三年発表の「舞姫」です
「青く清らにて
物問うひたげに
愁を含める目の
半ば露を宿せる
長き睫毛に
掩われたる・・・」
文語体ながら優美な和語を駆使した華麗で美しい文章です

文語体の復活かと思われたがそれをも打ち破るべく登場してのが尾崎紅葉の「多情多恨」です
「彼の胸の内には
生きているのである
人の妻を最も
好かぬのである
知られては
一大事なのである」
「〜である」等これまであまり使われなかった言葉を小説に使用したのです

そして行き着いたのが「〜である」を使って生まれた明治三十七年夏目漱石の「吾輩は猫である」なのです

このような小説家たちの貢献もあり、始めは反発のあった言文一致も、とっつき易さから定着して行ったのです

社会の動きもそれに突き動かされるように明治三十三年には小学校令の改正がなされ読書、作文、習字の三教科が統一され国語が新設されました
全国一律で発行された国語の教科書で「ひらがなは一音につき一字だけを標準とする事が示され、ひらがなは四十八文字ということにされたのです

それまで平安時代に出来たひらがなは二百文字以上でした
それもそのはずその一音につきに幾つものひらがながあったからです

標準から外れたひらがなは「変体仮名」と呼ばれました
今もその名残りを思わせるものもあります
変体仮名1.JPG

変体仮名2.JPG

変体仮名3.JPG


子供たちが覚えやすいようにひらがなを一音一語に統一してひらがな五十音は完成したのです
しかしこのようにひらがなの使用上での改善がなされても、漢字、カタカナ、ひらがなという順序の上下関係は明治から昭和二十年まで続いたのでした
明治時代から小学校で初めて習うのはカタカナでしたし、憲法などの公式な文書で示されるのは常に漢字とカタカナでした

昭和二十年以降、一般人が日常使うひらがなが圧倒的に多いこともあり理解しやすさと書きやすさへの考え方の変化によりひらがなが重宝されるようになった事は否めません(GHQの戦後洗脳の一環かもしれませんが・・)
このことは昭和二十年の「終戦の勅書」から昭和二十一年「日本国憲法」の発布文を見ても一目瞭然です
ひらがなへ.JPG


では次に話し言葉の事も触れておきましょう
明治時代には日本語はどんな喋り口調だったのでしょうか?
今から百十二年前の日本人最古の音声の書き写しです
千九百年パリ万博に訪れた東京新橋の料亭の女将のお話しになります
「おはようございます、
昨日ねうちのおたまさんとね
パノラマからずっと
博覧会の見物に出かけたんで
見栄いってパリっ子だろっていう風で
やったんですよ
そうするとね、足に豆こしらいちまったん
うちにかえってくると泣きっ面さ」

如何ですか?明治時代の話し方は今の日本人とほとんど変わないように思われます

しかし

書き言葉より喋り言葉の全国統一は遅れをとってしまいました
原因に江戸時代に特に培われた「訛り」が上げられます

その当時の子供たちはレコードも録音テープも無かった時代、教科書だけで地方の教師から話し言葉を聞いても分かるわけではなく標準語に面と向かって接する機会が無かったのです

そこに標準語を広めようと登場したのが大正末期ラジオのJOAK(東京放送局)です

しかし前途は多難でした

その理由は昭和の初めラジオから流れて来たのは
昭和4年放送の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)「国民道徳の根本原理」
嘉納治五郎の言葉.JPG

以上にみられるように難解な漢文訓読調が多く放送に使われていたからです

そこで放送局では試行錯誤の末、やっと昭和十年には全国に向けて学校放送の開始まで漕ぎ着けたのでした
子供の為だけでなく上手く標準語の話せない先生の為に「教師の時間」と言う番組で朗読講座が開始されました

そこで標準語の正しいアクセントや発音が指導されたのです
そうして日本は日本語の標準語の画一化へ一気に進むことが出来たのでした

ラジオ放送が始まってからわずか十二年ほどで現在と変わらない標準語の放送が全国中に流されていました
漢字が日本にやって来て二千年、万葉仮名を使い始めて千六百年、ひらがなが出来て千百年、明治のなって百五十年で私たち日本人は全国どこででも分かる日本語を話すことが出来たのです

そして今、私は誰でもわかる標準語から郷土色豊かな方言まで包括する日本人の懐の深さを感じてやまないのです

おわり・・・

(今回のまとめ)

英語での話し言葉と同じ発音で書いくという、言文一致の合理性に気づいた日本人でしたが、その言文一致運動の立役者となったのは明治の小説家たちでした
このような小説家たちの貢献もあり、始めは反発のあった言文一致も、とっつき易さから定着して行ったのです
明治三十三年には小学校令の改正に伴いひらがなは一音につき一字だけを標準とする事が示され、ひらがなは四十八文字ということにされたのです
昭和二十年以降、ひらがなは一般人にとって日常的に使用していて理解しやすさと書きやすさから重宝されるようになりました

書き言葉より喋り言葉の全国統一は遅れをとってしまいました
原因としては江戸時代に特に培われた「訛り」が上げられます
昭和の初めから始まったラジオによる標準語の普及は試行錯誤のすえ昭和十年には全国に向けて学校放送の開始まで漕ぎ着けたのでした

漢字が日本にやって来て二千年、万葉仮名を使い始めて千六百年、ひらがなが出来て千百年、明治になって百五十年で私たち日本人は全国どこででも分かる日本語を話すことが出来たのです

「日本語の起こり成り立ち3/3前半」

「日本語の起こり成り立ち3/3前半」

(前回の話)
カタカナとは僧侶が漢字を素早く書いて勉強効率を上げる為に用いていたもので、ひらがなと同時期に出来たもので漢字の一部を表記するものでした

話し言葉は奈良、平安、鎌倉、室町、戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代でほぼ現在の日本語に近づいて来ました

江戸の町の人々の70%以上と言われた識字率の裏に現在の漫画に匹敵する「往来物」と言う江戸時代の学校である寺子屋で使われていた教科書があります

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日本に変化や改革をもたらした明治維新!
日本語が生まれるきっかけも明治維新!
日本語バラバラ問題とは?

時代は明治の世を迎えるに至りました
しかしそれまで江戸の世で政(まつりごと)を担った各藩の上級武士は江戸の言葉が共通語でしたが、明治維新に関わった多くは下級武士でした
彼らは地域の方言で喋っていた為、明治時代に入ってもコミュニケーションが取れない状態だったのです

江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜公の回想録にも
「昔、薩摩の人にあった時に困った事がある
話をしても言う事がちっとも分からぬ
向こうは一生懸命喋るけれども少しも分からぬ
何とも答えのしようがない
ただふんふんと聞いたけれど良いとも言われず、
悪いとも言われず、はなはだ困った」
とありました

その事が明治時代に初めて統一された日本語が誕生するきっかけとなったのです

子供の教育の為には明治五年全国で小学校制度が開始されました
山の手言葉を日本の標準語にすることになったのですが例外はあるもので
「〜です」は元々吉原のおいらんの言葉
「おかあさん」と言う呼びかたは西日本の一部の地方の言葉で標準語に取り入れられました
「僕、君」は元々は維新の志士たちの流行り言葉でした

日本で始めて出来た教科書が小学読本でしたが、小学一年生が理解するにはあまりにも難しい内容でした
アメリカの教科書を漢文訓読調に翻訳したもので難しすぎて標準語を教える目的には適さなかったのです

この例にもみれるような問題の根本に気づくに至った訳です

それは

明治時代の日本には外国の言葉、文化、考え方、思想、習慣、科学技術等が海外から入って来てもそれらを表わす言葉がいまだ存在しないものが多かったという事でした

それらを日本語として理解出来る形に訳する必要性にかられたのです
そういった国家の危機に、こぞって文学者たちは「造語」を作って行ったのです

以下は明治以降に作られた言葉の例の一部です
民主主義、人民、自由、演説、聴診器、交響曲、野球、卓球等など
speechを演説と訳したのは「学問のすすめ」を書いて文明開化に尽くした福沢諭吉です
仏教用語の「教えを演(の)べ説く」を「演説(えんぜつ)」と訳したのです

明治政府が近代化をより早く果たせた事の要因の一つが「造語」作りの成功にあったと言っても過言ではありません

今や日本人の作った和製漢語は漢字の元祖、中国大陸に逆に輸入されています
以下は例です
「telephoneは電話」、国名の中華人民共和国の「peopleは人民」「republicは共和」と和訳されたものが逆輸入されているのです

そしてなによりも現在の日本語を語る上で欠かせない大革命が「言文一致運動」です
これまで日本では話し言葉と書き言葉は別なものだったのに対して英語では話し言葉と同じ発音で書いていたのです

この非合理性に文明開化で多くの西洋人と交わるようになった日本人は気づくようになったのです

次回へつづく・・

(今回のまとめ)
明治維新に関わった多くは下級武士でしたので明治政府内でも方言でのやり取りに十分なコミュニケーションが取れない状態だったと思われます
この事も明治時代に初めて統一された日本語を誕生させるきっかけとなったと思われます
まず取り組んだ事は日本の標準語を決めることでした
そしてさらに外国の言葉、文化、考え方、思想、習慣、科学技術等を日本人に分かる形で翻訳する為の「造語」作りの成功が明治政府が近代化をより早く推し進める原動力になったのでした

日本語として最後に乗り越えなければならない関門が残っていました
それは「言文一致」です

2017年08月28日

「日本語の起こり成り立ち2/3」

「日本語の起こり成り立ち2/3」

(前回の内容)
縄文時代には文字が無いため日本語としての歴史は残っていません
一世紀中頃に日本列島にもたらされた金印が文字の発端ではないかと言われています
五世紀に雄略天皇とされる人物が宋へ送った文章を見ても日本語の語順ではなく漢文の語順で書かれています
当時、書く文章は漢文であり読む時も漢文のまま読んでいたと思われます
その後、漢文そのままではなく日本的な訛りや日本的要素の入った漢文が出来上がって行ったのです
その時から日本語独自の文字の歴史が始まったと言えるでしょう
どういう画期的発想の転換があったかというと
@日本語の語順で漢字の「音」だけを使った「当て字」による表記
A効率化の為に漢字を音訓読みした万葉仮名の発明
B興味深い奈良時代の発音と現代日本人の発音の違い
等が上げられるでと思われます

さらなる簡略化により「ひらがな」が生まれます
「ひらがな」は九世紀には誕生し宮中の若い女性たちを中心とした「和歌」の世界で広まって行きました

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では、カタカナについてはどうでしょうか?
カタカナもひらがなと同時期に生まれたと言われています
カタカナは漢字の一部を使うことによって作られました
カタカナ.JPG

元々、カタカナは仏門の僧侶たちが素早く文字を書いて勉強効率を上げる為の目的で生まれたと言われています
日本語は漢字ひらがなカタカナで表現する事が出来るようになったのです

では、話し言葉はどうだったのでしょう?
何と平安時代の話し言葉を再現した音源があるというのですが、誰も聞いた事のない話し言葉をどうやって再現出来るというのでしょうか?

それは平安時代末期に作られた「類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)」という辞書があり、それには全ての和語に対しアクセントが付いているのです
それに加えて、万葉仮名の発音と鎌倉時代に書かれた発音に関する書物とにより平安時代の発音が導き出せたのです
平安時代の発音.JPG

複雑な発音をするのに「ゆっくり」話した為、その速度に現在の日本人はついていけないでしょう
それは室町時代に花開いた狂言や能の語り口にみることが出来ます

当時の日本語が奈良時代、平安時代、鎌倉時代を経由して大きく変化し現在の日本語に近づいていったのです
それには源頼朝、平清盛という武士たちの存在があったと言われています

さらに天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は日本語にどんな影響を与えたのでしょうか?

武士たちのよる独自の日本語がつくられて行ったと言われていますが、鎌倉時代を初めとした武士が作った言葉はどんなものがあるのでしょうか?

当時の武士たちは漢字のシャープさと男らしさに魅了されていましたので従来、日本の和語として表現されたものをあえて漢字になおしてそれを音読みにして漢語風にして行く事が流行りました
例えは
相手に返す言葉の事「かえりごと」は返事(へんじ)
火の燃え盛っている「ひのこと」は火事(かじ)
礼儀を知らない「こちなし」は無骨(ぶこつ)
かけがえのない「おおいにせまる」は大切(たいせつ)

武士は素早く強くがモットーなのでゆったりとした日本語の中に素早く強くコンパクトさを表現できる言葉を作り出して行ったのです
それと共に京都の公家を中心に話されていた都の言葉がありました
この二つの言葉が融合し、より現在の日本語に近づくのが室町時代です
室町幕府.JPG

1338年足利尊氏によって京都に室町幕府が開かれた
その時、京都にやって来た田舎者の侍たちに荘園を奪われた公家たちは自分たちの知的財産(都言葉や立ち居振る舞いの知識)を切り売りして生計を立てていました
このようにして武士の間にも雅な都言葉が浸透していく事なりました

では室町時代の都言葉とは?

それは現在の狂言で聞く事が出来るのです
狂言.JPG


これが当時の都言葉の話し方だというのです
武士たちが征夷大将軍、関白など偉くなるには天皇の認可が必要なのでそのような時に都言葉を話せるかどうかが重要なポイントでした
室町時代の後の戦国時代には都言葉はより重要になっていきました
織田信長が明智光秀を重用していたのは最上級の室町言葉を話せたからだといわれています

一方、方言が熟成されたのは江戸時代に入ってからです
江戸幕府.JPG

幕府の推し進めた藩政の政策によって全国は細かい藩に分けられ関所により人の自由な行き来が制限されました
経済的にも文化的にも各藩が独立して生活できるようになり他の藩との交流がなくなってしまいました
二百六十年余り続いた江戸時代でそれぞれの言葉、方言が深まったと言われています

そこで江戸の独特の方言といえば一つは武士が使っていた現在の四谷赤坂あたりの「山の手言葉」もう一方は、べらんめぇ口調で早口の「下町言葉」です
山の手言葉は時代劇の武士の言葉にみれますし、下町言葉は古典落語でみる事が出来ます

徳川家康が江戸の幕府を開いた事で田舎町に過ぎなかった江戸の人口が大いに増えました
人口増えた.JPG

それによって新しい文化、新しい言葉が作られていったと考えられています
噂好き、話し好きの町人によって室町時代までの日本語が変えられて行ったというのです
それに一役かったのが現在の漫画に匹敵する「往来物」と言う本です
往来物.JPG

この本は江戸時代の学校である寺子屋で使われていた教科書なのですが
寺子屋の教科書.JPG

中を見てみるとまさしく漫画なのです
まさしくマンが.JPG

それにこの往来物は職業に合わせて農業に従事する人用の「百姓往来」、商売に従事する人用には「商売往来」などという様に職業や生活風習で内容を変え、その数は7千種類もあったと伝えられています
様々な往来物.JPG

この往来物の普及もあり江戸の町では七十%を越える識字率であったとも言われています
識字率.JPG

では、江戸後期の町人たちが使っていた下町言葉を紹介しましょう
会話.JPG


お丸「お角さん、此のあひだはお稽古がお休みでよいねへ」
お角「アア、おまへもかへ わたしもね、お稽古のお休みが何よりも何よりも、もうもうもうもういちばんよいよ、それだからお正月の来るのがおたのしみだよ」
お丸「お正月も松がとれると不景気だねへ、もっといつウまでも松をとらずにおけばよいのに・・」

このように源氏物語から七百年で江戸後期の日本語は現在の私たちでも理解できる所まで来たののです

つづく・・・

(今回のまとめ)
カタカナとは僧侶が漢字を素早く書いて勉強効率を上げる為に用いていたもので、ひらがなと同時期に出来ました
漢字の一部を表記しあらわしたものです

話し言葉は奈良、平安、鎌倉、室町、戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代でほぼ現在の日本語に近づいて来ました

江戸の町の人々の70%以上と言われた識字率の裏に現在の漫画に匹敵する「往来物」と言う江戸時代の学校である寺子屋で使われていた教科書があったのです

2017年08月27日

「日本語の起こり成り立ち1/3」

「日本語の起こり成り立ち1/3」

日本語はいつ成立したのか?
日本語はどのように変化してきたのだろうか?
奈良時代の人々の発音とは?
漢字カタカナひらがなとは?

これらの疑問について一緒に考えてみましょう

古い時代には文字が無く日本語(喋り言葉)自体がどのようなものか分からないのが現実の話しです
例えば縄文時代には文字が無いために会話をしていたとしてもそれが歴史に残らないのです
私たちは文字の無い時代の日本語を分析する術を持たないのです
それまでの口で伝える方法で十分通じる社会構造からは文字は必要なかったのでしょう

しかし、そうした中で

日本人はどうしてどのように文字を獲得したのでしょうか?
一世紀中頃とされる「金印」がありますが、これには「漢委奴国王」という漢字が刻まれています

漢から贈られた金印の言葉は漢のものでしたがその後、日本では漢文の語順そのままに漢字を使用して行った事が明らかになっています

これが口伝えによる伝達から文字による伝達への幕開けです

こうして中国大陸との交流する中で文字を学ぶ事の重要性に触れると共に文化をどんどん吸収し、さらに政治体制をも学ぶことも出来たのです

五世紀に雄略天皇とされる人物が宋へ送った文章の一部
書くときも読むときも中国語.JPG


当時、書く文章は漢文であり読む時も漢文のまま読んでいたのです
当時からの漢文(中国語)の構成は主語、述語、目的語の順なのに対して古くから日本語の構成は主語、目的語、述語の順でした

しかし

法隆寺の薬師如来坐像
法隆寺の薬師如来坐像.JPG

の裏には中国語の語順ではなく日本語の語順で表記されている一文があります
薬師像を作る.JPG

日本語の順.JPG

日本的な訛りが入った、漢文ではなく日本語の要素の入った漢文が出来上がっていたのです

この事はまさしく日本語独自の文字の歴史が始まったというのです

漢文の語順と発音は日本人にとって難しかったので漢文にはとらわれないで漢字の持つ「音」を利用して普段話している日本語(喋り言葉)をそのまま表記する事を始めました
夜露死苦.JPG

即ち、漢字の「音」だけを使って全部「当て字」で書いてしまおうというものでした

桃太郎の物語を当て字で作ってみました
(昔々ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました)
当て字で桃太郎.JPG

この方法の弱点である効率の悪さを「訓読み」でもって改良して行ったのです
当て字で書くのは効率が悪いので例えば「耶麻」を漢字で「山(サン)」と書き「やま」と読むという事を発想したのです
やまは山.JPG

山.JPG

この「訓」を持つことによって日本語のその後における漢字の活用方法が大きく変革されたと言えます
即ち、漢字の「音」や「訓」を利用して日本語を表記する活用方法を後に万葉仮名と呼ばれるようになりました
この万葉仮名の発明により日本人は普段使っている言葉で文章を書く方法を一応、完成する事が出来たのでした

「音」と「訓」を上手く利用している万葉集の一文を見てみましょう
音と訓.JPG

「万葉仮名」は漢文の漢字を借りてフル活用した画期的な日本人の大発明なのです

奈良時代の書物もこの「万葉仮名」を使って万葉集、古事記、日本書紀等が書かれたのです
万葉集は原文のままだと難しいが耳で聞けば理解できるのです
万葉仮名は本文は理解できなくも耳で聞くと分かりやすい.JPG

「万葉仮名」は当時の日本人が話していたであろう喋り言葉も伝えてくれるというのです
奈良時代の子供と母親の会話の一例です
子供
子の会話1.JPG

この会話2.JPG

子の会話3.JPG

子の会話4.JPG

子の会話5.JPG

現在と奈良時代とで使われていた日本語を比べてみると母音では現代は五母音に対してには奈良時代では八母音あったと言われている等の変化は存在するらしいのです
奈良時代の発音.JPG

今とは違う奈良時代の日本語の「発声音」と思われます
奈良時代の話し言葉.JPG

奈良時代の万葉仮名は画数が多く効率が悪いので、文字を崩したり端折ったりして書く「草仮名」が出来たのです
さらに簡略化が進むことにより日本独自の「ひらがな」が生まれました
ひらがなは九世紀には誕生し宮中の若い女性たちを中心とした「和歌」の世界で広まって行ったのです

つづく・・・

(今回のまとめ)
縄文時代には文字が無いため日本語としての歴史は残っていません
一世紀中頃に日本列島にもたらされた金印が文字の発端ではないかと言われています
五世紀に雄略天皇とされる人物が宋へ送った文章を見ても日本語の語順ではなく漢文の語順で書かれています
当時、書く文章は漢文であり読む時も漢文のまま読んでいたと思われます
その後、漢文そのままではなく日本的な訛りや日本的要素の入った漢文が出来上がって行ったのです
その時から日本語独自の文字の歴史が始まったと言えるでしょう
その当所、どういう画期的発想の転換があったかというと
@日本語の語順で漢字の「音」だけを使った「当て字」による表記
A効率化の為に漢字を音を訓読みした万葉仮名の発明
B興味深い奈良時代の発音と現代日本人の発音の違い
等が上げられるでと思われます
万葉仮名のさらなる簡略化により「ひらがな」が生まれます
「ひらがな」は九世紀には誕生し宮中の若い女性たちを中心とした「和歌」の世界で広まって行きました

2017年08月25日

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(4)」最終回

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(4)」最終回
日本人はるかな旅 4-4

(前回の話)
日本列島に熱帯ジャポニカが根付き始めた縄文時代(六千年前)の頃、長江流域での新たな試みがなされていました
それは、稲作の起源地である長江流域江蘇省の五千五百年前の炭化米を検査したところ現代の米の大きさになっていたことをうけて

おそらくこの時期、稲を湿地で育てると生産性が飛躍的に高まる事を発見し人工湿地での生産を始めたのではないかと言われているのです

この結果生まれたのが今、私たちが食べている「温帯ジャポニカ」です

その水田技術も今から3千年前には朝鮮半島の南端まで達していましたが、そこで営んでいたのはなんとあの縄文人だったのです

今まで私たちが学んできた弥生人により水田稲作の伝来の根拠はことごとく打ち破られる事になったのです
こうした水田が九州北部から日本列島全土に広がって行き、森の木の実に変わり人々の新たな主食が誕生したのです

水田稲作を中心とした時代の幕開けです

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およそ二千六百年前の縄文時代末期、九州北部で水田稲作が始まり日本列島に稲作の雛形が誕生したのです

その後、日本列島の広い範囲に水田が広まって九州北部から本州最北の地に到達したのは二千年前の事だという調査結果がまとめられています

津軽平野の「田舎館村」で二千年前の水田が発見されたのです
青森水田跡.JPG

この発見により日本での稲作は(弥生時代中期の)西暦元年には北緯41度の本州最北の地に達していた事が分かりました
北緯39度.JPG

それは、二千年前頃の水田遺跡の分布からその当時世界で最も北に位置する水田だったのです

実は、このように寒冷地での稲作を可能にしたのは熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混植によるものだったのです

それは最北の二千年前の遺跡から発見されたの炭化米を調べたところ水田の稲、温帯ジャポニカと思われていた稲に縄文の稲、熱帯ジャポンカが混じっていた事から分かったです
炭化米.JPG

さらに熱帯ジャポニカの米粒は全国十二箇所の(弥生時代の)水田跡から見つかりました
12箇所.JPG

静岡大学実験農場において稲の生育における生物多様性と早生に関する混植の実験が行われました
温帯ジャポニカと熱帯ジャポンカの混食によって生まれた「交雑種」は実験の結果一ヶ月も早い生育状況の確認をする事が出来たのでした
40日後.JPG

夏の短い寒冷地で稲作をするには短期間で実を付ける「早生(わせ)」の品種改良を必要としました
縄文時代の人々は現代に先駆けて知ってか知らずか生物多様性の理論を実践していたのです

熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混植によって生まれた「早生」の技術が(弥生時代に入って300年で)今から二千年前本州最北端まで稲作を広めることを可能にしたのです

二千年前の世界最北の水田には私たち祖先の足跡が残されています
大人の足跡にまじり
足跡大.JPG

子供の足跡も見つかりました
子供の足跡.JPG

二千年前の秋の家族総出での稲刈りの景色が目に浮かぶようです
稲刈り.JPG

中国の長江流域で始まった稲作は1万2千年の旅を経て、現在は日本列島の北海道から沖縄まで根付いています

太古の人々の思いは日本列島の隅々まで今もなお受け継がれ、そして残っているのです

おわり・・

2017年08月24日

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(3)」

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(3)」
日本人はるかな旅 4-3

(前回の話)
日本人の記憶から忘れ去られようとしている幻の稲「熱帯ジャポニカ」の元の姿を東南アジアのラオス奥地のナムガー村に見る見ることが出来ました
ナムガー村での「熱帯ジャポニカ」の栽培は焼畑で行われている事から縄文の稲作も焼畑のスタイルであったのでしょう
しかし「熱帯ジャポニカ」は温帯に属する日本列島では全域に馴染むところまで行かなかったのです
日本人が稲の民となるにはさらに水田と言う技術の登場を待たなければなりませんでした

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焼畑による稲作から水田による稲作への変革?
誰がどのように行ったか?
日本列島では水田はどのように始まった?

このような疑問を払拭していきましょう

日本列島に熱帯ジャポニカが根付き始めた縄文時代(六千年前)の頃、稲作の起源地である長江流域では稲に大きな変化が起きていました

中国大陸での稲の変化の研究調査が長江下流域の江蘇省で行われました
中国の調査.JPG

南京郊外の地層からそれぞれの年代の四箇所から見つけた炭化米を検査してところ五千五百年前の物がほぼ現代の米の大きさになっていました
4時代の炭化米.JPG

このことはこの時期の人々が水田で管理的な稲の栽培を開始した事を物語っています 
稲を湿地で育てると生産性が飛躍的に高まる事を発見し六千年前から人工湿地での生産を始めたのです
人口湿地.JPG

このような環境変化によって熱帯ジャポニカの稲は系統的に新しい稲に生まれ変わる事を余儀なくされたのでした

この新しい系統の稲は現在「温帯ジャポンカ」と呼ばれ、今私たちが食べている稲の種類になります

水田による稲作は大陸全体への広がりを見せ、水田稲作の技術は今から三千年前には朝鮮半島南端まで到達したのです
朝鮮半島南端の水田の遺跡.JPG

半島南端.JPG

朝鮮半島南端の三千年前の集落の遺跡からは炭化米と共に縄文人の生活一式が出てきたのです
もちろん縄文土器も多数発見されました
縄文土器.JPG

縄文土器2.JPG

これらの事は縄文人が朝鮮半島南端に三千年前、集落を形成していたことの証明です

韓国の考古学者がこの事をもって、稲作の技術をこの時日本列島に持ち帰ったと主張しているが、違和感を否めない

現在のように国境で区切られた感覚で縄文時代を論じてはならない思いました

縄文時代を語るときは、時には私たちが今もっている民族感情さえも度外視しなければならないと痛感した

佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは二千六百年前の日本最古の水田跡が発見されましたが一緒に発見された生活道具の一切が縄文時代のものであることから縄文人によって水田が作られたものと考えられています
最古の水田跡.JPG

水田遺跡から縄文土器.JPG

いままでの弥生人よる水田技術の渡来説が覆され縄文人によるほぼ完成された水田稲作が行われていたという事になります
水田遺跡.JPG

弥生人による稲作の伝来に疑惑を持たざるを得ないという事になります

それは明らかな縄文人自身によるなだらかな改革だったのです

こうした水田が九州北部から日本列島全土に広がって行き森の木の実に変わり人々の新たな主食が誕生したのです
弥生時代の到来.JPG

水田稲作を中心とした時代の幕開けです
つづく・・・

(今回のまとめ)
日本列島に熱帯ジャポニカが根付き始めた縄文時代(六千年前)の頃、長江流域での新たな試みがなされたいました
それは、稲作の起源地である長江流域江蘇省の五千五百年前の炭化米を検査したところ現代の米の大きさになっていたことをうけて

おそらくこの時期、稲を湿地で育てると生産性が飛躍的に高まる事を発見し人工湿地での生産を始めたのではないかと言われているのです

この結果生まれたのが今私たちが食べている温帯ジャポニカです

その水田技術も今から3千年前には朝鮮半島の南端まで達していたがそこで営んでいたのはなんとあの縄文人だったのです

今まで私たちが学んできた弥生人により水田稲作の伝来の根拠はことごとく打ち破られる事になったのです
こうした水田が九州北部から日本列島全土に広がって行き森の木の実に変わり人々の新たな主食が誕生したのです

水田稲作を中心とした時代の幕開けです

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(2)」

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(2)」
日本人はるかな旅 4-2

(前回の話)
縄文時代の稲作を紐解いて行くと、現在の日本では幻の稲となってしまった「熱帯ジャポニカ」を訪ねる旅に行き着いてしまいました

その発祥は現在の中国、湖南省の玉蟾岩遺跡で1万2千年前の遺跡から野生ではなく栽培種として見つかりました

今から七千年前の河姆渡を経由して九州の佐賀へと伝来した事が米の分析結果から明らかになっています

そして、対馬の半農半漁の生活を見ていると縄文時代に潜水漁労の技術と熱帯ジャポニカの系統を継ぐ赤い稲を携えた河姆渡の民が対馬にも来たであろう事を窺(うかが)わせるのです

しかし対馬ではこれ以上縄文の米作りがどのように行われたかその記憶を辿る事は最早、出来ませんでした

そこで・・・・

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日本人の記憶から忘れ去られようとする幻の稲「熱帯ジャポニカ」を東南アジアのラオス奥地のナムガー村に見ることが出来ました
ナムガー村.JPG

その村では昔ながらの方法で「熱帯ジャポニカ」を作り続けているというのです
「熱帯ジャポニカ」は温帯の地域では見られなくなった今もラオス奥地では変わらず作られています

稲籾は、やや赤みを帯びておりセイロで蒸して食べます
粘り気が多く餅米のような食感があります

雨季を迎える四月、米作りの始まりです
開かれた山の斜面に火をかけて工作地をつくります
焼畑.JPG

なんと「熱帯ジャポニカ」の栽培は焼畑で行われているのです
五ヶ月後には実りの時を迎えるそうです

もしかしてら縄文時代に行われていた稲作も焼畑農法だったのかもしれません
日本の縄文稲作は焼畑.JPG

縄文時代の稲作が確認された遺跡の分布から「熱帯ジャポニカ」の米作りは南九州、中国地方といった比較的温暖な地域だけで営まれていた事が確認できます
日本の焼畑.JPG

実は日本列島で稲作が始まった六千年前頃、地球の平均気温は今より三から四度も高くなっていました

本来、暑い気候を好む「熱帯ジャポニカ」の稲はこの温暖化の中で海を越え日本列島にある程度根付くことが出来たのでしょう

縄文時代の人々は森や海で狩猟、採集をするかたわら森を切り開いた耕作地で稲作を始めました

米作りだけでなくプラントオパールの分析から粟や稗を一緒に作っていたことも分かって来ました

たぶん、米が不作でも粟や稗で食いつないで行こうというリスク回避の為だと思われます
縄文の生業.JPG

しかし、結果的に温帯の属する日本列島全域に「熱帯ジャポニカ」は馴染むところまで行かなかったようです

日本人が稲の民となるにはさらに水田と言う技術の登場を待たなければなりませんでした

つづく・・・

(今回のまとめ)
日本人の記憶から忘れ去られようとしている幻の稲「熱帯ジャポニカ」の元の姿を東南アジアのラオス奥地のナムガー村に見る事が出来ました
ナムガー村での「熱帯ジャポニカ」の栽培は焼畑で行われている事から縄文の稲作も焼畑のスタイルだったのでしょう
しかし「熱帯ジャポニカ」は温帯に属する日本列島では全域に馴染むところまで行かなかったのです
日本人が稲の民となるにはさらに水田と言う技術の登場を待たなければなりませんでした

2017年08月23日

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(1)」

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(1)」
日本人はるかな旅 4-1

日本列島の稲はいつどの様してもたらされたのか?
稲の民、日本人はどの様に誕生したのか?

近年、稲作の起源に新たな事実が明らかになって来ました
その事実とは日本列島では太古の米のDNA分析から縄文時代から稲作が始まっていたというのです

もともと日本列島に存在していなかった稲は何処から伝来してきたのでしょうか?

島根県の頓原町にある縄文時代の遺跡からプラントオパールと呼ばれる稲の細胞の一部が発見されました
特に岡山の朝寝鼻貝塚から発見された稲のプラントオパールは6000年前のものだったのです
朝寝鼻貝塚の米.JPG

朝寝鼻貝塚から稲のプラントオパール.JPG

確実に日本で稲作が行われるようになったのは縄文時代という事が明らかになったのです
では縄文時代の日本列島に米は何処からどのようにして伝えられたのでしょうか?

中国大陸の長江の中流域に位置する湖南省の玉蟾岩遺跡では1万2千年前から人の痕跡が見つかっています
玉蟾岩遺跡.JPG

この人々こそ世界最初に野生の稲から稲作を始めたのではないかと言われています
遺跡から発見された世界最古の稲籾の芒(のぎ)という籾の先端の棘が退化していることから野生ではなく栽培種であることが分かったのです
稲籾には芒.JPG

米の栽培は五千年後中国大陸の沿岸地域まで達しました

今から7千年前には湿地に打ち込まれたこの何本もの柱の上には住居が建ち並び数百人が暮らしていたと言われる現在の中国浙江省に河姆渡遺跡があります
河姆渡遺跡.JPG

稲のたわわに実って稲を描いた土器も発見されています
河姆渡遺跡の土器に稲の絵.JPG

土器の稲の絵.JPG

河姆渡遺跡から発見された炭化した米は分析結果から「熱帯ジャポニカ」であることが分かりました
熱帯ジャポンカの遺伝子配列を示す研究結果↓
熱帯ジャポニカの配列.JPG

そして佐賀県の遺跡から発見された縄文時代晩期の炭化米も「熱帯ジャポニカ」であった事から縄文時代の稲の傾向がはっきりして来たのです
佐賀の熱帯ジャポニカ.JPG

日本人の記憶から忘れ去られようとしている幻の稲「熱帯ジャポニカ」は河姆渡から伝わって来たのでしょうか?

それを確かめる為に当時の河姆渡に住んでいた人々の生活を見てみる事にしましょう

河姆渡遺跡からは動物の骨で作ったモリや釣り針など漁労の為の道具が見つかった事から稲を作っていた人の意外な側面を知る事が出来ます
もり.JPG

モリ等.JPG

7千年前、河姆渡は海のすぐ近くにあってモリを使って魚を獲って生活していたことが分かりました
木製の舟のオールも発見された事から河姆渡の民は海に漕ぎ出す漁労民でもあったのです
舟のオール.JPG

河姆渡遺跡の近くの沿岸では現在でも竹を組み合わせた昔ながらの舟で魚を獲る人々が生活しています
竹で編んだ舟.JPG

この漁民にとって日本列島は遠い存在ではありません
現在でも汐の流れや風の影響で九州あたりまで流される事は珍しい事ではないというのです

さらに河姆渡遺跡で発見されたものは七千年前に舟の上で猟師たちが使った竈(かまど)です
船上竈.JPG

この竈を使って舟の上で米を炊き、遠くの海に乗り出す事を可能にしたであろうことは十分考えられます

太古の昔(今から七千年まえ)中国大陸の漁労民によって稲が日本列島にもたらされた可能性が浮かび上がって来たのです

対馬に現在までつながる潜水漁労と赤い稲「熱帯ジャポニカ」はとりもなおさず中国大陸沿岸に源を発する潜水漁労の技術と熱帯ジャポニカの系統を継ぐ赤い稲、

これらが

遥か昔大陸から縄文時代の日本列島に伝来した事の裏づけになるのではないでしょうか?

しかし対馬ではこれ以上縄文の米作りがどのように行われたかその記憶を辿る事は出来ませんでした

・・・つづく

(今回のまとめ)
縄文時代の稲作を紐解いて行くと、現在の日本では幻の稲となってしまった「熱帯ジャポニカ」を訪ねる旅に行き着いてしまいました

その発祥は現在の中国、湖南省の玉蟾岩遺跡で1万2千年前の遺跡から野生ではなく栽培種として見つかりました

今から七千年前の河姆渡を経由して九州の佐賀へと伝来した事が米の分析結果から明らかになっています

そして、対馬の半農半漁の生活を見ていると縄文時代に潜水漁労の技術と熱帯ジャポニカの系統を継ぐ赤い稲を携えた河姆渡の民が対馬にも来たであろう事を窺わせるのです

2017年08月22日

マンモスハンター シベリアからの旅立ち(5)最終回

マンモスハンター シベリアからの旅立ち(5)最終回
【日本人はるかな旅1-5】

(先回の話)
シベリアのマンモスハンターを追う旅に幾度も登場する細石刃がマリタ遺跡から始まりサハリンそして北海道の千歳で発見されることにより、人々の移動の足跡辿る事が出来た訳ですが、人々の行く手は津軽海峡によって遮られていたのでした
しかし、最寒冷期に津軽海峡が凍る事態になったことは、人々が本州までの道を切り開いていった事を意味する以外のなにものでもありませんでした

それはその後の時代の遺跡分布が瞬く間に日本列島全土に及んでいる事からも理解できます

しかし最寒冷期の後、地球温暖化による日本列島を取り巻く海面の上昇と列島の森林化が
シベリアで大型動物を狩猟して生活を立てていた人々を窮地に陥らせて行ったのです

それは何故か??

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一万五千年前頃、日本列島で急激な森林化が進み祖先たちの貴重な食料だった大型動物が激減しました
このことは地中に残された化石を発掘し太古の動物の生息状況を調べる研究によって明らかにされました
一万五千年以降の地層から見つかる化石は大きくても鹿や猪、狸、狐、ネズミ等の小動物だというのです

まさしくこれは、急激な温暖化が大型動物の生息に適した草原などの環境を奪いさらには、その大型動物を絶滅へと追い込んだのは強力な狩猟具である細石刃を手に日本列島に住み始めた人々(マンモスハンター)だったのです

大型動物を狩りつくした人々は深刻な食糧難に陥りました
この危機に人々は細石刃に変わる新たな狩の道具を作りだしました

それは長さ2cm程の石の鏃(やじり)です
この鏃を付けた弓矢で狸やネズミなどの森の小動物を捕らえたのです
複数のやじり.JPG

やじり一個.JPG

しかり小動物だけでは人々の空腹を満たせなかった事は容易に推測できます

そこで祖先の新たな食料探しが始まったのです
森に大量にある団栗(どんぐり)に目を付けたのですが食用には不向きだったのです
それは団栗がカロリーの高い木の実にもかかわらずその渋から嫌厭されていたからです
団栗.JPG

団栗一個.JPG

東京の新宿で日本人の祖先を救った一つの道具の痕跡が発見されたのです
それは新宿百人町三丁目遺跡から当時の人々が使っていた石器に混じって発見された土を焼き固めた土器の破片から分かったことです
新宿遺跡.JPG

土器の破片.JPG

その破片をつなぎ合わせた土器とは灰汁(あく)の強いドングリを食に適するように煮炊きするものだったというのです
土器.JPG

日本列島でこの土器が使われ始めたのは一万二千年あまり前の事でした(一説にはエジプトやメソポタミアの人々より数千年、先駆けて世界で初めて(煮炊き用の)土器を使っていたという)

このようにして日本列島の私たちの祖先は食糧危機を乗り越えたのでした

日本列島に住む人々の土器の入手経路にも興味をそそられる所ですが、そもそも土器は今から一万三千年前シベリアのアムール川流域で発見された物が最古とされています
アムール川.JPG

シベリアの土器.JPG

その土器の用途は魚の脂の貯蔵の為の物だったようですが
日本列島で発見された土器との根本的な違いはその薄さです
土器の違い.JPG

シベリア土器より三分の一程度に薄くするという工夫を加え煮炊きの効率をあげたのです

貯蔵する土器から煮炊きする土器へと日本人の祖先はシベリアから持ち込んだ土器を見事なまでに改良していたのです

土器の強度を保ちながら薄くする為に土に獣の毛をつなぎとして使う工夫もしているのです(土器の断面を撮影した顕微鏡写真、横に長く見えているのが動物の毛)
土器の中に獣の毛.JPG

そして森の木の実を貴重な食料に変える列島ならではの知恵を身につけた人々はこの大地に根付いて行ったのです
列島の暮らし.JPG

その後、土器は列島全土に伝わり一万年以上に渡る縄文時代が始まりました
縄文時代.JPG

さらにその中で人々は様々な創意工夫を凝らし豊かで多彩な土器の文化を築きあげていきました
多彩など土器1.JPG

多彩な土器.JPG

こうしてシベリアのマンモスハンターの旅は終り日本列島での日本人の祖先、縄文人として新たな出発をして行ったのです

・・・・おわり

(今回のまとめ)
大型動物を求めて遠いシベリアを旅立った私たち日本人の遠い祖先たちは一万五千年前頃の日本列島で急激な森林化によってマンモスハンターとしての狩猟具を長さ2cm程の石の鏃(やじり)に変えて小動物を狩って生きていく道を選びました
そして森に大量にある団栗(どんぐり)を食用にする為に煮炊きの効率を考え極限まで薄くした土器を作ったのです
このようにして日本列島の私たちの祖先は食糧危機を乗り越えたのでした
こうしてシベリアのマンモスハンターの旅は終り日本列島での私たち日本人の祖先、縄文人として新たな出発をして行ったのです

2017年08月21日

マンモスハンター シベリアからの旅立ち(4)

マンモスハンター シベリアからの旅立ち(4)
【日本人はるかな旅1-4】

(前回の話)
私たちの遠い祖先はマンモスを仕留める細石刃を手に巨大なマンモスに挑みました
短い夏に蓄えた獲物を食いつなぎながら長い冬を過ごしたのです
しかし2万年前の氷河期の中でも一番寒い最寒冷期にマリタ集落の消滅が起こりました

それはその異変によって緑豊かな植生が急激に縮小したのをきっかけにマンモス等の動物の移動が始まりましたが、この移動に伴い人々も移動を余儀なくされた為でした

その移動の一部にサハリンを通り日本列島を目指した流れもあったのです

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それでは日本列島に向かった人々のマリタからサハリンを通り北海道へ行った道程を辿ってみましょう
北海道千歳市の柏台T遺跡では2万年前、移動する人々の焚き火跡が発見されました

その周辺からシベリアで見た細石刃も発見されたのです
そればかりかこの時代のマンモスの骨も見つかったのです
強力な狩の道具を携えてマンモスハンターが日本列島にやって来た確信が高まります
北海道の細石刃.JPG

しかし、北海道からさらに南下しようとする人々の行く手を津軽海峡が阻みました
氷河期の津軽海峡.JPG

ところが人々は氷河期の最寒冷期、海峡が凍りついた時を千載一遇のチャンスと捉え白い道と化した海を越え本州に辿りついたのです
最寒冷期の津軽海峡.JPG

二万年前の遺跡の分布は人々が瞬く間に列島全土に広がった事を物語っています
二万年前の遺跡分布.JPG

二万人前、人々が目にした風景は富士山は盛んに活動してました
二万年前の関東平野.JPG

そしてナウマンゾウはじめ様々な大型動物が住み着いていたのです
ナウマン象.JPG

洞穴ライオン.JPG

このようなかつてのシベリアを彷彿とさせる新天地で再びマンモスハンターとして生きることに希望を抱いた事でしょう

しかし、その暮らしも長くは続かなかったのです

彼らが日本列島に来た二万年以降、始まった温暖化によって地球の平均温度は50年間に7℃も上昇しました
地球を被っていた氷は溶け海面は上昇し今の日本列島の形になったのです
温暖化.JPG

現在の日本列島.JPG

大陸から切り離さされた日本人の祖先たちは環境の激変に立ち向かって行きました

急激な温暖化によって針葉樹が点在する地はブナやナラなどの広葉樹が生い茂る森に変わって行きました
その後の関東平原.JPG

この森林化がシベリアで大型動物を狩猟していた人々を窮地に陥れて行ったのです

それはどういう意味をさしているのでしょうか?

つづく・・・

(今回のまとめ)
「シベリアのマンモスハンターを追う旅に幾度も登場する細石刃がマリタ遺跡から始まりサハリンそして北海道の千歳で発見されることにより、人々の移動の足跡を辿る事が出来た訳ですが、人々の行く手は津軽海峡によって遮られていたのでした
しかし、最寒冷期に津軽海峡が凍る事態になったことは、人々が本州までの道を切り開いていった事を意味する以外のなにものでもありませんでした

それはその後の時代の遺跡分布が瞬く間に日本列島全土に及んでいる事からも理解できます

しかし最寒冷期の後、地球温暖化による日本列島を取り巻く海面の上昇と列島の森林化がシベリアで大型動物を狩猟して生活を立てていた人々を窮地に陥らせて行ったのです

それは何故か??」

参考動画↓
https://www.youtube.com/watch?v=bKBSemfl4Tg&t=2383s&spfreload=10
プロフィール
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定年退職後の日々
定年まであと何年と数える歳になりにけり。定年後も元気で働きたい親父です(現在は過ぎ去りし願望に似たり)・・時々(我流)短歌も
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