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2017年08月29日

「日本語の起こり成り立ち3/3後半」最終回

「日本語の起こり成り立ち3/3後半」最終回

(前回の話)
明治維新に関わった多くは下級武士でしたので明治政府内でも方言でのやり取りに十分なコミュニケーションが取れない状態だったと思われます
この事も明治時代に統一された日本語を誕生させるきっかけとなったと思われます
まず取り組んだ事は日本の標準語を決めることでした
そしてさらに外国の言葉、文化、考え方、思想、習慣、科学技術等を日本人に分かる形で訳する「造語」作りの成功が明治政府が近代化をより早く推し進める原動力になったのでした
そして、日本語として最後に乗り越えなければならない関門が残っていました
それは「言文一致」です

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日本語として最後に乗り越えなければならない関門が残っていました
それは「言文一致」です

「言文一致とは何か?
話し言葉の統一の遅れとは?」

これまで日本では話し言葉と書き言葉は別なものだったのですが、これに対して英語では話し言葉と同じ発音で書いていたのです

文明開化で多くの西洋人と交わるようになった日本人はこの日本語の非合理性に気づくようになったのです
そこで起こった言文一致運動の立役者になったのが明治の小説家たちでした

まず、二葉亭四迷が明治二十年に発表した小説「浮雲」では落語を参考にした語り口が好評でした
「早く顔が視たい
如何様な顔をしているか
顔を視れば
どうせ好い心地が
しないのは知れていれど
それでいて
只早く顔が視たい」
現在でもこの落語調の調べは違和感なく読めます

その口語調の流れに待ったをかけたのが森鴎外、明治二十三年発表の「舞姫」です
「青く清らにて
物問うひたげに
愁を含める目の
半ば露を宿せる
長き睫毛に
掩われたる・・・」
文語体ながら優美な和語を駆使した華麗で美しい文章です

文語体の復活かと思われたがそれをも打ち破るべく登場してのが尾崎紅葉の「多情多恨」です
「彼の胸の内には
生きているのである
人の妻を最も
好かぬのである
知られては
一大事なのである」
「〜である」等これまであまり使われなかった言葉を小説に使用したのです

そして行き着いたのが「〜である」を使って生まれた明治三十七年夏目漱石の「吾輩は猫である」なのです

このような小説家たちの貢献もあり、始めは反発のあった言文一致も、とっつき易さから定着して行ったのです

社会の動きもそれに突き動かされるように明治三十三年には小学校令の改正がなされ読書、作文、習字の三教科が統一され国語が新設されました
全国一律で発行された国語の教科書で「ひらがなは一音につき一字だけを標準とする事が示され、ひらがなは四十八文字ということにされたのです

それまで平安時代に出来たひらがなは二百文字以上でした
それもそのはずその一音につきに幾つものひらがながあったからです

標準から外れたひらがなは「変体仮名」と呼ばれました
今もその名残りを思わせるものもあります
変体仮名1.JPG

変体仮名2.JPG

変体仮名3.JPG


子供たちが覚えやすいようにひらがなを一音一語に統一してひらがな五十音は完成したのです
しかしこのようにひらがなの使用上での改善がなされても、漢字、カタカナ、ひらがなという順序の上下関係は明治から昭和二十年まで続いたのでした
明治時代から小学校で初めて習うのはカタカナでしたし、憲法などの公式な文書で示されるのは常に漢字とカタカナでした

昭和二十年以降、一般人が日常使うひらがなが圧倒的に多いこともあり理解しやすさと書きやすさへの考え方の変化によりひらがなが重宝されるようになった事は否めません(GHQの戦後洗脳の一環かもしれませんが・・)
このことは昭和二十年の「終戦の勅書」から昭和二十一年「日本国憲法」の発布文を見ても一目瞭然です
ひらがなへ.JPG


では次に話し言葉の事も触れておきましょう
明治時代には日本語はどんな喋り口調だったのでしょうか?
今から百十二年前の日本人最古の音声の書き写しです
千九百年パリ万博に訪れた東京新橋の料亭の女将のお話しになります
「おはようございます、
昨日ねうちのおたまさんとね
パノラマからずっと
博覧会の見物に出かけたんで
見栄いってパリっ子だろっていう風で
やったんですよ
そうするとね、足に豆こしらいちまったん
うちにかえってくると泣きっ面さ」

如何ですか?明治時代の話し方は今の日本人とほとんど変わないように思われます

しかし

書き言葉より喋り言葉の全国統一は遅れをとってしまいました
原因に江戸時代に特に培われた「訛り」が上げられます

その当時の子供たちはレコードも録音テープも無かった時代、教科書だけで地方の教師から話し言葉を聞いても分かるわけではなく標準語に面と向かって接する機会が無かったのです

そこに標準語を広めようと登場したのが大正末期ラジオのJOAK(東京放送局)です

しかし前途は多難でした

その理由は昭和の初めラジオから流れて来たのは
昭和4年放送の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)「国民道徳の根本原理」
嘉納治五郎の言葉.JPG

以上にみられるように難解な漢文訓読調が多く放送に使われていたからです

そこで放送局では試行錯誤の末、やっと昭和十年には全国に向けて学校放送の開始まで漕ぎ着けたのでした
子供の為だけでなく上手く標準語の話せない先生の為に「教師の時間」と言う番組で朗読講座が開始されました

そこで標準語の正しいアクセントや発音が指導されたのです
そうして日本は日本語の標準語の画一化へ一気に進むことが出来たのでした

ラジオ放送が始まってからわずか十二年ほどで現在と変わらない標準語の放送が全国中に流されていました
漢字が日本にやって来て二千年、万葉仮名を使い始めて千六百年、ひらがなが出来て千百年、明治のなって百五十年で私たち日本人は全国どこででも分かる日本語を話すことが出来たのです

そして今、私は誰でもわかる標準語から郷土色豊かな方言まで包括する日本人の懐の深さを感じてやまないのです

おわり・・・

(今回のまとめ)

英語での話し言葉と同じ発音で書いくという、言文一致の合理性に気づいた日本人でしたが、その言文一致運動の立役者となったのは明治の小説家たちでした
このような小説家たちの貢献もあり、始めは反発のあった言文一致も、とっつき易さから定着して行ったのです
明治三十三年には小学校令の改正に伴いひらがなは一音につき一字だけを標準とする事が示され、ひらがなは四十八文字ということにされたのです
昭和二十年以降、ひらがなは一般人にとって日常的に使用していて理解しやすさと書きやすさから重宝されるようになりました

書き言葉より喋り言葉の全国統一は遅れをとってしまいました
原因としては江戸時代に特に培われた「訛り」が上げられます
昭和の初めから始まったラジオによる標準語の普及は試行錯誤のすえ昭和十年には全国に向けて学校放送の開始まで漕ぎ着けたのでした

漢字が日本にやって来て二千年、万葉仮名を使い始めて千六百年、ひらがなが出来て千百年、明治になって百五十年で私たち日本人は全国どこででも分かる日本語を話すことが出来たのです

「日本語の起こり成り立ち3/3前半」

「日本語の起こり成り立ち3/3前半」

(前回の話)
カタカナとは僧侶が漢字を素早く書いて勉強効率を上げる為に用いていたもので、ひらがなと同時期に出来たもので漢字の一部を表記するものでした

話し言葉は奈良、平安、鎌倉、室町、戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代でほぼ現在の日本語に近づいて来ました

江戸の町の人々の70%以上と言われた識字率の裏に現在の漫画に匹敵する「往来物」と言う江戸時代の学校である寺子屋で使われていた教科書があります

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日本に変化や改革をもたらした明治維新!
日本語が生まれるきっかけも明治維新!
日本語バラバラ問題とは?

時代は明治の世を迎えるに至りました
しかしそれまで江戸の世で政(まつりごと)を担った各藩の上級武士は江戸の言葉が共通語でしたが、明治維新に関わった多くは下級武士でした
彼らは地域の方言で喋っていた為、明治時代に入ってもコミュニケーションが取れない状態だったのです

江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜公の回想録にも
「昔、薩摩の人にあった時に困った事がある
話をしても言う事がちっとも分からぬ
向こうは一生懸命喋るけれども少しも分からぬ
何とも答えのしようがない
ただふんふんと聞いたけれど良いとも言われず、
悪いとも言われず、はなはだ困った」
とありました

その事が明治時代に初めて統一された日本語が誕生するきっかけとなったのです

子供の教育の為には明治五年全国で小学校制度が開始されました
山の手言葉を日本の標準語にすることになったのですが例外はあるもので
「〜です」は元々吉原のおいらんの言葉
「おかあさん」と言う呼びかたは西日本の一部の地方の言葉で標準語に取り入れられました
「僕、君」は元々は維新の志士たちの流行り言葉でした

日本で始めて出来た教科書が小学読本でしたが、小学一年生が理解するにはあまりにも難しい内容でした
アメリカの教科書を漢文訓読調に翻訳したもので難しすぎて標準語を教える目的には適さなかったのです

この例にもみれるような問題の根本に気づくに至った訳です

それは

明治時代の日本には外国の言葉、文化、考え方、思想、習慣、科学技術等が海外から入って来てもそれらを表わす言葉がいまだ存在しないものが多かったという事でした

それらを日本語として理解出来る形に訳する必要性にかられたのです
そういった国家の危機に、こぞって文学者たちは「造語」を作って行ったのです

以下は明治以降に作られた言葉の例の一部です
民主主義、人民、自由、演説、聴診器、交響曲、野球、卓球等など
speechを演説と訳したのは「学問のすすめ」を書いて文明開化に尽くした福沢諭吉です
仏教用語の「教えを演(の)べ説く」を「演説(えんぜつ)」と訳したのです

明治政府が近代化をより早く果たせた事の要因の一つが「造語」作りの成功にあったと言っても過言ではありません

今や日本人の作った和製漢語は漢字の元祖、中国大陸に逆に輸入されています
以下は例です
「telephoneは電話」、国名の中華人民共和国の「peopleは人民」「republicは共和」と和訳されたものが逆輸入されているのです

そしてなによりも現在の日本語を語る上で欠かせない大革命が「言文一致運動」です
これまで日本では話し言葉と書き言葉は別なものだったのに対して英語では話し言葉と同じ発音で書いていたのです

この非合理性に文明開化で多くの西洋人と交わるようになった日本人は気づくようになったのです

次回へつづく・・

(今回のまとめ)
明治維新に関わった多くは下級武士でしたので明治政府内でも方言でのやり取りに十分なコミュニケーションが取れない状態だったと思われます
この事も明治時代に初めて統一された日本語を誕生させるきっかけとなったと思われます
まず取り組んだ事は日本の標準語を決めることでした
そしてさらに外国の言葉、文化、考え方、思想、習慣、科学技術等を日本人に分かる形で翻訳する為の「造語」作りの成功が明治政府が近代化をより早く推し進める原動力になったのでした

日本語として最後に乗り越えなければならない関門が残っていました
それは「言文一致」です

2017年08月28日

「日本語の起こり成り立ち2/3」

「日本語の起こり成り立ち2/3」

(前回の内容)
縄文時代には文字が無いため日本語としての歴史は残っていません
一世紀中頃に日本列島にもたらされた金印が文字の発端ではないかと言われています
五世紀に雄略天皇とされる人物が宋へ送った文章を見ても日本語の語順ではなく漢文の語順で書かれています
当時、書く文章は漢文であり読む時も漢文のまま読んでいたと思われます
その後、漢文そのままではなく日本的な訛りや日本的要素の入った漢文が出来上がって行ったのです
その時から日本語独自の文字の歴史が始まったと言えるでしょう
どういう画期的発想の転換があったかというと
@日本語の語順で漢字の「音」だけを使った「当て字」による表記
A効率化の為に漢字を音訓読みした万葉仮名の発明
B興味深い奈良時代の発音と現代日本人の発音の違い
等が上げられるでと思われます

さらなる簡略化により「ひらがな」が生まれます
「ひらがな」は九世紀には誕生し宮中の若い女性たちを中心とした「和歌」の世界で広まって行きました

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では、カタカナについてはどうでしょうか?
カタカナもひらがなと同時期に生まれたと言われています
カタカナは漢字の一部を使うことによって作られました
カタカナ.JPG

元々、カタカナは仏門の僧侶たちが素早く文字を書いて勉強効率を上げる為の目的で生まれたと言われています
日本語は漢字ひらがなカタカナで表現する事が出来るようになったのです

では、話し言葉はどうだったのでしょう?
何と平安時代の話し言葉を再現した音源があるというのですが、誰も聞いた事のない話し言葉をどうやって再現出来るというのでしょうか?

それは平安時代末期に作られた「類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)」という辞書があり、それには全ての和語に対しアクセントが付いているのです
それに加えて、万葉仮名の発音と鎌倉時代に書かれた発音に関する書物とにより平安時代の発音が導き出せたのです
平安時代の発音.JPG

複雑な発音をするのに「ゆっくり」話した為、その速度に現在の日本人はついていけないでしょう
それは室町時代に花開いた狂言や能の語り口にみることが出来ます

当時の日本語が奈良時代、平安時代、鎌倉時代を経由して大きく変化し現在の日本語に近づいていったのです
それには源頼朝、平清盛という武士たちの存在があったと言われています

さらに天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は日本語にどんな影響を与えたのでしょうか?

武士たちのよる独自の日本語がつくられて行ったと言われていますが、鎌倉時代を初めとした武士が作った言葉はどんなものがあるのでしょうか?

当時の武士たちは漢字のシャープさと男らしさに魅了されていましたので従来、日本の和語として表現されたものをあえて漢字になおしてそれを音読みにして漢語風にして行く事が流行りました
例えは
相手に返す言葉の事「かえりごと」は返事(へんじ)
火の燃え盛っている「ひのこと」は火事(かじ)
礼儀を知らない「こちなし」は無骨(ぶこつ)
かけがえのない「おおいにせまる」は大切(たいせつ)

武士は素早く強くがモットーなのでゆったりとした日本語の中に素早く強くコンパクトさを表現できる言葉を作り出して行ったのです
それと共に京都の公家を中心に話されていた都の言葉がありました
この二つの言葉が融合し、より現在の日本語に近づくのが室町時代です
室町幕府.JPG

1338年足利尊氏によって京都に室町幕府が開かれた
その時、京都にやって来た田舎者の侍たちに荘園を奪われた公家たちは自分たちの知的財産(都言葉や立ち居振る舞いの知識)を切り売りして生計を立てていました
このようにして武士の間にも雅な都言葉が浸透していく事なりました

では室町時代の都言葉とは?

それは現在の狂言で聞く事が出来るのです
狂言.JPG


これが当時の都言葉の話し方だというのです
武士たちが征夷大将軍、関白など偉くなるには天皇の認可が必要なのでそのような時に都言葉を話せるかどうかが重要なポイントでした
室町時代の後の戦国時代には都言葉はより重要になっていきました
織田信長が明智光秀を重用していたのは最上級の室町言葉を話せたからだといわれています

一方、方言が熟成されたのは江戸時代に入ってからです
江戸幕府.JPG

幕府の推し進めた藩政の政策によって全国は細かい藩に分けられ関所により人の自由な行き来が制限されました
経済的にも文化的にも各藩が独立して生活できるようになり他の藩との交流がなくなってしまいました
二百六十年余り続いた江戸時代でそれぞれの言葉、方言が深まったと言われています

そこで江戸の独特の方言といえば一つは武士が使っていた現在の四谷赤坂あたりの「山の手言葉」もう一方は、べらんめぇ口調で早口の「下町言葉」です
山の手言葉は時代劇の武士の言葉にみれますし、下町言葉は古典落語でみる事が出来ます

徳川家康が江戸の幕府を開いた事で田舎町に過ぎなかった江戸の人口が大いに増えました
人口増えた.JPG

それによって新しい文化、新しい言葉が作られていったと考えられています
噂好き、話し好きの町人によって室町時代までの日本語が変えられて行ったというのです
それに一役かったのが現在の漫画に匹敵する「往来物」と言う本です
往来物.JPG

この本は江戸時代の学校である寺子屋で使われていた教科書なのですが
寺子屋の教科書.JPG

中を見てみるとまさしく漫画なのです
まさしくマンが.JPG

それにこの往来物は職業に合わせて農業に従事する人用の「百姓往来」、商売に従事する人用には「商売往来」などという様に職業や生活風習で内容を変え、その数は7千種類もあったと伝えられています
様々な往来物.JPG

この往来物の普及もあり江戸の町では七十%を越える識字率であったとも言われています
識字率.JPG

では、江戸後期の町人たちが使っていた下町言葉を紹介しましょう
会話.JPG


お丸「お角さん、此のあひだはお稽古がお休みでよいねへ」
お角「アア、おまへもかへ わたしもね、お稽古のお休みが何よりも何よりも、もうもうもうもういちばんよいよ、それだからお正月の来るのがおたのしみだよ」
お丸「お正月も松がとれると不景気だねへ、もっといつウまでも松をとらずにおけばよいのに・・」

このように源氏物語から七百年で江戸後期の日本語は現在の私たちでも理解できる所まで来たののです

つづく・・・

(今回のまとめ)
カタカナとは僧侶が漢字を素早く書いて勉強効率を上げる為に用いていたもので、ひらがなと同時期に出来ました
漢字の一部を表記しあらわしたものです

話し言葉は奈良、平安、鎌倉、室町、戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代でほぼ現在の日本語に近づいて来ました

江戸の町の人々の70%以上と言われた識字率の裏に現在の漫画に匹敵する「往来物」と言う江戸時代の学校である寺子屋で使われていた教科書があったのです

2017年08月27日

「日本語の起こり成り立ち1/3」

「日本語の起こり成り立ち1/3」

日本語はいつ成立したのか?
日本語はどのように変化してきたのだろうか?
奈良時代の人々の発音とは?
漢字カタカナひらがなとは?

これらの疑問について一緒に考えてみましょう

古い時代には文字が無く日本語(喋り言葉)自体がどのようなものか分からないのが現実の話しです
例えば縄文時代には文字が無いために会話をしていたとしてもそれが歴史に残らないのです
私たちは文字の無い時代の日本語を分析する術を持たないのです
それまでの口で伝える方法で十分通じる社会構造からは文字は必要なかったのでしょう

しかし、そうした中で

日本人はどうしてどのように文字を獲得したのでしょうか?
一世紀中頃とされる「金印」がありますが、これには「漢委奴国王」という漢字が刻まれています

漢から贈られた金印の言葉は漢のものでしたがその後、日本では漢文の語順そのままに漢字を使用して行った事が明らかになっています

これが口伝えによる伝達から文字による伝達への幕開けです

こうして中国大陸との交流する中で文字を学ぶ事の重要性に触れると共に文化をどんどん吸収し、さらに政治体制をも学ぶことも出来たのです

五世紀に雄略天皇とされる人物が宋へ送った文章の一部
書くときも読むときも中国語.JPG


当時、書く文章は漢文であり読む時も漢文のまま読んでいたのです
当時からの漢文(中国語)の構成は主語、述語、目的語の順なのに対して古くから日本語の構成は主語、目的語、述語の順でした

しかし

法隆寺の薬師如来坐像
法隆寺の薬師如来坐像.JPG

の裏には中国語の語順ではなく日本語の語順で表記されている一文があります
薬師像を作る.JPG

日本語の順.JPG

日本的な訛りが入った、漢文ではなく日本語の要素の入った漢文が出来上がっていたのです

この事はまさしく日本語独自の文字の歴史が始まったというのです

漢文の語順と発音は日本人にとって難しかったので漢文にはとらわれないで漢字の持つ「音」を利用して普段話している日本語(喋り言葉)をそのまま表記する事を始めました
夜露死苦.JPG

即ち、漢字の「音」だけを使って全部「当て字」で書いてしまおうというものでした

桃太郎の物語を当て字で作ってみました
(昔々ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました)
当て字で桃太郎.JPG

この方法の弱点である効率の悪さを「訓読み」でもって改良して行ったのです
当て字で書くのは効率が悪いので例えば「耶麻」を漢字で「山(サン)」と書き「やま」と読むという事を発想したのです
やまは山.JPG

山.JPG

この「訓」を持つことによって日本語のその後における漢字の活用方法が大きく変革されたと言えます
即ち、漢字の「音」や「訓」を利用して日本語を表記する活用方法を後に万葉仮名と呼ばれるようになりました
この万葉仮名の発明により日本人は普段使っている言葉で文章を書く方法を一応、完成する事が出来たのでした

「音」と「訓」を上手く利用している万葉集の一文を見てみましょう
音と訓.JPG

「万葉仮名」は漢文の漢字を借りてフル活用した画期的な日本人の大発明なのです

奈良時代の書物もこの「万葉仮名」を使って万葉集、古事記、日本書紀等が書かれたのです
万葉集は原文のままだと難しいが耳で聞けば理解できるのです
万葉仮名は本文は理解できなくも耳で聞くと分かりやすい.JPG

「万葉仮名」は当時の日本人が話していたであろう喋り言葉も伝えてくれるというのです
奈良時代の子供と母親の会話の一例です
子供
子の会話1.JPG

この会話2.JPG

子の会話3.JPG

子の会話4.JPG

子の会話5.JPG

現在と奈良時代とで使われていた日本語を比べてみると母音では現代は五母音に対してには奈良時代では八母音あったと言われている等の変化は存在するらしいのです
奈良時代の発音.JPG

今とは違う奈良時代の日本語の「発声音」と思われます
奈良時代の話し言葉.JPG

奈良時代の万葉仮名は画数が多く効率が悪いので、文字を崩したり端折ったりして書く「草仮名」が出来たのです
さらに簡略化が進むことにより日本独自の「ひらがな」が生まれました
ひらがなは九世紀には誕生し宮中の若い女性たちを中心とした「和歌」の世界で広まって行ったのです

つづく・・・

(今回のまとめ)
縄文時代には文字が無いため日本語としての歴史は残っていません
一世紀中頃に日本列島にもたらされた金印が文字の発端ではないかと言われています
五世紀に雄略天皇とされる人物が宋へ送った文章を見ても日本語の語順ではなく漢文の語順で書かれています
当時、書く文章は漢文であり読む時も漢文のまま読んでいたと思われます
その後、漢文そのままではなく日本的な訛りや日本的要素の入った漢文が出来上がって行ったのです
その時から日本語独自の文字の歴史が始まったと言えるでしょう
その当所、どういう画期的発想の転換があったかというと
@日本語の語順で漢字の「音」だけを使った「当て字」による表記
A効率化の為に漢字を音を訓読みした万葉仮名の発明
B興味深い奈良時代の発音と現代日本人の発音の違い
等が上げられるでと思われます
万葉仮名のさらなる簡略化により「ひらがな」が生まれます
「ひらがな」は九世紀には誕生し宮中の若い女性たちを中心とした「和歌」の世界で広まって行きました
プロフィール
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定年退職後の日々
定年まであと何年と数える歳になりにけり。定年後も元気で働きたい親父です(現在は過ぎ去りし願望に似たり)・・時々(我流)短歌も
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