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2017年08月18日

12000年前黒潮に乗って南の海から日本列島へやって来た黒潮の民(3)

【日本人誕生の物語を辿る(2-3)】

(前回の話)
「約10万年前にアフリカを出発した現代人の先祖は陸伝いに(幻の大陸)スンダランドに辿りつきました
およそ2万年前の最寒冷期を境にスンダランドの繁栄は終り
大陸は一部を残して水没してしまいました
漂流民となった一部の人々はフィリピン方面さらに沖縄と南九州各地へと黒潮に乗って移動して行きました
黒潮の民が携えて来た(丸木舟つくりで使った)丸ノミ石斧の技術をいかした石斧で森を切り開きました
そして今から9500年前、上野原集落の3000年という長い繁栄を築き上げたのでした」

そして3000年と言う繁栄の終焉はある日やって来たのです
それは今から6300年前の鹿児島沖の海底火山(鬼界カルデア)の大噴火によるものです
鬼界カルデア.JPG

鬼界カルデアの火山灰層
鬼かいカルデア.JPG

黒潮の民が築いた南九州に培われた文化は火山灰に埋もれてしまいましたが、その文化と民は黒潮の流れに沿って日本列島の太平洋側に受け継がれているのです

その痕跡は

高知県大正町、四万十川の支流の辺であの上野原遺跡で発見された物と同様の磨製石斧が貝殻紋様の土器と他の縄文土器と共に見つかったのです
土佐で見つかった石斧.JPG

土佐の土器.JPG

黒潮の流れる和歌山でも磨製石斧が見つかっています

4500年前の縄文時代中ごろの遺跡(東京ニュータウン遺跡)から大量の縄文土器と共に南九州の丸ノミ石斧の技法を活かした磨製石斧249本が見つかったのです
東京の石斧.JPG


これらの事は

黒潮の民は南九州に独自の文化を築き、森を切り開く道具を携え高度の航海術で黒潮に乗って東へと散らばって行き日本列島の太平洋側の地に辿り着き、その地の人たちと交じり合って生活していたことを物語っています

そして、

さらに港川人の骨の分析により分かった事は、日本列島の南からやって来た人々の遺伝的要素がその後の縄文人に確実に受け継がれているというのです
港川人がそのまま進歩して縄文人になったと考えても不思議ではないと言えます(諸説あり)

黒潮の民が日本列島にもたらした知恵は北からやって来た人々の知恵と交じり合い縄文文化繁栄の礎を築いていたのです・・・・おわり

2017年08月17日

12000年前黒潮に乗って南の海から日本列島へやって来た黒潮の民とは(2)

【日本人誕生の物語を辿る(2-2)】

(先回までの話)
12000年前黒潮に乗って南の海から日本列島へやって来た黒潮の民とは、そして縄文時代の初め南九州の上野原遺跡に見られる文化と繁栄をもたらした民とは南方から来た可能性があります
沖縄の港川人とワジャク人(インドネシアのジャワ島ワジャク村)の遺跡の頭蓋骨との類似性と
丸木舟を作る為の道具「丸ノミ石斧(せきふ)」の分布がそれを裏付けています

それではインドネシアのジャワ島ワジャク村に住んでいたワジャク人を取り巻く環境について考察してみましょう
まず氷河期でもジャワ島は暖かく住みやすい環境だったと考えられています

氷河期に北半球は分厚い氷で覆われ海水面は今より100m以上も下っていたため東南アジア一帯は陸続きになっていた事でしょう

幻の大陸「スンダランド」です
スンダランド.JPG


約10万年前にアフリカを出発した現代人の先祖は陸伝いにこの大陸に辿りつけたのです
アフリカからスンダランド.JPG


スンダランドの北部に当たったであろうボルネオ島のニアー洞窟で、3万年前以降のスンダランドの人たちの暮らしぶりを見ることが出来ます

出土した骨から人々はサイやイノシシ等を狩猟していた事が分かりました
およそ2万年前の最寒冷期を境にスンダランドの繁栄は終りを迎えることなります
地球温暖化によってスンダランドは水没してしまったのです

その結果、生まれた漂流民の一部がフィリピン沖で発生する黒潮に乗って沖縄へ来たと考えられます
その漂流民の中には沖縄の港川人につながる人々がいたという事になります
それを裏付ける資料として以下のものがあります
フィリピン国立博物館にある4000年前の丸ノミ石斧は沖縄で出土した石斧と共通点があるのです
フィリピンの石斧.JPG


さらに12000年前には温暖化による海流の変化によって沖縄から南九州の大地には黒潮に乗って到達出来るようになったと考えられます
黒潮が南九州に導く.JPG


それは沖縄と南九州各地で発掘される丸ノミ石斧の類似性からそれはうかがいしれます
丸ノミ石斧の分布1.JPG


そして今から9500年前南九州の上野原に日本列島で初めて規模の大きい定住集落を築いたのです(諸説あり)
上野原の人々は丸ノミ石斧の技法を活かして森を切り開く道具を作りました
定住生活.JPG


黒潮の民がもたらした丸ノミ石斧は森を切り開いていく中での道具としての形を変えていったのです
石斧への用途.JPG


7500年前の地層から高さ50cmもある弥生時代と同じ様な壺型土器が出土しました
縄文時期の弥生時期の壺.JPG


このことは既にこの時代に稲に相当するような穀物類の栽培をしていた可能性が出てきたということです

遺跡の土のプラントオパール分析によって明らかにされた事はアワ、ヒエ、ハトムギ等の雑穀がこの上野原で栽培されていたというのです
ひえ.JPG


今から9500年前、上野原集落の人々はは周囲を豊かな森に囲まれて丸木舟つくりの技術を受け継ぎながらここで定住生活を始めたのです
そして3000年という長い繁栄がもたらされたです・・・つづく

2017年08月16日

12000年前黒潮に乗って南の海から日本列島へやって来た黒潮の民とは

【日本人誕生の物語を辿る(2-1)】

12000年前黒潮に乗って南の海から日本列島へやって来た黒潮の民がいます
彼らは南九州の地で独自の文化を築き上げましたがある時を境に忽然と消えてしまいました
6300年前の九州の南にある薩摩硫黄島を火口の一部とする海底火山の噴火によるものです
その噴火のよって集落は完全に埋もれてしまったのです
縄文時代の初め南九州で花開いた文化の担い手である黒潮に乗って日本列島にやって来た知られざる民の物語です
その当時(約2万年前)の日本列島は氷河期の真っ只中でした
氷河期の日本.JPG

では黒潮に乗って日本列島にやって来た民によってつくられた9500年前の集落跡「上野原遺跡」を紹介します(南九州の地図の丁度緑色の矢印の箇所)
上野原遺跡.JPG

上野原遺跡地図.JPG

上野原土器は日本列島では弥生時代に普及する壺型土器より5000年以上早い時期の物です
上野原の土器.JPG

遺跡の家の周囲から見つかった調理した時の炉の跡は今も南の島々で行われている石焼き調理法を彷彿させる
さらに燻製を作った跡も見つかる
調理法.JPG

最も文化の特徴を現した貝殻の紋様を刻んだ土器です
貝殻紋様の土器.JPG

12000年前の丸ノミ石斧(せきふ)は丸木舟を作る為の道具
丸木舟を作る為の石斧.JPG

丸ノミ石斧の分布
丸ノミ石斧の分布2.JPG

沖縄本島具志頭村の港川遺跡で発掘された氷河期が終わりを迎える頃(18000〜16000年前)に生きた港川人が発見されています
遺跡から発掘された港川人とワジャク人(インドネシアのジャワ島ワジャク村)との頭蓋骨を比較したところ、大陸の遺跡から発掘された頭蓋骨より類似する所が多かった
特にワジャク人の頭蓋骨の眉間の出っ張り、頬骨の出っ張り等の特徴が港川人と似ていると言われている
港川人と似ている.JPG

日本人は南方から来たのではないかという思いがわいて来る・・・つづく
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定年退職後の日々
定年まであと何年と数える歳になりにけり。定年後も元気で働きたい親父です(現在は過ぎ去りし願望に似たり)・・時々(我流)短歌も
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