2017年09月19日

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO3 ・・外地労働移入者の推移について

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO3
・・外地労働移入者の推移について

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1・・映画「軍艦島」の文中にある以下の事柄をもっと掘り下げたくなりました

「つまり現在日本在住の特別永住権を与えられてる在日韓国朝鮮人は強制連行によるものではなく、
@仕事を求めての密航・自由渡航により来日し
Aそれらの人々による自然増加したもの
なのです」

労務動員とは別に(ある意味半島から逃れるように)何故、日本列島に来なければならなかったのか?という素朴な疑問と、何故反日を叫びながら日本に居座わらなければならないのかという疑問がわいて来たのでその事にも今回少しふれたいと思います

【外地労働移入制限と解除】

外地労働移入者の歴史的推移としては以下にある通りです

1876年(明治9年)日朝修好条規により留学生や亡命者を日本は朝鮮より受け入れました
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「韓国併合以前の朝鮮人の日本在留状況」

韓国併合以前にも半島南部に住む朝鮮人が留学生や季節労働者として日本に在留していました

「併合当初の朝鮮人の在留状況」
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併合当初の朝鮮人の在留は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で単身者が多い出稼ぎが主流でした

次第に家族を呼び寄せ家庭単位で永住もしくは半永住を志向するようになりました

当時の朝鮮国内の賃金と比較すると破格の高収入であった為、日本での生活は「川辺や湿地帯に集落を形成」して住むという劣悪な状況でしたが、それにも甘んじて生活を営んでいたのでしょう

「韓国併合以降の移民数増加傾向」

1919年4月には日本への移民が制限されるようになりました(朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により)
1920年にはその制限にも係わらず約3万人の朝鮮人が在留していました
1925年10月には渡航制限の実施にも係わらず
1928年には移民数が増加しました
1929年から水害や干害が続きさらに国外移住者がさらに増えました
1930年には約30万人の朝鮮人が日本に在留していたのです
1933年当時朝鮮人の朴 春琴代議士によると年間約5万人の朝鮮人が日本で増加して問題になっていたといいます
1934年10月30日には朝鮮人移入阻止の為、朝鮮満洲開発と密航の取り締まりの強化に至ったわけです
(岡田内閣の「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定)

「日中戦争期の労務動員計画」
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1937年に日中戦争勃発にともない
1938年3月朝鮮人渡航制限の解除を要請し1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正にいたりました
1940年、日本政府は「朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件」で
@労働者の朝鮮への往路旅費および帰郷旅費は雇用主が負担
A雇用主は朝鮮の技術向上を目的に必要な知識・技能を授ける事
B雇用主は徳を養う事
C雇用期間は5年以内
などの条件を日本陸軍に通達したといいます
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「太平洋戦争期の労務動員」
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1944年9月から内地から遅れる事、5年後に外地でも国民徴用令が施行し1945年3月までの7か月間実施されましたが

1944年9月から始まった朝鮮からの労務動員は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど増加は無かったとも言われています

【在日韓国朝鮮人の半島帰還】

終戦後ほとんどの朝鮮人は半島に帰還したはずですが
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「現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である」
(昭和34年7月13日 朝日新聞)

上記の記事の通り総計約61万人の在日朝鮮人は自由意思によって在留した者です(徴用労務者245人以外は自由意志で日本に来たという事になりますしその自由意志が法に触れるならば密航になりますよね)

さらに現在日本在住の特別永住権を与えられてる在日韓国朝鮮人はいつの時点か不明なれども
@仕事を求めての密航・自由渡航により来日し
Aそれらの人々による自然増加したもの
なのだという事です
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半島に生活基盤があれば真っ先に帰還していたはずですから・・ね
今の朝鮮総連となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」
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(まとめ)

韓国併合以前においても留学生や季節労働者として日本は朝鮮人を受け入れてきたようです

韓国併合以後も受け入れる姿勢は変わりませんでした
というのも半島から来る人々のほとんどが生活に困窮した人々だったのですから(中には政治的亡命者もいたでしょうし犯罪者も、もしかしたらいたかもしれません)

出稼ぎから日本に定着して家族を呼んで一家を構えた人々もいたんだろうと思います

そういう人々は戦後、半島に帰らず日本の地に馴染んで行ったんでしょうね(中には半島に帰れないそれなりの事情を抱えている人もいるかもしれませんが・・・)

外地労働移入者の推移・・おわり

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2017年09月18日

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO2 ・・在日韓国朝鮮人強制連行の嘘

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO2
・・在日韓国朝鮮人強制連行の嘘

在日韓国朝鮮人がよく口にする「強制連行によって無理やり日本に連れてこられた」という主張について考察していきたいと思います

【朝日新聞 昭和34年(1959年)7月13日2面】
朝日新聞に以下のようながあります

「日本統治時代の朝鮮人徴用は、第二次世界大戦中に日本(大日本帝国)が日本統治時代の朝鮮において朝鮮人労務者を1944年9月労務動員した」

しかし韓国併合時代に朝鮮人が朝鮮系日本人だった当時、戦時中の朝鮮人に対する動員(労務動員)または徴用を「強制連行」と表現することには異論があります

【在日朝鮮人運動史研究家の金英達氏によれば】

「強制連行」という言葉には疑義を唱えるのは在日朝鮮人運動史研究家の金英達氏です

「強制連行」の言葉は人によってまちまちな受け止め方がなされていますが「労務動員」の強制性の有無について問われるとの認識を持たれておられるようです

「強制連行」の意味するところの実質や程度について共通理解が確立されないまま「強制連行」という言葉だけがひとり歩きしているように思うと指摘しておられます

「強制連行」とは別に「朝鮮人徴用」という言葉がありますがこれは大戦中に日本統治時代の朝鮮で朝鮮人労務者を国家総動員法により朝鮮半島でも1944年9月から「労務動員」した事です

戦中の労務動員について「朝鮮人労働者移入」ともいわれています

このような「労務動員」あるいは「※徴用」を「強制連行」と表現することには異論があるようです

※徴用とは
戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること

金氏は戦時中の朝鮮人の強制動員については「戦時動員」を使い、そのなかの具体的な暴力的なケースを「強制連行」とすることを提案しています

【鄭 大均氏の主張】

「首都大学東京都市教養学部特任教授、韓国系日本人(1996年)」(2004年に日本に帰化)

朝鮮人の労務動員者を「強制連行」と呼ぶのは「日本人の加害者性や朝鮮人の被害者性を誇張しすぎている」として当時の朝鮮人は大日本帝国の国民であり日本人男性が戦場に送られていたのを代替するものとして朝鮮人の労務動員があったとしています

【徴用志願者「崔基鎬氏(韓国の加耶大学校客員教授)の証言」】

戦時中に自らが三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬氏の証言(徴用を志願するケースもあったんですね)

当時1000名の鉱夫募集に対して7000人の応募者が殺到したために1000人が選考試験を受けたそうです
「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って元気旺盛そのものであり手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出しショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言しています

北朝鮮と朝鮮総連は「徴用」を「強制連行」と言い換えるが、実態はまったく異なると批判しさらに

北朝鮮が「日帝に強制連行されたのは750万人」と主張したのを「でたらめ」であるとして、その理由を当時徴用に応募した者は南朝鮮出身者であったとし北朝鮮地域出身者は1%にも満たないと述べた

大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史調査」では1939年より1945年までの朝鮮人移入労働者は72万4727人である事にも根拠をおいて実体験と合わせて反論しました

北朝鮮と朝鮮総連は強制連行と主張するが、強制連行か、志願か、または徴用に対する応募であったかは主観的判断によるとも主張し

国民徴用令に基づく徴用または挺身隊の志願者が多かったのは明白な事実であって、それらすべてを強制的に連行したというのはおかしいとも批判しています

また自身の徴用志願の体験を韓国の学者に語っても、その学者は「新聞で読んだ話は正反対」だとして知人の実体験に基づく証言よりも新聞の宣伝を信用するのであると述べています

【山田昭次立教大学名誉教授】

1980年代には「朝鮮人強制連行」と論文で記していたが2005年の共著『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店)で「朝鮮人戦時労働動員」という呼称を使っています

同書で山田氏は「朝鮮人戦時労働動員」を日本内地に限定し軍事動員を除外した戦時動員の呼称としたのです

【ある在日朝鮮人三世(帰化人)の話】

(軍艦島に関連した)産業革命遺産の強制労役 日本の対応「検討中」 (2016.7.3 朝鮮日報)」の記事について・・
世界遺産委員会で日本の代表は、「本人の意思に反し動員され過酷な条件下で働くことを強要された数多くの韓国人とその他国民がいた」と英語で発言しましたが

この英語の発言の中の「forced to work」という表現について岸田文雄外相は採択後の取材に対し「forced to work」という発言は強制労働を意味するものではないと述べ政府の公式見解を改めて確認した

さらに菅義偉官房長官の発言からも徴用は強制労働ではないとの日本の見解はこの先も変化はないとみられると「朝鮮日報」の見解を伝えてくれました

【結構、高給取りだった朝鮮人の労務動員者】

昭和19年頃の九州の炭坑での賃金は1日平均5円とされていましたが、これに手当てが付加されるので月収は150円〜180円、勤務成績が良ければ200円〜300円にもなったといいます
『炭山に於ける半島人の労務管理』(大内規夫)による

朝鮮の親元への送金や貯金(徴用時は強制貯金)も行われ半島労務動員者の送金は普通30円〜50円程度だったそうです
昭和19年(1944年)の巡査初任給45円の時代です
朝鮮からの出稼ぎとしてはこの上ない高給取りであった事をうかがい知ることができます

命がけで戦地で戦う当時の兵隊さんと比べても格別な待遇である事がわかります
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なぜ、労務動員数の総数が1300万人を超えるというのに外地労働移入数がたったの35万7000人なのか、これは区別でなければ差別だろうと言う声さえ起こりそうな実情だったようです

もっと早くに徴用をしてくれていれば稼ぎも増やせたという人々がいても可笑しくありません

【朝鮮半島からの出稼ぎも多かった】

当時、住み込みで三食ありつけて稼ぎも良いとなれば徴用を待ち望んでいた人がいても可笑しくありません

徴用されなくても内地に行って出稼ぎをするのは当時の朝鮮では当たり前だったのです

徴用者全体の内、外地移入者(外地の労務動員者等)はたったの2.8%ですが、これは日本人が朝鮮人や台湾人を強制的に連れて来たのではない事の証拠となりますので忘れないで欲しい数字ですね

劣悪な死と隣り合わせの過酷な仕事環境であったかもしれませんが、そこで働く人々のほとんどは内地の日本人であったという事です

徴用による労務ですから働かされたと感じる人もいたかも知れませんが、朝鮮半島の人々が収入面からも待遇面でも自ら納得ずくで徴用に応じた人々がいた事は想像に難くないのです

在日韓国朝鮮人強制連行の嘘・・・おわり

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2017年09月17日

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1 ・・映画「軍艦島」

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1
・・映画「軍艦島」

【「軍艦島」世界文化遺産に登録】

長崎県長崎市(旧高島町)にある端島(はしま)は炭鉱開発のために周囲を埋めたてられた要塞のような人工島です

1920年(大正9年)2月16日三菱造船長崎造船所で起工された日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから別名「軍艦島」とも呼ばれました

炭鉱で採炭される石炭は八幡製鐵所の製鉄用原料炭として供給し、日本の近代化を支え続けてきました

海底炭坑だった端島は日本で最先端の暮らし・未来都市であったそうです

1810年に石炭が発掘されて以来1887年に第一竪坑を深さ44m掘りましたが1890年当時の所有者(佐賀深堀領主だった鍋島孫六郎)が三菱社へ売却しました

2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました

登録の過程においても世界遺産委員会の21の国のうち、韓国は強く反発しました
「強制労働が行われた事実を無視したまま、産業革命施設と美化して世界遺産に登録することは世界遺産条約の基本精神に反する
これからも韓国の正当な憂慮が反映されるよう最善の努力をしていく」というものでした

韓国側は日本がこの施設で蓄えた国力で日清戦争などを引き起こし、朝鮮を植民地化したという認識を示したのでした

しかし日韓両国の登録を巡って21の委員国に対する激しい説得工作が繰り広げられた末のイコモスによる世界文化遺産への登録だったのです
その後、韓国では映画「軍艦島」が製作されたのでした
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【映画「軍艦島」】

「軍艦島」と言う映画について、柳昇完監督は次のように説明しています

2017年の韓国映画『映画「軍艦島」は日本統治時代、日本の端島(通称:軍艦島) に強制徴用され、そこから命をかけて脱出を試みる朝鮮人の物語を描いた映画で当時の軍艦島の時代を背景に創り上げたストーリーだ』

「創り上げたストーリー」と言っていますが、実際は「軍艦島」の宣伝用ポスターにあったキャッチコピーは「1945年、日帝占領期われわれはそこを地獄島と呼んだ」です

だいたい日帝占領期という表現を使うあたり歴史認識の相違を感じざるを得ないのですが・・

【「軍艦島」を「地獄島」と呼ばす意図はどこにあるのか?】

韓国側の視点がよく理解できる解説記事のなかに
@日本統治時代、多数の朝鮮人たちが強制徴用され、死亡した軍艦島の隠された歴史をモチーフに誕生
A一度入ると出ていくことができない牢獄で地獄と呼ばれて
いた軍艦島は朝鮮人には地獄



等など記載されています

この作品は日本人の不条理と残虐性を不確かながら必要以上に強調し、朝鮮人の被害者意識を多大に煽り立てる内容になっていると言っても過言ではないでしょう

そこで今回はまず日本に存在するようになった在日韓国・朝鮮人がよく口にする「強制連行によって無理やり日本に連れてこられた」という主張についての信憑性について触れたいと思います

【外務省と在日朝鮮人の共同発表】
 
昭和34年7月11日付 外務省資料-

以下は昭和34年の外務省と在日朝鮮人の共同発表の記事(つまり当時の在日も認めた公文書)は以下の通り。

@戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者やその間の出生によるものである

A残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である

B国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年3月の下関-釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間だった

(「朝鮮人徴用」という言葉のようにこれは大戦中の非常時に国家が国民を労務動員をかけるというもので日本統治時代の朝鮮でも朝鮮人労務者を1944年9月から「労務動員」しました
徴用を義務ととるか強制ととるか個別の判断だが少なくとも全うな日本人なら義務と受け取ると思う)

C終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、

北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している

戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である

(居残った人々は日本人として残った人々も少なからずおられたでしょうが大部分は朝鮮半島に今以上の事が望まれないので朝鮮人として日本に居座る事を選択されたのでしょうか?)

D現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である
(昭和34年7月13日 朝日新聞)
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【在日韓国・朝鮮人の人々真実】

つまり現在日本在住の特別永住権を与えられてる在日韓国朝鮮人は強制連行によるものではなく、
@仕事を求めての密航・自由渡航により来日し
Aそれらの人々による自然増加したもの
なのです

ちなみにこの報道は「在日朝鮮人徴用を強制連行という言葉で表わし在日韓国朝鮮人は被害者である」と主張してきた朝日新聞によるものであった事は驚きを隠せません

つまり今の在日朝鮮人の人々は太平洋戦争開始以前から既に日本に移住し敗戦後も帰国せずに日本残留を希望した者達と
戦後の密入国者ではないかと主張する多数の日本の知識人もいるのです

事実、韓国人は戦中・戦前日本へ渡った人々に対して同情せず「パンチョッパリ」と呼んで激しい民族内差別を行っています

そろそろ在日韓国・朝鮮人の人々は自ら日本に来た事実を明確にして捏造キャンペーンを止め自ら在日特権の悪習をきっぱり返上せねばならないと思います

そうでなければ在日韓国・朝鮮人の人々は日本人でなく朝鮮韓国人でもない「無国籍民族」として永遠に生きる事になるでしょう

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1
・・映画「軍艦島」 おわり

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2017年09月15日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15「資源を奪った」

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15「資源を奪った」

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「資源を奪った」について考察してみましょう

【「資源を奪った」】

 韓国の中学校歴史教科書には「日帝(大日本帝国)は金、銀、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」と書いてありますが実際はどうだったのでしょうか?

【朝鮮で資源開発が行われなかったワケ】

李氏朝鮮時代の19世紀から20世紀にかけて朝鮮半島は地下資源の豊富さが注目を集めていましたが、
@資源開発には莫大な設備投資が必要な事
A開発を行うと宗主国「清」から入貢を要求される

これらの事を懸念し開発は行っていなかったのです

朝鮮総督府が本格的に調査すると朝鮮半島は地下資源大国ではないことが判明し、当時最も重要な鉄鉱石と石炭の分布は一定していませんでした

【資源開発の乗り出しインフラを整備と雇用確保】

韓国の中学校歴史教科書での日帝(大日本帝国)による略奪についてですが盗掘したわけではなく、

政府の採掘補助金を受けて日本企業が進出したのであって、大規模な資本投下、技術開発を行い、大量の労働者の雇用を生み出しました

その結果、その雇用の数は朝鮮半島で昭和14年には22万人以上となっていました

【金の採掘の為、自前で送電設備(変電所を含む)建設】

「金」の採鉱、精錬には電気が必要で1938年から1941年までにつくった送電設備(変電所を含む)建設のため日本政府は公債5292万円(現在の価値で約1兆円)で資金調達しました

鉱山開発費も数億円かかりさらに1910年から朝鮮の人々がが手にした日本への金の売却代金(1936年までは銀を含む)13億でした(実は採掘した「金」を日本側は買い受けていた)
それを含めると全部で約20億円(現在の価値で40兆円)を日本の人々が朝鮮半島に注ぎ込んだことになります

「金」は昭和12年(1937年)の支那事変によって貿易決済のために必要となりましたが、米英との開戦によって貿易が激減し「金」が不要になり、日本政府は「金」の買取をやめました

これにより朝鮮総督府は朝鮮半島にあった1202箇所あった鉱山のうち、123箇所を残して残りはすべて廃鉱にしたのです

しかも満州国(1932年から1945年)が建国されると朝鮮半島の資源的価値はしだいに薄れて行ったと言われています

石炭は無煙炭であり※オンドル部屋の暖房用練炭が主用途で、金、銀、タングステンなどは日本側(政府と会社)が厖大(ぼうだい)な開発費を投じながら結局大赤字だったそうです
※オンドルとは
朝鮮半島で普及している床下暖房
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実際、東南アジアから輸入したほうがよほど安上がりだったのです

【禿山を造林事業で再生】

大正13年(1924年)時点での朝鮮半島造林事業統計
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1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万ヘクタールで、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部分だったのです
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朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼でした

しかし、地形調査の結果を受けて朝鮮半島は花崗岩台地の山岳地帯であり緑が育ちにくいことが判明したことから朝鮮半島の造林事業は新たな局面を迎えました

森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼしていました

そこで造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと1924年の京城日報で報じられています
※町=9917u=約100m×100m=10,000u
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一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多くありましたが、戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなったようです

【略奪どころが補助までしていた】

大韓帝国が1906年に初めて作成した国家予算は748万円にすぎなかったのに対し日本は1907年から1910年まで毎年2000万円から3000万円を補助しています

日本の国家予算の20%を越えたこともあります

併合後も毎年2000万円前後の資金を持ち出し、昭和14年になっても日本からの補充金と公債を合わせると全予算額の四分の一を占めていました

日本統治期間を通して日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は累計で20億7892万円ですが当時の1円が平均して現在の3万円とすると63兆円という天文学的な数字になります

【鉄道建設とダム建設による電力の供給事業】

また、大韓帝国時代から日本は※鉄道建設に力を注ぎ、その総経費は現在の価値にして10兆円以上になります
※朝鮮の鉄道建設とは
朝鮮総督府鉄道(略称は鮮鉄)は日本統治時代の朝鮮総督府が経営した鉄道である
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「朝鮮鉄道路線図(昭和11年)」
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民間資金もダム建設に投入され、有名な※水豊ダムだけでもその額は現在の価値で3兆円近いものです
※水豊ダム
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これによって生み出された豊富な電力を利用するために日本の多くの大企業が朝鮮北部に投資しました
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それによって朝鮮人の雇用を創出するとともに、付加価値の高い製品を日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにしたのです

資源の収奪どころか、日本は逆に税金をつぎ込み、朝鮮半島の産業を育成しました

おわり

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2017年09月14日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15 「主権、国王を奪った」……続編

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15「主権、国王を奪った」……続編

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「主権、国王を奪った」について考察してみましょう

【朝鮮国王を奪った】

日本は李王家を日本の皇族の一員としてお迎えし、併合時の純宗皇帝は李王となられて日韓の皇室が融合したのです

日本は李王家を手厚く保護しました
歳出項目に「李王家歳費」、毎年百八十万円が計上されていますが、現在の価値で約二百億円になります
※朝鮮総督府『施政三十年史』(国立国会図書館蔵)による

他の宮家の皇族費とは格段に差のある巨額です
さらに梨本宮方子女王が李王家の王世子・李垠殿下に嫁がれました
このこと一つをとっても、日本の「朝鮮統治」は植民地の王室をことごとく廃止した欧米列強の「植民地支配」とは根本的に違っていることが明らかです

終戦時、李垠殿下は密航してでも朝鮮に帰ろうとされましたが、韓国の李承晩大統領が許さなかった。李王朝を復活させず共和制国家(君主制ではない政体)をつくったのは韓国自身です。
 
【朝鮮(大韓帝国)の国家主権を奪った】

「日清戦争(1894年から1895年)」
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李氏朝鮮(1392年から1897年)は清の属国であり、国家主権はもともとなかったのです

朝鮮が近代国家として独立し、共に欧米列強の侵略に対抗することを望んだのは日本であり、それを許さぬ清との間で戦争になりました

そして日本が勝利し清と結んだ講和条約(下関条約)第一条には「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」と朝鮮の独立が明確に謳われています

ところが、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉(1895年)で日本が遼東半島の放棄を強いられると国内改革によって専制権力を奪われつつあった朝鮮国王・高宗はロシアと組んで巻き返しに出ました

朝鮮国王・高宗は朝鮮国内の親日・改革派を葬り、ロシアに朝鮮の利権を売り渡し、馬山にはロシア海軍の基地が建設させて、朝鮮独立が脅かされる事態に至りました

「日露戦争(1904年から1905年)」
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そして日露開戦、大韓帝国内では李容九が「一進会」を結成し日本との一体化こそが国を救う道であると朝鮮民衆に説きました

日本は日露戦争に勝利し,ポーツマス条約によって日本の韓国に対する優越権(ゆうえつけん)をロシアに認めさせました

白人大国ロシアに対する日本の勝利はアジア・アフリカの有色人種を狂喜させたのでした

【日韓合邦の嘆願書】

韓国統監府は日露戦争終結後の1905年第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁です

戦後※李容九氏は一進会百万人会員の名前で全国民への合邦声明書を発表、さらに韓国皇帝、曾彌統監(1909年から1910年第2代韓国統監)、李完用首相に対し「日韓合邦」の請願書を提出しました

※李容九とは
大韓帝国の政治家であり韓日合邦の推進者の一人、一進会を設立してその会長となる
アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであると主張した
疲労から漢城病院に入院後1912年に兵庫県武庫郡須磨町で悲嘆のうちに憤死しました

このときの韓国皇帝の詔勅には「韓日両国の親密なる関係をさらに進めて一家をなすことがお互いの幸福に通じる」として内閣総理大臣李完用に全権を委任し、大日本帝国統監寺内正毅との両国併合交渉に当らせると記されています

1910年に日韓は「韓国併合ニ関スル条約」を締結しました

このとき,朝鮮半島を治めるために韓国統監府に代わって設置したのが「朝鮮総督府」です

「朝鮮総督府」は朝鮮半島の軍事や行政のすべてを行いましたが,1945年,第二次世界大戦後に廃止されました

日韓併合条約は国家同士が当時の国際法や国内法に基づいて平和裏に締結した正式な条約なのです
日本が一方的に主権を奪ったのではありません

日韓併合は日本が一方的に進めたのではなく、大韓帝国の中にも日本との合邦を推進した人々が多くいたのです

【証言】

『アメリカの鏡・日本』の著者ヘレン・ミアーズ(1900年から1989年)も

「日本が韓国を併合したのは、新皇帝が懇願したからだ
日本は一つ一つ手続きを外交的に正しく積み上げていた
そして宣言ではなく条約で最終的な併合を達成した
列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法な手続きを踏んでいなかった」

と記しています

J・クロフォード英国ケンブリッジ大教授の2001年の国際学術会議(アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催)でアメリカ、イギリス、韓国それから日本の学者が集まり日韓併合の歴史をどのように捉えるかという議論の中で

「自分で生きて行けない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むというのは当時よくあったことであり日韓併合条約は国際法上不法なものではなかった
強制されたから不法であるという議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」

と述べて韓国側の主張は完全に崩れました

イザベラ・バードもこう書いていたのです。

「わたしは朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない
ただしそれには左に掲げたふたつの条件が不可欠である
@朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので外部から改革されねばならない
A国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」

おわり

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2017年09月13日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.14「主権、国王を奪った」……「元祖・反日の英雄」安重根とは?

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.14「主権、国王を奪った」……「元祖・反日の英雄」安重根とは?

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「主権、国王を奪った」について考察してみましょう

【英雄と呼ばれるテロリスト】

伊藤博文公(初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代※韓国統監を歴任)が安重根によって暗殺されたと言われています
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日本を取り巻く情勢は日露戦争(1904年から1905年)が終結してまもなくといった時でした
場所は※大清帝国満州のハルビン市 ハルビン駅にて1909年10月26日の事でした
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※大清帝国とは
1616年に満洲において建国され1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝
※韓国統監(府)
韓国統監府は第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁
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【伊藤博文公が「日本の韓国植民地化の親玉」の嘘】

伊藤博文公は日清韓の連帯で西欧列強の侵略を防止しようと言う主張の持ち主でした

また一方、安重根氏も東洋から西洋勢力を排除し韓国、中国、日本の3国が手を結ぶ事を主張していましたし日本の皇室に対して尊敬の念いだいていたのです

反日思想のようなものは欠片も持っていなかったのです

伊藤博文公と非常に近い考え方を持つ安氏に誤解が有り暗殺に及んだという見方もあります

当時、朝鮮半島支配について軍部出身者を中心とする日韓併合賛成派に対して大韓帝国を伊藤博文公は一時的に保護国化して統治するだけで最終的には朝鮮人による自立した国家めざしていました

実際、新渡戸稲造氏の『偉人群像』で伊藤公が語った言葉が残されてます
「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」
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【安重根氏は反日でなく日本皇室に尊敬の念を抱いた】


伊藤公は朝鮮を保護国とするのは国力がつくまでの一時的なものと考えていたと思われます

安氏は伊藤公の朝鮮人を高く評価するが故に併合に反対する意図を酌めず暗殺に至ったという考え方が妥当ではないかと思われます

問題のひとつに安重根氏が伊藤公のことを「明治天皇の意向に反した政策を朝鮮半島で行う逆臣」と思い込んだ点にあります

現実には伊藤氏こそが※李垠氏を日本に招いて教育した本人であり、しかも日韓併合反対派の中心人物だったのです
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※李垠氏
(1897年から1970年、大韓帝国最後の皇太子で日本の王族、李王。大韓帝国時代の称号は英親王。李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝高宗の第7男、妃は梨本宮守正王方子様)

そして、安氏は最期まで明治天皇は東洋の平和と韓国の独立を願っていると信じ続けていたのでした

伊藤公は胸・腹部に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れました
その後、伊藤公は少しブランデーを口にして、しばらく意識がありましたが犯人は誰かと聞き、ロシア官憲からの報告でそれが朝鮮人だと聞いて「そうか、馬鹿な奴だ」と一言、短く言ったそうです
伊藤公は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡しました

【韓国における「元祖・反日の英雄」安重根の真実】

しかし伊藤博文公暗殺後は山県有朋の主導により日韓は併合への道を突き進むことになりました
まことに残念ながらこれが現実なのです

「旅順での裁判」

安重根は暗殺事件の裁判で、日本が、大韓帝国(=李氏朝鮮が1897年から1910年まで使っていた国号)の李垠皇太子の教育に尽力したことに触れ、国民が感謝していると述べています
日清・日露戦争を通じて、日本が朝鮮半島を含む東洋の平和を守ったことも評価しています
明治天皇が韓国の独立をはかり、平和の維持に努めたことも理解していたようです

安重根は旅順の関東都督府地方法院で、まず1909年11月13日(伊藤博文の葬儀から9日後)予審を受けました
これが11月16日に結審した後に重罪公判に移されました

共犯の疑いのある曹道先、禹徳淳、卓公圭、金麗水、金成玉、劉東夏、鄭大鎬、金衝在の8名のうち曹、禹、劉の3名以外は不起訴となりました
殺人罪および合併罪、殺人未遂罪を問われた本裁判も、引き続き関東府地方法院で行われ、第1回公判は1910年2月7日で、5回目の公判で最終弁論となり、公判開始からちょうど一週間後に判決の言い渡しとなりました

安容疑者は下記のような伊藤博文公を暗殺した15の理由を列挙した
暗殺理由.JPG


1:明成皇后を殺害した罪
※閔妃殺害事件のことですが、伊藤博文や日本政府が直接関与したという資料はありません

事件直後に行われた朝鮮国内の裁判では、大院君を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争としての判決が出ているし、大院君の部下である李周會氏が「自分が閔妃を殺害した」と供述し処刑されています

それに、暗殺団は閔妃の写真を持っていたので彼女だけを殺したとされていますが、現在ではそれは別人の写真とされています
あの広い王宮(景福宮)で顔も分からずに閔妃だけを正確に暗殺できるのは非常に近しい人による凶行を物語っています
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2:1905年11月、韓国を日本の保護国にした罪
※1905年の日韓保護条約(第2次日韓協約)は日露戦争の講和条約で「日本は朝鮮を指導、保護、監督する権利を有する」という条項が基になっています

日本は朝鮮を保護するようになった原因は1895年の下関条約で清から朝鮮(大韓帝国)は独立した後においてもロシアに擦り寄るなどしており、このような朝鮮(大韓帝国)の行動によって北東アジア情勢が混乱していました
東洋の治安と朝鮮の保全のために、この保護条約は必要なものだったのです

3:1907年丁未七条約を強制的に結ぶようにした罪
※高宗は第2次日韓協約を無視し1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り日韓保護条約の無効を訴えたのでした
これの事件で激怒した伊藤博文は、高宗に謁見し電報の写しを見せながら、『かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径(しょうけい=近道)なるにしかず。』と迫ったと言われています

4:高宗皇帝を退位させた罪
※実は退位を最も強く迫ったのは、朝鮮の農商工部大臣、宋秉o氏だったのです
宋秉o氏が皇帝高宗の譲位運動を展開、結果的に高宗を退位に追い込んだ
(高宗皇帝を怒鳴りつけたとも言われています)

5:軍隊を解散させた罪
※詔書を出したのは、純宗皇帝(高宗の子)だと言われています
理由は両班制度が残る軍隊は近代戦では役に立たなかった為と、後に徴兵制を実施する為に必要だったのです

6:罪のない人々を虐殺した罪
※高宗の退位と軍隊解散に対して決起した「義兵」を、日本軍が殺した事について罪だと言っているのですが、日本軍の襲撃に対し鎮圧する自衛権の行使は当然のことです
それに、その「義兵」は何故か、朝鮮民衆、日本人、シナ人を襲うなどしていたのでした
罪のない人々を虐殺したのは、韓国の「義兵」だったのでした

7:韓国人の権利を剥奪した罪
※韓国人の権利の剥奪したですが朝鮮の人々に直接関係する改革が日本の強い後押しで行われました

封建的身分制の廃止・奴婢の廃止・人身売買禁止・拷問廃止・罪人連座法廃止・早婚禁止・寡婦の再婚を許諾・・・身本制度での下層階級の差別を無くしたことを何故[韓国人の権利を剥奪]と言っているのか理解に苦しむ次第です

8:韓国の教科書を燃やした罪
9:韓国人たちが新聞に寄与しないようにした罪
※8と9ですが、教科書と新聞の規制ですが、保護国になった状況下で既得権益を失った支配者階級である両班の反日活動の一環で行われている反日的排他的教科書や反日煽動新聞を取り締まり改革を進める事は当然な事です

10:(第一銀行)銀行紙幣を強制的に使用した罪
※第一銀行券の発行ですが、第一銀行券の使用は1905年で、伊藤統監の就任(1906〜1909)以前に発行しています
それに、それ以前の朝鮮は清国の属国だった為に通貨の発行権がなく定額の銅銭しかないような有様で紙幣どころか貨幣経済以前の状態だったところを紙幣流通社会へと導いてくれたのが日本だったということです

11:韓国が300万ポンドの負債を抱えた罪
※国債2300万円を募り官吏の間で分配しこの時、土地も奪ったと主張しているのですがこれらは根拠がはっきりしないのです
それに※露館播遷(ろかんはせ)で高宗がロシア公館で政務を行っていた時に、ロシアに売り払った鉱山採掘権・漁業権・森林伐採権・鉄道敷設権・慶南・馬山浦の栗九味租借などを買い戻したのは、日本国民の税金です
※露館播遷とは
李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う
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12:東洋の平和を破った罪
※大韓帝国皇帝を退位させる等の行為を言っていますが、大韓帝国皇帝の高宗は日露戦争中はロシアに通じ日本軍の鉄道・電信の破壊を内密に命じる等の明確な日本に対する背信行為を行っていたのです

13:韓国に対する日本の保護政策を糊塗(一時しのぎにごまかすこと)した罪
※親日派と協力して保護の名目で大韓帝国に不利な施策を行った(と思っている)事についてです。
これも1〜12までの事への誤解によるものだと言わざるを得ないのです

14:明治天皇の父上である孝明第121代天皇(1831年から1867年)を殺した罪
※孝明天皇の暗殺(?)ですが、考明天皇の崩御は1866年12月25日で、当時の伊藤博文は長州の三田尻にいましたし、そもそも宮中に入れる身分ではありません
それに暗殺論は推論に過ぎず孝明天皇が暗殺されたという記載がされた史料はありません

15:日本と世界を欺いた罪
※ハーグ密使事件に対して日本国が国際社会に「大韓帝国は無事です」と宣伝したことを指しているのですが、
当時は世界最貧国で清国の属国で権力闘争による王族の殺し合いや、それらの悪政による両班の横暴、賄賂、人身売買、盗賊の横行など国とは言えない状態だったのです
それを日本が保護国とすることで治安が確立し、朝鮮人の生活は改善されました
この事を指して、日本国は国際社会に向かい、韓国は無事であると説明したのです
※ハーグ密使事件
大韓帝国が密使をハーグの第2回世界平和会議に送り、世界に向けて「日本から外交権を取られています、助けて下さい!」とアピールした事

理由の1〜15についてですが、ほとんど安重根氏の誤解や無知によるものであると言わざるを得ないのです

「元祖・反日の英雄」安重根とは・・・おわり

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2017年09月11日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.13 「命を奪った」……「朝鮮のジャンヌ・ダルク」とは?

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.13
「命を奪った」……「朝鮮のジャンヌ・ダルク」とは?

「朝鮮のジャンヌ・ダルク」とは?中央日報 2002.02参照

【「三・一独立運動」】

1919年2月21日の午後高宗が崩御し、高宗は日本人によって毒殺されたという噂が流れ、独立運動を起こそうとする動きが強まった

1919年に「三・一独立運動」が勃発し朝鮮総督婦から各学校に対して休校命令が下され柳寛順女史(当時16或いは17歳とも)が通学している梨花学堂(後の梨花女子大学校)も休校となりました
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柳寛順女史は故郷の天安に帰り教会関係者などと万歳デモを計画しました
そして周辺に協力を求めるため数日間歩き回り友人たちとこの運動に加わりました

そして、この運動の鎮圧中に死を迎えたという事で特に人々の記憶に残った女生徒となりました

【朝鮮のジャンヌ・ダルク】

柳寛順女史はこの運動を故郷の天安で行い逮捕起訴された後、懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去(一説には16歳とも)しました
柳寛順女史の切手の元になった肖像写真は逮捕後、警察署で撮影されたものだそうです
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柳寛順女史は後に「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄「ジャンヌ・ダルク」になぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ現在まで尊敬を集めています

一方で彼女についての実際の記録はほとんどなく、膨張され過ぎて伝えられてきたとも指摘されています

【柳寛順への日本の蛮行、誇張多い】

柳寛順研究家の任明淳氏は「柳寛順の最終刑量は、懲役7年でなく3年だった」と主張し「いい加減な事実が広まっており子供向けの伝記にまで膨張した話が掲載されている」と問題視しています

以下の話は韓国の教科書のくだりを織り交ぜたの文面になりますのでそれを承知で読んでください

4月1日、柳寛順女史は地元並川ピョンチョンの市場に集まった群集に独立運動の演説を行い(判決文にはそうした記述はありません)、日本憲兵隊の集会中止命令を無視して最後にはデモ行進に移ったといいます

日本憲兵隊はデモ鎮圧のために女性や老人などにも容赦なく発砲し柳寛順女史の父母も流れ弾に当たって死亡したといわれています

柳寛順女史は逮捕され、後にソウル西大門刑務所に移送、1審で暴力デモを主導した罪で懲役3年(一説には1919年6月30日懲役2年6ヶ月の判決を受けています)が宣告されました

韓国小学校の教科書には控訴審で柳寛順女史は裁判長と言い争いになり椅子を裁判長に投げつけるという事が書かれていますが記録によれば、

そもそも彼女は控訴せずに西大門刑務所に服役したことになっており、この武勇伝の真偽もかなり怪しげです

その為、法廷冒とく罪が適用され7年の刑期が求刑されたと教科書には書いてありましたが実際の刑期は3年でした
  
これが柳寛順女史の刑量になりましたが、減刑があり最終刑量は1年6ヶ月となったようです

しかしその後も教科書では大規模獄中デモを主導するなど抵抗を続けたとありますが、そもそもそうしたことが可能であったか疑問が残ります

そして1920年10月12日韓国の教科書ではデモ現場で負った傷と凄まじい拷問が死因と説明しています

西大門刑務所内で「大韓独立万歳」と叫び17歳(一説には16歳)の若さで病死したといわれています

しかし「大韓独立万歳」と叫んだという伝説は誰がその言葉を聞いたのか、これまた不明なのです

梨花学堂時代、柳寛順女史の級友だったポガック(99、僧侶)さんの証言によると死亡して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったそうですが、死体は腐っていましたが、四肢は切断されてはいなかったという話でした

任氏は「柳寛順への盲目的な思い込みからこうした、いい加減な事実が広まり子供向けの伝記にまで掲載された」とし「今は、冷静になって史実を確認すべきだ」と話しています

「朝鮮のジャンヌ・ダルク」・・おわり

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韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.12「命を奪った」……その(三)

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.12「命を奪った」……その(三)

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「命を奪った」について考察してみましょう 「命を奪った」……その(三)です

【韓国の教科書にみる「三・一運動」】

『朝鮮独立運動血史』には日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧を行ったと記されています
ところがそのほとんどは裏付けのない伝聞にすぎません

韓国の教科書の記す犠牲者の数も「三・一運動」の犠牲者数は今も正確なところは不明であるにも関わらず、韓国の教科書に記されている内容は朴殷植氏著「 朝鮮独立運動の血史 」の死者7509名、負傷者1万5961名を根拠にしていると思われます

この本の中で本人が「 今回の独立運動は…確実な実態調査を得ることは難しいいわんや、海外にあってただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるものだけであってみれぱ、その事実調査の困難さは推して知るべきであろう 」と断っているのです

ちなみに総督府の調査では、死者553名・負傷者1409名であり、韓国側の主張とは10倍以上もの開きがあるのです

韓国側が著者が海外にあって「新聞報道や個人の伝聞的報告」だけで書かれた『 朝鮮独立運動の血史 』の数字だけを何の疑いもなく教科書に褐げるのは公平さを欠いているのは確かです

そして三・一独立運動中いくつかの悲劇が発生しましたが最も有名なのは水原岩里事件ではないしょうか

【堤岩里 3・1運動殉国記念館】
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【23人合葬墓】
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【水原岩里事件(提岩里教会事件)とは】

※水原岩里事件(提岩里教会事件)とは
1919年4月15日、三・一独立運動中に起きた事件で日本統治下の朝鮮京畿道水原郡郷南面提岩里(現在の華城市郷南邑提岩里)で29人の住民が軍隊によって殺害された事件です

朝鮮半島で1919年3月1日に始まった「三・一独立運動」は
当初、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業(ストライキ)、独立への請願、閉店などの平和的な手段によって行なわれていたのだが、次第に暴動の様相を呈していき、警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ暴徒化していったのです

そんな中で朝鮮京畿道水原郡(現在の華城市)では、警察の駐在所が襲撃、破壊されて日本人警官2名が殺害され、
面(村)事務所、郵便局、駅、金融組合、日本人小学校、日本人家屋が襲撃、破壊、もしくは放火されるなどの被害が出ていました

治安維持のため有田中尉率いる歩兵部隊12名と警察官2名の計14名が、4月15日、デモ首謀者逮捕の目的で提岩里にやって来ました

住民のうちキリスト教徒と天道教徒23人を堤岩里キリスト教会に集めて尋問していたところ、1人が逃亡しようとしたため、これを防止したところ、ほかの1人も襲いかかってきたため2人を斬ったのでした

すると残りの者すべてが木やイスなどを持って襲ってきたため銃撃し、結果的に23人全員を射殺するに至りました

この混乱のなか、西側隣家より出火し、暴風のため、すぐに教会堂に延焼し、20戸あまりが焼失したのでした

堤岩里の朝鮮人らは、有田中尉率いる歩兵部隊等の人数のの二倍か三倍位いたので、有田中尉が甘い対応をしていたら、部下の隊員等は全滅していたでしょう

混乱した現場では出火自体も失火の可能性も否めない状況は明らかです

日本側では「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。・・・之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上に報告している

確かに上文では放火の可能性も少なからずあるのであって失火かもしれないし放火であるにしても誰によるものかは不明、殺生に関してはやむを得ないとしても放火は認める事は情勢上、出来ないので失火と認定しましたという意味のことを報告しているようです

【実際の日本の対応、日本の裁判の公正に感激】

そのような悲惨で悲しい結末はありましたが「三・一運動」における実際の日本の対応は被疑者1万2668人に対して
起訴された者6417人
不起訴により釈放3789人
残り1,151名は調査中とあります(1919年5月8日時点)

一審判決が完了した被告人は4026人
その内3967人が有罪判決を受けました(1919年5月20日時点)

しかし日本人憲兵六名と警官二名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑は一人もなく15年以上の実刑もなく3年以上の懲役がわずか80人で、しかも減刑と赦免で刑期が半分以下となりました

この時逮捕された「三・一運動」の主要リーダー崔麟、李光洙、崔南善、朴煕道たちは日本の裁判のあまりの公正さに感激し、やがて強烈な日本ファンとなって、1930年代の言論界をリードすることになります

免れた活動家たちは外国へ亡命し彼らの国内における独立運動は挫折したのでした
その後の朝鮮半島地域は日本の統治に服し、1945年(昭和20年)の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こりませんでした

「命を奪った」・・・おわり

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2017年09月10日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.11 「命を奪った」……その(二)

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.11
「命を奪った」……その(二)

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「命を奪った」について考察してみましょう 「命を奪った」……その(二)です

【「朝鮮独立運動血史」の記す「三・一運動」とは?】

「三・一運動」は1919年3月1日、京城(ソウル)の公園に宗教家33人が集まりその後、宣言を朗読し万歳三唱をしました

参加者はしばしば民族代表33人と言われています

独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年(大正8年)2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされています
独立宣言.JPG


『朝鮮独立運動血史』には日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧を行ったと記されています
ところがそのほとんどは裏付けのない伝聞(人から伝え聞くこと)にすぎません

本文中には、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上る書かれています

そして韓国側は朝鮮の民族独立運動である「三・一運動」を日本が残虐な手段で弾圧し、多くの朝鮮人を虐殺したと主張しています

朝鮮側の犠牲者等は、以下の通りです
 
 単位(人)    参加者   死者   負傷者   

独立運動の血史 203万  7509 15849
朝鮮総督府   106万   561  1567

と、各機関により大幅に異なる。日本側の数値は各村役場毎に集計されたものであるのに対して、朝鮮側の数値はあの上海(※上海臨時政府の前身)の反日組織がまとめたものです

※上海臨時政府とは
大韓民国臨時政府とも呼ばれ1919年12月10日に宣言したが、日本政府ならびに連合国は現在も臨時政府を国家として承認していないため、国際法上の意味を持つに至っていない
臨時政府要人.JPG


先ず韓国側の「日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧」への反論として韓国の評論家、作家であり『親日派のための弁明』の著者である金完燮(キムワンソプ)氏も研究の結果、独立運動ではなく暴動であったと言っています

また、この裁判の結果は驚くべきもので、内乱罪に匹敵するものであるにも拘わらず、主犯8人が懲役3年で、有罪はわずか38人に過ぎず、死刑は皆無でだった事は斉藤総督の融和策によるものでした

【実際の「三・一運動」とは?】

実際は、日本の警察は運動に関しては平和的に対処し、破壊や殺人が発生した場合に武力で鎮圧したもので、韓国側の歴史記述は日本側の鎮圧ぶりを膨張している面があるとの意見もあります

発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進しました

道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って威力行動が展開されました

3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上ると言われています

瞬く間に全国に展開した暴動は、地方では農民たちが武装して村役場、警察・憲兵事務所、富裕地主等を襲撃する凶悪な行動へ転化して行きました

在朝鮮日本人に「日本へ帰れ」と投石して脅迫した事実はテロそのものであり、決して一般大衆から支持されたものではなかったのです

後に起こった「万歳デモ」は非暴力・無抵抗主義を標榜しつつ「三・一運動」の復活を意図したのが始まりだと言われています

※万歳デモとは
朝鮮半島(韓国併合当時の)で1926年李朝最後の国王純宗の葬儀を期して起された反日デモ

【「三・一運動」に欧米宣教師の影】

黄色人種間の分裂を図る欧米宣教師に煽られた朝鮮人キリスト教徒たちが暴徒化してしまったとも言われています
これに近代化で特権を喪失した両班や朝鮮の旧軍人らの不満分子が乗っかって広がった破壊活動でした
警察や憲兵が鎮圧するのに武器を使用したのもやむを得ない事でした

「命を奪った」・・・つづく

2017年09月09日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.10

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.10

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」
その(一)です
それでは今回は「七奪」のなかの「命を奪った」について考察してみましょう 「命を奪った」……その(一)です

【日韓五十年戦争論の虚構】

日清戦争(1894年7月25日〜1895年3月)により日本が清に勝利し、下関条約にて清へ李氏朝鮮の独立を認めさせました
これにより李氏朝鮮は清の支配から解放され、自主独立国家(大韓帝国)として歩みだすことになり、その記念として清への服属の象徴の一つであった迎恩門を壊し、そのすぐ隣に建設されたのが独立門です
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しかし、世界中で韓国だけが主張する「日韓五十年戦争論」というものがあります

それは日清戦争の原因となった※東学党の乱(1894年)から1945年までの五十年間、日韓は戦争状態にありこの期間中に残虐な日本軍は朝鮮人数十万人を虐殺したと韓国では教えているのです

この主張の根拠になっている著書「朝鮮独立運動之血史」は、朴殷植氏が1920年に書いた著書です

この本は元々、日本を攻撃するために悪意をもって著述されたもので日本の官憲や軍隊の蛮行がこれでもかとばかり書き連ねてありますのです

偏見と事実歪曲、数字の誇張に溢れた本と言うことは確かですが韓国ではこれを史実として教えているのです

朴は※「上海臨時政府」の二代目大統領≠ノなった人物でした

※上海臨時政府とは
大韓民国臨時政府とも呼ばれ1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮(韓国)の独立運動組織です
この組織は日中戦争(1937年から1945年まで、中華民国と大日本帝国の間で行われた戦争)勃発後は所在地を転々と移動し、最終的に重慶に落ち着きましたが、内紛が絶えなかったことから国際的な評価は得られず枢軸国・連合国双方からいかなる地位も認められず国際的承認は得られなかったのです

※東学党とは
東学は、朝鮮半島において1860年に慶州出身の崔済愚氏が起こした排外的な新宗教をいいます
当時、東学を信奉する者を東学教徒、その集団を東学党と呼んでいました

※東学党の乱とは
甲午(こうご)農民戦争とも呼ばれ1894年に朝鮮で起きた農民の内乱です
関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれています
なお、大韓民国では東学農民運動や東学農民革命と呼ばれているようです

「東学党の乱」は※閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行等の朝鮮政府の暴政に対する不平不満が爆発した上での蜂起でした

※閔氏とは
国王の正妃として強い権勢をふるい義父大院君との20年以上にわたる権力闘争により政局を大院君と共に混乱させた
縁故主義と汚職、国費の浪費するなど腐敗政治を行ったと言われている


【「朝鮮独立運動之血史(朴殷植の1920年に書いた著書)」の嘘】

朴殷植氏は「朝鮮独立運動之血史」の中で東学党の乱のことを「日本軍による東学党大虐殺」として称しています
そして日清・日露戦争以来、韓国は日本と50年間戦争し、そして最終的に日本の敗戦となり、韓国は勝利したと主張しているのです

さらにこの著書では「鎌やスキなどの農具を武器とした農民が蜂起して、政府軍や日清軍と交戦、9ヶ月以上にもわたり、死者30余万人を数え古今未曾有の惨状となった」の記述になっています

しかし

そもそも東学乱は日本に対する反乱でなく、李朝とその宗主国清朝に対する蜂起であり、反乱は日本軍が朝鮮半島に上陸する前に、すでに清軍によって平定されています。

東学党の乱が朝鮮政府軍や清国軍隊によって鎮圧された後日本軍の本隊が朝鮮半島に上陸したのであり、それまでは二個小隊(多くて100人程度の隊)しかいませんでした

【日本軍による朝鮮人軍用務労働者徴用を疑う】

さらにこの著書では「わが民衆(朝鮮人)を日露戦争の軍用務労働者として徴用しはじめ、これを拒否したものはロシアの間諜(スパイ)として罪におとしいれ、あるいは拘束し、あるいは拷問を加え、甚だしくは斬殺した」とあります

しかし日本で国民徴用令が制定されたのは1939年であり、1904年(日露戦争開戦当時)に他国の国民を徴用できるはずがありません

※国民徴用令とは
国民徴用令昭和14年勅令451号の国家総動員法に基づき1939年7月7日公布されました
戦時下の重要産業の労働力を確保するために厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたものです
1944年9月より朝鮮半島でも開始され1945年3月までの7か月間実施された
1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くはなかったとも言われています
『朝鮮人強制連行論文集成』に記録されている証言では、徴用令には召集令状と同じ重みがあったこと、北海道や樺太、九州の炭鉱等にで500人徴用されたという事でした

「命を奪った」・・・つづく
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