2017年11月06日

共同通信の恣意的な印象操作報道

共同通信の恣意的な印象操作報道
「首相、57億円拠出表明 女性企業家支援のイバンカ基金」の嘘!
誤報.JPG

2017年09月22日

誰も教えない「戦後の在日朝鮮人がやったこと!?」

誰も教えない「戦後の在日朝鮮人がやったこと!?」

戦後日本共産党の再建資金のほとんどは当時の在日組織である在日本朝鮮人連盟(朝連)が提供、この資金源は何処か?
誰も教えない「戦後の在日朝鮮人がやったこと!」
終戦直後の日本で何が起こっていたのか?!
歴史から葬られた在日朝鮮人による犯罪の数々!?

【日本人に教えない「朝鮮進駐軍」】とは?

大東亜戦争終結直後、治安が整っていない空白を良い事に「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人が日本各地で凶悪犯罪を数多く引き起こしたと言われています

自らを戦勝国民として日本人に対する一部の在日朝鮮人の優越感による殺害、強姦、強盗、暴力事件などの不法行為が多発したのです

当時の日本政府や連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)等の公的な組織による文書での「朝鮮進駐軍」という用語の存在は明らかにされていませんので軍隊とは認められていません

単なる犯罪組織であり完全武装した部隊が存在していたので「テロ組織」との理解で十分だと思います

【「朝鮮進駐軍」による「首相官邸襲撃事件」】

また闇市や一等地占拠等で財を成した膨大な資金で社会主義、共産主義を掲げ政界にも進出して行ったと言われています

1946年の戦後直後、完全武装し暴徒化した2000人の朝鮮人が「首相官邸襲撃事件」を起こしたと言われています

「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げたデモ行進が暴徒化
当時武器の所持は禁じられていた日本の警官隊は米軍憲兵隊に応援を頼んだのです
そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦に発展して行ったのでした

1947年には「首相官邸襲撃事件」の翌年、初の社会党連立政権片山内閣が誕生しました

この社会党連立政権後も武装組織「朝鮮進駐軍」によると思われる警官狩(殺し)は全国規模で警察署襲撃という形でますます激しくなって行きました

【在日朝鮮人と日本共産党による阪神教育事件】

1948年(昭和23年)4月14日から4月26日 にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日朝鮮人と日本共産党による民族教育闘争、大規模テロが起きました
koubezikenn.JPG

hannsinn.JPG


逮捕監禁・騒乱事件で、日本国憲法(1947年昭和22年5月3日に施行)下で唯一の非常事態宣言がGHQ(米国占領軍)によって布告されました

1949年9月8日朝連(在日本朝鮮人連盟)を恐れる日本政府は朝鮮民主主義人民共和国建国1周年の前日、朝連を強制的に解散させる行為の至りました
kaikann.JPG


この社会党連立政権が日本を取ってから、在日朝鮮人武装組織「朝鮮進駐軍」による、警官狩(殺し)、全国警察署襲撃がますます激しくなって行きました

1950年6月25日北朝鮮はソ連の暗黙の了解のもと38度線の南部に対する侵略攻撃を仕掛けてきましたが時を同じくするように1950年に米軍施設にまで攻撃したとも言われています

米軍が制圧に動き「朝鮮進駐軍」解体、米軍の軍法会議、収監送還されたそうです
在日朝鮮人組織による日本支配は失敗に終わったかのように思われましたが・・

1951年(昭和26年)1月朝鮮戦争勃発の翌年に在日朝鮮人による在日朝鮮統一民主戦線(民戦)が結成されました

【在日本朝鮮人連盟(朝連)の資金源】

拙ブログにおいて
『実は戦後、日本共産党の資金のほとんどは当時の在日組織である在日本朝鮮人連盟(朝連)が提供していましたが、このことは日本共産党の党史には一行も触れられていません』という箇所がありますが

終戦直後の全国的に生活に窮する時期に日本共産党の一大スポンサーだった「朝鮮人連盟(朝連)」の資金源は何だったのだろうかという疑問が涌いて来たので今回、その事にもふれたいと思います

【終戦後の在日朝鮮人の犯罪の数々!】

戦後の治安が整っていない空白期間に全国主要都市において一部の在日朝鮮人の人々は「戦勝国民である」と偽り武装集団となって出現し暴れだしました

(武装した集団在日朝鮮人達の不法略奪占拠)

武装した集団と化した在日朝鮮人達は国有地も都心駅前一等地周辺も軒並み不法略奪占拠したと言われています
haikyo.JPG


戦後、田舎に疎開していた人たちが家に戻ってくると、いつの間にか家が朝鮮人に乗っ取られていて「朝鮮勝った!おまえら負けた!この家はおれのものだ!」と言って、元の住民は、ここが自分の土地だと証明する書類も失くしてしまい、どうすることもできなかったという事も人づてに耳にした事があります

(駅前の一等地にパチンコ屋が多い訳)

そしてそのままパチンコ屋、飲み屋、風俗店等々になり、彼らの土地として登記され現在に至ったというのです

駅前にパチンコ屋だの金融業者が多いのも頷けますね

今でもパチンコ業界の8割が在日韓国朝鮮人が経営者でありパチンコ業界は今や30兆円産業と言われています

また不法略奪占拠の別のケースとして空襲などが激しくて殆ど元の住人がいなくなった地区単位で丸ごと奪ったという例を(神戸のある地区や柏市など朝鮮人部落などと評された地域のことを)聞いた事があります
yakeato.JPG


(食料や商品を根こそぎ奪取し闇市へ)

武装した集団在日朝鮮人達は国有地も都心駅前一等地周辺も軒並み不法略奪占拠したり、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫、農協倉庫も、そして農家を襲い食料や商品を根こそぎ奪って行ったそうです

当時は農耕機械が無いので農家は農耕用の牛を飼っていましたから夜中に牛を盗み、自分たちで食べたり闇市で売りさばいたので全国的に牛がいなくなったというのは嘘のような本当の話です

在日韓国朝鮮の人々の中で焼肉屋を営んでいる人が目立つのも頷いてしまいますね・・食生活習慣以前の問題だったりします

駅前の一等地に焼肉屋を営む店主が在日朝鮮人の人だったら戦後焼け野原で持ち主が居なくなった土地を不法占拠して盗んだ牛で焼肉屋を開いたのが発端かもしれませんね・・もしかしたらですけど

私も田舎育ちで良く知っているのですが牛は家族同様で大事にしていました
滅多やたら殺して食べるなど考えも及ばないことです

(闇市も管理)

各地の闇市も管理して略奪で得た物を販売したり、禁止されている麻薬や密造酒を売って莫大な利益を得て財を成して行きました
yamiiti.JPG


後に闇市が繁華街としてパチンコ屋、飲み屋、風俗店等々に姿を変えて出現しそのまま彼らの土地として登記され現在に至ったのです

(警察も手が出ません)

当時武器の所持は禁じられていた日本の警官隊は手が出ませんので、殺人があったとしても略奪等があったとしても正式な記録が無い場合も多々あるようです

捕まえたり検挙したりすると逆に警察署が襲撃されたり警官が殺されました

実際、全国各地で警察署襲撃事件が起きました
keisatusyosyuugeki.JPG


在日朝鮮人集団に対抗したのが任侠道のヤクザ達だったのでした
警察も手が出ない在日朝鮮人集団に腕力・暴力で対抗していきました

その頃はヤクザは自衛団として国民的な地位を得て行きました
警察もヤクザの手を借りないと治安を保てない状況が生まれて行き、持ちつ持たれつの仲だったのです

(「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人)

戦後の在日朝鮮人の(一部の心ない人々は自分たち)を「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れていました

武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くしました

GHQの記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されています

神風特攻隊の飛行服を好んで着用し腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し略奪の限りを尽くたと言います

(GHQ発表「朝鮮人等は戦勝国民に非ず第三国人なり」)

GHQは朝鮮人が「地外法権的地位にないこと」発表します
「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」の認識を示したのです
makkasa-.JPG


1949年(昭和24年)GHQにより団体等規正令の「暴力主義的団体」として「在日本朝鮮人連盟」に解散を命じます

朝連(在日本朝鮮人連盟)解散後も日本共産党は朝鮮人部に変えて民族対策部(民対)を設置しそれまでと変わらない体制を整えて行きました

日本共産党と蜜月の関係は「1955年5月25日」在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成され共産党に党籍のあった在日朝鮮人が一斉に離脱するまで続いたのです

「在日本朝鮮人連盟」は在日本大韓民国民団(民団)や在日本朝鮮人総連合会(総連・朝鮮総連)に組織を変えて今も残っているのです

(現在の在日の人々が通名を使う訳)

在日韓国朝鮮人は、なぜ強制的に連れて来られたとか差別が酷かったとか、かたりながらも今のように駅前で莫大な富を生み出す違法な賭博場を開けるまでになったのでしょうか?

何故、現在の在日の人々が通名を使うのでしょうか?それは取りも直さず「朝鮮進駐軍」に代表される朝鮮人犯罪によってイメージの悪い朝鮮人名を使うよりも

日本人風の通名を使うほうが都合が良かっただけなのではないかと私は思っています

(財を成した在日朝鮮人)

財を成した朝鮮人は日本人に名前を変えて暴力団と手を組み法人化して経済界、報道機関、行政機関、政界等の一部にまで影響下においていると言われています

パチンコ業界は経営者の脱税と北朝鮮への不正送金・犯罪の温床など日本人にとって極めて不利益になる事ばかりをしているという指摘を受けています

それにも関わらず日本の政治家や警察にもパチンコの金が流れているから「パチンコ・パチスロはギャンブルではない娯楽だ」などという馬鹿げた論理がまかり通っているのだと納得した次第です

在日朝鮮人団体である朝連は民戦と名前を変え1955年5月25日に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成されるまで日本共産党の一大スポンサーだったのです
tyosennsourennJPG.JPG


そして朝連または民戦の資金源は「朝鮮進駐軍」に代表される一部の心ない在日朝鮮人が日本各地において行った殺人、強姦、暴行、警察署の襲撃、略奪、銀行襲撃、土地・建物の不法占拠等によって生み出された基盤を温床に生み出されたに違いないという結論に辿り着いた次第です

おわり

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

2017年09月20日

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO4 ・・日本共産化を目論む日本共産党の破壊活動の先鋭となった朝連,民戦(後の朝鮮総連)の共闘戦史

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO4
・・日本共産化を目論む日本共産党の破壊活動の先鋭となった朝連,民戦(後の朝鮮総連)の共闘戦史

【戦前日本共産党】

「1922年(大正11年)」の創立時から共産党は植民地解放の方針に基づき朝鮮の独立を綱領に掲げました

「1930年代以降」
※コミンテルン(共産主義インターナショナル)の方針で1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は日本共産党に所属しました

※コミンテルンとは
1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織である

戦前から日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集ってきました

「1931年(昭和6年)」頃、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は最盛時の1931年(昭和6年)頃、組合員数は3万人でしたが、そのうち3割を朝鮮人が占めていた

「1945年(昭和20年)」敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が府中刑務所を出獄した

第4回党大会を開催することも決定しました
その準備委員に選任されたのが、徳田球一、志賀義雄、袴田里見、金天海、宮本顕治、黒木重徳、神山茂夫の7人でした
この名簿順位は、当時の党内ランクを示しています

会議では金天海を責任者として日本共産党内に朝鮮人部を設置することも決められました

【日本共産党の資金は在日本朝鮮人連盟(朝連)が提供】

「1945年10月15日」に「全日本に在留する240万同胞の生命と財産を保護し、あらゆる権利を主張すべき唯一の代表機関」を宣言して1945年10月15日に在日のための相互扶助的な団体として結成されたのが在日本朝鮮人連盟(朝連)でした
会館.JPG


実は日本共産党の再建資金のほとんどは当時の在日組織である日本朝鮮人連盟(朝連)が提供していましたが、このことは党史には一行も触れられていません

【半島の運命を決めた米英ソ3国の外相会議】

「1945年(昭和20年)12月1日」に開かれた共産党第4回党大会で金天海は7人の中央委員5人の政治局員の一人となりました

「1945年12月」第二次世界大戦の戦後処理問題討議の為、米英ソ3国の外相会議がモスクワで開催された

その結果、朝鮮については「米ソの協議により朝鮮民族の臨時民主政府の樹立を準備し米ソ両国は5年間の信託統治を実施する」ということが決まりました

くしくもその結果、半島で南北に別々の政府が樹立されるきっかけとなりました

【民団と朝総連の分裂の火種】

その後、日本国内の在日勢力でも信託指示の在日本朝鮮人連盟(朝連)と反信託の民団(在日朝鮮居留民団)に二分されるきっかせになりました

「1946年(昭和21年)」共産党第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。そのうち朝鮮人が約1000人という一大勢力であったのです

「1949年(昭和24年)3月27日」朝連(在日本朝鮮人連盟)は他団体とともに大阪の扇町公園で、吉田内閣打倒人民大会を開催しました

「1949年6月11日」には朝連の参加する公安条例反対共闘委員会が皇居前広場におよそ5万人もの参加者を集めて大規模集会を開催するほど朝連の活動は活発でした

「1949年9月8日」朝連(在日本朝鮮人連盟)を恐れる日本政府は朝鮮民主主義人民共和国建国1周年の前日、朝連を強制的に解散させる行為の至りました

【朝連(在日本朝鮮人連盟)解散】

「1949年(昭和24年)」朝連(在日本朝鮮人連盟)が強制的に解散させられる際、金天海は公職追放を受け北朝鮮へ密出国しました

朝連(在日本朝鮮人連盟)解散後も日本共産党は党内に民族対策部(民対)を設置しました

民族対策部(民対)は前身の※日本共産党朝鮮人部と同じく主として在日党員で構成されていました

※日本共産党朝鮮人部とは
1945年11月(昭和20年)に金天海氏を責任者として日本共産党が在日本朝鮮人連盟の要請を受け新設した部と言われています

金天海氏は北朝鮮では最高人民会議常任委員を務めるなど要職にありましたが1970年代の金日成個人崇拝の高まり以降、消息は全くわからなくなりました

【在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成】

「1951年(昭和26年)1月」朝鮮戦争勃発の翌年に在日朝鮮人による在日朝鮮統一民主戦線(民戦)が結成されました

在日朝鮮統一民主戦線(民戦))議長団の一人に民団の副団長である李康勲が加わるなど当初は何とか統一戦線であろうとしましたが

「1952年(昭和27年)5月1日」第23回メーデーでデモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がありました

皇居前広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日朝鮮人だったと言われています

1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデー
1952年(昭和27年)の6月25日、大阪で起きた吹田事件
1952年(昭和27年)の7月7日、名古屋の大須事件

「1952年(昭和27年)7月13日」こうした騒乱事件の多発し大須事件直後、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判しました
第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だったのです

「1952年(昭和27年)12月中旬」になっても一方の日本共産党は全国軍事会議を開催し武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど極左冒険主義は改めそうにありませんでした

「1954年(昭和29年)10月30日」中国紅十字会(赤十字)代表団の一員として、中国の対日工作の最高指導者、廖承志氏の来日後のあいさつで「在日中国人団体は日本の政治に干渉してはならない」と語りました

これが在日朝鮮人運動の「路線転換」を促す契機となったと言われています

「1954年(昭和29年)」李康勲(民団の副団長)は「在日朝鮮統一民主戦線(民戦)は民族団体ではなく日本共産党の尖兵」という声明を発表して在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を離脱することになりました

実際、在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)は“オモテ”の顔としては日本国内の在日朝鮮人組織の統一戦線でありましたが“ウラ”の顔としては、日本共産党の民族対策部の指導下にありました

【日本共産党の民戦への裏切り】

「1955年(昭和30年)1月1日」共産党はようやく、機関紙『アカハタ』で「※極左的冒険主義と手を切る」と発表しました

※極左的冒険主義
1951年の8月19日、共産党第20回中央委員会総会で綱領は、平和革命の可能性を全面的に否定し、軍事方針を正当化し、※山村工作隊活動や火炎ビン闘争を展開するというものでした
これが極左冒険主義方針の根拠となりました

※山村工作隊活動とは
中国の劉少奇がソ連のスターリンとの相談に基づき農村を拠点とする中国流の武装闘争方式を日本を含むアジアに広げようとした活動

この機関紙『アカハタ』で「極左的冒険主義と手を切る」との発表を受けて北朝鮮支持は心に置いて幅広く統一戦線をつくろうとする日本共産党にそう方向を考える在日朝鮮人共産主義活動家たちは、

後に朝鮮総連中央常任委員会議長、北朝鮮最高人民会議常任委員を歴任する韓徳銖氏が中心となる朝鮮や朝鮮労働党との結合を図るという主張に飲み込まれて行きました

【朝鮮総連結成後、共産党を在日朝鮮人は一斉に離党】

「1955年5月25日」今から60数年前、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本による内政不干渉を掲げて在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成され共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱したのです

(まとめ)
在日朝鮮人の日本転覆の野望と日本共産党による日本赤化の思想が袂を分かち60余年と言う月日は流れましたが、まだその火種は絶える事なく燻っている事を我々日本人は肝に銘じるべきである

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

2017年09月19日

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO3 ・・外地労働移入者の推移について

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO3
・・外地労働移入者の推移について

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1・・映画「軍艦島」の文中にある以下の事柄をもっと掘り下げたくなりました

「つまり現在日本在住の特別永住権を与えられてる在日韓国朝鮮人は強制連行によるものではなく、
@仕事を求めての密航・自由渡航により来日し
Aそれらの人々による自然増加したもの
なのです」

労務動員とは別に(ある意味半島から逃れるように)何故、日本列島に来なければならなかったのか?という素朴な疑問と、何故反日を叫びながら日本に居座わらなければならないのかという疑問がわいて来たのでその事にも今回少しふれたいと思います

【外地労働移入制限と解除】

外地労働移入者の歴史的推移としては以下にある通りです

1876年(明治9年)日朝修好条規により留学生や亡命者を日本は朝鮮より受け入れました
ntyouxyuukou.JPG


「韓国併合以前の朝鮮人の日本在留状況」

韓国併合以前にも半島南部に住む朝鮮人が留学生や季節労働者として日本に在留していました

「併合当初の朝鮮人の在留状況」
nittyuuro.JPG


併合当初の朝鮮人の在留は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で単身者が多い出稼ぎが主流でした

次第に家族を呼び寄せ家庭単位で永住もしくは半永住を志向するようになりました

当時の朝鮮国内の賃金と比較すると破格の高収入であった為、日本での生活は「川辺や湿地帯に集落を形成」して住むという劣悪な状況でしたが、それにも甘んじて生活を営んでいたのでしょう

「韓国併合以降の移民数増加傾向」

1919年4月には日本への移民が制限されるようになりました(朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により)
1920年にはその制限にも係わらず約3万人の朝鮮人が在留していました
1925年10月には渡航制限の実施にも係わらず
1928年には移民数が増加しました
1929年から水害や干害が続きさらに国外移住者がさらに増えました
1930年には約30万人の朝鮮人が日本に在留していたのです
1933年当時朝鮮人の朴 春琴代議士によると年間約5万人の朝鮮人が日本で増加して問題になっていたといいます
1934年10月30日には朝鮮人移入阻止の為、朝鮮満洲開発と密航の取り締まりの強化に至ったわけです
(岡田内閣の「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定)

「日中戦争期の労務動員計画」
nittyuusennsou.JPG


1937年に日中戦争勃発にともない
1938年3月朝鮮人渡航制限の解除を要請し1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正にいたりました
1940年、日本政府は「朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件」で
@労働者の朝鮮への往路旅費および帰郷旅費は雇用主が負担
A雇用主は朝鮮の技術向上を目的に必要な知識・技能を授ける事
B雇用主は徳を養う事
C雇用期間は5年以内
などの条件を日本陸軍に通達したといいます
zainitigurahu.JPG

「太平洋戦争期の労務動員」
taiheiyousennsou.JPG


1944年9月から内地から遅れる事、5年後に外地でも国民徴用令が施行し1945年3月までの7か月間実施されましたが

1944年9月から始まった朝鮮からの労務動員は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど増加は無かったとも言われています

【在日韓国朝鮮人の半島帰還】

終戦後ほとんどの朝鮮人は半島に帰還したはずですが
gennbaku.JPG


「現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である」
(昭和34年7月13日 朝日新聞)

上記の記事の通り総計約61万人の在日朝鮮人は自由意思によって在留した者です(徴用労務者245人以外は自由意志で日本に来たという事になりますしその自由意志が法に触れるならば密航になりますよね)

さらに現在日本在住の特別永住権を与えられてる在日韓国朝鮮人はいつの時点か不明なれども
@仕事を求めての密航・自由渡航により来日し
Aそれらの人々による自然増加したもの
なのだという事です
zainitigurahu.JPG

半島に生活基盤があれば真っ先に帰還していたはずですから・・ね
今の朝鮮総連となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」
tyousennsourennzennsinn.JPG


(まとめ)

韓国併合以前においても留学生や季節労働者として日本は朝鮮人を受け入れてきたようです

韓国併合以後も受け入れる姿勢は変わりませんでした
というのも半島から来る人々のほとんどが生活に困窮した人々だったのですから(中には政治的亡命者もいたでしょうし犯罪者も、もしかしたらいたかもしれません)

出稼ぎから日本に定着して家族を呼んで一家を構えた人々もいたんだろうと思います

そういう人々は戦後、半島に帰らず日本の地に馴染んで行ったんでしょうね(中には半島に帰れないそれなりの事情を抱えている人もいるかもしれませんが・・・)

外地労働移入者の推移・・おわり

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

2017年09月18日

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO2 ・・在日韓国朝鮮人強制連行の嘘

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO2
・・在日韓国朝鮮人強制連行の嘘

在日韓国朝鮮人がよく口にする「強制連行によって無理やり日本に連れてこられた」という主張について考察していきたいと思います

【朝日新聞 昭和34年(1959年)7月13日2面】
朝日新聞に以下のようながあります

「日本統治時代の朝鮮人徴用は、第二次世界大戦中に日本(大日本帝国)が日本統治時代の朝鮮において朝鮮人労務者を1944年9月労務動員した」

しかし韓国併合時代に朝鮮人が朝鮮系日本人だった当時、戦時中の朝鮮人に対する動員(労務動員)または徴用を「強制連行」と表現することには異論があります

【在日朝鮮人運動史研究家の金英達氏によれば】

「強制連行」という言葉には疑義を唱えるのは在日朝鮮人運動史研究家の金英達氏です

「強制連行」の言葉は人によってまちまちな受け止め方がなされていますが「労務動員」の強制性の有無について問われるとの認識を持たれておられるようです

「強制連行」の意味するところの実質や程度について共通理解が確立されないまま「強制連行」という言葉だけがひとり歩きしているように思うと指摘しておられます

「強制連行」とは別に「朝鮮人徴用」という言葉がありますがこれは大戦中に日本統治時代の朝鮮で朝鮮人労務者を国家総動員法により朝鮮半島でも1944年9月から「労務動員」した事です

戦中の労務動員について「朝鮮人労働者移入」ともいわれています

このような「労務動員」あるいは「※徴用」を「強制連行」と表現することには異論があるようです

※徴用とは
戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること

金氏は戦時中の朝鮮人の強制動員については「戦時動員」を使い、そのなかの具体的な暴力的なケースを「強制連行」とすることを提案しています

【鄭 大均氏の主張】

「首都大学東京都市教養学部特任教授、韓国系日本人(1996年)」(2004年に日本に帰化)

朝鮮人の労務動員者を「強制連行」と呼ぶのは「日本人の加害者性や朝鮮人の被害者性を誇張しすぎている」として当時の朝鮮人は大日本帝国の国民であり日本人男性が戦場に送られていたのを代替するものとして朝鮮人の労務動員があったとしています

【徴用志願者「崔基鎬氏(韓国の加耶大学校客員教授)の証言」】

戦時中に自らが三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬氏の証言(徴用を志願するケースもあったんですね)

当時1000名の鉱夫募集に対して7000人の応募者が殺到したために1000人が選考試験を受けたそうです
「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って元気旺盛そのものであり手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出しショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言しています

北朝鮮と朝鮮総連は「徴用」を「強制連行」と言い換えるが、実態はまったく異なると批判しさらに

北朝鮮が「日帝に強制連行されたのは750万人」と主張したのを「でたらめ」であるとして、その理由を当時徴用に応募した者は南朝鮮出身者であったとし北朝鮮地域出身者は1%にも満たないと述べた

大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史調査」では1939年より1945年までの朝鮮人移入労働者は72万4727人である事にも根拠をおいて実体験と合わせて反論しました

北朝鮮と朝鮮総連は強制連行と主張するが、強制連行か、志願か、または徴用に対する応募であったかは主観的判断によるとも主張し

国民徴用令に基づく徴用または挺身隊の志願者が多かったのは明白な事実であって、それらすべてを強制的に連行したというのはおかしいとも批判しています

また自身の徴用志願の体験を韓国の学者に語っても、その学者は「新聞で読んだ話は正反対」だとして知人の実体験に基づく証言よりも新聞の宣伝を信用するのであると述べています

【山田昭次立教大学名誉教授】

1980年代には「朝鮮人強制連行」と論文で記していたが2005年の共著『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店)で「朝鮮人戦時労働動員」という呼称を使っています

同書で山田氏は「朝鮮人戦時労働動員」を日本内地に限定し軍事動員を除外した戦時動員の呼称としたのです

【ある在日朝鮮人三世(帰化人)の話】

(軍艦島に関連した)産業革命遺産の強制労役 日本の対応「検討中」 (2016.7.3 朝鮮日報)」の記事について・・
世界遺産委員会で日本の代表は、「本人の意思に反し動員され過酷な条件下で働くことを強要された数多くの韓国人とその他国民がいた」と英語で発言しましたが

この英語の発言の中の「forced to work」という表現について岸田文雄外相は採択後の取材に対し「forced to work」という発言は強制労働を意味するものではないと述べ政府の公式見解を改めて確認した

さらに菅義偉官房長官の発言からも徴用は強制労働ではないとの日本の見解はこの先も変化はないとみられると「朝鮮日報」の見解を伝えてくれました

【結構、高給取りだった朝鮮人の労務動員者】

昭和19年頃の九州の炭坑での賃金は1日平均5円とされていましたが、これに手当てが付加されるので月収は150円〜180円、勤務成績が良ければ200円〜300円にもなったといいます
『炭山に於ける半島人の労務管理』(大内規夫)による

朝鮮の親元への送金や貯金(徴用時は強制貯金)も行われ半島労務動員者の送金は普通30円〜50円程度だったそうです
昭和19年(1944年)の巡査初任給45円の時代です
朝鮮からの出稼ぎとしてはこの上ない高給取りであった事をうかがい知ることができます

命がけで戦地で戦う当時の兵隊さんと比べても格別な待遇である事がわかります
gunnzinnkyuuyo.JPG


なぜ、労務動員数の総数が1300万人を超えるというのに外地労働移入数がたったの35万7000人なのか、これは区別でなければ差別だろうと言う声さえ起こりそうな実情だったようです

もっと早くに徴用をしてくれていれば稼ぎも増やせたという人々がいても可笑しくありません

【朝鮮半島からの出稼ぎも多かった】

当時、住み込みで三食ありつけて稼ぎも良いとなれば徴用を待ち望んでいた人がいても可笑しくありません

徴用されなくても内地に行って出稼ぎをするのは当時の朝鮮では当たり前だったのです

徴用者全体の内、外地移入者(外地の労務動員者等)はたったの2.8%ですが、これは日本人が朝鮮人や台湾人を強制的に連れて来たのではない事の証拠となりますので忘れないで欲しい数字ですね

劣悪な死と隣り合わせの過酷な仕事環境であったかもしれませんが、そこで働く人々のほとんどは内地の日本人であったという事です

徴用による労務ですから働かされたと感じる人もいたかも知れませんが、朝鮮半島の人々が収入面からも待遇面でも自ら納得ずくで徴用に応じた人々がいた事は想像に難くないのです

在日韓国朝鮮人強制連行の嘘・・・おわり

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

△▼△▼△▼△▼

2017年09月17日

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1 ・・映画「軍艦島」

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1
・・映画「軍艦島」

【「軍艦島」世界文化遺産に登録】

長崎県長崎市(旧高島町)にある端島(はしま)は炭鉱開発のために周囲を埋めたてられた要塞のような人工島です

1920年(大正9年)2月16日三菱造船長崎造船所で起工された日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから別名「軍艦島」とも呼ばれました

炭鉱で採炭される石炭は八幡製鐵所の製鉄用原料炭として供給し、日本の近代化を支え続けてきました

海底炭坑だった端島は日本で最先端の暮らし・未来都市であったそうです

1810年に石炭が発掘されて以来1887年に第一竪坑を深さ44m掘りましたが1890年当時の所有者(佐賀深堀領主だった鍋島孫六郎)が三菱社へ売却しました

2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました

登録の過程においても世界遺産委員会の21の国のうち、韓国は強く反発しました
「強制労働が行われた事実を無視したまま、産業革命施設と美化して世界遺産に登録することは世界遺産条約の基本精神に反する
これからも韓国の正当な憂慮が反映されるよう最善の努力をしていく」というものでした

韓国側は日本がこの施設で蓄えた国力で日清戦争などを引き起こし、朝鮮を植民地化したという認識を示したのでした

しかし日韓両国の登録を巡って21の委員国に対する激しい説得工作が繰り広げられた末のイコモスによる世界文化遺産への登録だったのです
その後、韓国では映画「軍艦島」が製作されたのでした
gunnkannzima.JPG


【映画「軍艦島」】

「軍艦島」と言う映画について、柳昇完監督は次のように説明しています

2017年の韓国映画『映画「軍艦島」は日本統治時代、日本の端島(通称:軍艦島) に強制徴用され、そこから命をかけて脱出を試みる朝鮮人の物語を描いた映画で当時の軍艦島の時代を背景に創り上げたストーリーだ』

「創り上げたストーリー」と言っていますが、実際は「軍艦島」の宣伝用ポスターにあったキャッチコピーは「1945年、日帝占領期われわれはそこを地獄島と呼んだ」です

だいたい日帝占領期という表現を使うあたり歴史認識の相違を感じざるを得ないのですが・・

【「軍艦島」を「地獄島」と呼ばす意図はどこにあるのか?】

韓国側の視点がよく理解できる解説記事のなかに
@日本統治時代、多数の朝鮮人たちが強制徴用され、死亡した軍艦島の隠された歴史をモチーフに誕生
A一度入ると出ていくことができない牢獄で地獄と呼ばれて
いた軍艦島は朝鮮人には地獄



等など記載されています

この作品は日本人の不条理と残虐性を不確かながら必要以上に強調し、朝鮮人の被害者意識を多大に煽り立てる内容になっていると言っても過言ではないでしょう

そこで今回はまず日本に存在するようになった在日韓国・朝鮮人がよく口にする「強制連行によって無理やり日本に連れてこられた」という主張についての信憑性について触れたいと思います

【外務省と在日朝鮮人の共同発表】
 
昭和34年7月11日付 外務省資料-

以下は昭和34年の外務省と在日朝鮮人の共同発表の記事(つまり当時の在日も認めた公文書)は以下の通り。

@戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者やその間の出生によるものである

A残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である

B国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年3月の下関-釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間だった

(「朝鮮人徴用」という言葉のようにこれは大戦中の非常時に国家が国民を労務動員をかけるというもので日本統治時代の朝鮮でも朝鮮人労務者を1944年9月から「労務動員」しました
徴用を義務ととるか強制ととるか個別の判断だが少なくとも全うな日本人なら義務と受け取ると思う)

C終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、

北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している

戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である

(居残った人々は日本人として残った人々も少なからずおられたでしょうが大部分は朝鮮半島に今以上の事が望まれないので朝鮮人として日本に居座る事を選択されたのでしょうか?)

D現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である
(昭和34年7月13日 朝日新聞)
asahisinnbunn.JPG


【在日韓国・朝鮮人の人々真実】

つまり現在日本在住の特別永住権を与えられてる在日韓国朝鮮人は強制連行によるものではなく、
@仕事を求めての密航・自由渡航により来日し
Aそれらの人々による自然増加したもの
なのです

ちなみにこの報道は「在日朝鮮人徴用を強制連行という言葉で表わし在日韓国朝鮮人は被害者である」と主張してきた朝日新聞によるものであった事は驚きを隠せません

つまり今の在日朝鮮人の人々は太平洋戦争開始以前から既に日本に移住し敗戦後も帰国せずに日本残留を希望した者達と
戦後の密入国者ではないかと主張する多数の日本の知識人もいるのです

事実、韓国人は戦中・戦前日本へ渡った人々に対して同情せず「パンチョッパリ」と呼んで激しい民族内差別を行っています

そろそろ在日韓国・朝鮮人の人々は自ら日本に来た事実を明確にして捏造キャンペーンを止め自ら在日特権の悪習をきっぱり返上せねばならないと思います

そうでなければ在日韓国・朝鮮人の人々は日本人でなく朝鮮韓国人でもない「無国籍民族」として永遠に生きる事になるでしょう

在日韓国朝鮮人強制連行の主張について-NO1
・・映画「軍艦島」 おわり

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

2017年09月15日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15「資源を奪った」

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15「資源を奪った」

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「資源を奪った」について考察してみましょう

【「資源を奪った」】

 韓国の中学校歴史教科書には「日帝(大日本帝国)は金、銀、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」と書いてありますが実際はどうだったのでしょうか?

【朝鮮で資源開発が行われなかったワケ】

李氏朝鮮時代の19世紀から20世紀にかけて朝鮮半島は地下資源の豊富さが注目を集めていましたが、
@資源開発には莫大な設備投資が必要な事
A開発を行うと宗主国「清」から入貢を要求される

これらの事を懸念し開発は行っていなかったのです

朝鮮総督府が本格的に調査すると朝鮮半島は地下資源大国ではないことが判明し、当時最も重要な鉄鉱石と石炭の分布は一定していませんでした

【資源開発の乗り出しインフラを整備と雇用確保】

韓国の中学校歴史教科書での日帝(大日本帝国)による略奪についてですが盗掘したわけではなく、

政府の採掘補助金を受けて日本企業が進出したのであって、大規模な資本投下、技術開発を行い、大量の労働者の雇用を生み出しました

その結果、その雇用の数は朝鮮半島で昭和14年には22万人以上となっていました

【金の採掘の為、自前で送電設備(変電所を含む)建設】

「金」の採鉱、精錬には電気が必要で1938年から1941年までにつくった送電設備(変電所を含む)建設のため日本政府は公債5292万円(現在の価値で約1兆円)で資金調達しました

鉱山開発費も数億円かかりさらに1910年から朝鮮の人々がが手にした日本への金の売却代金(1936年までは銀を含む)13億でした(実は採掘した「金」を日本側は買い受けていた)
それを含めると全部で約20億円(現在の価値で40兆円)を日本の人々が朝鮮半島に注ぎ込んだことになります

「金」は昭和12年(1937年)の支那事変によって貿易決済のために必要となりましたが、米英との開戦によって貿易が激減し「金」が不要になり、日本政府は「金」の買取をやめました

これにより朝鮮総督府は朝鮮半島にあった1202箇所あった鉱山のうち、123箇所を残して残りはすべて廃鉱にしたのです

しかも満州国(1932年から1945年)が建国されると朝鮮半島の資源的価値はしだいに薄れて行ったと言われています

石炭は無煙炭であり※オンドル部屋の暖房用練炭が主用途で、金、銀、タングステンなどは日本側(政府と会社)が厖大(ぼうだい)な開発費を投じながら結局大赤字だったそうです
※オンドルとは
朝鮮半島で普及している床下暖房
onndoru.JPG


実際、東南アジアから輸入したほうがよほど安上がりだったのです

【禿山を造林事業で再生】

大正13年(1924年)時点での朝鮮半島造林事業統計
林業.JPG


1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万ヘクタールで、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部分だったのです
hageyama1.JPG


朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼でした

しかし、地形調査の結果を受けて朝鮮半島は花崗岩台地の山岳地帯であり緑が育ちにくいことが判明したことから朝鮮半島の造林事業は新たな局面を迎えました

森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼしていました

そこで造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと1924年の京城日報で報じられています
※町=9917u=約100m×100m=10,000u
hageyama.JPG


一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多くありましたが、戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなったようです

【略奪どころが補助までしていた】

大韓帝国が1906年に初めて作成した国家予算は748万円にすぎなかったのに対し日本は1907年から1910年まで毎年2000万円から3000万円を補助しています

日本の国家予算の20%を越えたこともあります

併合後も毎年2000万円前後の資金を持ち出し、昭和14年になっても日本からの補充金と公債を合わせると全予算額の四分の一を占めていました

日本統治期間を通して日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は累計で20億7892万円ですが当時の1円が平均して現在の3万円とすると63兆円という天文学的な数字になります

【鉄道建設とダム建設による電力の供給事業】

また、大韓帝国時代から日本は※鉄道建設に力を注ぎ、その総経費は現在の価値にして10兆円以上になります
※朝鮮の鉄道建設とは
朝鮮総督府鉄道(略称は鮮鉄)は日本統治時代の朝鮮総督府が経営した鉄道である
tetudou.JPG

「朝鮮鉄道路線図(昭和11年)」
tetudoutizu.JPG


民間資金もダム建設に投入され、有名な※水豊ダムだけでもその額は現在の価値で3兆円近いものです
※水豊ダム
damu.JPG


ダム.JPG

damukouzigennba.JPG


これによって生み出された豊富な電力を利用するために日本の多くの大企業が朝鮮北部に投資しました
hunnnamu.JPG


それによって朝鮮人の雇用を創出するとともに、付加価値の高い製品を日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにしたのです

資源の収奪どころか、日本は逆に税金をつぎ込み、朝鮮半島の産業を育成しました

おわり

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

2017年09月14日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15 「主権、国王を奪った」……続編

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.15「主権、国王を奪った」……続編

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「主権、国王を奪った」について考察してみましょう

【朝鮮国王を奪った】

日本は李王家を日本の皇族の一員としてお迎えし、併合時の純宗皇帝は李王となられて日韓の皇室が融合したのです

日本は李王家を手厚く保護しました
歳出項目に「李王家歳費」、毎年百八十万円が計上されていますが、現在の価値で約二百億円になります
※朝鮮総督府『施政三十年史』(国立国会図書館蔵)による

他の宮家の皇族費とは格段に差のある巨額です
さらに梨本宮方子女王が李王家の王世子・李垠殿下に嫁がれました
このこと一つをとっても、日本の「朝鮮統治」は植民地の王室をことごとく廃止した欧米列強の「植民地支配」とは根本的に違っていることが明らかです

終戦時、李垠殿下は密航してでも朝鮮に帰ろうとされましたが、韓国の李承晩大統領が許さなかった。李王朝を復活させず共和制国家(君主制ではない政体)をつくったのは韓国自身です。
 
【朝鮮(大韓帝国)の国家主権を奪った】

「日清戦争(1894年から1895年)」
nissinn.JPG


李氏朝鮮(1392年から1897年)は清の属国であり、国家主権はもともとなかったのです

朝鮮が近代国家として独立し、共に欧米列強の侵略に対抗することを望んだのは日本であり、それを許さぬ清との間で戦争になりました

そして日本が勝利し清と結んだ講和条約(下関条約)第一条には「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」と朝鮮の独立が明確に謳われています

ところが、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉(1895年)で日本が遼東半島の放棄を強いられると国内改革によって専制権力を奪われつつあった朝鮮国王・高宗はロシアと組んで巻き返しに出ました

朝鮮国王・高宗は朝鮮国内の親日・改革派を葬り、ロシアに朝鮮の利権を売り渡し、馬山にはロシア海軍の基地が建設させて、朝鮮独立が脅かされる事態に至りました

「日露戦争(1904年から1905年)」
nihonnkaikaisenn.JPG


そして日露開戦、大韓帝国内では李容九が「一進会」を結成し日本との一体化こそが国を救う道であると朝鮮民衆に説きました

日本は日露戦争に勝利し,ポーツマス条約によって日本の韓国に対する優越権(ゆうえつけん)をロシアに認めさせました

白人大国ロシアに対する日本の勝利はアジア・アフリカの有色人種を狂喜させたのでした

【日韓合邦の嘆願書】

韓国統監府は日露戦争終結後の1905年第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁です

戦後※李容九氏は一進会百万人会員の名前で全国民への合邦声明書を発表、さらに韓国皇帝、曾彌統監(1909年から1910年第2代韓国統監)、李完用首相に対し「日韓合邦」の請願書を提出しました

※李容九とは
大韓帝国の政治家であり韓日合邦の推進者の一人、一進会を設立してその会長となる
アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであると主張した
疲労から漢城病院に入院後1912年に兵庫県武庫郡須磨町で悲嘆のうちに憤死しました

このときの韓国皇帝の詔勅には「韓日両国の親密なる関係をさらに進めて一家をなすことがお互いの幸福に通じる」として内閣総理大臣李完用に全権を委任し、大日本帝国統監寺内正毅との両国併合交渉に当らせると記されています

1910年に日韓は「韓国併合ニ関スル条約」を締結しました

このとき,朝鮮半島を治めるために韓国統監府に代わって設置したのが「朝鮮総督府」です

「朝鮮総督府」は朝鮮半島の軍事や行政のすべてを行いましたが,1945年,第二次世界大戦後に廃止されました

日韓併合条約は国家同士が当時の国際法や国内法に基づいて平和裏に締結した正式な条約なのです
日本が一方的に主権を奪ったのではありません

日韓併合は日本が一方的に進めたのではなく、大韓帝国の中にも日本との合邦を推進した人々が多くいたのです

【証言】

『アメリカの鏡・日本』の著者ヘレン・ミアーズ(1900年から1989年)も

「日本が韓国を併合したのは、新皇帝が懇願したからだ
日本は一つ一つ手続きを外交的に正しく積み上げていた
そして宣言ではなく条約で最終的な併合を達成した
列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法な手続きを踏んでいなかった」

と記しています

J・クロフォード英国ケンブリッジ大教授の2001年の国際学術会議(アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催)でアメリカ、イギリス、韓国それから日本の学者が集まり日韓併合の歴史をどのように捉えるかという議論の中で

「自分で生きて行けない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むというのは当時よくあったことであり日韓併合条約は国際法上不法なものではなかった
強制されたから不法であるという議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」

と述べて韓国側の主張は完全に崩れました

イザベラ・バードもこう書いていたのです。

「わたしは朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない
ただしそれには左に掲げたふたつの条件が不可欠である
@朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので外部から改革されねばならない
A国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」

おわり

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

2017年09月13日

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.14「主権、国王を奪った」……「元祖・反日の英雄」安重根とは?

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは NO.14「主権、国王を奪った」……「元祖・反日の英雄」安重根とは?

韓国朝鮮の人たちが主張する七奪(??)とは、日本が韓国併合(日韓合邦)により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から七つのものを奪った事だそうですが、その七つとは以下のものです
「主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源」

それでは今回は「七奪」のなかの「主権、国王を奪った」について考察してみましょう

【英雄と呼ばれるテロリスト】

伊藤博文公(初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代※韓国統監を歴任)が安重根によって暗殺されたと言われています
いとう.JPG


日本を取り巻く情勢は日露戦争(1904年から1905年)が終結してまもなくといった時でした
場所は※大清帝国満州のハルビン市 ハルビン駅にて1909年10月26日の事でした
ハルピン駅.JPG


※大清帝国とは
1616年に満洲において建国され1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝
※韓国統監(府)
韓国統監府は第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁
toukann.JPG


【伊藤博文公が「日本の韓国植民地化の親玉」の嘘】

伊藤博文公は日清韓の連帯で西欧列強の侵略を防止しようと言う主張の持ち主でした

また一方、安重根氏も東洋から西洋勢力を排除し韓国、中国、日本の3国が手を結ぶ事を主張していましたし日本の皇室に対して尊敬の念いだいていたのです

反日思想のようなものは欠片も持っていなかったのです

伊藤博文公と非常に近い考え方を持つ安氏に誤解が有り暗殺に及んだという見方もあります

当時、朝鮮半島支配について軍部出身者を中心とする日韓併合賛成派に対して大韓帝国を伊藤博文公は一時的に保護国化して統治するだけで最終的には朝鮮人による自立した国家めざしていました

実際、新渡戸稲造氏の『偉人群像』で伊藤公が語った言葉が残されてます
「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」
nitobe.JPG


【安重根氏は反日でなく日本皇室に尊敬の念を抱いた】


伊藤公は朝鮮を保護国とするのは国力がつくまでの一時的なものと考えていたと思われます

安氏は伊藤公の朝鮮人を高く評価するが故に併合に反対する意図を酌めず暗殺に至ったという考え方が妥当ではないかと思われます

問題のひとつに安重根氏が伊藤公のことを「明治天皇の意向に反した政策を朝鮮半島で行う逆臣」と思い込んだ点にあります

現実には伊藤氏こそが※李垠氏を日本に招いて教育した本人であり、しかも日韓併合反対派の中心人物だったのです
itou.JPG


※李垠氏
(1897年から1970年、大韓帝国最後の皇太子で日本の王族、李王。大韓帝国時代の称号は英親王。李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝高宗の第7男、妃は梨本宮守正王方子様)

そして、安氏は最期まで明治天皇は東洋の平和と韓国の独立を願っていると信じ続けていたのでした

伊藤公は胸・腹部に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れました
その後、伊藤公は少しブランデーを口にして、しばらく意識がありましたが犯人は誰かと聞き、ロシア官憲からの報告でそれが朝鮮人だと聞いて「そうか、馬鹿な奴だ」と一言、短く言ったそうです
伊藤公は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡しました

【韓国における「元祖・反日の英雄」安重根の真実】

しかし伊藤博文公暗殺後は山県有朋の主導により日韓は併合への道を突き進むことになりました
まことに残念ながらこれが現実なのです

「旅順での裁判」

安重根は暗殺事件の裁判で、日本が、大韓帝国(=李氏朝鮮が1897年から1910年まで使っていた国号)の李垠皇太子の教育に尽力したことに触れ、国民が感謝していると述べています
日清・日露戦争を通じて、日本が朝鮮半島を含む東洋の平和を守ったことも評価しています
明治天皇が韓国の独立をはかり、平和の維持に努めたことも理解していたようです

安重根は旅順の関東都督府地方法院で、まず1909年11月13日(伊藤博文の葬儀から9日後)予審を受けました
これが11月16日に結審した後に重罪公判に移されました

共犯の疑いのある曹道先、禹徳淳、卓公圭、金麗水、金成玉、劉東夏、鄭大鎬、金衝在の8名のうち曹、禹、劉の3名以外は不起訴となりました
殺人罪および合併罪、殺人未遂罪を問われた本裁判も、引き続き関東府地方法院で行われ、第1回公判は1910年2月7日で、5回目の公判で最終弁論となり、公判開始からちょうど一週間後に判決の言い渡しとなりました

安容疑者は下記のような伊藤博文公を暗殺した15の理由を列挙した
暗殺理由.JPG


1:明成皇后を殺害した罪
※閔妃殺害事件のことですが、伊藤博文や日本政府が直接関与したという資料はありません

事件直後に行われた朝鮮国内の裁判では、大院君を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争としての判決が出ているし、大院君の部下である李周會氏が「自分が閔妃を殺害した」と供述し処刑されています

それに、暗殺団は閔妃の写真を持っていたので彼女だけを殺したとされていますが、現在ではそれは別人の写真とされています
あの広い王宮(景福宮)で顔も分からずに閔妃だけを正確に暗殺できるのは非常に近しい人による凶行を物語っています
oukyuu.JPG


2:1905年11月、韓国を日本の保護国にした罪
※1905年の日韓保護条約(第2次日韓協約)は日露戦争の講和条約で「日本は朝鮮を指導、保護、監督する権利を有する」という条項が基になっています

日本は朝鮮を保護するようになった原因は1895年の下関条約で清から朝鮮(大韓帝国)は独立した後においてもロシアに擦り寄るなどしており、このような朝鮮(大韓帝国)の行動によって北東アジア情勢が混乱していました
東洋の治安と朝鮮の保全のために、この保護条約は必要なものだったのです

3:1907年丁未七条約を強制的に結ぶようにした罪
※高宗は第2次日韓協約を無視し1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り日韓保護条約の無効を訴えたのでした
これの事件で激怒した伊藤博文は、高宗に謁見し電報の写しを見せながら、『かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径(しょうけい=近道)なるにしかず。』と迫ったと言われています

4:高宗皇帝を退位させた罪
※実は退位を最も強く迫ったのは、朝鮮の農商工部大臣、宋秉o氏だったのです
宋秉o氏が皇帝高宗の譲位運動を展開、結果的に高宗を退位に追い込んだ
(高宗皇帝を怒鳴りつけたとも言われています)

5:軍隊を解散させた罪
※詔書を出したのは、純宗皇帝(高宗の子)だと言われています
理由は両班制度が残る軍隊は近代戦では役に立たなかった為と、後に徴兵制を実施する為に必要だったのです

6:罪のない人々を虐殺した罪
※高宗の退位と軍隊解散に対して決起した「義兵」を、日本軍が殺した事について罪だと言っているのですが、日本軍の襲撃に対し鎮圧する自衛権の行使は当然のことです
それに、その「義兵」は何故か、朝鮮民衆、日本人、シナ人を襲うなどしていたのでした
罪のない人々を虐殺したのは、韓国の「義兵」だったのでした

7:韓国人の権利を剥奪した罪
※韓国人の権利の剥奪したですが朝鮮の人々に直接関係する改革が日本の強い後押しで行われました

封建的身分制の廃止・奴婢の廃止・人身売買禁止・拷問廃止・罪人連座法廃止・早婚禁止・寡婦の再婚を許諾・・・身本制度での下層階級の差別を無くしたことを何故[韓国人の権利を剥奪]と言っているのか理解に苦しむ次第です

8:韓国の教科書を燃やした罪
9:韓国人たちが新聞に寄与しないようにした罪
※8と9ですが、教科書と新聞の規制ですが、保護国になった状況下で既得権益を失った支配者階級である両班の反日活動の一環で行われている反日的排他的教科書や反日煽動新聞を取り締まり改革を進める事は当然な事です

10:(第一銀行)銀行紙幣を強制的に使用した罪
※第一銀行券の発行ですが、第一銀行券の使用は1905年で、伊藤統監の就任(1906〜1909)以前に発行しています
それに、それ以前の朝鮮は清国の属国だった為に通貨の発行権がなく定額の銅銭しかないような有様で紙幣どころか貨幣経済以前の状態だったところを紙幣流通社会へと導いてくれたのが日本だったということです

11:韓国が300万ポンドの負債を抱えた罪
※国債2300万円を募り官吏の間で分配しこの時、土地も奪ったと主張しているのですがこれらは根拠がはっきりしないのです
それに※露館播遷(ろかんはせ)で高宗がロシア公館で政務を行っていた時に、ロシアに売り払った鉱山採掘権・漁業権・森林伐採権・鉄道敷設権・慶南・馬山浦の栗九味租借などを買い戻したのは、日本国民の税金です
※露館播遷とは
李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う
ro.JPG


12:東洋の平和を破った罪
※大韓帝国皇帝を退位させる等の行為を言っていますが、大韓帝国皇帝の高宗は日露戦争中はロシアに通じ日本軍の鉄道・電信の破壊を内密に命じる等の明確な日本に対する背信行為を行っていたのです

13:韓国に対する日本の保護政策を糊塗(一時しのぎにごまかすこと)した罪
※親日派と協力して保護の名目で大韓帝国に不利な施策を行った(と思っている)事についてです。
これも1〜12までの事への誤解によるものだと言わざるを得ないのです

14:明治天皇の父上である孝明第121代天皇(1831年から1867年)を殺した罪
※孝明天皇の暗殺(?)ですが、考明天皇の崩御は1866年12月25日で、当時の伊藤博文は長州の三田尻にいましたし、そもそも宮中に入れる身分ではありません
それに暗殺論は推論に過ぎず孝明天皇が暗殺されたという記載がされた史料はありません

15:日本と世界を欺いた罪
※ハーグ密使事件に対して日本国が国際社会に「大韓帝国は無事です」と宣伝したことを指しているのですが、
当時は世界最貧国で清国の属国で権力闘争による王族の殺し合いや、それらの悪政による両班の横暴、賄賂、人身売買、盗賊の横行など国とは言えない状態だったのです
それを日本が保護国とすることで治安が確立し、朝鮮人の生活は改善されました
この事を指して、日本国は国際社会に向かい、韓国は無事であると説明したのです
※ハーグ密使事件
大韓帝国が密使をハーグの第2回世界平和会議に送り、世界に向けて「日本から外交権を取られています、助けて下さい!」とアピールした事

理由の1〜15についてですが、ほとんど安重根氏の誤解や無知によるものであると言わざるを得ないのです

「元祖・反日の英雄」安重根とは・・・おわり

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
プロフィール
定年に向けてさんの画像
定年に向けて
定年まであと何年と数える歳になりにけり。定年後も元気で働きたい親父です(現在は過ぎ去りし願望に似たり)
プロフィール
カテゴリアーカイブ
リンク集
最新記事
<< 2017年11月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30