2021年03月31日
とりなし
先週の土曜日の夜、もう寝る時になってふと、とりなしのお祈りをしていた、あるご家族の事が、急に頭に浮かぶ。一度もお会いした事のない方々ですが、何故か急に思い出して。そしてその次の日の日曜日は教会へ行って、まだ朝の人が少ない時間に会堂へ行き、トイレに行くと、またそのご家族の事が急に頭に浮かかぶ。「ああ、祈るってことだな。教会につながっていくように、祈ればいいんだ。」と思って、誰もいないトイレで祈って、席に行くと、教会の奉仕の人がテモテさんに、何かを話している様子。私が席に着くと、主人が早速、そのご家族のお名前を話し出して、びっくり。教会のある集会に来られたと。これからも、来られるようになるお話で、とても嬉しかった。神様が私の思いの内に語りかけて下さっていたんだと確信した。そのご家族には、いろんな問題がゆるされてたのですが、まず教会につながっていくことの祈りが導かれていたので、神様が祈りの答えを見せておられると思いました。神様に感謝します。H
2021年03月30日
愛されていること
Iヨハネ1:7−9 聖書箇所ですが、イエスキリストの十字架の事柄と、告白するときに赦されることと、書か
れてある箇所です。このみことばが、土曜日に語られていたのですが、
第2礼拝でも9節が語られていました。十字架の恵みは、不思議な神の恵みです。
罪を犯していない者ののように見られ、祈りが聞かれてしまうのは、恵みです。
信じることを語られているこのとき、罪の自覚が、深くなればなるほど、
この十字架の恵みは我々にとってより大きくなると言えるのではないかと思わされています。
例えば、「私たちは、どうにもならない罪人」という言葉が、心にしっくりくるなら
その人の受ける恵みは大きいのではないでしょうか?
我々が愛されているのは、神の大きな恵みのゆえです。
れてある箇所です。このみことばが、土曜日に語られていたのですが、
第2礼拝でも9節が語られていました。十字架の恵みは、不思議な神の恵みです。
罪を犯していない者ののように見られ、祈りが聞かれてしまうのは、恵みです。
信じることを語られているこのとき、罪の自覚が、深くなればなるほど、
この十字架の恵みは我々にとってより大きくなると言えるのではないかと思わされています。
例えば、「私たちは、どうにもならない罪人」という言葉が、心にしっくりくるなら
その人の受ける恵みは大きいのではないでしょうか?
我々が愛されているのは、神の大きな恵みのゆえです。
2021年03月29日
2021年03月27日
待つこと
以前、救われた時、イエスキリストを信じ始めた時といいましょうか、私が信じるために、神は、待っていてくださったと、思わされたことがありました。
教会に行き始めた頃、ルカの福音書という聖書の書簡から、放蕩息子のたとえのメッセージが、語られていました。聖書の比較的、有名な箇所です。財産の分け前をもらって、遠いところに行って放蕩してしまった弟息子を、忍耐深いお父さんが、ずっと待っていて、ボロボロになって帰ってきたところを、愛を持って迎える、という感動的なお話のメッセージでした。
たとえや、例話のお話を交えつつお話がなされて、そのメッセージを聞いていた時に、神が私を待っていてくれたということがわかりました。確かに、神は忍耐深く、いつも、私たちを待っていてくださるのです。
私たちが、教会に来たり、神のところに来ることを待っていてくださいます。そして、私たちが、成長したり、神に従うのを待ってくださっています。
「8年越しの花嫁」の結婚相手は、ずっと待っているんですね、誠実に。待つというのは、ある意味大変ですが、愛の現れでもあります。
第一コリント13章に「愛は忍耐深い」とあります。
クリスチャンの話では、ありませんが、ずっと待ち続けた婚約者の誠実な態度は、私たちの心を打ちますね。
信じて待つというのは、大切なことなんだと思います。
教会に行き始めた頃、ルカの福音書という聖書の書簡から、放蕩息子のたとえのメッセージが、語られていました。聖書の比較的、有名な箇所です。財産の分け前をもらって、遠いところに行って放蕩してしまった弟息子を、忍耐深いお父さんが、ずっと待っていて、ボロボロになって帰ってきたところを、愛を持って迎える、という感動的なお話のメッセージでした。
たとえや、例話のお話を交えつつお話がなされて、そのメッセージを聞いていた時に、神が私を待っていてくれたということがわかりました。確かに、神は忍耐深く、いつも、私たちを待っていてくださるのです。
私たちが、教会に来たり、神のところに来ることを待っていてくださいます。そして、私たちが、成長したり、神に従うのを待ってくださっています。
「8年越しの花嫁」の結婚相手は、ずっと待っているんですね、誠実に。待つというのは、ある意味大変ですが、愛の現れでもあります。
第一コリント13章に「愛は忍耐深い」とあります。
クリスチャンの話では、ありませんが、ずっと待ち続けた婚約者の誠実な態度は、私たちの心を打ちますね。
信じて待つというのは、大切なことなんだと思います。
2021年03月26日
8年越しの花嫁
私は、洋画の方が好きで、邦画はちょっとしか見ないのですが、この8年越しの花嫁はアマゾンで、また見てしまいました。
実話なんですね。それが、映画の設定が、3月17日に、結婚した、という設定なんですね。3月17日と言ってもわからない方はわからないかもしれませんが….。
前回のこのブログ記事で、説明しました。
日本の潜伏キリシタンが、発見された日で、ある意味で、日本の教会が復活したような日とも、勝手に私の方で思っています。(映画の中では、何にもそのことは関係なくストーリーが描かれてます。)
この映画の話も、結婚を約束したのに、結婚式の日程まで、決めたのに、婚約者が、大変な病気になってしまって、という映画です。そして、もう結婚できないような状態になったのに、再び結婚に行き着く、結婚がよみがえった、というような話です。
人の誠実さや、忍耐を持って待つということを、考えさせられる映画です。
ハッピーエンドですが、泣ける映画ですね。
実話なんですね。それが、映画の設定が、3月17日に、結婚した、という設定なんですね。3月17日と言ってもわからない方はわからないかもしれませんが….。
前回のこのブログ記事で、説明しました。
日本の潜伏キリシタンが、発見された日で、ある意味で、日本の教会が復活したような日とも、勝手に私の方で思っています。(映画の中では、何にもそのことは関係なくストーリーが描かれてます。)
この映画の話も、結婚を約束したのに、結婚式の日程まで、決めたのに、婚約者が、大変な病気になってしまって、という映画です。そして、もう結婚できないような状態になったのに、再び結婚に行き着く、結婚がよみがえった、というような話です。
人の誠実さや、忍耐を持って待つということを、考えさせられる映画です。
ハッピーエンドですが、泣ける映画ですね。
2021年03月25日
浦上キリシタン復活の日
3月17日は、日本のクリスチャン、というかキリシタンが、再び発見された日です。
1865年3月17日に、女性信徒が、プチジャン神父に自分が信じていることを明らかにしました。
ずっと彼ら、浦上のキリシタンは、潜伏キリシタンとして公に信仰を明らかにしていませんでした。
ものすごい厳しい迫害の中で、彼らは、浦上の村で、庄屋を除いてクリスチャンでした。
ですから、ヨーロッパにおいては、日本には信徒はいなくなったと思われていましたが、
それが、この日現れたので、信徒発見の日と言われています。
ある意味、日本のクリスチャンが、よみがえった日、とも言えるでしょう。
興味深いのは、この日に、二年前、ドイツの牧師さんが、東京アンテオケ教会を訪れて、
秋元牧師を、招聘してくださったということです。
多分、この日が、どんな日か、ドレスデンの牧師さんは知らなかったでしょう。
でも、ヨーロッパの教会の人々に、見いだされた日なのです。
ですから、次に、ドイツにチームがいくのはとても意味があると思われます。
1865年3月17日に、女性信徒が、プチジャン神父に自分が信じていることを明らかにしました。
ずっと彼ら、浦上のキリシタンは、潜伏キリシタンとして公に信仰を明らかにしていませんでした。
ものすごい厳しい迫害の中で、彼らは、浦上の村で、庄屋を除いてクリスチャンでした。
ですから、ヨーロッパにおいては、日本には信徒はいなくなったと思われていましたが、
それが、この日現れたので、信徒発見の日と言われています。
ある意味、日本のクリスチャンが、よみがえった日、とも言えるでしょう。
興味深いのは、この日に、二年前、ドイツの牧師さんが、東京アンテオケ教会を訪れて、
秋元牧師を、招聘してくださったということです。
多分、この日が、どんな日か、ドレスデンの牧師さんは知らなかったでしょう。
でも、ヨーロッパの教会の人々に、見いだされた日なのです。
ですから、次に、ドイツにチームがいくのはとても意味があると思われます。
2021年03月23日
2021年03月22日
2021年03月21日
信じること
祈りが聞かれるということは、とても不思議なことですね。
それを、信じれるということも、つまり祈りは聞かれるものだということを信じれることも
素晴らしいことです。
仙台にいた時、お父さんに連れられて、私たちの教会に娘さんがやってきました。
職を失ってしまったということで、働いていたところが、倒れてしまったのです。
それで、再びお仕事が、与えられるように祈ってあげたのです。
そしたら、神は答えて下さり、その娘さんのお仕事が与えられました。
ところが、それが、本当に祈りが聞かれたからとは、その娘さんは受け取れなかったのです。
しばらくして、また、その働いていたところも、ダメになってしまいました。
それでまた、教会に来られたのです。今度は、「いつまでに、お仕事が与えられるように祈りましょうか」
と、もっと具体的に祈ってあげたのです。「貯めていたお金が、1ヶ月で無くなるので、1ヶ月で与えられるように祈ってください」ということでした。そしたら、本当に、1ヶ月でちょうど就職できました。
仙台で、有名なお菓子屋さんでした。180人ぐらいで二人しかとらないはずだったのに、三人合格した一人でした。ですから今度は本当に、神様が祈りに答えてくださったと、信じたのです。
信じれるようになれるのは、素晴らしいことです。信仰によって、神がいろんな壁を打ち破らせてくださいます。
本当です。
それを、信じれるということも、つまり祈りは聞かれるものだということを信じれることも
素晴らしいことです。
仙台にいた時、お父さんに連れられて、私たちの教会に娘さんがやってきました。
職を失ってしまったということで、働いていたところが、倒れてしまったのです。
それで、再びお仕事が、与えられるように祈ってあげたのです。
そしたら、神は答えて下さり、その娘さんのお仕事が与えられました。
ところが、それが、本当に祈りが聞かれたからとは、その娘さんは受け取れなかったのです。
しばらくして、また、その働いていたところも、ダメになってしまいました。
それでまた、教会に来られたのです。今度は、「いつまでに、お仕事が与えられるように祈りましょうか」
と、もっと具体的に祈ってあげたのです。「貯めていたお金が、1ヶ月で無くなるので、1ヶ月で与えられるように祈ってください」ということでした。そしたら、本当に、1ヶ月でちょうど就職できました。
仙台で、有名なお菓子屋さんでした。180人ぐらいで二人しかとらないはずだったのに、三人合格した一人でした。ですから今度は本当に、神様が祈りに答えてくださったと、信じたのです。
信じれるようになれるのは、素晴らしいことです。信仰によって、神がいろんな壁を打ち破らせてくださいます。
本当です。