以前、いやしの働きで用いられた、井上牧師という方がいらっしゃった。
さらにやはりいやしで用いられた、新井牧師という方がいらっしゃった。
お二人とも、確かに、顕著な、顕著な、いやしが起きていた方々。
そして、井上牧師は、自分は、イエス様を乗せた、子ロバだと言っていました。子ロバは、何の力もないが、
乗せている人は素晴らしいお方、キリストであると。つまり、素晴らしい癒しは、イエス様がなされているのであって、自分は、無力な子ロバに過ぎないと。なんとも言えない、自然な、謙遜な感じ。
新井牧師も似たようなことを。自分が人をいやすのではない。私が、神に祈ると、神が人をいやすのだと言っていました。
そして、お二人とも、繰り返し繰り返し、これらのことを言っていました。
当時は、ご高齢のメッセンジャーなので、同じことを繰り返しいってしまうんだろーなと、思っていました。
しかし今は、はっきりわかるのは、これを繰り返し、繰り返し、繰り返し、意図的に言わなければならないであろうということ。
神が癒され、人ではないということを、繰り返し、繰り返し、いうことに意味があり、それが神に栄光を帰すということであり、それが、継続してたくさんの、大きな癒しが起きていく秘訣かもしれないと、思っています。
パウロ牧師も、「私ではなく、キリストがいやすので、キリストをみてください」、と繰り返し、言い始めています。
これは、たくさん大きな癒しが、起きていきますね。本当にそう思います。