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2019年08月15日

先の大戦は侵略戦争ではなく植民地解放戦争だった論拠【35つ】

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【1】かの戦争はアジアの欧米による植民地解放のために膨大な犠牲を払いながら戦ったことを誇りにするべきではないではないでしょうか。



【2】非欧米の国々は、日本、タイ、チベット、エチオピアを除いては、みな欧米の植民地だった。アジアでは日本を除いてタイだけが植民地ではなかった。日本は戦わざる得なかったのです。



【3】1910年代後半から、アメリカではスティブンスの『太平洋戦争』など日米未来戦記が盛んに刊行された。なかでもホーマー・リーの『無知の勇気』は、日本でも『日米必戦論』、『日米戦争』のタイトルで刊行された。この本は、ハワイ、フィリピン、アラスカ、せしてロッキー山脈以西のすべてを占領するとして、日米戦争を煽るものだったのです。



【4】満州事変は侵略ではなく、中国の露骨な排日運動の末に起きたのです。



【5】満州国には年間100万人以上もの中国人が万里の長城を超えて雪崩れ込んできました。



【6】日本による中国侵略とされている支那事変でさえ、中国との和平交渉を一日といえでも中断したことはありませんでした。盧溝橋事件の直後、日本では事態の不拡大と現地解決の方針を固め、廣田外相は臨時閣議で杉山陸相の三個師団急派の主張に反対を表明している。さらにはドイツのクラウトマンを通じて和平工作なども行いました。



【7】もし仮に米英が日本に経済封鎖せず、南方との平和的な交易を許していたなら、この戦争は発生することはなかったのです。



【8】日本には欧米の植民地を奪取し、代わって経営する意図も計画も持ってなかったのです。



【9】日本が1937年に世界最大の戦艦である「大和」と「武蔵」の建造に着手したのは侵略的意図があったわけでなく、ルーズベルト大統領が大海軍建艦計画を推し進めたからです。



【10】支那事変の戦火拡大したのはアメリカでした。戦略物資の支援を通じて重慶に追い詰められた中国政府を支えていました。


【11】アメリカの対日禁油により日本海軍は二年後には機能しなくなり、重要産業も一年以内には麻痺すると予測され、戦争は避けられなかった。



【12】東郷外相はハルノートに対して「米国が今まで経緯および一致する範囲をすべて無視し、従来執った最も強硬な態度さえ越えた要求をここに持ち出したのは、明らかに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、ただ日本に全面的屈伏か戦争かを強要するものである」と語った。



【13】ジョセフ・グルー駐日米大使はハルノートを読み、「戦争のボタンは押された」と言ったそうです。


【14】スカルノはインドネシアの独立に西暦ではなく日本の皇歴2605年に因んで「05年8月17日」にしたのは日本がオランダを追い出したという背景に因んだものなんです。



【15】日本軍が育てたペタというインドネシアの軍隊に日本人は1200人も殺されたが、それでも日本軍兵士は彼らの独立のために2000人が帰ってきて宗主国オランダと戦いに協力して、その半分が戦死しました。



【16】タイのパーイ川を渡る橋は1942年に日本軍が建設したのですが、さび止めまでして保存している。理由は日本がアジアの植民地を解放してくれると期待したからだ。日本製軍艦「メコン」もチャオプラヤー川の畔に永久展示されている。



【17】「ビルマの民は日本軍を信頼していた。日本の爆撃機が飛んできても避難しないで着ていたTシャツを破り、それを振って歓迎した」と初代首相のタキン・ヌーの手記にある。



【18】フランスの植民地政策は人頭税、酒税、塩税、結婚税、葬式税、引っ越し税を課し、本国で禁止されている阿片を売買していた。さらに、識字率は1%。学校は建てないが刑務所はすべての街に建てた。 しかし、日本は人頭税も塩税も課さなかった。所得税にいたっては本国の七分の一だった。刑務所の代わりに鉄道を敷き、電気を通し、学校も建てて識字率は90%を超えていました。



【19】14万の将兵を見捨ててフィリピンから逃げて脱出したマッカーサーは本国に「私は守備隊とともにこの要塞にとどまる」と繰り返し言い続けている。実に白々しいセリフだ。さらに、その前には私的にフィリピン政府から5万ドルを略奪している。アイゼンハワーなどはかなり怒っているとシャラーの本に書いている。



【20】インドネシアの副首相であったアラムシャは日本軍について次のような報告書を残している。「オランダ時代の350年間は、植民地特有の搾取と弾圧の連続であった。それは非常に過酷なもので、同じタイプのアメリカ、フランス、イギリス、ポルトガル、スペイン語の遠く及ぶ所ではない。…日本軍政時代の3年半については、オランダ、チャイナ、アメリカなど、戦勝者の学者が痛烈な批判を下しているが、仮に日本の軍政に欠点があったとしても、たかが、3年半である。オランダ時代の3世紀半と比べ物にならない。日蘭を同じ質、同じ量と見て批判するには、根本的に間違っている。…日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀曜し、感謝感激したのは当然である。私は、日本軍の小さな欠点をあげつらう代わりに、大きな長所を挙げてみたい」


【21】ビルマのバー・モウは、大東亜会議について回顧録にこう記している。「広いアジアそのものをひとつのものととらえる思いに満たされていた。…われわれは、隔てられた人間としてではなく、すべての国民を包含した単一の歴史的家族としてより集まっていた。こんなことはかつてなかったことだ」



【22】インドネシアの独立運動指導者、アリフィン・ベイはこう語りました。「日本軍に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形を取り、他面では近代化した日本の精神的、技術的面の出会いだった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジア諸国に残っていたのはほかならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次世界大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたか認めなければならない」




【23】インドの弁護士会の長老、グラバイ・デサイは、1946年の挨拶で次のように語りました。「この度の日本の敗戦は真にいたましく、心から同情を申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆に当たらない。殊に優秀な日本の国民においておやである。…インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で30年早まった。これはインドのだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべてである。インド4億の国民はこれを深く銘記している」


【24】太平洋戦争中に、日本兵の捕虜を尋問する目的で秘密裏にカリフォルニア州サンフランシスコ郊外に設置された捕虜収容所があった。この収容所について書かれた「トレイシー」の中に、米国政府は密かに戦争開始前から、日本語堪能なアメリカ人を要請し始めた。1941年に海軍と陸軍は秘密裏に日本語学校を設立した。真珠湾攻撃の前だったことにも注目すべきである。



【25】フライング・タイガースについて。1940年の夏に蒋介石の空軍の顧問をしていた米国退官空軍将軍クレア・シェンノートを、宋美齢の指示でワシントンに送った。彼は米国大統領ルーズベルトに特別の空軍部隊の設置を要求したのに対して、大統領が承認したのだ。資金は米国政府の中国に対する融資で、前もって1939年に緩和しておいた中立法令を利用して、大統領が官邸主導で準備が進められた。シェンノート将軍は、1940年からワシントンで100機のカーティスP-40戦闘機の購入と100人のパイロット、さらに200人の地上整備員や管理者を採用する手続きを監督した。



【26】フライング・タイガース・プロジェクトは、大統領官邸ホワイトハウス内の大統領補佐官、ローリング・カリー博士が率いる特別空軍班によって計画された。この辺事情はアラン・アームストロング著の「先制攻撃」にかかれています1941年5月9日には爆撃機を含む航空機を中国に供与する趣旨のメモを大統領に提出した。大統領は5月15日にその計画を進めるように回答しました。カリー博士は5月12日には、軍事参謀長ジョージ・マーシャル元帥に、中国に350機の戦闘機と150機の爆撃機ゆ10月1日まで提供すること、日本の都市、神戸、京都、大阪、東京、横浜地域の軍需生産工場を爆撃することなどを含む内容のメモを提出した。7月23日には、大統領は承認し、アメリカ人の操縦によるアメリカが提供した「中国の爆撃機」で日本の都市を爆撃することに対して許可が出されたのです。



【27】1941年8月に、日本の近衛文麿総理大臣はハワイかアラスカなどの米国領内で大統領と直々の会談をすることを要望していた。しかし、ルーズベルトは8月の記者会見の際には黙秘し、9月3日にホワイトハウスの報道官は、記者の質問に対して、近衛首相からそのような要請はなかったと答えた。しかし、記録によれば、首脳会談の要請は8月17日に日本の大使が直接、大統領に伝え、28日には首相の親書が大統領に渡されていた。それは日本としては、最後の平和的交渉の試みであった。



【28】ハル・ノートを日本側に手渡す直前の11月25日に、大統領は国務長官、海軍長官、陸軍長官、マーシャル元帥、スターク提督を集めて会議を行い、「我々は次の月曜日にも攻撃されるかもしれない」と発言し、「如何にすれば、彼らに先に攻撃させて、しかも我々の被害を微小にとどめられるであろうか」と質問した。



【29】ハル・ノートを手渡した翌27日、ハル長官は陸軍長官スティムソンに、「もう私は手を洗ったから、これからは貴方とノックス、すなわち、陸軍と海軍の出番だぞ」と言った。



【30】日本の真珠湾攻撃が始まった12月7日のワシントン時間午前二時、陸軍長官のスティムソンは、日記に「日本がハワイを直接に攻撃したことで、すべての問題は解決された。まずは決断の苦労から解放されてホッとしている。この危機はわが国民の一致団結をもたらす方向で起こったので、救われたという気分である」と書いている。


【31】ケロッグ国務長官、国務省のジョージ・ケナン、マイニア教授など多数の著名人は東京裁判に批判的である。



【32】タイ国の元首相、ククリット・プラモード氏は、1955年に元タイ駐屯日本軍司令官であった中村明人陸軍
中将が国賓待遇でタイに招待されたときに、最もタイ国で権威のある「サイヤム・ラット」紙に以下の歓迎の言葉を述べている。

「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生れたて子供はすくすく育っている。今日、東南アジア諸国民が、米英と対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなしたお母さんが、あったためである。12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。われわれは、この日を忘れてはならない。」



【33】フィリピンの歴史家のディソンは、こう述べている。

「1941年12月8日に、私の目の前でアメリカ軍のクラーク飛行場が日本軍の爆撃によって破壊されたのは大きな驚きでした。それよりもさらに大きな衝撃だったのは、1942年にバターンの戦闘に敗れたアメリカ兵が両手を上げ、アメリカ兵よりずっとからだの小さい日本兵に銃剣を突きつけられているところを見た時でした。私はすぐにはその光景を信じることができませんでした。しかしこの時こそが、フィリピン人が民族主義に目覚めたとても重大な時だったのだと思います。フィリピン人は初めて、自分達がアジア人が白人を打ち負かすことができるということに気づきました。(後に大統領になった)ホセ・ラウレル、ラファエル・アルナンといったフィリピンの指導者にとってはそうだったのでしょう。彼らはただちに日本を賞賛しました。」



【34】フィンランドでは、日本人がロシアを打ち負かしたことにより独立を勝ち取っており、それによって日本賛美の教育がなされています。トルコにおいては日本人を善人と教えています。



【35】ウエッブ裁判長は、オーストラリアへ戻って退居した後に、東京裁判について「あの裁判は、誤っていた」語っています。

2018年08月09日

原爆にまつわる都市伝説

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★広島平和記念館を上空で見ると、フリーメイソンのプロビデンスの目にピラミットが。

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★トルーマンとルーズベルトはフリーメイソンだった

★レーリッヒ平和協定が結ばれている長崎に原爆を落とされた。日本海軍の一大拠点であった長崎港周辺の軍事施設を避けてわざわざ浦上天主堂というキリスト教会に原爆を落とした。

★原爆を投下した爆撃機の名前はエノーラ・ゲイ。意味はイディッシュ語(東欧のユダヤ人の言葉)で「天皇を屠れ」であった。

★トルーマンは、子供の頃からひ弱い坊やと言われ、ルーズベルトが急死したあとを継いで大統領になった後も頼りないと言われた。本人も当初は自信が持てないと日記に書いてあった。だから、男らしいところをみせようと思って努力しているところへ原爆完成の報告がきたので、早速、原爆投下をしたのだとロナルド・タカキというアメリカ人が書いている。

★愚かしくもルーズベルトは無条件降伏を突きつけることで、戦争を野蛮にし長引かせた。原爆投下のためだったと勘ぐらざる得ない。

★主によれば、1947年のロズウェル事件は原爆投下により地球文明不介入の宇宙協定の例外と判断されたようです。

2018年07月24日

5分で分かる「ユダヤは大東亜戦争で日本に何をしたか」

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★湯川秀樹博士は日本の原爆の研究を米国に売り渡したためにノーベル賞を授与された。(ノーベルはユダヤ人)

★英国の元首相チェバレンは「イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人とである」と言明した。

★東北学院神学部の著者はこう指摘している。戦時中キリスト教信徒で、カリフォルニアと短波交信をしている者もいた。

★広島にいた日本の第二總(そう)軍は最も強固な本土決戦派であったことを知って原爆を投下した。

(広島はキリスト教徒が多かった。これはキリスト教国であるアメリカにとって原爆を投下をするのは不可解なこと)

★大川周明と愛の右翼と言われた赤尾敏は米国経由の対日工作資金を張学良経由で、しかもキリスト教婦人矯風会の子女の手を経て握らされたのであると聞かされている。

(大川周明は愛国者の間でも当時は評判が悪かったらしい。大川周明は戦犯を免れている。)

★満州の農事合作社にいた日本共産党員に資料をでっち上げさせ、東条に満州の関東軍に南進を決断させている。

(もし、日本が北進を決断してドイツと日本でソ連を挟み撃ちにした後に、ドイツと日本でアメリカと戦えば大東亜戦争は勝っていたかもしれない。)

★西安事件により、蒋介石は親日から抗日に変わった。

(四王天延孝陸軍中將によれば蒋介石の政治顧問であったユダヤ系イギリス人のドーナルドという男が西安事件を仕組んだとのこと。)

★著者は終戦直後にオランダの外交官たちが、米国海軍の艦艇を盗み撮りをしていた話を聞いたらしい。

★関東軍はロシア語堪能な人材を用意しており、既にシベリア占領を想定していた。だが、コミンテルンのシベリアの飢饉を過大に言い、食糧補給の面から北進を断念した。

★佐々弘雄が戦後まもない頃、週報のなかで、大川周明・児玉誉士夫・楢橋渡の3人は上海のハードン財閥と直結していたと発表して、資金ルートを公表した。

★GHQの労働課長であったT・コーエンは「日本の革命占領政策は、日本民族のフリーメイソン化政策、家庭の崩壊、世代間断絶、国民の無気力化に眼目をおいた」と語った。

2018年03月02日

太平洋戦争こうすれば勝てた【本のすすめ】

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前置きに

なぜか大東亜戦争と予測変換できなかった。ネット変換もできなかった。




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★真珠湾攻撃をもう一度やれば、アメリカの艦隊は全滅し、日米戦争に勝てた。




★ニューギニアの戦闘はいらなかった。あんな資源の無い場所で無意味にも10万人も死んだ。これが一番馬鹿らしい。

サイパンやフィリピンといった決戦の場に集中すべきです。




★日米開戦の時に陸軍が海軍に「全力を上げて協力します」と言えば、それだけで勝っていたかもしれない。何なら陸軍を廃止しても良かった。

あのとき陸軍の精鋭部隊を中国に置き去りにして戦ったのがいけなかった。日本は片手でアメリカと戦ってようなものです。

何なら南京陥落後、有利な条件を突きつけて講話してしまえば良かった。




★海軍の実松譲大佐がアメリカの新聞を分析してほとんど100%に近い予測をした。しかし、海軍の上層部は信じなかった。

リスボンで工作していたアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの手記によれば日本は原爆の完成も知っていた。

ちなみに原爆の投下に選ばれた長崎はレーリニッヒ中立条約結ばれていたにもかかわらず投下したのは戦後、日本にキリスト教が根付くのをルーズベルトが怖れたからだと言われている。その点、広島もキリスト教が多かった。

ルーズベルトの祖母の家系は麻薬で莫大な冨を築いており、ユダヤ系であった。




★ドイツ軍はソ連軍の動きについてほとんど完璧な情報を持っていた。だから、前半はぼろ勝ちした。しかし、後半ヒトラーがそれを信じなかったがために負けたと。




★日本はハル・ノートを受け入れても良かった。なぜなら、日程が要求されていなかったから。「受け入れる」と口だけ言えば良かった。

それとハル・ノートを公開すべきでした。そうすればアメリカは世界中から非難を受けるはずです。




★日ソ中立条約を結ぶべきではなかった。

ソ連は中立条約を結び破ることを繰り返していたから。




★イギリスをもっと叩いて滅ぼすべきだった。そうすれば、ドイツが対米戦争に参戦し勝っていたかもしれない。




★チャーチルが回顧録で「中近東の喪失はロンドンの陥落より恐ろしい」と。

つまり、アラブにいるイギリスの第八軍を日独で攻め落とせば、石油が無くなりイギリスは干上がって勝てた。




★日本の部隊は世界最強だったが日本のリーダーやエリートはあまりにも出来が悪すぎた。今でも東大出の政治家、官僚、学者は無能である。

チャンドラ・ボースを日本の首相にすれば良かった。

例えば、イギリスはユダヤ人のロイド・ジョージを首相にしたり、オーストリアはドイツ人のメッヒルニヒを首相にしたりしている。




★ヒトラーも日本も原爆の開発は間に合わないと諦めた。しかし、ルーズベルトは原爆の開発をやろうと決めた。これが決め手になった。




ここまでお読みいただきありがとうございました。










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