世の中に要らない命などない。

この話、泣けた。

【稲川淳二さん、障害者の親として衝撃告白 「次男に死んで欲しいと思う気持ちあった】

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生まれてきた次男はクルーゾン氏症候群という病気を抱えていた。
(中略)
そして「本当に許せないことですが、うちの子のことですから、こんな話をどうか許してください」と前置きし、「私はね、次男に死んで欲しいと思う気持ちがあった」と語る。

次男がいたら、将来妻や長男も大変な思いをする。
どういう病気なのかも当時はよく分からなかったし、病室には二人以外誰もいない。
「じゃあ今、自分で殺しちゃおうかな。
その代わり、ずっとこいつに謝り続けて生きればいいんだ」と思い、次男の鼻をつまんで呼吸を止めようとしたが、鼻先数センチのところで手が震えた。どうしようもできず、そこに妻が戻ってきたという。
(中略)

その後、次男の手術は成功した。次男を見たときに、たまらなくなって「由輝!オレはお前の父ちゃんだぞ!」と初めて名前を呼んだ。
それまで自分の中で次男の存在を抹消しようとしていたといい「自分が望んだ子どもなのに、オレは命を否定した。(中略)何て最低な父親なんだと。……。思いました」と語っている。

この経験が機会となり、テレビのお笑いの仕事をやめた。
身内に不幸があっても芸能人は笑っていなければいけない。「自分を殺してまで笑いの仕事をするのはやめよう」と思った。
そして、現在の障害者支援の活動にも繋がっていく。
...............................................................................................................................................................


その立場にない私が、安っぽい同情をしては叱られるが、
実は私ども家族もかつて、
稲川氏が医師から子供の体の異変を指摘されたのと、少しだけ似た経験がある。
(まさか、命をどうのと思い詰めたことはない。)


生まれて数ヶ月、健診で「?」が付いた。
体の負担もあるだろうて、散々調べられ可哀そうだった。

結局、紹介で「大○○整肢園というところに名医がおられる」との事で、
その先生のもとを訪ねることとなった。

かかりつけの小児科医(発達関連)の医師から、
その園の様子に、「きっと驚かれるでしょうが」と前置きされていた。

訪ねた先に、医師の予想どおり、度肝を抜かれた。

正直なところ、
我が子の未来が、「そこにあるかもしれない」という不安。

そして想像を絶する、またこちら、またこちら…
園じゅうが、重い障がいを背負ったお子さんばかり。
こんな光景は初めてだった。

そのとき、首のまだ据わらぬ我が子が、この腕の中にいた。
我が子が本当に愛しくなったのを記憶している。


その後、先生の診断では、思ったほどの懸念はないものの、
訓練を含めた戦いが待っていた。

大事なのは、“兵法”を誤らないこと。
腹は決まっていた。


幾星霜、

少々、おチビさんだが元気である。
今はまったく問題もなく、
あの頃が嘘のよう。

僕のハンデを労わり、協力してくれる優しい子。


この子は、もの心つく前から今日までずっと
ご本尊の前に向かわない日はない。

たとえ私が酔って帰ってそのままコテンと爆睡してしまう日があっても(笑
この子は絶対に欠かすことはなかった。


きっとこの子には、大きな使命があるんだろうなぁって、
日々成長に目を細めている。


記事では、
『世の中に要らない人、要らない命なんてないんです。それだけは、分かってください』と結んでいる。


…うん。



ぐんぐんと育て!(写真:はた京阪)


子供にいつも言いきっていることがある。

『僕は「相対評価」をしないよ、
自分の輝きをして欲しい。』ってね。


あの時わかったこと。
親として、
それを生涯の指針としている。








稲川さん、語ってくれてありがとう。
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信愛なる隣国、中国

かつて両国の熱き二人が、命がけで作ったもの…。

私たち日本の国民は、けっして忘れることができない。

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以下、是非ともリンク先をお読み頂きたい。

ジャーナリスト 西園寺一晃氏「私が歩んだ日中友好の道」と題した講演より。


ところが、こういう状況の中で、国際情勢、あるいは日中関係について画期的な提言をした人がおります。
(中略)
まさに、その一番悪い状況の時に、池田氏は日中友好の提言をした。

(中略)
日本のマスコミは残念ながら、この提言をほとんど無視しました。右翼は目の敵(かたき)にしました。大変などう喝、恐喝が相次いだと聞いています。

しかし、この学生部総会における発言を真っ向から取り上げて重視した人がいました。 それは、残念ながら日本人ではなくて、中国の周恩来総理でした。日本にいた新華社通 信の記者が、これを翻訳して周総理のもとに届けました。周総理は熟読しました。このことを私は、直接、ご本人から聞きました。

また後に、私は周総理が「池田会長の講演内容は大変、素晴らしいものであった。尊敬 と感動に値する内容だった」と語ったと聞きました。

(中略)
なぜ公明党か。当時、マスコミでも謎だったんです。それは、さかのぼって考えれば、1968年の池田大作氏の学生部総会における提言、それを重視した周総理、そこに原点をを求められると思います。

(中略)
ところが、その時、周総理は病院の中で、「私はぜひ会う。ぜひ会うから呼んできてくれ」と。それで困ってしまったんですね、医師団が。
会えば、身体にさわる。命が完全に縮まる。保証はできない。秘書団も反対しました。
しかし、周総理は大変、頑固に、「どうしても会う」と。

医師団、秘書団も困ってしまって、「これを止められるのはケ穎超夫人しかない」ということで、夫人のところへ訴えに行く。もちろん、ケ穎超夫人が周総理を止めると思ったんですね。もちろん奥さんですから、夫の身体にさわって命を縮めるわけですから、これは当然、止めると思った。

そうしたら、ケ穎超夫人がじっと聞いていて、「会わせてあげてください」と言った。「ぜひ会わせてあげてください。本人もそれを希望しています。命を縮めてもやらなければならないことがある。命を縮めても会わなければならない人がいる。それが、今です。ぜひ、会わせてあげてください」と。

夫の命が縮まることは分かっているわけです。それでも、「ぜひ会わせてあげてください」というのがケ穎超夫人の言葉です。
それで仕方なく、医師団も秘書団も納得して、この周恩来・池田会談というのが実現したんです。それが見えないところで行われていたもう一つのドラマです。

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命を顧みず、とてつもなく大きな困難に立ち向かった両国の偉大な先人たち。


両国を取り巻く情勢はに困難渦巻くこの時代においても、
揺ぎない平和への理解の輪拡大へと向かいたい。


私も中国への思いはけっして浅くはありません。
残念な出来事が伝わるごとに、心を痛めます。


いろんな事が渦巻いているようです。
両国における現代の為政者は、この日中の平和を構築する歴史において、のちの世から「平和の敵」との評価を受けることを恐れながら、自らの責任の重さ感じ取って欲しい。






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業務貢献表彰

以前、拙ブログ記事で書き込んだ、私が会社から表彰される事となった件です。

※ここをクリック


昨日、会社から表彰して頂きました。

ささやかな表彰ではありますが、
しがないサラリーマンにとって、この上ない励みになります。

これまでたいへんお世話になっている諸先輩、上司、同僚の皆様、
そして家族、同志、人生の師匠に捧げたく思います。


金一封つきです。(結構、大きな金額でした。)               (写真:はた京阪)

使い道ですが…、気持ちはひとつです。 皆様、お分かりですね?(笑



業務貢献表彰、実は2件いただきました。

ひとつは、新しい「行動」によるもの。
そしてもうひとつは、新しい「開発」のものです。


もとより、職責からも
地域社会への貢献、業務品質の向上に努めてきた自負もあり、
そのことが評価につながったことは、職業冥利に尽きます。

ちっぽけな表彰ではありますが、
一所に懸命になることは、
まさに「逃げない」「果たす」ことに他なりません。


人生の師匠いわく、
『今いる場所で勝て!』


そして、
『なくてはならない人に』


過去の一時期、世間から見捨てられようとしていた私でしたが、
人生の師匠のこの指針を胸に、ここまでやってきました。

また、
「これが私の職業である」の自負のもと、
これからも、そして更なる向上を目指し、頑張ってまいりたいと思います。



思えば本当に不思議な道です。
不思議で仕方ない。

強引なことは何もしていない。
全て素直に受け入れてきただけです。

「確信」です。

だから、ただまっすぐに来さえすればよかった。


でも、
「まっすぐ」と「平坦(へいたん)」は違うよ。
ここ、すっごく深い言葉だからね(笑


今、世の中は本当に大変です。
「仕事をする」「生活を営む」ことが、どんなに大変なことか。
痛いほどわかります。
ですから、例えばブログで能天気なことを書き込むのに少し躊躇します。
できることなら、このけっして平坦ではなかった歩みを背景に、
そういった方々へのエールになればと思う次第です。


生意気を言うようですが、

「何のためにブログを書くのか?」

ここが、あ・え・て・創価を看板にしたブロガー同志にとって、
創価たるゆえんの分かれ道だと思います。



さて、

人が現れ、
人が力となり、
つくづく自分ひとりでやって来れたんじゃない、って思います。感謝です。


ですから、

こういった、今回の過分なるご評価を頂いた“姿”で、モノを言う…等々、

つまり、これは一般論ですが
世間の賞賛や、世間の競争で勝ち得た姿でもって、ねじ伏せるような“布教”観など、
増上慢も甚だしいと私は思うのです。

ええ、そういうのを増上慢っていいます。

怒られます。お世話になった方々からね。
ひとりで来れた奴なんかいないんだから…。


ある事例へ、ちょっと苦言です。




閑話休題。


当然、これで終わりじゃない。
ちっちゃい、ちっちゃい(笑


でも、素直に嬉しい。





オカン(亡き母)に見せたかったなぁ。


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「仏法は成果主義」…という発想。 〜“凡人の逆襲”人生のはじまり。

これは、はた京阪流の「発想の転換」の話です。
正しいかどうかはともかく(笑


世に「実力主義」なるものが時々言われます。
実力こそがモノをいう、との考えですね。

その“実力”とは何ぞや?
ちょっと考えてみましょう。

十人十色と申しますが、そのひとり一人に備わる“力量”ともとれます。
これがいわゆる「個性」として尊重されるなら良い事なのですが、
「実力主義」と銘打つ場合、“備わるもの”“性能”に「至っている/至っていない」という「上下」の尺度になってきます。
おやっ? これでは頑張る以前に差がついているんじゃないかな?と思ったわけです。

で、そのような“実力”なるものが仮に備わっていたとして、
それに怠けて100の力がありながら、60しか発揮しようとしない人は困ったものです。
それよりも、50の力しか持ち合わせいない人が、
最大限の努力の末、50の結果を残された事による評価のほうが素晴らしいじゃないですか。

つまり、備わった力などなくとも、
“頑張った結果”こそが認められるべきなんです。
その意味においての成果主義です。

私のような何かにつけて才能のない凡才人間でも、
頑張りを発揮すれば、何でも拓けるということです。


その実力主義とやら、そんなものは日蓮大聖人の仏法にはありません。
創価学会にもありません。


あるのは「成果主義」です。


おおっ、出ました。嫌われ用語です(笑
こんなことを発すれば、アンチ創価君が飛び上がって喜びそうですね。

でもね、「成果主義」といえば聞こえは悪いですが
要は「やったもの勝ち」です。

やる前から差(“性能”“力量”)がついているわけではなく、
「凡人の逆襲」へのはじまりです。


厳しい側面もあります。
やったものしか“勝て”ない。


『叶い叶わぬは御信心により候べし』 (日蓮大聖人御書 1262ページ)


だから、それぞれの成果をひたすら目指すものなのです。

頑張ったからこそ…。
この御書は、厳しくも当然の一節といえます。



ただ、勘違いしてもらっては困ります。

この成“果”とは、
「相対値」ではなく、「絶対値」(個人値)です。

※このことは、ここでもふれました。
叶った姿を想像しつつ、「ありがとうございますっ!!!」という祈りについて。 (〜ブログ村「名無しちゃん」さんへのお返事)


いわゆる“数値の達成”を強いるもの、つまり「ノルマ」を強いるものではありません。

勿論、人それぞれに○○が得意な人、○○が不得手な人が存在します。
これらをひとくくりにし、相対評価することなどは、あってはならない。
挑戦する姿、そして出したその個人値が尊い。

この“個人値”、
他人と比べることなどなくとも、より厳しい自己管理が待っているのです。

その個人値を決めるのは、いわゆる貴方の嫌いな幹部ではなく(笑
貴方自身であることも付け加えさせて頂きます。


その個人値には、個人の“時計”も含まれています。
そのうえで、最後にもう一回。

『叶い叶わぬは御信心により候べし』



“実力”に安住しますか?
それとも、私のように“凡人の逆襲”しますか?(笑





さて、これはおまけです。
ホワイトボードに書いてあったものを、ちょっと撮影させていただきました。
関西創価学園の、あるクラブ活動における、創立者と生徒たちの絆です。

(写真:はた京阪   関西創価学園)

流す汗は、けっして一人ぼっちじゃないと思う。 それは何であっても。




まぁ、それも一理あるかもね
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『他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない』  〜関西創価学園で

緑豊かな交野(かたの)の地、関西創価学園。
この日は雨上がりで、少々曇り。
時折、晴れ間もさし、空気はとても澄んでいました。

京阪電車とJR西日本が最寄の駅です。



この学園に、そして生徒たちに、創立者がどんな思いを込めたのかを
校内にある小さな石碑(写真)が静かに語っています。

以下は、創価女子学園(現・関西創価学園)開校時における、創立者池田先生の祝辞です。

.......................................................................................................................................................

私が今から皆さんに望む事は
『他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない』
という信条を培っていただきたいということであります。
すべてにわたって、この心をもち、実践していったならば
まれにみる麗しい平和な学園が実現することでしょう。
地球は大きく、この学園は、その地球から見るならば
ケシ粒のほどであるかもしれない。
しかし、原理は一つです。
皆さんのささやかな実践は、そのまま人類の平和への軌道に通じ、
やがて地球をも覆う力をもつはずであると、私は確信したい。
そして、平和の戦士の卵が
この学園から陸続と育っていただきたいのであります。
(第一回入学式 創立者の祝辞より)



平和教育原点の碑 (写真:はた京阪  関西創価学園、校内)





雨上がりの少々曇り空だったが、爽やかな空気が満ち溢れていた。


三色旗と校旗 (写真:はた京阪  関西創価学園、校内)




『他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない』

これは私たちにも、です。



今日は「こどもの日」、

こどもたちの、健やかな成長を願う日です。


そして、

親の私たちの生き様が、
どれだけ子供たちに影響を与えてしまうか

それを考え、改める日でもあります。






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何かが違う。  〜ある著作引用文の削除に思う。

たまたま、たどり着いたある創価学会員氏のブログ。

転載をお許しいただきたい(笑


こういうくだりがあった。
.....................................................................

ある学会員の方からのメッセージで、御義口伝の
各段のまとめページにある池田先生の講義からの
引用について、「著作権侵害にあたる可能性がある」
との指摘があった。

(中略)
この引用は、もちろん丸写しではない。
段によっても異なるが、量から言えば、全体の
10分1程度の量を引用した。
講義の中から、重要箇所としてアンダーラインを
引いた箇所を抜き出したわけだが、結果的に
結構な量になってしまったことを気にはしていた。

(中略)
池田先生の素晴らしい御義口伝講義が絶版と
なっていることを残念に思っての引用であったが、
結果として違法行為をしていることになっては
意味が無い。

ブログ閲覧はここをクリック
.....................................................................

ご本人は反省され、既に削除された模様。
ゆえに削除前の状態はわからない。

晴れて「違法状態」は脱することはできた様子。 
なるほど、法の秩序、学会員が振る舞うべき社会的正義は保たれた… というわけか。


むぅ、それを読んだ我々は『よかったね』『万々歳』となるだろうか?

どことなく気分が悪いのは私だけか?


私自身の職業上、コンプライアンス遵守にはかなり厳しい立場を取る。
法令順守、著作権の侵害や個人情報の取り扱いについて …等々、

相当厳しいよ。


たかが個人ブログだからって甘くみてはいけないし、
信心のことなんだからって、何やってもイイってことはない。

ただ、個別判断だ。
ゆえに“診断”されたんだろう。


では、個別に考えてみた。

著者(池田先生)は、御義口伝を講義する上で“著者”の了解を得ていただろうか。
まぁ、これは屁理屈である(笑


先生の目的とするところが、売り上げであったり情報の独占ではないはず。
あくまで“魂の伝染”“魂の継承”であるところを考えれば、
営利を伴わないブログに一部転載、引用には寛容であっても著者は怒らないのではないか。
出版社(聖教新聞社、潮出版等)が巻末であえて釘を刺しているのも、そのような想定以外への悪用を防ぐためだろう。

騒いで“事件”に仕立てるのも、この手の“善意の忠告者”である場合も、しばしある。



本日、5月3日

魂の継承、私たち自身の5.3となさん。




なるほど
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『仕事と学会活動の両立』でお悩みの貴方へ

昨今、本当に世の中は大変です。
そんな中、「仕事と学会活動の両立」でお悩みの方も多いと思われます。

そんなテーマで、いろんなところで語られているもよう。


私の考えですが、答えはかんたん。(と強がってみせる)


先ず、議論テーマにご注意いただきたい。

「仕事と活動の両立」ならわかるが、「仕事と信心の両立」ってのは???です。
“信心” …って、仕事の忙しさによって消えるんですか?(笑 
じゃ、悩むことないじゃん。信仰心が消えたんならね。

「信心」があるから「悩む」んじゃないの?
だったら、既に両立できているんじゃないの?

でしょ?(笑


で、「はた京阪君、お前はどうなんだ?」と。

ええ、ほぼ問題ない。本当にありがたい。
ただ、ここへくるまでは相当な戦いがあったことを付け加えておこう。

あとは、日常のイレギュラー。

これはね、いざ飛ばせない“日程”に対し、よほどの思い(即ち、祈り)がないと、
とたんに邪魔が入る。
とはいうものの、若い頃の牙城会任務でその緊張感は訓練済み。
相当悩ませ頂きました(笑


で、閑話休題。 

「仕事と活動の両立」の解決への糸口。

一つは、一家で誰かが(女房とか)がちゃんとラインについていれば、まずはよし。


もう一つは、「心こそ大事」、…そう教わったよね?

仕事は大事にきまってるし、活動も大事にきまってるさ。
要は、「仕事に逃げているわけじゃない」って、心からそう思えるなら、
それが真実なんだよ。

そういう貴方、「けっして逃げてない」ってば(笑
「心こそ大事」って本気で思っているならね。


あのね、信仰の世界って

「相対値」(誰かと比べて)じゃないんだよ。 
全てに「絶対値」(本人の目標)なんだよ。 パーソナルにね。

ここ、めちゃ重要。


何度も言うけど、心ね。

開き直って、な〜んにも悩まないで、どっぷり…はチト困る(笑
少しでも一歩先に解決に向かって取り組んでる? 要はそこ。


全てが仏道修行と捉えるものなんだから、楽なわけない。
楽に解決しちゃ、修行にならないよ。
要は向き合っているかです。

その時点で信心の戦いにおいては勝っていますよ。ご安心召され。


あとはね、
そんな貴方を誰も責めないさ。 

何のための組織なんだよ? 貴方を追い詰めるため? んなわけない。
貴方をまもるためだよ。

フォローし合えばいいんだよ。そのための組織だろ?
「なんとかしたい」と思って懸命にやっている姿こそ大事。


仕事に没頭しなきゃいけない時もあるさ。男だもん。
そんな時きゃ、「いつか取り返してやる」、そう忘れないこと。
 
後ろめたい思いでやってりゃ、仕事でミスするぞ(笑


あのねぇ、人生、いろんな時がある。
勘違いしちゃいけないのは、
訳あってやむを得ず学会活動ができないからといって、
それが「“信心”が無い!」ってことじゃないってこと。


カンカン照りばかりじゃ、日射病になっちまう。
たまには曇の日も要るさ。


三度目、言うよ(笑

心こそ。

それさえ失わなきゃ、たとえ一時期、少し活動が薄くなったって
けっして貴方は【 信 心 】で負けてないってば。



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お笑いコンビ「ナイツ」は、“王道”を歩む。

珍しいタイトルになった(笑

以前、テレビで観た「イイ話のだなぁ〜」ってのを、僕が某所で書き込みしたんだけど、
ここ数日のブログの書き込みに関連するので、引用して触れたい。

『コイツ(私)、テレビばかり観てんじゃね?』とお叱りを受けそうですが、そうじゃありません。
少ない(視聴)からこそよく覚えているのと、観る番組を厳選しているのです(汗


ある夜、これまたTVをなんとな〜く見ていたら、漫才コンビの「ナイツ」がトーク?の番組に出ていました。
紹介するまでもなく、彼ら「ナイツ」は最近実力をつけてきた本格派?だと私は思います。

彼らの恩人(恩師)といわれる方たちのコメントが紹介されました。
売れない時代に出会った恩人いわく、

『土屋(ツッコミ役)はいたって普通の人間。  塙(ボケ役)は見ての通り、オヤジ顔(見栄えが悪いという意味)。
ああ、これじゃTVは無理だな、と思ったんです(笑)』

『昨今、喋りが下手な芸人が多い。 だからコントに走る。
でも、彼らは喋りで勝負できる。』

『事務所の社長は本当に彼らを大事に育てたいと思ったのでしょう。“王道”を歩ませたんです。』
『息の長い芸人になれ、という思いです。』
事実、彼らはそれから演芸場という現場を数多くこなし、多くの層からの支持を拡大しつつあります。

この“恩人”さんのコメントを聞いて、私もしみじみと
ああ、本当に彼ら(ナイツ)は、自分たちが“ダイヤ”として最も輝くために、
あえてそのダイヤの“原石”をつかんだなんだな。」と思った。

誰だって好き好んで遠回りはしたくない。
厳しい環境を余儀なくされて、これで最初っから「これ、ダイヤだ!」だなんて思えなかったかもしれません。
もしかしたら、最初は「なんでこんな底辺なんだ」と思ったかもしれない。

でも、それをチャンスだと受け止め、彼ら自身の力で努力して磨いて、輝く“ダイヤ”にしたんですね。
実際にそれは、本当に大きなチャンスだったんです。
すなわち、ただの石ではなく、磨けば光るダイヤの“原石”だったのです。

「あれがあったからこそ。」…
「あの人がいたからこそ。」…

そしてその“原石”を懸命に磨き“宝石”に。

もし、ただただ美しい宝石がそのまま手に入るのであれば、美しさだけしか語れない。(点)

だけども、磨くプロセスを経てきた者は、全てを伝えることができる。(線)
それは、次の使命があるから。
リードオフマンとして!

これぞ、この信心の王道といえる。 


ナイツ、ナイスだ(照笑



さて、私の話です。

かつて、苦しかった日々に転機が訪れました。
でも、目に見えて「やったぞ!」というものではなかったように思います。
ですが、あとからわかったことがあるんです。

その“入口”は、けっして華やかではありませんでしたが、
とても「やりがい」という中で、思う存分「努力」することができる…
そんな道を用意してもらえたのです。

これがご本尊からの最高の贈り物だったのです。
ダイヤではなくダイヤの原石をもらったんです。

磨くのは自分。
でも素晴らしい原石です。

そして月日が流れ、“ダイヤ”になりました。


「功徳」って、最初っから“ダイヤ”じゃない。

今、苦労なさっている方は絶対に諦めないでください。


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『なくてはならない人に』

さて、随分以前のドラマでの話で恐縮ですが、ちょっとイイ話を思いだしたのでご紹介。

なんとなく、ある作業をしながら深夜TVをかけていたのでドラマタイトルさえ覚えていません(笑

......................................................................................................................................................

ある青年、彼は家庭ゴミ収集に従事している。
ゴミ収集日に一般家庭を巡回している。
公務員としての恵まれた立場ではなく、委託業者のようだ(やることは同じ)。

3人一組で巡回、ドライバーを除くと到着地点での作業は2人の“はず”。
だが、“相方”はセンターシートでずっと狸寝入り。
主人公だが黙々と、そして丁寧、迅速に作業をこなしていた。

また、それを見てある母子の会話。
『(ゴミ)臭いね〜』と避けるように、ゴミと作業員(主人公)を、さも嫌なものを見る目で傍を通り抜ける。


ドラマはこのあと主人公がいろいろな青春模様を見せるのだが、
物語のヤマ場は終わる。そして次に…

一時期職場を離れざるを得なかった彼が復職した。
いつもは淡々とした管理者が、彼に抱きついて復職を喜んでいた。


『(ゴミの収集の仕方に)クレーム山ほどあって困っていたんだよ〜』


つまり、“後任”(つまりは前述のダラダラ社員たちだろう)がイイカゲンな仕事をしていたらしい。
主人公が再び収集に現場に出ると、行く先々で


『あんた、戻ってきてくれたのかよ! よかった』
『あんたは丁寧にやってくれた。あんたじゃなきゃダメなんだよ〜』


主人公の普段の仕事っぷりがわかる。

ましてや、サボってどこかにイッたりすることもない。


こんなシーンもあった。
主人公の兄は家庭を持っている。一流の会社をリストラされ失業の身だった。

主人公に向かって、
『なんだ、金でも借りにきたのか』となじる。

だが、主人公は『俺はゴミ屋かもしれんが、ずっと辞めることなく働いている。』

....................................................................................................................................................


と、ここまでがドラマの話。


さて、私の“人生の師匠”は常にこう指導されている。

『なくてはならない人に』と。


それは何も、実業家あるいは世界をまたにかけ、眩しく輝く花形職業において活躍することだけを指しているのではない。

不肖、この私もけっして職業名を語っただけで「凄いね」と言ってもらえるわけではない。
眩しい職業になれなかった(目指してもいなかったが)ことに対して、言い訳に使っているつもりもない。


ただひたすら、『なくてはならない人に』という“人生の師匠”の言葉のままに。


「一所懸命」は周りに伝わるもの。
手抜きをせず、真剣に動けばそれは必ず周りに響く。


見ている人は、見ているからね。 腐っちゃダメ。

これ、僕の経験談でもある。


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叶った姿を想像しつつ、「ありがとうございますっ!!!」という祈りについて。 (〜ブログ村「名無しちゃん」さんへのお返事)

「名無しちゃん」さんからご質問がありました。
この方と私は某掲示板界隈で知り合い、最近はブログ村でもご活躍中の、
私と同じく創価学会員の方です。

したがいまして、今回は極めて濃い創価学会員としての記事となります。

また、お返事に関連し、私個人的な思いが満載になってゆく気配がありますので、
回答欄ではなく、ここに記させて頂きます。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 >某板を読みました、それで質問があるのですが、、、

 > >つまり、ぶっちゃけ、まだ叶っていないのに、
 > >叶った姿を想像しつつ、「ありがとうございますっ!!!」
 > >って祈るんです。

 >***

 >実践してみたのですが、やってみると、
 >まだ叶っていないのに、御本尊にお礼を申しのべる事に
 >「違和感」を覚えました、、、と言うのが正直な感想です。

 >京阪さんは、実際にこの方法を実践されて、功徳を得られたのですよね?
 >失礼ながら確認をしたいと思い、尋ねました。
 >よろしくお願いいたします。

 >名無しちゃん|2012年04月28日(土) 03:51

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

おはようございます。
私の拙い書き込みをご覧いただいたきありがとうございます。

そうですね、普通に考えれば順序が逆だと思うのは仕方ないことだと思います。

頑張っているんだけど、叶うかなぁ?… 叶わないかなぁ?…
と不安になる気持ちもわからなくもありません。
誰だって悩みを抱えていれば、不安で仕方ないですもの。


では少し、噛み砕きながらお話しさせて頂きます。
あくまで、私がかつて困難な時代に受けた指導ですし、それを基にした持論です。
こうして叶えてきたことは間違いありませんし、

 『祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も、
 只肝要は、 此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候。
 法華第三に云く『磨及び磨民有りと雖も皆仏法を護る』。
 第七に云く『病即消滅して不老不死ならん』との金言之を疑う可からず」
 (日蓮大聖人 御書P.1242 道妙禅門御書)

にもありますように叶う形・時間にも、より深く受け止めてゆかねばならない事も多々あります。
そのあたりご理解の上お読み頂ければ幸いです。


さて、よく指導にもありご存知だと思いますが
『信・行・学にわたる信心』の、先ず最初に何と書いてありますでしょう? 
「信」ですね。  
この「信」、つまり「信じる」こと。

それもこの「信」っていうのは、信仰上の根幹中の根幹、さらには“出発点”なのですが、あえて書いてあるのは、もっと厳しくもう一段上の、「信じ“きる”」っていう事を指しているに他なりません。


では、具体的にはどういう“状態”(行動)が「信」なのでしょう?

開目抄に

 『我並びに我が弟子 諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護な き事を疑はざれ 現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども疑 いををこして皆すてけん つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるな るべし』(日蓮大聖人 御書P.234)


『諸難ありとも疑う心なくば・・・』とあります。
諸難、あるいは魔も含めて、「どんなことがあっても」と仰せです。
それこそ「信じきる」という姿勢ではないでしょうか?


中には、この仏法に「本当に力があるのかなぁ?」と疑ってかかったり、
いわば、こちら側からの“条件”つきの「信」になっている人もいます。

例えば、大胆にもこうです。

『信じてもらいたかったら、先ず俺に“ご利益”授けよ!』

これ、かなり態度がデカイ(笑)ですが、
どれだけ柔らかな言葉で包み込もうが、要はこういう事に通じるんじゃないでしょうか。


更にもうひとつ。

「叶わないんじゃないかな?〜」って、こちら側から勝手に
ご本尊に“限界”を作ってしまっている人もいます。

これこそ言い換えれば、仏法を「こんな程度」といって
なんと御本尊の“大きさ”を決めてしまっています。
なんとも恐れ多い。

厳しい尺度になるかもしれませんが、
これが「信じきる」という姿勢でしょうか?
私は、そうは思いません。


また、「不可能を可能にする」

これ、よくある指導ですね。
仏法の力、ご本尊の力をあらわした言葉だと思います。

であるのなら、「信じきる」ということは
「結果」においても“確定している”というところからスタートするもので、
だからこそ「確・信」と呼ぶのだと私は思います。


確信とはそれほどまでに法(仏法)の力を「信じきる」ことであり、
それと同時に、自分の行動(因)をもって“答え”(果)に突き進む姿のことなんです。


叶う肝要は、信の「本気度」が試されているのだと私は思います。
その最たるものが、

 >つまり、ぶっちゃけ、まだ叶っていないのに、叶った姿を想像しつつ、
 >「ありがとうございますっ!!!」って祈るんです。

という姿勢です。

辛く苦しい真っ只中で、「未来」に感謝するのは辛いかもしれません。
ですが、私もこういう指導を何度も受けました。


『祈ったままの姿で叶う。だから苦しい姿で祈るな。(辛くとも)明るく、朗らかに祈ってゆくんだ』と。

なかなかできない事かもしれませんが、「思い描く」とも申します。
「イマジン」「想像してごらん」です。

先ず、想像する!
そして、題目をあげ抜くとき、「きっと」から「絶対に」へと変わってゆきます。


どこまでいっても自分の思いが「本気」でなければ、岩ほどに固い宿命を打ち破り、叶えてゆくことなどできません。

だから、『“本気”で決意したとき、既に“勝利”は決まっている』 と。
この「本気」、ポイントですね。因果具時です。


そして、更に

 『大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日 は西 より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず』
 (日蓮大聖人 御書 P.630 「祈禱抄」)

とあります。

法華経の“信者”とは書いてありません。行者とあります。
この微妙な表現の差に、とても重要な、あるべき姿勢を説いておられます。

こうして、自らがそこに徹したとき、「願い」が「確信」へと変わります。

「絶対に叶う」と。



それでも、なかなか「やりきったぞ」というゴールは見えないし、人によってその距離も違います。

ですから、「頑張っている」のは大前提なのですが、

「確信」としての姿勢を先ず言い切る!というこの『先にお礼を言っちゃえ』は、大胆ではありますが、的を得たスタンスだと私は思います。


「南無する」

これに通じる「確信」の祈りのスタンスです。




長くなりまりましたが、最後に例え話をします。


功徳じゃなく、「口説く」話です。

確信を持って「幸せにするよ」とは言い切れない時代とは思います。
ですが、『生涯の伴侶とすることを誓いますか?』に、「う〜ん、ちょとわからない」って答えませんね?

現実的な話じゃなく、「思い」とはそんな曖昧ではなく、「こうだ!」でこそ、相手は「この人こそ」だとOKするのだと思います。 


また、ロケットの打ち上げに、ほんの少しの角度の違いでも、月への軌道からは大きく外れます。


不純物があった場合、沸点も融点も変わってしまいます。


更に大胆なことを言えば、願いを叶えるために祈ることは、御本尊との契約へのプロセスだと思います。
中途半端な信用で、どこの誰が「はい、貴方と契約します」でしょうか?


これはビジネス上の例え話を模したものに過ぎません。
ですが、対・御本尊への確信とは、更に一歩先をゆく『領収書を先に渡しておきます』という気概だと私は思います。

勿論、その「根拠」となる動き(使命)を、我々は果たさねばらなない事は言うまでもありません。
その「覚悟」を問われているのであって、ここを外しては「お礼先行型」の祈りは無意味です。
単なる「ありがとう」ではないのですから。



さて、難しい話になってしまいました。
幸せに向かって歩むのが信仰です。

好きな女性と未来を約束しあう… ような、
そんなピュアな思い、そして「絶対に…」があっていいと思います。

「未来にありがとう」

素敵なことだと思います。


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名無しちゃんさん、
いかがでしょうか?

今回は私へのご質問ということで、そのお返事として書かせて頂きました。


まだまだご納得頂けないかもしれません。
拙い文章力ゆえ、ご質問趣旨に沿ってうまく伝えられたかはともかく、
これらは私の経験談からの「個人的な思い」としてご理解ください。

これからも宜しくお願い致します。



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