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2015年09月08日

久しぶりの自由な生活C

祖母の家を「売ろうと思うがどうしよう」と、実家に居る父が母に電話してきたのが6月の中頃
だったか。

その日、父の知り合いの不動産屋さんに家を見てもらったそうだ。
そしたら「この家の造りじゃ(失礼)、家を壊して更地にして売らないと。」とのこと。

はぁ?という感じの話だ。

祖母の家は築40年少々だが、広くて日当たり良好、間取りも良く、住みやすい家だ。
祖父母は夫婦2人での仕事をしてたが、仕事場から住まいが結構遠かったため、その仕事場に
住みながら(団地の小さな家でキッチンもちゃんと付いてる)土日は持ち家に帰って過ごすという
ちょっと変わった生活をしていたため、家は古い感じがしない。
立地や、環境も良く、周りの色々な人たちから「ここなら、このまま貸してもすぐ借りる人が
出てくるよきっと」とか「きっと高く売れるんじゃない?」とか褒められてたのだ。

でも、過疎地の現状なかなかそううまくはいかないだろうとは思ってたが、そこまでか!?

ちょっと深く突っ込んだお金の話になるが、その不動産屋さんが言うには「家自体を査定しても
いいとこ200万。貸すにはかなりリフォーム必要。もし更地にして、うちで買取ったら240万。」
意味解らない。
更地にするのにかかる費用はというと、200万近くかかると言うんだから。

そこで、父の中に「この家はなかなか売れない」「貸すのも苦労」という構図が出来上がったらしい。

この家に限らず、現在、実家の方の不動産サイトを色々見ても、古い家はなかなか借り手もないし
売れてないようだった。
しまいには、ずっと売れないため、結局お金をかけて更地にして売り出しをかけてるぐらいだ。
お金かけてリフォームしてもだめ、更地にしても売れなかったら・・。
なんて、ちょっと不安になって母に電話してきた父だった。

でも、父は更地にしても売りたいような言い振りだったので、母と2人で反対して
わたしがネットで見つけた不動産屋さんの電話番号を教えて、もっと他にも色々見てもらった
方がいい、1つに決めない方がいいと言ったが、いまひとつ乗り気じゃないようだった。
「とにかくこのお店に電話してみなさい」と母が電話を切った。

それからしばらくしたら父から電話がかかってきた。
「さっき言ってた不動産屋さんに電話をしたら、家を見てくれて、とてもいい家だからうちでは
320万で買取りたいと言われた」とちょっと誇らしげに言ってる父。
たしかにさっきの知り合いのお店から比べたら、天と地との差である評価だが、他にも
もっと見てもらった方がいいと、また2人で父を説得した。

しかし、父は、最初の段階でもう売れることの方が奇跡的だと(それはわたし達も同じだが)思い
もうすぐにでも決めたいと思ってしまったようだ。

あまのじゃくな父なので、もうそこに決めるの1点張りだったが、ネットで見つけたもう1つの
お店の電話番号を無理やり教えて電話を切った。

あまのじゃくな父は、やっぱり電話してみたらしい。
それから1度父から「さっき言ってたお店に電話したけど買取りしてないんだって」とだけ
電話が来た。
もう2つめのお店で決めるから・・的な話で終わった。

そこから、数時間後に事態は大きく動き、父から事後報告の電話が夜に来た。
結論から言うと、3つめのお店で家が売れた。
父が電話で言ってたのは、このお店は仲介のみで買い取りはしてないという意味だったよう。
中古物件を探してるお客さんがいてお店の人が連絡したら「見てみたい」と言われたそうで、夜に
ばあちゃんの家を見に来たそうだ。

そのお客さんは全面リフォームを考えてるそうだが、立地も大きさも満足だったようだ。
あとは金額・・という話になったときに、父は「400万で売れたら・・」と言ったら即決という
結果になった。

ビックリの展開だった。

が、その話を聞いたときに母とわたしで「馬鹿だね、本当は最初500万を希望してたんだから
言ってみればよかったのに」なんて散々言ったが、今回最初に更地にして240万と言われたからか
尻込みしてしまったようだ。
「そんな大きいこと言って売れなくなったら困る。それに500万て言ってダメなら安くするとか
駆け引きはしたくない。」と父が言った。
父的には大満足のようだった。

たしかに、現状売れない家で溢れている昨今。
たった1日の活動で売れただけでも奇跡だと思えるような話だ。
絶妙なタイミングだったと思う。

それから話はとんとん拍子に進み、8月末に売り渡すために、父が祖母宅のものを人に譲ったり
業者に売ったりした。

なんと言っても、こまごまとした物は叔母が葬式が終わった後2〜3日でほとんど選別・処分して
くれたことは大きい。

あの時、物の処分について父母と衝突してたので、叔母の行動にわたしは涙が出た。
アッサリしてるとか冷淡なようにその時父は言ったけど、そんな気持ちで物を捨てる人はいない。
叔母だって、寂しさや切なさを感じて整理したのだと思う。
叔母は今遠くに住んでいるため、あとは父に任せるから好きなようにやってと言って帰って行った。

それからの1人での処分はものすごく大変そうだったが、てきぱきとこなしていったようだ。
父は行動力があるので、そういう面はいい。

そして、7月末に母も帰り、そこから怒涛の片づけが始まったようだ(←ひとごと)。
とにかく毎日、実家&祖母の家の物の仕分け。必要なものと必要ではないものを分けて
最終的に業者に頼んで整理したとのことだ。
毎日、くたくたになりながら、選別と片付けに明け暮れてたらしい(←これまたひとごと)。
実家の方は、話を聞いてびっくりするぐらい、わたしの予想を超えた大片付けがされたらしい。

そして仏壇を入れるためのリフォームも終わり、順調に仏壇が設置されたそうだ。
で、継続して今片づけをしてところどころリフォームもしてもらってるというからビックリ。

わたしは結局、口だけ出して手は一切出さないという、口だけな女でごめんという感じになって
しまったが、父母や兄が一生懸命片付けたとうことは、本当ホッとしたし、見直した(もともとやれば
徹底的にやる人たちなのだが)。相当大変だったと思う。

わたしは1人この生活をのほほーんと何もせず過ごして、他人事みたくなってしまったけど
いざとなればやるんだなあと、よくぞやってくれた!と感動した。


長々と振り返ってみた2015年の上半期。
色々あったけど、思いのほか、とんとん拍子というか、全部繋がってる気がするというか
こういう筋書きになる運命だったような気がしてならない。
それまで、いずれそうなるであろう事を考えて、頭の中でグルグル考えては
「どうなっちゃうんだろう」と不安に思ったりしたが、やっぱり人生は、なるようになるよう
出来ているのだろうか。

祖父母や先祖がそういう風に導いてくれてるんだろうか(ちょっと神がかった発言ですみません)。

そう考えると、今眠られないぐらい毎日考えてる将来の不安も、流れにまかせてその時々を過ごしたら
どうにか生きていけるのだろうか。
そんなことを、今この日記を書きながら思った。
posted by hanogonn at 18:10| Comment(0) | 失業中

久しぶりの自由な生活B

わたしは偉そうな人間だ・・と、この前の日記を読み返してあらためて思った。

自分の考えや思いが受け入れられないとカッとして、解ってもらえるまで言い続ける。
しまいには、本当は思ってないのにひどい暴言を放ってしまう。
あとで激しく後悔するが『喉元過ぎれば熱さを忘れる』同じことの繰り返しだ。

恐ろしい。

今まで両親には、ただただ助けられて支えられてきたのに、どの口が言うか・・という感じだが
自分の思いを理解してもらえないと感情が止まらなくなってしまうのだ。
悪いクセだ。

わたしの人生、この12年ほどで色んなことが変わったけれど、変わらないのはこの気性・・。


さて、あっという間に9月が始まり、きっとあっという間に9月も終わるのだろう。
この自由な生活(失業保険をもらってる身、あまり大きな声では言えないが)も
終盤にきているんだとお盆の後あたりから、ヒューっと心に風が吹くような妙な寂しさを感じる
いや、この上ないほど寂しさだらけだ。
いや、正直、このまま鍵をかけて引きこもってしまうのではないかというぐらいだ。
「社会に出るのが怖い〜いやだあ〜〜」とじたばたと床で駄々をこねてる子供のような気持ちに
なっている。

わたしはメンタルが本当に弱いなあ。


失業中の身、情報としてちょっとだけ掘り下げてこの失業給付について書くと・・。

5月の末の説明会から始まった、わたしの失業給付生活。

派遣任期満了での退職は、3ヶ月待機せずに給付を受けることが出来るのかがとても不安だった。
失業保険に関してネットで色々調べたが、本当に沢山の情報が錯綜していたためはっきりと
したことがわからなくて、なんだか不安で落ち着かず、気持ちも不安定気味だったが・・。

わたしのようなケースは、7日間の待機期間を過ぎれば、認定・給付を受けることが出来て
ほっとした。
手当てについても、給料の6割ぐらいを想定していたが、実際は7.5割ぐらいの給付ということで
本当にありがたく、皆の税金をもらってるのだから大事に活用して過ごさなければ・・と思う。
(その人の収入によって6〜8割とのこと)

仕事探しは定期的に行っている。
ハローワーク経由と、求人サイトからの応募で履歴書を送ったが落ちてしまったけど。

過去(15年ほど前)には、新卒の会社を自己都合で退職して、3ヶ月待機した上で90日の給付を
受けたことがあるが、その頃からはずいぶん制度も変わったようだ。
若い頃はあまり国のことに関心がなく、ニュースも気にして観ていなかったからわからなかったが
本当にどんどん制度の見直し・改革が行われてきたんだなあと思う。

国の制度は融通の利かない事も多々あるけれど、この失業保険の制度に関しては
わりあいというか、かなり失業者に優しいかも知れない。

決められたことをきちんとしていれば認定を受けられるという、淡々と役所的な側面もありつつ
28日ごとの認定日には、認定後に2階の職業相談コーナーに案内されるという流れなのだが
相談員さんは、とても親身で温かだなあと思う人が多い。
さらにこれが、認定のための活動の1回としてカウントされる。
過去、こうだったかなあ(15年前の記憶が消えつつある)。
たぶん、こういう流れじゃなかったはず。

失業認定における求職活動とは、住んでいる市によっても基準が違うようだがわたしの住む札幌では
履歴書の応募や、ネットでの応募(ネットでの単なるエントリーが含まれるかはグレー)。
ハローワークや、各区にある関連施設での求人検索(家でネットを見るだけはだめ)や職業相談。
そして、職安主催のセミナーへの参加など。
28日のうちに2回、求職活動の実績が必要になる。

わたしは7月にセミナーに参加してみた。
大きな書店の入ってるビルで、履歴書の書き方について学ぶセミナーに申し込んだのだが
お世辞抜き(?)に、とても参考になった。
全4回のシリーズものなのだが、どれに参加してもいい。
(シリーズ全部申し込むのが本当は一番いいのだが。)
全部参加したかったのだが、都合が合わなくて申し込めなかった。

残り1ヶ月ほどの給付日数なので、もう参加できないかも知れないが「自分自身を知る」といった
自己PRの部分を掘り下げた回があって、それに参加してみたかったなと思う。

なんだか、もらうための求職活動というのも変な話なのだが、実際、キレイ事を抜きにすると
もらうために活動していることになる。
が、このような参考になるセミナーというのがあるのは、いいなとすごく思った。

6月は、失業給付生活が始まったばかりで不安やわからないことだらけでわりあい慎重に過ごす。

7月は、職探しをしたり、セミナーを受けながらも、現実逃避したような、でもすごく心が
開放された自由気ままな生活を送っていた。
久しぶりに、自分の心も、体も、ものすごく自由になれた気がして調子が良かった。
悩んでた便秘が治り、変な食欲も起きず、冬の間に太ったのが一気にやせた。
大きな声では言えないが、ノンストレスとはこのことだな、体にもそれが現れるのだと
つくづく思った。
まだ、どうにかなると気楽に考えれた期間。

7月末に母が実家に戻り、1人になった。

8月の始めは開放的な生活をしていたが、お盆が終わったと同時に(しかし祖母の初盆なのに
実家にも帰らないとは・・)わたしの心の開放は終わってしまった気がする。

今は、これから向き合っていかないとないといけない現実と将来を思い、ただただ不安と恐怖で
夜眠れない日がある。
本当に、7月から8月始めの開放感はどこへやらだ。
わかりやすく、また便秘になってしまったし、体調も不安定。
情けない。

もう1つ、前の日記について書いた実家のことだが、驚くほどの展開で事が進んだ。
わたしと母が札幌に戻ってしばらくして父が動き出し、なんと即日で運よく祖母の家が売れたのだ。
ほんと、ビックリするようなタイミングでの売れ方だった。

(長くなったので、またつづく)
ちなみに
posted by hanogonn at 15:44| Comment(0) | 失業中

2015年09月07日

久しぶりの自由な生活A

ばあちゃんが亡くなってからもしばらく滞在していた実家では、ばあちゃんが亡くなった事で色々解決
しなければいけないことが出てきた。

まずは、亡くなったばあちゃんの家をどうするか。

貸すか、売るか。
この過疎化の地で売れるのか?
状態のいい家なのだが、貸すにしても、ある程度は直さなきゃいけない。
でも将来的なことを考えると、財産として固定資産税などを払い続け、直しながら誰かに貸す
というのはムリがあるのだ。
確実に、兄&わたしの代になったら維持ができなくなる。

そして、どちらにしても確実にしなきゃいけないこと。
それは、ばあちゃんの家の大きな仏壇を実家に移さなければいけない。
ただ、そこで大きな問題。
いつかの記事で書いたような気がするが、我が家は物が多すぎる。

わたしが高校まで暮らしてた頃は我が家はもっとスッキリと広々としていたのだが、いつからか
どんどん物があふれ、今ではわたしの寝る場所もなく、母のベッドに一緒に寝なきゃいけない。
セミダブルではあるものの、狭くて寝返りを打つのもキツイ。

いつからか、うちのもともとの家具の他に、親戚から譲り受けた家具が増え、部屋を圧迫している。
その中には物がぎゅうぎゅうに詰め込まれてる。
よくもまあ、こんなにという感じだ。
その中のものは、必要なものと不必要なものが混在してるが、90パーセントは使ってないものが
入ってる。
使ってるものは、使うからという理由で収納の外に置いてあったり。

年末に帰省した時は「わたしの居場所がない」「家に物が多すぎて落ち着かない」
「物が多いせいでイライラする」
「将来どうするんだ」と散々悪態をついた。
喧嘩(というより一方的なわたしの激怒)の理由はほとんどその話題。

母の、物を大事にしてるから捨てられないという主張は、ハッキリ言ってずれている。
物を溜め込んで、その存在を忘れてたりする。
で、「そう言えばこんなのあったっけ」「大事だから使わないでしまってた」とか言うのがほんと納得いかないのだ。
それって、大事にしてるとは言えない。
「思い入れがある」という。
気持ちはわかるが、そうやって美談にするのがイラっときてカーッとなる。

で、しまっておいた結果、家が古くなったり猫が居て窓を閉め切ったりしてるためにカビてたりするのだ。

それに、父も必要なものも必要じゃないものもとっておきたがり、捨てるとやたら怒る。
使わないくせに、タダだからとやたらもらってきたり、同じものを何個もとっておきたがったり。

余談だが、ぎゅうぎゅうに詰まった押入れの前に大きい座布団袋がいつからか置いてあって
それがなんだかずっと邪魔だった。
なんの座布団かと思い、中を見たら『寿』と刺繍されためっちゃ豪華な座布団だったことが今回判明。
母が親戚がくれると言うからもらったとのこと。

『寿』なんてこの先我が家で使うことは一生ない。


今回ばあちゃんが亡くなったことで、どちらにしても我が家を片付けなければいけない時が来たようだ。
5月下旬には職安に行くため札幌に戻るので、それまでに少しでも片付けようと言ったが、なかなか
踏ん切りがつかない親だった。

わたしの願いはただひとつ。
整理をすることで、気持ちが浄化される。その気持ちを味わってほしいということ。
それは、自分で選別してやらないと意味がないのだと思ってる。
整理整頓は、生き方にも繋がる。
必要なものと不要なもの。
この見極めをするとしないのとじゃ大違い。

必要なものを残し、もう必要ではないものを捨てる、捨てるということは抵抗がある。
でも、それを感じる気持ちも大事だと思う。
痛みを感じながらも、大事なものをより大事だと思う気持ちが大事だ(大事ばかり)。
そして、大事なものだからこそ、ただしまっておくのではなく使わないと意味がないと思っている。

と格好良く言ってるが、わたし自身も転勤で物の整理は慣れてるものの、使わないけれど
なかなか捨てられない物もあるから、そこまで人のこと言えないのだが。
でも、必要なものと不要なものは見極めて生きている(と思う)。

各地の転勤に伴い、不要と思ったものはその時々で処分してきたけど、大きく気持ちを変えたのは
やっぱり東日本大震災を経験したことも大きい。
本当に大事なものは、結局は少しなんだと、心から思った。
また、多くの大事なものを流されてしまった人も大勢いる。

それを思ったら、必要か必要でないかぐらいの区別は、自分自身でつけてほしいし、感じてほしい。
と心の底から思うのだ。
「あんた達が死んだらわたしが片付けなきゃいけなくなるのは嫌だからどうにかしろ」と
文句を言ったがそれはあくまで悪態であって、本当の理由はそこじゃない。

見極めは自分でしないと意味がないのだ。

と偉そうなことを書き連ねてしまった。

結局札幌に戻るまでに、わたしの出来たことは、もう着ない服を少し処分したことぐらい。
父母も、祖母が亡くなったばかりで、まだ物を処分するまで頭が回らないと言ったから、あきらめた。
「もうわたしは一切手伝わない。二度とこの家には帰らないから」なーんてひどい事を口にした。

色々考えなきゃいけないことがいっぱいあるけど、まずは5月末の失業給付の認定のため
母もとりあえず通院などがあるため、また二人での札幌での生活に戻るのだった。

(つづく)

posted by hanogonn at 00:06| Comment(0) | 失業中

2015年09月04日

久しぶりの自由な生活@

(文体変えます)
4月中旬までの短期の仕事を終え、わたしは無職になった。
本当に、何もしてないのは久しぶり。

なんか申し込む時とか、書かなきゃいけない時に、自分を何に分類していいのかがちょっと困るところ・・。
素直に『無職』と記入したり、一応まだ嘘ではないので『専業主婦』と書いたり。
いい加減にどうにかしろという感じだが、全く夫と連絡を取らないまま3年近い時が流れている。

そんなわたしは、5月から失業保険を給付中の身だ。
その間にこんなことがあった。

この無職期間中、1度実家に帰ろうかどうか迷ってた。
でも、遠いし面倒だからいいやと思ってしまっていた。

5月のGW明けに失業保険の申請をし、その週末に(別居中の)夫の母と会う約束をしたので
身だしなみを整えようなんて美容室に行って帰宅すると、母に実家の父から連絡が来た。
『ばあちゃんが危篤』
これまで何度も呼吸困難や肺炎になって入院したものの、なんとか頑張ってくれていたばあちゃん。

年末に老人ホームに会いに行ったときは、すっかり面影もなくなるぐらいになって、わたしの事も
分からなかったけど、静かに静かに、なんとか日常を送っていた、ばあちゃん。
その時は最後にようやくわたしの事思い出したのかな。
たぶんだけど。


それから、札幌に戻り、きつかった仕事が終わって色々落ち着いての『危篤』。
変な言い方だけど、まるでわたしのタイミングを考えてくれたかのような気がしてならなかった。
その日、着の身着のままというのか、母と、急いで実家に帰った。
車を運転して帰ったので、着いたのは夜中だったけど。

そのまま父が付き添ってるばあちゃんに会った。
もう意識がなくて、苦しそうに息をして、酸素で生かされてる状態。
顔はむくんでパンパンだった。

一度家に帰り、ほとんど眠られぬまま朝になった。
用意をして病院に行くと、10年ぶりに父の妹である叔母や親戚の人たちと会った。

実は、わたしの別居については知ってるけど、何で別居してるかとか全然知らなかった叔母。
そんな叔母と久々に病室で、色々語り合うことが出来た。
10年ずっと会ってなかったけど、何のその(?)、今まであった色々を・・。

縁遠くなってしまった気がしていたけど、叔母さんの気持ちもわかるし、わたしの気持ちも理解
してくれる。
聡明で何でも出来る叔母さんだけど、なんだかきっと(性格や考え方が)似た者同士なのかも
知れないことがわかった気がして、なんだか嬉しかったし良かった。
きっと抱えてる寂しさもあるんだってこともわかった。

それからは、今まで会えてなかった色んな親戚に本当に久々に会えた。
ばあちゃんは、頑張ったけど、もう意識がないまま、小康状態で3〜4日を生きてた。
でも、もう長くないだろうと、1人で必要な物を買いに行った帰りに病室に寄ってみた。
ばあちゃんは酸素で一生懸命息をしてた。
その時、1人だったからか涙が出てきて「ばあちゃん、ごめんね。なかなか来れなくて。
明日も来るから」
と撫でたけど、なんかもう最後のような気がした。

翌日の朝方、ばあちゃんが再び危篤で、急いで病院に行ったが死んでしまった。
87歳だった。


じいちゃんが亡くなってちょうど、12年。
実はその頃のわたしも、年末でいったん仕事を終了し、無職期間中だった。
次の仕事が決まってたので、それまでと思い実家に帰った1月。
まだ死んでしまうと思ってなかったじいちゃんが入院し、何度かお見舞いに行った。
ちょうど、現在別居中の夫とまだ付き合ってた頃で、じいちゃんに「彼氏はいるのか?」
なんて初めて聞かれて、こういう人と付き合ってるよなんて話して「それなら安心だな〜」
なんて言われたのを今も思い出す。

それから仕事が始まった2月に、突然じいちゃんが危篤になって、1週間苦しんで亡くなった。
幸い、始めたばかりの仕事だったものの休みをもらえて、じいちゃんの側に長く居られた。
ちなみに、じいちゃんが亡くなって3ヶ月後に、彼(夫)の転勤に付いて行ったというターニング
ポイントである年だった。


あの時と同じ。
今は12年前には全く考えられなかった人生を生きていて、全部が何だか寂しい(?)人生に
なっちゃったけど、タイミング良くばあちゃんに会えて一緒に居られた。

完全な自己満足で、ここ数年なかなか会いに行けなかったから最期ぐらい帰って来いって事で
このタイミングだったのかな。
なんて考えたりした。
こういう、なんとなく不思議なタイミングで、わたしは何度も母方の祖母や伯父などを最期に見てきた。
それで、なかなか会えず疎遠になりかけてた親戚と久々に会えたりもした。

今回も、ばあちゃんが呼び寄せてくれたような、そんな気が勝手にしている。
そして、きっと今年はわたしのターニングポイントである気がする。

(つづく)
posted by hanogonn at 02:16| Comment(0) | 失業中
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夫と出会って12年。 7年の結婚生活。 色々あって現在別居生活まる4年。 30代半ばだったのがそろそろ40近くになってしまった女性です。 別居して帰ってきた頃よりも、今の方が、将来の不安を強く感じて 過ごしております。 苦しいときはいっぱい訪れると思うけど、ひとつずつ乗り切って 素敵な独り身として生きていきたいです。
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