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2018年01月19日

作家が試みるリスク回避について−魯迅、森鴎外、トーマス・マン6

6 まとめ

 20世紀前半に中日英独という国地域で活躍した知識人たちがそれぞれに描いた危機感について考察した。人間誰もが古今東西で危機感を持っている。今、私がいる言語や文学の比較からマクロへの段は、自分の調節方法を創造することが課題である。これができれば自ずと発見発明が見えてくる。人文科学の人間も縦の専門性だけでなく、シナジーは教育の礎という認識を持つとよい。他の系列分野と比べて見ると、人文科学はマクロの調節に関して一歩遅れている感じがする。

参考文献

大石智良 『狂気と覚醒及び食人について−魯迅「狂人日記」覚え書き』 法政大学レポジトリ 1996 
スノー、C. P. 『二つの文化と科学革命』 松井巻之助訳 みすず書房 1967
花村嘉英 『計算文学入門‐Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?』 新風舎 2005 
花村嘉英 『「狂人日記」から見えてくるカオス効果について‐認知言語学からの考察』 四川外国語大学国際シンポジウム 2013 
花村嘉英 从认知语言学的角度浅析鲁迅作品-魯迅をシナジーで読む 華東理工大学出版社 2015 
藤本淳雄他 『ドイツ文学史』 東京大学出版会 1981 
森鴎外 『山椒大夫・高瀬舟・安部一族』 角川文庫 1995 
Thomas Mann Betrachtung eines Unpolitischen Fischer 1983  

作家が試みるリスク回避について−魯迅、森鴎外、トーマス・マン5

5 ドイツの危機感

 科学革命が周囲で進んでいるときに、そこから文学は何をしたのであろうか。「魔の山」(1924)の作者トーマス・マンを引き合いに出して説明してみよう。「魔の山」の舞台は保養地で有名なスイスのダボスである。主人公のカストルプは、戦火を離れてサナトリウムで従兄弟とともに療養し、そこに逗留する人々と数年に渡って情報のやり取りをする。こうした下界では得られない経験がカストルプに人としての成長をもたらし、「魔の山」のイロニーを教育的なものにした。 
 トーマス・マンはかねてから、人間は社会から離れて自己の関心を追うことなく、経験を本義として自己喪失の域に到達すれば精神的に完璧でいられるといっている。(スノー 1967)確かにそう思う。しかし、経験を積みながら自己喪失の域に到達しても、そこで固まってしまうとさらなる展開は難しい。カストルプはサナトリウムでの経験を糧にしてダボスから戦場へと向かう。 
 民主主義と進歩を目指す「魔の山」は、社会の秩序を壊すニヒリズムの克服が自身の教養を自ずとヒューマニズムに導く力になると主張している。(藤本他 1981) この主張の根底には、「非政治的人間の考察」(1918)がある。「考察」の中でトーマス・マンは、自分自身のために精神的で歴史的な場所を確認し、さらにドイツや欧州全体に向けて発展を呼びかけている。(T. Mann 1983)そのため「考察」は異文化風の論説としても読むことができる。 
 ドイツの魂とは国家の魂のみならず個人の魂も指し、精神的に豊かなドイツ人は誇り高く自己を支配する。こうした魂を盾にして文明の文士が活躍する。文明の文士とは戦争の敵でも平和主義者でもなく、戦争が文明に従事する場合には戦争を拒否しない。ところがドイツの侵略やドイツの抵抗を見ると戦争に抗議する。文明の文士が望むものはドイツの発展である。(T. Mann 1983) 
 トーマス・マンの危機感はドイツの発展が止まってしまうことであった。そのため発展が止まらぬように「考察」を続けていく。国家の不和や民族間の戦いを人間の文化とか社会生活のための基本的な問題と理解して、ドイツが進めた西の文明と東の専制政治に対する民族闘争を褒め称えた。従って、「非政治的人間の考察」から「魔の山」へと続くマンの論説は、ドイツ国民への告白でありメッセージといえよう。 

花村嘉英(2014)「20世紀前半に見る東西の危機感」より

作家が試みるリスク回避について−魯迅、森鴎外、トーマス・マン4

4 西欧の危機感

 西欧では英国を代表する知識人の一人スノーがシナジー論に関して興味深い講演を行っている。彼は物理学者であると同時に作家である。講演の内容をまとめた「二つの文化と科学革命」という著作の中で、当時の西欧人が直面していた知的生活上の問題点をうまく説明している。
 西欧の社会には二つの極端なグループがあるという。一つは文学的な知識人であり、また一つは科学的な知識人である。この二つの文化は全く相容れない。人文の人間は科学者が人の条件に気がつかない楽天主義者だといい、科学者は文学的な知識人が先見の明に欠け、同胞に無関心なところがあるという。例えば、物理関係者が人文の人間に質量とか加速度とは何かと問えば、逆に人文の知識人がシェークスピアの作品を何か読んだことがあるのかと切り返す。二つの文化は互いにぶつかり合い、話し合うことがないために、真空の状態を作っている。(スノー 1967)こうした状態は何も英国だけではなく、全ての西洋に見られるものであった。
 双方が相容れない状態から抜け出す方法はあるのか。スノーは、教育を再考することが取るべき方法だという。しかし、その折に学生時代のみならず、社会人としても実務プラスαという形で総合的に人間を評価することが重要である。普段から縦の専門性と他の分野の調節を組で考えるようにすればよい。これは人文、社会、理系を問わずいえることである。シナジー論への興味関心を育みそして実践に移す。人材育成のプログラムはそうあるべきである。
 スノーは、中国の工業化を客観的に評価している。確かに工業国といわれる米国や英国そして欧州の大部分及びソ連に比べればそれほどでもない。しかし、ソ連が二度の世界大戦により停滞したことに比べれば、中国の工業化はソ連の半分の時間で達成された。これは中国と西欧との違いといえる。しかし、文理のバランスは中国の場合も然りである。専門性を謳う縦の伝統の技が日本と同様一番重要な目安だからである。
 4年後にスノーはその後の考察を発表する。科学者と人文の知識人はコミュニケーションが足りないため、共感はなくその代わりに敵意があるという。そこで対峙からの脱却には教育のみならず、貧富の格差を是正する必要があるとした。労働組合、集団販売、近代工業化の施設、これらは特権階級の人間には思いもつかないことであり、貧窮の経験者が絶望から脱するきっかけになった。
 ロシアを代表する作家ドフトエフスキー(1821-1881)は、自身が身を置いた社会について隠すことなく独自の見解を述べている。ユダヤを嫌い、戦争を願い、奴隷は拘束するとの立場で独裁者を支持し、人間の成長の糧として苦難を愛した。苦難だけが自分を高めることができるという理由からである。こうした強い主張にも関わらず、ドフトエフスキーは決して孤立しなかった。彼の主張の中には現代にも通じる教育論が見えるからである。

花村嘉英(2014)「20世紀前半に見る東西の危機感」より

作家が試みるリスク回避について−魯迅、森鴎外、トーマス・マン3

3 日本の危機感

 魯迅は鴎外の作品を好んで読んだ。作家人生の後半を飾る鴎外の歴史小説群は、ご都合主義が当たり前だった明治末期というカオスの時代が舞台である。ご都合主義とは、権威を見せかけにした世間のなりゆきのことをいう。(森鴎外1995) 見せかけによるご都合主義は、魯迅が儒教を批判した理由にも関連する。儒教の教えは、ごまかしが巧みな人間を育てたために、中国の支配者層に利用されたからである。 
 封建社会から近代社会へと移り変わっていくまさにその時、1912(明治45)年7月に明治天皇が崩御され、9月に乃木希典大将が殉死するという事件が起こった。この事件を境に鴎外からは時代の便宜主義が捨てさられて、歴史小説が書かれることになる。
 ドイツ留学を終えたころの鴎外は、陸軍に教官として勤務しながら、青春時代の作品を文語体で書いていた。しかし、青春時代のドイツ三部作「舞姫」(1890)、「うたかたの記」(1890)、「文づかひ」(1891)は、これといった現代に通じる普遍性があるとはいい難い。ドイツ留学時代をベルリンで過した鴎外自身の回想録といえる「舞姫」、ミュンヘンの美術学校を舞台にした日本人の画家と少女との恋物語と読める「うたかたの記」、ザクセン王国の貴族の生活を綴った「文づかひ」と続いていく。
 一方、歴史小説は、人としての普遍性が口語体で書かれている。「興津弥五右衛門の遺書」(1912)は、例外的に候文になっている。これは、乃木大将の殉死をはっきりと美徳として書くためもあろう。乃木大将とは郷土が近いために日頃から親しい仲にあり、作品の中では彼の殉死を通して鴎外なりに自己の否定を定義した。
 また、殉死を美徳というほどのこともなく、単に拘りとか意地ぐらいの位置づけで処理している作品もある。「阿部一族」(1913)では、君主細川忠利に殉死を許されなかった武士の意地が書かれている。こうした殉死に対する思考は、内に秘めるものが外へ向かう性質を持っている。
 逆に、外から内へ向かう思考として、主人公の素直な献身の思いも普遍性の一つとして描かれている。厨子王の父母と姉への献身を綴った「山椒大夫」(1915)がその例である。また、「安井夫人」(1914)には顔は醜いが勤勉な男と結ばれた器量よしの佐代の生涯が書かれている。佐代の生涯も夫を敬う忠義の心、献身であろう。
 要するに、鴎外が抱いた危機感とは権威や見せかけに対するものであり、上述の普遍性を後世に残すことが鴎外なりの解決策であった。

花村嘉英(2014)「20世紀前半に見る東西の危機感」より

作家が試みるリスク回避について−魯迅、森鴎外、トーマス・マン2

2 中国の危機感

 当時の中国を代表する知識人といえる魯迅が見た人民の危機とは、「馬々虎々」(詐欺も含む人間的ないい加減さ)と呼ばれる精神病である。魯迅は日本留学中の1904年9月に仙台医学専門学校に入学して医学を学ぶ。その傍ら、欧州の文芸や思想並びに漱石や鴎外の作品を読破する。しかし、授業中に日露戦争の記録映画を見ていて、スパイ活動を理由に中国人が処刑される場面に遭遇した。1906年3月に仙台医専を退学し、友人からも小説を執筆するように勧められ、魯迅は医学から文学へと方向を転換する。被害妄想を患っていた主人公が書いたとされる「狂人日記」(1918)は、中国近代文学史上初めて口語体で書かれた。  
 魯迅は当時の中国社会を人が人を食う社会と捉えて、救済するには肉体以上に精神を改造する必要があるとした。中国の支配者層が食人的封建社会を成立させるために儒教の教えを利用したからである。儒教の教えは結局虚偽にすぎず、「狂人日記」の中に登場する礼教食人を生み出した。そのため魯迅は生涯に渡って「馬々虎々」という悪霊と戦っていく。この悪霊を制圧しない限り、中国の再生はありえないという信念があったからである。 
 狂人については、中国と日本で見方に違いがある。中国での見方は次の三つである。(大石 1996) 
一 主人公の狂気は見せかけであり、反封建の戦士というもの。
二 主人公の狂気は反封建の戦士ではなく、反封建思想を託されたシンボルというもの。
三 主人公の狂気は迫害にあって発生した反封建の戦士というもの。
 一方、日本での見方は、主人公の狂気がすでに覚醒しているというものである。私も狂人の狂気は覚醒しているという立場に立って、狂人の中国人民への説得を認知プロセスと関連づけて考えている。つまり、人間が野蛮だったころは人を食いもした。しかし、よくなろうとして人間を食わなくなったものは本当の人間になった。こうした努力こそが大切であるとした魯迅の思いは、リスク回避による意思決定ともいえる。(花村 2013)
 狂人はなぜ狂気に陥ったのであろうか。狂人の発病時期を察すると、30年ぶりにきれいな月を見たという書き出しのため、相当の年月が経っていると考えられる。20年前に古久先生の古い出納簿を踏んでいやな顔をされた中学生の頃には、症状が周囲からも見て取れた。上記の通り、魯迅は日本で個人を重視する近代ヨーロッパの精神を学んでいる。この精神は、魯迅にとって儒教を拠り所とする封建的な物の考え方とは全く異なる革命的な思想であった。そのため、これを狂人が狂気に陥った一要因とするのはどうであろうか。
 覚醒の時期についても諸説がある。(大石 1996)例えば、 
一 歴史書を紐解いて食人を発見した場面。
二 また一つは、妹の肉を食う場面。つまり、家族が食人の世界とつながり、自分もその中にいることを発見した場面。
三 そして、「子供を救え」と訴える中国人民の再生を望む場面。
 これらが当時の中国社会を反映した危機感の現われと考えても飛躍は見られない。魯迅が掲げた「馬々虎々」に対する解決策とは、こうした思いを作品に反映しつつ、一線(門)を越えて本当の人間になることである。
 食人についてもいくつかの見方がある。(大石 1996)例えば、
一 シンボル説では食人が人肉食ではなく、封建社会における人間性破壊の象徴であり、二 歴史説では中国の歴史の中で食人行為があったという見方を取る。
三 また、現実説では食人行為が歴史に見られるだけでなく、現在も続いているとする。
 ここでは最後の現実説に寄せていく。人を食べて自分を調節している人間は、中国にも日本にも実在している。政治的にも文化的にも影響が大きかった五四運動を契機にして、魯迅は弟周作人とともに新文化運動の前線に立つ。辛亥革命の不徹底を批判することで、反帝国・反封建の立場を守りたかったからである。(花村 2013)

花村嘉英(2014)「20世紀前半に見る東西の危機感」より

作家が試みるリスク回避について−魯迅、森鴎外、トーマス・マン1

背景

 20世紀前半は、二度の大戦を含めて世界中で戦争が繰り広げられた。当時の社会について東西の知識人たちはどのような危機感を持っていたのであろうか。小論に登場する魯迅(1881−1936)と森鴎外(1862−1922)とトーマス・マン(1875−1955)は、各国を代表する作家であり、シナジーの研究のために私がこれまで分析してきた人たちである。欧米とアジアのそれぞれの比較ではなく、チャールズ・パーシー・スノー(1905−1980)を調整役に置いて異文化的に話をまとめながら、三人の作家が思い描いた危機感とそれに対する解決策について考察する。
 なおこの小論は、2013年の延辺大学で開催された中日韓朝言語文化比較研究国際シンポジウムの論集に掲載されている。

1 20世紀前半の背景

 周知のように、20世紀前半とは列強各国が軍事主義に走り、戦争が繰り返された時代である。日本は幕末から明治にかけて西洋文明を取り入れて、列強国に匹敵するほどまで経済や技術が発達した。日清戦争(1894−1895)や日露戦争(1904−1905)がその例である。戦争特需による経済成長のおかげで日本国民の意識も高まり、軍事政権は連合国側に立って第一次世界大戦(1914−1918)に参戦する。
当時の中国も清朝末期の古い中国と孫文率いる新しい中国が辛亥革命(1911)を境に内戦を繰り返していた。清朝は1912年に打倒されたが、その後、中国を統治する勢力が生まれなかったため、日本をはじめとする列強国との侵略戦争がそこに重なった。
 一方、ヨーロッパでは、1914年6月に起こったサラエボ事件をきっかけにして、第一次世界大戦が始まった。そのため中国に駐留するヨーロッパの部隊は、兵士の増員もなく弱体化していった。そこで、日本は中国に21ヵ条の要求を課して大陸への進出を強化していく。これに対して、1919年5月4日、パリ講和条約で旧ドイツ租借地の山東省の権益を日本が継承することになったのを受けて、天安門で北京大学の学生が反日のデモを展開した。
 中国では当然のことながら封建主義や帝国主義が時代の思潮になった。国民党と共産党という二つの抗日勢力が誕生して、内戦が慢性的に続いていく。その間に関東軍が中国東北部を占領して、新京(長春)を都とする満州国(1932−1945)が建国された。こうした時代の背景は、今でも続く抗日運動の原点であろう。
 ヨーロッパでは、第一次世界大戦が早期に終結すると予想された。しかし、各国の戦術面が格段と進歩したために長期戦となった。そのためヨーロッパでも人々に過酷な労働を強制した軍需産業による戦争特需が経済を支えた。また、第一次世界大戦中にスイスのチューリッヒで起こった芸術運動(ダダイズム)は、戦争に対する反抗であり、戦争を愚考として、既存の芸術よりも攻撃や破壊を意識した。

花村嘉英(2014)「20世紀前半に見る東西の危機感」より
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花村嘉英
花村嘉英(はなむら よしひさ) 1961年生まれ、立教大学大学院文学研究科博士後期課程(ドイツ語学専攻)在学中に渡独。 1989年からドイツ・チュービンゲン大学に留学し、同大大学院新文献学部博士課程でドイツ語学・言語学(意味論)を専攻。帰国後、技術文(ドイツ語、英語)の機械翻訳に従事する。 2009年より中国の大学で日本語を教える傍ら、比較言語学(ドイツ語、英語、中国語、日本語)、文体論、シナジー論、翻訳学の研究を進める。テーマは、データベースを作成するテキスト共生に基づいたマクロの文学分析である。 著書に「計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?」(新風舎:出版証明書付)、「从认知语言学的角度浅析鲁迅作品−魯迅をシナジーで読む」(華東理工大学出版社)、「日本語教育のためのプログラム−中国語話者向けの教授法から森鴎外のデータベースまで(日语教育计划书−面向中国人的日语教学法与森鸥外小说的数据库应用)」南京東南大学出版社、「从认知语言学的角度浅析纳丁・戈迪默-ナディン・ゴーディマと意欲」華東理工大学出版社、「計算文学入門(改訂版)−シナジーのメタファーの原点を探る」(V2ソリューション)、「小説をシナジーで読む 魯迅から莫言へーシナジーのメタファーのために」(V2ソリューション)がある。 論文には「論理文法の基礎−主要部駆動句構造文法のドイツ語への適用」、「人文科学から見た技術文の翻訳技法」、「サピアの『言語』と魯迅の『阿Q正伝』−魯迅とカオス」などがある。 学術関連表彰 栄誉証書 文献学 南京農業大学(2017年)、大連外国語大学(2017年)
プロフィール