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2015年07月24日

「神の国が近い」ことはどのようにしてわかるのか。

前回、「世の終わりが近づいている」と巷が騒がしいことについて述べた。その「世の終わり」とは、これまで我々が見聞きしてきた、「人の国」の終わりであり、それはイェシュアの言う、「神の国」が近づいたという事と同義である。では、その「神の国」が近づいたというのはどのようにしたらわかるのか。我々は何をすればよいのか。それらについて考察してみたいと思う。

前々回に、「国が内部で分裂したら、その国は立ち行かない」というイェシュアの言葉を引用した。これは、国であれ、家族であれ、民族であれ、会社であれ、同じである。つまり、お互いに噛み付き合うような集団は、その大小を問わず自滅するという事である。「人の国」の終わりというのは、そのように自らの手で滅んでいくのであり、そののち「神の国」が現れるという事である。では、それはどのようにしてわかるのだろうか。

人の国というのは現代の国家の在り方でもあるが、端的にいえば中世の思想家たちが一生懸命考案した民主主義による国の有り方であり、それが日本を含む現代の多くの国の形であろう。その思想家の一人、ホッブズはその著書「リヴァイアサン」で、人間をほっておくと、互いに自然権を行使し合って「万人の万人に対する闘争」という混沌とした状況になると考察し、そのような混乱した状態を回避し、皆が平和で共存できるようにするために「社会契約」を採るべきだと述べた。
この「社会契約」については、ジョン・ロックの「統治二論」やジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」でも違った角度から議論されてはいるが、これらはどちらにせよ以下の状態である事を表現している。

人間はほっておくと自分がやりたいと思う事を勝手に行い、それが互いに悪い影響を与え、巡り巡って自分が損をする。その様に自分が損をしないように、話し合いを通じて「社会契約」を結び(つまり世の中の一般的な決まり事を作り)、それが体現化された法律の下、法治国家として法の下でお互いが噛み付き合わないようにする。という事である。

これが、現代社会に多い民主主義国家の基本的な考え方であり、現在も多くの国がその概念に基づいて国家を形成している。

しかし、である。

このような「社会契約」を結ぼうと思うこと自体、自己保存をするためにではあるが一応相手の意見も取り入れようというヒューマニズムのような姿勢がその根底にはある。それは、本当に「相手を思いやる気持ち」である良心には程遠いにせよ、曲がりなりにも愛の表れではないだろうか。しかし、そのように相手の立場に思いをはせるかようなヒューマニズム的気持ちすらなくなって、人の心が荒んでくると、「力をつければ自分に害を加える恐れのある者は蹴散らせる」となり、「力があれば恐れるものはない」と傲慢になっていくのである。

そうなってしまえば、中世の思想家たちが危惧していた「万人の万人に対する闘争」状態と最早何も変わらないのではないだろうか。

ヒューマニズムは人間中心主義であり、神の支配を否定した人間中心的なものの考え方である。神に対し、「あなたは私たちを支配するべきではない。我々人間自らが世の中を制御できる」という、神を否定し、人間を肯定するものの考え方である。しかし、先に述べたように、その末路は当の考案者らが危惧していた「万人の万人に対する闘争」にしかならないという事である。

イェシュアはこう述べている。
「人に惑わされないように気をつけなさい。
私の名を名乗るものが大勢現れ、『私こそキリストだ』(注:キリスト=メシヤ=救いを与える者)と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争の事や、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、慌てないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります
しかし、そのようなことは皆、生みの苦しみの初めなのです。
その時、人々は、あなた方を苦しい目に遭わせ、殺します。また、私の名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。
また、その時は、人々が大勢躓き、互いに裏切り、憎みあいます。
また、偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイによる福音書24章4-13節)

「その時には、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてないような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、一人として救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
その時、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とかいう者があっても、信じてはいけません。
偽キリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、私は、あなた方に前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、稲妻が東から出て、西に閃くように、ちょうどそのように来るのです死体のあるところには、禿鷹が集まります。
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
その時、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイによる福音書24章4-13節)

最後の部分に関しては「何のSF映画だ?」というような情景が描かれているが、それが信じられなくても、その前に述べた、偽救世主が多く出てくるという事を前もって予言している方の言う事である。これまでも、また現在も様々な人間が「私の道こそ真理だ」などと教え述べて、救いを求めてさまよう人々から金品を巻き上げ、豪勢な生活を送っているのは事実であり、そのような輩が多く出て来るという事を2千年以上も前に確実に言い当てた人が言う言葉なのであれば、多少信用しても良いのではないだろうか。

イェシュアが言うには、人の子(救世主)はだれの目にも明らかに人の子(救世主)だと解るように現れる。と言っているのである。もっとも疑り深い私にも明らかに解るように来ると言っているのである。それが神の国の到来であり、その前には戦争や、戦争のうわさ、飢饉、地震、迫害、不法がはびこる、愛がなくなる、偽預言者や偽救世主が現れ、不思議なことや大きなしるしを行って見せ、人をだますという前兆が現れると言っている。

また、パウロは若いテモテにあてた手紙で、終わりの日の様子についてこう書いている。
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。
その時に人々は、自分を愛する者金を愛する者大言壮語する者不遜な者神を穢す者両親に従わない者感謝することを知らない者汚れた者になり、情け知らずの者和解しない者そしる者節制の無い者粗暴な者善を好まない者になり、裏切る者向こう見ずな者慢心する者神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定するような者になるからです。こういう人々を避けなさい。(テモテへの第2の手紙3章1-5節)

また、イェシュアの兄弟ユダも以下のような事をその手紙に記している。
彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人を褒めるのです。
愛する人々よ。私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)の使徒たちが、前もって語った言葉を思い起こしてください。
彼らはあなた方にこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。(ユダの手紙16-19節)

何という事だ!私の中にも思い当たる節が数多くあるではないか!さすがに黒羊だけのことはある。私は私の中に完全なものは何一つとして無いという事を目の当たりにし、それを直視し、自らを蔑み、日々悔いているのである。そのような者に対する救いがあるからこそ、私はそれに依り頼むのだ。

パウロもこのようなことをローマ人への手紙で言っている。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にあるものです。
私には、自分のしていることが判りません。私は自分がしたいと思う事をしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
もし自分のしたくない事をしているとすれば、律法は良い物であることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着いている罪なのです。私は、私の内、すなわち、私の肉の内に善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが無いからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくない事をしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の体の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、体の中にある罪の律法の虜にしているのを見出すのです。
私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)のゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
こういうわけで、いまは、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある、命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためなのです。
肉に従うものは肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従うものは御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、命と平安です。(ローマ人への手紙7章14節-8章6節)

先述のヒューマニズムとは違い、人には良心というものが存在するのはだれでも知っている。それこそが、神が私たちに与えた御霊であるのに、神を否定する人間がその名を「良心」としてしまったのだ。このことは、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」と聖書が言っている事によりはっきりしている。それは相手を思いやる気持ち、赦す気持ち、いつくしむ気持ちであり、それが愛なのであり、それこそが、「神が人間の内に住まわせた御霊」なのだ。しかし人の中には肉があり、(つまりそれを認めたくない、自分こそが自分の主だという心)があり、巷に行き交う悪霊も混ざって、様々なまやかしを行う。だから、ヨハネも彼の手紙でこう記している。

愛する者たち。霊だからと言って、皆信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。なぜなら、偽預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)を告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イェシュアを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなた方はそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(ヨハネによる第1の手紙4章1-3節)

現在、人の世の終わりが近づいているというのは、人による支配が廃れ、もはや人が人を噛み合う「万人の万人に対する闘争」状態になりつつある事からもわかると思う。それをこれまで反キリストの霊であるヒューマニズムで"食い止めてみた"ふりをして、皆を騙し、はぐらかしてきたものの化けの皮がはがれて来つつあり、このような「人道」に基づく救いが明らかに無力であることが証明されつつある。肉によって無力化されたため、律法によっては救いのない人間を、神は心より憐れみ、救いの手を差し伸べているのである。だから私はこの救いの手を掴み、耐え忍ぶ戦いをしているのだ。いずれ愛である生ける神が必ず勝利するのであり、それまでは私のできることを淡々と為しつつ、贖いの時を静かに待っていようと思う。

2015年07月16日

最近、あちこちで「世の終わりが近づいている」と騒がしいようです。

最近のメディアやネット上での噂話は、世の終わりが近づいているとのうわさが流れている。
SEKAI NO OWARI (セカオワ)などと言うバンドがあらわれてみたり、「光」、「救世主来たれ」などと軽々しく宣伝で使われたりと、いろいろと騒がしくなっている。

そのようなことについて、実はイェシュアが神の真理を求めている人々に残している指示がある。

およそ2千年前も、イェシュアの時代には様々な「世の終わり」の噂が流れていた。
その様な時代にあって、イェシュアは以下の様に話している。

宮が素晴らしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイェシュアはこう言われた。
「あなた方の見ているこれらの物について言えば、石が崩されずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」
彼らは、イェシュアに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」
イェシュアは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々の後について行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、怖がってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりはすぐには来ません。
それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病や飢饉が起こり、恐ろしい事や天からの凄まじい前兆が現れます。しかし、これらの全ての事の前に、人々はあなた方を捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために、あなた方を王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたの証しをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないような言葉と知恵を、私があなた方に与えます。しかしあなた方は、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺されるものもあり、私の名のために、皆の者に憎まれます。しかし、あなた方の髪の毛一筋も失われることはありません。
あなた方は、忍耐によって自分の命を勝ち取ることができます。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その時には、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる者たちは、都に入ってはいけません。これは、書かれている全ての事が成就する報復の日だからです。
その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住む全ての所を襲おうとしている事を予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
その時、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、体をまっすぐにし、頭を上にあげなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカによる福音書21章5〜28節)

世が混沌とする時には、人は救いを求めて様々な人や物にすがろうとする。「溺れる者は藁をも掴む」という諺どおりである。歴史を振り返ってみても、「敵国が攻めてくる気配がある」という恐怖に駆られると、人は「強い指導者」や、「偉大な宗教家」などといった人間や、「金」や「武力」といった物に縋るのである。石油ショックのころ、「トイレットペーパーがなくなる」といった噂を鵜呑みにして、トイレットペーパーが買い占められ店頭から姿を消したという史実がある。よくよく考えれば洗えば済むはずなのが、パニック状態になり思考停止に陥って、トイレットペーパーを買い占めたのである。そんな紙に頼るのではなく、生ける神とその独り子である救世主イェシュアにより頼む方が確実であるにもかかわらず、だ。
これは危機的な状態に陥ってパニック状態になった時、人は普段の行動を基に行動するか、最も早く安全な場所に行きたがる傾向があるという事の証明でもある。これは、以下の調査やその他の研究文献からも明らかである。
「住民の水害時避難選択に関する研究」
http://www.arch.kobe-u.ac.jp/~a7o/activity/theses-data/gra-mas/h19_m_kikuchi.pdf#search='%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%82%E9%80%9A%E3%82%8B+%E5%82%BE%E5%90%91+%E9%81%BF%E9%9B%A3%E6%99%82'
の4ページ目の避難経路の選択で、「避難場所までの最短距離」「いつも通る道だから」が最も多い回答であることに留意してほしい。

イェシュアは、この時にどうすべきか明らかに述べている。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その時には、その滅亡が近づいたことを悟り」、「その時、ユダヤにいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる者たちは、都に入らず」、「これらのことが起こり始めたなら、体をまっすぐにし、頭を上にあげなさい。」と言っているのである。そして、その様な光景に直面しても恐れず、かえって忍耐によって自分の命を勝ち取ることができる。と言っているのである。

ところが、普段からイェシュアの言う事に聞き随っているのでなければ、その様な現実に直面した時にはパニックに陥り、これまで通りのやり方である「最短」で「慣れ親しんだ」滅びへの道をためらわずに突き進むことになるのである。

イェシュアはこの後で、以下のように述べている。
「イチジクの木や、全ての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことが判ります。そのように、これらの事が起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。
真に、あなた方に告げます。全ての事が起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、私の言葉は決して滅びることがありません。
あなた方の心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日が罠のように、突然あなた方に臨むことのないように、よく気を付けていなさい。
その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
しかし、あなた方は、やがて起ころうとしているこれら全ての事から逃れ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

イェシュアに学んだ者は、このことを知っている。だから、いつも油を絶やさず、(油断せず)主に祈るのだ。その日が具体的に何月何日なのかは判らずとも、その日が近いことを知っているがゆえに、慌てることなく平安のうちにその日を迎えることができるのだ。主イェシュアにおける信仰があるからこそ、何があっても平常心でいられるのだ。信仰の力はここにある。

この後数回にわたり、時が近いのはなぜ判るのか、そして何をすればよいのかについて書き進めてみようと思う。

2015年07月05日

「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。」

なんと諍いの多い現代なのだろうか。日々今の状況を悲しく思いつつ、自分にできることをちまちま行っている今日この頃である。
仲間割れというのはあまり見ていて気分がよいものではない。自分の子供が兄弟げんかをしているのを見るにつけ、「どっちもどっちじゃ!」と突込みと拳骨を入れたくなる衝動を押えつつ、これがなぜ起こるのかということを諭す毎日である。

イェシュアが悪霊に取りつかれ苦しんでいる人からその人を苦しめている悪霊を追い出し、悪霊の呪縛から人々を自由にさせているとき、その教えがあまりにも世の人の常識からかけ離れていて奇怪に映った。周りの人は教えていることの意味が解らないために「あいつはキチガイだ」とイェシュアにレッテルを張ったが、その奇蹟自体は否定することができなかった。そのため、訳知り顔の律法学者は以下のように解説したと聖書に書かれている。

マルコの福音書3章22節
エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。


ベルゼブルというのは悪魔のかしらみたいなもので、言ってみればボスキャラである。本来は邪神バアルと同義であるが、これはまた別の話になる。要するに、自らは神の律法を守る善人であると自負している律法学者は、イェシュアのしている事を「取りついた悪霊を、その悪霊のボスキャラの命令で追い出してんだよ」と説明しているのである。

イェシュアはそのような彼らにこう答えている。

マルコの福音書3章23〜26節
そこでイェシュアは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」


なぜにそのような内輪もめが起こるのか。それはイェシュアの最初の弟子のひとりであるヤコブがその手紙で解説してくれている。少々長くなるが、きちんと説明されているのでその個所をしっかりと読んでみたい。

ヤコブ4章1〜12
  何が原因で、あなた方の間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方の体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。
  あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
  願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
  貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
  それとも、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書の言葉が、無意味だと思うのですか。
  しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
  ですから、、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。
  神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗い清めなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。  あなた方は、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなた方の笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
  主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます。
  兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟を裁く者は、律法の悪口を言い、律法を裁いているのです。あなたが、もし律法を裁くなら、律法を守る者ではなくて、裁く者です。
  律法を定め、裁きを行う方は、ただ一人であり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人を裁くあなたは、いったい何者ですか。


ヤコブは、争いの原因は我々の体の中で戦う欲望が原因であるといっている。内輪もめをするということは、つまり「仲間の中で各々違う欲望がうごめいており、それぞれがそれぞれの欲望をコントロールすることができていない。」ということに他ならない。

仲間の中で違う意見がある?まあ、人それぞれで意見は異なるから、それは致し方ないのであろう。しかし若し本当に仲間なのであれば、それをお互い腹を割って話し合い、お互いが良いと思えるようになる形で様々な議論をし、譲り合うところは譲り合い、相手が絶対に飲めないと言うものはそれを受け入れ、飲めるようなものを互いに協力して探求するという姿勢があるべきではなかろうか。

これは個人対個人のレベルから、団体対団体、地域対地域、国対国に至るまで幅広い場面で行われるものであろう。

ところがである。それが常にできるのであれば、争いなど起こるはずもないのである。
ここでイェシュアや、その弟子であるヤコブが言っているレベルは、もう双方の意見が完全に異なり、お互いが絶対に譲れないものがぶつかるという場合の話をしているのである。その際に、イェシュアが教えた、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」(マタイの福音書7章12節)という教えに従い、「もし本当に自分にとってこれは飲めないというようなことは人から強いられたくないのだから、私が望むものは諦めよう。」とすることが神の律法に適っているという事がわかる。

これを自らの望みを是が非でも通そうとするために、あらゆる手立てを使って拒否している相手に無理強いをするのは、これは律法に適わない事である。(何度私もそういう事をして後で煮え湯を飲まされてきた事か・・・)
律法に適わない事をする者は、いずれ神からの裁きが下るという事でもある。

その様なことを知らない我々凡人は、そのような罪を犯し続けていることにさえ気が付かずにいる。しかし、神の憐みにより、その罪の裁きである我々の受けるべき死刑宣告を、かたくなに受け入れたくないと拒否している我々の代わりにその裁きをその身に受け、身代わりとなることによって、イェシュアは我々が、我々のその頑なな思いを捨て、主である神に対して自らへりくだって悔い改めることを選ぶことにより、神様との和解ができるようにしてくださったというわけである。これこそが、「よい知らせ」つまり福音なのである。

だから、神様は罪の罰を受けるのを頑なに拒否している我々に対し、それを無理強いすることを一度止め、神のほうが折れて自らの一人息子であるイェシュアを犠牲にし、神との和解を望む者のために道を開かれたのである。だから、イェシュアが罪なき神のたった一人の御子であり、彼が我々の代わりにその身に我々の罪の裁きである死の責めを負い、十字架に懸って死なれたという事を信じ、その赦しに与りたいと思うものはだれでも許される。のである。

その許された者が集う所こそ、天の御国であり、そこでは皆が兄弟姉妹という事になるわけなのだが、救われた者同士が互いにいがみ合ったり、争い合ったりしているのであれば、もはやその者どもは神の顔に泥を塗る輩と成り下がってしまっているのである。だからイェシュアは、「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」と言っているのである。(よくわからない場合は同タイトルの過去記事をご一読あれ)

これについては別の機会にもう少し掘り下げてみたいと思う。

さて、ここで神が絶対に譲れないものとは何であろうか。それは「義」である。それはイェシュアも、「神の国と神の義とをまず求めなさい」(マタイの福音書6章33節)と言っていることからもわかるだろう。人が絶対に譲れないものは何か。それがその人の「神」なのである。その人の崇める「神」が、天地を作り、全てを支配している真実の生ける神ヤハウェ以外の物であった場合には、聖書ではそれを「偶像」と呼んでいるのである。悪魔は神でもないのに神になろうと足掻いている被創造物(天使、つまり堕天使ルシファー)であるので、自分が神のように崇め奉られることを望んでいるのであるが、そのためには手段を択ばない残虐な者である。人を恐怖で縛りつけ、「私の言う事を聞かぬと命はないぞ」と脅してみたり、人の欲につけ入り、「私を拝み、崇め奉れば、あなたの望む者は何でもかなえてやろう」とそそのかしてみたりするのである。だから、人が最も望む物である、富、名声、権力といったものには魔物が潜んでいるのである。「好事魔多し」というのとほぼ同じことである。だからこそ、イェシュアは、「あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。」(マタイの福音書6章24節後段)と言っているのである。

だから、前出のヤコブは、「あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
  願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と言っているのである。

イェシュアは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイの福音書7章7節)と言って、あなたの望む物は神に請い求め、神の時を待ちなさいと教えているのである。信じなさい。神はあなたを本当に心から愛し、守りたいと望んでいるのです。その愛を信じられない者たちが、自らの手で自らの欲しいものを自分勝手に求め、手に入れようと足掻いているからこそ、今の世には争いが絶えないのです。このままずっと家族が、地域が、国民がお互いの首を絞め合うようでは、近い将来、家庭や地域、果ては国全体が取り返しのつかないほどに破滅する事になるのではないか、と私は大いに憂いているのです。
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