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2014年10月24日

「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」(その2)

ブログを書くのも久方ぶりです。

さて、今日は前回の続きという事で、前回あまり長くならないように打ち切った内容を補足し、完成させようと思う。

前回のイェシュアが語ったたとえ話(マタイ18:23〜34)では、主要な登場人物が3人いた。国王と、国王に借金したA氏、A氏に借金したB氏という事であったと記憶しているだろう。(忘れた方は戻ってもう一度読んでみてください。)

聖書には、イェシュアの様々なたとえ話の箇所で、「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」等とは書かれていないという事をしっかりと見て取る必要がある。それはなぜかというと、

「この物語はフィクションであれど、実在の人物・団体と大いに関係がある!」からだ。

ではどのように関係があるのか。ここではそれを解き明かしていくことにする。

「罪の赦し」という点において、このたとえ話で出てくる人物で罪を赦すという行為ができうる人物は2名いた。
そう、国王とA氏である。なぜなら、この2名は「罪を犯され、損害を受けた」からである。赦すという事は、損害を被らなければできるものではない。
また、罪を犯した人物も同様に2名いた。それはA氏とB氏である。罪を犯していない人物は国王だけである。

国王は、自分は罪を犯していないが、Aから罪を犯されたため、完全な被害者である。
Aは、国王に対して罪を犯したため、国王に対しては加害者であるが、Bから罪を犯されたため、被害者でもある。
Bはというと、この話の中では完全な加害者である。しかし、この世に完全な加害者などはいない。かれも、何らかの形で被害を受けているのである。ただ、それはA氏には見えていない。
ただ、あまり目に留まらないが、この3人の中のもう一つの関係性としては、国王はAとB両方の国王であり、支配者でもあるという事である。

たとえ話の人物が、実在の人物と関係があるという事なので、あてはめてみよう。

罪を犯さない人間は一人として存在しない (ローマ人の手紙3章23節、詩編143篇2節等、枚挙に暇無し)。従って、この罪を犯していない国王は人間ではなく、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、主であり、イェシュアの言う「われらの父」である。

このことから、罪を犯したAとBは必然的に人間となるが、さて、それはだれを指すのであろうか。
はっきりと言おう。Aは我々すべての人間である。つまり、私でもあり、あなたでもあり、このブログを読んでいる人でもあり、街を歩いている人でもあるが、要するにあなたである。私も該当者だが、このたとえ話を読んでいるあなたのことを言っているのである。

ではBはだれか。これも同じ人間ではあるが、これはあなたではない。私でもない。これはこのたとえ話を読んでいるあなたに対して失礼な物言いをした人であり、損害を与えた者であり、あなたの自尊心を傷つけたり、あなたを侮辱したり、あなたの持ち物を奪ったりかすめたりした者であり、・・・要するにあなたに対して罪を犯した人の事である。

これをきちんと心に叩き込んでから、イェシュアの教えた「主の祈り」を見てみよう。

マタイの福音書6章9〜13節の中の12節を見てみる。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」
実は、この訳には翻訳の過程で取りこぼした原意がある。(一応私は通訳・翻訳を生業としているものであることを申し添えておく)
ギリシャ語の新約聖書原文になるだけ忠実に訳されるようにした聖書であるNew American Standard Version (NASV)にはこうある。
"And forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors."
この「as」は、単に「赦しました」ではなく、「私たちも同様に赦しました」という意味である。つまり、「私たちが他の者の罪を赦したように、私たちの罪も同じように赦して下さい」という事である。たとえそれを「それはあなたの解釈でしょ」という者があっても、実はこのことはその後のイェシュアの言葉からも明らかである。
マタイの福音書6章14〜15節には
「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の罪をお赦しになりません。」と書いてある。

キリストに従うキリスト者ならば、イェシュアの言っていることを忠実に行う者でなければならない。なぜなら、イェシュア自身が、「もしあなた方が私を愛するなら、あなた方は私の戒めを守るはずです。」(ヨハネの福音書14勝15節)と言っているからだ。このことは非常に深刻な問題であると我々は気づかなければならない。イェシュアは、「神様にあなたの罪を赦されたいと願うのであれば、あなたに罪を犯した人々を赦しなさい。そうするまでは神様はあなたの罪を赦さない。」と言っているのである。ところが、我々は我々に罪を犯した人を恨み、それを未来永劫まで執拗に覚え、彼ら・彼女らを徹底的に追い詰め、自らの怒りが収まるまで(決して収まることはないが)謝罪を要求し、土下座をさせ、それを皆にさらし、笑いものにし、苦しませるのだ。

恐ろしいことである。

「でも神様、彼は私に大変ひどいことをしたのです!」と文句が聞こえてきそうではあるが、口を慎むべきである。
天の父が、「それは命をもって償わなければならないものなのか?」と問い返された時、我々は何と答えることができるのだろうか。
確かに、筆舌に尽くしがたいことをされたと思うこともあるかもしれない。それはしかし程度の問題である。我々が本当にどうしようもない罪人であるという事を知らなければ、他人の罪は我々にとって非常に大きな事の様に映る。しかし、我々が本当に自らの罪の大きさを知り、そしてそのどうしようもない悲惨さに我々自身が打ちのめされる時、その時に初めて我々一人一人に対する天の父の愛の偉大さに気付くのである。その時の主の憐みがあるからこそ、我々がいかに悲惨でどうしようもない罪人であろうとも、悔い改めにより自らの行いを正すとき、主の憐みにより許されるのである。これが前回の記事の6千億円というわけなのである。

確かに、100万円はかなり大きな額ではある。しかし、自らの借金6千億円を帳消しにされたのであるならば、それと比べたら些細なことである100万円は同じように帳消しにしてやるのが人情というものであろう。それを赦さないから、天の父は怒るのだ。

「『私は憐れみは好むが、生贄は好まない』という事がどういう意味か知っていたら、あなた方は罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」(マタイの福音書12章7節でイェシュアがホセア6章6節を引用)とイェシュアが言った言葉の意味を、我々はいい加減知るべきなのではないだろうか。人に罪過の生贄を求めるのではなく、神を知り、その愛に満たされ、人を憐れんで100万円は赦してやることこそ我々の行うべき事である。それが嫌なら借金6千億円を耳をそろえて国王に返すことになるわけなのだが・・・



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