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2015年04月12日

皆既月食がありましたねぇ〜

つい最近、皆既月食を見ることができた。
昨年から今年にかけて、4回の皆既月食が起こる事になっている。(日本で見れるのはそのうち確か3回だったっけ?)
残念ながら今年の九月に起こる予定の皆既月食は日本では見ることができないそうだ。
その前にも皆既日食が北大西洋地域で観測できた。

いや〜なんという天体ショーの当たり年なんでしょうかねぇ〜。

実は、私はこのような現代人の態度に、少なからず不安を覚えている。
太古の時代より、洋の東西を問わず、実はこのような現代人が「天体ショー」と呼ぶ現象(日食、月食、彗星、流れ星、等々)は、不吉な事の起こる前兆であるとして恐れられていた。しかし、科学の発達した現在、それらの現象はもはや「解明されている」という事で、我々の祖先が畏怖の念を込めてこのようなものを仰ぎ見、畏れていたという感覚はもはやすでに忘れ去られてしまっている。

実はそれだけではない。

最近イルカが海岸に打ち上げられ、多くが死んでしまったというニュースもある。我々現代人は、「酸性雨が原因だろう」とか、「米軍の演習によるものだろう」とか、「何らかの病気にかかったのだろう」とか、様々な「理由」をつけてそれを「理解」し、何らかの「自然現象」として片づけるきらいがある。

しかし、立ち止まってよく考えてみてみたい。このような「天体ショー」は、説明はできたとしても、人間がそれを作り出すことは不可能である。この世を支配する「神の業」があって初めて成り立つ現象であるにもかかわらず、現代人はそれを分かったように取り扱い、事が過ぎると何事もなかったかのように日々の生活に戻るのである。

なぜか?

それは「現代の人間が、神に対する畏れを忘れたから」に他ならない。

石原慎太郎元東京都知事が、東日本大震災とその後の津波によって東北地域が被災したことを受けて、以下のように発言した。「津波をうまく利用して、我欲をうまく洗い流す必要がある。積年にたまった日本人の心の垢を。これはやっぱり天罰だと思う。」と。
昔気質の日本人作家らしい発言だと思う。しかし、この発言について、現代人は「不謹慎な発言」であると反発している。

我々の先人たちは、このような災害が起こった時には、「天罰が下った」と言って畏れ、身を慎み、自らの不徳を恥じ、我々の穢れを祓うべく反省をして禊をしてきた。これは、「このような災害で亡くなられた方々が悪いことをした」から、彼らに天罰が下ったという意味では決してない。

実は聖書にもイェシュアがそのような災害に触れた場面があることを、どのくらいの皆さんがご存じだろうか。
ルカの福音書13章1〜5節にはこう書かれている。

ちょうどその時、ある人たちがやってきて、イェシュアに報告した。ピラトがガラリヤ人たちの血をガラリヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
イェシュアは彼らに答えて言われた。「そのガラリヤ人たちがそのような災難を受けたから、他のどのガラリヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。私はあなた方に言います。あなた方も悔い改めないなら、皆同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいる誰よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。私はあなた方に言います。あなた方も悔い改めないなら、皆同じ様に滅びます。」


イェシュアは、このように説明することにより、「殺人事件の被害者、交通事故の被害者、天災や人災の被害者が我々生き延びた人間よりも罪深かったから、彼らは死んだのだ」という解釈を「間違っている」と2度にわたり断言している。その代わり、「あなた方(生き延びた者)も悔い改めないなら、皆同じように滅びます。」とこれもまた2度にわたり断言しているのである。震災などで亡くなられた方々は、定めの時期が来たので亡くなられたのであり、決して彼らが「我々より罪深い」人だったから被害に遭ったわけではない。犯罪の被害者も「自己責任だ」ではない。イェシュアははっきりと、そのような被害者の周りで指をさして裁いている我々一人一人に対して、「あなたも悔い改めなければ同じように滅びます。」と断言されているのである。

日食や月食、彗星が実際に人に被害を及ぼしはしないが、その段階で我々に不徳の部分はないか、穢れた部分はないかと反省し、身を戒めてきた先人たちは、それを見ても何も感じないわれわれ現代人よりも「神に対する畏れ」を持っていたことになる。それが証拠に、先人の遭った災害に対して、先人たちは神に対して赦しを請い願い、穢れを祓い身を清めてきたのに対し、現代人はいまだに国を挙げて反省をしようとはしない。

イェシュアの「あなた方も悔い改めないなら、同じように滅びます。」と述べられた言葉を、我々は良くかみしめなければならないのではないだろうか。早目に気づき、立ち返って悔い改めるなら、神は我々を守って下さりもなさるであろうが、傲り高ぶる事を止めなければ、この先さらに大きな災いが日本を襲うことになるのではないだろうか。

2015年02月28日

裁くという行為と罪深い人間との関係

2月が逃げて行ってしまった。時のたつのはとても早いものだ。だからこのブログの更新間隔も長くなるのか。

さて、イェシュアは我々人間に対して「裁くな、裁かれないためである。」と言って人を裁くことを厳に戒めている。(マタイの福音書7章1節)ルカの福音書にはもう少し詳しく書かれている。
「裁いてはいけません。そうすれば、自分も裁かれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカの福音書6章37節)

前回、裁くという行為について、基準が無ければ裁くことはできないと述べた。「この箱は右側にある」と言うときにそれが右にあるかどうかを決定するのは基準点であり、基準点なくして右か左かなどとは論じることはできないのと同じである。あなたが「この箱は右側にある」と言っても、向かい合って立っている人に言わせれば、「いいや、この箱は左側だろ」という事になる。「この箱は"私の"右側にある」と言えば、"私の"という基準点の右側にあることは判断できる。

罪についても同様、罪に定めるのは律法という基準があるから罪が定められるのであり、律法の無いところには罪は存在しえないのである。家に土足で上がりこむ行為は、「家には靴を脱いでから上がるべし」という日本の律法(不文律)があるところでは「不作法である」とされるが、その様な律法の無い西洋では土足で寝室に入っても全く問題にはならないのと基本的に同じことである。

ではなぜに律法が出てきたのか。それは人間の原罪と密接にかかわるテーマである。初めに神が天地を創られた時、神はそれを見て「良し」とされた。つまり、「悪」は存在していなかったのである。人類の初めである男と女、アダムとイブが作られた際も「良し」であり、そこには「悪」は存在していなかった。つまり、全知全能の神は「悪」とは何のかかわりもなく、絶対的な「善」の存在であるという事である。

アダムとイブには自由が与えられていた。なぜなら、神である主はアダムとイブに対してこう言いつけたからである。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。(創世記2章16-17節)

これについてあるものはこう反論するだろう。「善悪の知識の木からは取って食べてはならないと禁止されているから、自由ではないではないか」と。しかし、イブが先に手を伸ばし、それを取って食べ、アダムがイブから受け取りそれを食べたという事は、「食べることができた」という事であり、それはつまり、「神である主の言いつけに背いて善悪の知識の木から取って食べる事ができる自由が与えられていた」ということに他ならない。

あるものはまたこう反論するだろう。「全知全能の神様がアダムとイブに善悪の知識の木から取って食べられないようにしておけば、人は罪を犯すことは無かった。だから、神がその善悪の知識の木をアダムとイブの手の届くエデンの園にその様な木を植えたから悪い」と。それはつまり、「神は人間がしてはいけないことをその意思に反してさせないように束縛するべきであった」と言っている事と同じである。その様に反論する者はきっと「縛られたい」人なのであろう。

しかし、人間をこよなく愛している神が、人が神に逆らう事すら許すほどの自由を人間に与えられたことは神がどれだけ人を愛しているかという事を如実に表しているのではないだろうか。

善悪の知識の木から取って食べ、「何が良くて何が悪いか」という事を知ることとなった人間は、そのような物差しを得てしまったことにより死ぬべき存在となってしまったのである。なぜかというと、神である主は「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と、アダムとイブをいのちの木のあるエデンの園から追放し、そこに入れないようにしてしまわれたからである。(創世記3章22-24節)

「神様はけち臭い」なんて声が聞こえてきそうだが、これは神が人間を守るためにしてくださったことであることを我々はいい加減気づかなければならない。若し、今ここに不老不死の妙薬があったとして、それをあなたは飲みたいと思うだろうか。人が人に過ぎず、完全な存在でない現在の状態が永遠に続くことを想像する・・・いや、想像したくない・・・けど想像すると、永遠の退屈と、諍いと、不調和との中で万人がそれぞれの「正義」を振りかざすところに住みたいか。私はご免こうむる。

だから主イェシュアはこう言ったのだ。「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰一人父のみもとに来ることはありません。」と。(ヨハネの福音書14章6節)信用できる行いを伴った宗教家の中で、このように正々堂々と「私以外に道はない」と述べた人はいまだかつてイェシュアのみであることはもはやだれの目にも明らかである。

詩編95編7節にはこう書いてある。
「今日、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなた方の心をかたくなにしてはならない。」そして、今つい先ほど、あなた方は主イェシュアの声を確かに聞いたはずだ。イェシュアはその生涯、決して悪を行っておらず、それを勧めることなどみじんもしなかった。そのイェシュアに逆らって立つという事は、イブとアダムが最初に口にした善悪の知識の実により、「イェシュアが道ではなく、私が道だ!」というようになった死ぬべき人間であるという事を自ら証明していることに他ならないのである。

イェシュアが言っていることが良いものであると認識できる人ならば、心をかたくなにせず、今ここで己の持つ善悪の知識の物差しをへし折って捨ててしまうことをお勧めする。そして、全ての事を存じ上げている天の父の物差しに従って歩むことをお勧めする。そうすることにより、もはや裁かれることもなく、主の安息に入ることができるようになるのである。

2015年01月11日

「裁いてはいけません。裁かれないためです。」---でも裁きたいんです。

さて、年が明けてしまいました。年末年始とバタバタしてどうもせわしない時こそ深呼吸して真理に向き合おうと思う。

裁くという行為は前にもふれたが、基準、つまり物差しがなければできない。裁判所では憲法をはじめ、刑法、民法などなど様々な法律を基に裁きを下している。この法律は国権の最高機関である国会によって審議され、制定される。それはつまり国民の合意によって取り決めた物差しである。裁判官は憲法と法律と自らの良心に従って審理で事実と認定された事柄が法を犯しているか否かを裁くわけである。従って、裁判官から法典を取り上げてしまえば、自らの良心に従って裁くことになるわけだが、人の価値観が違うからそれでは大変まずいことになるわけである。だから安定した裁きができるように、国民の合意によって取り決めた物差しが必要になってくるわけだ。

では人としてどうあるべきかという件に関して、そのような物差しはあるのだろうか。次の事例を見てみよう。

玄関先で掃除をしていると隣の住人が帰宅してきた。「お帰りなさい」とあいさつすると・・・

A:「こんばんは」と笑顔であいさつしかえしてきた。
B:スルーされてそのまま通り過ぎて行った。

あなたはその隣人に対してどのような印象を持っただろうか。Aの場合、気持ちよく掃除を終えて機嫌よく家に帰り、おそらくものの1時間もしないうちにそのような出来事があったことも忘れているだろう。ところがBの場合はどうなるだろうか。おそらく「なんて失礼な奴だ」と気分を害し、事あるごとに「隣のやつは俺を無視しやがった」と蒸し返しては憤慨し、下手をすると翌朝までそれを引きずっているのではないだろうか。

ほんの一瞬の出来事を裁くのに、裁判では裁判官が長い時間を使って事実認定をし、それを基に法律と照らし合わせて判決を下す。ところが、我々は我々の見たところを見たままに判断し、すぐさま裁きを下すのだ。それできちんとした裁きができるのであれば、ぜひ裁判官になってほしい。無駄に裁判を引きずることなく、速やかに正義の裁きができるのだから皆がきっと喜んでくれることであろう。しかしそれは人間業ではなく、もはや神の領域なのである。

先のB件で隣人を「無礼者」と断罪したかもしれないが、もし次の事実が明らかになった場合はあなたはどう感じるだろうか。

隣人さんはその日会社にいるときに妻から電話がかかってきて、「あなた、子供が学校から帰る途中車にはねられたの。今病院(自宅から会社とは反対側にある)にいるんだけど、あわてて出てきたので保険証と財布を置いて家に鍵もかけずに出てきちゃったから病院に来る途中家に寄って保険証と財布を取って鍵をかけてきて下さらない?」とお願いされたためかなり焦っていた。

おそらくBの件における隣人への印象は一転したに違いない。え?それは卑怯だって?そんなことわかるわけないじゃん?そう、我々はその様にすべての事実を決して把握などしていないのだ。だから我々人間は裁いてはいけないとイェシュアは言っているのである。

2014年11月03日

「裁いてはいけません。裁かれないためです。」

前回は、自分に被害が及んだ場合の話をした。その際には、アブラハム・イサク・ヤコブの神である天の父は、その言葉であるイェシュアにより「許しなさい。」と言っていたのを確認したと思う。

今回は、自分に直接的に被害が及んでいるわけではないが、自分の価値観とそぐわないものに直面した時の態度について探求してみようと思う。しかし、このトピックについては、多くの熱心な宗教家たちの反感を買うこと請け合いなのは十分に承知しているが、そのように「なんだこいつは」と思う方々も、まあ、最後までしっかりと読んで言わんとしていることを理解してから反論していただければと思う。

マタイの福音書7章1節〜5節には、当時の熱心な宗教家たちであるパリサイ派の人々や祭司などから非常に不評を買ったイェシュアの言葉が記されている。
「裁いてはいけません。裁かれないためです。あなた方が裁く通りに、あなた方も裁かれ、あなた方が量る通りに、あなた方も量られるからです。」

ここで、裁くというのはいったいどういう事なのか、もう一度確認してみたい。大辞林第三版の解説にはこう書いてある。
さばく【裁く】 善悪・理非の判断をする。

つまり、これは良い、これは悪いという事を判断することが、「裁く」という意味だという事が解る。これからすると、イェシュアは、「(他者について)善悪の判断をしてはいけません。あなたが他者に適用した基準であなた方も天の父から裁かれるからです。」と言っていることになる。

また、旧約聖書の原典で使われているヘブライ語において、裁くという言葉には上記の善悪の判断の意味のほかに、「支配する」、「君臨する」、または「統治する」という意味が含まれている。要するに、「裁くことのできるものは権力を持っている」というわけである。

では、どこからが善で、どこからが悪なのか。その善悪の境界はどこにあるのだろうか。少し考察してみたい。

「嘘つきは泥棒の始まり」とはよく言い古された言葉で、子供に嘘をついてはいけないと教えるときによく使う金言であるが、実はそれを言っている当の本人(大人)が、嘘をあちこちで吐きまくっているという事は紛れもない事実である。以下の状況でそれは赦されるのかどうかについて、判断してみてほしい。

@ 人がテーブルの上に置いてあった財布をその人が見ていない時に盗み、そのことに疑いをかけられると、「私はそんなことはしていません。」と嘘をつくこと。

A カフェで友人がテーブルのソルトシェーカーを気に入り、それを盗むのを見ておきながら、店の人があなたにあなたの友人がそれを盗むのを見ませんでしたかと問うた時に友人をかばい、「いいえ、見ていませんし、私はこの人が盗むわけはないと思います。」と嘘をつくこと。

B お客があなたの店に来て、「この商品いつまでに入荷できますか」と質問されたので、本当はいつ入荷されるかわからないにもかかわらず、「明後日入荷予定です」と嘘をつくこと。

C 医者であるあなたが、患者に小さいが悪性で進行性の癌が見つかったにもかかわらず、患者に対しては「ちょっとした腫瘍が見つかりましたが、手術できれいに取れる程度ですので心配はありません。」と嘘をつくこと。

D チンピラらしきものに追いかけられていた少年をかくまい、チンピラに「ここにガキは来なかったか」とすごまれた時、「ああ、あの子なら駅のほうに走って行きましたよ。」と嘘をつくこと。

さて、あなたの価値観は上記5点をどう「裁く」のだろうか。この様に嘘をつくことは果たして良いのか、それとも悪いのか。

この質問をした意義は、「人によって価値観の物差しが違う」という点を示すためであり、ここで「このような場面でこのようにするのが正しい」というためのものではないことをしっかりと理解していただきたい。

では、なぜ価値観の物差しが人によって違うのか。これはこのブログ記事の第1回目にも出てきたテーマであるが、今回から数回にわたりその点について聖書の中から答えを導き出してみようと思う。

2014年10月24日

「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」(その2)

ブログを書くのも久方ぶりです。

さて、今日は前回の続きという事で、前回あまり長くならないように打ち切った内容を補足し、完成させようと思う。

前回のイェシュアが語ったたとえ話(マタイ18:23〜34)では、主要な登場人物が3人いた。国王と、国王に借金したA氏、A氏に借金したB氏という事であったと記憶しているだろう。(忘れた方は戻ってもう一度読んでみてください。)

聖書には、イェシュアの様々なたとえ話の箇所で、「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」等とは書かれていないという事をしっかりと見て取る必要がある。それはなぜかというと、

「この物語はフィクションであれど、実在の人物・団体と大いに関係がある!」からだ。

ではどのように関係があるのか。ここではそれを解き明かしていくことにする。

「罪の赦し」という点において、このたとえ話で出てくる人物で罪を赦すという行為ができうる人物は2名いた。
そう、国王とA氏である。なぜなら、この2名は「罪を犯され、損害を受けた」からである。赦すという事は、損害を被らなければできるものではない。
また、罪を犯した人物も同様に2名いた。それはA氏とB氏である。罪を犯していない人物は国王だけである。

国王は、自分は罪を犯していないが、Aから罪を犯されたため、完全な被害者である。
Aは、国王に対して罪を犯したため、国王に対しては加害者であるが、Bから罪を犯されたため、被害者でもある。
Bはというと、この話の中では完全な加害者である。しかし、この世に完全な加害者などはいない。かれも、何らかの形で被害を受けているのである。ただ、それはA氏には見えていない。
ただ、あまり目に留まらないが、この3人の中のもう一つの関係性としては、国王はAとB両方の国王であり、支配者でもあるという事である。

たとえ話の人物が、実在の人物と関係があるという事なので、あてはめてみよう。

罪を犯さない人間は一人として存在しない (ローマ人の手紙3章23節、詩編143篇2節等、枚挙に暇無し)。従って、この罪を犯していない国王は人間ではなく、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、主であり、イェシュアの言う「われらの父」である。

このことから、罪を犯したAとBは必然的に人間となるが、さて、それはだれを指すのであろうか。
はっきりと言おう。Aは我々すべての人間である。つまり、私でもあり、あなたでもあり、このブログを読んでいる人でもあり、街を歩いている人でもあるが、要するにあなたである。私も該当者だが、このたとえ話を読んでいるあなたのことを言っているのである。

ではBはだれか。これも同じ人間ではあるが、これはあなたではない。私でもない。これはこのたとえ話を読んでいるあなたに対して失礼な物言いをした人であり、損害を与えた者であり、あなたの自尊心を傷つけたり、あなたを侮辱したり、あなたの持ち物を奪ったりかすめたりした者であり、・・・要するにあなたに対して罪を犯した人の事である。

これをきちんと心に叩き込んでから、イェシュアの教えた「主の祈り」を見てみよう。

マタイの福音書6章9〜13節の中の12節を見てみる。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」
実は、この訳には翻訳の過程で取りこぼした原意がある。(一応私は通訳・翻訳を生業としているものであることを申し添えておく)
ギリシャ語の新約聖書原文になるだけ忠実に訳されるようにした聖書であるNew American Standard Version (NASV)にはこうある。
"And forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors."
この「as」は、単に「赦しました」ではなく、「私たちも同様に赦しました」という意味である。つまり、「私たちが他の者の罪を赦したように、私たちの罪も同じように赦して下さい」という事である。たとえそれを「それはあなたの解釈でしょ」という者があっても、実はこのことはその後のイェシュアの言葉からも明らかである。
マタイの福音書6章14〜15節には
「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の罪をお赦しになりません。」と書いてある。

キリストに従うキリスト者ならば、イェシュアの言っていることを忠実に行う者でなければならない。なぜなら、イェシュア自身が、「もしあなた方が私を愛するなら、あなた方は私の戒めを守るはずです。」(ヨハネの福音書14勝15節)と言っているからだ。このことは非常に深刻な問題であると我々は気づかなければならない。イェシュアは、「神様にあなたの罪を赦されたいと願うのであれば、あなたに罪を犯した人々を赦しなさい。そうするまでは神様はあなたの罪を赦さない。」と言っているのである。ところが、我々は我々に罪を犯した人を恨み、それを未来永劫まで執拗に覚え、彼ら・彼女らを徹底的に追い詰め、自らの怒りが収まるまで(決して収まることはないが)謝罪を要求し、土下座をさせ、それを皆にさらし、笑いものにし、苦しませるのだ。

恐ろしいことである。

「でも神様、彼は私に大変ひどいことをしたのです!」と文句が聞こえてきそうではあるが、口を慎むべきである。
天の父が、「それは命をもって償わなければならないものなのか?」と問い返された時、我々は何と答えることができるのだろうか。
確かに、筆舌に尽くしがたいことをされたと思うこともあるかもしれない。それはしかし程度の問題である。我々が本当にどうしようもない罪人であるという事を知らなければ、他人の罪は我々にとって非常に大きな事の様に映る。しかし、我々が本当に自らの罪の大きさを知り、そしてそのどうしようもない悲惨さに我々自身が打ちのめされる時、その時に初めて我々一人一人に対する天の父の愛の偉大さに気付くのである。その時の主の憐みがあるからこそ、我々がいかに悲惨でどうしようもない罪人であろうとも、悔い改めにより自らの行いを正すとき、主の憐みにより許されるのである。これが前回の記事の6千億円というわけなのである。

確かに、100万円はかなり大きな額ではある。しかし、自らの借金6千億円を帳消しにされたのであるならば、それと比べたら些細なことである100万円は同じように帳消しにしてやるのが人情というものであろう。それを赦さないから、天の父は怒るのだ。

「『私は憐れみは好むが、生贄は好まない』という事がどういう意味か知っていたら、あなた方は罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」(マタイの福音書12章7節でイェシュアがホセア6章6節を引用)とイェシュアが言った言葉の意味を、我々はいい加減知るべきなのではないだろうか。人に罪過の生贄を求めるのではなく、神を知り、その愛に満たされ、人を憐れんで100万円は赦してやることこそ我々の行うべき事である。それが嫌なら借金6千億円を耳をそろえて国王に返すことになるわけなのだが・・・



2014年08月26日

「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」

イェシュアの山上の垂訓の中で罪の赦しについて出てくる箇所にこの言葉がある。これは主の祈りの中にある重要な要素「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」でもあることから、イェシュアの価値観の中でも中心的な存在であろう。

弟子のひとりペテロがこのことについてイェシュアに尋ねた個所がある。ペテロが、「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」とイェシュアに尋ねたところ、イェシュアは「7度まで、などとは私は言いません。7度を70倍するまでと言います。」と言っている。

今でも「仏の顔も3度まで」と言われるぐらい、この3度までは赦すというのが昔からの世の習わしである。ペテロは、それを「7度までですか」と問うことで、実は人間が常識的に考えるような赦しよりも倍ぐらい赦せばよいのかと問うているのである。

ところが、イェシュアは7の70倍=490回まで赦しなさいと言っているわけである。まあ、490回というと結構な数だが、「では、同じ人から毎日不愉快な思いをさせられているのであれば約1年半ぐらいは赦してあげなさいという事になるのか。それ以上続くようなら許さなくてもよいのか。」などと考える方は、イェシュアの価値観を理解できていない事になる。

この問答の直後にイェシュアが語ったたとえ話(マタイ18:23〜34)では、主要な登場人物が3人いる。わかりやすく、国王と、国王に借金したA氏、A氏に借金したB氏という事にしよう。

国王:さあ、借金を耳をそろえて返してもらおう。10,000タラントだ。
A:ちょっと待ってください。まだ返せません。
国王:いや、もう待てないから全財産と妻子も売り払って返しなさい。
A:(土下座して)お願いします。後生ですからもう少しだけ待ってください。必ず全部お支払いします。
国王:(不憫に思い)いや、無理なようだからもういい。この10,000タラントの借金は帳消しにしてやる。

安堵したAは、国王の前から退いて家に帰る途中、自分が金を貸したBに出くわす。

A:(首を絞めて)お前に借した金100デナリさっさと返せ。
B:(土下座して)お願いだ。後生だからもう少しだけ待ってくれ。必ず全部返すから。
A:いや、これまで返してないんだから無理だろ。もういい、訴えてやる。(と言って借金を返せるまでBを牢屋に入れさせる)

Bの仲間はこれを見てBが不憫で、その一部始終を国王に報告すると、国王激怒。Aを呼びつけ、

国王:悪い奴だ!お前があんなにたのんだからお前の借金全部赦してやったのに、なんだこの態度は!私がお前にしたようにお前も仲間を憐れむべきだろ!
A:ひぇ〜

Aは自分の借金を全部返すまで牢屋にぶち込まれましたとさ。 (ちゃんちゃん♪)

さて問題です。
問1- Aが王様から借りた額(10,000タラント)は、現在の日本円にしていくらぐらいでしょうか。
問2- BがAから借りた額(100デナリ)は、現在の日本円にしていくらぐらいでしょうか。

簡単にさらっと聖書を読み飛ばしていると、「そうね、大体1,000万円と10万円ぐらいかな」などと思うことでしょう。
ところが、ここの理解に実はイェシュアのたとえ話の本質があるのです。

1デナリは当時の1日の日当に相当する額であることが、聖書の別の箇所からもわかっています。(マタイ20:2)
わかりやすく現在のサービス業に勤めている人の日当を¥10,000(1万円)としましょう。(え?そんなにもらってないって?いやそれはまた別の話で…)

そうすると問2の答えは・・・¥1,000,000(100万円)となります。まあ、国王から借金返せと言われた直後なら、首を絞めたくなるのも少しは理解できます。

では、Aはいくら借りてたのか。その当時の貨幣換算では、1タラントは6,000デナリに相当します。という事は、1タラントは¥60,000,000(6千万円)です。私はそれでもう土下座物ですが、Aさんはそれではとどまりません。彼の借りた額は10,000タラントなので、総負債額は…¥600,000,000,000(6千億円!)平成26年度大分県一般会計予算よりも多い。

そりゃ怒られるのも無理ないでしょ。

このたとえ話の後でイェシュアはこういいます。「あなた方もそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなた方にこのようになさるのです。」

我々が神様に対してどれだけ罪深き存在なのかを知らなければ、アブラハム・イサク・ヤコブの神であるヤハウェがどれだけ我々の事を愛しておられるかを知る由がないのはそのためであろう。しかし、そもそもの話、「罪とはなんだ?」と思われている方々のためにはまたあとで説明しようと思う。

2014年08月22日

---悔い改めよ--- イエスの価値観

日々の作業に追われなかなか思うように筆が進まない。
少しずつだが書き進めることにする。

「悔い改めよ」から始まったイエスの宣教は、その当時から画期的なものだったのだろうか。彼が初めに「悔い改め」や「アガペーの愛」というものを言い出したのだろうか。実はその辺の状況をよく知らずにいる人が多いのではないかと思う。
中学校頃から始まる授業の中で、「公民」において少し、「世界史」で少し、また高校で倫理・政経の科目を選択したものも中学校の内容に毛が生えたぐらいの、資料集に書かれている内容程度しかイエスについては知識がないのがほとんどだと思う。私もかつてはそうだった。(ま、クリスチャン家庭に育った方々なら知っているはずだが、日本人は少ないであろう。)

聖書を読み進めていく内にすぐに出会うのが、いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれている箇所である。
イエスの価値観がぎっしりと詰まった箇所であるので、まずはそこから言葉を拾い集めてみる。

「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなた方に告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)

新約聖書に出てくる箇所であることから、イエスが実際にその言葉を口から発した時には、まだ新約聖書は存在していない(新約聖書はイエスの死と復活の後に使徒らによって書かれた)ため、ここで言っている律法や預言者は全て旧約聖書(ユダヤの聖書)の律法や預言者の事であるのは明らかだ。
ここでイエスが言っているのは、私は律法を成就するために来たのであり、それを廃棄するためではないといっていることからわかるように、旧約聖書の律法はそれを正しいものであると考えていることがわかる。従って、ユダヤの教えを成就し、完成させるのがイエスであり、決して「ユダヤ教から分裂してできた」という教えではないことがわかる。

という事は、イエスの価値観はユダヤの価値観そのものであり、アブラハム・イサク・ヤコブの神であるヤハウェの教えをそのまま受け継ぎ、それを成就したと言っているのである。

したがって、本当のキリスト教の教えは、ユダヤ教の教えそのものであり、ユダヤ教の完成版こそがイエスの説いた道であるという事になる。ただ、実はこの話はかなり様々な宗教家の毛を逆なでするような内容であり、多くのユダヤ人からも多くのクリスチャンからも「何言ってんだこいつ」と思われるような内容でもある。

しかし、そう書かれているので、イエスを完全に信用することに決めた立場から言えば、「だってそう書いてあるじゃないですか」としか言いようがない。なので、そう思う方はどうぞ読んでから神様に教えを乞うてくださればよいと思います。主が明らかにしてくださるように心より祈っております。

ユダヤと書くと今のイスラエルやそれに付随するシオニスト、その前にはホロコーストなどと言うかなり血なまぐさい話になるので、「そんな神があってたまるか」という反応も多い。しかし、彼らの行いが微妙であるからと言って、またユダヤの民やイスラエル人、シオニストなどの人の行為が悪いからと言って、神様が彼らに示した道が悪いという事には決してならない。(実はそう聖書に書いてある)

話がぐだぐだになったが、イエスの価値観を探るには、新約聖書だけでなく、旧約聖書も同時に読み進めていく必要があることはこれで明らかになったのではないだろうか。
ちなみに、イエス自身もユダヤ人であり、イエス・キリストと呼ばれているのは、実はヘブライ語のギリシャ語訳であって、本来の名前はイェシュア・ハ・マシアで、これも、メシヤマシア-救世主)であるイエスイェシュア)という意味である。だから、イエスが名前で、キリストが姓などと勘違いをなさっている方々は注意していただきたい。実はこの事実は聖書を読み解く上で大変重要になってくるからである。

今後は私はイエスとは書かず、イェシュアと表記していこうと思う。そうすることで、実は旧約聖書に出てくるストーリーがどんな意味を持つのかという事が明らかになってくるからである。今後は少しずつ新約、旧約にまたがって、示されるままにイェシュアの教えを見ていこうと思う。

2014年08月16日

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
キリストであるイエスが宣教を始めたのは、この言葉からであったと聖書には記されている。

「悔い改めろ」と言われても、何を悔いて、何を改めなければならないのか。
やはり登場以来これまでに多くの人の人生に影響を及ぼした大先生の言葉については、それなりの敬意をもって、きちんと精査して理解をする努力をすべきであろう。

「悔いる」という行為は、おおよそ私の理解するところでは、自分の行った言動に間違いや悪い点があったということを認識し、それを言ったり、やらなければ良かったと残念に思うことである。二日酔いの朝などが良い例だ。

「改める」という行為は、これも私の理解では、これまでのあり方を変えるという事で、この場合は前で悔いた悪い点や行いをやめ、新しく正しい、良いものに変えるということである。

ということはイエスは何か我々が行っていることについて、それが良くないものであると気づき、正しい行いをするようにしなさいと言っていることになる。それには前提となるものが必要であろう。それは何か。

我々の行いが悪いものであると気づくことである。

何が正しくて、何が間違いであるかというものは、究極的には個人個人の価値観にゆだねられているものである。それはもう少し軽めの話題だと、「好き嫌い」と同じものである。Aさんはピーマンが大嫌いで、ニンジンが大好き、対してBさんはニンジンが大嫌いでピーマンが大好物といった場合、Bさんが「これおいしいからぜひ食べて」とAさんに青椒肉絲でも振舞おうものなら、Aさんは「絶対に嫌だ!」と食べないだろうし、それを見たBさんも、「なんだこいつ、人の好意を無にしやがって!」となるのは誰の目にも明らかだろう。

何が正しい、何が間違いというものについても同じで、個人個人の価値観に従ってそれらが決定されている以上、前述のような事態も間違いなく起こるということである。殺人は悪いことという価値観は、ほぼ大多数の人間が共有する価値観であろうが(そう信じたい)、同じ程度にたとえば盗むこと、嘘をつくこと、不倫をすることなどについても人間の大多数がそれを悪いことであると認識しているのだろうか。ましてや、聖書に書かれている、「あなたの父と母を敬え」や「軽々しく心をいらだててはならない」等については一体どうなっているのか。(う〜ん・・・これは間違いなく私の反省事項だ)ふらふら

このように、人によって価値観の物差しが変わる以上、お互いに理解をすることが困難であるばかりか、イエスの言っている「悔い改めよ」ということを理解するのですら困難であることがわかると思う。イエスの持つ価値観を知らずに、悔い改めることは大変難しいだろう。なぜなら、「何を悔いて、何を改める」べきかが理解できないのだから。

次回はそのイエスの持つ価値観について考察してみようと思う。

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