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2018年05月05日

「信じれば救われる」の言葉に足を掬(すく)われないために

だいぶ前に、「天国に入るためには何が必要なのだろうか。」という記事を書いたが、「救われるためにはどうすればよいのか、どの律法を守っていれば救われるのか。」という点について、「救われる」事の重みを十分に認識できるように「救われるために支払うべき対価」について考察してみようと思う。

すでにタイトルからして躓いている人や、「救われるために支払うべき対価」があることに、「そんなわけあるか!救いは無償だ!パウロだってローマ人への手紙3:24で、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」と言っているではないか!」と思われた方々もおられるとは思いますが、先ずは落ち着いて先を読み進めてください。

先ず、同じパウロが同じローマ人への手紙2:6〜13で言っていることを見てみましょう。
「神は、一人ひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠の命を与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行う全ての者の上に下り栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行う全ての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。律法なしに罪を犯したものは全て、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯したものは全て、律法によって裁かれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく律法を行う者が正しいと認められるからです。」

先ほど、「パウロだってローマ人への手紙3:24で、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」と言っているではないか!」との反論の論拠として用いた言葉を話した同じパウロが、ここでは「行いに従って」と言っているのです。つまり、「行う」という事が救いの対価として求められていることを意味しているわけです。

パウロの言っている、「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの上に、値なしに義と認められるのです。」という言葉は、その前に出てくる「律法を行うことによっては、誰一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ人への手紙3:20)に対する回答なのです。要するに、律法という正しい事を行ったから、その事を理由として救われる(天国へ行ける)、つまり義とはならない!という事なのです。

何か自己矛盾していませんか?と言われる方もおられるとは思いますが、決して自己矛盾はしておりません。この「行う」という事が何を意味するのかという事をきちんと理解できていないから、矛盾しているように見えるのです。

では、その「行い」についてもう少しよく吟味してみましょう。
2,000年以上も前、イェシュア(イエス)がまだ血と肉でできた器の中に居られ、その器を用いて私たちに奇蹟(しるし)という「行い」を通じて教えておられた頃、(要するに「人」として目で見、手で触れるような形で存在し、この世界で奇蹟を伴い教えておられていた頃)イェシュアの奇蹟的な行いを見て彼が神の元から来たと確信した一人の議員が、その社会的立場もあって人目を憚り夜にイェシュアを訪ね、教えを受けたときの記録がヨハネの福音書に記されています。
ヨハネの福音書3章1〜14節
 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イェシュア(イエス)のもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。
 イェシュア(イエス)は答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イェシュア(イエス)は答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。によって生まれた者はです御霊によって生まれた者はです。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
 イェシュア(イエス)は答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

この箇所は、実はユダヤの律法や、言い回しなどを熟知していなければ読み取れない箇所も多く、ユダヤの教えになじみの薄い方々にとっては少々上滑りしがちな箇所なのですが、ここでは非常に重要な事がイェシュアによって述べられているのです。まあ、イェシュアはこの時、パウロと同じパリサイ人という、ユダヤの律法に詳しい議員に対して話をしているのですから、解りにくいというのは当然と言えば当然なのですが。たとえて言うなら、天才外科医ブラックジャックが、通常はありえないと言われている脳移植の方法について脳外科の専門医と議論をたたかわせている内容を、医者でもない私達が傍から聞いて理解をしようとしている、といった所でしょうか・・・

ここで言われている事を深く理解するには、少なくとも以下の数点を知っておく必要があります。
・ヘブル語では、水の事をMayimマイムと言います。そう、フォークダンスで歌ったでしょう、「マイム・マイム」って。その「マイム」です。また、その水「マイム」には、仮のもの、一時的なものという意味もあります。また、当然ですが、目で見えます。
・ヘブル語では、霊の事をRuwachルーアッハ(ルアフ)と言います。この霊という言葉は、形容詞ラー(Rah)を伴って悪霊を表したり、トヴ(Towb)を伴って良い霊を表したり、コデシュ(Qodesh)を伴って聖霊を表したりします。また、その霊「ルアフ」には、風という意味もあります。また、これも当然ですが、目では見えません。(風に吹かれる物体は見えても、風そのものは見えませんよね。)
・ヘブル語では肉、肉体の事をBasarバサールと言いますが、これには同じ形の語源Basarバサールがあり、これにはもたらすもの、運んでくるもの、知らせるもの、の意味があります。
ニコデモ議員やパウロが属していたパリサイ派は、ユダヤ人の中でも「律法を守る」事を非常に熱心に行うことで知られている一派で、彼らの考えは「律法を守り、良い行いをすることで救われ、神と共に歩み、天の国に入れる。」と信じていることで知られていました。これは、他のどの宗教でも似たようなもので、人が何らかの「戒律」(善行をする、苦行をする、自己犠牲を払う、念仏を唱える、断食をする、酒を断つ、等々・・・)を守り行えば「救われる」と考えているのと全く同じことでもあります。

さて、それらを踏まえてもう一度先述のニコデモ議員に対するイェシュアの教えを見ると、以下の事が分かります。
まず、ニコデモ議員は、「イェシュアが神の元から来た」という事を信じています。その論拠として、全知全能の神の元から来たのでなければ、イェシュアの「行った」奇蹟(しるし)は為し得ないからだとも述べています。

するとイェシュアは、ニコデモ議員に、「あなたは、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えたわけです。私みたいな粗野な人間にもわかりやすく言い換えるなら、「もういっぺん生まれ直してこい!でなけりゃ救われないよ。」と言われたわけです。

これにはさすがに、行いをもって救われると信じているパリサイ人のニコデモ議員も「えぇ〜!!」となるわけで、イェシュアの言っている意味がわからないために、「ちょっとちょっと、もういい年をした大人である私が(パリサイ人の、しかも議員なので、ここでは「これまでにこれだけ律法を一生懸命守り行い、ようやく議員という人の上に立つ指導者となった私が」とも暗に言っています)もう一度生まれ直せというのはどういう事ですか??」と、驚き(と憤慨)をもってイェシュアに問い質したわけです。

するとイェシュアは、「あなたは、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と、もう少しヒントを与えつつ説明します。続けて、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と述べ、水(または肉)として生まれた後新たに御霊(聖霊:ルーアッハ ハ コデシュ)によって、霊として生まれなければならないと説明しているわけです。このことは詩編104:30にも、「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。」と書かれているとおりです。

ところが、この目で見えるところの現実世界の中で、本当はその裏で起こっている霊的な事柄影でしかない現象である政治や経済や様々な政というものに目を奪われているニコデモ議員にとっては、この説明によってさらに「???」となるわけで、だから、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」と答えてしまったわけです。

この様に、本来であれば神の民の指導者として見えていなければならない霊的な事柄見えていない者「神の民の指導者」という形で議員をしているからこそ、イェシュアはニコデモ議員に対し、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と嘆息したわけです。

イェシュアは続けて、「わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」と言いますが、それは言い換えれば、「誰も霊的な国である天に上ったものは居ないが、その霊的な国である天から下って来た者は人の子(人として来た神の子イェシュア=メシヤ)であるが、その霊的な国で起こっている事柄を私が伝えたとしても、ここでその表れである奇蹟などの知ることや見ることのできる事柄について証言しているを信じられないのであれば、どうして霊的な国の話を信じる事が出来るのか。」という事になります。そしてさらに、
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」という事で、「人の子(イェシュア)はモーセが掲げた蛇のように十字架にかけられて晒されることで、人の子(イェシュア)を信じる者が救われるようになる」と述べたわけです。

さて、この「人の子」については、実はエゼキエル書の33章にも書かれているのだが、それはまたあとで詳しく触れるとして、その中で全知全能の神ヤハウェがエゼキエルに対し「こう言え」と言った個所がある。エゼキエル書33章11節「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―私は決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなた方は死のうとするのか。」の箇所である。

実はこの後の箇所こそが、救われるための条件の書かれている個所の一つなのです。続けて引用します。
「人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない
  わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、彼は自分の行った不正によって死ななければならない。 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行い、その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行った彼は必ず生きる。
 あなたの民の者たちは、『主の態度は公正でない』と言っている。しかし、彼らの態度こそ公正でない。正しい人でも、自分の正しい行いから遠ざかり、不正をするなら、彼はそのために死ぬ悪者でも、自分の悪から遠ざかり、公義と正義とを行うならそのために彼は生きる。
 それでもあなたがたは、『主の態度は公正でない』と言う。イスラエルの家よ。わたしはあなたがたをそれぞれの態度にしたがってさばく。」
としているのだ。要するに、「信じて義とされた」と言われても、そこにその「信じた」事の証となる「行い」が無ければその「信じた」事は無意味なこと(ヤコブ2章14〜26節)であり、その「行い」という事はとどのつまり、「従って歩む」ことであり、肉の中に有りながらも聖霊に「従う」という事が「行い」という結果として現れる物であるという事が分かる。ところが、この「肉」は厄介なことに、この聖霊に従おうという気はさらさらない。しかもことあるごとに聖霊の示す道に「いやだ!」と反逆する(ローマ人への手紙8章6〜8節)。だから、イェシュアはこう言うのです。

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます自分のいのちを愛する者はそれを失いこの世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネの福音書12章24〜26節)

さらに、たとえ話でも、同じく種を使ってこう言います。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた、土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のあるものは聞きなさい。」(マタイの福音書13章3〜9節)これはさらにイェシュアにより次のように解説されています。
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者(注:悪霊)が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根(注:覚悟)がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐ(注:誘惑)ため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイの福音書13章19〜23節)

つまり「水によって生まれた一人の生身の人間(一時的な物である一粒の麦・種)が、この世の中において(地に落ちて)死ぬことを受け入れ(麦粒、種、要するに「個人の人間」として自らの欲望のままに歩むことを止め、新しく生まれ変わり、)根をしっかりと張り(困難や迫害にめげずにイェシュアの教えに聞き従い)いばらを切り開く(この世の心づかいと富の惑わしに屈せずにあくまでもイェシュアに従い通す)事で、成長すれば豊かな実を結ぶ。(この世界において、全知全能の神ヤハウェの愛と正義に基づく神の国を造る)」と言っているのである。そして、その初めの一粒が他でもない、イェシュアその人なのである。

だからイェシュアはこうも言うのです。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネの福音書13章34〜35節)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネの福音書14章6〜7節)
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」(ヨハネの福音書14章15〜18節)
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネの福音書14章21節)
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなた方が聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。このことをわたしは、あなたがたとっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネの福音書14章23〜27節)
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができませんわたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいますあなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うならあなたがたはわたしの友です。」(ヨハネの福音書15章4〜14節)

実は、聖書には同じことが口酸っぱく何度も何度も書かれているわけです。イェシュアはハッキリとこう述べています。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14章26〜33節)
ここから読み取れることはまさしく次の事です。救われるために支払うべき対価とは、私たちの人生そのものであり、私たちの富も、権力も、地位も、望みも、希望も、誇りも、命そのものまでも、全てを賭して「従う」事が要求されているのです。従って、それを知らせずに、軽々しく「あなたの罪は許された〜」(あなたは救われた)などとは、私は決して口が裂けても言う事は出来ません(エレミヤ書6章13〜15)。だから、本当に正しい事をしたくても、肉の惑わしに振り回されて正しい行いが出来ない自分の罪深き存在に心から嘆き(ローマ人の手紙7章18〜24節)、決死の覚悟でイェシュアに聞き従いたいと望んで探し求め(エレミヤ書29章11〜14節)、死に至るまでそれを貫き通す(エレミヤ書30章21〜22節、マルコの福音書8章34〜35節、ローマ人の手紙6章2〜13節、同8章13節)覚悟がある者に対してだけ私は伝える事が出来るのです。「悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。そうすればあるいは、あなたの罪が赦されるかもしれません。」(使徒の働き8章22節)と。そして、心の中の不義の絆を断ち切り、本当に悔い改めることのできたそのような者には全知全能の神からの確証がついた、「私はあなたの友である」ということばが与えられるのです。

そういうわけで、「苦しみから救われたい」という気持ちからイェシュアに依り頼もうとする人については、私はその動機について再考することを本当に強くお勧めします。なぜなら、この信仰による救いは「自らの苦しみから救われるため」のものではないからです。なぜなら、信仰について先ほど述べたように「全てを賭ける覚悟が要求されている」だけでなく、「あなた方は、メシヤ(キリスト)のために、メシヤ(キリスト)を信じる信仰だけでなく、メシヤ(キリスト)のための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ人への手紙1章29節)と言うように、この世で肉において生きている間は更なる苦しみや試練があることが約束されているからです。また、メシアであるイェシュアもこう言っています。「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイの福音書12章43〜45節、ルカの福音書11章23〜26節、ヨハネの福音書5章6〜15節、2ペテロ2章20〜22節)だから、中途半端に信じたり、信じた後にイェシュアと共に歩む事を止めたりすると良いことは決してありません。逆に今の状態よりもさらに悪くなります。ですので、しっかりと自らの動機を吟味し、覚悟を決めて信仰の道に踏み出すことを強くお勧めします。そして、その覚悟をもって一歩を踏み出そうとする方々には、心の底から祝福を述べ伝えるとともに、心強い確証に満ちた次の聖書の箇所を贈ります。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認められた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」(ローマ人への手紙8章18〜39節)
究極の「勝ち馬に乗る」というのがまさに「悔い改めて、救われる」ということなのです。その圧倒的な勝利が確信できるからこそ、何があっても恐れるに足りないのです。だから勇気をもって、聖霊に導かれつつ堂々と、公義を行おうではありませんか!

2017年12月06日

「主の御名をみだりに唱えてはならない」とはどういう事なのだろうか。

  久しく投稿をすることなく、前回の投稿からすでに1年以上経過してしまいました。まあ、その間色々とあった訳ですが、その中でもとある団体用に聖書に基づくシリーズものを連載することになったので、その中で納まりきらない重要な聖書の解釈についてここで述べてみたいと思います。
  今回は、出エジプト記20章にあるモーセの「十戒」三条の、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めについて考察してみたいと思います。そもそもなぜこの話になったのかといいますと、ここで言われている「みだりに」が、「みだりに」≒「軽々しく」とそれこそ軽々しく解釈され、その結果映画などでイェシュア・ハ・マシヤ(Jesus Christ)が悪態として使われている現象につながっている背景について考察するきっかけがあったからです。
  この様な誤解釈から、実は様々な歴史的な動きが生まれ、その過程で「“Jesus Christ”なんてむやみに口にしてはいけません!」というタブーが誕生したという経緯がありますが、そもそもなぜこのような現象が起こったのかというと、実はこれは翻訳と解釈の狭間で起こった誤解に起因している事であり、今回はこの件について詳しく掘り下げて分析していこうと思います。
  そもそも、「十戒」第三条、「主の御名をみだりに唱えてはならない」の中の「みだりに」という訳は、聖書が日本語に翻訳される以前から、「in vain」と訳されてきています。それを見て行きますと、イングランド王ジェームズT世が英訳させた欽定訳(1611年)では、「Thou shalt not take the name of the LORD thy God in vain」、それよりも前に英訳を試みたティンデール訳(1520年頃)では、「Thou shalt not take the name of the Lorde thy God in vayne」、もっと前のウィクリフ訳(1390年頃)では、「Thou shalt not take in vain the name of thy Lord God」とあり、この時点ですでに「in vain」と訳されており、それが和訳の際に「みだりに」となっていった事が分かります。
  ところが、この箇所を原典のヘブル語の聖書の語句を見てみると、この「in vain (みだりに)」に相当する語句が「シャヴ」(Shav’)となっています。ヘブル語は一つの言葉に意味が複数存在する言語なので、その意味をいくつか挙げて、大まかな意味の塊として捉えなおすと、むなしい、空虚、無駄に、価値のない、の意味であるemptiness、emptiness of speech、vain、vanity、nothingness、worthless、worthlessness (of conduct)という言意と、不真実、うそ、虚偽、まやかし、欺瞞と捉えるfalse、falsehood、lies、lying、deceit、deceitful、deception、false visionsという二種に大別できます。つまり、この箇所でこの「シャヴ」をどう受け止めることが最もヘブル語の原典に近い解釈になるのか、という事を吟味しなければなりません。
  この「シャヴ」という単語は聖書の他の箇所でも使われていて、それらを参照しつつ、なおかつ現在問題にしている「十戒」における使い方を再度吟味してみると、面白い事が分かってきます。まず、全体のニュアンスとして「むなしい・空虚」という意味の「in vain」を解釈として当てるのが相応しそうな個所として、次の箇所があります。詩編127編1~2節に、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守るものの見張りはむなしい。」とあります。ここの「むなしい」にも先ほどの「シャヴ」が使われていますが、(働き・見張り)が「むなしい」と表現する場合、「無駄である」という言意が「まやかしである」と捉えるよりもずっとしっくりくるのは明らかなので、この箇所は先程の「in vain(むなしい)」が妥当な訳であるという事が分かります。
  では、次の箇所はどうでしょうか。エゼキエル書13章6〜9節には、「彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。あなた方はむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。私が語りもしないのに、『主の御告げ』と言っている。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、私はあなた方に立ち向かう。―神である主の御告げ―私は、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らは私の民の交わりに加えられず、イスラエルの家の席にも入れられない。イスラエルの地にも入る事が出来ない。この時、あなたがたは私が神、主であることを知ろう。」この日本語版聖書では下線部の「むなしい」が、「シャヴ」に相当する箇所なのですが、これは欽定訳聖書などでも「in vain(むなしい)」と訳されています。しかし、この「シャヴ」の箇所を前後の文脈から判断すると、「むなしい・空虚」と捉えたほうが良いのか、それとも「まやかしである」と捉えたほうが良いのかを吟味した時、「in vain(むなしい)」としてよかったのかどうかについて大きな疑問が生じます。
  聖書のレトリックでは、同じようなことを繰り返し述べるという手法が多くつかわれています。この箇所でも、「むなしい幻を見、まやかしの占い」という表現が何度も出てきていることからもわかると思います。そこで、そのようなレトリックがこの「むなしい幻を見、まやかしの占い」にもあてはまると解すると、ここでいう「幻」も「占い」も同じような事として捉えられるという事になります。ただ、その際にはこれらを「むなしい」ととるべきなのか、それとも「まやかし」ととるべきなのかで分かれるところですが、この場合は「まやかし」と捉えるのが妥当であると思います。なぜかといいますと、この「占い」にかかっている方の「まやかし」は原典のヘブル語では「カザヴ(Kazab)」と記され、その意味は嘘、不真実、まやかし、欺き(a lie, untruth, falsehood, deceptive thing)といった意味であり、そこから「むなしい」という言意はくみ取れないことから、「幻」の方にかかっている「シャヴ」は「カザヴ」と同義に捉えられるように解釈する、つまり「in vain(むなしい)」ではなく、「まやかしである」と捉えるべきであることが示唆されています。まあ、最もそこまで話をややこしくせずとも、「あなた方はむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。私が語りもしないのに、『主の御告げ』と言っている。」の箇所で「私が語りもしないのに」「言っている」という事からも、「まやかし」と捉えるのが適切であることは明らかなのですが。
  さらに、もっと大きな視点で、先述の「十戒」の第三条の続きまで見て文脈で判断するとそれがもっと良く分かります。出エジプト記20章7節の「十戒」をきちんと見てみると、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」とあります。つまりヤハウェの神は、その御名を「みだりに」唱えると「必ず罰する」とここで宣言している事が明らかにわかります。これを踏まえて先ほどのエゼキエル書13章8〜9節を見直すと、そこにも同様に、「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、私はあなた方に立ち向かう。―神である主の御告げ―私は、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らは私の民の交わりに加えられず、イスラエルの家の席にも入れられない。イスラエルの地にも入る事が出来ない。この時、あなたがたは私が神、主であることを知ろう。」と、このような「むなしい幻を見、まやかしの占い」をしている者たちに「立ち向かい」、「手を下し」、「(主の民に加えられる、イスラエルの家の席や地に入るといった)祝福を与えない」ことで「必ず罰する」としています。したがって、「十戒」の箇所はエゼキエル書の箇所と密接にかかわっていることから、そこの解釈は同じようになされるのが筋であり、「十戒」の「むなしい」は実は「まやかしの」と訳するのが妥当であるという事になるわけです。
  では、「主の御名を唱える」と罰せられるのか、というと、これも違います。この件については、また新たな話にもなるので、次回以降に掘り下げて考察してみようと思いますが、ここでの「唱える」も「むなしい」同様、少々翻訳・解釈の際に注意を要する必要のある個所なのです。これらを総合してみてみると、いったい、「主の御名を、みだりに唱えてはならない」という、破れば必罰を被る行為とはどのような行為を行う事を指して十戒により戒められているのだろうかという事にたどり着きます。その理解を進めるためには、訳文をより原典の意に沿った形に書き改めることから見えてくるのではないかと思います。「主の御名を、欺瞞の為に取り掲げてはならない」ここでは説明を省きますが、「唱える」という事もこれまでして来た様に分析すると、ここも原典のヘブル語では別の言意を持っているので、それを文脈を含めて吟味した時にしっくりと来るものに置き換えてみました。それを踏まえてよく読むと、ちょうどエゼキエル書で出てきたように、ここでは「これは主がそう仰せなのだ」とうそをつき、まやかしを働くことが必罰の戒めだとされていることが読み取れます。神様が言ってもいない事を、あたかも神様がそう告げているといって人の信仰心を食い物にするような行為が、真の天の父ヤハウェが忌み嫌い、「必ず罰する」としている行為なのです。
  ちょっと古臭い喩えになるかもしれませんが、この行為は例えば、水戸黄門のご老公様の印籠を用いることのできる者が、勝手に印籠を掲げて黄門様の言っていない事について、「水戸のご老公様はこう仰せであられる」と言う事に等しい行為であるという理解でいいと思います。まあ、八兵衛が印籠を持ち出して、団子屋に行き、「水戸のご老公の命により、団子100皿を無償で差し出せ!」と言うのと同じという事になります。八兵衛がたらふく団子を食って、それこそ私腹を肥やした後、このことが黄門様にばれたら黄門様は慈悲深い笑みをたたえて、「良い良い、腹が空いておったのじゃな、かわいそうに」と言って許すはずがありません。そんなことをすれば、水戸のご老公の名前に「無銭飲食の幇助者」という泥を塗り、黄門様の権威をたいそう貶めることになるわけで、それを軽々しく許してしまうと、今後悪代官をとっちめる際に、どんなに助さん格さんが大見得を切って印籠を出したところで、悪代官から、「貴様らも権力を私物化して無銭飲食をしているくせに、正義面してんじゃねぇよ!」と言われるのが目に見えているからです。そういう訳で、「泣いて馬謖を斬る」のと同様に、このような行いをしたものは必ず断罪されることになるわけです。
  そういう訳で、智慧の王ソロモンが、伝道者の書の最後で、「神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」と喝破している訳であり、また、マタイの福音書21章後半で、「何の権威をもって事を行い、だれがあなたにそんな権威を授けたのか」とイェシュアを問い詰めた祭司や律法学者、パリサイ人らに対して、イェシュアがたとえ話を用いて叱りつけ、「だから、私はあなた方に言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」と言い放ったのです。これを見ていると、自らを権威者とみなす者は当然のことながら、神様の権威を笠に着て、「主の宣告はこうだ」などと言う者には決してならないように、普段からの言動には細心の注意を払わねばならないと心底思うわけです。

2016年07月04日

天国に入るためには何が必要なのだろうか。

前回の投稿から、月日がだいぶ経ってしまった。もう年も明け、2016年も折り返し地点を過ぎてしまった。

さて、その遠い昔の話だが、前回は「主に縋る」と言うのはどういうことかということを、黄な粉もちを題材に考察してみた。
今回は、イェシュアとある一人の若者との会話から、天国(ある者は極楽浄土と言うのだろうが)に入るためには、何が求められているのかということについて考察してみようと思う。

マタイによる福音書19章17〜26節にこう書いてある。

一人の人がイェシュアのもとに来て言った。「先生。永遠の命を得るためにはどんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
イェシュアは彼に言われた。「なぜ、善いことについて私に尋ねるのですか。善い方は一人だけです。もし、命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は、「どの戒めですか」と言った。
そこで、イェシュアは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイェシュアに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イェシュアは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上で、私についてきなさい。」
ところが、青年はこの言葉を聞くと、悲しんで去っていった。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イェシュアは弟子たちに言われた。「真に、あなた方に告げます。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。真に、あなた方にもう一度告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっと易しい。」
弟子たちは、これを聞くと、大変驚いて言った。「それでは、誰が救われることができるのでしょう。」
イェシュアは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

この部分は、聖書の中でも理解に苦しむ部分のひとつである。なぜか。それは、われわれ人間の持つ常識をはるかに凌駕した神の教えであるからに他ならない。
たとえて言うなら、ノーベル賞科学者が何十年もかけて研究してきた業績を幼稚園児に噛み砕いて教えようにも、「?」と言う反応しか返ってこないことになぞらえる事ができる。
いや、逆に、いかに殺人犯の量刑を軽くし、あわよくば無罪を勝ち取ることのできる老獪な敏腕弁護士が、幼稚園児の、「人殺しは悪いこと!」と言う言葉に対し、「いや、これこれしかじかの場合において、これこれの方法でやむをえない場合と認定されうるべき状況で、本人は本当に心の底からは望んでいないと思われる中、緊急避難的に行なわざるを得なかった最終的に相手の生命に危害を加えうる可能性のあるあくまでも防衛的な意図を含んだ行為については、人殺しと言うにはあまりにも短絡的過ぎるから云々・・・」と、「理解をしようとしない」というたとえのほうがもっとふさわしいのかもしれない。

この場面で何が起こっているのか、考察してみたい。
ここでイェシュアに質問した青年は、「主に縋る」と言う状況を求めてはいないことが推測される。その論拠は以下のとおりである。
まず、質問の中で、彼が問いたかったことは、言い換えれば、「何をすれば永遠の命が得られるのか」、つまり、「天国に入るために何をすればよいか」ということである。さらに簡潔にすれば、「天国の入場券」は何か、と聞いているのである。
「入場券」というものは、それを持っていれば、「確実に入ることができる」事が保障されている。たとえば、やくざの大親分であろうが、総理大臣であろうが、乞食であろうが、ディズニーランドの入場券を持っていれば、ディズニーの「天国」に入ることができる。というようなものである。

しかし、聖書の中で述べられている「天国に入る」ということは、このような、「入場券」を入手していればそれでよい。というものではない。もし、そのように思っているのであれば、これは非常に重大な誤解であり、大変危険な偽者の「福音」を信じていることになる。

この若者は、心の中では、「自らの今の状態を保ったまま、天の国に入り、永遠の命を満喫するには何をすればよいのか。」とイェシュアに問うているのであるからこそ、イェシュアが、その若者の持つ全ての財産を売り払って貧しい人に与え、その上で彼に従うように伝えたのであり、それを聞いたからこそ、若者は非常に悲しんで去っていったのである。

しかも、このやり取りを聞いていた弟子たちですら、この状況を理解できていなかったことが読み取れる。それは、弟子たちが、「それでは誰が救われることができるのでしょう。」と言って大変驚いたことからうかがい知れる。

ここでは、弟子たちも、「救われるためには、律法を守っていればよい」という考え、を持っていた。それは彼らが、イェシュアの述べ伝えている本物の福音を理解せず、自分たちの考える、律法による「まがい物の福音」からまだ離れられていなかったからである。

では、イェシュアが述べ伝えた福音とは、いったいなんであろうか。
この箇所に関連するイェシュアのほかの言葉を拾い集めてみる。

・「誰でも、私に付いて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私に付いて来なさい。命を救おうと思うものはそれを失い、私のために命を失うものは、それを見出すのです。」(マタイによる福音書16章24〜25節)
・「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。また、私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。自分の十字架を負って私に付いて来ない者は、私にふさわしい者ではありません。自分の命を自分の物とした者はそれを失い、私のために自分の命を失った者は、それを自分の物とします。」(マタイによる福音書10章37〜39節)
・「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天に居られる私の父の御心を行う者が入るのです。」(マタイによる福音書7章21節)
・「私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に立てられていたからです。また、私のこれらの言葉を聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイによる福音書7章24〜27節)
・「誰も、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイによる福音書6章24節)
・「真に、あなた方に告げます。もしあなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義に勝るものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。」
・「あなた方は誰でも、自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。」(ルカによる福音書14章33節)

これらのイェシュアの言葉を見ていくと、イェシュアの弟子になること、天の御国に入ること、神に仕えることは、まさに、「全てを賭ける」覚悟が要求されていることが見て取れる。先の若者のように、簡単に「善い行いを行うことで」天国行きの切符を手に入れようとするのが如何に不十分なのかがよくわかるのではなかろうか。
だから、弟子たちですら、「それでは誰が救われることができるのでしょう。」と言うのである。

では、神の生ける御言葉であるイェシュアはどのような者が天の御国で求められていると言っているのだろうか。

詩篇119編にはこう書かれている。

幸いなことよ。
全き道を行く人々、
主の御教えによって歩む人々。
幸いなことよ。
主の諭しを守り、
心を尽くして主を尋ね求める人々。
真に、彼らは不正を行わず、
主の道を歩む。(1〜3)

どのようにして若い人は自分の道を
清く保てるでしょうか。
あなたの言葉に従ってそれを守ることです。
私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
どうか私が、あなたの仰せから
迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、
私は、あなたの言葉を心に蓄えました。(9〜11)

私は、あなたの諭しの道を、
どんな宝よりも、楽しんでいます

私は、あなたの戒めに思いを潜め、
あなたの道に私の目を留めます。
私は、あなたの掟を喜びとし
あなたの言葉を忘れません
。(14〜16)

私の魂は、いつもあなたの裁きを慕い
砕かれています(20)

私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。
私は、この道を喜んでいますから
私の心をあなたの諭しに傾かせ、
不正な利得に傾かないようにしてください。
むなしいものを見ないように私の目をそらせ、
あなたの道に私を生かしてください。
あなたの言葉を、あなたの僕に果たし、
あなたを畏れるようにしてください。
私が恐れているそしりを取り去ってください。
あなたの裁きは優れて善いからです。
このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています
どうかあなたの義によって、私を生かしてください。(35〜40)

主は私の受ける分です。
私は、あなたの言葉を守ると申しました。
私は心を尽くして、あなたに請い求めます
どうか、御言葉のとおりに、
私を哀れんでください。
私は、自分の道を省みて、
あなたの諭しのほうへ私の足を向けました。
私は急いで、ためらわずに
あなたの仰せを守りました
。(57〜60)

苦しみに会う前には、私は過ちを犯しました。
しかし今は、あなたの言葉を守ります。
あなたは慈しみ深くあられ、
慈しみを施されます。
どうか、あなたの掟を私に教えてください。
高ぶる者共は、私を偽りで塗り固めましたが、
私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。
彼らの心は脂肪のように鈍感です。
しかし、私あ、あなたの御教えを喜んでいます。
苦しみにあったことは、私にとって幸せでした
私はそれであなたの掟を学びました
あなたの御口の教えは、私にとって、
幾千の金銀に勝るものです。(67〜72)

もしあなたの御教えが私の喜びでなかったら、
私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
私はあなたの戒めを決して忘れません。
それによって、あなたは、
私を生かしてくださったからです。
私はあなたのもの。どうか私をお救いください。
私は、あなたの戒めを、求めています。(92〜94)

私は、いつも命がけでいなければなりません
しかし私は、あなたのみ教えを忘れません。(109)

私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。(176)

これ以外の多くの聖書の箇所でも、同様なことが繰り返し述べられているが、神は自らの生ける御言葉であり、長子であるイェシュアやその他の多くの預言者の口を通じて、「心の底から主を愛し、命をかけて主の仰せに全力で従いたいと決意し、努めて御言葉を追い求め、それに従うことを喜びとする者」を求めているということがはっきりと述べられている。
これは単に、「地獄に行きたくないから」とか、「安らかになりたいから」律法を守るのとは全くわけが違う。このような者は、神がこれらの者を信仰の試練で試すとき、「神に従うことは私の得にはならない」と言って自ら神に従うことを諦める。
しかし、命をかけて、「神と共に歩みたい」と切に願う者は、自らの命が危険にさらされようとも、どのような侮辱や貧困に苦しめられようとも、それすらも「これを通じて主の掟を学ぶことができたので、私にとって幸せであった」と言い、「喜び勇んで」主の御言葉を守り行うのである。
そして、イェシュアのもたらした福音は、たとえそのような試みに遭って、耐えきれずに躓こうとも、それでもなお諦めずに主に付き従おうとする者を神はその御子イェシュアの名に免じて、豊かに許し、哀れみ、人には不可能でも神の圧倒的な力により、死から救い出すことを約束してくださっていることに他ならない。

だから、箴言にこうあるのだ。
正しい者は七たび倒れても、また起き上がる。(箴言24章16節)

天国に入るためには、何をすればよいのか。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、自らの神である主を愛し、たとえ躓こうとも諦めずに、イェシュアの御名により再び立ち上がって、主に従い続けることを飽くまでも続け通すことである。

躓いてもいい。失敗してもいい。(しないことに越したことは無いが)
それらを通じて心が折れようとも、(本当は鼻っ柱が折られていることが多いが)死にはしない。
なぜなら、主イェシュアの御名により、それでも主に従いたい、愛の道を進みたいと望む者には、神は豊かな許しと、慈しみと、癒しとを賜るからだ。

だから信仰を持つものは、いかなる状況においても決して揺るがされることが無いのだ
そして、恐れ畏みつつも、大胆に主の御前に喜びつつ近づくことができるのだ。
だから、この世が示す貧乏や、死や、病や、苦しみや、艱難や、餓えや渇きなどは恐れるに足りないものになるのだ。

天の神と主イェシュアの御名に栄光と尊厳と誉れが永久にあるように!


タグ:天国 救い

2015年09月14日

「主にすがる」事と黄な粉もちとの関係

久方ぶりのブログ投稿となる。ちょっと遅めの夏休みを主とともに過ごすという本当に祝福された時間を得ることができた。今日はその中で示された学びを忘れないように記しておこうと思う。

突然話がそれるが、黄な粉餅を作るときには、餅に黄な粉をしっかりとつけないとおいしい黄な粉餅にはならない。そういうこともあり、餅は黄な粉のたっぷり入った容器に入れ、その中でしっかりと餅を回し、餅に黄な粉を押し付け、最後に餅をしっかりはたいて余分な黄な粉を落として黄な粉餅は完成する。

餅を取り出す時に餅をしっかりはたくのは、餅にしっかりついていない黄な粉を振るい落とすためである。そうしないと、結局そういう黄な粉は運ぶ際に落ち、あちこちを汚すだけでなく、黄な粉がもったいないからである。

主と人との関係を考えるとき、このような黄な粉餅の作り方に、主に縋る(すがる)ことの意味が隠されていることに気が付く。ここでは、主は餅、黄な粉は人である。

人の中に主が来られると、ある者は主を避け、近寄らない。また、ある者は主に固くすがり、より頼む。また、ある者はそのように主に固くすがり、より頼んでいる人にすがるのもいれば、主抜きで人同士互いにすがりあい、頼りあう者もいる。

黄な粉ははかない存在で、風の吹くままどこにでも飛ばされる。それをある黄な粉は「自由」であると考えている。しかし、黄な粉の最終目標(つまり、餅を彩る調味粉として餅と共に食されること)を考えるとき、はたしてその「自由」はどのように役立つのか。風の吹くまま、気の向くまま、あちらこちらに吹き飛ばされ、とどのつまりは掃除機に吸い込まれて焼却炉行きか、ばい菌にたかられながらじわじわと滅びゆくか、まあ、そういったところが落ちである。

人がその本来の存在目的を見誤り、「自己実現」に邁進し、気まま勝手にその「自由」を満喫するならば、とどのつまりは似たようなものになる。このはかない、せいぜい長生きしても120年程度の生涯で、たとえ運よく素晴らしい人生を歩み、さまざまな事業を成し遂げ、人々からの賞賛を得られても、または大変な富と地位を築き上げても、死んでしまえばあとは何も残らない。そのような栄誉も、称賛も、富も地位も、すべてが無に帰するのではないか。

その様なむなしいものを追い求めることについては、また別の機会に詳述することとして、本題に戻そう。

主に「すがる」、または「依り頼む」と日本語で言うと、どうも「自分の力の限り縋り付く」といったニュアンスがあるのは否めない。そのことは辞書にも「頼みとしてしっかりとつかまる。しがみつく。」(大辞林)と説明されていることからもわかる。

その様に言われている箇所がここである。

あなた方の神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主に縋らなければならない(申命記13章4節)

ところが、この「縋る」という言葉には、聖書の原典であるヘブライ語が一つの言葉に複数の意味を持つ性質から、(たとえば、「ルアフ」というヘブライ語が、「霊」という意味を持つと同時に「風」という意味を持つように)ここでの「縋る」という言葉にも、「縋る、しがみ付く」という語意以外にも、「(粘っこいものに)くっつく、引っ付く」という意味合いも持つ。それはつまり、ここでいう餅にきな粉が引っ付くというような感覚に似ている。

さて、ここで問題になるのが、もし、日本語でいう「しがみ付く」といった感覚だけで前述の申命記に出てくる「より頼む」、「縋る」という言葉を理解してしまうと、「もし私の力が尽き果てた時、私はどうなるのか」という問題に直面することになる。何かの映画のワンシーンではないが、がけっぷちで手を伸ばして、ロープににしがみついているといった場面を想像してみてほしい。もし救助される側が力尽きた時、その人がロープに固くしがみついている手はどうなるのか?というような状況である。まあ、力尽きればもう縋る力もなくなるわけで、ロープを握ることができなくなり転落することになるのは目に見えている。

さて、イェシュアの「救い」とは、このような「自力でしがみ付かなければならない」ようなものなのだろうか。

イェシュアはこう述べている。
私の羊は私の声を聞き分けます。また、私は彼らを知っています。そして彼らは私についてきます。
私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、誰も私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。私に彼らをお与えになった父は、全てに勝って偉大です。誰も私の父の御手から彼らを奪い去ることはできません。私と父とは一つです。(ヨハネによる福音書10章27〜30節)


人が本当に心から神を愛し、主に縋り、主に従い通したいと望むのであれば、救いの御子イェシュアも天の父なる神も、(イェシュアと父は一つなので)決してその様な人を諦めず、如何なる力も、事象も、物事も、彼らの手からその人を奪い去ることはできない。と断言しているのである。だからこそ、パウロはこう断言しているのだ。

私はこう確信しています。死も、命も、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イェシュア・ハ・メシア(キリスト・イエス)にある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章38〜39節)

餅にしっかりとくっついたきな粉をきれいに剥がすことが非常に困難な様に、どのような権力者が、如何なる脅しを使っても、または悪魔がどのような誘惑を駆使しても、神にしがみ付くキリスト者を神から引きはがすことは不可能なのである。

ところがである。
では、きな粉を押し付けた後、その餅がきなこの入った器の上ではたかれる時、落ちてくるきな粉は一体何なんだろうか。神は、信仰から離れる者がいないようにするのではなかったのか?などと屁理屈をこねる輩もいるかもしれない。

しかし、その現象もよく見てみるとどういう事であろうか。餅がはたかれる時に落ちてくるきな粉は、「餅についたきな粉」ではなく、「単に『餅についたきな粉』にくっついていただけのきな粉」なのである。言い換えれば、イェシュアに、また天の父にしっかりとくっついた者ではなく、「単に『そのように固く信仰を保っている人』と一緒にいる者」だという事である。そのような者が信仰から離れ、「私は前には教会に通ってたんだけど、やっぱりキリストの神は私を救えなかった」と触れ回る事で、イェシュアが与える本当の救いの力を「頼りないもの」と他の人に思わせるような事になるのである。しかし、実はこのような御仁は本当の意味で、自分の罪深さを悟り、そのような自分を悔いて、それが自力では決してどうにもならない事を自覚しているにもかかわらず、それでも諦めずに神と共に義のうちに歩みたいと心の底から望み、自らの命を賭してイェシュアの贖いに依り頼む事をしなかった方々なのである。パウロはテモテにあてた手紙でこう述べている。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは嘘つきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が作られた物です。神が作られたものはみな良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神の言葉と祈りとによって、清められるからです。(テモテへの第1の手紙4章1〜5節)

このように、「信仰から離れる者」が出てくるのは、「嘘つきどもの偽善によるもの」であるとパウロははっきり述べている。これは、コロサイにいる信者にあてた手紙でもさらに細かに説明されている。

あなた方は罪によって、また肉の割礼が無くて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなた方を、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を許し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責めたてている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘付けにされました。
神は、キリストにおいて、全ての支配と権威の武装を解除してさらし者とし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、誰にもあなた方を批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
あなた方は、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、褒美をだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに固く結びつくことをしません。このかしらが基になり、体全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
もしあなた方が、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「縋るな。味わうな。触るな。」というような定めに縛られるのですか
そのような物は全て、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです
そのような物は、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいまま(恣)な欲望に対しては、何の効き目もないのです。(コロサイ人への手紙2章13〜23節)

「きな粉がはたかれる」というのは、餅にきちんとくっついていないきな粉を振るい落とすイベントである。それはつまり、イェシュアを「主」であると口で言っている「信者」に対する信仰の試練であり、全てかしらであるイェシュアに固く結びつくことをせず、人の定めた儀式であったり、礼拝であったり、賛美であったり、断食や瞑想といった苦行であったり、といった、一見敬虔なように見える様な事に気を取られ、本当に求めるべきものを求めずにその形だけを追い求めることに明け暮れている偽善者を振るい落とすイベントなのである。

本当にイェシュアを愛しているのであれば、イェシュアが命じるように「人を赦す」、「敵を愛する」、「迫害する者のために祈る」、「貧しい者を支援する」事を「喜び勇んで」行うはずである。しかし、それはもはや人間業ではない。人が、その命令を「自らの力」で行っているだけでは、その様に余裕があってその人の力だけでできる間は良いが、そのような力が失せた時に、本当に心から喜んでそれを行い続けることができるのであろうか。はっきり言おう。無理だ。しかし、信仰を固く保ち、主に全力でより頼み、自分の考えに頼らずただひたすら主の言いつけを愚直に守る者には、主が決して「人の力」ではできないような「良い業」を行うことができるように備えてくださるのだ。

なぜそう言えるのか。それはこう書かれているからだ。
あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにイェシュア・ハ・マシア(キリスト・イエス)にあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2章10節)

だから、聖書に書かれている「ああしなさい、こうしなさい」や「あれをするな、これをするな」といった戒めは、我々自身の力で行えるような代物では決してないのである。却って、それを自分の力で行おうとすると、必ず壁にぶち当たるようにできている。なぜか。それは、神を差し置いて、「誰も誇ることがないため」なのだ。

その代わり、主は、そのような善なる神の行いを心から喜び、へりくだってそれに従いたいと思う人には、そのような良い行いができるようにしてくださるのだ。

「主に縋る」というのは、決して自らの力だけで主にしがみ付くことではない。それは、無力ではあるが義を喜び、善を行いたいと心から願う我々の手を主が掴み、導いて下さる事に喜びつつ「全力で従う」という事なのである。力強い神は、そのような者の手をしっかりと握ってくださり、もしも自分の力が尽き果てても、決してその手を放すことはないのである。神は善を行いたいと心から願うあなたを決して見捨てず、かえってそれができるように力を与えてくれるのだ。だから、安心して縋ることができるのである。

2015年07月24日

「神の国が近い」ことはどのようにしてわかるのか。

前回、「世の終わりが近づいている」と巷が騒がしいことについて述べた。その「世の終わり」とは、これまで我々が見聞きしてきた、「人の国」の終わりであり、それはイェシュアの言う、「神の国」が近づいたという事と同義である。では、その「神の国」が近づいたというのはどのようにしたらわかるのか。我々は何をすればよいのか。それらについて考察してみたいと思う。

前々回に、「国が内部で分裂したら、その国は立ち行かない」というイェシュアの言葉を引用した。これは、国であれ、家族であれ、民族であれ、会社であれ、同じである。つまり、お互いに噛み付き合うような集団は、その大小を問わず自滅するという事である。「人の国」の終わりというのは、そのように自らの手で滅んでいくのであり、そののち「神の国」が現れるという事である。では、それはどのようにしてわかるのだろうか。

人の国というのは現代の国家の在り方でもあるが、端的にいえば中世の思想家たちが一生懸命考案した民主主義による国の有り方であり、それが日本を含む現代の多くの国の形であろう。その思想家の一人、ホッブズはその著書「リヴァイアサン」で、人間をほっておくと、互いに自然権を行使し合って「万人の万人に対する闘争」という混沌とした状況になると考察し、そのような混乱した状態を回避し、皆が平和で共存できるようにするために「社会契約」を採るべきだと述べた。
この「社会契約」については、ジョン・ロックの「統治二論」やジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」でも違った角度から議論されてはいるが、これらはどちらにせよ以下の状態である事を表現している。

人間はほっておくと自分がやりたいと思う事を勝手に行い、それが互いに悪い影響を与え、巡り巡って自分が損をする。その様に自分が損をしないように、話し合いを通じて「社会契約」を結び(つまり世の中の一般的な決まり事を作り)、それが体現化された法律の下、法治国家として法の下でお互いが噛み付き合わないようにする。という事である。

これが、現代社会に多い民主主義国家の基本的な考え方であり、現在も多くの国がその概念に基づいて国家を形成している。

しかし、である。

このような「社会契約」を結ぼうと思うこと自体、自己保存をするためにではあるが一応相手の意見も取り入れようというヒューマニズムのような姿勢がその根底にはある。それは、本当に「相手を思いやる気持ち」である良心には程遠いにせよ、曲がりなりにも愛の表れではないだろうか。しかし、そのように相手の立場に思いをはせるかようなヒューマニズム的気持ちすらなくなって、人の心が荒んでくると、「力をつければ自分に害を加える恐れのある者は蹴散らせる」となり、「力があれば恐れるものはない」と傲慢になっていくのである。

そうなってしまえば、中世の思想家たちが危惧していた「万人の万人に対する闘争」状態と最早何も変わらないのではないだろうか。

ヒューマニズムは人間中心主義であり、神の支配を否定した人間中心的なものの考え方である。神に対し、「あなたは私たちを支配するべきではない。我々人間自らが世の中を制御できる」という、神を否定し、人間を肯定するものの考え方である。しかし、先に述べたように、その末路は当の考案者らが危惧していた「万人の万人に対する闘争」にしかならないという事である。

イェシュアはこう述べている。
「人に惑わされないように気をつけなさい。
私の名を名乗るものが大勢現れ、『私こそキリストだ』(注:キリスト=メシヤ=救いを与える者)と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争の事や、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、慌てないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります
しかし、そのようなことは皆、生みの苦しみの初めなのです。
その時、人々は、あなた方を苦しい目に遭わせ、殺します。また、私の名のために、あなた方はすべての国の人々に憎まれます。
また、その時は、人々が大勢躓き、互いに裏切り、憎みあいます。
また、偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイによる福音書24章4-13節)

「その時には、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてないような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
もし、その日数が少なくされなかったら、一人として救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
その時、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とかいう者があっても、信じてはいけません。
偽キリスト、偽預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、私は、あなた方に前もって話しました。
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、稲妻が東から出て、西に閃くように、ちょうどそのように来るのです死体のあるところには、禿鷹が集まります。
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
その時、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイによる福音書24章4-13節)

最後の部分に関しては「何のSF映画だ?」というような情景が描かれているが、それが信じられなくても、その前に述べた、偽救世主が多く出てくるという事を前もって予言している方の言う事である。これまでも、また現在も様々な人間が「私の道こそ真理だ」などと教え述べて、救いを求めてさまよう人々から金品を巻き上げ、豪勢な生活を送っているのは事実であり、そのような輩が多く出て来るという事を2千年以上も前に確実に言い当てた人が言う言葉なのであれば、多少信用しても良いのではないだろうか。

イェシュアが言うには、人の子(救世主)はだれの目にも明らかに人の子(救世主)だと解るように現れる。と言っているのである。もっとも疑り深い私にも明らかに解るように来ると言っているのである。それが神の国の到来であり、その前には戦争や、戦争のうわさ、飢饉、地震、迫害、不法がはびこる、愛がなくなる、偽預言者や偽救世主が現れ、不思議なことや大きなしるしを行って見せ、人をだますという前兆が現れると言っている。

また、パウロは若いテモテにあてた手紙で、終わりの日の様子についてこう書いている。
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。
その時に人々は、自分を愛する者金を愛する者大言壮語する者不遜な者神を穢す者両親に従わない者感謝することを知らない者汚れた者になり、情け知らずの者和解しない者そしる者節制の無い者粗暴な者善を好まない者になり、裏切る者向こう見ずな者慢心する者神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定するような者になるからです。こういう人々を避けなさい。(テモテへの第2の手紙3章1-5節)

また、イェシュアの兄弟ユダも以下のような事をその手紙に記している。
彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人を褒めるのです。
愛する人々よ。私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)の使徒たちが、前もって語った言葉を思い起こしてください。
彼らはあなた方にこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。(ユダの手紙16-19節)

何という事だ!私の中にも思い当たる節が数多くあるではないか!さすがに黒羊だけのことはある。私は私の中に完全なものは何一つとして無いという事を目の当たりにし、それを直視し、自らを蔑み、日々悔いているのである。そのような者に対する救いがあるからこそ、私はそれに依り頼むのだ。

パウロもこのようなことをローマ人への手紙で言っている。
私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にあるものです。
私には、自分のしていることが判りません。私は自分がしたいと思う事をしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
もし自分のしたくない事をしているとすれば、律法は良い物であることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着いている罪なのです。私は、私の内、すなわち、私の肉の内に善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが無いからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくない事をしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私の体の中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、体の中にある罪の律法の虜にしているのを見出すのです。
私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主でありメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)のゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
こういうわけで、いまは、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、メシヤであるイェシュア(キリスト・イエス)にある、命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためなのです。
肉に従うものは肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従うものは御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、命と平安です。(ローマ人への手紙7章14節-8章6節)

先述のヒューマニズムとは違い、人には良心というものが存在するのはだれでも知っている。それこそが、神が私たちに与えた御霊であるのに、神を否定する人間がその名を「良心」としてしまったのだ。このことは、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」と聖書が言っている事によりはっきりしている。それは相手を思いやる気持ち、赦す気持ち、いつくしむ気持ちであり、それが愛なのであり、それこそが、「神が人間の内に住まわせた御霊」なのだ。しかし人の中には肉があり、(つまりそれを認めたくない、自分こそが自分の主だという心)があり、巷に行き交う悪霊も混ざって、様々なまやかしを行う。だから、ヨハネも彼の手紙でこう記している。

愛する者たち。霊だからと言って、皆信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。なぜなら、偽預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たメシヤであるイェシュア(イエス・キリスト)を告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イェシュアを告白しない例はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなた方はそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(ヨハネによる第1の手紙4章1-3節)

現在、人の世の終わりが近づいているというのは、人による支配が廃れ、もはや人が人を噛み合う「万人の万人に対する闘争」状態になりつつある事からもわかると思う。それをこれまで反キリストの霊であるヒューマニズムで"食い止めてみた"ふりをして、皆を騙し、はぐらかしてきたものの化けの皮がはがれて来つつあり、このような「人道」に基づく救いが明らかに無力であることが証明されつつある。肉によって無力化されたため、律法によっては救いのない人間を、神は心より憐れみ、救いの手を差し伸べているのである。だから私はこの救いの手を掴み、耐え忍ぶ戦いをしているのだ。いずれ愛である生ける神が必ず勝利するのであり、それまでは私のできることを淡々と為しつつ、贖いの時を静かに待っていようと思う。

2015年07月16日

最近、あちこちで「世の終わりが近づいている」と騒がしいようです。

最近のメディアやネット上での噂話は、世の終わりが近づいているとのうわさが流れている。
SEKAI NO OWARI (セカオワ)などと言うバンドがあらわれてみたり、「光」、「救世主来たれ」などと軽々しく宣伝で使われたりと、いろいろと騒がしくなっている。

そのようなことについて、実はイェシュアが神の真理を求めている人々に残している指示がある。

およそ2千年前も、イェシュアの時代には様々な「世の終わり」の噂が流れていた。
その様な時代にあって、イェシュアは以下の様に話している。

宮が素晴らしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイェシュアはこう言われた。
「あなた方の見ているこれらの物について言えば、石が崩されずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」
彼らは、イェシュアに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」
イェシュアは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々の後について行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、怖がってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりはすぐには来ません。
それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病や飢饉が起こり、恐ろしい事や天からの凄まじい前兆が現れます。しかし、これらの全ての事の前に、人々はあなた方を捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために、あなた方を王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたの証しをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないような言葉と知恵を、私があなた方に与えます。しかしあなた方は、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺されるものもあり、私の名のために、皆の者に憎まれます。しかし、あなた方の髪の毛一筋も失われることはありません。
あなた方は、忍耐によって自分の命を勝ち取ることができます。しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その時には、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる者たちは、都に入ってはいけません。これは、書かれている全ての事が成就する報復の日だからです。
その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住む全ての所を襲おうとしている事を予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
その時、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、体をまっすぐにし、頭を上にあげなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカによる福音書21章5〜28節)

世が混沌とする時には、人は救いを求めて様々な人や物にすがろうとする。「溺れる者は藁をも掴む」という諺どおりである。歴史を振り返ってみても、「敵国が攻めてくる気配がある」という恐怖に駆られると、人は「強い指導者」や、「偉大な宗教家」などといった人間や、「金」や「武力」といった物に縋るのである。石油ショックのころ、「トイレットペーパーがなくなる」といった噂を鵜呑みにして、トイレットペーパーが買い占められ店頭から姿を消したという史実がある。よくよく考えれば洗えば済むはずなのが、パニック状態になり思考停止に陥って、トイレットペーパーを買い占めたのである。そんな紙に頼るのではなく、生ける神とその独り子である救世主イェシュアにより頼む方が確実であるにもかかわらず、だ。
これは危機的な状態に陥ってパニック状態になった時、人は普段の行動を基に行動するか、最も早く安全な場所に行きたがる傾向があるという事の証明でもある。これは、以下の調査やその他の研究文献からも明らかである。
「住民の水害時避難選択に関する研究」
http://www.arch.kobe-u.ac.jp/~a7o/activity/theses-data/gra-mas/h19_m_kikuchi.pdf#search='%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%82%E9%80%9A%E3%82%8B+%E5%82%BE%E5%90%91+%E9%81%BF%E9%9B%A3%E6%99%82'
の4ページ目の避難経路の選択で、「避難場所までの最短距離」「いつも通る道だから」が最も多い回答であることに留意してほしい。

イェシュアは、この時にどうすべきか明らかに述べている。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その時には、その滅亡が近づいたことを悟り」、「その時、ユダヤにいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる者たちは、都に入らず」、「これらのことが起こり始めたなら、体をまっすぐにし、頭を上にあげなさい。」と言っているのである。そして、その様な光景に直面しても恐れず、かえって忍耐によって自分の命を勝ち取ることができる。と言っているのである。

ところが、普段からイェシュアの言う事に聞き随っているのでなければ、その様な現実に直面した時にはパニックに陥り、これまで通りのやり方である「最短」で「慣れ親しんだ」滅びへの道をためらわずに突き進むことになるのである。

イェシュアはこの後で、以下のように述べている。
「イチジクの木や、全ての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことが判ります。そのように、これらの事が起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。
真に、あなた方に告げます。全ての事が起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、私の言葉は決して滅びることがありません。
あなた方の心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日が罠のように、突然あなた方に臨むことのないように、よく気を付けていなさい。
その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
しかし、あなた方は、やがて起ころうとしているこれら全ての事から逃れ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

イェシュアに学んだ者は、このことを知っている。だから、いつも油を絶やさず、(油断せず)主に祈るのだ。その日が具体的に何月何日なのかは判らずとも、その日が近いことを知っているがゆえに、慌てることなく平安のうちにその日を迎えることができるのだ。主イェシュアにおける信仰があるからこそ、何があっても平常心でいられるのだ。信仰の力はここにある。

この後数回にわたり、時が近いのはなぜ判るのか、そして何をすればよいのかについて書き進めてみようと思う。

2015年07月05日

「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。」

なんと諍いの多い現代なのだろうか。日々今の状況を悲しく思いつつ、自分にできることをちまちま行っている今日この頃である。
仲間割れというのはあまり見ていて気分がよいものではない。自分の子供が兄弟げんかをしているのを見るにつけ、「どっちもどっちじゃ!」と突込みと拳骨を入れたくなる衝動を押えつつ、これがなぜ起こるのかということを諭す毎日である。

イェシュアが悪霊に取りつかれ苦しんでいる人からその人を苦しめている悪霊を追い出し、悪霊の呪縛から人々を自由にさせているとき、その教えがあまりにも世の人の常識からかけ離れていて奇怪に映った。周りの人は教えていることの意味が解らないために「あいつはキチガイだ」とイェシュアにレッテルを張ったが、その奇蹟自体は否定することができなかった。そのため、訳知り顔の律法学者は以下のように解説したと聖書に書かれている。

マルコの福音書3章22節
エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。


ベルゼブルというのは悪魔のかしらみたいなもので、言ってみればボスキャラである。本来は邪神バアルと同義であるが、これはまた別の話になる。要するに、自らは神の律法を守る善人であると自負している律法学者は、イェシュアのしている事を「取りついた悪霊を、その悪霊のボスキャラの命令で追い出してんだよ」と説明しているのである。

イェシュアはそのような彼らにこう答えている。

マルコの福音書3章23〜26節
そこでイェシュアは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」


なぜにそのような内輪もめが起こるのか。それはイェシュアの最初の弟子のひとりであるヤコブがその手紙で解説してくれている。少々長くなるが、きちんと説明されているのでその個所をしっかりと読んでみたい。

ヤコブ4章1〜12
  何が原因で、あなた方の間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方の体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。
  あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
  願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
  貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
  それとも、「神は、私たちの内に住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書の言葉が、無意味だと思うのですか。
  しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
  ですから、、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。
  神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗い清めなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。  あなた方は、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなた方の笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
  主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます。
  兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟を裁く者は、律法の悪口を言い、律法を裁いているのです。あなたが、もし律法を裁くなら、律法を守る者ではなくて、裁く者です。
  律法を定め、裁きを行う方は、ただ一人であり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人を裁くあなたは、いったい何者ですか。


ヤコブは、争いの原因は我々の体の中で戦う欲望が原因であるといっている。内輪もめをするということは、つまり「仲間の中で各々違う欲望がうごめいており、それぞれがそれぞれの欲望をコントロールすることができていない。」ということに他ならない。

仲間の中で違う意見がある?まあ、人それぞれで意見は異なるから、それは致し方ないのであろう。しかし若し本当に仲間なのであれば、それをお互い腹を割って話し合い、お互いが良いと思えるようになる形で様々な議論をし、譲り合うところは譲り合い、相手が絶対に飲めないと言うものはそれを受け入れ、飲めるようなものを互いに協力して探求するという姿勢があるべきではなかろうか。

これは個人対個人のレベルから、団体対団体、地域対地域、国対国に至るまで幅広い場面で行われるものであろう。

ところがである。それが常にできるのであれば、争いなど起こるはずもないのである。
ここでイェシュアや、その弟子であるヤコブが言っているレベルは、もう双方の意見が完全に異なり、お互いが絶対に譲れないものがぶつかるという場合の話をしているのである。その際に、イェシュアが教えた、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」(マタイの福音書7章12節)という教えに従い、「もし本当に自分にとってこれは飲めないというようなことは人から強いられたくないのだから、私が望むものは諦めよう。」とすることが神の律法に適っているという事がわかる。

これを自らの望みを是が非でも通そうとするために、あらゆる手立てを使って拒否している相手に無理強いをするのは、これは律法に適わない事である。(何度私もそういう事をして後で煮え湯を飲まされてきた事か・・・)
律法に適わない事をする者は、いずれ神からの裁きが下るという事でもある。

その様なことを知らない我々凡人は、そのような罪を犯し続けていることにさえ気が付かずにいる。しかし、神の憐みにより、その罪の裁きである我々の受けるべき死刑宣告を、かたくなに受け入れたくないと拒否している我々の代わりにその裁きをその身に受け、身代わりとなることによって、イェシュアは我々が、我々のその頑なな思いを捨て、主である神に対して自らへりくだって悔い改めることを選ぶことにより、神様との和解ができるようにしてくださったというわけである。これこそが、「よい知らせ」つまり福音なのである。

だから、神様は罪の罰を受けるのを頑なに拒否している我々に対し、それを無理強いすることを一度止め、神のほうが折れて自らの一人息子であるイェシュアを犠牲にし、神との和解を望む者のために道を開かれたのである。だから、イェシュアが罪なき神のたった一人の御子であり、彼が我々の代わりにその身に我々の罪の裁きである死の責めを負い、十字架に懸って死なれたという事を信じ、その赦しに与りたいと思うものはだれでも許される。のである。

その許された者が集う所こそ、天の御国であり、そこでは皆が兄弟姉妹という事になるわけなのだが、救われた者同士が互いにいがみ合ったり、争い合ったりしているのであれば、もはやその者どもは神の顔に泥を塗る輩と成り下がってしまっているのである。だからイェシュアは、「もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。」と言っているのである。(よくわからない場合は同タイトルの過去記事をご一読あれ)

これについては別の機会にもう少し掘り下げてみたいと思う。

さて、ここで神が絶対に譲れないものとは何であろうか。それは「義」である。それはイェシュアも、「神の国と神の義とをまず求めなさい」(マタイの福音書6章33節)と言っていることからもわかるだろう。人が絶対に譲れないものは何か。それがその人の「神」なのである。その人の崇める「神」が、天地を作り、全てを支配している真実の生ける神ヤハウェ以外の物であった場合には、聖書ではそれを「偶像」と呼んでいるのである。悪魔は神でもないのに神になろうと足掻いている被創造物(天使、つまり堕天使ルシファー)であるので、自分が神のように崇め奉られることを望んでいるのであるが、そのためには手段を択ばない残虐な者である。人を恐怖で縛りつけ、「私の言う事を聞かぬと命はないぞ」と脅してみたり、人の欲につけ入り、「私を拝み、崇め奉れば、あなたの望む者は何でもかなえてやろう」とそそのかしてみたりするのである。だから、人が最も望む物である、富、名声、権力といったものには魔物が潜んでいるのである。「好事魔多し」というのとほぼ同じことである。だからこそ、イェシュアは、「あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるという事はできません。」(マタイの福音書6章24節後段)と言っているのである。

だから、前出のヤコブは、「あなた方は、欲しがっても自分の物にならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなた方の物にならないのは、あなた方が願わないからです。
  願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と言っているのである。

イェシュアは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイの福音書7章7節)と言って、あなたの望む物は神に請い求め、神の時を待ちなさいと教えているのである。信じなさい。神はあなたを本当に心から愛し、守りたいと望んでいるのです。その愛を信じられない者たちが、自らの手で自らの欲しいものを自分勝手に求め、手に入れようと足掻いているからこそ、今の世には争いが絶えないのです。このままずっと家族が、地域が、国民がお互いの首を絞め合うようでは、近い将来、家庭や地域、果ては国全体が取り返しのつかないほどに破滅する事になるのではないか、と私は大いに憂いているのです。

2015年05月15日

災害や災難と神、人間との関係

災害が起こった時、われわれ人間はそれをどう受け止め、何をするべきなのかという問いで前回は終わった。
今回はそれについてヨブ記からひも解いてみようと思う。

古の先人らは災害や災難が起こった時には「天罰が下った」と解釈してきたと前にも述べだ。その際には神を畏れ、身を慎み、自らの不徳を恥じ、我々の穢れを祓うべく反省をして禊をしてきた、とも述べた。
また、神への畏れを失った現代人は災害や災難に直面しても身を戒めることを決して行わず、逆に「これが神の仕業なら、神様なんていない方がいい」などと神を罵るようになるとも述べた。

なぜそう思うのか。それは災難で被害を被った側も、それを傍から見ている側も「我々には落ち度がない」と思っているからに他ならない。雪道で「ちょと危ないけど急いでいるからスピード上げてさっさと帰ろう」と考えてスピードを出して運転していて、スリップして愛車を木にぶつけてしまったなどという事故のような災害や災難というものは、自分が犯した悪事(この例では危ないとわかっていながらスピードを出した)についての結果と理解することができれば、「自業自得だ」と納得することもできる。(「いや、滑ったのは車のトラクションコントロールがきちんと作動しなかったからだ!」などと人のせいにして納得や反省をしない人もいるだろうが)しかし、本当に自分は何も悪いことをしていない(少なくともそう思っている)のに、「不運」にも、「理不尽な」災害や災難に直面した時、我々は「なぜ私がこんな目に合わなければならないのか!」と怒る傾向にある。
また、その様な災害に遭い、怒ったり悲しんだりしている人たちの周りでは、そのような人たちに寄り添うことなく、「何か悪いことをした報いだ」とか、「これはかくかくしかじかの理由でこうなって云々」と実況中継したりするとか心無いことをする人間がいたり、またはそれを支援するつもりが支援している自分に自己満足することで、知らぬ間に「支援してやってんだぞ」というようになる者まで出てくるしまつである。

しかししばし待ってみたい。罪人である、完ぺきではない人間に対して、慈悲深い神がその独り子であるイェシュアを通じて悔い改めの道を示しているのに、人がその悔い改めを促す差しのべられた手をつかみ自らの罪から赦される事を選ばないのならば、いずれ神があらかじめ耐え忍ぶとしてきた期間が過ぎた時にはその罪の罰が自分に下るのを至極もっともな事だと理解できないのだろうか。それこそ、前述のごとく「自業自得」として納得すべきものではなかろうか。災難にあった人からは、「俺は罪を犯したことはない!」と反論されそうだが、ではその前に神自身が「彼のように潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にいない」とまで言わしめたヨブの事例を見てみよう。

「私はヨブよりも潔白だ」と言う者は、神を嘘つき呼ばわりする事になること(これは明らかに罪なのだが)を十分に心してヨブ記を読んでみてもらいたい。また、そのような被災者に対して前述の態度をとる者も、ヨブの周りでだれが何をしたのかをよく読んでみてもらいたい。

大富豪であったヨブは、行いや人格にも欠点がみられない素晴らしい人物であった。

ヨブ記1章6〜12節
ある日、神の子らが主の前にきて立った時、サタンも来てその中にいた。
主はサタンに仰せられた。「お前はどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。」
主はサタンに仰せられた。「お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいないのだが。」
サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を畏れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との周りに、垣をめぐらしたではありませんか。あなたが彼の手の業を祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かって呪うに違いありません。」
主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をお前の手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。


この後、サタンはヨブの財産や部下と7人の息子と3人の娘の命を強盗や略奪、災害などにより奪い去った。
そのあとにヨブのとった行動はこうである。

ヨブ記1章20〜22節
この時、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
そして言った。
「私は裸で母の胎から出てきた。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。


はたして非常に裕福な者がその財産や子をを失った後に、このヨブのように神を礼拝し、愚痴の一つも言わないことができるのだろうか。いや、裕福でない平凡な一般市民でも、その少ない財産を失った時に愚痴をこぼさないでいられることができようか。このことからでさえもいかにヨブが主を畏れ、正しいことを行う義人であったことが十分にうかがえる。しかしサタンはまだ諦めない。

ヨブ記2章1〜10節
ある日のこと、神の子らが主の前に来て立った時、サタンも一緒に来て、主の前に立った。
主はサタンに仰せられた。「お前はどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。」
主はサタンに仰せられた。「お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。お前は、私をそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮を持ってします。人は自分の命の代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
しかし、今あなたの手を伸べ、、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたを呪うに違いありません。」
主はサタンに仰せられた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ彼の命には触れるな。」
サタンは主の前から出ていき、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身を掻き、また灰の中に座った。
すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を呪って死になさい。」
しかし彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。


今度は彼の健康が損なわれ、全身腫物に覆われて見るからに悲惨なありさまとなった。その上、この世で人生を共に生き抜けるよう神から与えられた妻ですら、「いい加減もうあきらめたら?」と悪魔に屈服することを促すような状況にまで陥ってしまう。ここでの妻の状況は、妻が悪魔の手先となったと見るよりも、最後の最後まで見届けたくてもそれすらかわいそうで、もう死んだ方が楽になるのではと思われるぐらい悲惨な状況であったという事であろう。
たとえて言うなら、ずたぼろになりながらもリング上で死闘を繰り広げているボクサー(ジョー?いや、年代がばれるか。ロッキー?)に、セコンドが「立て!立つんだ!」と応援する事があまりにも酷で、もうリングにタオルを投げ入れようとしているのを、ぼこぼこに殴られながらも「待て!これはボクシングなんだ。相手にパンチを浴びせるのだから、相手のパンチをも受けなければならないではないか!」とボクサーがセコンドに叫んでいるという状況か。(いや・・・あまりにも下手な喩えで自分でも嫌気がする。)それを100万倍したぐらいの状況だと考えてほしい。

ここで目に留めたいのは、実は神ご自身がヨブは潔白で、誠実を保っているにもかかわらず、サタンが何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたと述べていることである。神はこのような災難が起こったのはヨブが何かをしたからではないと知っておられるのである。(ヨブはそれを知らないから苦しんでいるうえ、同じようにそのことを知らない彼の友人が、「もしかしたらあなた何か罪を犯したんじゃないのか、悔い改めろ。」と言ってヨブをこの後悩ませる。)

ここで突然だが、イェシュアの言った言葉を見てみたい。

ヨハネの福音書9章1〜3節
またイェシュアは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイェシュアに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか。」
イェシュアは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです。
私たちは、私を遣わした方の業を、昼の間に行わなければなりません。誰も働くことのできない夜が来ます。
私が世にいる間、私は世の光です。」


その後、この盲人はイェシュアの奇跡により目が見えるようになる。

しかし、ここで見てみたいのは、先天性の視覚障害といった「不運」な事象について、事の道理を分からない未熟者の弟子たちは、人の考えに基づき、「このような災難は誰かが犯した罪の結果なのではないか」と考えているのに対し、イェシュアは「そうではなく、神の業がこの人に現れるためだ」と言っているのである。
ヨブの3人の友人も、そのような弟子と変わらない考え方で、神が潔白であると認定しているヨブに対して「何か罪を犯したんじゃないのか」とその不幸の理由についてああだこうだと問答しているわけである。

そのような悲惨な目に合っている中、ヨブが友人に対し一つ求めている物がある。

ヨブ記6章14節
落胆している者には、その友から友情を。
さもないと、彼は全能者への畏れを捨てるだろう。


災難に遭った人たちに対して我々がどのような態度をとるべきかという答えは、このヨブの言葉に凝縮されている。共に悲しみ、共に祈る事が望まれているのであり、そのような災難が起こった原因を穿り返し、傷口をさらに広げるという事が求められているわけでは決して無いという事である。そのような愛の行いをすることこそ、イェシュアの言う「神の業がこの人に現れる」ということに他ならない。

一方、災難に遭ったヨブは神からの説明を切に望み、「なぜだ!なぜだ!」の答えを得ることになる。
その答えは、以下の通りだ。

ヨブ記38章1〜2節
主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を伸べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

ヨブ記40章1〜2節
主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。
非難する者が全能者と争おうとするのか。
神を責める者は、それを言い立ててみよ。

ヨブ記40章6〜14節
主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
私はあなたに尋ねる。私に示せ。
あなたは私の裁きを無効にするつもりか。
自分を義とするために、私を罪に定めるのか。
あなたには神のような腕があるのか。
神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。
さあ、誉れ、気高さで身を装い、
尊厳と威光を身につけよ。
あなたの激しい怒りを吐き散らし、
全て高ぶる者を見て、これを低くせよ。
全て高ぶる者を見て、これを押え、
悪者どもを、その場で踏みにじれ。
彼らを共に塵の中に隠し、
その顔を隠れたところに繋ぎ止めよ。
そうすれば、私はあなたをたたえて言おう。
あなたの右の手があなたを救えると。

ヨブ記41章10節後半〜12節
だから、だれが一体、
私の前に立つことができよう。
誰が私にささげたのか、
私が報いなければならないほどに。
天の下にあるものは皆、私のものだ。
私は彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない。


神はヨブに、「お前にはこれがわかるのか。お前にはこれができるのか。」と様々な神秘的な、奇跡的な神業の数々を見せ、ヨブに対しこれらがわかるのか。これらがお前にできるのかと問うことで、潔白ではあるがただの人間であるヨブが神ではないことを示し、人としての立場をわきまえさせたのである。ヨブはそのような恐ろしくも神々しい神業を見せつけられ、やっとこう答えるしかできなかった。

ヨブ記40章3〜5節
ヨブは主に答えて言った。
ああ、私はつまらない者です。
あなたに何と口答えできましょう。
私はただ手を口に当てるばかりです。
一度、私は語りましたが、もう口答えしません。
二度と、私は繰り返しません。

ヨブ記42章1〜6節
ヨブは主に答えて言った。
あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
知識もなくて、摂理を覆い隠した者は、誰でしょう。
誠に、私は、
自分で悟りえないことを告げました。
自分でも知りえない不思議を。
どうか聞いてください。私が申し上げます。
私はあなたにお尋ねします。
私にお示しください。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、
塵と灰の中で悔い改めます。


何たることであろう。神自身がも潔白な人だと認めているヨブが、自分をさげすみ、塵と灰の中で悔い改めます。と言っているのだ。私はヨブの足元にも到底及ばない黒羊の分際で、しかもヨブが体験したような凄まじい災難に遭ってもいないし、単に自分の思い通りにならない事があるだけで、すぐに神に対し「なぜだ!なぜだ!」と叫んで憚っていない・・・
私は本当に悔いて改めなければならない。

2015年05月13日

最近天変地異が多いのは…

久方ぶりのブログ更新になる。

前回は皆既月食がこの2年の間に4回も起こる珍しい現象について書いた。また、そこでは人が神に対する畏れを忘れたために、古の先人らが身を戒めるシグナルとなったそのような現象すら、「ショー」と呼ばれるぐらい軽いものになってしまったということも書いてきた。さらに、このようなかたくなな姿勢を人や国が続ける限り、そのような現象はさらに過酷な現象になっていくであろうということも書いてきた。実はこれらのことは聖書のあちこちに書かれていることでもある。

「地震・雷・火事・親父」とは、もうすでに久しく聞かなくなった言葉である。
要するに「恐ろしいもの」の代名詞の列挙であり、これらは「恐れるべきもの」と先人たちは考えていたことである。
しかし、もはやこれは死語であり、今でも恐ろしいと思うものは最初の3つぐらいだろう。なぜか。多くの家庭で親父が失権してしまっているからだろう。まあ、世の男性が神を恐れず、与えられた権威を自分勝手に振り回せば自ずとそのような権威を失っていくのは事の道理ではある。しかし、人ではない天におられる創造主は、決して彼の権威を失うことはない。だから世の父親が恐れの対象でなくなっても、天の父である創造主は依然として恐れるべきものであり続けるのである。それは、「地震・雷・火事・親父」の中で失墜した権威が人に属する「親父」のみであり、神の所業である「地震・雷・火事」についてはいまだに脅威である事からもうかがい知れるのではなかろうか。

イザヤ諸64章1〜4節にこうある。
ああ、あなたが天を裂いて降りてこられると、
山々は御前で揺れ動くでしょう。
火が柴に燃えつき、
火が水を湧き立たせるように、
あなたの御名はあなたの敵に知られ、
国々は御前で震えるでしょう。
私たちが予想もしなかった恐ろしい事を
あなたが行われるとき、
あなたが降りてこられると、
山々は御前で揺れ動くでしょう。
神を待ち望む者のために、
このようにしてくださる神は、
あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、
耳にしたこともなく、目で見たこともありません。


主が天から降りてこられるときは、凄まじい状況になると書いてある。
このような現象は人の目からすると災害が起こったと映るが、古の先人はこれを「天罰が下った」と言って畏れ、身を慎み、自らの不徳を恥じ、我々の穢れを祓うべく反省をして禊をしてきた。
しかし、神への畏れを失った現代人はそのように身を戒めることを決して行わず、逆に「これが神の仕業なら、神様なんていない方がいい」と神を罵ることを口にするのだ。

実はそのような情景も聖書には書かれている。

黙示録16章10〜11節
第5の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
そして、その苦しみと、腫物との故に、天の神に対して穢し事を言い、自分の行いを悔い改めようとしなかった。


では、そのようは災害に直面した時、我々はそれをどう受けとめ、何をするべきなのだろうか。
答えはヨブ記に書いてある。
次回はそのヨブについて書き綴ってみようと思う。

2015年04月12日

皆既月食がありましたねぇ〜

つい最近、皆既月食を見ることができた。
昨年から今年にかけて、4回の皆既月食が起こる事になっている。(日本で見れるのはそのうち確か3回だったっけ?)
残念ながら今年の九月に起こる予定の皆既月食は日本では見ることができないそうだ。
その前にも皆既日食が北大西洋地域で観測できた。

いや〜なんという天体ショーの当たり年なんでしょうかねぇ〜。

実は、私はこのような現代人の態度に、少なからず不安を覚えている。
太古の時代より、洋の東西を問わず、実はこのような現代人が「天体ショー」と呼ぶ現象(日食、月食、彗星、流れ星、等々)は、不吉な事の起こる前兆であるとして恐れられていた。しかし、科学の発達した現在、それらの現象はもはや「解明されている」という事で、我々の祖先が畏怖の念を込めてこのようなものを仰ぎ見、畏れていたという感覚はもはやすでに忘れ去られてしまっている。

実はそれだけではない。

最近イルカが海岸に打ち上げられ、多くが死んでしまったというニュースもある。我々現代人は、「酸性雨が原因だろう」とか、「米軍の演習によるものだろう」とか、「何らかの病気にかかったのだろう」とか、様々な「理由」をつけてそれを「理解」し、何らかの「自然現象」として片づけるきらいがある。

しかし、立ち止まってよく考えてみてみたい。このような「天体ショー」は、説明はできたとしても、人間がそれを作り出すことは不可能である。この世を支配する「神の業」があって初めて成り立つ現象であるにもかかわらず、現代人はそれを分かったように取り扱い、事が過ぎると何事もなかったかのように日々の生活に戻るのである。

なぜか?

それは「現代の人間が、神に対する畏れを忘れたから」に他ならない。

石原慎太郎元東京都知事が、東日本大震災とその後の津波によって東北地域が被災したことを受けて、以下のように発言した。「津波をうまく利用して、我欲をうまく洗い流す必要がある。積年にたまった日本人の心の垢を。これはやっぱり天罰だと思う。」と。
昔気質の日本人作家らしい発言だと思う。しかし、この発言について、現代人は「不謹慎な発言」であると反発している。

我々の先人たちは、このような災害が起こった時には、「天罰が下った」と言って畏れ、身を慎み、自らの不徳を恥じ、我々の穢れを祓うべく反省をして禊をしてきた。これは、「このような災害で亡くなられた方々が悪いことをした」から、彼らに天罰が下ったという意味では決してない。

実は聖書にもイェシュアがそのような災害に触れた場面があることを、どのくらいの皆さんがご存じだろうか。
ルカの福音書13章1〜5節にはこう書かれている。

ちょうどその時、ある人たちがやってきて、イェシュアに報告した。ピラトがガラリヤ人たちの血をガラリヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
イェシュアは彼らに答えて言われた。「そのガラリヤ人たちがそのような災難を受けたから、他のどのガラリヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。私はあなた方に言います。あなた方も悔い改めないなら、皆同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいる誰よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。私はあなた方に言います。あなた方も悔い改めないなら、皆同じ様に滅びます。」


イェシュアは、このように説明することにより、「殺人事件の被害者、交通事故の被害者、天災や人災の被害者が我々生き延びた人間よりも罪深かったから、彼らは死んだのだ」という解釈を「間違っている」と2度にわたり断言している。その代わり、「あなた方(生き延びた者)も悔い改めないなら、皆同じように滅びます。」とこれもまた2度にわたり断言しているのである。震災などで亡くなられた方々は、定めの時期が来たので亡くなられたのであり、決して彼らが「我々より罪深い」人だったから被害に遭ったわけではない。犯罪の被害者も「自己責任だ」ではない。イェシュアははっきりと、そのような被害者の周りで指をさして裁いている我々一人一人に対して、「あなたも悔い改めなければ同じように滅びます。」と断言されているのである。

日食や月食、彗星が実際に人に被害を及ぼしはしないが、その段階で我々に不徳の部分はないか、穢れた部分はないかと反省し、身を戒めてきた先人たちは、それを見ても何も感じないわれわれ現代人よりも「神に対する畏れ」を持っていたことになる。それが証拠に、先人の遭った災害に対して、先人たちは神に対して赦しを請い願い、穢れを祓い身を清めてきたのに対し、現代人はいまだに国を挙げて反省をしようとはしない。

イェシュアの「あなた方も悔い改めないなら、同じように滅びます。」と述べられた言葉を、我々は良くかみしめなければならないのではないだろうか。早目に気づき、立ち返って悔い改めるなら、神は我々を守って下さりもなさるであろうが、傲り高ぶる事を止めなければ、この先さらに大きな災いが日本を襲うことになるのではないだろうか。
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