2018年05月20日
億り人になるために心に刻んでいた投資名言 ジェシー・リバモア
どうも、城之内です。
新シリーズ初めて見ました^^
何を成し遂げるにもやはり、心に信条をもって取り組むのがよいでしょう。
なにも、目的もなしにただお金儲けがしたいからというのはかならず
プロに焼かれてしまいます。
そうならないために、過去の有名投資家たちがどのような考え方をしていたのか
というのが非常に参考になります。
私自身日々肝に銘じて過ごしておりますので、みなさんにシリーズとして言葉をお送りします。
良いアイディアが相場で大きな利益を上げる秘訣ではない。最も重要なのは、絶好の時が来るまで静かに座っていることだ。
ジェシー・リバモア
どうしても日々値動きを見ていると、とても心配になります。
買ってから値下がりすると、失敗した・・・もう損切りしよう・・・
そんな時こそ冷静に腰を据えて考えるべき。
おっしゃる通りですね。
ちなみにこの方はとても大成功を収めていますが、大失敗も繰り返しています。
この名言は彼の教訓とも捉えられるでしょう。
あたふたせずに、落ち着いて対応しましょう。
人生を棒に振らないように・・・
・マサチューセッツ州シュルーズベリー出身。
・父に反発し、母の手助けにより14歳で家を飛び出し、ボストンで株仲買店の小僧に。
・生まれつき数理の才に恵まれたリバモアは、ここで独自にティッカーテープを読んで、相場変動の特性を探るようになっていた。
・15歳のとき年上の同僚から差金決済取引の原型となるバケット・ショップに誘われ、3ドル12セントを儲けた時から投機家へと足を踏み出すことになる。
・1897年、 ニューヨーク証券取引所に発注する実際の株取引を開始するが、6ヶ月足らずで破産する(1度目の破産)。
・1901年、強気の相場に乗り5万ドル(現在の貨幣価値で20億円程度)の資産を作る。1906年、世界経済の情勢を分析して、この5万ドルを空売りに投じる。
株価が下落するという読みは正しかったものの仕掛ける時期が早すぎたため、直後の株価の反騰の波に飲まれ、5月に2度目の破産。
1907年、2度の破産から立ち直り、100万ドル(現在の貨幣価値で200億円)の資産を保有するようになるが、「コットン・キング」の異名を持つパーシー・トーマスの勧めでコットン市場にも手を出すようになる。しかし1908年、コットン相場の大暴落で綿花の買い占めに失敗、莫大な負債を抱えることになる。
・負債を抱えながら投機を続けることに限界を感じたリバモアは、債権者一人ひとりに「再起したら必ず負債は返す」と約束してまわった上で1915年2月18日、破産を申請、受理される(3度目の破産)。
・破産が確定して精神的に開放されたリバモアは再び市場で勝ち始め、1917年に債権者達に負債を完済する。
・1929年9月4日、世界恐慌の引き金となった暗黒の木曜日に向けた空売りを行ない、1億ドル(現在の貨幣価値で4000億円)以上の利益をあげる。
・10月24日、リバモアは大量の売りポジションを持っており、もし彼がこのまま売り続ければNY市場は本当に崩壊しかねない状態であった(リバモアは売り買いが上手くいっている時にさらに積み増すピラミッディングを得意とした)。ついにJ・P・モルガンがリバモアにわざわざ使いをよこし、市場を救済するため、これ以上の売りは行わないよう要請してきた。これを受け翌10月25日の朝、リバモアは猛然と買い戻しに入り、主要なあらゆる株をも買い捲る行動に出た。これをきっかけに市場の流れは変わり、暴騰相場が始まった。銀行家達は、リバモアの愛国的な行為に感謝した。
・1934年3月5日、4度目の破産。
・1940年3月、息子ジェシー・ジュニアの勧めから『How to Trade in Stocks』を著すが評判はいま一つであった。
・同年11月28日、ニューヨークのホテルの一室で「どうしようもない。事態は悪くなるばかりだ。私は戦うのに疲れた。もう続けていけない。私にはこれしか方法がない。私は君の愛には値しない。私は失敗者だ。本当にすまないが私にはこれしか方法がないのだ」と書かれた遺書を妻に残し、ピストル自殺を遂げた。晩年はうつ病を患っていた。
・彼が死に際して残した信託と現金は500万ドルにのぼっていた。
・カクテルのオールド・ファッションドを好んで飲んでいた。彼がバーの席に着くと、何も言わずにバーテンが作ったという話もある。
かなり落差のある人生・・・ここから学び日々生かしていきたい
城之内
にほんブログ村
新シリーズ初めて見ました^^
何を成し遂げるにもやはり、心に信条をもって取り組むのがよいでしょう。
なにも、目的もなしにただお金儲けがしたいからというのはかならず
プロに焼かれてしまいます。
そうならないために、過去の有名投資家たちがどのような考え方をしていたのか
というのが非常に参考になります。
私自身日々肝に銘じて過ごしておりますので、みなさんにシリーズとして言葉をお送りします。
良いアイディアが相場で大きな利益を上げる秘訣ではない。最も重要なのは、絶好の時が来るまで静かに座っていることだ。
ジェシー・リバモア
どうしても日々値動きを見ていると、とても心配になります。
買ってから値下がりすると、失敗した・・・もう損切りしよう・・・
そんな時こそ冷静に腰を据えて考えるべき。
おっしゃる通りですね。
ちなみにこの方はとても大成功を収めていますが、大失敗も繰り返しています。
この名言は彼の教訓とも捉えられるでしょう。
あたふたせずに、落ち着いて対応しましょう。
人生を棒に振らないように・・・
ジェシー・リバモアとは?
・マサチューセッツ州シュルーズベリー出身。
・父に反発し、母の手助けにより14歳で家を飛び出し、ボストンで株仲買店の小僧に。
・生まれつき数理の才に恵まれたリバモアは、ここで独自にティッカーテープを読んで、相場変動の特性を探るようになっていた。
・15歳のとき年上の同僚から差金決済取引の原型となるバケット・ショップに誘われ、3ドル12セントを儲けた時から投機家へと足を踏み出すことになる。
・1897年、 ニューヨーク証券取引所に発注する実際の株取引を開始するが、6ヶ月足らずで破産する(1度目の破産)。
・1901年、強気の相場に乗り5万ドル(現在の貨幣価値で20億円程度)の資産を作る。1906年、世界経済の情勢を分析して、この5万ドルを空売りに投じる。
株価が下落するという読みは正しかったものの仕掛ける時期が早すぎたため、直後の株価の反騰の波に飲まれ、5月に2度目の破産。
1907年、2度の破産から立ち直り、100万ドル(現在の貨幣価値で200億円)の資産を保有するようになるが、「コットン・キング」の異名を持つパーシー・トーマスの勧めでコットン市場にも手を出すようになる。しかし1908年、コットン相場の大暴落で綿花の買い占めに失敗、莫大な負債を抱えることになる。
・負債を抱えながら投機を続けることに限界を感じたリバモアは、債権者一人ひとりに「再起したら必ず負債は返す」と約束してまわった上で1915年2月18日、破産を申請、受理される(3度目の破産)。
・破産が確定して精神的に開放されたリバモアは再び市場で勝ち始め、1917年に債権者達に負債を完済する。
・1929年9月4日、世界恐慌の引き金となった暗黒の木曜日に向けた空売りを行ない、1億ドル(現在の貨幣価値で4000億円)以上の利益をあげる。
・10月24日、リバモアは大量の売りポジションを持っており、もし彼がこのまま売り続ければNY市場は本当に崩壊しかねない状態であった(リバモアは売り買いが上手くいっている時にさらに積み増すピラミッディングを得意とした)。ついにJ・P・モルガンがリバモアにわざわざ使いをよこし、市場を救済するため、これ以上の売りは行わないよう要請してきた。これを受け翌10月25日の朝、リバモアは猛然と買い戻しに入り、主要なあらゆる株をも買い捲る行動に出た。これをきっかけに市場の流れは変わり、暴騰相場が始まった。銀行家達は、リバモアの愛国的な行為に感謝した。
・1934年3月5日、4度目の破産。
・1940年3月、息子ジェシー・ジュニアの勧めから『How to Trade in Stocks』を著すが評判はいま一つであった。
・同年11月28日、ニューヨークのホテルの一室で「どうしようもない。事態は悪くなるばかりだ。私は戦うのに疲れた。もう続けていけない。私にはこれしか方法がない。私は君の愛には値しない。私は失敗者だ。本当にすまないが私にはこれしか方法がないのだ」と書かれた遺書を妻に残し、ピストル自殺を遂げた。晩年はうつ病を患っていた。
・彼が死に際して残した信託と現金は500万ドルにのぼっていた。
・カクテルのオールド・ファッションドを好んで飲んでいた。彼がバーの席に着くと、何も言わずにバーテンが作ったという話もある。
かなり落差のある人生・・・ここから学び日々生かしていきたい
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