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2021年11月07日
御在所山へ・・・。
僕の師匠が最近、「塚地村の石工」について気になっているようなので、ちょっこり、何を思ったか御在所山へ行ってきました。さぁ、スタートですが神聖な場所へ入っていきます。韮生山祇神社鳥居をくぐる前に一礼して急な石段を登っていきます。
途中に目に入ってくる杉の大きさに圧倒されながら、この神聖な雰囲気を味わいます。
急ぎ過ぎてはへばります。何せ1000m級の山ですからね。景色のいいところのベンチに座り、一休み。うっすらと汗をかいた体に涼しい風を受けます。いやー、海も遠くに見えてますね。高いところから下界を見てると、現実のつまらないことや悩みも忘れさせてくれます。
ここで難関、尻見坂・・・。急こう配で石段しか見えん・・・
ここで、祠っぽいもの。「大日如来」ですと・・・。合掌してまたまた、一休み・・・。
まだか・・・と思いつつ、再出発。またまた、急こう配石段・・・。しかし、出迎えてくれたように石積とこれは灯篭?あれ、壊れてるぞ。石積みの平場に出ると目的の石造物が・・・。
ミニ八十八カ所の石造物がたくさん並んでいる。おっ、「塚地村石工」の文字と「慶應四」なんと、この年に明治改元で明治元年なんだよね。
いい感じに「毘沙門天」に光が・・・。
目的は達成されたけど、ここまで来たから頂上まで行きますかな。「韮生山祇神社」に到着。
「韮生山祇神社」安徳天皇、平教盛をも合せ祭ってあります。 境内に大国主命を祭神とする冨貴神社、祭神未詳の金峯神社があります。 昔から香北霊山とたたえられ五山所様ともいわれ人々の崇敬があつい。
せっかくだから、展望場所に行ってみますか。本殿の裏側にうっすらと道があるのでそこを抜けます。途中、三角点と標高プレートがあります。
最高の景観です。
とその時、娘からLINEが・・・。「お昼・・・。」じゃ、急いで下山します。
途中に目に入ってくる杉の大きさに圧倒されながら、この神聖な雰囲気を味わいます。
急ぎ過ぎてはへばります。何せ1000m級の山ですからね。景色のいいところのベンチに座り、一休み。うっすらと汗をかいた体に涼しい風を受けます。いやー、海も遠くに見えてますね。高いところから下界を見てると、現実のつまらないことや悩みも忘れさせてくれます。
ここで難関、尻見坂・・・。急こう配で石段しか見えん・・・
ここで、祠っぽいもの。「大日如来」ですと・・・。合掌してまたまた、一休み・・・。
まだか・・・と思いつつ、再出発。またまた、急こう配石段・・・。しかし、出迎えてくれたように石積とこれは灯篭?あれ、壊れてるぞ。石積みの平場に出ると目的の石造物が・・・。
ミニ八十八カ所の石造物がたくさん並んでいる。おっ、「塚地村石工」の文字と「慶應四」なんと、この年に明治改元で明治元年なんだよね。
いい感じに「毘沙門天」に光が・・・。
目的は達成されたけど、ここまで来たから頂上まで行きますかな。「韮生山祇神社」に到着。
「韮生山祇神社」安徳天皇、平教盛をも合せ祭ってあります。 境内に大国主命を祭神とする冨貴神社、祭神未詳の金峯神社があります。 昔から香北霊山とたたえられ五山所様ともいわれ人々の崇敬があつい。
せっかくだから、展望場所に行ってみますか。本殿の裏側にうっすらと道があるのでそこを抜けます。途中、三角点と標高プレートがあります。
最高の景観です。
とその時、娘からLINEが・・・。「お昼・・・。」じゃ、急いで下山します。
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2018年08月31日
元寇防塁
暑い8月、博多にふらっと行ってきました。
まずは生の松原に向かいます。
遠くに見えるのは「玄海島」と「能古島」ですかね。
「生(いき)の松原」はこんな感じです。
松原の中には、「史跡 元寇防塁」の碑がたっています。
(1281年)弘安の役では武士団の活躍によって博多上陸を阻まれた東路軍4万を志賀島で総攻撃、一部は長門国から上陸しようとするも、長門警護番役によって上陸できず。北条時宗の賢明な判断、すばらしい。また、志賀島で追撃され壱岐に逃げるもしつこく鎌倉武士団が江南軍を追う。結局、壱岐で江南軍と合流する計画も江南軍司令官の病気により、合流約束の期日にも江南軍はまだ、港を出ていない状態。結局平戸周辺で合流し、鷹島辺りで停泊するも、しつこい在地武士団の抵抗の中、台風上陸、壊滅寸前状態の元軍を台風一過の中、武士団が壊滅させる。我らが学んだ歴史は、鎌倉武士団の活躍についてはあまり触れられず、神風の話で終わったっけな。恐るべし、鎌倉武士団、おまけが台風ですな。
まずは生の松原に向かいます。
遠くに見えるのは「玄海島」と「能古島」ですかね。
「生(いき)の松原」はこんな感じです。
松原の中には、「史跡 元寇防塁」の碑がたっています。
(1281年)弘安の役では武士団の活躍によって博多上陸を阻まれた東路軍4万を志賀島で総攻撃、一部は長門国から上陸しようとするも、長門警護番役によって上陸できず。北条時宗の賢明な判断、すばらしい。また、志賀島で追撃され壱岐に逃げるもしつこく鎌倉武士団が江南軍を追う。結局、壱岐で江南軍と合流する計画も江南軍司令官の病気により、合流約束の期日にも江南軍はまだ、港を出ていない状態。結局平戸周辺で合流し、鷹島辺りで停泊するも、しつこい在地武士団の抵抗の中、台風上陸、壊滅寸前状態の元軍を台風一過の中、武士団が壊滅させる。我らが学んだ歴史は、鎌倉武士団の活躍についてはあまり触れられず、神風の話で終わったっけな。恐るべし、鎌倉武士団、おまけが台風ですな。
2018年07月16日
香南市香我美町の末清城跡
今日は海の日7/16、天邪鬼の僕は海に行かずに山城へGo!
今回は香宗川の上流、香南市香我美町末清
あまり情報のない山城だからこそ行ってみたい。
香宗川からの遠景です。山の形はきれいですね…。
取り付き口はどこだろうか、写真の右手の方に民家があり、そこから山への登り口が
あったので、失礼していざ、末清城跡へ…。
どこの山城もそうですが、登り口にはたくさんの墓地があり、文久年間のお墓がここでは
もっとも古いものでした。
これは下から詰ノ段への虎口
詰ノ段から虎口をみるとこんな感じです。
詰ノ段は卵型で、二段に平場が分かれており、一段上の平場にはL字型の土塁が残っています。
この土塁は写真の奥の方は高くなっており、しかも広くなっていたので櫓台として利用されていたと
推察します。その櫓台の先には…、そうです、二条の連続堀切があります。
詰ノ段からの第一堀切
堀切下から堀切を見上げたらこんな感じです。
これは、第一堀切とその先の浅い第二堀切の間の畝状地形からの第一堀切
第一堀切下から詰ノ段を見上げた詰切岸
第一堀切から詰ノ段の下にある腰曲輪の手前にある竪土塁
比較的広い腰曲輪 木がなければ、ここからの見晴らしは非常に良いと思われる。
詰の下には所々に竪堀らしき地形が残っています。
この城跡は香宗川のすぐ下流にある末延城跡と同じ築城思想で作られています。
残存遺構は、卵型の詰ノ段(二段に分かれています)・詰虎口・詰L字型の土塁・二条の連続堀切
・腰曲輪・腰曲輪状の二ノ段・堀切と腰曲輪を分断する低い竪土塁・竪堀です。
非常にコンパクトな行きやすいいい山城でした。
今回は香宗川の上流、香南市香我美町末清
あまり情報のない山城だからこそ行ってみたい。
香宗川からの遠景です。山の形はきれいですね…。
取り付き口はどこだろうか、写真の右手の方に民家があり、そこから山への登り口が
あったので、失礼していざ、末清城跡へ…。
どこの山城もそうですが、登り口にはたくさんの墓地があり、文久年間のお墓がここでは
もっとも古いものでした。
これは下から詰ノ段への虎口
詰ノ段から虎口をみるとこんな感じです。
詰ノ段は卵型で、二段に平場が分かれており、一段上の平場にはL字型の土塁が残っています。
この土塁は写真の奥の方は高くなっており、しかも広くなっていたので櫓台として利用されていたと
推察します。その櫓台の先には…、そうです、二条の連続堀切があります。
詰ノ段からの第一堀切
堀切下から堀切を見上げたらこんな感じです。
これは、第一堀切とその先の浅い第二堀切の間の畝状地形からの第一堀切
第一堀切下から詰ノ段を見上げた詰切岸
第一堀切から詰ノ段の下にある腰曲輪の手前にある竪土塁
比較的広い腰曲輪 木がなければ、ここからの見晴らしは非常に良いと思われる。
詰の下には所々に竪堀らしき地形が残っています。
この城跡は香宗川のすぐ下流にある末延城跡と同じ築城思想で作られています。
残存遺構は、卵型の詰ノ段(二段に分かれています)・詰虎口・詰L字型の土塁・二条の連続堀切
・腰曲輪・腰曲輪状の二ノ段・堀切と腰曲輪を分断する低い竪土塁・竪堀です。
非常にコンパクトな行きやすいいい山城でした。
2018年05月03日
土佐山田の石造物
土佐山田には「須江」という地域がある。その地域の北側に新改と呼ばれる地域があり、そこには古代(7〜8世紀)の「須恵器」を生産していたという林ノ谷古窯跡群という香美市定有形文化財がある。
どのようなところか一度訪れてみたいと思い、ゴールデンウィーク後半初日に足を運んでみた。
窯跡らしきものが数基あるのだが、足場も悪く草が繁茂し下に降りていける状態ではなかった。
地域の文化財が荒れていくのは残念である。地域の誇りとして大事にしてほしいものだ。
墓地横の道を帰ったところ、立派な墓石が数多くあり刻まれた文字(元号)を確認しながら石造物写真を撮影しました。
天明期の墓石が並んでいました。
この地域も「天明の飢饉」で多くの人が亡くなったのでしょうか。
何とも言えない穏やかな表情
ここは墓地なのだが、なぜか穏やかな雰囲気のある不思議な場所でした。
どのようなところか一度訪れてみたいと思い、ゴールデンウィーク後半初日に足を運んでみた。
窯跡らしきものが数基あるのだが、足場も悪く草が繁茂し下に降りていける状態ではなかった。
地域の文化財が荒れていくのは残念である。地域の誇りとして大事にしてほしいものだ。
墓地横の道を帰ったところ、立派な墓石が数多くあり刻まれた文字(元号)を確認しながら石造物写真を撮影しました。
天明期の墓石が並んでいました。
この地域も「天明の飢饉」で多くの人が亡くなったのでしょうか。
何とも言えない穏やかな表情
ここは墓地なのだが、なぜか穏やかな雰囲気のある不思議な場所でした。
2018年04月04日
越知の交易豪族・片岡氏
越知町に気になる城跡があります。
「片岡城跡」
元亀2年(1571年)に片岡城主・片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったと言われています。
片岡直光の男。官途は下総守。片岡家は長宗我部とは親類の間柄で、国侍の筆頭となっています。
一族は仁淀川の水系を利用して、阪神方面と交易して利益を上げ、繁栄したと云われています。
これは、「詰ノ段」に落ちていた白磁片
これも同様、「詰ノ段」に落ちていた青花片
このような、山の中に当時の高級陶磁器片が落ちているということは、片岡氏は交易豪族だったというのも
うなづける事実ですね。
僕にとっては、このような遺物を目にするとタイムマシンに乗った当時の人間が、「こんにちは」
といって現世に現れているようで、非常にロマンがあります。
山城にはつきものの備前片もたくさん落ちていますね。
「天正の陣」において、伊予国東予の陣営の人員不足により、長宗我部家より援軍が来るが、
これには純然たる応援と監視、牽制の両意味を持っていたといいます。
金子備後守と小早川隆景はお互いに親交のあった仲であったといわれ、寝返りの心配もあったと考えられる。
従って儀礼的にも相当な人物を金子備後守の許に出す必要があった。
長宗我部元親は弟の香宗我部親泰を派遣する心積であったが、負け戦と分かっていて行く事を拒んだため、
花房新兵衛、片岡光綱に決定した。片岡光綱は兵350余りを率い金子城へ発した。
結果「北谷口の戦い」で討死したそうである。その首は従臣、竹内又左衛門、上村孫左衛門(植村城主であった人物)、安並玄蕃等に護られて土佐国に帰ったと云われています。
これは、「詰ノ段」にある神社「神明様」
詰の北側にある壁のような切岸が写っていますが、上は小規模な櫓的な機能を持った曲輪が存在し、
逆側は連続堀切で、尾根からの侵入を寸断しています。
これが、連続堀切
南側の詰下には、エッジのきいた鋭い二重竪堀があります。
越知町にはこのような素晴らしい城跡があります。
僕はこのような城跡に足を運び、そこにいた人物が以前訪れた城跡とつながることに大きな喜びを感じます。
以前踏査した植村城の上村孫左衛門が、片岡城の片岡光綱の首を護りこの越知の片岡郷に連れて帰っています。また、上村孫左衛門とともに首を護ったのが安並玄蕃(元一条氏の家臣、僕の故郷は安並)…。
何か運命を感じます。
「片岡光綱の墓(首塚)」
領民を大切にした片岡光綱、命を落としたが故郷に帰り今なお片岡郷を片岡城から守ってくれているようです。
光綱には現在の片岡郷はどのようににうつっているんでしょうか。
これからも、この城跡から片岡郷の民を守ってほしいものです。
「片岡城跡」
元亀2年(1571年)に片岡城主・片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったと言われています。
片岡直光の男。官途は下総守。片岡家は長宗我部とは親類の間柄で、国侍の筆頭となっています。
一族は仁淀川の水系を利用して、阪神方面と交易して利益を上げ、繁栄したと云われています。
これは、「詰ノ段」に落ちていた白磁片
これも同様、「詰ノ段」に落ちていた青花片
このような、山の中に当時の高級陶磁器片が落ちているということは、片岡氏は交易豪族だったというのも
うなづける事実ですね。
僕にとっては、このような遺物を目にするとタイムマシンに乗った当時の人間が、「こんにちは」
といって現世に現れているようで、非常にロマンがあります。
山城にはつきものの備前片もたくさん落ちていますね。
「天正の陣」において、伊予国東予の陣営の人員不足により、長宗我部家より援軍が来るが、
これには純然たる応援と監視、牽制の両意味を持っていたといいます。
金子備後守と小早川隆景はお互いに親交のあった仲であったといわれ、寝返りの心配もあったと考えられる。
従って儀礼的にも相当な人物を金子備後守の許に出す必要があった。
長宗我部元親は弟の香宗我部親泰を派遣する心積であったが、負け戦と分かっていて行く事を拒んだため、
花房新兵衛、片岡光綱に決定した。片岡光綱は兵350余りを率い金子城へ発した。
結果「北谷口の戦い」で討死したそうである。その首は従臣、竹内又左衛門、上村孫左衛門(植村城主であった人物)、安並玄蕃等に護られて土佐国に帰ったと云われています。
これは、「詰ノ段」にある神社「神明様」
詰の北側にある壁のような切岸が写っていますが、上は小規模な櫓的な機能を持った曲輪が存在し、
逆側は連続堀切で、尾根からの侵入を寸断しています。
これが、連続堀切
南側の詰下には、エッジのきいた鋭い二重竪堀があります。
越知町にはこのような素晴らしい城跡があります。
僕はこのような城跡に足を運び、そこにいた人物が以前訪れた城跡とつながることに大きな喜びを感じます。
以前踏査した植村城の上村孫左衛門が、片岡城の片岡光綱の首を護りこの越知の片岡郷に連れて帰っています。また、上村孫左衛門とともに首を護ったのが安並玄蕃(元一条氏の家臣、僕の故郷は安並)…。
何か運命を感じます。
「片岡光綱の墓(首塚)」
領民を大切にした片岡光綱、命を落としたが故郷に帰り今なお片岡郷を片岡城から守ってくれているようです。
光綱には現在の片岡郷はどのようににうつっているんでしょうか。
これからも、この城跡から片岡郷の民を守ってほしいものです。
2018年03月05日
雉
2017年03月14日
長宗我部氏の居城〜岡豊城跡1
「岡豊城跡」遠景南の国分川南岸より
岡豊城跡は高知平野中央部北側の岡豊山に位置しており、丁度、高知平野を見下ろしています。
向かって左右に凸が二つありますが、
真ん中の高い部分が「詰ノ段」、左の上側が赤茶けた曲輪が「伝厩跡曲輪」、
右手の南に張り出した部分が「伝家老屋敷曲輪」です。
岡豊山の東北部の山には、岡豊八幡があって城の鬼門を守るという中世城郭としては
最高の場所に位置しています。
国史跡となりきれいに整備されていますが、今回は是非、スルーせず見てほしい遺構を紹介します。
先ずは「歴史民俗資料館」の駐車場から右手トイレのほうを見ながら坂道を登っていくと、
右手下にゆるりと見えてくるのが…。ダイナミックな横堀です。
しかもこの横堀の先には長宗我部氏得意の防御遺構「畝状竪堀群」が…。
阿波の「木津城跡」の畝状竪堀群を見たことがある人…。同じでしょう。
また、これらの遺構の近くには、北の小曲輪に向かい二条の連続堀切があります。
ここはスルーしやすい遺構ですので、忘れずに見てほしいと思います。
岡豊城跡は高知平野中央部北側の岡豊山に位置しており、丁度、高知平野を見下ろしています。
向かって左右に凸が二つありますが、
真ん中の高い部分が「詰ノ段」、左の上側が赤茶けた曲輪が「伝厩跡曲輪」、
右手の南に張り出した部分が「伝家老屋敷曲輪」です。
岡豊山の東北部の山には、岡豊八幡があって城の鬼門を守るという中世城郭としては
最高の場所に位置しています。
国史跡となりきれいに整備されていますが、今回は是非、スルーせず見てほしい遺構を紹介します。
先ずは「歴史民俗資料館」の駐車場から右手トイレのほうを見ながら坂道を登っていくと、
右手下にゆるりと見えてくるのが…。ダイナミックな横堀です。
しかもこの横堀の先には長宗我部氏得意の防御遺構「畝状竪堀群」が…。
阿波の「木津城跡」の畝状竪堀群を見たことがある人…。同じでしょう。
また、これらの遺構の近くには、北の小曲輪に向かい二条の連続堀切があります。
ここはスルーしやすい遺構ですので、忘れずに見てほしいと思います。
2017年02月12日
長宗我部元親RALLY6
今日は朝から南国市にある「坂本城跡」に縄張り図を描きに行ってました。
「坂本城跡」遠景
半分だけ竹が切られていますが、切りすぎてしまい崩れそうです。
城跡に上がってみると、曲輪は非常にきれいに整備されていました。
堀切部分に切った竹が集積しており、もったいないなぁと思ってしまいました。
詰ノ段の下に帯曲輪状の二ノ段、その南側階段状に三ノ段・四ノ段と続きます。
また、二ノ段と三ノ段東側の間に小さな腰曲輪がありました。
二時間ほどで書きあげることができたので、
昨日より始まっている「長宗我部元親RALLY6」に参加してみました。
これは、参加店舗や施設を利用して三つのスタンプを集め、
最後に元親からの指令として、岡豊城の出城で写真を撮ることで
「元親のてぬぐい」がもらえるらしい。
これは是非とも参加せねば…。
とりあえず、施設二か所を回り岡豊城の出城に写真を撮りに行きました。
いつ来ても、ここの空堀はいいですね…。下の写真は詰の虎口。「〇〇〇城」
ラリー期間中なので、名前は伏せておきます。
ホント、すげーいい山城なので是非とも見てほしいですね。
「坂本城跡」遠景
半分だけ竹が切られていますが、切りすぎてしまい崩れそうです。
城跡に上がってみると、曲輪は非常にきれいに整備されていました。
堀切部分に切った竹が集積しており、もったいないなぁと思ってしまいました。
詰ノ段の下に帯曲輪状の二ノ段、その南側階段状に三ノ段・四ノ段と続きます。
また、二ノ段と三ノ段東側の間に小さな腰曲輪がありました。
二時間ほどで書きあげることができたので、
昨日より始まっている「長宗我部元親RALLY6」に参加してみました。
これは、参加店舗や施設を利用して三つのスタンプを集め、
最後に元親からの指令として、岡豊城の出城で写真を撮ることで
「元親のてぬぐい」がもらえるらしい。
これは是非とも参加せねば…。
とりあえず、施設二か所を回り岡豊城の出城に写真を撮りに行きました。
いつ来ても、ここの空堀はいいですね…。下の写真は詰の虎口。「〇〇〇城」
ラリー期間中なので、名前は伏せておきます。
ホント、すげーいい山城なので是非とも見てほしいですね。
2016年12月15日
植村城跡〜二ノ段
植村城跡「空堀」の南側は切岸で切られており、上部は「二ノ段」となります。
その上の「詰ノ段」をぐるっと取り囲むような形。つまり、帯曲輪状の段です。
「二ノ段」北側の土塁の中央部に土塁の開口部があります。
「二ノ段」曲輪の土塁開口部(虎口?)から下の「空堀」を見下ろすと・・・
「空堀」はえいのぅ
それはさておき、「二ノ段」はどうなっておるのか?
このように比較的広い平場が「詰ノ段」を取り囲み、帯曲輪のようです。
しかも、写真のように土塁がしっかりと残っています。
ここで注目したいのが、以下の写真。
これは、「二ノ段」北東の土塁。
「待てよ・・・。この構造、どこかで見たような・・・。」
そうです、楠目城跡の詰ノ段の西の平場に下っている土塁。
この植村城跡の、「二ノ段」北東の土塁も同じように「詰ノ段」の曲輪に繋がっています。
しかも、その土塁から見える下の空堀はまるで「ミニ楠目城跡なのだ・・・」
「そっくりやないかぁ」とついつい独り言を言ってしまうマニアックな僕なのでした。
何か発見した時の喜びのため、ほくそ笑みながら竹藪だらけの「二ノ段」を彷徨うのでした。
その上の「詰ノ段」をぐるっと取り囲むような形。つまり、帯曲輪状の段です。
「二ノ段」北側の土塁の中央部に土塁の開口部があります。
「二ノ段」曲輪の土塁開口部(虎口?)から下の「空堀」を見下ろすと・・・
「空堀」はえいのぅ
それはさておき、「二ノ段」はどうなっておるのか?
このように比較的広い平場が「詰ノ段」を取り囲み、帯曲輪のようです。
しかも、写真のように土塁がしっかりと残っています。
ここで注目したいのが、以下の写真。
これは、「二ノ段」北東の土塁。
「待てよ・・・。この構造、どこかで見たような・・・。」
そうです、楠目城跡の詰ノ段の西の平場に下っている土塁。
この植村城跡の、「二ノ段」北東の土塁も同じように「詰ノ段」の曲輪に繋がっています。
しかも、その土塁から見える下の空堀はまるで「ミニ楠目城跡なのだ・・・」
「そっくりやないかぁ」とついつい独り言を言ってしまうマニアックな僕なのでした。
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2016年12月14日
植村(上村)城跡
以前より気になっていた城跡・・・。「植村城跡」
自ら収集した情報によるとなかなかの竹藪で、行く手を阻むとのことでした。
「楠目城跡」からは北西の方向にある、山田氏系の城跡です。
「土佐山田町史」によると築・在城者は上村越前守・上村孫左衛門・上村兵庫・上村七郎左衛門
早速、場内へ北側にある墓地より入りました。
草を分け入り30メートルほど入ったところでいきなり土塁が虎口状に切れた部分が・・・。
しかも、この土塁幅は4m、土塁の開口部は3m程。
そして、土塁の先にあるのは・・・。
「空堀」
上部「二の段」の曲輪北側をめぐり、南西側の落ち込んだ自然地形に落ち込んでいく見事な空堀。
東側は土塁で空堀は止まり、土塁下は縦に落ち込んでいっている。
この「植村城跡」、「楠目城跡」と同じような・・・なんというか・・・似たにおいがします。
面白いことに地図上で位置確認をしますと、
空堀のある城跡が西から「久礼田城跡」「植村城跡」「楠目城跡」と一直線に並んでいます。
今日はこの辺で・・・。
自ら収集した情報によるとなかなかの竹藪で、行く手を阻むとのことでした。
「楠目城跡」からは北西の方向にある、山田氏系の城跡です。
「土佐山田町史」によると築・在城者は上村越前守・上村孫左衛門・上村兵庫・上村七郎左衛門
早速、場内へ北側にある墓地より入りました。
草を分け入り30メートルほど入ったところでいきなり土塁が虎口状に切れた部分が・・・。
しかも、この土塁幅は4m、土塁の開口部は3m程。
そして、土塁の先にあるのは・・・。
「空堀」
上部「二の段」の曲輪北側をめぐり、南西側の落ち込んだ自然地形に落ち込んでいく見事な空堀。
東側は土塁で空堀は止まり、土塁下は縦に落ち込んでいっている。
この「植村城跡」、「楠目城跡」と同じような・・・なんというか・・・似たにおいがします。
面白いことに地図上で位置確認をしますと、
空堀のある城跡が西から「久礼田城跡」「植村城跡」「楠目城跡」と一直線に並んでいます。
今日はこの辺で・・・。
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