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2020年10月17日

野田城 〜武田信玄が狙撃された地・新城市〜

IMG_0122 (1024x1024).jpg


◆別名:
根古屋城・三河野田城

◆所在:
新城市豊島本城













◆歴史:
足利尊氏によって設楽・宝飯郡一帯の支配を命ぜられた富永氏であったが、戦国時代に入ると、田峯城の菅沼氏、亀山城の奥田氏などの勢力に押され、本拠地の富永館周囲4ヶ村を支配するのみに衰退する。8代当主の富永千若丸が乱心自害すると富永氏の血が絶えたため、永正2年(1505年)今泉四郎兵衛は他家から嗣子を迎える事を画策し、田峯城の菅沼定忠の三男竹千代(後の菅沼定則)を養子に迎える事になる。翌永正3年(1506年)富永勝永など反対勢力の離反を経て、富永館へ入場した竹千代は拠点を野田館と改め、支配を固めて行った。

三河松平氏と駿河今川氏の間での戦乱が激しくなってきた永正5年(1508年)に元服を果たした菅沼定則は、防御と豊川の水害対策として野田城の築城に着手し、8年の歳月を経て完成した野田城に本拠地を移した。今川氏に従属していた野田菅沼氏であったが、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏から離反。永禄4年(1561年)今川軍に攻囲され一旦は開城したものの、翌永禄5年(1562年)に菅沼定盈が夜襲によって奪回する。











野田城は2年に渡る戦で損壊が激しかったため大野田城に拠点を移し、野田城の修復を図った定盈であったが、元亀2年(1571年)甲州武田軍の遠江・三河侵攻が本格化すると、大野田城は山県昌景らの攻撃により大野田城は破壊されたため、修復中の野田城へと籠城。元亀4年(1573年)に入ると武田軍の攻撃を支えきれずに開城降伏し、定盈は武田軍の捕虜となったものの、武田信玄の病状が悪化し武田軍は撤兵。捕虜交換で徳川方に戻った定盈は天正2年(1574年)に野田城を奪還し、城主として再入場している。

天正18年(1590年)徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付随して上野阿保1万石を得る事となり、野田の地は吉田城へ入った池田輝政の支配下となり、片桐半右衛門が石田城を築いて本拠とし、一帯を支配したため野田城は廃城となったとされる。

◆現在:
各曲輪及び空堀や土塁が残されているが、北側の谷などは埋め立てが進められており少しずつではあるが、遺構が縮小されている。
また、城門は西隣の法性寺へ移築されている。











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