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2020年10月14日

九之坪城 〜桶狭間戦功第一簗田政綱の居城・北名古屋市〜

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◆別名:
此壷城

◆所在:
北名古屋市九之坪西城屋敷

◆歴史:
説明版によると簗田正綱が永禄3年(1560年)の桶狭間合戦の戦功によって、この地を得たとなっているが、城より300m程北西にある十所神社は永禄2年(1559年)に簗田正綱が建立したと言う記録があるため、実際に簗田氏は桶狭間合戦以前よりこの地を支配していたと思われる。

簗田氏が来るまでの久之坪城近辺の支配者は不明だが、十所神社の南側には織田信長の兵法の師で平田城主でもある平田三位が永禄7年(1564年)に建立した平田寺があり、その脇を岩倉街道が通っている。













平田寺の近辺は市場という字名が今でも残っており、平田寺の山門前には『売買●術制境内(●はのぎへんに丸の字)』と言う碑が立てられており、一帯がかなり繁栄していた事を伺わせる。

桶狭間の合戦で簗田正綱が今川義元の本陣の位置を知りえたのも、支配地の市場へ出入りする行商人や芸人などを代々保護しており、それらの人々から情報を得たと考えると納得は行くが、これに関しては様々な説が専門家から出されているため、この場での力説は避けたい。

いずれにせよ、簗田正綱の得た情報によって、桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った織田信長により、九之坪城とは別に沓掛城(豊明市)と米田城(名古屋市守山区)を与えられ、嫡子の広正は天正4年(1576年)加賀大聖寺城の城主にもなっている。











九之坪城の廃城時期も不明だが、斯波氏の家臣だった簗田弥次右衛門が天正10年(1582年)に、正綱が建立した十所神社を修築したと信長公記にあるものの、同姓である事以外に正綱と弥次右衛門の関係は不明だが、最低限この頃までは簗田氏が支配していたと思われる。

◆現在:
健康ドームの西隣に、城址碑と看板が残るのみとなっている。











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