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2020年10月23日
今村城 〜中世築城の名手が築いた城・瀬戸市〜
◆所在
瀬戸市共栄通
◆歴史
寛政年間(1460年〜1466年)に挙母城主中条氏の配下で、碧海(現在の安城市)今村城主であった松原一学は中条氏の命により飽津の地へ移り住んで来た時、この地にも『今村』と名付け、築いた城がこの今村城である。
息子の広長の代になると勢力を拡大し、桑下城の長江利景と並び、瀬戸一帯を支配する二大勢力となっていった。
応仁の乱が起こると、松原広長は本地城の松原平内らと共に、一族を挙げて山名方に付き、細川方に付いた桑下城の長江氏と安戸坂で対峙したものの、阿弥陀ヶ峰城の近辺で討死を遂げ、松原氏は衰退していったとされる。
◆現在
八王子神社一帯が城跡と言われており、境内の北側にある池は堀跡とされる。
また、池の脇には城址碑と お鶴井戸と呼ばれる井戸跡が残る他、境内には松原一学を称えた碑もある。
2020年10月13日
水野代官所 〜江戸幕府初期から100年余り機能した代官所・瀬戸市〜
◆別名
水野陣屋
◆所在
瀬戸市小田妻町
◆歴史
水野代官所は、初代尾張藩主である徳川義直が、後に尾張藩菩提寺となる定光寺近くの山野での狩猟を好み、定光寺の南3km程の地に宿泊所(水野屋敷)を築いた事が始まりである。
二代目藩主の徳川光友は宿泊施設を役所と官舎がある陣屋に改装し、山林を管理する奉行所とし、水野村に住む水野正勝を奉行に任命したと伝わっている。
水野正勝は入尾城主であった滝口氏の末裔で、代々この地を支配していた豪族と言える。
天明元年(1781年)尾張藩は陣屋の南にあるこの地へ代官所を移設し、春日井郡行政の中心地として機能を開始。林方奉行の水野正恭が代官職を兼任する事となるが、その支配地域は広大で111ヶ村に及ぶ物であったと言われている。
時代は下り、江戸末期の慶応元年(1865年)新選組参謀の伊藤甲子太郎と佐野七五三之助、安藤勇次郎の三名は尾張方面に逃走した脱走隊士の捜索で、水野代官所に捜索に対する上申書を提出し、調査を依頼している事が瀬戸市史に記載されているため、江戸時代終焉を迎えるまでの100年余り機能していた代官所であった。
◆現在
跡地は水野小学校となっており、正門前に代官所の碑が立てられている。