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2020年10月12日
青野城 〜松平一族の城・岡崎市〜
◆所在:
岡崎市上青野町稲荷西
◆歴史:
室町時代中期に松平義春が築いたとされる城。
義春は松平家5代目にあたる長親の六男(※注1)で青野松平家を興した人物であり、青野城から中島城を通り東条城までの南北に抜ける街道沿いを支配していたとされる。
義春の孫にあたる家忠の代になると東条吉良氏の勢力は衰退し徳川家康に屈する事となり、家忠が東条城へ入り東条松平家が成立する。
しかし、家忠に跡継ぎがなく没したため徳川家康の四男である松平忠吉が東条松平家に入り跡を継いだが、関ケ原合戦で受けた傷の影響で28歳の若さで没した。
忠吉にも跡継ぎがなかったため東条松平家は4代で消滅する事となった。
◆現在:
青野城の遺構は存在しないが、来迎寺の境内には松平義春の墓(※注2)が残されている。
※注1:
義春は長親の四男と一般的に言われているが墓碑には六男と記載されているため、これに準じて、ここでは六男と表記している。
※注2:
義春の息子である忠重の墓と言う説もあるが、ここでは墓碑に記されている通り義春の墓とする。
2020年10月11日
細川城 〜細川氏発祥の地・岡崎市〜
◆所在:
岡崎市細川町上平
◆歴史:
足利義兼の三男である義氏は、母が北条家の出自であったため、承久の乱(1221年)が終わると、足利家の名跡を継いで東海道の要所である三河守護となり、東条城を本拠として三河の地を治め、吉良・今川家の祖となった。
義氏は足利一門の足利実国、義季の兄弟をこの地に移し、兄は近隣の仁木城を拠点とし、仁木実国を名乗り、弟の義季は細川の地を拠点として細川義季と名乗った。
この義季の子孫は後に管領細川家をなどを輩出し、その末裔である79代内閣総理大臣の細川護熙もこの地を訪れている。
◆現在:
細川家発祥の地だが、住宅地の中に土塁のような高まりがあり、その上に城址碑が立てられているのみである。
2020年10月01日
渡城 〜鳥居氏発祥地・岡崎市〜
◆所在:
岡崎市渡町東浦4
◆歴史:
熊野権現神職の家系である熊野別当行範は平清盛から平氏姓を賜り、鳥居法眼と呼ばれ、その子、行忠は承久3年(1221年)に三河矢作庄渡里へ移り住み、渡里忠氏と名を改め渡城を本拠として一帯を支配。南北朝時代に入り、忠氏の子孫である渡里忠景は南朝の新田義貞に従い各地を転戦するも、義貞の戦死後は渡里村へ帰還し先祖の鳥居姓を名乗り、渡里の地の支配をし続けた。
室町時代に入ると、勢力を伸ばして来た松平氏に従うものの、松平清康が死去すると、駿河の今川氏と尾張の織田氏の勢力争いに加え、松平氏の中で内紛が起き、宗家に仕えた鳥居氏だが、渡河原の戦いでは織田方に付いた反宗家の中心である上宮寺城の松平忠倫らによって鳥居忠宗(鳥居元忠の長兄)が討ち取られ、渡城は落城。
松平忠倫を暗殺するなど、反宗家を排除した後、鳥居忠吉は今川氏に人質として赴く竹千代(後の徳川家康)に元忠を付け、自身は主不在の岡崎城で松平家に仕える人々を取りまとめ、竹千代が帰城した時の役に立てようと、渡城には武器・兵糧を蓄えたと言われている。
◆現在:
一帯は民家となっており、明確な遺構は残されていない物の、城跡には渡里城址の碑が建つ他、鳥居氏発祥地の碑も残されている。
また、700m程南に建つ諏訪神社の境内には渡古戦場の碑も残されている。