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2020年10月28日

下社城 〜猛将柴田勝家の生誕地・名古屋市名東区〜

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◆所在:
名東区陸前町

◆歴史:
現地の説明版によると、織田信長の配下武将として有名な柴田勝家は、享禄3年(1530年)に、ここ下社城で誕生したと記載されている。













勝家は10代の頃より織田信秀に仕えており、信秀の居城である末森城に出仕していた。
天文20年(1551年)に信秀が死去すると、信長の弟で末森城を継いだ信勝(信行)の家老となっている。

弘治2年(1556年)1月、尾張と三河の境に位置する福谷城に酒井忠勝が入城し、尾張東部を伺う姿勢を見せた事に対し、信長は勝家に福谷城への出陣を命じたが、松平方の大久保忠佐などの援軍によって撃退される。

同年4月に信長の義父である斉藤道三が、長良川の戦いで息子の義龍によって殺害されると、信長の器量に疑問を抱いた柴田勝家らは信勝を立てて家督争いを始め、稲生の戦では千人の兵を率いて信勝軍の主力となるも敗北。一旦は許され、信長への忠誠を誓った信勝らであったが、翌年には岩倉城の織田信安と通じ、再び信長に対して謀反を企てるが、勝家は『信長様に赦された恩を裏切るとは情けない』と言って、謀反の企みを清州城の信長に伝えている。











その後、信長の尾張統一戦や桶狭間の戦いの記録には勝家の名前が出てきていないが、信勝亡き後の尾張東部の掌握に努めていたと考えられる。

尾張平定が成った信長の上洛に伴う近江への進行や長島一向一揆などでは先鋒として活躍し、天正3年(1575年)に行われた越前一向一揆の平定の功績によって、一族を引き連れて北ノ庄城へと移り住んだため、下社城は廃城になったと言われている。

◆現在:
明徳寺一帯が城跡で、本郭にあたる地に本堂が建てられている。
現在も周囲より小高い地にあり、境内には城址碑と柴田勝家出生地の碑が立てられ、城があったことを思わせている。











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