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2020年09月08日

河和城 〜三河湾を望む・美浜町〜

◆所在:
知多郡美浜町河和西谷

◆歴史:
室町時代に田原城を中心に勢力を誇っていた戸田氏が海を渡り、知多半島東岸を制圧するために築いたとされる城。本丸から西側に向けて4段の曲輪を設けていたとされる。

緒川城の水野信元が知多制圧をめざして南下し、布土城を築いて弟の水野忠分を城主とし、次第に戸田氏の勢力を圧迫してくるようになった。

一方、戸田氏の本拠である田原城では、松平家から今川家への人質として贈られるはずであった竹千代(後の徳川家康)を戸田康光が奪い取り織田家に寝返ったが、今川氏に滅ぼされたため、河和城主であった戸田守光は水野信元の娘を娶って一族となり、河和城を残す事を図った。

豊臣秀吉の小田原征伐に従った戸田守光が戦死すると、河和の住民は河和城を攻め落として城を破壊した。妻子は叔母である於大の方(水野信元の妹)を頼って江戸まで逃げ、水野姓を名乗ったと言う。

◆現在:
西側にあった大手口は土砂崩れで塞がれ、現在は竹藪に覆われてしまい、登ることが困難となっている。

東側の崖下に民家があったが、現在は空き地となり、城を訪問する時の駐車場となっている。

駐車場の脇には河和城の歴史などが記載された看板が立てられ、看板脇から本丸に上る階段が作られている。

2020年09月07日

寺本城 〜伊勢湾を望む蒼き輝き・知多市〜

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◆別名:
堀之内城  ・ 青鱗城

◆所在:
知多市八幡堀之内





◆歴史:
花井播磨の城と言われている。
花井氏は守護職の土岐氏に仕えた氏族で、守護代として吉川城に入り、その後木田城へ移ったが、花井惣五郎の代には寺本城を本拠としていた。城跡にある津島神社は嘉吉3年(1443年)の花井信忠が建立したとあるので、室町中期にはこの地域が花井氏の勢力下にあり、以降100年以上は支配が続いていた物と推測される。





戦国時代は織田氏に従っていたが、織田信秀が死去すると、三河を手中に収めた今川氏の手が知多半島にも伸び、寺本城の花井氏も今川方へ寝返った。鳴海城から大高城、寺本城のラインを今川方に抑えられ、緒川城への連絡を絶たれた織田信長は、今川方が緒川城攻略のための足場として築いた村木砦を落とすべく、木田城へ兵を集結させ、寺本城の支城である藪城と寺本城の前を堂々と通過し、佐布里城の近辺から、一気に村木砦へと進軍してこれを落とす事に成功した。

村木砦を落とした織田軍は、帰路に今川方に寝返った寺本城と藪城を攻撃し、花井氏は降伏して再度信長の配下となった。





◆現在:
小高い山の上に南北50m、東西5m程度の細長い削平地があり、削平地の南端に津島神社がある。
北端にはくぼみがあり、水を貯めておく池(井戸?)を埋めた跡だと思われる。
現在は丘の南側からしか登る事ができず、登り口は堀之内と言う地名になっている。



2020年09月06日

長尾城 〜月の名所に建つ・武豊町〜

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◆所在:
知多郡武豊町上ケ





◆歴史:
武雄神社の神主でもあった岩田氏が築いた城。
戦国時代、碧海から知多の土地を織田、松平、今川の3つの勢力が争っており、豪族はどこかの勢力に属していく必要があった。
長尾城の岩田氏は今川氏に所属したが、織田氏に属していた緒川城の水野氏が知多制圧をめざして南下を開始し、坂部城の久松氏や常滑城の水野氏とは縁戚関係を結び、宮津城の新海氏、成岩城の榎本氏を次々と撃破。そのままの勢いで長尾城も包囲される事になった。

頼みであった今川氏の援軍は来ず、ほとんど抵抗もせずに降伏したが、後に再度今川氏に所属。桶狭間の戦いで今川氏が没落すると長尾城も織田氏に没収され、岩田氏は追放されたと言う。





◆現在:
城があったとされる地は、武雄神社の南でJR線の西側だが、遺構などは残っていない。
武豊町は長尾村と大足村が昭和の合併でできた町で、長尾村の鎮守である武雄神社と大足村の鎮守である豊足神社からそれぞれ一字を取り、合成して武豊町となったと言う事である。



2020年09月05日

細目城A 〜埋蔵金伝説の残る城・美浜町〜

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◆所在:
知多郡美浜町野間桑名前

◆歴史:
細目城Bと共に、城があったとされる候補地。
細目河内守の居城とされているが、冨具神社に『永正6年(1508年)銘の当村城主緒川氏』と書かれた棟札が存在するため、その頃には水野清忠(緒川城主水野信元の祖父にあたり、徳川家康の母方の曽祖父)がこの地を支配していたと思われる。





水野氏は清忠の父の代に勢力を拡大し、弟である政祖は常滑城主である事からも、知多半島西岸は水野氏の勢力下にあった事が判る。
こちらには、かつて吉祥寺があったが、寺は寛永年間に現在の場所に移築されたと伝わる。

また、城があった山にはいにしえより埋蔵金伝説があり
「朝日さす夕日輝く木のもとに、金の鶏埋めけられており」と言う歌が詠まれているが、どちらの山を差すかは不明である。





◆現在:
吉祥寺の裏山が城跡と言われている。
立ち入りは難しく、遺構などが残されているかは不明。



2020年09月04日

半田城 〜半田の由来となった城・半田市〜

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◆別名:
坂田城

◆所在:
半田市堀崎町





◆歴史:
『張州雑誌』や『半田町史』に記載があり、榊原氏の居城と伝わるが詳細は不明で、戦国時代には廃城となっていたとも言われている。

近隣の岩滑城主も榊原氏だが、半田には榊原と竹内姓が多い事から、両氏に関連があるとは言い切れない。また、坂田城とも呼ばれているが、これは氏族の名前ではなく、城があったとされる土地は東の海に向かってなだらかに下っており、西側へ向かっては急な斜面になっている事から付けられた名前だと思われ、坂田(さかた)→坂田(はんだ)→半田(はんだ)の由来となったとも言われている(異説有)





◆現在:
紺屋街道沿いに建つ順正寺近辺が城跡と伝わるが、ほぼ住宅地となっており、遺構などは存在しない。

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2020年09月03日

須佐城 〜江戸吉原で大儲け・南知多町〜

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◆所在:
南知多町豊浜会下坪

◆歴史:
源平合戦の時代に、篠島城主の室賀秋季が、源氏方として須佐城主の須佐為基と共に頼朝へと情報を流していた。後に 頼朝が平氏を倒して鎌倉幕府を開くと、この功績により須佐の地を正式に領有した事が始まりとされる。





時代が下り、永正年間に志摩から千賀為親が海を渡り移ってきて、須佐城を手中に収めた。

その後、千賀重親が大野城佐治氏の陣代として幡豆崎城へと移った際に須佐城は廃城となったとされる。

千賀氏は徳川家に仕え、後に尾張藩の御船奉行として隆盛を極め、徳川吉宗の代に新吉原を作る際、娼館のほとんどを須賀の地に住む商人達が経営いているが、これは千賀志摩守の後ろ盾があったからだとも言われている。





◆現在:
正衆寺の裏山あたりが城跡と言われているが、明確な位置は不明である。
なお、正衆寺は千賀氏の菩提寺である。



2020年09月02日

金谷城 〜高橋郷を支配していた中条氏の城・豊田市〜

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◆別名:
挙母城 ・ 衣城

◆所在:
豊田市金谷町1





◆歴史:
鎌倉時代から中条氏の居館として存在していたが、延慶2年(1309年)に中条景長の手によって軍事目的の城館として本格的に築かれた城。

中条氏は小野篁の子孫である小野孝泰が武蔵の国横山郷に土着し、孝泰の息子が横山義孝を名乗った事が始まりとされ、義孝の孫である成任は埼玉郡成田を所領として成田大夫を称し、一族は源義朝、頼朝父子に仕えて側近として活躍して、家永の代に本姓の藤原氏を称して中条氏を名乗り、承久の乱の際は大江広元と共に鎌倉の留守居役を務めた功により尾張守護と高橋荘(この当時挙母は尾張の一部だった)の地頭職を得る事になった。

家永の子孫である景長は延慶二年(1309年)に三河国の代官となり挙母へ赴任し、代々支配してきた高橋荘に軍事用の居城を築いたと言われ、これが現在の金谷城である。
景長は矢作合戦で新田義貞と戦い負傷。弟の秀長に家督を譲り、秀長は足利幕府で重きをなした後、出家して伊保古城に隠棲する事になる。
室町時代に所領を召し上げられ、三河守護は東条氏、尾張守護は斯波氏へと支配権が移って行ったが、高橋荘は子孫へ戻され、挙母地区は中条氏の支配が続いていった。





室町幕府が崩壊の兆しを見せる中、安祥城主である松平親忠との争いが激しさを増し、伊保古城の三宅氏、寺部城の鈴木氏、八草城の那須氏、上野城の阿部氏らを率いて明応2年(1493年)に井野田の地で松平郡と戦うも敗北を喫する。

これにより中条氏の勢力は衰退の道をたどり、駿河の今川氏の侵攻を受けた後、永禄元年(1558年)に岡崎城の松平元康に攻められて降伏。永禄4年(1562年)には織田信長の侵攻に耐え切れず、一戦もせずに金谷城を明け渡して配下の森豊後守の居城である森城へ逃げ込んだ。
これによって中条氏の長年にわたる挙母地区支配は終わりを告げる事になった。





なお、江戸時代に内藤氏によって七州城が新たに築かれ、挙母城と呼ばれるまでは、挙母城は金谷城の事を指していた。

◆現在:
勝手神社の境内に城址碑が残されている。
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2020年09月01日

千賀屋敷 〜徳川御船手四人衆の城・南知多町〜

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◆別名:
千賀屋敷

◆所在:
南知多町師崎的場





◆歴史:
慶長7年(1602年)に千賀重親が築いた城館。

同年に廃城となった幡豆崎城の古木を流用して建てられたと伝わる。

千賀氏は伊予の河野氏が海岸伝いに東進し、志摩の千賀村に土着した際に千賀氏を名乗ったのが始まりとされ、海を渡り知多半島南部へと勢力を伸ばした。





北畠氏の配下を経て徳川家康に仕え、1562年に千賀重親が御船奉行を命ぜられ幡豆崎城へと入ったが、徳川家康の関東移封と共に相模国内へと移った。

関ヶ原の合戦では西軍側の九鬼水軍と戦い、地元であった知多から九鬼氏を追い払った功により、師崎を中心に、篠島、日間賀島などに領地を得て千賀城を築いたとされる。

家康が関東に転封されると千賀城は廃城となり、千賀重親は小浜景隆、向井正綱、間宮信高と共に徳川御船手四人衆に任じられ三崎に配備され、江戸幕府開幕後は尾張藩主となった松平忠吉、徳川義直の船奉行に任じられた。





◆現在:
駐車場の奥に千賀家の碑が立てられているのみで、遺構としては残っていない。

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2020年08月31日

鎌田屋敷 〜源義朝の忠臣の屋敷・南知多町〜

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●所在:
南知多町豊丘字本郷7





◆歴史:
平安時代末期、源義朝に仕えた武将、鎌田政清の屋敷と言われている。
政清は藤原秀郷の後裔、歴代の源氏棟梁に使える重臣の子孫で、祖父の須藤助道は源頼義、父の通清は源為義(義朝の父)の側近として名を馳せている。





須藤から鎌田へ姓を変えた経緯などは良く判っておらず、鎌田姓の由来も奈良県香芝市に鎌田と言う地名があり、そこから取ったとも言われているが、須藤助道は駿河、通清は三河に所領があったと伝わっており、奈良県の鎌田に所領があったとの記載はない。

政清は源義朝の命により、この地に城館を構えたと言われているが、一所懸命の時代、祖父や父とも領地を転々としているのは、平家の隆盛と源氏の没落を現わしているのかもしれない。

この地に屋敷を構えた政清は、近隣の豪族である長田忠致の娘を娶って勢力を保っていたが、平治の乱で義朝に従い敗戦。東国に落ち延びる際に、舅である長田忠致を頼って長田屋敷に逃げ込むが、忠致の裏切りに会い、主の義朝と共に討ち死にを遂げている。

◆現在:
正法寺が屋敷跡と言われているが、遺構等は存在しない。

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