アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2020年10月08日

上之郷城 〜松平元康の前に立ちふさがる今川家の城・蒲郡市〜

IMG_3394 (1024x768).jpg

◆別名
西之郡之城 ・ 宇土城 ・ 鵜殿城 ・ 神之郷城

◆所在
蒲郡市神之郷町殿市場

◆歴史
平安時代から室町時代にかけて築かれたと言われる城。













鵜殿氏は紀州熊野別当の息子が新宮鵜殿村に居住した事から鵜殿氏を名乗り、海を渡って西郡に移り住んできたとされる一族で、戦国時代に鵜殿長持が駿河の今川義元の妹婿となった事で一族の扱いを受けたが、桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、今川家に臣従するのは上郷鵜殿家のみとなり、他は松平家へ臣従したため一族は二分する事になった。

上之郷城に立てこもった鵜殿長照は松平元康の猛攻を受けるが、防御が固く落城しなかったため、甲賀衆の伴与七郎とその配下を使い、城内に火をつけてようやく落城させたと言われている。











上之郷城は知多の坂部城から久松俊勝(家康の生母である於大の方を娶っていた)を移し、後に家康の関東移封に伴い池田輝政が領有するが、その後まもなく廃城となったと伝わる。

◆現在
ミカン畑などになっているが、土塁や空堀などの遺構は残されており、本郭には碑が立てられている。
城跡の東を流れる兼京川は堀の役目を果たしていたとされ、南西にある熊ヶ池も外堀の一部と伝わっている。











2020年10月07日

前田城 〜前田利家誕生地・名古屋市中川区〜

IMG_1728 (1024x768).jpg

◆所在:
名古屋市中川区前田西町1丁目904

◆歴史:
尾張海東郡一帯を支配した土豪である前田氏の本城である。前田城主は代々與十郎を称しており、一族は近辺に下之一色城や荒子城などを築いて支配を固めて行ったとされ、室町末期には、勝幡城から津島一帯を支配して勢力を拡大していった織田信秀に属し、功績を挙げて行った。













天文7年(1538年)前田城内で加賀藩祖の前田利家が誕生し、天文13年(1544年)に荒子城へと移ったと言われているが、当時の前田城主であった與十郎長定との関係は良く判っていない。

稲生の戦いでは林通具に従ったため、織田信長によって領地を没収された物の、本能寺の変で信長が死去すると、子の長種と共に織田信雄配下の武将として、一帯を支配する城主として復帰している。












天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで長定は蟹江城を奪い取り、豊臣秀吉に寝返った。蟹江城の異変を知った織田信雄・徳川家康連合軍は奪還の兵を挙げ、蟹江城を攻め落とし、同時に前田城や下之一色城など、前田氏の支配する城は攻め落とされ破却。信雄を裏切った長定は討ち取られ、前田城にいた長種は加賀の前田利家を頼って落ち延びたとされる。

◆現在:
城跡は速念寺となっており、遺構等は存在しないが、速念寺の本堂は前田利家の銀鯰尾兜を模した形となっている他、隣接する圓盛寺には利家の由緒碑が立てられている。











2020年10月06日

熱田砦 〜源頼朝の誕生地・名古屋市熱田区〜

IMG_7978 (1024x768).jpg

◆所在:
熱田区白鳥2丁目

◆歴史:
養和元年(1181年)に源行家が築いた、名古屋市内最古の歴史を持つ城館の一つである。













熱田大宮司藤原季範は、娘の由良御前を源氏の棟梁である義朝に嫁がせて縁を結ぶと、一族を率いて保元・平治の乱に出陣するが平氏に敗れ去り、野間の長田屋敷まで逃亡するが、裏切りに会い殺害された。
この地は、季範の別邸があった地で、由良御前はこの地で源頼朝を出産したと伝わる。

幽閉の期間を経て、頼朝は平氏打倒の兵を挙げるが、これに対し平重衝の軍勢が美濃へと進出。
頼朝は義弟の義円(源義経の同母兄)と行家の軍勢を派遣し、源平両軍は墨俣で対峙するが、義円は打ち取られるなど大敗を喫する。











行家は、この地に砦を急造して、平氏の軍勢の進出を防ぐ事にするが、平氏の勢いを止める事はできず、矢作川の戦いでも敗れ去り、東国へと逃げ帰る事になった。

◆現在:
誓願寺となっており、門前に看板が立っている。











2020年10月05日

杉山端城 〜交通の要所に築かれた城館・新城市〜

20190814_135208 (1024x768).jpg


◆所在:
新城市杉山字端城26−5

◆歴史:
永禄4年(1561年)に菅沼定氏が築いた城館である。

この頃、東三河に住む豪族の大半は今川氏に従っていたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを遂げると、松平元康は今川家から独立を図り、東三河の豪族達もこれに従う者が増えていった。













義元の死後、後を継いだ今川氏真は兵を出すなどして、今川氏から離反する豪族討伐を行い、永禄4年(1561年)には吉田城主の小原鎮実に命じて菅沼定盈の居城である野田城を攻略したが、翌永禄5年(1562年)には今川勢の隙をついて、定盈が奪還を果たしている。

野田城を追い出された格好になった今川軍は、近隣の新城古城を攻撃するが、城主の菅沼定氏らの奮戦により、ここでも敗退してしまう。
今川軍を撃退した菅沼定氏であったが、新城古城の損壊は激しく、作手街道の入り口にあたる地に杉山端城を築いて居城とした。

元亀元年(1570年)になると、南に600mの伊奈街道沿いに道目記城を築いて、さらに居城を移しているが、杉山端城の遺構は残したままである事から、道目記城は今川軍が来襲した時の前衛となる城で、杉山端城は、いざとなった時に菅沼氏の本拠地である田峯城へと落ち延びる際に、敵勢を食い止める目的もあったのではないかと思われる。

元亀4年(1573年)甲斐の武田信玄が東三河へと侵攻し、菅沼氏は降伏を余儀なくされる。この際、信玄は道目記城を接収して拠点としている。











信玄亡き後、新城は奥平氏の治める所となり、今泉七郎左衛門が城代となり、奥平氏が関東へ移封された後は、吉田城主となった池田輝政の家臣である高木又左衛門が城代となっている。
その後、菅沼氏の代官を経て、新城城に入った水野分長が支配していたが、水野氏の上州移転とともに杉山端城は廃城となったと伝わる。

新城の地には多数の城館が存在するが、杉山端城は作手街道への入り口に位置しており、豊川を遡って来た船荷などは新城で陸揚げされ、作手街道を通って信濃へと運ばれていた事も考えると、戦時の城と言うよりは、街道を往来する人々を守り、監視する目的が強く、このため、他の城館に比べて長期間に渡って存在できたのではないかと考えられる。

◆現在:
道路脇に碑が残るのみで遺構などは存在しない。











2020年10月04日

傍爾本城 〜主要街道の主要地に築かれた城・東郷町〜

20150427_111631_267 (768x1024).jpg

◆別名:
傍止本城 : 傍示本城

◆所在:
東郷町春木字市場屋敷

◆歴史:
鎌倉時代に加藤安俊が築いたとされる城。
傍示とは主要街道脇に立てられた国境を示す標識で、この地には古来から尾張と三河を結ぶ主要街道があった事が伺える。













小牧長久手の戦いでは岩崎城主の丹羽氏次の弟である丹羽氏重が傍爾本城主となり、豊臣方で中入り作戦を敢行した池田恒興に攻めかかり、足止めに成功するものの討ち死にを遂げた。

傍爾本城が丹羽氏の支配する事になった経緯は不明だが、氏次の妹が加藤家に嫁いでいるので、婚姻によって氏重が城主になったと思われる。
丹羽氏は後に伊保城1万石に移封され、本拠地の岩崎城と共に傍爾本城などの城も廃城になったと思われる。

◆現在:
傍止本公民館に城跡の碑が立っているが、遺構などは存在しない。




















2020年10月03日

長久手城 〜小牧長久手の戦いで廃城・長久手市〜

IMG_6223 (1024x768).jpg

◆別名
長湫城

◆所在
長久手市城屋敷

◆歴史
永享年間(1429年〜1441年)にはすでに城があったとされ、左近太郎家忠(姓不詳)の名前が残る。














享禄年間(1528年〜1532年)になると斉藤平左衛門が居城としていたと伝わるが、後に廃城となっていたようで、瀬戸馬ヶ城の土豪であった加藤氏は、弘2年間(1556年)織田信長の品野城戦で織田勢に敗北。長久手まで落ち延び、廃墟であった長久手城を修復して居城とした。

長久手城を本拠地とした加藤氏は地元の土豪などと姻戚関係を深めて一帯を支配していき、戦国時代に入ると当主の加藤忠景は岩崎城主である丹羽氏次の姉を娶り、さらには娘を氏次に嫁がせて、婚姻関係を強化し、長久手一帯の支配権を強固なものとした。











小牧長久手の合戦が起こると徳川方に付いた丹羽氏に従い、岩作東城の今井三郎四郎らと共に岩崎城に立てこもり、豊臣方の池田恒興らと戦い討ち死にを遂げている。
この時に200年の歴史を持つ長久手城も廃城となり、城跡は荒廃していったが、文化9年(1809年)に尾張藩士であった加藤氏の子孫が東廓にあった観音堂の脇に城跡碑を立てて、現在に至る。

なお、丹羽氏次と忠景の娘の間に産まれた氏信は、討ち死にした氏次の跡を継ぎ、後に美濃岩村藩2万石の大名となっている。

◆現在
観音堂の脇に城跡碑が残されているが、遺構としては存在しない。










2020年10月02日

瀬戸川城 〜尾張矢田川河畔の城・尾張旭市〜

IMG_6201 (1024x768).jpg

◆所在
尾張旭市瀬戸川町

◆歴史
井田城主浅井玄播允の弟である浅井源四郎が矢田川と瀬戸川の合流地点に築いた城と言われている。井田城は明徳年間(1390年〜1393年)に建てられているため、こちらの瀬戸川城もほぼ同時期に築かれたと考えて良いと思われる。













発掘調査の結果、一辺が55m程の方形の城館で、深さ2m、幅4〜10m程の堀に三方向を囲まれた城であった事がわかっているが、小学校建設のため整地されており、遺構などは存在しない。

◆現在
三郷小学校となっており、小学校南西の角に看板が立てられている。





















2020年10月01日

渡城 〜鳥居氏発祥地・岡崎市〜

20190909_101742 (1024x768).jpg

◆所在:
岡崎市渡町東浦4

◆歴史:
熊野権現神職の家系である熊野別当行範は平清盛から平氏姓を賜り、鳥居法眼と呼ばれ、その子、行忠は承久3年(1221年)に三河矢作庄渡里へ移り住み、渡里忠氏と名を改め渡城を本拠として一帯を支配。南北朝時代に入り、忠氏の子孫である渡里忠景は南朝の新田義貞に従い各地を転戦するも、義貞の戦死後は渡里村へ帰還し先祖の鳥居姓を名乗り、渡里の地の支配をし続けた。













室町時代に入ると、勢力を伸ばして来た松平氏に従うものの、松平清康が死去すると、駿河の今川氏と尾張の織田氏の勢力争いに加え、松平氏の中で内紛が起き、宗家に仕えた鳥居氏だが、渡河原の戦いでは織田方に付いた反宗家の中心である上宮寺城の松平忠倫らによって鳥居忠宗(鳥居元忠の長兄)が討ち取られ、渡城は落城。

松平忠倫を暗殺するなど、反宗家を排除した後、鳥居忠吉は今川氏に人質として赴く竹千代(後の徳川家康)に元忠を付け、自身は主不在の岡崎城で松平家に仕える人々を取りまとめ、竹千代が帰城した時の役に立てようと、渡城には武器・兵糧を蓄えたと言われている。












◆現在:
一帯は民家となっており、明確な遺構は残されていない物の、城跡には渡里城址の碑が建つ他、鳥居氏発祥地の碑も残されている。
また、700m程南に建つ諏訪神社の境内には渡古戦場の碑も残されている。











2020年09月30日

寺津城 〜大河内松平家の本拠・西尾市〜

IMG_5694 (1024x768).jpg

◆所在:
西尾市寺津町御屋敷

◆歴史:
永正7年(1510年)に大河内信綱か築いた城。
大河内氏は源頼政の血を引く一族で、以仁王の乱で頼政が討たれると、岡崎市の大河内郷まで落ち延び、大河内城を築いて本拠とした。













承久3年(1221年)に足利義氏が三河守護になると、これに従い、後には吉良氏の家老となって巨海城や長縄城などに一族を配して勢力を固めていった他、遠江にある吉良氏の領地に代官として派遣された血筋も残されている。

その後は、森山崩れで松平清康(徳川家康の祖父)が謀殺された際に、長縄城の大河内小見が遺体を持ち帰り埋葬するなど、松平氏と近い関係にあったが、大河内12代目の大河内秀綱は三河一向一揆では主君の吉良義昭が一揆側に付くと、これに追随して家康と敵対した。











一揆が敗れると家康に請われて出仕。秀剛の次男である正綱が家康の命により長沢松平家へ養子に入り、相模玉縄藩主となった後は大河内松平家として幕府の信頼を得、さらには甥の信綱が養子となって跡を継ぐと、徳川家光の小姓から始まり『知恵伊豆』と呼ばれ、最後には老中まで出世し、その子孫の数家は幕末まで大名として存続している。

◆現在:
瑞松寺一帯が城跡と言われ、寺の北西角にある高い部分はかつての土塁跡。
また、寺の北側の路地は堀跡と伝わる。
また、城跡から200m程北側に建つ寺津八幡社は大河内顕綱の創建である。











2020年09月29日

絵下城 〜赤穂四十七士のご先祖様の城・刈谷市〜

20150525_090646_818 (1024x768).jpg

◆所在:
刈谷市泉田町惣助改田

◆歴史:
『えげ』とは僧侶が辻説法をする場所を指しており『会下』『絵下』などの字が使われて、地名として各地に存在している。














刈谷市の絵下城は矢田作十郎が矢作川沿いの高台に築いたと伝わるが、それ以前より、ある程度は人の集まりがあった土地で、矢田氏が支配していたと思われる。

矢田作十郎は父祖の代から松平氏に仕え、金鯉の兜で有名な武将だが、一向宗を信仰していたため、三河一向一揆では一揆方に属して大将の一人として松平元康に敵対。松平忠倫らと共に上宮司城に籠城したが、鉄砲に中り討ち死にを遂げた。
※小豆坂で討ち死にしたとも言われている。











その子孫には、赤穂四十七士の1人である矢田五郎衛門助武がいる。

◆現在:
絵下城児童遊園となっているが遺構などは存在しない











ファン
検索
<< 2020年10月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール
だいさんの画像
だい
愛知県のお城は1,000以上。 全部回る事が目標です!
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。