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2016年10月05日
第七回 愛染明王の記 後編
中二の時、太平洋戦争が始まった
「本日未明米英軍と戦闘状態に入れり」
昭和16年12月8日だ。
間もなく学徒動員で工場へ働きに行った。
終戦の年に召集令状がくるまで働いた。
つまり、私の学力は中二だ。
戦後、職場では随分と劣等感に悩まされたもんだ
今の若い人たちはいくらでも勉強が出来るからいいな。
青春を大切にすることを願う
60歳の定年退職以来、米寿の今まで何体彫ったかな、50体か、60体かな??
不信心でお経も知らず、煩悩の塊のような自分が彫った仏像では有難味は無いな
今、思い出した
学徒動員で工場で働いているとき、どういうことか、アメリカ兵の捕虜が一人いた。
手振り身振りで話をしたり、マイオールドケンタッキーホウムの歌など教えてくれた
当時英語をしゃべると、
「敵国語をしゃべるとは、けしからん、非国民だ!」
と言われた。
米兵はいつのまにか居なくなった
あの人はどうしているかな…………無事に国へ帰ったかな。
千手観音は数限りない人々を救うために千の手を持っているそうだ
不信心な私でも救っていただけるかな…?
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第七回 愛染明王の記 前編
第六回 貪、瞋、癡の記
貪(トン)は貪欲、むさぼる、瞋(シン)は怒り憎む、癡(チ)は無知、これを三毒と言うそうだ。
三つの煩悩だ
自分は貪も瞋も癡も人より沢山持っているような気がする
随分と世話をやいてやった人がいた。
真面目そうな人だった。
言い尽くせぬほど親身に世話をしてあげた。
だが、一度嘘をついた
その嘘を隠すためにまたウソをついた嘘が膨らんだ
そしてある日、よその県の仏師から噂が聞こえてきた。
「ど偉い仏師がいるな、あんたの弟子だろ」
ここで事実を書くわけにいかないが、その内容には呆れて声もでなかった。
後ろ足で砂をかけると言うのがこれだ
恩を仇で返す
瞋の塊が燃え上がった。
仲間に話をした。
そのうちに、私の師匠から手紙が来た。
「腹が立ったときは、相手を仏様と思え、そしたら腹は立たん」
そんな殺生な!!!
そんなこと、思えますかいな!と思いながら、月日が過ぎた
あるお寺の大僧正から色紙をいただいた。
「かけた情けは水に流し、受けたご恩は石に刻め」
法隆寺の長老からも色紙や扇子をいただいた。
扇子に「和」と書いてあった
聖徳太子の17条の憲法の第一条「和をもって尊しとなす」である。
現代の憲法を戦争が出来るように変えようと言うのと、どう考えたらいいのかな。
「相手を仏様と思え」
の意味が少し分かってきたような気もする
ところで、この三毒だが、インドでは孔雀が毒蛇を食べることから人の心の三毒を食べてくれると言うことで信仰されている。
写真一枚目の作品は松久宗淋先生の孔雀明王をお手本に彫った
写真二枚目の作品は、興福寺の阿修羅だ
乾闥婆の娘を巡って帝釈天と争い、その戦いは熾烈を極めたので修羅場という言葉ができたんだな。
天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道のうち、修羅道の主になっている。
愁いを含んだ目で彼方を見る少年の表情を表現するのは難しい(写真三枚目)
瞋の火を燃やし続けたら、
閻魔の大王から「地獄へ行けーーー!!!」と怒鳴られるだろうな。
そうだ
次は閻魔大王を彫ろう。それも大きいやつをな。
三つの煩悩だ
自分は貪も瞋も癡も人より沢山持っているような気がする
随分と世話をやいてやった人がいた。
真面目そうな人だった。
言い尽くせぬほど親身に世話をしてあげた。
だが、一度嘘をついた
その嘘を隠すためにまたウソをついた嘘が膨らんだ
そしてある日、よその県の仏師から噂が聞こえてきた。
「ど偉い仏師がいるな、あんたの弟子だろ」
ここで事実を書くわけにいかないが、その内容には呆れて声もでなかった。
後ろ足で砂をかけると言うのがこれだ
恩を仇で返す
瞋の塊が燃え上がった。
仲間に話をした。
そのうちに、私の師匠から手紙が来た。
「腹が立ったときは、相手を仏様と思え、そしたら腹は立たん」
そんな殺生な!!!
そんなこと、思えますかいな!と思いながら、月日が過ぎた
あるお寺の大僧正から色紙をいただいた。
「かけた情けは水に流し、受けたご恩は石に刻め」
法隆寺の長老からも色紙や扇子をいただいた。
扇子に「和」と書いてあった
聖徳太子の17条の憲法の第一条「和をもって尊しとなす」である。
現代の憲法を戦争が出来るように変えようと言うのと、どう考えたらいいのかな。
「相手を仏様と思え」
の意味が少し分かってきたような気もする
ところで、この三毒だが、インドでは孔雀が毒蛇を食べることから人の心の三毒を食べてくれると言うことで信仰されている。
写真一枚目の作品は松久宗淋先生の孔雀明王をお手本に彫った
写真二枚目の作品は、興福寺の阿修羅だ
乾闥婆の娘を巡って帝釈天と争い、その戦いは熾烈を極めたので修羅場という言葉ができたんだな。
天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道のうち、修羅道の主になっている。
愁いを含んだ目で彼方を見る少年の表情を表現するのは難しい(写真三枚目)
瞋の火を燃やし続けたら、
閻魔の大王から「地獄へ行けーーー!!!」と怒鳴られるだろうな。
そうだ
次は閻魔大王を彫ろう。それも大きいやつをな。
2016年06月10日
第5回 不信心の記
更新大変遅くなり、すみません。
これからもボチボチやってきます!
宜しくお願い致します!!
よく病気したなぁ…
ガンの手術だけでも3回だ。
これだけたくさん仏像を彫っているのに病気ばっかりしている。
仏様のご利益なんてあるんだろうか?…と入院した時はそう思って仏様を恨む。
だが日が経って、快方に向かって日に日に良くなってくると、仏像のお蔭で助かったのだと感謝する。
自分勝手も極まれりだな
平成22年の手術の時など、
「あと一年」
と、家庭医学の本に書いてあったわな
入院の度に白衣観音を持って行った。
ベッドの横の棚に置いて眺めていると、気が落ち着く。
そして、快方に向かっていることを感謝する
この観音様はいつも自分を見てくれているのだ。
絶対に治らない血液ガン、あと一年だから今までお世話になった方々に仏像を送った。
世間では退職後の事を第二の人生と言うが、私は第三の人生と言いたい。
第一は終戦までの若い情熱を燃やした時代、
第二は退職までの月給とりで家族のために働いた期間、
第三は仏像彫刻を習い、夢中で仏像を彫った三十年間。
無口で、話下手で人前でしゃべるのは大嫌い、変わりに黙々と日曜大工をしたり仏像を彫っているのは大好きだ
或るお医者さんが、
「あなたの退職後の生活は最高だね。年取ってから仏像を彫ってるなんて素晴らしい人生だ」と、言ってくれた。
71年前のあの暑い日、
米軍に武器を渡すため、火薬の入った箱が小学校の運動場に山のように積まれた。
古兵が箱の上に座って煙草を吸ってたなぁ…
海岸防備なので、目の前は海だ、だがいつも波が高いので泳いではいけないと命令が出ていたらしい。
だが泳ぎに行って死んだ兵が二人いたらしい。
折角戦争が終わったのになぁ…
人の運命って不思議だ。
あの海岸は沖に向かって流れる潮がある。それに乗ると危ない。海を知らない人は帰れない
急に陣地替えになって、夜行軍になったことがある。
重機関銃中隊なので、馬に重機を積んでいる。
眠くてウツラウツラしながら歩いている。突然伍長殿が馬の尻に追突した。
当然、馬は怒って後ろ足を跳ね上げた
銃後の民間人は男も女も竹槍で米軍と戦うべく、訓練を受けていた
藁人形を竹槍で突いていた。
敵の戦車が上陸してくる。
その後から自動小銃を持った敵兵がついて来る。
満蒙開拓団が編成されたとき、私の友人は12歳だった。
彼らは黒竜江を渡って来た敵車軍に蹴散らされた。
竹槍で突っ込んで行ったのかなぁ…まさか??
76年前に百貨店の前で別れたアイツの顔を薄れてきた
赤紙の召集令状が来て、入隊。
部隊が編成され、海岸防備に向かったが、歩兵の連中は確か手ぶらだったぞ。
銃は貰ったんだろうかな…まさか??…??
爆弾の箱を抱えて洗車に飛び込む訓練もあったぞ…
写真は奈良の興福寺の竜灯鬼、邪気と呼ばれるものだ。
人の意見に逆らう天邪鬼だな。
だから四天王に踏みつけられる。
これはノーベル平和賞のマララユスフザイさんを彫ってみた。
戦争のない平和が欲しいな。
おじぃただ今闘病中いつか温泉行きたいね曾孫2人連れて行くね
これからもボチボチやってきます!
宜しくお願い致します!!
よく病気したなぁ…
ガンの手術だけでも3回だ。
これだけたくさん仏像を彫っているのに病気ばっかりしている。
仏様のご利益なんてあるんだろうか?…と入院した時はそう思って仏様を恨む。
だが日が経って、快方に向かって日に日に良くなってくると、仏像のお蔭で助かったのだと感謝する。
自分勝手も極まれりだな
平成22年の手術の時など、
「あと一年」
と、家庭医学の本に書いてあったわな
入院の度に白衣観音を持って行った。
ベッドの横の棚に置いて眺めていると、気が落ち着く。
そして、快方に向かっていることを感謝する
この観音様はいつも自分を見てくれているのだ。
絶対に治らない血液ガン、あと一年だから今までお世話になった方々に仏像を送った。
世間では退職後の事を第二の人生と言うが、私は第三の人生と言いたい。
第一は終戦までの若い情熱を燃やした時代、
第二は退職までの月給とりで家族のために働いた期間、
第三は仏像彫刻を習い、夢中で仏像を彫った三十年間。
無口で、話下手で人前でしゃべるのは大嫌い、変わりに黙々と日曜大工をしたり仏像を彫っているのは大好きだ
或るお医者さんが、
「あなたの退職後の生活は最高だね。年取ってから仏像を彫ってるなんて素晴らしい人生だ」と、言ってくれた。
71年前のあの暑い日、
米軍に武器を渡すため、火薬の入った箱が小学校の運動場に山のように積まれた。
古兵が箱の上に座って煙草を吸ってたなぁ…
海岸防備なので、目の前は海だ、だがいつも波が高いので泳いではいけないと命令が出ていたらしい。
だが泳ぎに行って死んだ兵が二人いたらしい。
折角戦争が終わったのになぁ…
人の運命って不思議だ。
あの海岸は沖に向かって流れる潮がある。それに乗ると危ない。海を知らない人は帰れない
急に陣地替えになって、夜行軍になったことがある。
重機関銃中隊なので、馬に重機を積んでいる。
眠くてウツラウツラしながら歩いている。突然伍長殿が馬の尻に追突した。
当然、馬は怒って後ろ足を跳ね上げた
銃後の民間人は男も女も竹槍で米軍と戦うべく、訓練を受けていた
藁人形を竹槍で突いていた。
敵の戦車が上陸してくる。
その後から自動小銃を持った敵兵がついて来る。
満蒙開拓団が編成されたとき、私の友人は12歳だった。
彼らは黒竜江を渡って来た敵車軍に蹴散らされた。
竹槍で突っ込んで行ったのかなぁ…まさか??
76年前に百貨店の前で別れたアイツの顔を薄れてきた
赤紙の召集令状が来て、入隊。
部隊が編成され、海岸防備に向かったが、歩兵の連中は確か手ぶらだったぞ。
銃は貰ったんだろうかな…まさか??…??
爆弾の箱を抱えて洗車に飛び込む訓練もあったぞ…
写真は奈良の興福寺の竜灯鬼、邪気と呼ばれるものだ。
人の意見に逆らう天邪鬼だな。
だから四天王に踏みつけられる。
これはノーベル平和賞のマララユスフザイさんを彫ってみた。
戦争のない平和が欲しいな。
おじぃただ今闘病中いつか温泉行きたいね曾孫2人連れて行くね
2016年01月05日
第四回 命の記
『第四回 命の記』
大日如来と言えば運慶だな。
似たように彫れるけど、やっぱり難しいな
大日如来は宇宙にみなぎる命の象徴だそうだが、
人はここから生まれ、
死ねばここへ帰る…
死ぬことを怖いとは思わないけれど、死ぬのは嫌だと思う。
兵隊に行く前、大砲を作る工場で働いていたことがある。
終戦後復員してきた時、電車が工場の横を通った。工場は赤茶けて折れ曲がった鉄骨だけになっていた。
後で聞いた話だが、
あの頃、空襲は焼夷弾が使われていたのに、ここだけは爆弾だった。
あそこには出来上がった歩兵砲を送り出す荷造りを、つまり大砲を藁で包んでいる女子中学生が大勢いたはずだ。
あの子たちはどうしてるかなぁ…
無事だったかな…
それとも、
大日如来のもとへ帰ったのかな。
仏様は人間が不幸な戦争をせぬように救っては下さらんのかな。
今、世界中で戦争をしているじゃないか。
過去は御釈迦さんが世界をリードし、
現在は阿弥陀さんがリードし、
未来は弥勒菩薩がリードするそうだ
弥勒菩薩はただ今修行真っ最中で56億7千万年後に現れて人間を救ってくださるそうだが・・・・・・・・・
そんなに待ってられんぞ
地球は今不幸なんだ
弥勒菩薩は京都の広隆寺にある。
見学の大学生に指を折られたと話題になったのはこの仏さんではなかったかな
友情や慈しみの心を分け与えてくれる仏さんだ
或るお寺の100何代目かの大僧正から色紙をいただいた。
「かけた情けは水に流し、受けた御恩は石に刻め」
と書いてある。
私はこれを実践すべく努力している。
(内緒のハナシだけど、このごろ、鏡を見た時に目つきが優しくなった、と感じることがある。うぬぼれだが、ホントだぞ?)
年をとったからか、親しい人が時々亡くなる。
あの人とは散歩のときいつもここで立ち話をしたのになと、タイムスリップ出来ないことを残念におもったりする。
だがな、新しい命も次々生まれている話も聞こえてくるぞ
孫は可愛い、
曾孫は超超可愛い。
長生きしたお蔭だ
仏像を彫るときは、彫る人の心が大切だ。
慈しみの心を持つことが大切だ。
第三回 用材の記
新年明けましておめでとうございます
長らく更新ストップしておりましてすみません
新たな年のスタートと共に、仏像彫刻&仏像ブログ作成を心機一転頑張ります
『第三回 用材の記』
観音様には檜が似合うな
楠は肌理が粗いからダメ、仁王さんにはよく似合う。
仏像彫刻を始めたばかりの人は建築用の檜をお使いになる人があるが、
これは固くて木目も粗い
やはり、木曾の檜がいい
が、町では値が高くて年金生活者にはダメ
だから恵那峡沿いの木曾まで買いに行く。
このあたりの製材所へ行くと、良い柱を執った後の端切れをわりに安く買える
下の写真では、幅13センチです。↓↓↓
年輪を数えてみると150本ありました。
つまり、150年経っているということです
木曾へ行くと、何百年も経つ樹が繁っている
道がないので、ヘリコプターで運んでいる。
目を上げると雪を被った御嶽山がのしかかる様に迫ってくる…
だから木曾檜は高価なのだ。
材木屋のオッチャンが七笑いのお酒をお土産にくれる
御嶽山の噴火であの辺りはひどいことになってしまっているのかもしれない…
白衣観音には色を付けた。
金箔を細かく切って張った。
金箔は軽いから、エアコンや扇風機はダメだよ飛んで行ってしまう
この白衣観音は有名な仏師の作品をお手本に彫ったものです。
台座は私の創作です。
以後私の命の危機に20年以上も共に、そばにいてくださいました。
後でお話ししますね
仏像を彫るとき、1〜2尺の小型のものなら膝の上に載せて彫りますが、
ちょっと孫を抱いているような気持ちです
音楽も聞きながら彫刻しています。
懐メロの演歌、アイチョウジの戦友、チゴイネルワイゼン、サーベルダンス、田園、等々その日の気分で
しかし、彫刻を始めると音楽は消えてなくなります。
2015年10月21日
第二回 観音様の記
仏像には御釈迦さんや仁王さんがあるが、
やっぱり観音様が優しくていいな。
いいお顔を彫ろうと思うと、いいモデルが欲しい
電車に乗り、よっこらしょと座った。
ふと見ると向かいの席に綺麗な人が座っている
じ〜っとみる
頭の中でナイフを持った手が動く。頭の中で彫刻をする…
あまり長くすると変なおじいちゃんに思われる
やめとけ、やめとけ
あれは昭和25年頃かな、
田舎の漁師町に綺麗な娘さんがいた。
彼女がこちらにいる間、
私は彼女にモダンバレエを教えていた。
長い付き合いで気楽に話の出来る間柄だった。
夏の暑い空の下、崖と崖に挟まれた、誰もいない小さな砂浜で泳いだりした
遠く離れているので、会う機会は少なかった。
そのうちに、彼女はミスコンテストに優勝して有名になった
もうあれから何年経ったのかなぁ〜。
そうだ、60年以上だ
遠く霞む彼女、
二人だけの白い砂浜が懐かしい…
白衣観音はこうした想いの中で出来上がった作品だ。
そして今も私の生活と共にある一番大切な観音様だ。
作品をカレンダーにしてみようかな…
年賀状にもしてみようかな…
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2015年10月17日
仏足、仏手、観音仏頭の写真
もう少し写りの良い写真を載せておきます。
仏手仏足
観音仏頭
これらは初めの練習の作品です。
今では全身のもっと複雑な仏像を彫っています。
ジーパンを履いた観音様を作成したこともありますよ〜
今後、ぼちぼち紹介していきたいと思います
毎日少しずつ頑張っています!
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便利な世の中です!
美味しい物を探してみようかなぁ
仏手仏足
観音仏頭
これらは初めの練習の作品です。
今では全身のもっと複雑な仏像を彫っています。
ジーパンを履いた観音様を作成したこともありますよ〜
今後、ぼちぼち紹介していきたいと思います
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便利な世の中です!
美味しい物を探してみようかなぁ
2015年10月15日
第一回 仏像彫刻を始めたワケ 〜仏足、仏手、観音仏頭〜
プロローグ
或る老人の昔話である。
その老人が小学校六年を卒業した三月、
同級生の友人が満蒙開拓団に入るため、
大阪阿倍野の近鉄百貨店の前まで送り、少年たちはそこで別れた。
12歳だった。
家族は誰も送って来なかった。
北朝鮮のさらに北の土地から、
彼のハガキが月一回のペースで届いた。
小さな字でびっしりと生活の様子が書いてあった。
そのうちに気付いた。
発信地が少しずつ北になっていったのだ。
そうして内容が、
「元気にしています」程度に少なくなっていった。
昭和十九年頃、
「河の向こうにソ連の兵隊の姿が見える」と書いてあり、
それが最後のハガキとなった。
全滅したのだ。
満蒙開拓団のその後について戦後、書物で知り、老人は静かに涙した。
老人の兄もソロモン群島で内地からの補給もなくセミを食べたり、
ズボンのバンドを炊いてしがんだりして、体力がなくなり餓死をした。
昭和十九年に遺骨の箱が帰ってきたが、
中は石ころだけだった。
***
老人は60歳で定年退職し、
その翌日、
有名な仏師の教室に入門しました。
初めは仏手仏足を彫り、夏には観音仏頭を彫りました。
老人が教室に入門した時、もう一人入門者がありました。
彼は海軍兵学校から帰ってきた人でした。
老人は陸軍隊でした。
二人はライバルとして、これから二十年もの話が続きます
初期に掘った作品
仏手仏頭
観音仏頭
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