2016年02月04日

「小樽のサムライ部落」



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忌避されたが存在感を発揮

 私のブログでは、北海道史の闇をテーマとする「知られざる北海道の歴史」というカテゴリーの中で、札幌の豊平川河川敷や函館の大森浜、旭川の忠別川河川敷などに存在した、サムライ部落を取り上げてきた。
 そのいずれも、明治の開拓期から昭和40年代にかけて存在したという共通点を持つ。この「北海道のサムライ部落」の最後の記事として、今回は小樽の松ヶ枝町から入船公園付近にあったサムライ部落を取り上げた。
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 そのサムライ部落の資料を、小樽史から得るためにネットや図書館で探したが、札幌や函館のような詳細な資料は残されていなかった。旭川を含めた三市では、極めて流動性の高い住民が違法占拠する集落として、市政の運営上排除の対象だった。しかし、小樽のサムライ部落は、名称こそサムライ部落だが「貧しいものが集まった市営住宅」として、市民からの忌避感はあったものの、ひとつの居住区として認められていた。

 このサムライ部落を舞台とした、小樽出身の児童文学者・山中恒氏の「サムライの子」が1963年に映画化された。内容は貧乏にめげぬ子どもたちを描くもので、今村昌平氏脚本、若杉光夫監督で撮影され、小沢昭一、南田洋子、浜田光夫などが出演した。後には つのだじろうさんも漫画化した。

 当時、このサムライ部落の近所には、歌手のあがた森魚さんや石原慎太郎氏、裕次郎氏の住む石原家があった。往時を知る人が書き込んだブログによれば、「普段はだれも近づかないその場所に、あがたさんが用事でそこを通り抜けた。見るとそこには、戦争から帰って来て家を無くして帰る所のない人達が、掘建小屋のような粗末な建物に住んでいた」
 「人々はかなり貧しかったようだ。しかし、家があるのでホームレスではなく、浮浪者に見えてもゴミを拾ってちゃんと仕事をしていた」という。そして「そのゴミを拾う姿がサムライみたいなので、サムライ部落と言われた」そうだ。石原裕次郎氏は、この近所のサムライ部落にちょくちょく出入りして、遊んでいたともあるという。
 
 小樽が生んだ小林多喜二や伊藤整の若かりし頃の昭和初期には、すでにこのサムライ部落はあった。当時の小樽には、小樽港の拡張工事や建設などで、全国から多くのタコが集められた。「飲む・打つ・買う」で借金漬けにされたタコは、そのほとんどが一生抜け出せない状況だったという。このタコを収容したタコ部屋の、通称監獄部屋は市内に数多く存在した。
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 明治の初めから1900年ごろまで、北海道の国道建設などに囚人が労働力として駆り出された。その後囚人労働が禁止され、代わってタコが使われるようになった。タコには日本人のほか、日韓併合で職を求めて日本に来た朝鮮人などもいた。そして、劣悪な労働環境から逃げたタコが、民家に逃げ込むこともざらだったらしい。

 こうした歴史を持つ小樽だからこそ、極貧ながらも住まいと職を持つサムライ部落民が、市民から忌避されながら存在し続けたものと思われる。現に、入船公園の建設はタコではなくサムライ部落民が作ったという。
 その後のサムライ部落民の情報は上がってこないが、住民は昭和40〜50年にかけて新設された市営住宅などに移り住んだものと思われる。

写真:現在の入船公園の景観。サムライ部落民が作り上げたという、同A:入船や松ヶ枝には当時を偲ばせる家屋が残されている、

 
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2015年11月24日

旭川のサムライ部落



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札幌、函館よりはましだった

 私のブログで、これまで「北海道の知られざる歴史」をカテゴリーとする、札幌と函館のサムライ部落の話も取り上げてきた。このほか、旭川と小樽にも名称を同じくする細民街の歴史が残されている。
 
「部落」とは言っても、本州のような落ち武者や朝鮮人居住地区、町屋の生活が認められなかった非人が住民の被差別部落とは異なり、歴史も極めて浅い。ほとんどが、本州から北海道に成功を求めて移住した者の中で、夢破れ行場の無くなった人々が集まって自然発生したのが「サムライ部落」だといわれる。

 本州の部落のような住民の定住性はなく、きわめて流動性の激しい集落だったらしい。戦後は、引揚者や戦災者なども加わり、札幌ではピーク時に川の両岸に住民が住み着いた。また、サムライとは武士ではなくおはらい屋(雑品屋)、いまで言う廃品回収業者のこと。

 歴史的に見ると、札幌の豊平川河川敷にあったサムライ部落は、昭和の初めから冬季札幌オリンピック前後の昭和40年代、函館の日ノ出町にあったサムライ部落「五十軒長屋」は、昭和6年頃から31年ごろまで大森の海岸道路沿いにあった。

 札幌のサムライ部落は当初、東橋に近い苗穂地区で明治中期から細民街を形成され、ここから溢れた人々が、東橋近辺の川原に粗末な木造の住居を築いて定住を始めたのが始まりだという。
それに対して函館の「五十軒長屋」は、大正時代末期から新川河口から日乃出町にかけての砂地に穴を掘って、半穴居生活をしていた。「サムライ部落民」「砂山部落民」とも言われ、部落民のほとんどがムシロの玄関で、雑木で戸を造っていたら良いほうだったらしい。札幌と比べてもさらにひどい生活ぶりだったようだ。

 この札幌と函館のサムライ部落は、行き場のない人々が集まった細民街で町屋の人々からも差物を受けたが、旭川のサムライ部落はコミュニティがある程度保たれていたようで、生活ぶりも札幌よりは増しだったようだ。
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旭川のサムライ部落は、旭川市街と神楽町を結ぶ忠別橋上流の河川敷に、大正末期あたりから集落が作られ、戦後は満州からの引揚者も住みついた。
 記録によれば、昭和20年代には最高で53世帯、約200人が暮らしていたという。河川改修や美観上の問題から、昭和39年5月に旭川市の斡旋で17戸が他の地区へ移転、残りは新築等自力で転居していった。歌手の藤圭子さんの一家も一時、ここに住んでいたとの話も残っている。
札幌と函館、小樽の3都市には、当時の遺物や記録をまとめたサムライ部落の名残が残されている。しかし旭川には、往時をしのばせるような部落の遺物や資料はなく、わずかに当時を知る年配者の記憶以外に当時の様子を伝えるものは残っていない。

 写真は、昭和初期から30年代にかけてサムライ部落のあった旭川・忠別川河川敷公園

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2015年03月03日

「函館のサムライ部落」

 北海道で過去にサムライ部落が存在したといわれた地域は、札幌と小樽、旭川、函館の4箇所のほか、室蘭や釧路などにもそれらしき地域があったようだ。部落と言っても実態は、開拓期に北海道での成功を夢見て、それが敵わずに最貧民に転落したものが作った細貧街。本州の被差別部落とは異なる。
 今回は、札幌に続いて函館の細貧街を取り上げた。

 函館のサムライ部落は、日乃出町にあった「五十軒長屋」のことを言うようだ。 当時の日乃出町は、昭和6年から13年までは砂山町と呼ばれた。隣接する高盛町が、砂山の最も高い所を高大盛と呼んだところに由来しているという。
 そして、新川河口から日乃出町にかけてのこの砂地に穴を掘って、半穴居生活をしていた人びとの一群のことを「サムライ部落民」「砂山部落民」といった。サムライ部落のほとんどの家がムシロの玄関で、雑木で戸を造っていたら良いほうだったらしい。また、住民のほとんどは風貌がボサボサの髪で、綿入半てんを着た男や女たちだったという。
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 札幌のサムライ部落と同様、明治時代の開拓期に北海道での成功を夢見て移民、それが敵わず本州にも帰れずに、この地に住み始めたのが始まりとされる。ただ、函館は本州からの出入り口にあたり、札幌などで失敗した者が最後にここに溜まった、吹き溜まりの地という特徴を持つ。

 昭和11年に北海道が調べた「道内の不良住宅地区」、いわゆる無許可で住居を建てた貧民街の割合は、道内でも函館地区が圧倒的に多く、全道の562戸に対して函館は198戸に及んだ。また、そこに住む住民数は全道の556世帯に対して201世帯と圧倒していた。これも「北海道の吹き溜まり」という意味合いからと考えられる。


 大正元年の新聞には「 函館ほど乞食の多いところはない。高大森(現在の高盛町のうち)の乞食部落には170戸、300人位もいる」とある。高大森は乞食部落のようにいわれたり、「前科者や監獄上がりの巣」のように見られるような、典型的な都市貧民街。函館市の都市化に伴うゴミや糞尿の処理は、当時市街地のはずれにあたるこの地域に求められた。

 函館では、家庭のゴミが明治期なかばには防波堤がわりに大森浜に投棄されていて、大森浜海岸は次第にゴミ捨て場と化していった。その後、昭和2年に砂山の東部に汚物焼却炉が設けられたが、市内の家庭から出る糞尿の大半は、明治期以来、近郊農家の肥取り馬車が回収をしていた。
 しかし、第2次世界大戦が始まると、糞尿回収にまわる力がなくなり、ようやく昭和18年に、砂山に素堀の糞尿貯留池が設けられた。また、戦争の末期には砂山から砂鉄が採れるというので、大量の砂が運びさられた。

戦後は、砂山の砂鉄堀りにはさらに拍車がかかり、砂鉄採取以外にも港湾の埋め立て、ダムやビルの建設、道路舗装などいろいろなことに活用された。そして、砂山を貫く国道278号(通称海岸道路)の工事が完成したのは31年12月。

 工事に伴い「サムライ部落」も立ち退きを迫られ、住民は改良住宅への入居や、市内外への流出などでその姿を消した。しかし、その名残は海岸道路沿いに今でも見ることができる。
函館サムライ部落3.jpg



 写真上左:サムライ部落の名残が感じられる海岸道路横に作られた大森公園、同上右:石川啄木公園そばの日の出広路にも名残が、同下:昭和34年当時のサムライ部落と砂山









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2014年10月29日

「サムライ部落」再び

 6月29日に更新したブログ、「サムライ部落が豊平川河川敷に」http://fanblogs.jp/bukki/archive/100/0?1414493730で、札幌の貧民街の話を載せたが、ブログ内でサムライ部落の検索が多いことに驚いた。今回は札幌の歴史探訪として、このサムライ部落の発生から終焉までを取り上げた。
  「サムライ部落」とは、昭和40年代半ばまで存在していた、豊平川の河川敷を住居とする者の集まった貧民街。札幌市民の中でも、70歳以上の年配者はその存在をしっかりと記憶しているはず。しかし、出身地が札幌以外の私のような年代でも初めて聞くような話なので、札幌に住んでいる若年層や地方出身者はその事実を驚くかもしれない。同じサムライ部落の名称が旭川や函館、小樽にも残っているのは、札幌の影響からか。

写真1
写真3










 「サムライ部落」は、当時の新聞記事によれば昭和4年9月に東橋近くで誕生、当初は30名ほどの住民だったという。東橋に近い苗穂地区も、明治中期から細民街を形成していて、ここから溢れた人々が東橋近辺の川原に定住を始めたという考えもあるようだ。
 もうひとつの説として、「すすきの」にあった遊郭が菊水に移されたことで、遊郭の残飯を目的とした浮浪者たちが豊平川を越えたという話も残されている。こうした遊郭に依存する貧民が菊水あたりから川原に移ったと考える人もいる。

 ただ「部落」とは言っても、本州のような落ち武者や朝鮮人居住地区、町屋の生活が認められなかった非人が住民の被差別部落とは異なり、歴史も極めて浅い。本州から北海道に成功を求めて移住した人の中で、夢破れて貧民となった行場のない人々が集まって自然発生したのが「サムライ部落」だといわれる。
  戦後は、引揚者や戦災者なども加わり、ピーク時には川の両岸に集落が発生した。サムライとは武士ではなくおはらい屋(雑品屋)、いまで言う廃品回収業者のことだが、部落でまだおはらい屋をしているのは良い方で無職者が多かったらしい。また、街中の住民から見れば危険地帯でもあったようだ。
 
 今年で73歳になる私の仕事の大先輩が、当時の様子を教えてくれた。その頃、南2条の狸小路付近で下宿生活をしていたが、サムライ部落の住民が豊平橋を渡って街中の人間と喧嘩をしたり、逆に街中の人間がサムライ部落に押しかけるなど、サムライ部落の住民と街中の住民は一触即発状態にあったという。
 札幌市が本格的にサムライ部落の解消に乗り出したのは、冬季オリンピックの開催が決まってからで、昭和44年を最後に部落は取り壊されて姿を消した。部落住民は、市内各地に建設された厚生住宅や改良住宅に転居、あるいは保護施設などに収容された。

写真上左:9条橋から見る、豊平橋のサムライ部落住居が集まっていたルネッサンスホテル近辺。同上右:菊水の遊郭に近い河川敷にも貧民街があった。現在は公園となっている。同下:東橋からサムライ部落のあった河川敷を望む

写真4










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2014年06月29日

「サムライ部落」が豊平川河川敷に

  今回は3月21日のブログhttp://fanblogs.jp/bukki/daily/201403/21 で取り上げた札幌・中の島地区のマンションの異常現象と、その歴史的背景を分析。その資料を辿っていくうちに、札幌史の闇の部分にたどり着いてしまった。

 話の取掛かりは、8年前に引越しを検討していた時のこと。その候補のひとつが豊平川右岸通りに面した中の島1条○丁目のマンションだった。購入価格は手ごろだったが、駐車場に空きがなく見送った経緯がある。あとで考えると、中の島という土地柄の忌避感がそう決断させたのかもしれない。このマンションも含めて、豊平川の右岸通り、左岸通り沿いに建てられているマンションでは様々な事件、事故が起きたようだ。
  市街地に近い幌平橋近辺の中の島、中島公園では昭和47年の地下鉄の開通後にマンションの新築ラッシュを迎えた。それから40年が経過したが、これだけ年月を重ねればどのようなマンションでもひとつやふたつ、事故や事件が発生していてもおかしくはない。
 
  あるマンションでは2階と9階で殺人事件が発生、5階と7階で火事による焼死、また10階では事故死と続いたことから、駐車場入口に建てられた幌平橋架設記念碑の横に鎮魂のためのお地蔵さんが建立された。(現在お地蔵さんは撤去されている)また、その近くのマンションでは一家心中、そこから600メートルほど真駒内方面に向かうマンションでは飛び降り自殺などが起きた。
 中の島でのこうした事件の背景を現実的な観点で見ると、「すすき野から地下鉄で一本と近距離」「タクシーでは10分とかからないために、すすき野での風俗店で働いている女性が多く住んでいる」また「暴力団関係者が多く住んでいる」さらに「ラブホテルが多く営業している」など、風紀的な問題もあげられる。

 この地域で起きた事件・事故の背景を探るために、豊平川の右岸通りの歴史を紐解いていくと、札幌の「細民街」の存在が浮かび上がった。札幌で細民街が形成されたのは、明治10年代から20年代にかけての豊平川と創成川とに囲まれた南東地区。明治末期頃には、細民街は豊平川を越えて豊平地区に広がる。豊平川に近い豊平地区が「貧民窟」と呼ばれるようになるのはこの頃。やがて昭和初期にかけて、豊平貧民窟は札幌を象徴する細民街となっていった。
 さらに、南東地区にも豊平地区にも暮らすことができなくなった人々が豊平川河畔に定住するようになった。川原に生まれた新しい集落は「サムライ部落」と呼ばれた。このサムライ部落が戦後まで札幌の下層社会の象徴となり、札幌オリンピック開催間近な昭和40年代に姿を消すまで、札幌の社会的矛盾を具現化する存在となった。河原居住者は、市内各地に建設された厚生住宅や改良住宅に移転、あるいは保護施設などに収容された。

  この豊平川通りの一角だった中の島地区は果樹農家が多かったが、「サムライ部落」や菊水の遊郭の影響を受けたようだ。ラブホテルが多いのは、その当時の名残だろう。札幌オリンピック開催に伴う地下鉄開通により、街は急速に発展して一般住宅やマンションの立ち並ぶ現在の姿となった。中の島1条では、昭和5年に建てられた料亭の精進庵が同53年に廃業、跡地はマンションとなった。
 こうした事実がこれまでに起きた事件や事故とどう結びつくのか判断は付かないが、そこに生きた人間の怨念や怒り、苦しさ、悲しさなどが色濃く残っていても不思議ではない。

   札幌の貧民窟「サムライ部落」が近接していた豊平区中の島の現在の様子
中の島のマンション街

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2014年04月15日

オホーツクに独自の文化圏

縄文時代の土器や土偶を見る機会が多く、年に1度は東京国立博物館の古代日本資料を展示する本館に行く。2月24日のブログ「上野公園での心霊体験」に載せた話は、博物館で亀ヶ岡遮光土偶を見に行くついでに体験したもの。北海道でもアイヌ以前に先住の原日本人がいて、縄文時代の土器や土偶が各所で見つかっている。特筆すべきは、オホーツク文化といわれる、カムチャッカ半島やシベリヤから、枝幸や網走、紋別などに定住した異民族がかつて存在していたこと。その名残が土器や原日本人との混血で生まれた、青みがかった瞳の子孫に残されている。
   
北海道にも縄文時代は狩猟を生活の糧とした原日本人が住んでいた。アイヌの直接的な祖先と見られるが、原日本人とアイヌを結ぶ歴史は曖昧だ。本州の縄文人との交易を通して、北海道も文化の発展が見られたようだ。道南で見つかった縄文土偶は東北で見つかった文様とよく似ており、さらに本州の遺跡跡で目にするストーンサークル(環状列石)は道南ばかりではなく小樽や余市、ニセコでも存在が知られている。

ただ、北海道には近畿や九州でごく普通に見られる前方後円墳が無い。縄文時代から稲作が伝来した弥生時代を経て、仏教の渡来以降中国の王族の墓を模倣した日本の古墳は形を変えてきた。そして遂には、中国にもない独特の前方後円墳を築き上げた。近年、朝鮮半島で見つかった前方後円墳は、時代的に日本の前方後円墳の後に作られたことが立証されていているが、仁徳天皇陵などの圧倒的なスケールを誇る日本の古墳と比べて規模は小さい。
この古墳にも見られるように、渡来文化のオリジナリティを生かしながら、弥生時代以降も独自の文化を築いてきたわけだが、その背景には縄文時代から連綿と受け継がれてきた、日本人の物づくりに対する姿勢がある。世界の古代史の中でも、土器や土偶ひとつを取ってみても、縄文人は豊かな文化を有する民族として評価されている。

前方後円墳は東北北部まで伝播したが、海を隔てた北海道には到達しなかった。東京で驚いたことがある。世田谷区の一角にある何の特徴も無い公園の砂場の横に、3メートルほどの小高い丘があった。その横には「0000氏の古墳跡」の案内看板。ありふれた生活の場にも遺跡が存在している。さらに大阪や京都では、生活を共にするエリアとして当たり前に存在している。実質150年ほどの歴史しかない北海道の人間から見れば羨ましいかぎりだ。
写真は東京国立博物館に展示してある亀ヶ岡遮光土偶
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2014年04月14日

「サンカ」と神代文字

 4月2日のブログhttp://fanblogs.jp/bukki/daily/201404/02/
で古史古伝の話を書いた。その中で、漢字が到来する以前にあったとされる神代文字について触れた。今回テーマとした「サンカ」もその神代文字が深く関わってくる。サンカを取り上げた理由は、定住地を持たない職能民として、全国を渡り歩いたことの歴史的な背景と、現在の生活状況に興味があったから。西欧ではジプシーの存在がそれにあたり、独自の生活規範や部外者との排他的な交流などが余りにも似ている。

 サンカの存在を初めて世の中に知らしめた民俗学者・柳田國男は、サンカを「原日本人(あるいは縄文人)でヤマト王権により山間部に追いやられた異民族」とする説を打ち出した。また、「動乱の続いた室町時代(南北朝、戦国時代)の遊芸民、職能集団を源」とする説、「江戸時代末期の飢饉から明治維新の混乱までの間に山間部に避難した人びと」という説もあり、これまではっきりと説明できたものは見当たらない。いずれにしても、時代の国家権力に馴染まなかった、山の生活を基盤とした「まつろわぬ」人々で、原始的共同体を維持しているという特徴を持つ。生活規範は異なるが、体制から自ら離れた落ち武者部落民や被差別部落民との関わりも当然あるだろう。

 このサンカが漢字やカタカナ、ひらがなではなく独自の文字を持っていたといわれている。サンカの使っていたとされる文字は、神代文字の「豊国文字」とそっくりで、同じ時代に形作られたもとだとすれば、豊国文字で記された「上記(ウエツフミ)」との関わりも否定できない。『上記(ウエツフミ)』は1837年(天保8年)に豊後国(現在の大分県)で発見された豊国文字で記されている古史古伝のひとつ。古事記、日本書紀以前の伝書(ツタヘフミ)で、 神話や伝承の他に民俗、習俗、地理、言語、暦制、天文、教育、医薬、医学など多岐にわたり記されている。
 序文には、1223年(貞応2年)に源頼朝の落胤とも伝えられている豊後国守護の大友能直が『新はりの記』や『高千穂宮司家文』等の古文書をもとに編纂したとある。記載されている主な内容としては「神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代」「中国に農業や文字を伝えたのは日本」「日本では精密な独自の太陽暦があった」などがある。また、サンカに伝わる伝承として、「仲間を1600人も殺され、神代からの書物一切を奪われた」、その後「自分達の文字は一切秘密となり、仲間以外には見せなくなった」とある。

 山の民といわれるサンカも、昭和40年代後半には地域社会に溶け込んだことから姿を見ることがなくなったという。先祖がサンカだったという事実を知らない、あるいは親から教えられない世代がほとんどを占めているようだ。
独自の文字を持つからには、文化や世界観も一般の日本国民とは異なっていたと考えられる。特に歴史については、古事記や日本書紀の正史と相容れない内容を子々孫々に伝えてきたのだろう。サンカの研究者は多いと聞く。その研究者たちが、サンカの視点で日本の歴史を解き明かしていくことを期待している。

サンカが用いた文字と似かよっているといわれる豊国文字。大分県国東郡国東町=インディ電子書籍J-パピルスから引用

豊国文字






2014年04月02日

古史古伝とペトログリフ

釣りを離れて、日本の超古代に関する文献の話を少しまとめてみた。
古代人が洞窟の壁に刻んだペトログリフ(古代岩刻紋様)は、北海道で2箇所見つかっている。小樽の手宮洞窟と蘭島のフゴッペ洞窟。世界的に有名なペトログリフは、アルタミラ洞窟やラスコー洞窟、エジプトのヒエログリフやメソポタミヤの象形文字、南米アスカの地上絵などがある。
手宮洞窟は江戸時代末期に発見されたあとは、誰も関心を示さず昭和に入ってフゴッペ洞窟が発見されるまで、日本でのペトログリフ研究が進まなかった。ところが、同じような記号や文字らしきものが全国で相次ぎ発見されるに及んで、研究熱が高まった。そうした意味では、日本における古代岩刻紋様の研究はまだ100年も経っていないことになる。

このペトログリフとの関連として「神代文字」がある。「神代文字」とは、中国から漢字が入ってくる以前に、日本で使われていたとされる文字のことで、神代文字で記された歴史書を古史古伝という。「中国から漢字が入ってくる以前の日本には文字が無かった」との定説を翻し、書かれている内容が余りにも突飛なことから、江戸時代、明治時代、近年では太平洋戦争時下で偽書として弾圧され、市民権を与えられずに現在に至っている。

日本の正史・日本書紀は、天武天皇の時代に出雲風土記をはじめとした日本各地域の風土記等を、舎人親王らによってまとめられた。この日本書記とは内容を異にした古史古伝は「先代記旧事本記」「竹内文献」「富士宮下文書」「上記」「九鬼文書」「秀真伝」「東日流外三郡誌」などが知られている。いずれも、偽書として否定されてきたにも関わらず、今でも肯定論者が少なくない。そこに書かれている内容は、宇宙の誕生や原日本人の発生地、高天原の場所、神武天皇以前のウガヤ王朝の存在など。古事記や日本書記の内容と重複する部分はあるが、「それ以前の歴史」は奇想天外な話でまとめている。

聖徳太子が編纂したとされる「先代記旧事本記」は、皇祖皇太神宮の神官が伝えた古文書を5世紀末の平群真鳥が天皇の密命で越中に運んだものとされ、神代の天皇が世界全土を統一したという話。「富士宮下文書」は、秦の始皇帝の部下だった徐福が富士山を発見して定住したとの記録。鎌倉時代の豊後国守護の大友能直が神代の歴史を集めた「上記」(うえつふみ)、旧織部藩主の九鬼家に伝わった「九鬼文書」、天津経を組織した竹内巨麿によって世に紹介された「竹内文献」、青森県御所川原の旧家から見つかった「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)、景行天皇の御世に献上されたという「秀真伝」(ほつまつたえ)など、それぞれ正史とは別の日本の歴史を描いている。
どのような偽書であろうとも、その一片に真実は含まれている。古史古伝も全ての話がフィクションではないだろう。今後研究が進むペトログリフの中にその答えが秘められているかもしれない。
写真は手宮洞窟の「角のある人」とフゴッペ洞窟の「翼のある人物」=博物館ホームページから


手宮洞窟の「角のある人」.jpg
フゴッペ洞窟「翼を持つ人物」.jpg












2014年03月30日

事故多発現場下の慰霊碑

 深川から旭川に向かう途中にある、国道12号線沿いの国見・幌内川橋付近に慰霊碑か墓なのかは確認できないが、道路に面して石碑が建立されている。この国道と平行して走っている、慰霊碑のすぐ上の道央自動車道には、「事故多発」の看板が架けられた、自損事故の多発する場所がある。
 3キロ先には音江パーキングがあり、深川インターから5分、旭川鷹栖インターから10分ほどの距離。北海道では、冬にテレビで「高速道路通行止め」のテロップがよく流される。この場所が原因と思われる「道央道深川―旭川鷹栖間、事故により通行止め」の案内が多い時で1週間に3回ほど見た記憶がある。
 真冬の圧雪アイスバーンに慣れている道民は、めったなことでは雪道で事故を起こさない。しかし、まだ圧雪になる前の冬のはしりや、雪解けが進んだ春先の日陰の道路はブラックアイスバーンになることが多く、運転の判断を誤ることが多い。車から確認できる圧雪アイスバーンよりも、一見乾いているように見えるブラックアイスの方が格段に怖い。特にそれが高速道路の下り坂だったら、4輪駆動車でもブレーキを控えめにしてスピードを落とすなど、慎重な運転が要求される。
 その事故多発現場は、旭川に向かって緩やかな下りの右カーブとなっており、夏などは80キロ制限を守っている限り事故など起こりそうもない。しかし、冬はこれが一変する。下りカーブに入る手前は樹木に遮られて日当たりが悪く、それまで乾いていた路面が突然ブラックアイスに変る。
深川―旭川間の高速道路で事故が頻発に起きている。写真は、季節は異なるがタイヤがロックしてハンドル操作ができなくなった場所
道央道の右カーブの下り坂.jpg
 ブラックアイスとなった下り坂のカーブで、速度を抑えるために思いっきりブレーキを踏んだら、タイヤがロックしてハンドル操作が利かなくなることがある。これは、自らがこの場所で2年前の正月に体験したことだ。幸いに、上り車線との間に備えられていた敷居板に衝突してヘッドライトは破損したが、衝突の衝撃で速度が緩んで逆方向に一回転して止まった。後ろから来る車もなく、事故の誘発を免れ冷や汗をかいた。
  その後、応急処置を施してから、記憶が生々しく残る高速を避けて、国道12号線経由で札幌への帰路に着いた。旭川から深川に向かって走っていると、左上に高速道路が見えてきた。タイヤがロックして、中央分離帯の敷居板に追突した同じ場所と思われる。しばらくして国道に面した左側に、慰霊碑らしきものが立っているのが確認できた。道路から10メートルほど入ったところで、立派な階段も備えられていた。近くには民家はなく、農家の先祖の墓ということは考えにくい。これが墓ではなく、慰霊碑ならば何を弔っているのだろうか。この上の高速道路で多発する事故と何か関係しているのかも知れないと、ふと思った。
旭川から深川に向かう国道12号線沿いに建立されている慰霊碑らしきもの
国道12号線沿いに設置されている慰霊碑.jpg



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2014年03月22日

常紋トンネルそばの墓

 明治から昭和初期にかけて、北海道の開拓には莫大な資金や人員が投じられた。この商機に乗じて暗躍したのが口入れ屋。道路整備や鉱山発掘、トンネルの掘削に政治犯などの囚人や、借金を背負わされて来たものがタコとして監禁され、過酷な労働を強いられた。司法の目が行き届かないことから、最後は無残な死にかたをするものも少なくなかったという。その名残が北海道の各所に慰霊碑として残されている。
遠軽から北見に向かう、JR石北線・金華駅そばの国道沿いに「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられている。このトンネル掘削や、金華峠にかかる道路の工事にも多くの囚人やタコが関わり亡くなった。昭和43年に起きた十勝沖地震で常紋トンネルの壁が剥がれ落ち、その改修工事を昭和45年に行ったところ、大量の人骨が発見された。
常紋トンネル工事殉難者追悼碑の案内看板.jpg
 トンネルの壁に遺体を塗り込めたからだろうが、なぜそんなことをしたのかという疑問が残る。例えば工事を行う業者が、死んだ労働者を墓に埋葬して供養することなく、工事中のトンネルの壁に塗りこんだ。あるいは、遺体を生け贄・人柱として塗り込めた、などが考えられる。まさか、生きたまま人柱として生け贄にされたとは考えたくない。
 こうした過去の悲惨な出来事を知らないで、車で常紋トンネルそばの金華峠を幾度も通った。JRを利用して網走や北見に行ったときも、特急オホーツクでこの場所を何度も見ている。常紋トンネルから大量の人骨が発見された話など、後で知ったこと。それまでは、トンネルを特別に注意して見たことはなかった。

 昨年の7月中旬、仕事のために札幌発午後3時の特急オホーツクに乗って北見に向かった。常紋トンネルを過ぎる頃は時間的に日没直前で、深い樹木に囲まれていたこともあり、線路の進行方向は薄い闇に包まれていた。
 その闇の中に一箇所だけ空から照明が当てられているような、輪郭のはっきりとした大きな墓が車窓左側の丘の上に見えた。線路からの距離は10メートルほどで、墓の傍には模様の入った旗が2〜3本たなびいていた。地方に行けば、自分の地所に先祖の墓を設ける農家が多い。そうしたものと同じだろうと、勝手に判断した。墓のロウソクには火が灯っており、線香の煙も漂っているのが遠目からも確認できた。しかし、墓の周りには人影は見当たらない。旗がたなびくほどの風の中、ロウソクの火は灯ったままだ。それよりも、その墓の一角だけが周りの暗闇に溶け込まないのはなぜだったのか、未だに分からない。

札幌に戻って、地図や航空写真でその場所を確認したが、そんな個人の墓など見つかるはずもない。しかし検索を進めていく中で、常紋トンネルで大量の人骨が発見されたという、当時の記事が見つかった。あの墓自体は、過去の過酷な開拓工事とは係わりのないものかも知れない。ただ、墓への興味が当時常紋トンネルに従事したタコと、トンネルから発見された人骨の存在を明らかにした。あの墓が常紋トンネルの話に導いた、と考えるのは穿がちすぎか。
金華峠沿いの高台に建立された「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」の案内看板(上)と国道から見たJR金華駅(下)

国道から見る金華駅.jpg









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