地域に根づく心霊スポット(ホラー、心霊、ラッキースポット) (2): ホラー好きのフライマン
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2014年12月15日

祈祷で火傷を治した呪術師

 ブログでは、これまで祈祷師(霊媒師)の登場する話を何度か載せてきた。人生の隘路においてどの道をいけばいいのか、あるいは家族の病気を始めとした連続する原因の分からない不幸など、科学的に解決のできない問題を祈祷師の答えに求めたことがあった。こうした祈祷師は昔は「おがみやさん」と呼ばれ、どこの町にも存在した。そして現在でもその生業は脈々と継がれて存在している。

 ただ、昔の「おがみやさん」は、地域によっては医者や僧侶らと変わらぬ信頼を得ていたが、自ら「霊媒師」と名乗る現在の祈祷師は、「金銭目的で占い師、霊能者を自称する輩が殆ど」と、スピリチュアに詳しい俳優の美輪明宏氏がテレビで述べたことがあった。同氏は自らも霊能力を持ち、日本津々浦々の祈祷師と接見して、そう確信したらしい。しかし、ほとんどが霊能者まがいの中で、「木村藤子氏だけは数少ない本物」と認めている。

 今回載せる話は、最近近親者から聞いた50数年前の呪術的療法とその呪術者のこと。この呪術師は「火戻しの術」という祈祷で、火傷の痛みを治すことで知られていた。
 現在の滝川市で「火戻しの術」を修行した呪術師のところには、火傷を負った子どもを連れた親がいつも訪れていた。
火傷の痛さで泣き叫ぶ子どもを前に呪術師は、水を入れた器の上に棒を十字型に重ねて呪文を唱える。呪文を終えたあと、器の水を火傷の部分に浸すと、泣いていた子どもがピタっと泣き止んだという。呪術料は「料金を決めると呪術が効かなくなる」と、志として受け取った。

 こうした呪術師の存在は、北海道や東北、沖縄といった医者の少なかった地域に多かった。呪術師の用いたと見られる呪術的療法が、未だに定着しているところも少なくない。呪術的療法とは、接触あるいは類似物を用いることで傷病を治癒させようとするもので、「プラシーボ」と「ホーソン」のふたつの効果から成り立つ。

 プラシーボとは偽物の薬のことで、人体に害のない澱粉や生理食塩水などを薬として使用。当然薬効はないが、本物だと思いこんで飲むと身体の変化や効果が表れることがあり、これをプラシーボ効果と呼ぶ。また、ホーソン効果は人が潜在的に持つ心理状態が関係。人は自己顕示欲を満たされると、快感や幸福感が得られる。この時に、自分の能力や体調が良い方に向かう現象のことをいう。

 当時の呪術師がこの方法を用いたのかは分からないが、「先祖霊を呼び出す」「昔の霊が取り付いている」など、適当な言葉で金を取るまがい物の霊媒師よりも、科学的な裏づけがある。信じることで効果が得られたのだろう。
ちなみに、その時に唱えた呪文は、昔から火傷に効くとされたおまじないの「猿沢の池の大蛇が焼け死にてその葬りを蛸がするなり」ではないかと思う。これを三度唱えて冷水を火傷の部分にかけるのが手法だったらしい。










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2014年12月04日

浅草寺の心霊写真

 東京の写真専門学校に通っていた頃の話を、このブログに載せたことがある。北海道からポッと出の若者にとって、今も昔も東京が刺激的でエネルギッシュな街なのは代わらない。ことさら、目くるめく被写体はどこにでも転がっていた。当時は、どこに行くにもカメラ持参で、興味を覚えた被写体を撮りまくっていた。週末には、北海道にはない歴史の深さを感じさせる浅草によく出かけた。仲見世や六区、花やしきと浅草寺周辺の写真は数限りない。

 その浅草のある一角で撮った写真に、思いがけないものが写り込んでいたことがあり、昨年秋と今年春に、その場所を訪ねた。当時のその撮影場所は、浅草寺の裏手に建立された慰霊碑だったと思う。秋の黄昏がちかい時間帯で、慰霊碑にあたる陽の光は、陰と陽の強いコントラストを作っていた。もともと、慰霊碑を写すのが目的ではなく、スポットライトを照射したような光の帯と、それが作る濃い影の対比を表現したかったからだ。慰霊碑の後ろには植え込みの垣根があったが、写真を現像するまでそのことに気づかなかった。
写真1

 ネガの現像はアパートの共同台所で、プリントは4畳半の自分の室で行っていた。その日のネガをベタ焼きして、慰霊碑の写真だけは、四つ切の印画紙に焼いた。なぜその写真が気になっていたのかは、自分でも分からない。定着液を洗い流したあと、1時間ほど乾燥させて出来上がった写真には、あちこちに3ミリから5ミリほどの小さな気泡のようなものが写っていた。
 それは、慰霊碑の後ろにある垣根の部分に集中していた。さらに目を凝らしてみると、目の部分が暗く落ち込んだ赤ん坊の顔だった。その時初めて、あの慰霊碑は水子供養のために建立されたものだと気づいた。
 当時のアルバイト先の上司に見せると「確かに赤ん坊の顔がたくさん写っている」と、不思議そうに見ていた。その後、手元に置いていても気持ちが悪いので、写真とネガを燃やした。その写真は、現在までに出回ったほかの心霊写真と比較しても衝撃度は非常に高かった。

 昨年秋に、浅草寺に行く機会があった。そのついでに慰霊碑のあった場所に行ってみると、いくら探しても見当たらない。また、今年春に上京した折には本気で探したが、もしかしたら以前の慰霊碑が取り壊されて、昭和54年9月に建立された鎮護堂の水子地蔵菩薩がそれに替わったのではと思った。

写真上:戦災者供養のために建立された浅草寺境内の平和地蔵尊、同下:昭和54年9月に鎮護堂に建立された水子地蔵。慰霊碑の跡にこの地蔵尊が建立されたのでは、と思っている

写真2












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2014年11月25日

「置いてけ掘」は異空間か


 ブログでは、これまで加門七海氏などの実話ホラーの舞台となった地域の話を取り上げて、実際にその現場に行ったこともあった。今回は、今年6月に発刊された東雅夫氏と加門七海氏の共書「ぼくらは怪談巡礼団」(メディアファクトリー)で掲載された東京・錦糸町の「置いてけ堀跡の不思議な体験」を取り上げさせていただく。話の中身がそれほど単純ではなかったからだ。

 置いてけ掘は、江戸時代にまとめられた本所七不思議のひとつ。本所のお竹蔵から東四つ目通あたりに大きな池があり、その池には沢山の鮒や鯰が棲息していたことから、釣りをする者も少なくなかった。
 夕方、釣りを終えて帰ろうとすると何処からか「置いてけ〜、置いてけ〜」と云う声がする。気の弱い者は釣った魚を魚籃(びく)から出して逃げるが、気の強い者は平気で帰ろうとする。すると、三つ目小僧や一つ目小僧、時には轆轤(ろくろ)首や一本足の唐傘お化ばけが出てきて路を塞ぐので、魚は元より魚籃も釣竿もほうり出して逃げ帰ると云われた。
錦糸公園

猿江公園












 この置いてけ掘の伝承地は数カ所あるが、「ぼくらは怪談巡礼団」で取り上げたのはJR錦糸町駅を挟んだ北側と南側の2カ所の公園。文中では具体的な名称を挙げていないが、駅の北側は錦糸公園、南側は猿江恩賜公園と推定される。
この公園を訪れた時に、全員が同じポイントで空気が重く感じた。特に駅南口にある公園では、ある一定の場所に立っているだけで体が疲れるほど重く感じたり、足取りが重くなったという体験をしたという。
 
 伝承の発生した当時からこうしたことが頻繁に起こり、「これが語り継がれて、置いてけ掘の怪談が成立したのでは」と、文中で加門氏はのべている。その根拠として、「猿江恩賜公園は不自然な形をしており、地価が高いにもかかわらず、さしたる遊具も緑もない空き地同然のまま放置され続けている」「土地自体、付近の住民に忌避されてきた様子がうかがえる」という。

 加門氏の実話ホラー小説の舞台となった、上野公園の古墳上の街路灯や東京国立博物館、練馬区の三角マンション、両国の東京慰霊堂のある横綱公園には実際に足を運んだが、今回置いてけ掘跡はまだその機会がない。もし東京に住まわれている方や、東京に行く予定のある方がいたら、一度その場所に行って体験した話をお聞かせ願えればありがたい。

写真上左:置いてけ掘を埋めて作られたと思われる錦糸町駅北口にある錦糸公園、同上右:「土地自体、付近の住民に忌避されてきた様子がうかがえる」と、文中で加門七海氏が述べている、駅南口の置いてけ掘跡地に作られたと思われる猿江恩賜公園
 
 









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2014年10月22日

事故多発は囚人の祟りか

 旭川と深川間の、道央自動車道の不可思議な事故発生の謎を取り上げた、3月30日付けのブログ「事故多発現場下の慰霊碑」
https://fanblogs.jp/bukki/archive/43/0?1413902134で、国道12号線沿いに設けられた音江町の石碑は、その後交通安全を祈願して建立した不動明王と分かった。

 この国道12号線と並行して走る、道央自動車道の深川と音江パーキング間は、交通事故の多発場所として知られる。
 旭川方向に向かう下り車線は、下り坂の右カーブで春や晩秋は道路に陽が当たらないために、路面が凍結することが多い。札幌に向かう上り車線は、左カーブの上り坂のためにスピードを出し過ぎ、凍結した路面でスリップするからだろう、下り車線と同様に自損事故が多発している。
 特に近年はこの場所での事故が相次いでおり、今年に入ってからも分かっているだけで5〜6回は自損事故が起きて、その都度通行止めとなった。
音江1
音江2













 しかし、道央自動車道の下の国道12号線は見通しの良い直線道路で、事故の原因は運転手の油断以外に見当たらない。運送業界の団体であるトラック協会が、音江町国見付近で事故が多発していることから、運転手に注意を喚起しているほどだ。

 この区間の国道では、平成18年から22年にかけて3件の死亡事故が発生している。20年12月に、国見で女性の運転する乗用車が対向車線にはみ出して対向車と正面衝突、同乗者が死亡。21年7月には、内園で対向車線にはみ出した乗用車が対向車と衝突、運転者が死亡。さらに22年2月に内園で、普通貨物車が追い越し中に大型貨物車と正面衝突、運転者が亡くなった。
 
 こうした死亡事故が、不動明王建立のもととなったのかは定かでないが、事故多発のもうひとつの原因と思われるものが、道路建設の歴史にしっかりと残されている。
 国道12号線は、明治19年に岩見沢から旭川(音江)間の上川仮道路として完成した。仮道路工事には多くの囚人が投入され、過酷な環境の下で多数の犠牲者を出して、90キロメートルの区間を僅か95日間で開通させた。

 ただ、あくまでも幅六尺の牛馬を通すだけの仮道でしかなく、本格的な道路とするために、明治20年から三笠〜滝川〜旭川間の改修工事を開始した。
  この道路建設を進める改修工事にも、囚人が大量投入された。樺戸・札幌・空知の各監獄署から動員された囚人は延べ17万7660人といわれ、これら囚人労働力が改修工事の主要労働力となった。旭川から北見、網走に抜ける別名”囚人道路”といわれた工事と同じく、犠牲になった囚人は数知れない。昭和44年にようやく、工事犠牲者の霊を慰める「上川道路開さく記念碑」が砂川の空知太神社の敷地に建立された。

 上川道路(国道12号線)は囚人道路とは言われないが、実態は家畜以下の扱いしかされなかった、旭川−網走間の333号線中央道路の囚人と何ら変わらなかったようだ。上川道路工事の終点となった音江町のこの場所に、犠牲となった囚人の怨霊が祟っていても不思議はない。
 この道央自動車道・深川―旭川間と、音江町近辺の国道12号線を走行することがあったら、慎重な運転を心がけることをお勧めする。

写真上左:音江町の国道12号線沿いに建立されている交通安全不動明王。同上右:不動明王の拡大写真。同下:国道と並行して走る道央自動車道の深川と音江パーキングの中間地点。自損事故が多発している

音江3











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2014年09月16日

道に迷った先には・・・・・

 
  カーナビが定着していなかった昔は、地図を頼りに方向を確認しても、簡単には目的地に着かなかったことが多かった。特に、本人が方向音痴ならば尚更だ。地図にも載っていないような、多くの道路が交差する初めての土地では、最終的に勘に頼るしかない。しかし、何らかの力が働いて目的地に着かない、あるいは何度道を変えても目的地以外の特定の場所に着いてしまう、という経験を持つ人の話を聞いたことがある。

 ある人は、赤井川村から余市方面に出るために、何度も別の道を辿ったのに4回も出発地に戻ってきたという。またある人は、夕暮れに真狩村から札幌に戻る途中、国道をショートカットするために平行して走る村道(林道?)を走行したが、一向に国道につながる道がなく、仕舞いには羊蹄山の麓を駆け上がったという。結局、今来た道を時間をかけて戻って国道に合流したが、羊蹄山の麓では多くの光る目と遭遇するという、怖い体験をしたらしい。

 自分も、帯広近郊の清水町郊外でそうした経験がある。まだ、道東道が清水インターで終わっていた頃、芽室からの裏道を経由して清水インターに向かった。この道道は地元の人間ならば誰でも利用している。速度が出せて信号がないために、国道を通るよりも時間を短縮できるためだ。それまで幾度も利用しており、間違いようのない道だった。
 しかし、どこからか見たことの無い景色に代わり、とっくにインターが見えてもいい時間なのに、道は真っ直ぐに山の麓に延びている。後でその山が日勝峠のそばの久山と剣山だと判った。しかし、当時は道の途切れた先に大きな宗教施設らしきものがあり「何でこんなところに」と驚いた。
高王山大自然霊光院と隣接する剣山神社.JPG 
宗教施設入口案内版













 
 問題はその後だ。その場所から再び国道沿いのインターを目指すことにした。今来た道を戻って幹線に出ればいずれ国道に着くだろう、と道を変えて走行したが、結局着いたのは同じ場所。道を変えてもそれが3回続いたときは、さすがに自分の方向音痴よりも、その宗教施設との”縁”を考えた。最終的に、その道を真っ直ぐに下り、この道路の入口となる芽室まで戻って国道に合流した。そのため、いつもより1時間半も多く時間が掛かった。

 さて、その宗教施設は、大日如来と十六善神を本尊とする「高王山大自然霊光院」という。自分には確認できなかったが、この施設の下に、統一教会の別働隊とも言われている宗教法人天地正教の「弥勒の郷」があったらしい。天地正教は、この場所に宿泊施設を計画したが、当時オウム真理教の事件があって、地元・清水町では激しい反対運動が沸き起こったことは、何かの媒体で読んだ記憶がある。いずれにしても、野の仏が端座している地域信仰の濃い山らしい。本当に何かの”縁”だったのだろうか。

写真上左は大自然霊光院に隣接する剣山。同右上は大自然霊光院の案内看板















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2014年09月03日

三階滝での出来事

   先週末、北湯沢の温泉に行きがてら、伊達市大滝(旧大滝村)の三階滝に立ち寄った。三階滝は観光名所となっていて、夏には多くの人で賑わいを見せる。この三階滝の駐車場から、遊歩道に架かる橋を渡ってすぐ右側に、「甘露法水」と名づけられた水の湧き出す場所がある。奥行き5〜6メートルほどの洞窟の前に受水管が設けられているが、水自体は地下380メートル余りの金脈から流出したもの。この霊泉を持ち帰る人は絶えない。
 手で掘ったものと思われる洞窟の中には、地蔵尊が建立されている。本来は慈母観音菩薩が祀られているはずだが、いつの頃か地蔵尊に替わった。もしかしたら、地蔵尊の後ろにある祠の中に慈母観音菩薩があるのかも知れない。

  実は、25年ほど前に一度ここを訪れたことがある。その当時の話を3月11日付のブログ「2人の祈祷師と巫女さん」(https://fanblogs.jp/bukki/archive/22/0?1409658527)に載せた。話の内容は『巫女さんのような白い装束をまとった年配の女性が、杓に汲み入れた霊泉を差し出し「幸せに暮らせますように」「元気で過ごせますように」等、1人1人に言葉をかける。
 私の番になって杓が差し出された。頭を上げて私の顔を見たその女性は、驚いたように目を大きく見開いた。何か言おうとしているが、動揺のあまり言葉にはならない、という様子が見て取れる。
 その当時、私はそれまでの人生の中で最大の危機を迎えていた。あの時、私は何かにとり憑かれていたのかも知れない。巫女さんは私を見て何を感じたのだろう。そのときの表情を思い出しては頭をひねっている』というもの。
9月3日1

9月3日2




  










 これがずっと気にかかっていた。今回三階滝に立ち寄った次いでに、敷地内にあるお土産屋さんにその巫女さんの話を聞いてみた。しかし、首を傾げるばかりで「そんなことがあったのですか」と逆に聞かれた。宗教がらみなのは間違いないが、洞窟に祀られているのは慈母観音菩薩(現在は地蔵尊)、巫女さんは神道だ。それよりも、人の幸せや不幸を言い当てて、とり憑いているものを霊視することができるとしたら、今の私を見て何というだろうか。
 巫女さんはあの当時で60歳代、健在ならば80歳を越えていると思われる。何とかもう一度会って、その当時の話を聞いてみたい。
 
 なお、洞窟の前に掲げられた「甘露法水」の由緒書には「このお水は三八〇米余りの金脈から流出し波切不動明王慈母観音菩薩をはじめ諸佛菩薩がくしを入れてある極めて尊いお水であります。老若男女長寿延命 女人安産子孫繁栄清らかな心で受水してください。全国に類無き甘露法水広く世人にお伝えします。仏法僧の三法に帰依し慈母観音菩薩 一切衆生を救い給う尊い甘露法水 三宝本山奥の院とは喜茂別町末広町不動院より命名されたものです」と書かれていた。ここに巫女さんのヒントがあるのかも知れない。

写真左上:地下380メートル余りの金脈から流出した「甘露法水」の受水口。同右上:洞窟の中に祀られている地蔵尊。その後ろの祠に慈母観音菩薩が建立されているものと思われる。洞窟の中を裸眼で見ると、写真のような光の反射は見られない(写真はノーフラッシュで撮影)












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2014年08月12日

甦る40年前の心霊話

 墓参りのために、1日早く故郷の三笠に向かった。札幌ジャンクションから高速道路に乗り、三笠インターを降りて道道116号線で三笠市街地に走り5分ほどたった頃、信号機のある「いちきしり」の横断歩道右手に、交通安全を祈願する地蔵尊が見えてきた。
 このお地蔵さんを見て、40年以上も昔に地元で囁かれていた、恐ろしくも悲しい話が記憶の底から甦ってきた。余りにも古い話なので、どこまでが事実なのかは責任持てないが、当時起きたことだけを述べる。

 この地蔵尊が建立される以前から、「いちきしり」の横断歩道そばに中央バスのバス停があった。昭和47年のある日、この近所で農家を営む家の娘が、バスを降り道路を横断中に車にはねられ死亡した。彼女は三笠の病院に勤める20歳代前半の看護婦だった。
それからしばらくして、事故現場の道路の脇に立つ彼女の姿が頻繁に目撃された。特にタクシーの運転手の目撃例が多かったようだ。この話が飛び交い、中には興味本位で夜中にその場所を車で徘徊する不心得者もでたほど。

  娘は結婚式を目前に控えていたという。その無念さから霊となって姿を現したのだろうと、当時はまことしやかに噂された。余りにも目撃話が飛び交うことから、地元の交通安全委員会が中心となって交通安全を祈願する地蔵尊を、昭和48年7月に建立した。それ以来、幽霊話はぴたりと収まった。

 事故の多い場所に、交通安全祈願の地蔵尊が建立されることはままある。事実、同じ三笠市内でも、過去に2件の死亡交通事故が起きた道道116号線岩見沢三笠線と清住墓地入り口の交差点に、昭和55年に清住地蔵尊が建立されている。しかし、「いちきしり」での死亡事故は、過去においても多分その1件だけ。それだけに、地蔵尊の建立は彼女の霊を鎮めることだけが目的だったと思われる。

 こうした特定の霊だけを鎮魂する地蔵尊は、数ある慰霊碑のなかでもそれほど例はないと思う。車を運転するものとして、写真を撮影したあとにしっかりと合掌して安全運転を誓った。

 写真は三笠・いちきしりの地蔵尊
三笠地蔵尊









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2014年07月27日

続 「常紋トンネルそばの墓」

  7月25日のブログで、「週末は全道で気温の上昇が予想されている」と載せた。しかし、実際には全道的に雨模様となり、札幌地域ではそれにPM2・5が重なるなど、残念な天気となった。どうせ雨が降るのならば、週の中頃に降って欲しかった、というのが釣人の気持ち。今日27日も日本海側では雨が残る予報で、渓流釣りに行かれるのならば河川の増水や道路の通行止め、山道では崖崩れなどに十分な注意を。

  先日掲載したブログの「北海道史の闇漂う333号線」に関連した情報を集めていく中で、「常紋トンネルそばの墓」(https://fanblogs.jp/bukki/archive/36/0?1406351325)の追加情報が見つかった。今回はこの「常紋トンネルそばの墓」の続編を載せる。

  ブログを掲載した3月22日当時は、「常紋トンネルそばの墓」の存在をネットで検索しても、それに合致する情報が全く出てこなかった。今回の「国道333号線の歴史」で検索した中に、該当する話がヒットした。それによると、墓だと考えていた石碑は実際には常紋トンネル工事で犠牲となった拘禁労働者(タコ)の御霊を慰める「歓和地蔵尊」ということが分かった。

  情報のもととなる「旭川鉄道80年の歩み」によれば、歓和地蔵尊は昭和34年6月24日に、当時の留辺蘂町長をはじめ中湧別保線区の協力により建立されたという。
歓和地蔵尊の横に建てられている案内板に、地蔵尊建立の由来が記載されている。そこには「湧別線工事中、最大の難工事とされていた常紋隧道(507m)の工事は、大正元年に始まり、3年の年月をかけて大正3年10月に完成した。
 工事は、本州方面からの募集に応じてきた労務者を飯場に収容し、通称タコと呼ばれた者によって行われた。労務者は、人権を無視された過酷な取扱いを受け、粗食と重労働で病気にかかるものも多く、医薬も与えられず体罰を加えられた。
 そして、使役不能と見られた者は一定の箇所に監禁し、死者はそのまま次々と大きな穴の中へ投入してしまうという、残虐非道なことが公然と行われていたという。
 この隧道工事中、百数十人の若者が犠牲となり、隧道付近に埋められていた。常紋信号場が開駅してから、誰言うとなく「火の玉が出る」「信号が消える」などのうわさも出たり、常紋に居住している歴代の鉄道職員に、病人が多く出るのも怨霊のためではないかといわれた。
 昭和34年6月24日、これら痛恨で眠れぬままさまよい迷える魂の供養を営むべく、留辺蘂町長をはじめ当時の中湧別保線区の協力により、歓和地蔵尊を建立、入魂地蔵祭が執行された。
 それ以来、毎年6月24日には地蔵祭を行っている。霊を慰める地蔵尊は、ここで鉄道建設に捧げられた尊い犠牲者の御霊を永久に祀り、さらに今日の石北本線の一環である常紋信号場の安全と職員ならびに家族の精神の安定に寄与されているものである」と記されている。
27日左

27日右















 常紋トンネルの歓和地蔵尊とは別に、JRトンネル工事に従事した者の「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が、JR金華駅から車で2〜3分の国道沿いに建立されている。この国道333号線沿いの瀬戸瀬「山の神」碑や、端野の「鎖塚」慰霊碑も含めて、北海道開拓に関わりながらも、司直の目が全く届かなかった悲惨な歴史の持つ場所が数多くある。

  このような北海道開拓の闇の部分を、敢えて取り上げようとした訳ではない。ただ、自分の意思とは別のところで、過去の悲惨な現場に引き寄せられているのは自覚している。もしかして、自分と縁のつながる者がその犠牲者の中にいて、無念さを訴えているのかも知れない。
 写真左は常紋トンネルを過ぎた丘の上に建立されている「歓和地蔵尊」。写真右は地蔵尊の横に建立の由来が記載された案内板









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2014年07月21日

北海道史の闇漂う333号線

 遠軽・湧別川支流の富美川流域での怪奇事件(https://fanblogs.jp/bukki/archive/8/0?1405939396)や金華峠(常紋トンネル)(https://fanblogs.jp/bukki/archive/36/0?1405939464)のJR線路脇の墓、北見駅前のビジネスホテルでの金縛り体験(https://fanblogs.jp/bukki/archive/5/0?1405939590)と、北見を中心としたこの地域での心霊現象をブログで取り上げてきた。別に意識して載せたわけではないが、釣行や出張に絡んだ不思議な出来事がこの地区で傑出していて、結果的に多く取り上げることとなった。

  今回の瀬戸瀬地区では、別に心霊現象を経験したわけではないが、そこに建つ慰霊碑にまつわる話を載せるために、その歴史を探った。
 明治政府は、明治24年に国土防衛や道東地域開拓などを目的に、北見峠から網走までの約163kmの道路建設に大量の囚人を投入、1年で仕上げる超突貫工事を行った。そこに狩出されたのは網走刑務所に収監されていた囚人や、業者に騙されて連れてこられたタコたち。彼らは、逃げられないように4キロの鉄鎖の足かせがはめられ、過酷な労働を強いられた。結果、多くの囚人が過労や病気、栄養失調などで命を落とした。
特にこの瀬戸瀬を走る当時の名称で333号中央道路は、別名囚人道路とも呼ばれた。この瀬戸瀬から留辺蕊に抜ける国道333号線の金華峠そばにあるJR常紋トンネルでは、十勝沖地震後に人柱が何体も発見された。ここも多くの囚人やタコが工事に投入された悲惨な歴史を持つ。

 遠軽町史によると、明治27年に瀬戸瀬駅逓の責任者としてこの地に入った佐藤多七が、旧囚人宿舎を住居にあてた際に住居裏に67本の墓標を発見。そこから夜毎「助けてくれ」との声やうめき声が聞こえたので、慰霊に努めたという。大洪水でその墓標が流出した後、近くの薬師山で見つけた巨岩を運び出し、死後も囚人と呼ばれたのは気の毒と考えそれに「山の神」と刻入して建立したとある。
 『山神』碑は現在、遠軽町瀬戸瀬東町 薬師山バス停の裏にあり、「山神」の他に「山の神建立の由来碑」「薬師山八十八カ所の由来碑」と薬師山八十八カ所札所が並んでいる。
  
  この瀬戸瀬では、田園地区を流れる瀬戸瀬川で岩魚釣りをしたことがある。瀬戸瀬川は、湧別川に流れ込む支流のひとつで、川幅が最大でも3メートル足らずの小河川。国道から瀬戸瀬温泉に抜ける道々493号線に沿って伸びている。その当時は、この地での囚人たちの悲惨な歴史を感じ取ることはなかったが、高規格道路を丸瀬布で降りてから留辺蘂に向かうまで、空気が重く感じられたのは事実。

瀬戸瀬東町の薬師山バス停裏に建立された『山神』碑。

7月21日写真




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2014年06月15日

ホラー小説の現場を歩くA

  6月2日に掲載した「ホラー小説の現場を歩く」https://fanblogs.jp/bukki/daily/201406/02 の2弾。前回と同じく、加門七海氏が体験した心霊スポットを取り上げる。初めは上野公園から。この話は、昨年10月に上京した折の出来事として2月24日のブログhttps://fanblogs.jp/bukki/category_4/に掲載したが、今回はそれの検証も兼ねている。
 「上野の山は幕軍(彰義隊)と官軍との戦いで折り重なるように死体が倒れていた。反逆者の死体はしばらくの間は埋葬されずにすさまじい異臭と景色だったらしい」「上野公園内にある東京国立博物館も幽霊スポットで、建物の内部写真には大概”写って”いる。上野の山自体、見たとか写ったという話は多い」(集英社文庫・うわさの神仏其ノ三 江戸Tokyo陰陽百景から)。この話に触発された訳ではなく、あくまでも展示品を見学することが目的で博物館を訪れた。
  常設展示の行われている本館2階のロビーで、間違ってカメラのシャッターを押してしまった。それが左下の写真で当然フラッシュは用いていない。右側の反射光は外からの光で生じたものだろう。
国立博物館 
すり鉢山


   

 

 

  
 
   次は、上野公園内にある古墳「摺鉢山」の頂上に設けられた街路灯。(写真右上)「この周りでは誰でも不思議な温かさを感じる」(同)という。前回と同様に街路灯の周辺を歩いたが、全くそれを感じることはなかった。写真を撮っていると、ベンチにいた外国人のアベックや、もうひとつのベンチで寝そべっていたホームレス風の人に警戒されてしまった。そのせいではないが、街路灯の周りを何度撮ってもピントが合わなかったのが不思議だった。

  3つ目は両国の旧安田庭園の中にある東京都慰霊堂、現在の東京都復興記念館。加門氏は実話怪談集の「怪談徒然草」(角川ホラー文庫)で、この場所で起きた体験をつづっている。「慰霊堂は、昔は陸軍被服廠(ひふくしょう)で、関東大震災時に生き残った人が大勢避難した場所。しかし、火事から発生した熱風でせっかく逃げ込んだのに、何万人という人が死んでしまったところ」だという。
  慰霊堂の近所に住んでいた加門氏が、子供時代を通して、大人になってからもこの場所で起きる恐怖体験を明かした。ここは両国駅傍の江戸東京博物館に行った次いでに立ち寄った。庭園内に入ろうなどとは、微塵も思わなかったことを記しておきたい。左下の写真が旧安田庭園入口。その後方に東京都復興記念館(右下)がある。
旧安田庭園

復興記念館
写真4









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