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2017年10月21日

「教行信証」の行と信について親鸞聖人

「教行信証」の行と信について親鸞聖人はどちらを選ぶべきかを討論しました
これについて私なりに考えを述べさせていただきたいと思います
「行」と「信」とは、真実とは常の「行い」なのか、それとも一途の「信念」なのかということだと思いますが、この二つを横に並べて右か左かのどちらかではなく、どちらが上なのか下なのかという問いだったのではないかと思います
 
今日の如来神力品の四大菩薩たちへは釈迦はすぐにすべては説かず、ここに明らかに法華経をとどめて置いていくとして伝えているのです
この四大菩薩の名前は上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩です
この4名とも皆名前に「行」が同じく付いているのです
つまり、お釈迦様は四大菩薩へは直接にすべてのことは教えなかったのであり、置かれた法華経において自ら修行せよと命じておられたのでした
 
(ぶっけん成安田)

jouan167.jimdo.com/21日-如來神力品第二十一/



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2017年10月20日

学習は義務ではなく権利

今の時代の国民のすべては国から義務教育を課されていますので誰もが幼い頃から今住んでいる国に対して密接な現代であると思います
そのために教育全般や生き方そのものまで国だけからすべてが提供されていると考えがちなのかもしれません
 
今日の常不軽菩薩は測り知れないほど遥か古代の修行菩薩なのであり、その頃はまだまだ国民のための国という仕組みが出来上がっていないような状況だったのです
ですから、その時代を支配する一番優秀な仏が国作りをしていたかのような時代であり、常不軽菩薩などの修行者はその当時皆、威音王仏という仏を全面的に支持していました
 
そのようにまだ国という仕組み自体が国民に周知徹底されていない状況下では国民誰もが国作りにすでに直接かかわっている特別の存在の者にだけすべての知識を頼っていたのであり、修行者自らに知識を学習する習慣がまだまだなかったのです
 
実は釈迦牟尼仏がまだ修行菩薩時代だった遠い過去の前身として紹介されている常不軽菩薩はすべての知識は威音王仏だけが把握しているものと考える習慣にあったようです
ですから、常不軽菩薩は自身では知識は学習しようとはせず、もっぱら仏道へのただ決まり文句の一語だけで呼びかけることに徹し続けた懸命な修行者だったのです
 
しかし、その単純で同じ修行の繰り返しには長年のうちにはかなりの無理が生じたのでしょう
常不軽菩薩はその単調ばかりな修行のし過ぎが原因によりある時、重度な過労死をする時がやってきました
いざ死のうとする時、遥か彼方の空から威音王仏の持つ法華経すべての経文が常不軽菩薩へ振り降ろされたのです
それにより常不軽菩薩は命を回復するどころか永遠に近い寿命を得ることができ、望まずして法華経のすべてを知ることができたのでした
   
その褒美は国からの義務ではなく、天空の仏からの慈悲な学習権利だったのです
 
(ぶっけん成安田)
















2017年10月19日

「第五十人の展転功徳」とは何か?

「第五十人の展転功徳」とは何か?
 
法座の場へ直接聞きに行って最初に感動した人がその後別の人にもそれを伝え、それを聞いた人が更に他者へ伝えていく・・
そのように転々と一人一人が伝えて50人に至ったとして、その50人すべてが同じ喜びの功徳を得るということです
 
その幸運の力は最初に法座へ行って最初に聞いた人の最初の喜びの力なのです
50人すべてのうちの2人目から50人目までは直接法座を聞いてはいなく、たとえ内容をよくは知らなくても同じだけの喜びを瞬時に得ていくという不思議の力なのです
 
お釈迦様はこの不可思議でラッキーな力は直接一人一人だけで長年修行して熟知し得た成果よりも比べるまでもないほどラッキーなのは明らかであること間違いなしと伝えています
 
最初は誰にも信じれないようなお釈迦様の本当に究極の教えの一コマですねにこにこ
 
(ぶっけん成安田)
















2017年10月16日

4つの非が招く罪、有る有るを連発する正しい進み方

ああでも無い、こうでも無い、無い無いばかり連発するのが罪なことを知っていますか?
それに対し、ああでも有る、こうでも有る、有る有るを連発するのが実は正しい進み方なのです

宗教的に言えば、相反する事柄が同時に両極存在していること、つまりどんなことも有るのが正常な状態なのです
例えばお釈迦様なら滅不滅あるとも言います
それは何かといえば、死ぬことも有るし死なないことも有るという真実についての教え方なのです
そして、世の中の真実は永遠に不変で在り続けているが、そのすべてのものが変化し続けているとも言います

即ち、相反する表現はすべてどちらも有るなのです
これは相反する事柄を有ると有るで掛け合わせることでその大事な結果が無になるとも解釈できるでしょう

もしもこれがお金のことなら、使い道のまったく逆なお金とお金を掛け合わせればそれでお金が無くて良いことになる
つまり、有料と更に反対の有料を掛け合わせて無料になります
これに対し、無料と更に反対の無料を掛け合わせると双方が有料になってしまうのです
このように双方の有が結果的に作り出されてしまうことが罪というものなのです

これは、意思の無い者とは無関係な更に意思の無い者とが一緒に取り組むことが一番最悪な罪を生ずるという意味になりますよね
だから、お釈迦様は意思の無い者を一方的に導きながらたとえお釈迦様一人でお金を貰っていようと、いつかは双方が意志ある者同士の良好な関係になることを一番の目的として頑張っていらっしゃるのです
この一番良い関係こそをWinWinの関係だと言っています

(ぶっけん成安田)


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2017年10月14日

方便「理論」 と 真実「原理」


お釈迦さまは方便話を「捨てよ!」とも「忘れるな!」とも言う
  
 
近頃はボランティア活動も慣れてきて要領(ノウハウ)を覚えたためか、かえってその都度の出かける際が億劫である。
そんな近頃は、再び初心に戻って何も考えず無心になって出かけようなどとも考える。
  
最初ボランティアを経験しだした頃は解からないことだらけであることが新鮮だった。
その新鮮さとはおそらくボランティアを経験した者しかわからないと思うが、行動前の不安や面倒さが行動アクションを起こすことにより一気に解消されていく快適さである。
  
だから最初の頃は、一度経験すれば嫌な億劫という気持ちは起こさずにその都度出かけることができたのだ。
それはその都度に思い浮かぶその日の失敗や危険リスクなスリルなどを自分なりにもどのように(HOW)してクリアしてこようかと考えるだけで、その不安に備えるチャレンジ心が味方してくれているようだ。
  
しかし、残念なことにこのような奇跡かのような日々は案の定そう長続きはしないものだ。
実はこの不思議と上手くいく心がけ(MIND)こそが「方便」であって、原理(WHY)に対する理論(HOW)なのだ。
お釈迦さまは真実なWHYだけを目指し、この途中の方便(ノウHOW)を捨てよ!とも忘れるな!とも教えているのである。
  

  

WHYの解答を得るためのカラクリはやはり「空」
 
 
重要な問題には頭を十分空にして掛かれという。
重要な答えとは真実の原理であり、その逆に方便とはそのために考えた架空な理論である。
  
事前に想定する理論(HOW)を考え付くことは原理(WHY)の解答を生じさせることよりもだんぜん容易い。
しかし、理論(ノウHOW)すべてを作り上げたり理解することはそれなりに沿った経験やとても長い時間が掛かるものであり、その成果として一つ一つの実験結果はそれらしきに反映されてくるのである。
  
そのようにHOW理論に沿った最初の経験ではすぐにも得れる結果が初心の功徳(初心パワー)であり、上手く好奇心を刺激すると共に、またその現実はすぐにも消えていくものなのである。
それに対し本来の原理、つまり真実は永遠不滅である。

この真実の原理とはある時ひょんなきっかけのWHYでのみ得れるのだ。
  

  

答えのないWHYだけでは動けない・・
 
 
ところで最初からWHYを考えながら行動を起こすには実はやはり何らか自分なりにもそのWHYの答えが見つかってなければ不安だ。
答えが出ないままの行動はやはりとりにくいだろう。
最低限の行動するための第一歩はどこへ、何のために、どうやって、つまりHOWが主流だ。
しかし、そのHOWを取り入れるのは最初の時だけで良いし、しばらく慣れて身に付いた頃には要らなくなるのがHOWなのだ。
であるなら、その先の本来の真実原理へ到達する行動アクションを更に起こすために用意しておくものはもはやHOWでもなければWHYでもない。
   
つまり、何も考えず「無」になることだけだ。
ただただ動かなければならず、惰性でそこへ行けさえすれば何等か成し得ると心に決めることで、考える知恵は後で付くことを信じるのだ。
ただただ無心の行動ノルマを実行することで面倒なためらいや余計な不安を捨て去って動けるようになることが何よりだ。
  
これが頭を空にして掛かるということであり、空ということは頭の中には特定のノウHOWやこだわりWHYが一つもない状態、つまり、これから起きるWHY(不思議)だけを自然に得れる状態だ。
この「無」こそ、新たなWHYを探しに行く一番合理的な態度であり、それが未知なWHYを得るために頭の中身を空にして挑むということだ。
 
 
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2017年10月13日

【自分で自分を変えるよりも変えてもらえです】

 
各々本人は前世に生きた証を求めたがります
しかし、前世の生き方を変えなければ進化することができないために、自身にとって新しい現世の生き方が誰にも必要なのです
 
他人は自分のことをよく観察しているといいますね
自分自身では気付けないことが他人にはよく解かるのです
それがその本人にとっての新しい現世の生き方らしさなのです
 
特に若い時期に反抗的になる者に対してはその者自身で間違いを知って自分で直そうとしなければならないと言われます
しかし、実はそれが本人にとっては一番困難な生き方なのです
放って無視されているほど辛い思いはありません
 
その場合に、本人だけは自分に忠実だと確信しているでしょうが、それは現世に対してではなく過去世には確かに忠実なのかもしれないということになるでしょう
しかし、その状態では何をやっても上手く行きません
 
時に逆らうことは誰にとっても理に適っていないからです
自分自身の決意を貫くということには2種類あります
それが過去世をそのままやり直すのか、それとも現世の新しさを貫くのかという2種類です
現世の新しさを貫いて周囲との調和が保ち続けれるなら、それが理に適った決意ということになるでしょう
 
理に適った決意であるなら、それを実行に移せば自ずと思いがけない未来世の結果が訪れてくることでしょう
 
(ぶっけん成安田)




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2017年10月12日

釈迦の友情は愛情よりもあまりに知られていない

提婆達多品第十二は法華経の中に後で付け加えられたものらしいですが、提婆達多の教え自体はかなり古い時代から存在していたのが現実らしいです
西暦以降の時代の急変に対しハードボイルドタッチな要素を迫られる緊迫感を感じずにいられません、これはまるで時代の復活だったのです
これはやはりいつまでも終わらない、時として急激に蘇ってくる錯覚というエネルギーが常に存在しているのだと思います
 
1950年頃のアメリカ作家レイモンド・チャンドラーが生み出した架空の私立探偵フィリップ・マーロウの言葉として世に知られる名セリフ『タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない』は全く相反する矛盾する要素が交差している時代の深刻さそのものですね
決して計算式では真実に至ることはなく、単に一時的な目安となる計算値が逆に現実に錯覚が発生している真実への感覚反応を失わせているのです

今一瞬の光を見逃さない、釈迦がこの提婆達多品第十二の中で、昔仙人であって恐れられてきた提婆達多のことを善知識であると言って一目も二目も置いています
その善知識とは善き友人という意味があり、前世の釈迦にとっての善き友人が提婆達多だったのであり、釈迦に対する思いやりある誘導者でもあったのです

その後、提婆達多は教団組織の連携を乱した主導者と言われているらしいですが、多くの教団員は善知識である提婆達多を錯覚していることが伝えられているのかもしれません

(ぶっけん成安田)
 
第六−12日 法華経提婆達多品第十二



























2017年10月11日

未来は自ずと訪れてくる

今日は見宝塔品といって多宝如来が安置されている多宝仏塔についてです
この品にはいつの間にか豪勢な多宝仏塔が地底から出現して天高く空中に浮かび上がっているシーンからいきなり始まります
これは突如まるで非現実な夢を見せられているようであり、夢の中で未知なる未来情景を見せられているようですよね

ところで、夢を実現させるとか、まだ見ぬ未来を作ったり切り開くことは私たちの力でできるのでしょうか?
その夢の中であるかのような現実が法の中というものなのでしょうか

住職であり多くの著書を出版されていた松原泰道さんが101歳で亡くなられる数カ月前に書かれた『日本人への遺言』の中で、「運命を切り開くなんてことはできないんじゃないかな。人生はもっと大きな流れの中にある」と言っておられます

近頃は私もそう思えるようにようやくなれました
「未来」とは未だ来ないというわけで、この先から自ずとやって来るのが未来であるから、未来とはこちらから会いに行くというより訪れてくるという考えがスタンダードであったと気付かされるのではないでしょうか

(ぶっけんの法華経済ぴらみっど)
https://jouan167.jimdo.com/buddha0611/

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感想(2件)




















2017年10月04日

自分さえ良ければ一番良いではないですか

頭の中身をすべて真っ白にしたいと覚悟した頃がありますか?
若い頃はとかく忘れたいことのほうで一杯ですからね
あまりに知らなければならないことが多すぎて何も考えたくないくらいになるのも若い頃の特徴です

これは頭脳的には良くないとは私は一概には言えません
私自身そうでしたし、それで大変な思いもしましたし自身の改善の苦労にも相当時間が掛かりました
しかし、そういった自分の中身のすべてを無にする大胆なチャレンジはきっと若い頃にしかできないと思いますし、今の自分にそれを再びチャレンジする気力などは到底起きません

精神が消耗するほどに疲れることを我慢してチャレンジできるのは若い頃だけだと私は思います
それは一旦、その経験を積んだ者には恐らく二度とできないくらい辛い修行だからです

そして、そういった若い頃の辛い経験が無駄であったかどうかも一般には不確かな世の中の時世です
しかし、一概に若い頃の修行の無意味さが問われて失われていくのもたいへん寂しい思いがします
それは単なる味気なさです

やはり味の付いた人生かどうかということは結局その人でなければわからないからです
良さをわかってほしい商売がいかに難しいかということを物語っています
他人が解かってくれないくらいが何ですか?
そして、解かってもらうための苦労も何ですか?
自分さえ良ければそれが何より一番よいではないですか

(ぶっけん成安田)

























2017年10月03日

ミサンガのように

宗教組織という一種の法人格を釈迦はどう思っていたでしょう?
仏教など宗教のすべてはそもそも一人一人の心掛けを成長させるものであり、その組織存続は二の次の想定、或いはダミー的な維持が組織、つまり法人なのだと思えます
その釈迦族の組織(サンガ)の代表的な大弟子の一人であった舎利弗が釈迦よりも早く死去することになった時の釈迦の嘆きの激しさはどのようのものだったでしょう?
舎利弗こそ組織維持への忠誠と自分自身の個人的存在との間の境地に苦しみ抜いた一途の弟子だったからでしょう
舎利弗はかなり独りよがりになっている状態を釈迦に鋭く指摘されていたようですが、釈迦はその舎利弗の真剣さを貫こうとする姿勢を本当に信じ続けてあげたのです
ミサンガという手首に巻き付けるビーズ玉を組み合わせたお守りは、それが自然と切れると願い事が敵うといわれているらしいですね
きっと仏教組織(サンガ)もこのミサンガのように微妙な繫がりであることをお釈迦様は願っていたはずと思うのです
(ぶっけん成安田)

https://jouan167.jimdo.com/法華経ウェブライターになろう/
























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住んでいる周囲の在り方に納得いかないことや誤解が生じて、それがそのまま一般的なものになっていったらちょっと不安だな、という思いから、このブログを始めてみました。
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