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2018年05月15日

お釈迦様にも前世があった

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お釈迦様にも前世がありました。

お釈迦様は若い頃に王様を引き継がずに王子のまま出家して仏様の道へ進みました。

しかし、お釈迦様の前世もまた王様のまま出家して仏教を知っているという山奥の仙人の所へ修行に入りました。

ところでそのまた更に遠い過去世においてもお釈迦様は仏教の菩薩修行者として人々を導いていました。




いずれの過去もお釈迦様は仏道に身をすべて捧げていたのですが、出世を目指す誰もの共通点は生まれつきの家族と共に過ごす時間がなかったということに気付くと思います。

 

これはどういう幸福への真実なのでしょうか?

家族とは何でしょうか?

お釈迦様は以前の家族とは別れても新たな嫁さんも子供も居ました。

お釈迦様は決して独りぼっちではなかったのです。

お釈迦様は過去に二万回以上も生まれてきていると自らおっしゃっています。

 

きっと、その遥か長い間には地球のみならず宇宙全体と家族なのでしょうね。

しかし、その大宇宙の中で実際の結合は稀に生じているという極めて偶然の繰り返しに過ぎないのです。

 

計算目標は必ず覆される、それこそ宇宙の真実なのでしょう。

 

(ぶっけん成安田)


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2018年03月15日

従地涌出品第十五 司法・行政と弥勒・文殊の関係?

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昨日の安楽行品では文殊師利法王子菩薩、そして今日の従地涌出品では弥勒菩薩が登場しています。
この二人の菩薩とも最初の序品で登場して以来、ここで初めて再登場してきたようです。
ところでこの品で弥勒菩薩はいきなり釈迦仏の次に作仏するように授記されていることが他の諸仏から発表されます。
これは大変不思議なことです。

私は弥勒菩薩の性質は何だかイエス・キリストに似た存在イメージのように感じていたのですが、それはどうやら違っていたように今日初めて思えてきました。
そもそもイエス・キリストに似たタイプとはどんな人物だろうと思うのですが、どうやら世界的には司法裁判官のようなイメージに感じられるのではないでしょうか?
ところがそれも違うようなのです。
また、何となくビートルズのジョン・レノンのような人物像かとも思えます。
ジョン・レノンと言えばちょっと若く亡くなったわけですが、それが私にはイエス・キリストとどうもイメージがダブってしまうのです。
故ジョン・レノンなどは非常に女性などには弱く、とても裁判官として他人を裁くタイプではなかったように思えてくるのです。それと、イエス・キリストも恐らく同じでしょう。

それに対し、弥勒菩薩は全く違います。
法華経の中ではとかく一番自惚れが強く他者へ疑い深い性質タイプとして描かれています。
いわゆる、不良役なのでしょうか?
弥勒菩薩は特に釈迦仏に対して唯一、他の菩薩とは異なり反抗的な意見を投げかけていますし、天上界という諸天神の住む世界の中で多くの遊女に囲まれて過ごすという描写もなされています。

釈迦仏はそのような弥勒菩薩を次の仏の引き継ぎ者として認めているということに大きな疑問が湧いてくるのです。
国の悪化の責任を持っているのが釈迦仏のように思えてきてしまいますが・・
どうやら仏の下の世界の菩薩修行者の中には司法・行政の性質区分が描かれているようでもあり、弥勒菩薩や文殊師利菩薩は現代の国づくりにどのような影響力を持っているのかが興味深くなってくるところです。
 
(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1115/










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2018年03月14日

安楽行品第十四 休んでみるのも作戦のうち?

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釈迦仏はここでどうして急に気が変わったように塞ぎ込んで警戒を積むことを入念に指導したのでしょう?
それは、その身を動かさず細心な注意力だけを完璧に磨かせる指導は仏教修行者へのごくありふれた基本スタイルとしての初心をただ再認識させるようにしているだけのように思えます。

もしかしてこれが釈迦仏特有の方便作戦による合理的な演出であるなら、じっと身構えるオーソドックスで安楽な修行の仕方を文殊師利菩薩だけに密かに説いている意味が納得行くかもしれません。

(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1114/









2018年03月13日

勧持品第十三 我身命を愛せず

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『我、身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ』
これは修行者が仏に対して発した有名な言葉です。
この切羽詰まった言葉にはかなり大切な謎が含まれているのです。
一見、修行者として命を捨ててでも、ひたすら仏道だけを大切にするという意味に考えられますね。
さらにもう少し詳しく解説してみますと、「私は、今すぐにも自身の持つすべてを尽くさずにはいられない、但し仏の教えだけを守る遙か長い道のりを捨て切れない」
つまり、自力か他力かの究極の判断に迷っている修行者の焦りと悩みが表されているはずです。

この焦りと悩みが法華経を本心から必要としているということです。

(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1113/









2018年03月10日

法師品第十 他力と自力

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日本の親鸞聖人は他力本願を大切に説いていました。
ところで他力とは一体何でしょう?
多く勘違いしやすいのは単に人同士の義理や人情による他人が与えてくれる手助けのことと思い込んでいるということではないでしょうか?
つまり、他力とは同じ人間の力以外である他の力と考えたほうがきっと解かり易いのではないかと思います。
 
だから、人間は根本的には自力だけによる生き物だと私は思います。
また、それに対し、他力だけの生き物も居るとしたらその代表例はすでに滅んだ恐竜のような生き物ではないかと思うのです。
それは、なぜ恐竜は氷河期に全滅したかと考えれば、その原因は食糧不足のみならず急激な環境変化、即ちそれまでにない新しい他力の変化に全く裏切られた形だったと思うのです。
つまり、自力パワーがほとんどないからすでに古い他力パワーが新しく急変した他力パワーに一気に追随できなくなっていったのだと思うのです。
その点で、新しい急変の他力に対応できたのは元々自力パワーの優れた生き物だけだったと考えられるわけです。
 
また、恐竜の骨などが現代まで何故そのまま遥か時代を超えて残っているかの不思議も、他力中心だった生き物ならではと考えられるのです。
それはどうしてかと言いますと、恐竜の化石などは火山の溶岩や通常の岩石などに等しく、特に他力エネルギーによる強い刺激や応力を受け続けることにより変形したままいつまでも残りやすい物質になっていることと類似しているからだと思うのです。
 
(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1110/















タグ:法師品第十

2018年03月09日

授学無学人記品第九 国と国家

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法華経の中では、宗教に対する国はとても大切な存在のように描かれています。しかし、修行者たちへは国王・大臣などに親近を深めることはとても危険であるとも説かれているのです。
また、不思議なことに家畜業者、漁師、娯楽などの社交性を煽る事業や論筆家などにも一切近づいてはならないという具体的な職業種類も記されています。

いわば、特殊性のある職業などは皆、直接国の管理に属しているといえるのです。
国とは国民同士の危害発生を予め防止し、その防止策に背く国民だけを取り押さえて一般国民と明確に区分することが主なる役割であり、それにより成り立っていると言っても良いでしょう。

そのような意味から、国に背いていない一般国民だけで成り立っていることを宗教国家と言っても良さそうです。
しかし、国家といえども国が単独に存在していることには変わりはありません。
国が何であるかは国家である宗教の側から知ることが出来るでしょう。

(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1109/















2018年03月08日

五百弟子受記品第八 改善にはお金より時間が貴重

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改善にはお金は必ずしも必要ではない。ましてお金を掛けない方が更に改善が上手く進むことがほとんどなのかもしれない。
だから、改善に費やす無償な時間であってもとても貴重に思えてくるのだ。
しかし、学生を終了して間もない通常の若い社会人にとっては本来の改善が何であるかなど知る由もないだろう。
だから、一般に若い学生や社会人はのんびり新たな刺激を探すことしか能がないかのように日常をただ意味もなく過ぎ去らせている。
もともと若い人々にとって失敗もまだまだ少なく実質的な大改善の必要性がそれほど多くないのだから、わざわざ自分改善のために時間を考える必要はないし、たとえ改善しようにも合理的に時間を使っていることにはならない。
 
若い社会人が時間よりも収入を求めて就活に勤しむということは将来の貴重な労働収入を得るためなのだからしっかり自分自身の将来を見据える意味からももちろん重要であることに他ならないだろう。
しかし、就活などは予め収入を貰ってしているわけではもちろんなく、自費を用いて時間を費やして自主的に行なっているわけだ。
だから、若いうちの就活すら無駄だと言わざるを得ないのだ。
では何が必要かと言えば、若いうちはどこでも良いからすぐ勤めてすぐ収入を得るということだけにつきると思う。
そこで失敗しようと若いうちは勤め先がほとんど責任を持ってくれるから改善責任は直接若い本人には降りかかって来ない。
つまり、若いうちは言われた通りに売り上げを出せば、どんな世代よりも最も収入だけに集中して働くことができるのだ。
 
結局、若いうちから改善のために時間を引き伸ばしにする必要はない。
必要以上の安定感など求める必要もない。
その時間すべてを収入の為に用いることである。
本日の富楼那彌多羅尼子は誰よりも若いわりにたいそう釈迦仏に誉められているが、前世から清らかな改善が行き届き過ぎていてほとんど現在の収入に結び付いていない決定的な欠点があると言えそうだ。
誰もが若いうちから改善点は見つからない、だから時間のすべてを収入へ結びつけるべきが若さの真実だと思う。
若いうちはせめて放っておいてあげよう!
自分で改善に気付くまでだ。
 
(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1108/
 











2018年03月07日

化城諭品第七 消え去った城

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勇気一つで物事をチャレンジしようとすることについては長い時間が掛かることが知られています。
また、勇気と直感だけの意気込みで無謀にも思えるチャレンジはすぐにもお金が儲かりやすいことも知られています。
それは世の中の難しさをすでに体験した人々の共通意見です。
 
本日の大通智勝仏も実は成仏するまでにはとても長い歳月を要しました。
大通智勝仏はまだ菩薩修行者だった頃、最初成仏を目指した時、それを知った天の神々は即座に素晴らしい心掛けに対する豪華な宝の上座を用意し修行させようとしました。
王であった大通智勝はその上座に着くと覚悟を定めて、心身を微塵も動かさない修行に入りました。

それ以来どれほどの歳月が過ぎ去ったことでしょう。
世の中は移り変わり今までにない新しいものばかりが降り続けました。
人々は変化に喜び、16人の王子たちは大通智勝の成仏の素晴らしさを十方世界各地へ渡って普及し続けました。
しかし、大通智勝は念願かなって成仏したように思えましたが、完全には真実を悟れず満足いかず未だ心身微動もせず何も語らない状態のままでした。

16人の王子は更に多くの一般衆生へ仏道を広く説いて導き渡る行動による修行を休まず続けました。
それから更に計り知れないほどの歳月が経過した後、遂に大通智勝仏は初めて悟りに至り広く衆生に法華経を説いたのでした。
その後、16人の王子も次々に各地で成仏しましたが、その中の一人が釈迦牟尼仏でした。
さて、大通智勝仏は釈迦牟尼仏の真の父親だったのでしょうか?
 
ところで、大通智勝仏は勇気一つだけの修行で成仏したケースと言えるではないでしょうか。
いずれこの大通智勝仏が王のままに沈黙の修行を続けていたあまりに長かった安息の城は架空だったとして一瞬に消し去られたのでした。
その時、行動で達成する修行の早さが再始動したのです。
 
(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1107/
 











2018年03月06日

授記品第六 我が浄土は安泰なり

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学習することにはお金がかかりますね。学習とは宿題と違い前向きに進歩するためにあるからです。
それに対して宿題とは自分でやり直すことであり、それにより新たに知ることがあっても自分自身での改善力によるものですからお金という費用はかけていられません。
つまり、改善には費用をかけずに時間をかけるべきですね。

もしも世の中に統計による政治、ある意味では独立政治法人なるものがあったなら、それは旧来からの国家資格者団体の事であり、国家資格たる我が浄土は安泰なり。
(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1106/












2018年03月05日

薬草喩品第五 色即是空、空即是色

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仏はさまざまな衆生に与える智恵をまるで雨のように同じものを平等に降らすといいます。
それは何を意味するのでしょうか?
雨とは物質であり、降ってしまえば所詮すぐに流れて消えて行くものです。
形あるものはこわれるのです。
物質は目にみることができるのです。
目に見ることができるのは色があるからです。
それを観音様は般若心経で説きました。
色即是空。空即是色。
物質である色とは即座に空である。
そして、空とは即座に色である。
目に見える智恵は即座に空しい。
空しく消えるものであるから、即ち自分自身の智恵として見えてくるのである。
何事も自分自身の智恵として表現しなければ意味のないものだと言っているのです。
(ぶっけん成安田)
https://jouan167.jimdo.com/buddha1105/




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住んでいる周囲の在り方に納得いかないことや誤解が生じて、それがそのまま一般的なものになっていったらちょっと不安だな、という思いから、このブログを始めてみました。
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