2017年05月13日

徒然草にみる金銭感覚



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私のお金の遣い方は、周りの人と違うな…


と感じることが随分前からあった。







・収入から貯蓄分を差し引いて、余った分でやりくりする。

・節約をして、少しでも貯蓄にまわす。

・価格の高価なものは贅沢なのだから、買う必要はない。我慢せよ。

・貯蓄がたくさんあることが、安心できて素晴らしい。




これらのことが美徳とされていることが

理解できない。







やりくりが必要なら、そもそも収入を上げればよい。




価格はあくまでも「数値」でしかない。

たとえ高価なものであっても、

その価格以上の価値があるのなら、むしろ「安い」というべきだ。




身に余るモノ、不釣り合いなモノを手に入れることが「贅沢」である。




「自分こそが、その高価なモノを最大限に活かせる!」

という自信さえあれば



むしろお金を支払って手に入れることで、経済活動が生まれる。


不要どころか、必要といえる。





貯蓄のために我慢を強いられ続ける生活の

どこに安心して生きていけというのか。







直感的な「理解できない」を

言葉にすると、このようになる。





こう考えるのは、

お金の余裕からくるのでも何でもない。






自分の尺度をもって、モノの価値をみれば


どうしても、このような考えになるのだ。









私の通勤用の靴は、フェラガモの6〜7万円のものだが

全く傷まないため


かれこれ7年間履いている。



無理に長期間履こうとしているのではない。



「長く履けてしまう」のである。






学生時代、就職を前に

奮発して買ったものだが


今思えば、なんら「高い」買い物ではない。



歩き易さを考えれば、


むしろ安いくらいだ。
















トレードを始めてからは

この金銭感覚が間違ってない、という確信がもてたのだが




そもそも、普通に学校に通い、普通に生活してきた中で

どうしてこんなにも周囲と違うのだろう、と

記憶を遡ってみると




高校時代の古文の授業で出逢った


「徒然草」に始まっているような気がする。








第217段「或る大福長者」の話である。





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或大福長者の言はく、

「人は万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。
貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。
徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし。

その心と言ふは、他のことにあらず。
人間常住の思ひに住して、かりにも無常を観ずる事なかれ。
これ第一の用心なり。


次に万事の用をかなふべからず。

人の世にある、自他につけて所願無量なり。
欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫くも住すべからず。
所願は止む時なし。財は尽くる期あり。

限りある財をもちて、かぎりなき願ひにしたがふ事、得べからず。
所願心にきざす事あらば、我をほろぼすべき悪念来れりと、かたく慎み恐れて、小要をも為すべからず。


次に、銭を奴のごとくして使ひもちゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。
君のごとく、神のごとく畏れ尊みて、従へもちゐることなかれ。


次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。


次に、正直にして約を固くすべし。


この義を守りて利を求めん人は、富の来る事、火のかわけるにつき、水のくだれるにしたがふがごとくなるべし。
銭積りて尽きざる時は、宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し」と申しき。



仰人は、所願を成ぜんがために、財を求む。
銭を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。

所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ。
何をか楽しびとせん。

このおきては、ただ人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。
欲を成じて楽しびとせんよりは、しかじ、財なからんには。
癰・疽を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんにはしかじ。
ここに至りては、貧富分く所なし。

究竟は理即に等し。
大欲は無欲に似たり。





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ある大福長者が申しますには、

『人は何事をさしおいても、一途に富を得るべきです。
貧しくては生きている甲斐がありません。富んでいるものだけが人間と言えます。

富を得ようと思うならば是非ともまずその心がけを修行すべきです。

その心がけというのは他でもありません。
人生は永遠に続くものだと考えて、たとえ少しでも無常観を抱いてはいけません。

これが第一の心がけです。


 次に、したいことを何でも望みどおりにしてはいけません。

人が生きている間は、自他共に欲望は無限にあります。
欲に引っ張られて思いを遂げようとしたら、百万の銭があっても、ちょっとの間だって手元に残りません。

欲望には限りがありません。財産には限りがあります。

限りのある財産で、限りのない欲望を満たし続けることはできません。

欲望が心に芽生え始めたら、自分を亡ぼす悪霊が来たと思って、
しっかり慎み恐れて、ほんのちょっとしたことでも充たしてはいけないのです。


 次に、お金を下僕のように使うものだと考えていると、長く貧苦を免れません。

お金を主君のように、神のように畏れ敬って、
ちょっとでも召し使うということをしてはならないのです。

 
次に、(お金のことで)恥ずかしい目にあっても、怒ったり、恨んだりしてはいけません。

 
次に、正直にして約束は堅く守るべきです。 

 
以上の条理を守っているならば、富が来ることは、
火が乾いたものに燃え移り、水が低い方に流れるようなものです。

お金がたくさん貯まってきりがないときは、
酒宴を開かず、美女に熱中せず、住居も飾らず、自分の欲望を満たさなくても、
心は常に安らかで楽しいものです』

と申しました。




 そもそも人は欲望を満たすためにお金を必要としています。

お金を財と思うのは、願いをかなえるためです。
欲望があっても満たさず、お金があっても使わないのなら、それは貧者と同じでしょう。

なんの楽しみもありません。
 

この大福長者の話は、ただ人間の望みを断ち切り、貧しさ(我慢)を気にしないように、
と言っているように聞こえます。

悪性のできものを病む人が、水で洗って『気持ちがいい』などと言っているより、
初めから病気にならないほうがよい、というようなものです。

こういうことならば、貧富の区別がありません。


蓄財の欲望を満たすことを楽しみとするよりは、

むしろ、財産などないほうがよいのでしょう。


最高位の悟りの境地は、最低位の迷いの状態と等しいものだが


それと同じで、欲が大きかろうが無かろうが、結局同じものです。」




(以上、別ブログより引用)

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吉田兼好は、長者の批判をしているのみで

「こう生きるべきだ」とは指南していないのだが



【お金】というものに対して


正しい意識をもっている。





「【お金】をたくさん貯めこんでいれば、

豪奢な生活ができずに欲望を満たせなくても、安心できる。」



という長者に対して







欲望を満たし、解消するのが、お金である。


⇒欲望があって、お金を貯めるのなら、遣うのが当然だ。







欲望があってもお金を遣わないのは、

おできの病人が、病に耐え抜いて、

痛みを忘れて安堵し、喜ぶのと同じ。

それなら、はじめから病気になどならない方が良い。




⇒我慢して、お金を貯めること自体を愉しいとするのは本末転倒。







と言っている。









吉田兼好は僧侶であるから、「無常観」をもっている。




私の師も、

「今日と同じように明日が来る保証はない。」

「明日、死ぬとしたら?(今、どんな行動にでるか?)」


という表現をする。








私の師は、思想家・宗教家なのではない。








トレーダーとして、

いつかの段階で【お金】を究極的に考えたことから


その思考法は起因し、


思考の核となっているのだと思う。











【お金】は、

流通する市場の中にいる人(=国民)が


1枚の銀行券を

「これは1万円の価値がある」などと共通して理解し

信用をおいているモノにすぎない。




単に人々の信用の上にしか成り立っておらず

その「信用」が永遠だとの保証はなく、

むしろ、このご時世いつ崩壊してもおかしくない。







多くの人が1枚の銀行券に対して妄信的になっているが


【お金】は、もとは単なる紙っぺらである。








師の無常観は、

この事実を深く深く理解した上で


さまざまなことを考えている結果なのだと思う。







勿論、師は、すべてをお金で考えるようなことは一切しないし


むしろ直感的・感覚的に捉えるよう、教えてくれるが




トレーダーであれば、皆、



「お金って何だ?」と考えることがあるだろう。







大きく利益を出したトレーダーは


ほぼ全員がお金の猛者になり、


うち少しの冷静な猛者は


大福長者のように考えるかもしれない。





しかし

トレーダーは、無常観をもたずにはいられないはずだ。



今の株価が、1分後にはどうなっているかわからない。




ましてや、明日の株価なんて

誰も知る由もないのだ。















私は、豪奢な生活をしたいわけではない。


『生を受けたからには、地球を愉しみ尽くしたい』。



だから、師の思考法を吸収していきたいと思っている。









生活も、所作も、佇まいも、


行動のひとつひとつ、


思考に至るまで



すべてを鍛え上げて「愉しみたい」のだ。









感動したモノ、美しいモノ、手に入れたいと思ったモノは


価格がいくらであろうと、手に入れることが「愉しみ」だし





物欲や自己の満足を超えて




自己超越の欲求、利他的な欲求を満足させたいというのが



師や仲間たちの見据える




究極の「愉しみ」である。







私はそれが、究極の「カッコよさ」だと思う。










吉田兼好の「愉しみ」が



何だったのかはわからないが




「徒然草」を執筆していることを踏まえると




自分の達観した思考を


少しでも多くの人に伝える、という





利他的な「愉しみ」があったに




違いない。





そこにはやはり、



800年前の「カッコよさ」が





詰まっているのだ。










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