2017年05月15日

ペルシャ絨緞の魔力



IMG_2291.JPG





幼い頃、毛布が大好きで


よく晴れた日、

バルコニーの竿に毛布が掛けて干してあるのを見つけると


その二つ折りになった毛布の間に入り込んで

じっと至福の時間を過ごしたものだ。




横になって掛けられる毛布とは違い、


竿に掛けられた毛布というのは


不思議な柔らかさがあった。





少し強めの風が吹くと

毛布の間からも風が入り込み



洗って少し濡れた毛布が


ひやっと肌に触れる。



それが、何とも心地よかった。















数年前、ペルシャ絨緞の展示会に招待される機会があった。






毛布が最高のものだと、


私の脳内にはインプットされてしまっていたため



絨緞というものに

魅力を感じていなかった。






せっかくなら、見てこようか。



その程度の気持ちでいた。







しかし、そこで出逢った絨緞が


今も忘れられないほど


脳裏に焼き付いて離れない。












そこには、たくさんの絨緞があった。



産地や工房も様々で、


模様も、見慣れないものも数多くあった。












そこで知ったのは


絨緞は素材がシルクで、サイズの大きいものが高級


というだけではない、ということ。





「ノット」や「ラージ」という単位で、目の細かさを計る。


1cm四方に結び目がいくつあるか、で


仕上がりの細かさや柄の美しさが決まる。




oriki-01.jpg


絨毯画像.jpg




細かいマス目の図面を見ながら



織子さんが、一本の糸を織り込んでいく。




一本の糸、といっても、失礼な言い方だが


部屋に落ちていたら、糸くずにしか見えないような短いものである。




これを決められた縦糸に通していき、



何本か通したら

クシのようなものでトントンと叩き、


糸を切りそろえて、「目」となっていく。





当然ながら、目が細かいほどに

仕上がるスピードは遅くなる。



1cm四方に100目程度で、

一日に数mm の絨緞ができる。





だから部屋に敷くようなサイズであれば

数年はかかるのである。






気の遠くなるような作業だ。





それを、間違いなく進めていく。







カッコよすぎて、言葉が出ない。











このあたりまでの説明を聞いた時点で




毛布っ子は、もう、絨緞の虜である。













艶.png







品質の良い絨緞は


薄くて柔らかいのに、丈夫である。




そして、シルクの反射が美しく


織った方向から見るか、逆から見るかで




淡い色に見えたり、


落ち着いた深い色に見えたりする。







一枚の写真かと思うほどに


光沢があって、



緻密で



繊細で



華やかなのだ。














私はヘレケ絨緞の、「生命の樹」という模様が好きだ。



IMG_2289.JPG



「来世では、こんな樹があって、動物たちが集まるような所で暮らしたい」


そんな願いが込められた模様である。






どこか仏教的というか、


日本人の私にとっても「いいな」と感じる模様だ。







ここに載せたのは単なる一例だが



中東だとか、ヨーロッパだとか、アジアだとか、


そういう文化圏を超えて



どの建築様式にも調和してしまう。















そんな「生命の樹」の中で



最も魅惑的で


魔力をもった絨緞があった。











いま、どんなに探しても


どこに売っているのか見つけることができない。





画像さえも見つからないから



ブログに載せて皆さんにお見せできないのが



本当に残念だ。











何が、どう、素晴らしいのか



わからない。







これまで、シルクだの、目の細かさだの書いたが



そんな次元を遥かに超えて




なぜ、存在しているかさえも


わからないほどに





魅惑的だった。









横長に描かれた模様で



120cm×150cm ほどのサイズだっただろうか。





いや、存在感が実際より大きく見せていただけかもしれない。






中央に横長に枝を広げた樹があり


その下にはシカなどの動物たち、


樹の上には小鳥が何羽もとまっていた。






「子孫繁栄」という


すべての生命の「幸せ」が


描かれていた。









それは

双子の女性の織子さんが6年くらいかけた、と説明されていた。










絨緞はサイズに合わせて、複数人が並んで織っていくのだが



みんな力加減も癖も違うから



必ずどこかで目に見えないほどの


ズレや狂いが生じる。







しかし双子で織っていく場合、


体格も似ているだろうから


力加減も左右で狂いが少ない。









そして、二人の呼吸がぴったり合うのだろう。






美しすぎて




込められた職人の魂が



恐ろしいほどの魔力をもっている、と感じた。




















『本物』とは、そういうものだ。










素材が良く、輸送量がかかっていて、職人の技術を要する技法で…という


「高価」なものをいうのではない。









文化も人種もすべて超越し、



在りえないものが実在する不思議。









人の心に



癒しと、興奮とを与え



その前で動けなくなって



惚けてしまうモノのことをいうのである。


















私は


その場で


確かに「惚けて」いた。
















価格は「¥100,000,000」 とあった。










その価格に何の違和感も抱かなかったし





価格を見てもなお





「欲しい」という思いが消えなかった。











当然ながら買えるはずもなく


今に至るのだが








あの絨緞はいま、どこにいるのだろうか。








時折、ふと思い出して探してみるのだが



やはり見つからない。










もう日本にはないのかもしれない。









もう一生出逢えないかもしれない。








そう思うと、






どうか大切に扱ってくれる


私のように「惚けて」くれる人の元で




あの魔力を放っていてほしい。







そう願うばかりである。






----------


いいな、と感じたら
↓クリックで応援お願いします。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村



人気ブログランキングへ













































2017年05月13日

徒然草にみる金銭感覚



neko.jpg






私のお金の遣い方は、周りの人と違うな…


と感じることが随分前からあった。







・収入から貯蓄分を差し引いて、余った分でやりくりする。

・節約をして、少しでも貯蓄にまわす。

・価格の高価なものは贅沢なのだから、買う必要はない。我慢せよ。

・貯蓄がたくさんあることが、安心できて素晴らしい。




これらのことが美徳とされていることが

理解できない。







やりくりが必要なら、そもそも収入を上げればよい。




価格はあくまでも「数値」でしかない。

たとえ高価なものであっても、

その価格以上の価値があるのなら、むしろ「安い」というべきだ。




身に余るモノ、不釣り合いなモノを手に入れることが「贅沢」である。




「自分こそが、その高価なモノを最大限に活かせる!」

という自信さえあれば



むしろお金を支払って手に入れることで、経済活動が生まれる。


不要どころか、必要といえる。





貯蓄のために我慢を強いられ続ける生活の

どこに安心して生きていけというのか。







直感的な「理解できない」を

言葉にすると、このようになる。





こう考えるのは、

お金の余裕からくるのでも何でもない。






自分の尺度をもって、モノの価値をみれば


どうしても、このような考えになるのだ。









私の通勤用の靴は、フェラガモの6〜7万円のものだが

全く傷まないため


かれこれ7年間履いている。



無理に長期間履こうとしているのではない。



「長く履けてしまう」のである。






学生時代、就職を前に

奮発して買ったものだが


今思えば、なんら「高い」買い物ではない。



歩き易さを考えれば、


むしろ安いくらいだ。
















トレードを始めてからは

この金銭感覚が間違ってない、という確信がもてたのだが




そもそも、普通に学校に通い、普通に生活してきた中で

どうしてこんなにも周囲と違うのだろう、と

記憶を遡ってみると




高校時代の古文の授業で出逢った


「徒然草」に始まっているような気がする。








第217段「或る大福長者」の話である。





------------------

或大福長者の言はく、

「人は万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。
貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。
徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし。

その心と言ふは、他のことにあらず。
人間常住の思ひに住して、かりにも無常を観ずる事なかれ。
これ第一の用心なり。


次に万事の用をかなふべからず。

人の世にある、自他につけて所願無量なり。
欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫くも住すべからず。
所願は止む時なし。財は尽くる期あり。

限りある財をもちて、かぎりなき願ひにしたがふ事、得べからず。
所願心にきざす事あらば、我をほろぼすべき悪念来れりと、かたく慎み恐れて、小要をも為すべからず。


次に、銭を奴のごとくして使ひもちゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。
君のごとく、神のごとく畏れ尊みて、従へもちゐることなかれ。


次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。


次に、正直にして約を固くすべし。


この義を守りて利を求めん人は、富の来る事、火のかわけるにつき、水のくだれるにしたがふがごとくなるべし。
銭積りて尽きざる時は、宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し」と申しき。



仰人は、所願を成ぜんがために、財を求む。
銭を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。

所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ。
何をか楽しびとせん。

このおきては、ただ人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。
欲を成じて楽しびとせんよりは、しかじ、財なからんには。
癰・疽を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんにはしかじ。
ここに至りては、貧富分く所なし。

究竟は理即に等し。
大欲は無欲に似たり。





------------------



ある大福長者が申しますには、

『人は何事をさしおいても、一途に富を得るべきです。
貧しくては生きている甲斐がありません。富んでいるものだけが人間と言えます。

富を得ようと思うならば是非ともまずその心がけを修行すべきです。

その心がけというのは他でもありません。
人生は永遠に続くものだと考えて、たとえ少しでも無常観を抱いてはいけません。

これが第一の心がけです。


 次に、したいことを何でも望みどおりにしてはいけません。

人が生きている間は、自他共に欲望は無限にあります。
欲に引っ張られて思いを遂げようとしたら、百万の銭があっても、ちょっとの間だって手元に残りません。

欲望には限りがありません。財産には限りがあります。

限りのある財産で、限りのない欲望を満たし続けることはできません。

欲望が心に芽生え始めたら、自分を亡ぼす悪霊が来たと思って、
しっかり慎み恐れて、ほんのちょっとしたことでも充たしてはいけないのです。


 次に、お金を下僕のように使うものだと考えていると、長く貧苦を免れません。

お金を主君のように、神のように畏れ敬って、
ちょっとでも召し使うということをしてはならないのです。

 
次に、(お金のことで)恥ずかしい目にあっても、怒ったり、恨んだりしてはいけません。

 
次に、正直にして約束は堅く守るべきです。 

 
以上の条理を守っているならば、富が来ることは、
火が乾いたものに燃え移り、水が低い方に流れるようなものです。

お金がたくさん貯まってきりがないときは、
酒宴を開かず、美女に熱中せず、住居も飾らず、自分の欲望を満たさなくても、
心は常に安らかで楽しいものです』

と申しました。




 そもそも人は欲望を満たすためにお金を必要としています。

お金を財と思うのは、願いをかなえるためです。
欲望があっても満たさず、お金があっても使わないのなら、それは貧者と同じでしょう。

なんの楽しみもありません。
 

この大福長者の話は、ただ人間の望みを断ち切り、貧しさ(我慢)を気にしないように、
と言っているように聞こえます。

悪性のできものを病む人が、水で洗って『気持ちがいい』などと言っているより、
初めから病気にならないほうがよい、というようなものです。

こういうことならば、貧富の区別がありません。


蓄財の欲望を満たすことを楽しみとするよりは、

むしろ、財産などないほうがよいのでしょう。


最高位の悟りの境地は、最低位の迷いの状態と等しいものだが


それと同じで、欲が大きかろうが無かろうが、結局同じものです。」




(以上、別ブログより引用)

------------------





吉田兼好は、長者の批判をしているのみで

「こう生きるべきだ」とは指南していないのだが



【お金】というものに対して


正しい意識をもっている。





「【お金】をたくさん貯めこんでいれば、

豪奢な生活ができずに欲望を満たせなくても、安心できる。」



という長者に対して







欲望を満たし、解消するのが、お金である。


⇒欲望があって、お金を貯めるのなら、遣うのが当然だ。







欲望があってもお金を遣わないのは、

おできの病人が、病に耐え抜いて、

痛みを忘れて安堵し、喜ぶのと同じ。

それなら、はじめから病気になどならない方が良い。




⇒我慢して、お金を貯めること自体を愉しいとするのは本末転倒。







と言っている。









吉田兼好は僧侶であるから、「無常観」をもっている。




私の師も、

「今日と同じように明日が来る保証はない。」

「明日、死ぬとしたら?(今、どんな行動にでるか?)」


という表現をする。








私の師は、思想家・宗教家なのではない。








トレーダーとして、

いつかの段階で【お金】を究極的に考えたことから


その思考法は起因し、


思考の核となっているのだと思う。











【お金】は、

流通する市場の中にいる人(=国民)が


1枚の銀行券を

「これは1万円の価値がある」などと共通して理解し

信用をおいているモノにすぎない。




単に人々の信用の上にしか成り立っておらず

その「信用」が永遠だとの保証はなく、

むしろ、このご時世いつ崩壊してもおかしくない。







多くの人が1枚の銀行券に対して妄信的になっているが


【お金】は、もとは単なる紙っぺらである。








師の無常観は、

この事実を深く深く理解した上で


さまざまなことを考えている結果なのだと思う。







勿論、師は、すべてをお金で考えるようなことは一切しないし


むしろ直感的・感覚的に捉えるよう、教えてくれるが




トレーダーであれば、皆、



「お金って何だ?」と考えることがあるだろう。







大きく利益を出したトレーダーは


ほぼ全員がお金の猛者になり、


うち少しの冷静な猛者は


大福長者のように考えるかもしれない。





しかし

トレーダーは、無常観をもたずにはいられないはずだ。



今の株価が、1分後にはどうなっているかわからない。




ましてや、明日の株価なんて

誰も知る由もないのだ。















私は、豪奢な生活をしたいわけではない。


『生を受けたからには、地球を愉しみ尽くしたい』。



だから、師の思考法を吸収していきたいと思っている。









生活も、所作も、佇まいも、


行動のひとつひとつ、


思考に至るまで



すべてを鍛え上げて「愉しみたい」のだ。









感動したモノ、美しいモノ、手に入れたいと思ったモノは


価格がいくらであろうと、手に入れることが「愉しみ」だし





物欲や自己の満足を超えて




自己超越の欲求、利他的な欲求を満足させたいというのが



師や仲間たちの見据える




究極の「愉しみ」である。







私はそれが、究極の「カッコよさ」だと思う。










吉田兼好の「愉しみ」が



何だったのかはわからないが




「徒然草」を執筆していることを踏まえると




自分の達観した思考を


少しでも多くの人に伝える、という





利他的な「愉しみ」があったに




違いない。





そこにはやはり、



800年前の「カッコよさ」が





詰まっているのだ。










----------


いいな、と感じたら
↓クリックで応援お願いします。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村



人気ブログランキングへ



































2017年04月30日

トレーダーとして「時は金なり」を考えてみる




「時」というものを考えるのは



簡単なようで、難しい。







ヒトは


太陽が昇って沈むまでを1日とし、



それを24で割ったり、

さらに60で割ったりして




「時」を捉えている。







「時」というと、

私の頭の中には

時計の文字盤が浮かぶ。



アンティーク調の、

不思議な雰囲気の漂う文字盤だ。




しかし、そんな文字盤とは

あくまでも

ヒトが「時」を見える化したものすぎない。






また、

世界中の時計の針が

同じ速さで動くから


誰にでも平等に

与えられているような気がするが




果たして

本当に平等なのだろうか?とも思う。






師は

「『時は金なり』の意味を、ほとんどの人が誤解している」と言う。


「時間はお金と同じぐらい大切だ」という解釈は

違うのだという。








ようやくその意味が、



うっすらと掴めつつある。











目に見えない「時」に対しての考えを


どんな風に書き記したらよいものか。



その力は、まだ私にはない。





だが、自分の理解のためにも

書いてみようと思う。









まず、「時間がない」という表現について。



すべきことが多く、余暇・余裕がない。

忙しい。



そんな時に使う。



こういう人は、ほぼ全員が

焦り、慌て、苛立っている。





「忙殺」という言葉どおり

心が死んでいる。





死んでいるというか、

私には


「心の亡骸」が

ゾンビのように彷徨い、

日々を過ごしているように見える。







一方で、

充実した時間を過ごしている人は



ハツラツとし、おおらかで、

他者への心配りもできる。







実際に好きなことに時間を費やしている間、

目の前の好きなことで頭も心も満たされる間、




自分が人間の体をもって、



今、



地球上に存在していることさえ





忘れている。










意識の世界に飛んでいるというか、



集中の境地にいるというか、




例えば、愉しくて満面の笑顔でいることも

忘れている。








「自分」はふわっと


どこか愉しい所に飛んで行っていて



「体」は置いてきぼりにあう。







心と体が分離する状態だけをみると

「忙殺ゾンビ」と同じなのは、

皮肉なものだ。(笑)





「忙殺」の対義語がないのが

愉しんでいる人がいないことを示しているようで

これもまた、皮肉なものである。







説明するに不便なため

「忙殺ゾンビ」の反対は

「魂が悦んでいる人」と表現することにする。













さて、「時」の話に戻るが


地球上の生物は皆、



同じ時間軸に乗っている。






だがそれは、

「与えられた時間が平等」ということではない。




仮に「時間は与えられるもの」だとすると


忙殺ゾンビは、「時間を奪われている」。




一方、

魂が悦んでいる人は「時間を費やしている」。












「時は金なり」の言葉どおり


お金に置き換えると、よくわかる。





この世に生まれて、

皆一定の「お金」が与えられるとする。






忙殺ゾンビは、お金を奪われ、さらに奪われ、

ますますゾンビ化が進む。


そんな中にあっても

ゾンビには、お金を与えられる機会など

あるはずもない。




奪われることしかなく、奪われ尽くして

気付いた時には

死期が迫っている。




心が死んでゾンビなっていたのに、

「死期を迎える」という2度目の死がやってくるのだ。








一方、魂が悦んでいる人というのは

与えられたお金を

好きなことに費やす人だ。



これはつまり、「投資」である。





自分の元からお金が出る、という流れる方向は

忙殺ゾンビと同じなのだが

能動的であって、愉しんで出している。







ここに大きな違いがある。









お金に置き換えたが、

お金ならば出て行った分が

戻ってくることもあるだろう。




しかし、時は帰ってこない。

出していくばかりであり。




できるのは、

時の質や価値を上げることで

±0、もしくはプラスに転じることだ。











「時を、どのように、自分の元から出すか」



ここに、

与えられる時間の不平等(=価値の違い)が生まれる。







魂が悦んでいる人は、


愉しむことに費やす時間に先んじて、意識の始点がある。





忙殺ゾンビは、


意識に先んじて、時間の始点がある。







たったこれだけのことで



与えられた時の質が変わり、


価値が変わり





さらには


生きている存在価値さえ変わってしまう。









生きている存在価値とは、


その人の影響力に直結する。





影響力とは、

お金(収入)に直結する。










【 時は金なり 】



シンプルすぎる表現だが

奥が深すぎる。








どこの誰が言い始めたのかは、わからない。






だが、きっと


このシンプルの中には





「真意を考えなさい」と諭す優しさが






込められているのだろう。











----------


いいな、と感じたら
↓クリックで応援お願いします。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村



人気ブログランキングへ
































posted by ミト at 00:00| トレードの精神
忘れられない景色
ジャマ・エル・フナ広場の熱気
フナ広場.jpg
写真ギャラリー
検索
プロフィール
ミトさんの画像
ミト
生きることを本気で考えれば、 日々、洗練されてゆく。 その先には、必ず 人生の絶景がある。
プロフィール
<< 2017年05月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ