自己愛性人格障害者というのは、自分が原因で何か悪いことが起きた時、全力で自分は悪くないと思い込もうとします。
その為に、誰かのせいにしたり、誰かをいじめてスッキリしたり、記憶を改ざんしたりします。
つまり、自己愛性人格障害者に復讐しようとしても、健常者のように罪悪感を抱いたり反省することが出来ないので、「うわ〜ごめんなさい〜もうしません〜〜」と、勧善懲悪の物語の悪役のように心を入れ替えて真面目に生きていくということがないわけですね。
何しろ一過性の病気ではなく障害ですから。
いつも通り、誰かのせいにしたり、誰かをいじめてスッキリしたり、記憶を改ざんしたりしてすぐに元に戻ってしまうわけです。
誰かに嫌がらせをされた時、やり返したい!復讐したい!再起不能にしてやりたい!と考えると思います。
しかし、自己愛性人格障害者に復讐するのはまず無駄だと考えた方が良いでしょう。
彼らは光の速さで復活します。
だから、一番良いのは自己愛性人格障害者と距離を置くことです。
そして、遠くから生暖かく見守ってあげるのです。
彼らは一生同じようなことを繰り返しますよ。
何しろ障害ですから。しかも無自覚。
下手に近づけば、彼らが勝者になるための敗者の役割を永遠に押し付けられるだけです。
傍から見れば幸せそうですが、結局は常に目先の勝利しか考えない何の深みもないむなしい人生なんですよ。
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2017年02月26日
2017年02月16日
職場の自己愛観察C
モラハラするタイプの自己愛性人格障害者から逃げた先の、移動先の部署の課長がかなり強烈な自己愛性人格障害者だったという話は以前書いた(職場の自己愛観察B)のですが、色々やらかしすぎてついにその課長(A課長とします。)は左遷されることになったようです。
もともと部署にはもう一人B課長というのがいて、前々からA課長から陰湿な嫌がらせを受けていたようでした。(いわばタゲられていたような感じでしょうか)
しかし、B課長も出世するだけあって泣き寝入りして鬱になるようなタイプではなかったらしく、部長に色々掛け合ったりして今回のA課長の左遷にも一枚嚙んでいたようです。
これでA課長も終わりだなと思っていたのですが、A課長の後任としてやってきたC課長に、どうやらA課長が色々と吹き込んだらしいのです。
C課長が引き継ぐ予定の仕事がどれだけ大変か、とか。
B課長の仕事は適当だ、とか。
このままでは人手不足で仕事が回らない、とか。
そうして不安を煽られたC課長は、B課長の部下を横取りしようとB課長と激突してしまいました。
しかしそこはB課長。
しっかりと部長に根回しし、C課長の暴挙を最小限の被害で食い止めたようです。
裏で手を引いていたA課長の悔しそうな顔が目に浮かびます。
それにしてもB課長。
普段の仕事ぶりは微妙なのですが、上への取り入り方がよほど上手いんだなぁと思いました。
(そこは見習いたい。)
まぁ、こんな感じで自己愛性人格障害者は、人の不安を煽り、コントロールしようとします。
気をつけましょう。
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もともと部署にはもう一人B課長というのがいて、前々からA課長から陰湿な嫌がらせを受けていたようでした。(いわばタゲられていたような感じでしょうか)
しかし、B課長も出世するだけあって泣き寝入りして鬱になるようなタイプではなかったらしく、部長に色々掛け合ったりして今回のA課長の左遷にも一枚嚙んでいたようです。
これでA課長も終わりだなと思っていたのですが、A課長の後任としてやってきたC課長に、どうやらA課長が色々と吹き込んだらしいのです。
C課長が引き継ぐ予定の仕事がどれだけ大変か、とか。
B課長の仕事は適当だ、とか。
このままでは人手不足で仕事が回らない、とか。
そうして不安を煽られたC課長は、B課長の部下を横取りしようとB課長と激突してしまいました。
しかしそこはB課長。
しっかりと部長に根回しし、C課長の暴挙を最小限の被害で食い止めたようです。
裏で手を引いていたA課長の悔しそうな顔が目に浮かびます。
それにしてもB課長。
普段の仕事ぶりは微妙なのですが、上への取り入り方がよほど上手いんだなぁと思いました。
(そこは見習いたい。)
まぁ、こんな感じで自己愛性人格障害者は、人の不安を煽り、コントロールしようとします。
気をつけましょう。
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2017年02月13日
境界線を引くということ
世の中には、引いておくべき境界線がいくつもあります。
■感情についての境界線
感情の境界線があいまいだと、自分の感情を偽ったり相手の感情に合わせすぎたりしてしまうそうです。
また、相手の感情を自分の思い通りにしようとする場合もあるそうです。
■責任の境界線
責任の境界線があいまいだと、他人の負うべき責任まで引き受けてしまったり、他人の仕事に首を突っ込みすぎたりしてしまうそうです。
■お金の境界線
お金の境界線があいまいだと、他人にお金を貸してと言われて断れなかったり、他人に返す当てもないのにお金を借りてしまうそうです。
■性的な境界線
性的な境界線があいまいだと、望まない異性関係を受け入れてしまったり、性的な関係を断ることに罪悪感を抱いてしまうそうです。
また、不倫に走ってしまうのも性的な境界線があいまいなことが原因だそうです。
■体の境界線
体の境界線があいまいだと、自分がどれくらい疲れているかよくわからなかったり、自分の体のSOSを無視してしまうそうです。
■時間の境界線
時間の境界線があいまいだと、公私を混同したり、相手の希望に無理に合わせてしまったりするそうです。
誰しもどれか一つくらい当てはまることがありそうですよね。
特に、責任と時間の境界線があいまいなのは、日本の労働環境にはびこっている問題だと思います。
責任と時間の境界線があいまいなために、休日出勤や深夜残業などということが発生するし、社会全体も境界線があいまいなことを問題にしていない、むしろあいまいな人の方を称賛するような雰囲気があると思います。
うちの職場にもいるんですよね…。
自分に責任はないのに他人が困っていると頼まれてもないのに休日出勤しちゃう人が。
だからいつまで経っても職場環境は改善されないんだなぁと、実感しました。
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■感情についての境界線
感情の境界線があいまいだと、自分の感情を偽ったり相手の感情に合わせすぎたりしてしまうそうです。
また、相手の感情を自分の思い通りにしようとする場合もあるそうです。
■責任の境界線
責任の境界線があいまいだと、他人の負うべき責任まで引き受けてしまったり、他人の仕事に首を突っ込みすぎたりしてしまうそうです。
■お金の境界線
お金の境界線があいまいだと、他人にお金を貸してと言われて断れなかったり、他人に返す当てもないのにお金を借りてしまうそうです。
■性的な境界線
性的な境界線があいまいだと、望まない異性関係を受け入れてしまったり、性的な関係を断ることに罪悪感を抱いてしまうそうです。
また、不倫に走ってしまうのも性的な境界線があいまいなことが原因だそうです。
■体の境界線
体の境界線があいまいだと、自分がどれくらい疲れているかよくわからなかったり、自分の体のSOSを無視してしまうそうです。
■時間の境界線
時間の境界線があいまいだと、公私を混同したり、相手の希望に無理に合わせてしまったりするそうです。
誰しもどれか一つくらい当てはまることがありそうですよね。
特に、責任と時間の境界線があいまいなのは、日本の労働環境にはびこっている問題だと思います。
責任と時間の境界線があいまいなために、休日出勤や深夜残業などということが発生するし、社会全体も境界線があいまいなことを問題にしていない、むしろあいまいな人の方を称賛するような雰囲気があると思います。
うちの職場にもいるんですよね…。
自分に責任はないのに他人が困っていると頼まれてもないのに休日出勤しちゃう人が。
だからいつまで経っても職場環境は改善されないんだなぁと、実感しました。
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2017年02月11日
依存と共依存
アメリカでは、「もし世の中に共依依存症者が一人もいなければ、一人の依存症者もいないだろう」なんて言葉もあるそうで、依存症者と共依存症者というのは表裏一体の関係にあります。
簡単に言うと、依存症者というのは、何か(アルコール、ギャンブルなど)に依存している人のことを指し、共依存症者というのは、依存症者を助けるつもりがその依存症状をより強固にしてしまうような関係のことを言います。
例えば、ギャンブル依存症で借金がある人の場合、誰もお金を貸さなければ「あぁ、このままでは自分はダメだ。」と底をつく体験をし、あとは浮上するしかなくなることで依存症は改善します。
しかし、ギャンブル依存症者にお金を貸してしまう共依存者がいた場合。
ギャンブル依存症者はお金があるので依存症はいつまで経っても治りません。本人も治す気になりませんし、お金を貸してくれる共依存者への罪悪感でもっとギャンブルの快感を求めてしまう可能性すらあります。
例えば、主人がギャンブル依存症で、私が共依存者だったとすれば、以下のような感じのストーリー(ストーリー@)が考えられます。
【ストーリー@】
主人は自分のギャンブル依存症を治したいと思いつつ、嫌なことがあったりすると一時の快感を求め、ギャンブルに行ってしまいます。
私は主人に「もう家にはお金がないんだよ。このままではまつ男(子供の仮名)の学資保険にまで手を出さなければいけなくなる。もうギャンブルはしないと約束して」と言い、主人も一時はギャンブルに行かなくなりましたが、仕事で嫌なことがあったり、ギャンブルができないというフラストレーション、また私に対する罪悪感から「ちょっとだけならいいか。」と、またギャンブルに行ってしまい、結局また200万円の借金を作ってしまいました。
私は結局まつ男の学資保険を解約し、主人の借金を清算しました。
上記の例の私のような共依存に陥りやすい人の特徴として、過去に喪失体験をしているということが多いそうです。
喪失体験とは、身近な人を失ったとか、大切なものを失くしたとか言うものを想像しがちですが、本来得られるべきものを得られなかったという場合にも使用されるそうです。
例えば、家族に依存症者がいたり、幼児虐待をするような家庭だったり、過干渉な親がいるような場合です。
これらはすべて、子供が本来得られるはずだった「安全で安心な環境」を喪失している状態であり、これも立派な喪失体験なのです。
本来子供というのは「安全で安心な環境」で育つことにより、自己と他己の境界線を適切に引くことができます。
しかし、喪失体験をしている場合、その境界線があいまいになってしまうのです。
そうすると、相手の責任を自分の責任に感じたり、相手を自分の思い通りにコントロールしようとするようになります。
そうすることで、自己肯定感を高め、満たされなかった喪失体験を満たそうとするのです。
しかし、相手に幸せを依存している限り、相手に振り回され結局自分が疲弊することになるのです。
上記のストーリー@は以下のストーリーAにつながっていきます。
【ストーリーA】
私は主人がギャンブル依存症だと知っていつつも「私が彼のギャンブル依存症を治す。私だったら治せる!」と結婚しました。
結婚後しばらくは主人のギャンブル依存症も収まっており、私もうれしかったのですが、まつ男誕生後、またギャンブル依存症が再発してしまいました。
私たちは何度も話し合いを行い、そのたびに主人はもうギャンブルはしないと誓ってきました。
でも主人は最近またギャンブルで300万円の借金を作ってしまい、私は実家から家のローン返済名義で300万円借りて清算しました。
私は最近気分の落ち込みが酷く、カウンセリングに通っています。
上記の例の私は、結局主人に振り回された結果、自分の心を病んでしまいました。
そのようにならないためにも大事なことは、以下のことをクリアにすることだそうです。
1.問題を解決するのは誰か?
2.私にできることは何か?
3.私の責任には何か?
ストーリーAをベースに考えると、
1.は、ギャンブル依存症を治すのは主人です。
2.はもうこれ以上お金を出さないことになります。
3.はまつ男を適切な環境で育てることになります。
上記の1.〜3.を明確にしておけば、ストーリーAに続くストーリーBは私たち家族にとって良いものになる事でしょう。
しかし、1.〜3.が不明確なまま、つまり私が主人との境界線を適切に定めないまま物語が進めば、ストーリーBはさぞかし悲惨なものになるであろうことは想像に難くありません。(私→入院、子供→施設、主人→ヤクザに追われる、みたいな。)
大事なことは、他人中心で生きるのではなく、自分中心で生きることです。
自分はどう感じ、何を幸せに思っているのかを常に念頭に置いておけば、他人を助けるときも振り回されなくて済むのです。
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簡単に言うと、依存症者というのは、何か(アルコール、ギャンブルなど)に依存している人のことを指し、共依存症者というのは、依存症者を助けるつもりがその依存症状をより強固にしてしまうような関係のことを言います。
例えば、ギャンブル依存症で借金がある人の場合、誰もお金を貸さなければ「あぁ、このままでは自分はダメだ。」と底をつく体験をし、あとは浮上するしかなくなることで依存症は改善します。
しかし、ギャンブル依存症者にお金を貸してしまう共依存者がいた場合。
ギャンブル依存症者はお金があるので依存症はいつまで経っても治りません。本人も治す気になりませんし、お金を貸してくれる共依存者への罪悪感でもっとギャンブルの快感を求めてしまう可能性すらあります。
例えば、主人がギャンブル依存症で、私が共依存者だったとすれば、以下のような感じのストーリー(ストーリー@)が考えられます。
【ストーリー@】
主人は自分のギャンブル依存症を治したいと思いつつ、嫌なことがあったりすると一時の快感を求め、ギャンブルに行ってしまいます。
私は主人に「もう家にはお金がないんだよ。このままではまつ男(子供の仮名)の学資保険にまで手を出さなければいけなくなる。もうギャンブルはしないと約束して」と言い、主人も一時はギャンブルに行かなくなりましたが、仕事で嫌なことがあったり、ギャンブルができないというフラストレーション、また私に対する罪悪感から「ちょっとだけならいいか。」と、またギャンブルに行ってしまい、結局また200万円の借金を作ってしまいました。
私は結局まつ男の学資保険を解約し、主人の借金を清算しました。
上記の例の私のような共依存に陥りやすい人の特徴として、過去に喪失体験をしているということが多いそうです。
喪失体験とは、身近な人を失ったとか、大切なものを失くしたとか言うものを想像しがちですが、本来得られるべきものを得られなかったという場合にも使用されるそうです。
例えば、家族に依存症者がいたり、幼児虐待をするような家庭だったり、過干渉な親がいるような場合です。
これらはすべて、子供が本来得られるはずだった「安全で安心な環境」を喪失している状態であり、これも立派な喪失体験なのです。
本来子供というのは「安全で安心な環境」で育つことにより、自己と他己の境界線を適切に引くことができます。
しかし、喪失体験をしている場合、その境界線があいまいになってしまうのです。
そうすると、相手の責任を自分の責任に感じたり、相手を自分の思い通りにコントロールしようとするようになります。
そうすることで、自己肯定感を高め、満たされなかった喪失体験を満たそうとするのです。
しかし、相手に幸せを依存している限り、相手に振り回され結局自分が疲弊することになるのです。
上記のストーリー@は以下のストーリーAにつながっていきます。
【ストーリーA】
私は主人がギャンブル依存症だと知っていつつも「私が彼のギャンブル依存症を治す。私だったら治せる!」と結婚しました。
結婚後しばらくは主人のギャンブル依存症も収まっており、私もうれしかったのですが、まつ男誕生後、またギャンブル依存症が再発してしまいました。
私たちは何度も話し合いを行い、そのたびに主人はもうギャンブルはしないと誓ってきました。
でも主人は最近またギャンブルで300万円の借金を作ってしまい、私は実家から家のローン返済名義で300万円借りて清算しました。
私は最近気分の落ち込みが酷く、カウンセリングに通っています。
上記の例の私は、結局主人に振り回された結果、自分の心を病んでしまいました。
そのようにならないためにも大事なことは、以下のことをクリアにすることだそうです。
1.問題を解決するのは誰か?
2.私にできることは何か?
3.私の責任には何か?
ストーリーAをベースに考えると、
1.は、ギャンブル依存症を治すのは主人です。
2.はもうこれ以上お金を出さないことになります。
3.はまつ男を適切な環境で育てることになります。
上記の1.〜3.を明確にしておけば、ストーリーAに続くストーリーBは私たち家族にとって良いものになる事でしょう。
しかし、1.〜3.が不明確なまま、つまり私が主人との境界線を適切に定めないまま物語が進めば、ストーリーBはさぞかし悲惨なものになるであろうことは想像に難くありません。(私→入院、子供→施設、主人→ヤクザに追われる、みたいな。)
大事なことは、他人中心で生きるのではなく、自分中心で生きることです。
自分はどう感じ、何を幸せに思っているのかを常に念頭に置いておけば、他人を助けるときも振り回されなくて済むのです。
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