アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
プロフィール

評論家
36歳・独身、親元実家暮らし、第一子で長男、現住所は東京都内。 35歳の時に痛感したのは、自分の宿業(カルマ)=宿命というテーマ。 私は既に以前までの生き方や生活を変えているのに、周囲の私に対する印象は変わっていない。 私は既に何人かの女性たちとオフパコしている(中出しも経験済み)のに、周囲には未だに童貞だと勘違いされている。 子供の頃は据え置き型ゲームの熱心なプレイヤーでしたが、それはもう15年以上前に辞めていて、今は自宅に一機もゲーム機を持っていないのに、周りの同世代からは未だにゲーマーだと誤解されている。 また、18歳〜20代前半までは確かにひきこもり系ニートでしたが、今は外で働ているのに、未だにニートではないかと周りは疑っている。 真面目にやっているのに、誤解しかされていない。これが私の宿業(カルマ)=宿命です!\(^w^)/
リンク集
<< 2014年12月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
最新記事

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
2014年12月22日
こんなモノ、欲しいのかぁ〜?(/0\)








1EgH_uBxwzCwpp4V84pCBU.jpg


最近のニュースで、東京駅百周年記念発行の限定Suicaが話題になっていますが(販売中止になって東京駅で暴動が起きたとか)、戦後最低の投票率を更新した今月の比例代表選挙には、殆ど並ぶ人がいなかったですね。新型スマートフォンやOS新機種の発売、または限定品には行列が出来る傾向がありますが、統一地方選挙の投票で人だかりや行列が出来たという事は未だ嘗てない事です。日本の政治家は、この事実を重く受け止めるべきでしょう。

無論、これまでの記事から皆さんが察せられるように、私は、その限定Suicaとやらには全く興味がないので、暴動や怒号が起きた時に東京駅には居ませんでした。買い物をする際に、皆の持っているモノは私も欲しい、という考えの人たちが日本にはかなり多いらしいですが、私のスタンスはコレとは全く逆ですね。つまり、

皆が持っているモノとは、違うモノが欲しい!

コレが、私の買い物のスタンスであり、コレクションの神髄です。

ですから、私は毎回、政党選挙の時には、投票に行きますけれど、新型スマートフォンやOS新機種の発売、その他限定品の為に並んだ事は一度もないのです。

一般的に、私の世代の不良とかワルと云われる人たちは、その時々のトレンドに鋭敏に反応する習癖があって、だからこそ、限定品や新型が流行すると、すぐにその行列に徹夜して並ぶという傾向があるようですが、一世代昔の不良やワルと云われる人たち(高倉健や菅原文太の世代)は明らかにこの傾向とは異なっていた筈です。

私は昨今のトレンドを軽蔑していますし、そのトレンドを追っている昨今の不良やワルをも大した事ないとさえ思っているのです。

結局、これまでの文脈から判断するなら、私は昨今のトレンドや限定品の価値を個人的に承認していない訳で、その価値を承認した人たちは徹夜組しながらその行列に並ぶのです。そのトレンドや限定品に欲望を感じたとするなら、それらの行列に並んだ人たちは、その価値を肯定的に承認している事になりますから。

これまで綴って来た通り、

その対象の価値を承認しなければ、それは欲望の対象とはなり得ない!

というわけですね。

詩人の古賀学故は、何かに挑戦する事を渋る人たちに対して、「林檎の味は食べてみなければ分からない」という事を繰り返し強調する人なのですが、

林檎の味がその人にとって価値があるか否かは、やはり、本人の味の好みが判断する事で、林檎を特に美味しいと思わない人たちは、やはり、その後で自発的に林檎を食べる事はまずないでしょう。

閑話休題。

最近、放送大学ラジオで、大卒の若者に、学生時代に何をしていたかインタビューする番組があったのですが、私はそれを聴いていて、自分が学生の頃とだいぶ違うなぁという感慨を持ちました。

ある男子学生は、陸上競技のサークル活動が学生生活の中心で、ある女子学生は海外旅行をする為にアルバイトを重ねたとか、主に、サークル活動と旅行とアルバイトがその生活の中心で、19歳の頃の私よりも遥かにアグレッシブな活動をしている訳です。

そのインタビューの中で、古典を読むとか、テクストの研究をすると回答した若者は一人もいなくて、大学の講義というのは、学生のそういう勉強をサポートする為に存在していると考えていた私は、肩透かしを喰らったわけです。

文芸評論家の渡部直己も、

「大学の講義は、書物(古典)への誘致の場!」

と明快に言い切っています。

私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる小説・批評・思想ガイド

新品価格
¥2,484から
(2014/12/22 15:20時点)




旅行やアルバイトやスポーツには欲望を感じなかった19歳以降の私は、古典の読解やテクストの研究に注意が傾いていて、他の事にはほとんど価値を感じていませんでしたね。

語学を学んだり、海外旅行をしたりするにせよ、その先にある目標は、古典を原書で読んだり、宗教建築を観光したりする事が狙いで、このインタビューに回答していた学生のほとんどは、当時や今の私とは全く違う現実認識というか現実感覚で行動しているような気がしましたね。

要するに、これらの学生のほとんどは机上の学問よりも、「経験重視」だという事に尽きるのではないでしょうか?

私は余り、経験で人を見たりしないので、学問だけの象牙の塔で、日夜研究室にこもって、一人で論文を書き続ける人生の方がよっぽどマシだと思ってしまうのですが(−−;

戦争中毒―アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由

新品価格
¥1,404から
(2014/8/20 14:23時点)




眠狂四郎 DVD-BOX

新品価格
¥28,184から
(2014/2/2 05:29時点)




座頭市 DVD-BOX

新品価格
¥32,250から
(2014/2/2 05:26時点)




アルフレッド・ヒッチコック THE MEISTER OF SUSPENSE DVD-BOX

新品価格
¥9,480から
(2014/2/2 05:32時点)




ジャン=リュック・ゴダール ジガ・ヴェルトフ集団 DVD-BOX (初回限定生産)

新品価格
¥10,839から
(2014/2/2 05:31時点)
























Posted by 評論家 at 14:02 | この記事のURL
2014年12月08日
正典の選択も、真理の判断も、対象との「関係性(=縁)」で決まる!\(^0^)/








引き続き、対象との「関係性(=縁)」がもたらす価値の差異、そこから生じる個々人の欲望の差異について論じます。

牧口常三郎が提示した「善・美・利」の三価値だけではなく、私が提唱した「情報価値・利益価値(利的価値)・性的価値」の三価値も、本人と対象との「関係性(=縁)」によって、その対象に個々人が感ずる価値の差異が生まれ、それが個々人の欲望の差異を生成させる。

価値論 (レグルス文庫)

新品価格
¥972から
(2014/12/9 14:51時点)




ここまでは復習で、私の個人的な見解では、カントが提唱した「真・善・美」の三価値も、本人と対象との「関係性(=縁)」の域を越えて判断される事は皆無だと思うのですよ。

つまり、カントが提唱した「真理」という価値も、実際には、個々人によって何を真理とするかの判断が千差万別で、「真理」という究極の価値においてすら、本人と対象との「関係性(=縁)」によって、考え方が異なって来る。

「真理」を提唱する者も、畢竟、その人やその人が立脚する立場、所属する組織と、その対象との「関係性(=縁)」において、それを論じたり考察したりするだけであって、

多くの人が同じように「真理」に言及すれば、それぞれの人がそれぞれの立場や組織で向き合う、その対象との「関係性(=縁)」は自ずと異なっている為に、「真理」に対する見解そのものに差異が生じてしまうのだ、

というのが、今の私の考えなわけです。

実は、これは「正典」も同じです。

私が提唱した「正典主義」とは、「昔の家には本とラジオとレコードしかなかった」という老作家の一言に端を発し、それなら真に有益で創造的な生活をする為には、漫画・アニメ・ゲーム、日本のポップス等々の近年のサブカルチャー性を実生活上から悉く排除し、白黒映画を音響装置で観たり、カラダを鍛えたり、その他には活字の本だけを読むようにし、音楽にもそれなりに造詣を深めるのがとても有効だという独自の生活スタンスです。

ですが、その事は一旦、脇に置いて、何を正典とするかも、実は様々な作家や批評家の立場によって、自ずと異なって来る訳です。

中学や高校で習う日本の近代文学には、圧倒的に漱石や鴎外、私小説作家や純文学作家が多いですが、その一方で、日本の探偵小説の歴史には、その探偵小説の歴史において重要だとされる古典=正典がある事は、皆さんも御存知だと思います。江戸川乱歩や横溝正史の他にも、探偵小説の名作を書いた作家は多い訳で、実際に、専門家の研究の視座で捉えれば、それらの作品も立派な文化資本として扱われる訳です。

コレは欧米でも同じです。

欧米では幻想文学やゴチック小説(いわゆる怪奇小説)というジャンルが、ダンテやゲーテやバルザックが生きていた時代から存在していて、紀田順一郎や荒俣宏といった古書の専門家は一時期、その方面の文学大系を日本語に翻訳する為に全集を編んだ事もある訳です。

ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』やメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』も、欧米の怪奇小説史における立派な名作=古典(正典)です。

勿論、皆様も御存知の通り、推理小説や探偵小説というジャンルの場合にも、欧米には、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズやモーリス・ルブランのアルセーヌ・リュパンの伝統があり、ミステリーの歴史を総括する場合には、これらも推理小説史における「古典」=正典となる訳です。

中国には『西遊記』、『三国志』、『水滸伝』、『金瓶梅』、『紅楼夢』という五大奇書の伝統があり、その系譜において、近代作家の魯迅がいて、エンタメ系では、金庸の武侠小説十二部があり、ノーベル賞を受賞した莫言がいる。

(余談ですが、90年代の香港映画界を風靡した『ワン・チャイ』シリーズの監督、ツイ・ハークは、金庸の武侠小説の大ファンだったそうです。幼かった頃の私も、ツイ・ハークの映画と金庸の作品には、根底で通底するモノがあると思いました。)

190px-Tsui_Hark.jpg


私が批判の対象にしていた漫画・アニメ・ゲーム、ライトノベルにさえ、その方面の名作=正典と云われるものは必ず存在しているでしょう。

ですが、私が意識している世界文学とは、

純文学やノーベル賞の名作、古代の聖典だけではなく、推理小説・探偵小説、ゴチック小説(怪奇小説)、幻想小説、中国の古典や金庸の武侠小説十二部をも一切を包含している事が前提で、それぞれのジャンルの正典を踏破するには、人文科学・社会科学系統の古典をも自家薬籠中の物とする事を踏まえるならば、漫画・アニメ・ゲームやライトノベルを端緒とするサブカルチャーを一切排斥しなければ、人生の時間が無くなってしまうわけです。

人生は元々、短いモノだと私は何度も書いた筈です。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

新品価格
¥907から
(2014/12/9 14:56時点)




正典主義の理念の下に蒐集された私のコレクションには、中国の五大奇書や金庸の武侠小説十二部が全巻揃っていますし、人文科学・社会科学系統の古典も主要なものは全て揃えています。私の借金とは、正典主義の理念とこのコレクションの為だった訳です。

ですが、私のこの考えも、立場が異なる人からすれば、勿論、私一人の勝手な考えです。

小説の正典、人文科学・社会科学の正典、白黒映画の正典、黒人ジャズやギャングスタラップの正典、いずれも、私自身とその対象との「関係性(=縁)」において、私はそれらの対象に重要な価値を与えている訳ですが、それはあくまで私一人にまつわる「関係性(=縁)」であり、私一人の価値観の基準に過ぎませんね。

私を批判したHN鶏ガラ野郎やHNアンダーソン(香取勇進)からすれば、私一人のこの価値論には「矛盾している」とか、批判の余地があると解釈されてしまう訳です。

彼等が何故、私自身の価値論=「関係性(=縁)」に対し、批判を加えたかったのか、彼等自身の生活を全く知らない私には、その批判の動機に関して全く思い及ぶところがないのです(コレは事実を書いています)。

その対象に価値があるか否かは、私本人からすれば、あくまで私自身とその対象との「関係性(=縁)」によって推し測られるのが事実ですから。

赤の他人であるHN鶏ガラ野郎やHNアンダーソン(香取勇進)が横から、私一人とその対象との「関係性(=縁)」に介入したり、干渉したりするのは絶対に間違いだと思います。

私はお前じゃないし、お前とその対象との「関係性(=縁)」と、私とその対象との「関係性(=縁)」は明らかに違う訳です。

私一人とその対象との「関係性(=縁)」を巡る価値論において、わざとその関係性に横槍を入れたり、邪魔したりするのは、

私とお前とでは生の感覚も違うし、私とお前とでは世界との「関係性(=縁)」もまるで違うという事実への配慮が何もない訳ですね。

音楽を鑑識する視座においても、私の場合は、黒人ジャズやギャングスタラップ、日本では矢沢永吉の楽曲を高く評価する一方で、レッチリ(レッド・ホット・チリペッパーズ)や小室哲哉の楽曲は批判の対象ですし、矢沢と同じ年代でもアリスやジ・アルフィーの事は絶対に評価しない。堀内孝雄がテレビに出て来るだけで、「こんな奴が歌っているんじゃねえ!」と思ったりしますよ。

これが音楽に対する私の態度であり、私と音楽という対象との「関係性(=縁)」とは、この視座によって蒐集されたり、語られたりするのですが、

香取勇進には、私の視座とはあくまで、私とその対象との「関係性(=縁)」がもたらしたモノだという視点が欠けているせいか、映画に関しても、古典や本に関しても、その他、私が興味や関心を示したあらゆる対象に関して、彼もまたそれを追い掛けたり、それに興奮したり、その鑑識の視座を真似したりしている訳です。

彼の批評的な視点に最も影響を与えたのは、この私なんですね。その割には、正典主義という私の独自の生活スタイル、就職・結婚・育児というライフデザインを放棄して、いきなり余生としての正典主義に直結するという私の視座には、彼は何度も批判を加えているわけです。

食べ物を食べないとか、外ではコーヒーだけを飲むとか、デザートやお菓子は絶対に口にしないという「食」のライフスタイルも、あくまで、私と「食」という対象の「関係性(=縁)」がもたらしている実生活で、何を飲んだり食べたりするのは私の勝手ですから、私も、他人と「食」との「関係性(=縁)」に関しては安易に批判しません。

スポーツという対象との「関係性(=縁)」も全く同じですね。

天才を誰にするかという視点の違いも、本人の信奉する立場と、天才という対象との「関係性(=縁)」によって判断が別れていきます。

理系の科学者だけが天才で、芸術家や文学者は天才には分類されないという立場を主張する人もいますし、私のようにボードレールやエドガー・ポオ、ヴェルレーヌ等々、頽廃的な象徴詩人こそが天才だと主張する立場もある。麻原彰晃こそが真の天才だと唱えるオウム真理教の狂信者だっているでしょうし、アドルフ・ヒトラーを天才視・英雄視するネオナチの残党もいる。場合によっては、十代後半で芸能事務所に所属していて、偏差値も70を越えている大学に進学しているジャニーズの若者だけが天才だと思っている女性たちもいる。

つまり、天才という対象の価値を判断する時でさえ、本人が立脚する立場と天才という対象との「関係性(=縁)」を熟慮しなければ、相対的にその意見を吟味したことにはならない訳ですね(−−;

逆に、その人が誰を天才・英雄として崇めているかで、その人自身が主張する立場や所属する組織の特性が分かってしまう。

コレは非常に難しい所です(−−;

戦争中毒―アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由

新品価格
¥1,404から
(2014/8/20 14:23時点)




眠狂四郎 DVD-BOX

新品価格
¥28,184から
(2014/2/2 05:29時点)




座頭市 DVD-BOX

新品価格
¥32,250から
(2014/2/2 05:26時点)




アルフレッド・ヒッチコック THE MEISTER OF SUSPENSE DVD-BOX

新品価格
¥9,480から
(2014/2/2 05:32時点)




ジャン=リュック・ゴダール ジガ・ヴェルトフ集団 DVD-BOX (初回限定生産)

新品価格
¥10,839から
(2014/2/2 05:31時点)
























Posted by 評論家 at 15:03 | この記事のURL

×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。