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プロフィール

評論家
36歳・独身、親元実家暮らし、第一子で長男、現住所は東京都内。 35歳の時に痛感したのは、自分の宿業(カルマ)=宿命というテーマ。 私は既に以前までの生き方や生活を変えているのに、周囲の私に対する印象は変わっていない。 私は既に何人かの女性たちとオフパコしている(中出しも経験済み)のに、周囲には未だに童貞だと勘違いされている。 子供の頃は据え置き型ゲームの熱心なプレイヤーでしたが、それはもう15年以上前に辞めていて、今は自宅に一機もゲーム機を持っていないのに、周りの同世代からは未だにゲーマーだと誤解されている。 また、18歳〜20代前半までは確かにひきこもり系ニートでしたが、今は外で働ているのに、未だにニートではないかと周りは疑っている。 真面目にやっているのに、誤解しかされていない。これが私の宿業(カルマ)=宿命です!\(^w^)/
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2014年11月09日
スポーツの巧さも、身長の高い低いも、その人の「縁(=関係性)」で決まるのです!\(^0^)/








今回も、先の記事に引き続き、人間の欲望の生成と、その人を取り巻く「関係性(縁)」について述べてみましょう。

個人の欲望の生成と、その人を取り巻く「縁(=関係性)」に関しては、スポーツを論じる場合も全く同じで、

何らかの競技で一位になりたいとか、そのスポーツを存分に楽しみたいという欲望も、

その欲望を発した本人のそれまでの「縁(=関係性)」が出発点になっている事が多い訳です。

その「縁(=関係性)」とは、要は、本人のそれまでの経験とも云うべきですが、

その競技で有名になった選手には、幼少時から、そのスポーツが魅力的に思えるような出来事がたくさん起こっていた筈です。

一般的に、スポーツを大別すると、球技(球をゴールに入れる、カーリングも形式上はこれに同じ)、レース(競走・競泳・競馬など)、格闘技やウェイト・トレーニングを含むボディビルの三つに別れますね。

この中で、全てのスポーツに関心を持ったり、プレイや観戦の欲望を感じる人たちと、特定の分野のスポーツにしか関心や欲望を感じない人たちとがいるわけです。

場合によっては、抑々、スポーツ全般に関して、興味も関心もなく、プレイの意欲も観戦の欲望も感じないという人もいます。

私の場合は、中学時代に、プロボクシングや総合格闘技の試合は生中継でテレビで観ていたのですが、自分でスポーツをプレイする事に関しては、殆ど、欲望を感じていなかったわけです。

高校時代は、少林寺拳法系の道場に通っていましたが、成人以後にスポーツを再開しても、やはり、ベンチプレスやダンベルトレーニング等々のウェイト系が主で、私の場合はそれに関心がなければ、スポーツ全般に興味がないのと同じなわけです。

今でも、高校時代の部活は何だった? と訊かれると、少林寺の道場に通っていたよ、と私は答えるのですが、偶にその一言を言ってしまうと、その方面の話題しか相手が振って来ないという事があります。

スポーツへの欲望よりも、思想や文学への欲望の方がより一層強い私ですが、女性と会話をする場合でも、スポーツの話題の方が何故か、関心を惹き付けやすいわけです。

ベンチプレスに関して一言でも洩らすと、やはり、その相手は、その一事に関して、しつこく訊いて来るのですね。

で、他の話題は何も振って来ない。

恐らく、武道やベンチプレスに関しては、その対象に、関心や欲望を持つ人たちが多い割に、実際に、そのプレーヤーと接する機会(「縁」を持つ機会)はほとんどないというのが、そこまで関心を持たれてしまう原因ではないかと思うのですが、

私の性格は、スポーツマンと対極に位置する側の人間ですから、その方面の話題ばかり訊ねられると、時々、「そんな事まで、君に教えられないよ」という質問までされてしまう事もあるわけです。

元々、野球やサッカーのプレイには欲望を感じなかったせいか、野球やサッカーが巧い人たちに対し「羨ましい!」と感じる事はあっても、球場へ試合を観に行ったり、特定のチームや特定の選手のファンになった事は一度もない私です。

それまでスポーツに関心がなかった人でも、ある選手のプレイに驚嘆して、それが「縁」となって、その競技のファンとなる、そういうケースもある筈です。

不良を自称する若者の大半は、それを自称する間はずっと、不良に憧れており、

天才を自称する人たちの大半は、それを自称する間は、ずっと天才を目指しています(私も例外ではない)。

小説や映画の評価や書画骨董の価値判定に留まらず、スポーツに関しても、本人と対象との「縁(=関係性)」を絡めて考察する必要があり、

その競技において巧いプレイをする選手には、その選手が巧いプレイをするようになった、それまでの「縁(=関係性)」があり(優秀なコーチに出会ったとか)、

いくら頑張ってもプレイが下手な運動音痴は、過去にそうした「縁(=関係性)」を築く事が出来なかったし、その必要も感じなかった、若しくはそういう欲望を感じなかったという事なんですね。

「関係性(=縁)」について、もう少し述べてみましょう。

世の中には、ある基準をクリアすれば、それは合格だと判定される「絶対評価」と、あくまで他と競い合う事でその価値が判断される「相対評価」とがあります。

例えば、小説の新人文学賞の場合は、投稿作品が一定の基準を満たしているか否かを審査員が判定し、その基準を満たしている場合は賞を与えるのが普通で、これはボクシングのプロ資格を取得する場合と全く同じです。

ボクシングのプロ資格は、プレーヤーの実力が強いか弱いかよりも、ボクシングとしての「型」がきちんと出来ているかを判定し、その基準を満たしていれば、その人にプロ資格を与えるという、「絶対評価」なわけです。

ある基準さえ超えていれば合格だと判定するのは、全て、「絶対評価」なわけですよ。

その代わり、その関門を超えた後には、プロ作家にも、プロボクサーにも、競争に次ぐ競争、つまり、「相対評価」の人生が待っているわけです。

一般的に、人間の身長の高さを判断する場合においても、そのほとんどは相対的な評価ですね。

01.jpg


これは坂本龍馬の銅像なのですが、龍馬の身長が何センチだったか御存知の方はいるでしょうか?

歴史小説を読むと、とても背の高い豪傑だったと描かれているのですが、生前の龍馬の写真をある本でたくさん見たら、どうも今の基準に比べると、そんなに高いとは思えないのですよ。

20100629_576011.jpg


特にこの写真なんか、今の基準に比べると、結構、脚が短いですね(^^; 座っている台も高さがないですし。

実は、あるクイズ番組で、「坂本龍馬の身長は何センチだったか?」という出題があり、出演ゲストのほとんどが、「180センチ」と答えていたのですね。

実際に、ウィキペディアでも、そんな観測が表記されているのですが、そのクイズ番組の答えでは、「160センチ」だったわけです(!)。

坂本龍馬の身長が、160センチ!?

実は、幕末当時の日本においては、身長158センチでも相当、高い身長だったらしいのですね(^^;

同時代を生きた初代内閣総理大臣・伊藤博文も、龍馬と同じ身長160センチだったそうです。

うろ覚えですが、江戸幕府の三代将軍・徳川家光は確か身長138センチだったのではないかと思います。で、これは当時の日本においては、平均的だったわけですよ。

戦後以降の日本では、身長160センチは三島由紀夫の身長とほぼ同じで、かなり低めですが、幕末〜戦前まではそうではなかったのですよ。

それどころか、周りとの相対的評価においては身長160センチはとても高い、当時の日本はそういう時代だったのですね。

つまり、身長の高さは、あくまで相対的な評価なのですよ。

身長に限らず、今の時代には、体重を気にしている女性がやたらと多いですが、

結局、それにも絶対的な基準というモノはなくて、あくまである時代の基準に照らして、相対的に肥満なのか、スリムなのかを判定している、つまり、現在の日本人の基準に照らして判断される相対的評価なのですよ。

人間の体型に限らず、芸術や文化の推移にしても、スポーツの世界記録や政治的業績や科学的な技術の貢献にしろ、その時代の水準や特色といったものがあります。

それらの歴史的偉業の中には、現在の基準に照らして進歩的であり、革新的だったと判定される業績も多い訳です。

物事には、その基準を満たしていればクリアできる「絶対評価」と、個々の業績を比較して判定される「相対評価」とがあり、その時代の水準に比して圧倒的にその基準を追い抜いている場合には、それは、「歴史を超える業績」として称えられるのです!\(^0^)/

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Posted by 評論家 at 15:31 | この記事のURL
2014年11月06日
その人の「縁」が、個人の欲望を創る!\(^0^)/








先の記事の続きを書きます(^^)

昔、スラヴォイ・ジジェクが書いたラカンの解説書で、「私の欲望とは、他者の欲望である」という名言を読んだ事があります。

その本とは、コレです。
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書画骨董の真偽を推し測る時にも、小説や映画の価値を評論家が論じる際にも、その評価には客観的な基準というモノがありますが、その基準を逸脱して、個々に審判を下している論客も多い訳です。

評価とは、価値を評する事ですが、当然、その価値を論じる際には、その対象を評価する人がいて、それを評価する人とその対象との関係性(=縁)が物事の価値を決めていくのです。

つまり、どんなに優れた小説や映画であろうと、どんなに高名な先生が遺した書画骨董であろうと、その対象に関して全く興味がない人には、幾ら論じても、その価値など分かる筈がなく、その人たちには全く関係がないわけです。

対象の価値を理解した人でなければ、その対象を欲しいと思う筈もないわけで、その対象の価値を理解しているか否かは、個々人とその対象との関係性(=縁)によって支配されているわけです。

つまり、個人の欲望を創り出しているのは、それまでの人生で本人が何らかの形で関わった対象であり、本人がそれまで経験してきた「関係性(=縁)」なわけです。

この本の表紙を見て下さい。
  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓
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村上春樹の『海辺のカフカ』のハードカバー版ですが、当時は著作権の問題で、春樹の小説の映像化作品や舞台化作品はほとんどなかったのですね。今はありますけれど。

そういう時に、この本の装丁をした人は、春樹の本の表紙に少年のシルエットを用いたのですよ。

是って、どういう事か分かりますか?

実はこのシルエットって、元々のネタはゲームソフトからの着想ではないですかね?

若い人で小説に関心がある人なら、誰でも一度はプレイした事があるだろうチュンソフトのサウンドノベル(小説形式のゲームジャンル)に出て来るのって、確かこういうシルエットでしたよね?

画面上で登場人物のシルエットを用いて、小説を読ませていくのがそのゲームジャンルの特徴なのですが、春樹の作品が映画化も舞台化もされていなかった当時では、小説に対して、そのゲームジャンルに通底するようなイメージを持っていた読者がわりかし多かったと思うんですね、多分。

実際に、1990年代にミステリーと銘打てば、どんな小説でも売れた時代があった(女流作家の桐野夏生さんが一番苦労した時代です)のですが、ノベル形式のゲームの大衆的成功がなければ、出版市場にもそうした動きは生まれなかったと思います。

現実に、90年代に少年期を過ごした私の一般的な読書も、福田和也の『作家の値うち』(2000年出版)を読む高校一年生までは、ミステリーや歴史小説を読む傾向があったのです。

つまり、ミステリー全盛期の90年代に「縁」があった十代前半の私は、そういう本を読む事に一種の欲望を感じていたし、他の読者もそうだったと思うのですよ。

ところが、高校一年次になって、福田和也、石原慎太郎、開高健、村上春樹、町田康、辻仁成を知るようになると、それが縁になって、これまでの欲望(読書傾向)が全て変わってしまったわけです。

読書傾向はまま変わっても、本が読みたいという欲望それ自体は全く変わっておらず、小説や評論や伝記を読んでも、思想を読む時でさえ、登場人物をシルエットで表現する、あのゲームのイメージは相変わらず20代前半まで残っていたような気がします。

20代半ばから、半端なく古映画を観るようになったので、そのイメージは段々と消えていきましたが、ジャズが好きなのも、ギャングスタラップを聴いているのも、白黒映画ばかり鑑賞しているのも、基本的に私は幻想に逃避する事が好きですし、幻想への逃避こそ、私が最も強烈に感じる欲望なわけです。

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異性に対する好みも、思春期以前と思春期以降では、全く変わって来る筈です。

今の私は、上の写真くらい太っている女性が好きなのですが、これは思春期を経験して以降の女性の好みですね。

貧乳が好きだという男たちも今の世の中には多いみたいですが、私には彼等の気持ちは分かりませんね。

食べ物の好みも、私は元々、生魚の刺身が好きですし、それが嫌いな人の気持ちなど、私には理解できません。

人間の欲望は何を縁にして変わるか分かりません。

「私の欲望とは、他者の欲望である」というジャック・ラカンの言葉通り、人間の欲望は、その人を取り巻く「縁(=関係性)」が形作っていくのです(^^)

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Posted by 評論家 at 23:30 | この記事のURL

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