2013年03月16日
「肉体の鍛錬」には、「目的の細分化」が必要である!\(^0^)/
中学時代に読んだコヴィー博士の『7つの習慣』には、全ての人間には、「関心の輪」というものがあると説いています。
試しに、このブログをご覧になっている方は、紙の上に、自分が最も関心を持っていることを全て書き出すように努力してみましょう。
そうして、自分にとって関心のあるものを紙の上に全て書いたら、その周りをグルッと円で囲むのです。
すると、アナタにとっての「関心の輪」がそこで出来上がります。
さて、その「関心の輪」の中で、アナタ自身がコントロールできる項目は、どれだけあるでしょう?
アナタ自身が書き出した「関心の輪」の中の項目から、アナタ自身の意志でコントロール可能なものと、アナタの一存ではなく他者の意志を介在しなければコントロールできない項目とを分けて下さい。
そして、アナタ自身でコントロール可能な項目をさらに円で囲むのです。
すると、コヴィー博士が指摘するところの「影響の輪」が出来上がります。
人間の関心は概ね、自分の意志でコントロールが出来ない分野にまで広がっています。
ですから、自分の関心の全ての項目を「関心の輪」として捉えた時に、その輪の内側で、自分の意志でコントロール可能なものは、「影響の輪」として、コントロール不可能なものとは区別するのです。
私の関心には、常に、文学や古典をはじめとする「正典」、アウトロー気質の礎石となる「肉体の鍛錬」がありました。
村上春樹は世界的作家であると同時に、マラソンランナーでもあり、トライアスロンの選手でもありますが、彼の関心も、恐らくは最初から、「正典」と、「肉体の鍛錬」に限定されていたのでしょう。
この場合、「正典」とは、広義の「正典」です。
村上春樹がその作品世界で引用している洋楽ロックやジャズの名演奏、クラシック映画のタイトル等々も、この「正典」という語には含まれています。
「聖典」と区別しなければならないのは、「聖典」は信仰や宗教の讃美であるのに対し、「正典」というのは、絵画や造形美術、建築、世界遺産、文学作品、哲学や思想、あらゆる学問の古典籍、クラシック音楽から現代音楽、演劇や映画、歴史上の人物まで、ありとあらゆるものを包含しているからです。
そういう捉え方をすると、「聖典」も、「正典」の中に含まれているのです。
後期のゴダールが『映画史』などで繰り返し描いているのは、アレは要するに、西欧の文化の「正典」の再検討、なのです。
晩年の三島由紀夫も、その関心はきっと、「正典」と、筋肉・ボディビルだったのでしょう。
石原慎太郎氏の関心も、作品を読む限り、「正典」と、「肉体の鍛錬」には並々ならぬ関心を傾注している筈です。
何せ、三島由紀夫、村上春樹、石原慎太郎の三氏の御述作それ自体が、今ではそれ相当に「正典」と同じ扱い方をされています。
っていうか、この三氏の作品は既に、「正典」です(笑) 間違いありません(笑)
私が自ら説いている「前時代優越主義」という生活法も、要するに、この「正典主義」に他なりません。
漫画の世界では、手塚治虫氏の作品だって、立派な「正典」でしょうが、私は個人的に興味がない。
というわけで、私の「関心の輪」も、先の三氏と同じく、「正典」と、「肉体の鍛錬」に限定されるわけですが、
さて、知識を蓄えるだけの「正典」への関心はまだしも、「肉体の鍛錬」となると、各自で、その目的と鍛錬法は自ずと異なって来ます。
三島由紀夫にとっての「肉体の鍛錬」が圧倒的に、筋肉増強やボディビルに偏っていたのに対し、石原慎太郎氏にとってのそれは、ヨット、あるいは、サッカーやテニス等の反復運動で次第に身について来るような「技術(テクニック)」だったりするわけです。
村上春樹にとっての「肉体鍛錬」とは、息の長さを伴う総合的な持久力、つまり、トライアスロンと長距離マラソンに限定されるわけです(筋力トレーニングも、もちろん欠かさないでしょうが)。
つまり、「肉体の鍛錬」とはいうものの、その目的は人さまざま。
目的が違えば、トレーニング方法は、百八十度、全く異なったものになっていきます。
例えば、最近、テレビで話題の医師・南雲吉則先生は、独自の若返り方法で、今、注目を浴びていますが、
あの先生は毎朝、ウォーキングはしても、ランニングやジョギングは絶対にしない。
これは、村上春樹のようにマラソンやトライアスロンなどで、総合的な持久力を鍛えるためではなく、南雲先生の場合はあくまで、「若返り」という目的に焦点を当てているからです。
だから、彼の場合は、真冬に薄着のシャツ一枚で外出するというような「痩せ我慢」はしても、運動量という観点からいえば、それほど無理をしていない筈なんです。
目的が「若返り」なのか、筋肉の増強なのか? あるいは、トライアスロンやフルマラソンの大会に出場して、前人未到の新記録を打ち立てることなのか。
目的が異なれば、その鍛練法は全く違ったものになる筈です。
運動神経が悪いといつも嘆いている人は、まず、今の自分が最も鍛えたいのは、一体、何なのか、その目的を定めることから始めましょう。
私の場合ですと、22歳から筋トレを習慣化し、つい二年ほど前からは、自宅でベンチプレスを続けていますが、
同じバーベル競技でも、ウェイトリフティングとパワーリフティングでは全く、種目が異なる。
さらに、パワーリフティングの三種目に限定しても、スナッチやスクワットを省いた、ベンチプレスだけの大会というのも日本にはあります。
また、肉体美を晒すことだけを目的にしたボディビルダーという人たちにとっては、有酸素運動は筋肉を分解してしまう為に、絶対にジョギングをしたり、走ったりしません。
自分は運動不足だからという理由で、目的を細分化せずに、一挙にいろんなトレーニング法に手を出すと、結局、長く続かないという人も、かなり多いのでは?
高校や大学の体育にしても、一般教養の為だからという口実で、いろんなスポーツを生徒にやらせると、生徒の方は目的や意志が散漫になる恐れがあるので、
まずは、どのスポーツジムでもやらせているように、どの生徒にも、「自分の身体のどの部位を鍛えたいか?」、「どんな身体的能力を身に付けたいか?」という目的観を持たせるべきだと思います。
サッカーの中田選手は、野球では絶対に成功できなかった筈なので。
まだ、書き足りないのですが、記事が長くなってしまったので、続きは次回に書きます(^0^)
試しに、このブログをご覧になっている方は、紙の上に、自分が最も関心を持っていることを全て書き出すように努力してみましょう。
そうして、自分にとって関心のあるものを紙の上に全て書いたら、その周りをグルッと円で囲むのです。
すると、アナタにとっての「関心の輪」がそこで出来上がります。
さて、その「関心の輪」の中で、アナタ自身がコントロールできる項目は、どれだけあるでしょう?
アナタ自身が書き出した「関心の輪」の中の項目から、アナタ自身の意志でコントロール可能なものと、アナタの一存ではなく他者の意志を介在しなければコントロールできない項目とを分けて下さい。
そして、アナタ自身でコントロール可能な項目をさらに円で囲むのです。
すると、コヴィー博士が指摘するところの「影響の輪」が出来上がります。
人間の関心は概ね、自分の意志でコントロールが出来ない分野にまで広がっています。
ですから、自分の関心の全ての項目を「関心の輪」として捉えた時に、その輪の内側で、自分の意志でコントロール可能なものは、「影響の輪」として、コントロール不可能なものとは区別するのです。
私の関心には、常に、文学や古典をはじめとする「正典」、アウトロー気質の礎石となる「肉体の鍛錬」がありました。
村上春樹は世界的作家であると同時に、マラソンランナーでもあり、トライアスロンの選手でもありますが、彼の関心も、恐らくは最初から、「正典」と、「肉体の鍛錬」に限定されていたのでしょう。
この場合、「正典」とは、広義の「正典」です。
村上春樹がその作品世界で引用している洋楽ロックやジャズの名演奏、クラシック映画のタイトル等々も、この「正典」という語には含まれています。
「聖典」と区別しなければならないのは、「聖典」は信仰や宗教の讃美であるのに対し、「正典」というのは、絵画や造形美術、建築、世界遺産、文学作品、哲学や思想、あらゆる学問の古典籍、クラシック音楽から現代音楽、演劇や映画、歴史上の人物まで、ありとあらゆるものを包含しているからです。
そういう捉え方をすると、「聖典」も、「正典」の中に含まれているのです。
後期のゴダールが『映画史』などで繰り返し描いているのは、アレは要するに、西欧の文化の「正典」の再検討、なのです。
晩年の三島由紀夫も、その関心はきっと、「正典」と、筋肉・ボディビルだったのでしょう。
石原慎太郎氏の関心も、作品を読む限り、「正典」と、「肉体の鍛錬」には並々ならぬ関心を傾注している筈です。
何せ、三島由紀夫、村上春樹、石原慎太郎の三氏の御述作それ自体が、今ではそれ相当に「正典」と同じ扱い方をされています。
っていうか、この三氏の作品は既に、「正典」です(笑) 間違いありません(笑)
私が自ら説いている「前時代優越主義」という生活法も、要するに、この「正典主義」に他なりません。
漫画の世界では、手塚治虫氏の作品だって、立派な「正典」でしょうが、私は個人的に興味がない。
というわけで、私の「関心の輪」も、先の三氏と同じく、「正典」と、「肉体の鍛錬」に限定されるわけですが、
さて、知識を蓄えるだけの「正典」への関心はまだしも、「肉体の鍛錬」となると、各自で、その目的と鍛錬法は自ずと異なって来ます。
三島由紀夫にとっての「肉体の鍛錬」が圧倒的に、筋肉増強やボディビルに偏っていたのに対し、石原慎太郎氏にとってのそれは、ヨット、あるいは、サッカーやテニス等の反復運動で次第に身について来るような「技術(テクニック)」だったりするわけです。
村上春樹にとっての「肉体鍛錬」とは、息の長さを伴う総合的な持久力、つまり、トライアスロンと長距離マラソンに限定されるわけです(筋力トレーニングも、もちろん欠かさないでしょうが)。
つまり、「肉体の鍛錬」とはいうものの、その目的は人さまざま。
目的が違えば、トレーニング方法は、百八十度、全く異なったものになっていきます。
例えば、最近、テレビで話題の医師・南雲吉則先生は、独自の若返り方法で、今、注目を浴びていますが、
あの先生は毎朝、ウォーキングはしても、ランニングやジョギングは絶対にしない。
これは、村上春樹のようにマラソンやトライアスロンなどで、総合的な持久力を鍛えるためではなく、南雲先生の場合はあくまで、「若返り」という目的に焦点を当てているからです。
だから、彼の場合は、真冬に薄着のシャツ一枚で外出するというような「痩せ我慢」はしても、運動量という観点からいえば、それほど無理をしていない筈なんです。
目的が「若返り」なのか、筋肉の増強なのか? あるいは、トライアスロンやフルマラソンの大会に出場して、前人未到の新記録を打ち立てることなのか。
目的が異なれば、その鍛練法は全く違ったものになる筈です。
運動神経が悪いといつも嘆いている人は、まず、今の自分が最も鍛えたいのは、一体、何なのか、その目的を定めることから始めましょう。
私の場合ですと、22歳から筋トレを習慣化し、つい二年ほど前からは、自宅でベンチプレスを続けていますが、
同じバーベル競技でも、ウェイトリフティングとパワーリフティングでは全く、種目が異なる。
さらに、パワーリフティングの三種目に限定しても、スナッチやスクワットを省いた、ベンチプレスだけの大会というのも日本にはあります。
また、肉体美を晒すことだけを目的にしたボディビルダーという人たちにとっては、有酸素運動は筋肉を分解してしまう為に、絶対にジョギングをしたり、走ったりしません。
自分は運動不足だからという理由で、目的を細分化せずに、一挙にいろんなトレーニング法に手を出すと、結局、長く続かないという人も、かなり多いのでは?
高校や大学の体育にしても、一般教養の為だからという口実で、いろんなスポーツを生徒にやらせると、生徒の方は目的や意志が散漫になる恐れがあるので、
まずは、どのスポーツジムでもやらせているように、どの生徒にも、「自分の身体のどの部位を鍛えたいか?」、「どんな身体的能力を身に付けたいか?」という目的観を持たせるべきだと思います。
サッカーの中田選手は、野球では絶対に成功できなかった筈なので。
まだ、書き足りないのですが、記事が長くなってしまったので、続きは次回に書きます(^0^)
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