2016年04月03日
四年制大学の「総合的な知」に反抗せよ! 日本に総合大学は要らない!\(^0^)/
私は四年制大学を中退した後、通信大学に通い、大卒資格を得た者なんですが、何故、若かりし頃の私は大学の制度や周りの人間に対して、あんなに反発していたのだろう? と考える事が偶にあるわけです。
そうすると、どうしても、日本の四年制大学とは、確かに表向きは単位制という体裁があるのですが、実際に入学してみると必修単位と云うのが多いですし、本当に自分がやりたいと思う学習や研究が出来るのは三年次・四年次以降になるという事実があるわけです。
何故、日本の有名大学には必修単位が多いのかと云えば、大学それ自体が小中高からの延長線上で機能しているという面があり、それらの一貫した教育の狙いとは、学生たちに「総合的な知」を獲得させる事が目的だからです。
既に大学進学を果たしている方々なら、そのキャンパスの講堂でガイダンスを受けた事がある筈です。
そうすると、まず、大学の教員たちが教えるのが、学問とは人文科学・社会科学・自然科学という三つの分野に別れていて、今後の国際的(グローバル)な視座で研究を行う場合は、それら三つの分野に跨っている「学際」という領域を探究していかなくてはならないという事で、この「学際的な探求」を行うのは、専門領域の研究をする事(専攻の選択)も必要なんだけれども、一年次か二年次までは「総合的な知」の基礎を固めておく必要があるという内容ではないかと思うんですよ。
大学それ自体の性格が小中高の延長線上で機能している事自体も私は嫌だったのですが、大学側が訴える「総合的な知」を学生側が獲得する責務、そして、その責務を果たす為に無理矢理履修させられる必修科目の存在と云うのは、若い時の私には嫌悪感を拭い難いモノでした。
要するに、但、学問をするだけなら、書店で本を買えば、誰でも座学は出来てしまうわけで、学問それ自体を総合的・体系的に学びたいという欲求があるなら、通常の(四年制)大学=総合大学の存在が不可欠となって来るわけですね。
ところが、大学の中で生活している学生たちの思惑とは、自分のやりたい学習・研究云々よりも、自分たちのキャリア形成において得点を得る事の方が、彼等の狙いなのではないか? と私は思うわけです。
要するに、殆どの学生たちには、その大学で大卒認定さえ受けてしまえば、今度は大学を卒業した後の社会での生活やキャリアが待っている。
で、この点に関してはですね、
思春期の頃の私は、高校なり大学なりを卒業したら、就職して、結婚して、子供を産み、育児と養育費の捻出の為に定年まで雇われで働くという人生のスパイラルに対し、最初から違和感を覚えていましたから、大学の中で周りの先輩たちが、そういう人生のライフステージを安直に受け容れているのを見ると、「世の中にはこんなに詰まらない人間しかいないのかぁ〜?」という感慨に襲われたわけです。
四年制大学中退後、私は通信大学で大卒認定を受けましたが、ハッキリ言って、総合大学って、「総合的な知」の獲得という目的からしても、平均的な人間を創り出しているだけなのでは? という印象があるのですよ。
少なくとも、「総合的な知」を獲得する為の四年制大学のプログラムは、天才を創り出すシステムにはなっていません。
天才とは、一種の「(焦点化された)総合性」ですから、ある一つの分野なり、ある一つの対象なりを総合的・多角的に理論・検証する事に成功した人たちは、詩人や文学者も含め、天才なんですね。
日本の学校教育が重視する「人間としての総合性・総合力」ではなく、あくまで、「(焦点化された)総合性」こそが何より重要だという私の主張には注意して下さい。
例えば、50歳のパチプロ(パチの稼ぎだけで食べているプロ)が書いたこの記事を御覧下さい。
http://www.nikkansports.com/amusement/pachinko/column/jogen/news/f-pp-tp0-20141225-1413374.html
http://www.nikkansports.com/amusement/pachinko/column/jogen/news/f-pp-tp0-20150101-1416242.html
一般的にプロのギャンブラーって、一体、どんな生活をしているのだろう? と首を傾げるのですが、プロと云えるからには、やはり、その対象に関して、総合的な視野で知悉しているわけですね。
この場合は、対象を焦点化した上での総合性ですので、「専門性」という事になりますが、パチプロと呼ばれる遊び人の成れの果てとしか言いようがない人たちでも、パチンコという対象に関しては、総合的な視野と高度な専門性を備えているわけですよ。
専門性とは、ある一つの対象に関しては、総合的に知悉している人たちの事です。
その対象に関しては徹底的に知り抜いていると云っても良い。
という意味で、「総合性」そのものは否定の対象にはなり得ません。「総合性」それ自体を否定してしまうと、「専門性」すらも否定してしまう事になってしまうので。
ところが、総合大学が志向する「総合性」とは、何も焦点化するモノがない。学部に別れていても、この点は変わりがないんです。
これは、四年制大学だけではなく、小中高を含む、日本の学校教育の全てがそうですが、総合学科を称する高校でも、学校としてこれだけはやりなさいという必修単位やリベラルアーツを生徒にやらせていますし、やはり、重点を置いているのは生徒自身の「総合性」を育成するという目的だと思うのです。
ところがですよ、彼等が成長して、一歩社会に出てしまえば、儲かっている産業分野と云うのはわりかし限られているわけで、其処で現場のノウハウをどこまでも知悉しているのは、中卒か高校中退した時点から、その職場で働いていた人たちなんですね。
独立開業する人たちが増えても、世の中の社長たちの大半は、貧乏社長だという事実を、このブログの読者は既に御存知でしょうか?
一般的に、ニートと云われる若者たちも、社長志望の人たちが多いような気がしますが、彼等が何故、起業出来ないのかと云えば、やはり、儲かっている産業分野それ自体が元々、限られているという事実があるからなんです。
ハッキリ言いますよ、日本の産業社会で最も儲かっている分野と云うのは、外食チェーン、風俗チェーン、美容チェーンの三つくらいで、他に足すとするなら、不動産みたいな地主とか、運送業界位なものなんですよ。
で、こうした業界に雇われて成功しているのは、圧倒的に中卒から苦労を重ねている人たちが殆どなのです。
確かに、外食チェーンの経営者とか、不動産の社長とかで、高学歴の方々もかなりいますが、そういう人たちも学生時代は麻雀ばかりに耽っていたとか、それなりに不良の人たちばっかりです。
勿論、外食チェーン、風俗チェーン、美容チェーンの創業者たちには、高度な専門性=その仕事(対象)に関する包括的な総合性というのが叩き込まれていて、だからこそ、彼等のビジネスは業界一位のシェアを誇れるわけですが、
こういう社会の仕組みというか、社会の在り様と云うのは、
四年制大学=総合大学や小中高を端緒とする日本の学校教育側が、生徒側に強制する「人間としての総合性」みたいな教育理念とはかけ離れた次元の出来事ですし、「知の総合性」みたいな名目も、外食や風俗、地主の仕事とは余り関係がないでしょ。
外食にしろ、風俗にしろ、不動産にしろ、運送にしろ、人間の一次的欲求に応える産業分野こそが、日本では一番儲かっているのであり、IT業界や広告業界、音楽業界、出版業界も、巧く風俗(若い女の子たちをタレントに起用したり)や外食サービスとの連携を図る事で、経済的な循環を果たしているわけです。
これから大学に進学したい、会社を起業したいと考えている人たちは、以上の事を念頭に入れておきましょう。(^0^)
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