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プロフィール

評論家
36歳・独身、親元実家暮らし、第一子で長男、現住所は東京都内。 35歳の時に痛感したのは、自分の宿業(カルマ)=宿命というテーマ。 私は既に以前までの生き方や生活を変えているのに、周囲の私に対する印象は変わっていない。 私は既に何人かの女性たちとオフパコしている(中出しも経験済み)のに、周囲には未だに童貞だと勘違いされている。 子供の頃は据え置き型ゲームの熱心なプレイヤーでしたが、それはもう15年以上前に辞めていて、今は自宅に一機もゲーム機を持っていないのに、周りの同世代からは未だにゲーマーだと誤解されている。 また、18歳〜20代前半までは確かにひきこもり系ニートでしたが、今は外で働ているのに、未だにニートではないかと周りは疑っている。 真面目にやっているのに、誤解しかされていない。これが私の宿業(カルマ)=宿命です!\(^w^)/
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2020年11月28日
今回の記事は一切の広告なしで更新します! 創価学会のやり方に関して、私が何となく疑問というか不満に思う事をぶちまけてみます。ですが、全部が全部、創価学会を批判・反対しているわけではなくて、あくまで、一個人の会員としてやや不満に思う点をあげてみます。
今回の更新記事は一切の広告を貼らずに、私自身がこれまで綴ってきた夢日記のごく一部分を転載してみることにします。
そして、その夢の解釈を通じて、イロイロと世に問いたいテーマがあるのです。
当然ですが、そのテーマは、創価学会という組織の活動、そのやり方に関する一個人としての私の疑問符をここにあげることにもなります。
また、学会の幹部から大目玉を喰らいかねませんが、私は全部が全部、創価学会に反対しているわけではなくて、会員の一人にはこういう考えの人もいるよ、という程度の認識に留めて下さい。
決して、創価学会の全てを批判しているわけではありません。
私自身も、創価学会の信心の功徳を客観的に認識している会員の一人であることを最初にお断りしておきます。
それでは、以下に転載します。
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓
2020年11月22日(日曜日)
岩波ホールで講習会があって(実際には、このような講習会は存在しない。夢の中だから、こういう場面が出て来る)、白いデスクの前に座って、眼鏡をかけた気難しい色白の年増女性の指導を受けている。私はいつも岩波ホールで映画を観る時は自信満々なのだが、私より年配のこの女性にはどこか私に対して厳しく冷たい態度で、私の理解力や能力を疑問視しているところさえあったので、初めて岩波ホールって嫌だな、とこの夢の中で思っている。
この夢の中で、私は吃音になっていて、この講習のプリントを音読する時に、巧く唇が動かず、講習会の先生(女性)に馬鹿にされる。他の中年の生徒からも余り優秀だという風には思われなくなる。
講習が終わって、映画が始まり、東劇で上映しても良いような、義太夫浄瑠璃をシネマに落とした映像がスクリーンに流れる。
その時、私は直感する。
教育や学校には、生徒を抑えつける___抑圧する側面があるのだと。
これはどんな組織活動にも言えることで、最近では近藤真彦が不倫を理由にして活動自粛を余儀なくされたり、私自身、ネット上での書き込みが原因で、創価大学通信教育部の成績がオールDになったりした経歴がある(一応、卒業はしたが)。
創価学会が外部の人に嫌われるのは、組織活動への参加や財務などを強制されることで、その宗教に参加することによって、自分のやりたくないことをやらされる可能性が高いからであり、コレは会員各自への考えられない組織的言論封殺、会員各自への思考面や行動面における組織的抑圧行為となるのだ。
「祈りとして叶わざるはなし」という日蓮大聖人の御金言に触発されて、私は信心を始めたが、コレに関しても、何でも叶う御本尊だから、何を拝んでも構わないということでは決してないのだ。
私は社会の常識やモラルや道徳律を破壊したり、転覆したりすることが目的で、この信心を始めたが、一生懸命拝んでいても、創価学会はこうした考えを認めない。
逆に、自分自身の考えや書き込みや行動などが、周囲や他人に対する抑圧となっていないか、それが抑圧と見做されるから、私は周りに嫌われているのではないか、ということにまで、私は配慮する必要があることをこの夢で私は思い知った。

この夢に関して、しばらく考察を重ねる必要を感じる。
創価学会が会員に求めるのは、組織活動への参加であり、会員による社会への貢献である。
社会への貢献とは、定職に就いて雇用されることであり、そこで社会的実証を示すことである。
また、若い世代が結婚して家庭を持つことも、古い世代の学会員にとっては、とても重要な意味を持っている。
ところが、「祈りとして叶わざるはなし」との日蓮大聖人の御金言を信じて、創価学会の信心を始めた若者は、当然だが、自分のやりたいことがある。
創価学会の組織活動への参加や、定職に就くことへの強要は、こうした若者にとって、一番、自分がやりたくないことをやらされる可能性を帯びてくる。
その上、創価学会の組織的言論封殺は、時と場合によって、会員が本当にやりたいことを絶対にやらせないことがある。例えば、その会員に独自の自由な考えや発想、哲学などがあった場合、それを野放しにせず、組織的な抑圧を行うことがある。
創価学会や池田大作三代会長が時に世間から忌み嫌われるのは、学会という組織にこうした特性が見受けられるからである。

今の私は、就労移行支援所を卒業して、定職に就いている。
だが、私のイメージでは、世間が非難するほど、ニートに働くことを強制・強要したいとは思わない。
本人がお金を欲しかったら、働くのは当然だが、お金が余っていたり、国から補助を受けたりしてその額だけで日々の生活を賄えるなら、何も無理して働く必要はないというのが、元々の私の考えだ。
定職には就いたが、「就労って、そんなに大事か?」という私の疑問符は、依然として変わらないままだ。
私は、ニートに働くことを強制しない。
ただ、欲しいものがある人、お金で買いたいものがある人は、働いた方が良いという程度の考えだ。
親孝行なんて、する義務も感じない。
結婚もしたくないし、元々、家族が欲しくない。
一家和楽の信心よりも、一家離散の方が、遥かに功徳ではないか? というのが、私の本音だ。お金さえあるならね。
男たちにとっては家族や子供の存在は不要で、女なんか単にオフパコできれば良いだけなんです。最初からそれをしたいだけなんですよ。



以上です!

Posted by 評論家 at 17:37 | この記事のURL
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