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2014年02月07日

パン

パン(葡: pão)とは、小麦粉やライ麦粉などに水、酵母、塩などを加えて作った生地を発酵させた後に焼いた食品(発酵パン)。変種として、蒸したり、揚げたりするものもある。また、レーズン、ナッツなどを生地に練り込んだり、別の食材を生地で包んだり、生地に乗せて焼くものもある。生地を薄くのばして焼くパンや、ベーキングパウダーや重曹を添加して焼くパンの中には、酵母を添加せずに作られるもの(無発酵パン)も多い。これらは、多くの国で主食となっている。

日本語および朝鮮語・中国語での漢字表記は「麺麭」(繁体字:麵包、簡体字:面包)。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 表記・語源
1.2 日本

2 原料
3 種類と製法
4 製造工程の図解
5 製造と供給
6 種類(地域別) 6.1 フランス
6.2 ドイツ
6.3 イタリア
6.4 イギリス
6.5 その他のヨーロッパ地域
6.6 北アメリカ
6.7 中南米
6.8 インド・中近東
6.9 アフリカ
6.10 日本
6.11 中国
6.12 台湾
6.13 韓国
6.14 東南アジア

7 パンを利用した料理、再加工品
8 ホームベイク
9 日本におけるパン製品の表示
10 文化
11 脚注
12 参考文献
13 外部リンク
14 関連項目


歴史[編集]





ポンペイで出土したパン




中世のパン職人




日本に定着したパン販売店
(大阪市北区)
テル・アブ・フレイラ遺跡で最古の小麦とライ麦が発見されている。麦は外皮が固いため炒ったり、石で挽いて粉状にしたものに水を加えて煮て粥状にして食べ始めたと発掘物から推定される。また、チャタル・ヒュユク遺跡の後期において、パン小麦(寒暖に強いため広範囲で栽培でき、グルテンが多いため膨らますことができる)が発見されている。なお、パン小麦の親が二粒小麦(野生種同士の一粒小麦とクサビ小麦の子)と野生種のタルホ小麦であることを発見したのは木原均である[1]。

トゥワン遺跡(スイス)の下層(紀元前3830-3760)からは「人為的に発酵させた粥」が発見され、中層(紀元前3700-3600)からは「灰の下で焼いたパン」と「パン窯状設備で焼いたパン」が発見されている[2]。粥状のものを数日放置すると、天然の酵母菌や乳酸菌がとりつき、自然発酵をはじめ、サワードウができる。当初これは腐ったものとして捨てられていたが、捨てずに焼いたものが食べられるだけでなく、軟らかくなることに気付いたことから、現代につながる発酵パンが発明されたと考えられている。

パンは当初、大麦から作られることが多かったが、しだいに小麦でつくられることのほうが多くなった。古代エジプトではパンが盛んに作られており、給料や税金もパンによって支払われていた。発酵パンが誕生したのもこの時代のエジプトである。古代ローマ時代になると、パン屋や菓子パンも出現した。ポンペイから、当時のパン屋が発掘されている。すでに石でできた大型の碾臼(ひきうす)が使われていた。ポンペイで出土したパンとほぼ同一の製法・形のパンは現代でも近隣地方でつくられている。この時代から中世までは、パンの製法等には大きな変化はなかった。

ヨーロッパ中世においてはコムギのパンが最上級のパンとされたが、特に農民や都市下層住民はコムギに混ぜ物をしたパンやライ麦パンを食べることが多かった。飢饉の際にはさらに混ぜ物の量は多くなった。また、当時は大きな丸いパンを薄く切ったものをトランショワールと称して皿の代わりに使用していたことや、穀物以外の栄養源が不足していたこともあり、15世紀のフランス・オーヴェルニュの貴族はひとりあたり500sのパンを年間に消費していた[3]。このころにはすでに都市にはパン屋が成立していたが、都市の当局は住民の生活のためにパンの価格を一定に抑えるよう規制を敷いており、このためコムギなど原料の価格が高くなると価格は一定の代わりにパンの重さは軽くなっていったり混ぜ物が多くなったりした[4]。しかし、都市の当局は一般にパンの質に対しても厳しい規制を敷くのが常であった。パンは人々の生活に欠かせないものであり、パン屋のツンフトは肉屋とともに半ば公的な地位を持ち、大きな力を持つことが多かった。この場合のパン屋とは自ら粉を練りパンを焼き上げるまでを一貫して行うもののことで、市民が練った粉を持ち込んで、手間賃をもらってパンを焼くものとの間には明確な格差があった。農村においては領主の設置したパン焼き釜を領民は利用せねばならないという使用強制権が設定されていたが、のちには農村でもパン屋によってパンが焼かれるようになっていった[5]。

18世紀ごろからヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった[6]。その後、大型のオーブンの発明や製粉技術の発達により、大規模なパン製造業者が出現した。19世紀に入って微生物学の発達により酵母の存在が突き止められ、これを産業化して酵母から出芽酵母を単一培養したイーストを使うことができるようになった。また、酵母の代わりに重曹やベーキングパウダーで膨らませたパンも作られるようになったほか、現代では生地の発酵の管理にドゥコンディショナーを用いるなど発酵の技術の向上もみられる。

表記・語源[編集]

日本では、古くは「蒸餅」、「麦餅」、「麦麺」、「焙菱餅」[7]、「麺包」とも表記したが、現代日本語ではポルトガル語のパン(pão)に由来する「パン」という語を用い、片仮名表記するのが一般的である。フランス語(pain)やスペイン語(pan)でもパンと言い、イタリア語(pane)でパネという。これらはラテン語のパン、食料を意味する「panis:パニス」[8]を語源とした単語である[9]。また日本語を経由する形で、韓国より少々長く日本による統治を受けた台湾でも、台湾語、客家語などでパンと呼び、また、韓国でも、韓国語でパン(빵)と呼んでいるが、これも日本統治時代に日本語を経由して借用されたと考える説がある。

日本[編集]

「食パン」も参照

安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって西洋のパンが日本へ伝来した。しかし、江戸時代に日本人が主食として食べたという記録はほとんど無い。一説にはキリスト教と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また、当時の人々の口には合わなかったと思われる。江戸時代の料理書にパンの製法が著されているが、これは現在の中国におけるマントウに近い製法であった。徳川幕府を訪れたオランダからの使節団にもこの種のパンが提供されたとされる。

1718年発行の『御前菓子秘伝抄』には、酵母菌を使ったパンの製法が記載されている。酵母菌の種として甘酒を使うという本格的なものであるが、実際に製造されたという記録はない。 最初にパン(堅パン)を焼いた日本人は江戸時代の末の江川英龍とされる。江川は兵糧としてのパンの有用性に着目し、1842年4月12日に伊豆の韮山町の自宅でパン焼きかまどを作成し、パンの製造を開始した。このため、彼を日本のパン祖と呼ぶ[10]。明治時代に入ると文明開化の波のもとパンも本格的に日本に上陸するものの、コメ志向の強い日本人には主食としてのパンは当初受け入れられなかった。この状況が変化するのは、1874年に木村屋總本店の木村安兵衛があんパンを発明してからである。これは好評を博し、以後これに倣って次々と菓子パンが開発され、さらにその流れで惣菜パンも発達した。次いで、テオドール・ホフマンが桂弥一(軍人)にパン食を勧めて脚気が治り評判となり、脚気防止のためにパン食導入の流れができ、日本海軍では1890年(明治23年)2月12日の「海軍糧食条例」の公布によっていち早くパン食が奨励されていた(日本の脚気史 参照)。

第二次世界大戦後、学校給食が多くの学校で実施されるようになると、アメリカからの援助物資の小麦粉を使ってパンと脱脂粉乳の学校給食が開始され、これが日本におけるパンの大量流通のきっかけとなった。これにより、1955年以降、日本でのパン消費量は急増していった[11]。

現在、日本においてパン食の割合が特に高いのは近畿地方である[12]。日本におけるパンの年間生産量は、2005年には食パンが601552t、菓子パンが371629t、そのほかのパンが223344tとなっており、約半分を食パンが占めている。同年の1世帯当たりの年間パン購入量は食パン19216g、そのほかのパンが20725gである[13]。日本のパンの生産量は平成3年に119万3000t、平成23年に121万5000tと、年度ごとにやや増減があるものの総体としてはこの20年ほぼ横ばいが続いている[14]。しかし、主食であるコメの消費量が激減を続けていることから相対的にパンの比重が増加し、2011年度の総務省家計調査においては1世帯当たりのパンの購入金額が史上初めてコメを上回った[15]。

原料[編集]





米粉パンの一例
一般的に生地に用いられる穀物粉は次のようなものがある。
小麦粉
ライ麦粉
オオムギ粉
麦芽粉
トウモロコシ粉
エンバク粉
米粉

これらのうち、最も一般的なパン製造の材料は小麦粉である。これは、小麦粉の中にはグルテンが含まれるため、水を加えてこねることで粘りが出るうえ、酵母を使って発酵させると生地が膨らみ、柔らかく美味なパンが作れるからである。これに対し、オオムギやライムギといったほかの材料ではグルテンが形成されないため、パンは硬く重いものになる。ライムギの場合、グルテンがないため酵母で膨らませられず、乳酸菌主体のサワードウによって膨らませるが、小麦粉に比べて膨らみは悪く重いパンとなる。このほか、メキシコのトルティーヤのようにトウモロコシ粉を用いたり、ブラジルのポン・デ・ケイジョのキャッサバ粉、エチオピアのインジェラに用いるテフの粉など、世界各地では様々な独自の材料を用いている。近年では、日本において米の利用促進や製造技術の進歩により、米粉から作られる米粉パンの利用が増加している。

小麦粉には様々な種類があるが、パン作りに主に使用されるものは強力粉である。これは、強力粉にはグルテンが多く含まれるためよく膨らみ、ふっくらとしたパンを作ることができるためである。これに対し、あまり膨らませる必要がなくどっしりとしたフランスパンなどを作る際には、強力粉より1%ほどタンパク質の少ない準強力粉(フランス粉)が使用される。

酵母(イースト)、出芽酵母は、コムギによる発酵パンを作る際には必須の材料である。パン作りに使用される酵母は大きく分けて、工業生産された酵母と天然酵母とに分けられる。工業生産されたイーストは、生イースト、ドライイースト、インスタントドライイーストの3種からなる。生イーストは一週間ほどで使用期限が過ぎてしまうため、乾燥させて長期保存ができるようにしたドライイーストが作られ、さらに予備発酵過程が不要で直接粉に混ぜ込めるインスタントドライイーストが開発された。ライムギの場合には上記のように、天然酵母であるサワードウが使われる。天然酵母にはほかにもアンパンなどに使われるコメと麹で作る酒種や、ホップ種、ヨーグルト種、レーズン種など、様々な酵母が存在する[16]。また、スコーンなどのように発酵ではなくベーキングパウダーや重曹などの膨張剤を使って膨らませるクイックブレッドと呼ばれる種類もある。

上記の生地材料に、必要に応じて各種材料を加える。ほぼどのパンにも使用されるものは上記のほかには水と食塩のみであり、この主材料4種(穀物粉、酵母、水、食塩)のみで作られたもの、またはほかの副材料の配合が少ないものは「リーン」なパンと呼ばれ、余計な雑味が少なく穀物本来の味が生かされるために主に食事用のパンに用いられる。水は硬水よりも軟水のほうがパンが膨らみやすく良いとされる。塩には味を調えるほか、酵母の活動を遅らせたり、雑菌の活動を抑えたり、グルテンを強固にするなどの作用がある。

このほかの材料はパン作りに必須ではないが、パンの味や仕上がりに大きな影響を及ぼすため副材料としてよく使用される。砂糖、鶏卵、牛乳、バター、ラード、ショートニングなどが主に使われる副材料である。こうした副材料を多く配合したパンは「リッチ」なパンと呼ばれ、甘くふっくらと仕上がるため菓子パンなどに多く使用される。

また、大規模工場での製造によくつかわれる添加物として上記の他に炭酸水素ナトリウム、ソルビット、乳化剤、イーストフード、臭素酸カリウム、アスコルビン酸(ビタミンC)、グリシン、タンパク質(サケ白子由来、大豆由来、小麦由来など)、着色料、増粘多糖類などがある。

生地以外に、ナッツ類、ドライフルーツ、ジャム、肉類、チーズ、生クリーム、豆類、野菜類、各種調味料などを用いる場合もある。これらは主にパンにトッピングしたり具として中に入れて使用することが多い。

種類と製法[編集]

まずパンは、膨らませるものと膨らませないものとに大きく分けられる。膨らませないパンは平焼きパンや無発酵パンと呼ばれ、中東からインドにかけての地域で盛んに食べられている。膨らませるものは、酵母を使って発酵させるもの、種を使って発酵させるもの、発酵させず膨張剤を使うもの(クイックブレッド)の3種に分けられる。もっとも一般的なものは酵母を使って発酵させるコムギのパンである。

パン生地の作り方としてもっとも単純で古くからあるものは、材料をそのまま一度に混ぜ込んでこねる直捏ね法(ストレート法)であり、現在でも家庭でのパン作りにおいてはこの方法が主流である。これに対し、まず材料の70%程度を捏ねておいて発酵させ中種とし、それに残りの材料を混ぜ込んで作る中種法は、柔らかな生地ができるうえ調整がしやすく、大量生産に向いているため、大手のパン製造業者のほとんどが採用している。粉の20%から40%程度に同量の水と酵母を混ぜ込んでつくる液種法(水種法、ポーリッシュ法)や、一晩おいた中種を新しい生地の10%から20%混ぜて作る老麺法などの方法もある[17]。

一般的なパン作りの流れとしては、まず材料を混ぜ合わせ、捏ね上げて発酵させる。これを一次発酵と呼ぶ。中種法の場合はこのあと残りの材料を混ぜ込んでもう一度発酵させる。一次発酵が終わると、発酵したパン生地のガスを抜き、状態をととのえた後でもう一度発酵させる(二次発酵)。二次発酵後、生地を切り分けて丸め、いったん生地を寝かせ熟成させる。寝かせた生地は成形し、この過程で再びこれまでにたまったガスを抜いていく。パンの形が完成すると、もう一度最終的に発酵させ膨らませる。そして膨らんだ生地を焼き上げて、パンが完成する。

各国の食文化との関係で、それぞれの国において好まれるパンの傾向は異なる。まず、原材料である小麦の開花・収穫時期である5月から8月に雨が多く降るとグルテンの形成が悪くなる為、フランスなどこの時期に雨が降りやすい地域では柔らかいパンが作りづらいため固いパンが作られる。次に、ヨーロッパではパンは主食であり、日本でいうところの米飯の位置づけに近い。また、肉食が中心で硬い歯触りを好む傾向がある。そのため、あまり余計な味付けをせず小麦粉本来の味を重視し、柔らかなものより硬くどっしりしたものを好む傾向がある。一方日本においては、主食の地位には米飯があったため、主食としてよりも惣菜や菓子としてパンは主に発達した。主食として使用される食パンにおいても、米飯と同じように水分が多くやわらかなパンが好まれる傾向にある。[18]

製造工程の図解[編集]

パンのできるまでの一つの例を以下に図示する。

パンのできるまで






1. 酵母と生地を完全に混ぜ合わせる。







2. 生地からパン一個分を切り分け、形を整える。







3. 棚に生地を入れるためのバスケットを準備する。







4. バスケットに生地がくっつかないようにあらかじめ粉を振っておく。







5. 生地を粉を振ったバスケットに置く。







6. 生地を暖かな場所に置き発酵させる。







7. 生地に切れ込みを入れて成形し、発酵中にたまったガスを抜く。







8. 生地を焼き上げる準備が整う。







9. 生地をピールの上に乗せる。







10. 生地をオーブンの中に入れ、焼き上げる。







11. パンが完成する。







12. 棚の上において冷却する。



製造と供給[編集]

パンの市場規模は巨大なものであり、世界のかなりの国において製パン産業が成立している。大手食品企業による工業生産されたパンが大量に供給される一方、地域に密着した小規模なパン製造業者や、個人経営のベーカリーなど様々な種類の業者が存在する。

種類(地域別)[編集]





クロワッサン




ブリオッシュ




ブレーツェル




フォカッチャ




ロゼッタ




スコーン




デニッシュ




ベーグル




マッツァー




トルティーヤ




ポン・デ・ケイジョ




ナーン




あんパン




食パン




カレーパン




焼餅(シャオビン)




ポシュカル




菠蘿包(パイナップルパン)




ロティ・チャナイ
フランス[編集]

フランス
パン (Le pain, 400 g のパン、バゲットとともに最も一般的)
バゲット (La baguette, パンより細くて、250 g)
プティ・パン(プチパン)(petits pains, 12cmぐらいのミニバゲット)
ブール (La boule, 玉の形)
ミシュ (La miche, 1 kg)
フィセル (La ficelle)
バタール (Le bâtard, バゲットと同じ重さで、パンと同じ太さ)
エピ (L'épi)
パン・クーペ (Pain coupé)
パン・ド・ドゥ・リーヴル (Pain de deux livres)
パン・ド・ミー (Pain de mie, 食パン)
パン・ド・カンパーニュ (Pain de campagne)
パン・ド・セグル (Pain de seigle)
パリジャン (Le Parisien)
ファンデュ (Le fendu)
リュスティク (Pain rustique)
パン・オー・ルヴァン (Pain au levain)
パン・オ・ヌワ (Pain aux noix, くるみパン)
ピサラディエール (Pissaladière, プロヴァンス地方のピザ風のパン)
ヴィエノワズリ (Les viennoiseries, 菓子パン) クロワッサン (Le croissant)
ベニェ (Le beignet)
ショソン・オ・ポム (Le chausson aux pommes, りんごのショソン)
パン・オ・レ (Pain au lait)
パン・オ・ショコラ (Pain au chocolat)
ブリオッシュ (La brioche)
パン・オ・レザン (Le pain aux raisins)
ガレット・デ・ロワ (La galette des rois)
サヴァラン (Le savarin)
ババ (baba)
クイニーアマン (kouign amann)


ドイツ[編集]

ドイツ Brot
ヴァイツェンブロート (Weizenbrot)
キプフェル (Kipfel, Kipferl)
ブレートヒェン/ゼメル (Brötchen/Semmel)
ゾンタークスブロート (Sonntagsbrot)
ツォプフ (Zopf, ツォプ)
ブレーツェル (Brezel, プレッツェル)
ロゲンブロード (Roggenbrot)
プンパーニッケル (Pumpernickel)
ホルン (Horn, Hörnchen)
シュトレン (Stollen)
ミシュブロート (Mischbrot)
バウアーンブロート (Bauernbrot)
乾パン (Hartkeks)
キューヘレ Küchle – 小麦粉・塩・バター・酵母を混ぜ平らにし一晩寝かせ低温で揚げシナモン・粉砂糖をかけ完成となるバイエルン料理。
カイザーゼンメル (Kaisersemmel)

イタリア[編集]

イタリア
グリッシーニ (Grissini)
パネットーネ (Panettone)
フォッカッチャ (Foccaccia)
ロゼッタ (Rosetta)
ピザ (Pizza)
パーネ・カラザウ (Pane Carasau)
パンドーロ (Pandoro)
スフォリアテッレ (Sfogliatelle)
チャバッタ (Ciabatta)

イギリス[編集]

イギリス (Bread)
スコーン (Scone)
イングリッシュ・マフィン (English muffin)
ホットクロスバン (Hot cross bun)
ウェルシュケーキ (Welsh cake)
イングリッシュ・ブレッド (White bread, 食パン)
クランペット (Crumpet)
バノック (スコットランド、Bannock)

その他のヨーロッパ地域[編集]
デニッシュ(デンマーク)
クリングル(デンマーク、Kringle)
セムラ(スウェーデン)
クリスプ・ブレッド(北ヨーロッパ)
ババ(ロシア、ウクライナ、ポーランド)
ピロシキ(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)
チェブレキ(クリミア)
ソーダブレッド(アイルランド)
ツレキ(ギリシャ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
チョレキ(トルコ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
クック・ド・ディナン(ベルギー - 小麦粉と蜂蜜が原料の壁紙に使われる長期保存用のパン)
ピサラディエール(モナコ–薄いパンに、ペースト状に炒めたたまねぎを乗せ、更にその上にアンチョビとブラックオリーブを乗せる)
エンパナーダ(スペイン)

北アメリカ[編集]

北アメリカ
ベーグル (bagel, 中欧起源)
ハッラー (challah, 中欧起源)
ビアリ (bialy, 中欧起源)
シナモンロール (Cinnamon Roll, 中・北欧起源)
ビスケット (biscuit, 英国起源)
スコーン (scone, 英国起源)
ピザ (pizza, イタリア起源)
コーンブレッド (cornbread)
トルティーヤ (tortilla)
マッツォ (matzo, 中欧起源)
フライブレッド (frybread)
マフィン (Muffin, 英国起源)
エンパナーダ(メキシコ)

アメリカ合衆国とカナダでは、イーストの代わりに重曹とベーキングパウダーで膨らませた、発酵いらずのパン(クイックブレッド)の種類が豊富である。

中南米[編集]

南アメリカ
ポン・デ・ケイジョ Pão de Queijo(ブラジル)
クニャペ Cuñape(ボリビア)
サルテーニャ Salteña(ボリビア)
アレパ Arepa(コロンビア、ベネズエラ)
エンパナーダ empanada(ほぼラテンアメリカ全域)
エンパーダ empada(ブラジル)

カリブ海諸国
ロティ Roti トリニダード・トバゴ
シリアン・ブレッド Syrian Bread ジャマイカ

インド・中近東[編集]

インド・中近東
ナーン Naan(インド、イラン、中央アジア)
チャパティ Chapati(インド、パキスタン、アフガニスタン)
プーリー Puri(インド、パキスタン)
パラーター Paratha(インド、パキスタン)
ロティ Roti(インド)
ピタパン Pita(中近東)
ホブズ Khubz(中近東)
ムタッバク Mutabbaq(サウジアラビア、イエメン)
ラホーハ Lahoh, Laxoox(イエメン、イスラエル)
チョレギ choreg(アルメニア - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
チョレキ çörek(トルコ - ブリオッシュに似た生地で作る復活祭用のパン)
ハッラー Challah(イスラエル)
マッツァー Matzah(イスラエル)

アフリカ[編集]

アフリカ
インジェラ Injera(エチオピア、エリトリア)
ラホーハ Lahoh(ソマリア、ジブチ)

日本[編集]

ウィキメディア・コモンズには、日本のパンに関連するカテゴリがあります。
菓子パン あんパン
ジャムパン
メロンパン
クリームパン
チョコレートパン
レーズンパン
味噌パン
蒸しパン
コロネ
かにぱん
甘食
ぼうしパン
ウグイスパン

コッペパン
バターロール
食パン
米粉パン
乾パン
保存パン
堅パン
揚げパン カレーパン


中国[編集]

中国
饅頭(マントウ)、饃饃(モーモー)
焼餅(シャオビン)
油条(ヨウティアオ)
ポシュカル(ウイグル料理の揚げパン)

香港
パイナップルパン(ポーローパーウ)

台湾[編集]

台湾
太陽餅(タイヤンピン) (台中起源)
鳳梨酥(パイナップルケーキ) (台中起源)
胡椒餅(フージャオピン) (福州起源)
K糖糕(澎湖起源)
牛舌餅(鹿港・宜蘭起源)

韓国[編集]

韓国
ホットク

東南アジア[編集]
バインミー(ベトナム)
ムルタバッ Murtabak (マレーシア、インドネシア、タイ王国、シンガポール、ブルネイ)
ロティ Roti (マレーシア、シンガポール、タイ王国)
ロティ・ビリス Roti bilis (マレーシアの「イカン・ビリス」(サンバル風味の雑魚)入りパン。)
カヤ・ジャムパン Roti kaya (マレーシア、シンガポール、インドネシア。)

パンを利用した料理、再加工品[編集]





パニーノ




西多士(香港式フレンチトースト)




かつサンドトースト クロックムッシュ
クロックマダム

フレンチトースト Le pain perdu(パン・ペルデュ)(固くなったパンを利用して、卵、牛乳と砂糖を追加して、フライパンで焼く) トリハス

ハニートースト
ブレッドプディング
ラスク
パニーノ (Panino、Panini)
ハンバーガー
チビート
ホットドッグ
惣菜パン 焼きそばパン
コロッケパン
サラダパン
明太フレンチ

サンドイッチ クリームサンドパン

パニーニ
ハトシ
カナッペ
ギロピタ
タコス
ブリート
ガスパチョ
チーズフォンデュ
エッグベネディクト
ミガス
パン粉

ホームベイク[編集]

ホームベーカリーがなくても家で簡単に焼きたての味が味わえるパン、パート・ベイクド・ブレッド(part-baked bread)などもあり、半焼き状態で売っていて、オーブンでさらに焼いて食べる。

日本におけるパン製品の表示[編集]

農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)および「包装食パンの表示に関する公正競争規約」に基づき、表示が決められている。

JAS法では、原材料や製造方法に応じて「食パン」「菓子パン」「パン」の3つに区分される。さらに市販食パンについては、上記公正競争規約による表示内容が決められている。

文化[編集]

パンは世界の多くの地域で基本的な食料として重視されていたため、しばしば文化的に象徴性を持った。キリスト教やユダヤ教においては、特にパンは象徴として重要であり、宗教儀式に使用される。

キリスト教においてはパンはキリストの肉体、ワインはキリストの血を象徴するとされており、聖餐において重要な意味合いを持つ。聖餐は正教会では聖体礼儀、カトリック教会ではミサ、聖公会(アングリカン・チャーチ)やプロテスタントの一部では聖餐式という名で行われ、いずれも重要な意味を持つ。

ユダヤ教においては安息日やユダヤ教の祝祭日にのみ食されるハッラーと呼ばれるパンが作られている。

ローマ帝国においては社会保障の一環としてローマ市民権保有者のうちの貧困者にパンの原料となる穀物の無料給付が行われており、同じく為政者によって市民に無料で供給された剣闘士試合や戦車競走と並んで、市民を政治から遠ざけるものだとして同時代の詩人ユウェナリスが「パンとサーカス」という表現で批判した。この表現は21世紀の現代においても、為政者による人気取りや愚民政策を批判する語として存在している。

また、フランス革命時に王妃マリー・アントワネットが困窮する民衆に対し「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と発言したとされ、フランス革命時のエピソードとして非常によく引用されるものの、実際にアントワネットがこのような発言をしたという証拠は見つかっておらず、後世の挿話だとされている。

う〜・・・

寒いなぁ。。。

明日は雪が降るらしいですねーー;

家から出たくないです。。。。


今日、ベーキングパウダー買ってきました^^

今度パンをつく手見ようと思って
ここのブログで写真張り付けられるのかな?

出来たら載せてみたいです♪

フランシスコ・フランコ

フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Franco y Bahamonde、1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペインの軍人、政治家、独裁者(総統)。ガリシア出身。

一般には、フランシスコ・フランコ(Francisco Franco、IPA : [fɾan'θisko 'fɾaŋko])として知られる。フルネームはフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco y Bahamonde)。称号は「カウディーリョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de España)」。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 軍人として
1.2 スペイン内戦
1.3 総統就任
1.4 スペイン統一
1.5 第二次世界大戦 1.5.1 枢軸国寄りの「中立」
1.5.2 連合国への傾斜

1.6 独裁者フランコ
1.7 後継者指名と王政の復活

2 フランコ没後のスペイン 2.1 王政復古と民主化
2.2 クーデター未遂事件
2.3 歴史の記憶法

3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク
6 関連項目


生涯[編集]

軍人として[編集]

フランコは、スペイン北西部ガリシア地方の造船と海軍基地の町フェロルの軍人の子として生まれた[1]。1907年8月15歳の時トレドの陸軍士官学校に入学し、卒業は18歳で少尉となった。母を人生の師としていた。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱(第三次リーフ戦争を参照)の鎮圧に当たった。フランコは現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、その功績で陸軍少佐に昇進した。帰国後は、サラゴサの陸軍士官学校の校長を務めた。

1931年、スペインではボルボン王朝が倒されて第二共和政が成立し、王族は国外へと追放された。フランコは、共和政府からラ・コルーニャとバレアレス諸島の軍政官に任じられ、その間に陸軍少将に昇進した。1934年10月、右翼の内閣が成立し、左翼政党がこれに抗議してゼネラル・ストライキを呼びかけると、フランコはアストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力で鎮圧した。この功績により翌1935年、陸軍参謀総長に任命された。

スペイン内戦[編集]

以前は「スペイン内乱」と呼ばれていたが、スペインを代表する正統な政権が転覆している事や、反乱軍を支持した派閥も多いことから、現在では「スペイン内戦」の呼称がより一般的である。

1936年2月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、右派として知られたフランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷された。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行、教会財産を没収し、ブルジョワを弾圧した。これは農民層に支持されたが、地主や資本家、カトリック教会などの保守勢力や知識層とは対立した。

同年7月にスペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、フランコはモロッコに飛んで反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。保守勢力が反乱軍を支援したため、この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。反乱軍の中心人物は当初ホセ・サンフルホ将軍やエミリオ・モラ・ビダル将軍などであり、フランコは反乱側の一将軍でしかなかった。初戦に反乱軍は敗北を重ねるなど長期化の様相を見せ始めると、戦功のあるフランコと、戦前から人望が高かったモラが反乱側の人気を二分するようになる。その後モラが飛行機の墜落で死亡すると、フランコが反乱軍の指導者としての地位を固めた。

総統就任[編集]

1936年10月1日にブルゴスにおいて、反乱軍(国民戦線軍と称した)の総司令官に指名され、国家元首に就任した。その際フランコは、軍総司令官としてGeneralísimo(ヘネラリシモ、総帥と訳される)、国家元首としてCaudillo(カウディーリョ、総統と訳される)の称号を用いた。

また、フランコは総統就任以来、仮政府としてブルゴスに「国家行政委員会」を設置していたが、1938年1月30日にこれを改組して正式に内閣制度を導入、フランコは国家元首兼首相となった。

スペイン統一[編集]

その後フランコは、ドイツやイタリア軍の支援を受けて人民戦線政府勢力と戦った。反乱は陸軍主体で行なわれたため、モロッコ軍を本土に送れず、ドイツの輸送機が活躍した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている。

なおフランコに対する人民戦線政府は内部に共和主義者、共産主義者、無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスが人民戦線を支援するも国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(イギリスやアメリカなど各国の義勇兵)の支援を受けるも、ドイツ軍やイタリア軍、そして政府からの強力な支援を受ける国民戦線軍に対する劣勢は覆せなかった。

最終的にフランコ率いる国民戦線軍は1939年3月27日にマドリードを陥落させて人民戦線政府を倒し、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコ総統は内戦終結宣言を発した。これにより数十年にわたるスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦による国土の荒廃は著しかった。フランコは統一されたスペインの国家元首(総統)となり、同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。

第二次世界大戦[編集]

枢軸国寄りの「中立」[編集]

「第二次世界大戦下のスペイン」も参照





妻とともに地方視察を行うフランコ(1940年)




ハインリヒ・ヒムラーとともに(1940年)
スペイン内戦終結直前の1939年3月27日、フランコは日独伊防共協定に加入し、同年5月には国際連盟から脱退した[2]。一方、9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかし緒戦におけるドイツの勝利や優勢を見て、1940年6月10日イタリアの参戦直後に中立を放棄し、非交戦(en:Non-belligerent)を宣言した。これによって枢軸国側に近づき、情報提供などで便宜を図った。非交戦宣言より数日後には国際管理都市であったタンジールに侵攻し、11月これをスペイン・モロッコ領として併合した。並行してフランコは対英戦参戦の準備を行い、英国降伏直前の一週間にスペインが参戦することで、講和・戦後処理会議における発言権を確保しようと思考した。同時に独英休戦の仲介をすることで、ジブラルタルと北アフリカの領土要求をドイツに認めさせようとしたのだが、ドイツの反応は冷淡だった[3]。

ドイツがフランス全土を占領し、連合国がヨーロッパ大陸から追い出された直後の1940年10月、スペイン内戦時代からの盟友であるナチス指導者でドイツ総統アドルフ・ヒトラーと、ヴィシー政権が統治していたフランスとスペインとの国境のアンダイエで会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示した。ヒトラーはスペインの領土要求をヴィシーフランスを考慮すると、仏領北アフリカの大幅割譲はできないとしながら、対英戦後の英国植民地処理でスペインに代償が与えられるので領土調整は可能と述べた。フランコはこの時ヒトラーが要求した英領ジブラルタル攻略作戦(フェリックス作戦)のための地上ルート提供や、独伊鋼鉄同盟参加と将来的な日独伊三国同盟への参加を約束し、条件として軍事・経済の「莫大な戦略物資」を要求しつつ、参戦の意思を宣誓した[4]。しかし、英国本土航空戦や地中海戦線特にギリシャ戦線での英国有利な状況と経済的な英米との依存関係はフランコの参戦意欲を減退させ、翌年にフランコはこの合意を無効とし[5]、その後も参戦要求をかわし続けた。

一方でヒトラーがソ連侵攻作戦バルバロッサ作戦を発動すると、国中の熱狂的なファシスト一万人近くを集め青師団を創設し、義勇兵部隊として、ドイツに送り込んでいる。(国内には、ドイツ・イタリアに共感する参戦推進派も存在し、それはフランコから見れば中立政策や国内の安定を危うくしかねない不穏分子とも言えた。その為、両国の好感を得、かつそうした反動分子を一掃する方法として、青の師団創設・派遣は一石二鳥であった。[6])さらに内戦の経緯もあって、ソ連を仇敵と見なす国内世論とこれまでの自身の言動を無視できない面や内戦期におけるドイツ援助への返礼的意味合いもあった。

1941年の真珠湾攻撃後には日本に祝電を送り、アメリカの不興を買った[7]。一方でスペインの旧植民地で権益が存在したフィリピンに日本軍が進攻すると、かつての植民地であるフィリピンに残る利権の扱いを巡り両国間で軋轢が生まれた[8]。

連合国への傾斜[編集]

しかし、1943年頃よりヨーロッパおよびアフリカ戦線において完全に連合国が優勢になると、再び中立を固持するという日和見な姿勢に終始した。1944年頃になると、青師団について連合国側各国から批判が集まり、対してフランコは撤兵を約束、国内に対して反対する者は厳罰に処する、と声明した。さらにアジア太平洋戦線においても日本軍が完全に劣勢となった1945年に起きたマニラの戦いにおいては、現地スペイン人の損害問題を理由に日本と断交した[9]。

フランコは第二次世界大戦を次のように見ていた。『世界では全く別の二つの戦争が戦われている。第一にヨーロッパではソ連に対する戦争であり、第二に太平洋では日本に対する戦争である』とし、ドイツ、アメリカ、イギリスを含む「全キリスト教世界」は、野蛮で東洋的・共産主義的なロシアを共通の敵として戦うべきであるとした。フランコはこの考えにそって連合国とドイツの講和調停を行った[10]。

なおこの工作において「アジアにおけるヨーロッパの権益は完全に回復するべきものである」としており、非キリスト教国である日本の要求は考慮に入れていなかった[11]。また、ヨーロッパ及びアフリカ戦線においてドイツやイタリアの劣勢が決定的となり、またアジア太平洋戦線においても日本軍が劣勢の色を見せ始めていた1943年7月28日にアメリカに和平調停を申し出たが、その際には駐スペインのアメリカ大使ヘイズ(en:Carlton J. H. Hayes)に対して「彼ら(日本人)は基本的に蛮族である。彼らは最悪の帝国主義者であり、中国および極東全域の支配をもくろんでいる。フィリピンに独立を保証するという彼らの最近の約束は全く信頼できない。スペインは日本に何らのシンパシーを抱いておらず、もし軍事的に弱体でなければ太平洋戦争において喜んでアメリカと協力したいところである」と述べている[12]。しかし連合国もドイツもスペインの調停には耳を貸さなかった[13][14]。

結果としてスペインは、第二次世界大戦中において「中立国」として振る舞うことにより、自国及び植民地の戦禍を完全に免れたが、その風見鶏的な態度は連合国、特にアメリカに不信感を植え付けることとなった[15]。

独裁者フランコ[編集]

フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行った。そのため、第二次世界大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。

しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化により、イギリスやアメリカをはじめとする西側諸国は、反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口という地政学的にも戦略的にも重要な位置にあり、さらにイギリス領ジブラルタルの地位を尊重しているという理由で、フランコ率いるスペインとの関係の修復を模索し始めた。





アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領とともに(1959年)
1953年9月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めた(1958年)。

また、1959年12月にはアメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。第二次世界大戦時には「中立国の指導者」という立場ながら、枢軸国が劣勢になる1944年ころまでは一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合国軍の司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。

その後フランコは、独裁を続けるフランコを支援することに対する国内世論からの批判を受けたアメリカなどの意向に配慮して、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響をうけて左右に揺れ動くスペイン国内の社会不安の緩和に努めた。しかし、カタルーニャやバスク地方における独立意識を削ぐために、公の場(家の中以外のすべての場所)でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁止するなど、一方では強硬な姿勢を取っており、この様なフランコの姿勢に対して「バスク祖国と自由」(ETA)によるテロなどが活発化した。

後継者指名と王政の復活[編集]





スペイン総統としてフランコに与えられた紋章
「スペイン国 (1939年-1975年)」も参照

フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである[16]。ただし、新たな王家を迎えるのかボルボーン王朝による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。

1947年に、フランコ総統は「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として「王国」の終身の「摂政」となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票で成立し、フランコは終身国家元首の地位を得た。

70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。前国王アルフォンソ13世の息子で、イタリアへ亡命しているフアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ(バルセロナ伯爵)を呼び戻し次期国王とするのが自然であったが、フランコは「考え方が容共的すぎる」としてこれを避けた。さらに一部にはフランコの息子に自らの地位を継がせ、カレーロ・ブランコをその下につけるという意見もあったが、これらの意見は王制移行を希望するフランコにより否定された。

最終的にフランコは、前国王アルフォンソ13世の孫でフアン・デ・ボルボンの息子であるフアン・カルロスを1969年に自らの後継者に指名し、将来の国王としての教育を受けさせる一方、その後自らは公の場に出ることを差し控えるようになった。長い闘病生活の末に1975年に83歳で没した。

フランコ没後のスペイン[編集]

王政復古と民主化[編集]





戦没者の谷にあるフランコの墓
ヨーロッパにおいてドイツとイタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げた独裁者フランコは、ドイツとイタリアのファシズムが崩壊した後も、実に30年間にわたってその独裁体制を維持し続けた。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、自身の没後は王族を擁き政治の実権は腹心のルイス・カレーロ・ブランコに与えようとした。しかし、1973年にETAによるテロで乗っていた自動車ごとブランコが爆殺され、この計画は頓挫した。

1975年にフランコが死ぬと、フランコの遺言どおりにスペインにボルボーン王朝が復活した。フアン・カルロス1世は、即位前にフランコの指示で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁体制を取るかと思われた。しかし即位後は、一転してフランコの独裁政治を受け継がずに政治の民主化を推し進め、急速に西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図る。

その後スペインは、国民からの圧倒的な支持を受けた国王の後援もあり、1977年に総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認。正式に民主主義体制へ移行した。この様な議会制民主主義及び立憲君主制への速やかな移行は、その順調さから「スペインの奇跡」と呼ばれた。

クーデター未遂事件[編集]

また、1981年2月23日に発生した軍部右派のアントニオ・テヘーロ中佐によるクーデター未遂事件「23-F」では、国王親裁の復活を求める軍部右派勢力により議会が占拠され、内閣閣僚と議員350人が人質に取られたが、国王は軍部右派勢力の呼びかけを拒否して民主制の維持を図った。また、陸軍反乱部隊やテヘーロらも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。

歴史の記憶法[編集]

2007年10月31日、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ「La Ley por la que se reconocen y amplían derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecución o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura(内乱と独裁期に迫害と暴力を受けた人々のための権利承認と措置を定めた法)」通称「Ley de Memoria Histórica(歴史の記憶法)」を与党社会労働党などの賛成多数で可決(Historical Memory Bill)。同年、上院でも可決成立した。

2008年10月より、「歴史の記憶法」に基づき、バルタザール・ガルソン(英語版)予審判事は内戦被害者調査に着手。10月には、スペイン内戦中とフランコ政権初期に、国民戦線軍によって住民が虐殺されるなどの「人道に対する罪」「戦争犯罪」が行われたとして、スペイン全土に1400か所あると思われる犠牲者が埋められている集団墓地の発掘や関係者の訴追など、人道犯罪調査を行うと発表した。一方、ハビエル・サラゴサ検事局長は、1977年に制定された特赦法「移行協定」により恩赦が成立しているとして、フランコ政権下で行われた犯罪はすべて許されるという立場を示し、対立が起きた。

10月17日、ガルソン判事は、内戦中及び独裁政権時代に住民の殺害や拉致を命じたとして、すでに死去しているフランコ以下35人を「人道に対する罪」等で起訴した。[17]

11月6日、ガルソン判事の調査が終了し、全国25カ所の集団墓地からの犠牲者発掘を命じた。翌7日、サラゴサ検事は案件は全国管区裁判所の管轄外だとして異議申し立てを行い、これを受けて11月28日、全管裁刑事法廷は集団墓地からの遺体発掘命令を停止すると決定した。同法廷のペドラサ判事は異議申し立ての処理が終了するまでガルソン判事の発掘命令とフランコ裁判を中止すべきと要請、同法廷全体会議にかけられ、これが認められた[18]。

アムネスティは、内戦中及びフランコ政権下で市民11万4千人が殺害若しくは行方不明になっているとして、スペイン政府に犠牲者のための真実を解明するよう求めている。

なお、スペインには数多くのフランコ像があったが、2008年12月、サンタンデール市の広場の7メートルのブロンズ像(1964年建立)を最後に、本土からすべて撤去された[19]。

コンドル軍団

コンドル軍団(独:Legion Condor[* 1])は、ナチス政権下のドイツからスペイン内戦に派遣されたドイツ国防軍による遠征軍。ドイツ空軍を主体に、少数の陸海軍部隊を加え組織されたコンドル軍団は、1936年から1939年まで義勇兵の名目でフランシスコ・フランコの国民戦線軍を支援した。ドイツ語のLegion レギオーンは、直訳すると義勇軍や傭兵部隊、外人部隊の意味となる。



目次 [非表示]
1 概要
2 第二次世界大戦への影響
3 第二次世界大戦後の対応
4 編成(1936年11月時点)
5 人物
6 脚注 6.1 注釈
6.2 出典

7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


概要[編集]





コンドル軍団とHe111爆撃機(1939年)




コンドル軍団仕様のBf109C
1936年7月、スペイン本土とモロッコで軍隊による軍事蜂起が発生、フランシスコ・フランコが反乱軍(国民戦線軍)の総司令官となり、スペイン内戦に突入した。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは国民戦線軍の支援を決定し、早くも8月には最初の航空部隊を北アフリカへ派遣した。増援は続々と到着し、11月にはコンドル軍団として正式に編成された。フーゴ・シュペルレ少将が司令官を務め、100機の航空機と約5,000人の兵員によって構成されていた。内戦の終結までに延べ15,000人から20,000人がコンドル軍団に参加した。ドイツは対外的には内戦への不干渉を表明していたが、アドルフ・ヒトラーは「ボルシェビズムに対する闘争」の一部であると主張し、介入を正当化した。

スペイン内戦はドイツにとって新兵器や新戦術の格好の実験場となった。メッサーシュミット Bf 109戦闘機、ハインケル He 111爆撃機、ユンカース Ju 87急降下爆撃機は、コンドル軍団で初めて実戦投入された。これらの機体はおおむね良好な成績を収め、特に戦闘機隊ではヴェルナー・メルダースのようなエース・パイロットも誕生した[* 2]。露呈した問題点を改良された新兵器は、続く第二次世界大戦で大々的に投入されることとなった。ただし新兵器のみを投入したのではなく、旧式の複葉機ハインケル He 51を、初期は戦闘機として、後期は対地攻撃機や練習機として使用するなどもしていた[* 3]。

コンドル軍団には航空部隊以外の部隊も所属していた。陸軍は1937年1月からヴィルヘルム・フォン・トーマ中佐の指揮するイムカー戦闘団 (Kampfgruppe "Imker") を派遣した[* 4]。イムカー戦闘団は、約100両のI号戦車を装備した三個戦車中隊を基幹に編成されていた。海軍は数十人の将校と専門家からなるチームを派遣した。彼ら陸海軍将兵は、実戦に参加するとともに国民戦線軍の訓練を指導した。また、8.8cm高射砲が初めて配備され、これは対空のみならず、対戦車、対陣地に極めて有効であることがわかった。

1937年4月26日、コンドル軍団とイタリア空軍はバスク地方の都市ゲルニカを爆撃した。これはその後の第二次世界大戦でしばしば見られる都市に対する無差別爆撃の初期の例であった。わずかに24機の爆撃機(He111:2機・Do 17:1機・Ju 52:18機・SM.79:3機)による空襲であったにもかかわらず、市街の60%から70%が破壊された。死傷者の詳細は現在においても不明である。フランコ政権下で発刊された新聞「アリーバ」の1970年1月30日付けの記事では、死傷者はわずか12人に過ぎないとした。一方でバスク亡命政府は1650人が死亡し、889人が負傷したと主張した。近年の研究では確実な死者は250人から300人とされている。

画家のパブロ・ピカソは、ゲルニカ爆撃を題材とした大作壁画「ゲルニカ」を書き上げた。この作品は大きな反響を呼び、爆撃に対して国際的な非難が浴びせられることとなった。フランスに亡命していたドイツ人作家ハインリヒ・マンは「ドイツの兵士よ! 悪党が君らをスペインに送っている!」というスローガンを打ち出して介入を非難した。

1939年4月1日、フランコが勝利宣言を出し、スペイン内戦はほぼ終結した。

第二次世界大戦への影響[編集]

コンドル軍団は順次ドイツへ帰還し、同年6月6日にはベルリンで凱旋式典が行われた。スペイン内戦で経験を積んだ熟練パイロットたちは、その後のポーランド侵攻やフランス侵攻において空軍の中核となって活躍した。また、支援を受けたフランコは代償としてドイツに兵力を提供し、スペイン人からなる青師団(独:Blaue Division)が編成された。青師団は主に東部戦線におけるソヴィエト連邦との作戦に従事した(もっともフランコが行った見返りはその程度であり、第二次大世界大戦ではドイツの要請をかわし続け、絶えず日和見的な中立を保ち、ヒトラーを憤慨させた)。

第二次世界大戦後の対応[編集]

1998年4月、ドイツ連邦議会は名誉剥奪法を制定し、連邦軍組織の名称からコンドル軍団関係者の名を外すことを議決した。2005年1月、同法に基づきペーター・シュトルック国防相が過去メルダースに与えられた全ての名誉を剥奪した。それに伴い、ドイツ連邦空軍の第74戦闘航空団(Jagdgeschwader 74:JG74)の部隊名に継承されたメルダースの名は抹消された。100人以上の退役軍人らが、この決定に抗議した[10]。

編成(1936年11月時点)[編集]
司令官 - フーゴ・シュペルレ少将
S/88(参謀本部)
J/88(第88戦闘飛行隊) - He 51装備の四個中隊(48機)
K/88(第88爆撃飛行隊) - Ju 52装備の四個中隊(48機)
A/88(第88偵察飛行隊) - 以下の四個飛行中隊 He 70 装備の三個長距離偵察中隊(18機)
He 45 装備の一個短距離偵察中隊(6機)

AS/88(第88海上偵察飛行隊) - 以下の二個中隊 He 59 装備の一個偵察中隊(10機)
He 60 装備の一個偵察中隊(6機)

LN/88(第88航空情報大隊) - 二個中隊
F/88(第88高射砲兵大隊) - 以下の六個中隊 8.8cm 高射砲装備の四個中隊(16門)
2.0cm 高射砲装備の二個中隊(20門)

P/88(第88整備大隊) - 二個中隊

人物[編集]
アドルフ・ガーランド
フーゴ・シュペルレ
オスカール・ディルレヴァンガー
ヴィルヘルム・フォン・トーマ
ハヨ・ヘルマン
ヴェルナー・メルダース
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン
ギュンター・リュッツオウ
蒋緯国(訓練生として参加)

テルエルの戦い

テルエルの戦いは、スペイン内戦中の1937年12月から1938年2月にかけてテルエルの都市内外で行われた戦闘であり、スペイン内戦中で最も多くの血が流れた戦闘の内の1つである。テルエルは冬季の寒さが厳しい土地柄であり、テルエルの戦いの年はここ20年で最も過酷な冬であった[9]。テルエルの町は初め反乱軍(フランコ軍)が守備に当たっていたが共和国軍によって占領され、最終的に反乱軍が再奪還した。戦闘中にテルエルの町は砲撃や空爆を受け、およそ2カ月間の戦闘で反乱軍と共和国軍合わせて140,000人の死傷者が出た。テルエルの再奪還によって反乱軍は人員と資材の面で共和国軍に対して優位に立つこととなり[10]、テルエルの戦いはスペイン内戦の趨勢を決定付ける戦いの一つとなった[9]。



目次 [非表示]
1 背景 1.1 地形
1.2 兵力

2 戦闘 2.1 共和国軍の前進と包囲
2.2 反乱軍による救援
2.3 反乱軍の反撃

3 影響
4 死傷者
5 著名人
6 脚注
7 参考文献
8 外部リンク


背景[編集]

共和国がテルエルを攻めるという決断を下した理由として、いくつかの戦略的な状況が挙げられる。1937年までに反乱軍の支配下となっていたテルエルは共和国領に食い込んだ突出部となっており、共和国領の内陸部とバレンシア沿岸部との連絡線がテルエルによって分断された状態になっていた。そのため、共和国がテルエルを占領することは内陸部と沿岸部の連絡線を短縮することを意味していた[11]。また、3方向から共和国の領域に囲まれていたテルエルを反乱軍が保持しているということが、アラゴン戦線における反乱軍の勢力の象徴にもなっていた[12]。共和国の内部事情としては、共和国軍の再編を主導した国防相のインダレシオ・プリエート(英語版)が、自身の国防相としての実績を上げるために彼が再編した軍が有効に機能して華々しい勝利を収めることを望んでいたという事情もあった[13]。さらに、共和国政府首相のフアン・ネグリン(英語版)はカタルーニャの産業を労働者から接収したいと考えており、彼もまたテルエルへの攻撃を支持した。共和国軍の指導者たちは、反乱軍によるテルエルの占有は強固なものではなく、共和国軍がテルエルを占領したとしても反乱軍は積極的に奪還しようとはしないだろうと考えていた。そのような状況の中で、共和国の情報部は、フランコが12月18日にグアダラハラ区域のマドリードに対して大規模な攻撃を行うつもりであるという情報を掴んだため、共和国に反乱軍の注意をマドリードから逸らせる必要が生じたことが最後の一押しとなった。それらの結果、共和国軍は12月15日にテルエルにおける戦いを開始した[13]。

地形[編集]

詳細は「テルエル」を参照

アラゴン州南部に位置する人口20,000人[14]の町であるテルエルは「テルエルの恋人(英語版)」の悲劇的伝説で有名な[14]、荒涼とした岩壁に囲まれたテルエル県の県都であった。テルエルはトゥリア川とアルファンブラ川の合流地点よりもさらに上流、高さ3050 フィートの山の高台に位置しているため[15]、例年冬の気温がスペインで最も低い都市だった。テルエルは県都としてはスペインの最も奥地に位置しており、険しい渓谷、歯のような形をした山頂、湾曲した尾根といった険しい地形に囲まれた自然の要塞だった[15]。周囲の交通としては町の西にあるコンクー村周辺の平坦な丘をカタラユー高速が通っていたが、それもテルエルからはおよそ3マイルほど離れていた[16]。テルエルの歯 (La Muela de Teruel)として知られるテルエル西方に位置する峰がテルエル攻防の鍵となった[14]。テルエルは共和国支配地域へと突き出た位置にあったため、防衛ポイントはあらかじめ用意された塹壕と鉄条網によって強化されていた。1170年にも、テルエルはレコンキスタで交戦中だったムーア人とキリスト教国の状況を和らげるために要塞化されており、テルエルが要塞化されることで内陸部と沿岸部が隔てられるという状況は、スペイン内戦における1937年の共和党が置かれた状況と同一であった[17]。

兵力[編集]

共和党軍は、軍をほとんど一から再編成したフアン・エルナンデス・サラビア(英語版)の指揮下にあった[18]。サラビアの指揮下にいた指揮官の一人に共産党指導者のエンリケ・リステルがおり、彼はテルエル攻撃の先発隊として師団を率いた[19]。テルエルに対する襲撃は多国籍部隊であった国際旅団の援助なしに、全てスペイン人によって実行された。レバンテ(バレンシア沿岸)の共和国軍は、東部の軍によって支援された攻撃の主要部分を指揮することになっていた。共和国軍は全兵力として100,000人を有していた[20]。

レイ・ダルクール(英語版)大佐は戦闘開始時のテルエルにおける反乱軍の指揮官であった[21]。テルエル突出部を防衛する反乱軍は一般人を含めておよそ9,500人の戦力であった。攻撃が開始された後、最終的にダルクールは町を守るため、残った兵をテルエルの駐屯軍へと統合した。テルエルに配備されていた反乱軍の数は2,000人から6,000人の間で様々な見積もりがされている[22]。駐屯軍は恐らくはおよそ4,000人であり、その半数が一般人であったともいわれる[23]。

戦闘[編集]





地図の赤い線は戦闘開始時の前線を、紫の線は共和国軍がテルエルを包囲した12月20日の前線を、緑の線は戦闘終了時の前線をそれぞれ示している。テルエルの西に位置するLa Muela(テルエルの歯)に注目のこと。
1937年12月15日、リステルが指揮する共和国軍の師団は降雪の中、空襲や砲撃による予備攻撃なしにテルエルへの攻撃を開始した。リステルおよび、彼の同僚の指揮官であるエンリケ・フェルナンデス・ヘレディア大佐は町を包囲するために移動した。彼らはすぐさまテルエルの歯に対峙する陣地を敷き、夕方までには町の包囲を完了した[24]。レイ・ダルクールは彼の率いる部隊を直ちに町へと引き下げ、12月17日までにテルエルの歯における足場の維持を断念した[24]。反乱軍の指揮官のフランシスコ・フランコは、12月23日にやっとテルエルへ援軍を送る決定を下した。フランコは敵への譲歩はしないという決心のもとで県都が共和党軍の手に落ちてはならないということを方針として決定したが、それは政治的な失敗であった[25]。フランコはちょうどグアダラハラで大きな攻撃を始めたところであり、テルエルを救援するということはグアダラハラにおける攻撃の多くを断念しなければならないことを意味しており、同盟国であるイタリアおよびドイツの不興を買うことにもなった。反乱軍がテルエルへ救援を送るということはまた、フランコが戦争を終わらせるための決定的な一打についての構想を断念したということをも意味し、武器と外国からの援助の影響力が勝敗を左右する長い消耗戦へと突入することをフランコが容認していたということもまた示していた[26]。

共和国軍の前進と包囲[編集]

12月21日までに、共和国軍はテルエルの町へと進軍した。アーネスト・ヘミングウェイおよび2人の記者、ニューヨークタイムスの通信員であったハーバート・マシューズ(英語版)はテルエルを襲撃する軍隊に同行した[27]。反乱軍の指揮官レイ・ダルクールは最後の抵抗(英語版)のための体勢を取ることが可能だった町の南部地域へと彼の持つ残りの守備隊を引き上げた。クリスマスまでに反乱軍は、民政長官ビル、スペイン銀行、サンタ・クララ修道院および神学校の4つの要所をまだ占拠していた。共和国のバルセロナ・ラジオはテルエルが陥落したと発表したが、ダルクールおよび4,000人の守備隊の生き残りたちはまだ抵抗していた[28]。建物から建物へと接近戦を伴う包囲が続けられた。共和党軍は大砲で建物へと激しく砲撃した後、銃剣突撃を行った。

反乱軍による救援[編集]

フランコは12月23日のグアダラハラ攻撃を取りやめたが、救援軍は12月29日まで攻撃を開始することができなかった。フランコは、どんな犠牲を払ってでも死守するようにダルクールにメッセージを送るので精いっぱいだった[29]。一方、共和国軍はひどい悪天候の中で攻撃を強行した。反乱軍の攻撃は、経験豊富な将校アントニオ・アランダ(英語版)とホセ・エンリケ・バレーラ(英語版)の指揮の下でドイツ遠征軍であるコンドル軍団による支援を受けつつ、予定通り12月29日に行動を開始した。反乱軍は最大限の努力で大晦日までにテルエルの歯を抑え[28]、闘牛場と駅を占領するため町へと侵攻した。しかしながら、反乱軍は町の中で前進し続けることはできなかった[30]。その後、4日間の吹雪とともに天候が悪化し、雪は4フィートも降り積もり気温はマイナス18度まで下がった。銃や機械は凍結して使い物にならなくなり地上戦は停止し、軍は凍傷によってひどく苦しんだ。反乱軍は防寒着を持っていなかったため寒さに苦しみ、凍傷による手足の切断も多く行われた。

フランコは兵と兵器を送り続け、戦いの流れは徐々に変わり始めた。共和党軍は包囲を強行し、1938年の元日までには修道院の守備兵は死亡していた。1月3日には民政長官ビルも陥落したが、それでもダルクールは戦い続けた。アーネスト・ヘミングウェイは民政長官ビルの陥落の場に居合わせた。共和国軍とテルエル守備隊は互いに建物の異なる階から床の穴を通じて発砲し合った。その時、守備隊は水をまったく持たず、医薬品や食料もほとんど持っていなかったが、死骸の山を築きながらも抵抗した。悪天候のために反乱軍の援軍は進軍が遅れ、1月8日、ダルクールと彼のそばにいたテルエルのローマカトリック司教はついに降伏した[31]。後に共和党は、スペイン内戦最後の行為として、アンセルモ・ポランコやテルエル司教を含む42人の捕虜とともにダルクールを殺害した[32]。ダルクールの降伏後テルエルの一般人たちは立ち退かされ、テルエルを陥落させた共和党軍は逆に反乱軍に包囲される側となった[33]。

反乱軍の反撃[編集]

ダルクールが降参した後、反乱軍の増援の情報が共和国軍へ伝わり始めた。天候が回復し、1938年1月17日から反乱軍は新たに進軍を始めた。共和国側の指導者はテルエルの戦いをスペイン人のみでの遂行することをついに諦め、19日からの戦闘に加わるように国際旅団に命令した[34]。これらの部隊の多くは戦地にはあったが予備部隊であったため、有名人や政治家はこの間に戦地訪問して国際旅団の部隊を歓待した。アメリカの共産主義の歌手ポール・ロブスンはクリスマスイブに戦地訪問し、「インターナショナル」を含み「Ol' Man River」で終わる演奏曲目で歌を披露した[35]。後にイギリスの首相となる労働党の左翼政治家クレメント・アトリー、後に労働党の官僚となるエレン・ウィルキンソン(英語版)、外交官であるフィリップ・ノエル=ベーカーはイギリスの部隊を訪問した[36]。

両軍の最高司令官はその時、戦場近くの暖房の効いた列車の中から軍隊を指揮していた。ゆっくりと、しかし確実に反乱軍は進軍し、テルエルの歯は反乱軍の手によって陥落した。1月25日から3日間に渡って反乱軍は激しい反撃を開始したが進撃は一時的なものだった。2月7日にようやく、反乱軍はテルエル北部からの攻撃を開始した(アルファンブラの戦い)。ほとんどの共和国軍がテルエル南部に集中していたため北部の防備は薄くなっていた。騎兵大隊の突撃は共和国軍の防御を乱し、追い散らした。騎馬大隊の活躍は第二次世界大戦におけるカスピ海での1、2の例外を除き、戦争史上これが最後だった。反乱軍を率いるアランダとフアン・ヤグエ(英語版)はすぐさま進軍し、アルファンブラの戦いは反乱軍の完勝だった。何千もの捕虜が連行され、数千トンより多くの物資や弾薬が反乱軍の手に渡った。逃げることのできた共和国軍兵は命からがら逃走した[37]。

最後の戦いは2月18日に始まった。アランダとヤグエは北側から町を切り取っていき、そして共和国軍を包囲した。それは、12月に共和国軍が完成させた包囲網に類似していた。2月20日、テルエルは共和国の旧首都バレンシアから切り離され、反乱軍が町に入り、共和国軍のエルナンデス・サラビアは撤退命令を出した。大部分の軍は退路が断たれる前に脱出したが、およそ14,500人が捕らえられた。共和国軍指揮官のバレンテイン・ゴンサレス(エル・カンペシーノ)は包囲されたものの脱出に成功した。彼はリステルおよび他の共産党指揮官は彼が死ぬか捕らえられることを望んで彼を残して行ったと主張した。テルエルは2月22日に反乱軍によって奪還された[38]。反乱軍は戦いが終結した後のテルエルで10,000もの共和党軍兵の死体を発見した[39]。

影響[編集]

テルエルの戦いで共和国軍はリソースを使い果たした。スペイン共和国空軍(英語版)はテルエルの戦いで失った飛行機や兵器を補充することができなかった[40]。一方で反乱軍はアラゴンを通過してカタルーニャおよびレバンテへと移動する準備のために東方へと大半の軍を集中させた。[41]。反乱軍はその時、効率的に働く工業力を有していたバスク地方を支配下に置いていたため、フランコは補給において勝っていた。共和国政府はアナキストたちの手によってカタルーニャの軍需工場を手放さざるを得なかった。一人のアナキストのオブザーバーは「この要求に対する贅沢な資金の支出にもかかわらず、我々の産業組織はただ一種類のライフル、機関銃、大砲も仕上げるることができなかった…」と報告した[42]。テルエルを再奪取したフランコの行為は、テルエルを占領することによる様々な効果を期待していた共和国軍にとって大きな打撃だった。テルエルの再奪取はフランコの最後の障壁を取り除き、地中海へと進む突破口となった[43]。

フランコは多くの時間を浪費することなく、1938年3月7日にアラゴンへの攻撃(英語版)を開始した。共和国軍はテルエルにおける2月22日の戦闘での損失の後、再編成を目的に主力軍を引っ込めた[44]。テルエルでの大きな損失への動揺が残っていた共和党軍は、アラゴンでの戦いにおいてほとんど抵抗できないまま敗走した。その後、反乱軍はアラゴンを通過してさらに進軍してカタルーニャおよびバレンシア州に侵入、地中海にまで到達した。1938年4月19日までに40マイルの海岸線を支配し、共和国軍の勢力を2つに分断した[45]。

イギリスの詩人、作家であり、国際旅団に所属していたローリー・リー(英語版)は共和国軍のテルエルにおける攻撃を以下のように要約した。「クリスマスプレゼントは共和国軍にとって毒入りのおもちゃにしかならなかった。それは戦争を変えるための勝利であるはずだったが、実際には敗北の証だった。」[46]。

死傷者[編集]

テルエルの戦いでの犠牲者数は推定するのが困難である。反乱軍の救援隊の損失はおよそ14,000人の死者と16,000の負傷者と17,000の病人であった。駐屯軍を含めた元々のテルエル守備隊の犠牲者はおよそ9,500人であり、守備隊のほとんど全てが死ぬか捕らえられた。それらの合計として、反乱軍は全体で56,500人の死傷者を出した。共和党軍の死傷者数はそれよりも50 %多いおよそ84,750人であるという推定は非常にもっともらしい。共和党軍は多くの捕虜を失った[47]。ラウンドは反乱軍57,000人、共和国軍85,000人の計142,000人であろうと考えており、140,000を超える両軍の死傷者表が作成された。

著名人[編集]

前述のマシューズやヘミングウェイ、ロブソンおよびイギリスの政治家の他にも、多くの著名人がこの戦いに惹きつけられた。その内の一人として、戦争をタイムズ紙の特派員として反乱軍側から参加したソビエトのスパイであるキム・フィルビーがいる。彼はスペインにいた当時から既に、明らかにモスクワの命令下にいたが、フランコについて賞賛するレポートを書いた[48]。1937年12月、テルエルの近郊でフィルビーおよび他の3人(ブラディッシュ・ジョンソン、エディー・ネイルおよびアーネスト・シープシャンクス(英語版))が乗っていた自動車に砲弾が当たり、フィルビー以外の3人は死亡した。この事故はフィルビーのスパイ行為に気付いたシープシャンクスを暗殺するために行われたフィルビーによる自作自演であるという説もある[49]。フランコはフィルビーを個人的に叙勲した[50]。

第二次世界大戦

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英語: World War II、フランス語: Seconde Guerre mondiale、ドイツ語: Zweiter Weltkrieg、ロシア語: Вторая мировая война)は、1939年から1945年の6年にかけ、ドイツ、日本、イタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス連邦、フランス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、仏英による対独宣戦布告とともにヨーロッパ戦争として始まり、1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。



目次 [非表示]
1 概要
2 参戦国
3 背景 3.1 ヴェルサイユ体制
3.2 共産主義の台頭
3.3 ファシズムの台頭
3.4 宥和政策とその破綻
3.5 勃発直前

4 経過(欧州・北アフリカ・中東) 4.1 1939年
4.2 1940年
4.3 1941年
4.4 1942年
4.5 1943年
4.6 1944年
4.7 1945年

5 経過(アジア・太平洋) 5.1 日本の参戦
5.2 1941年
5.3 1942年
5.4 1943年
5.5 1944年
5.6 1945年

6 戦争状態の終結と講和
7 戦時下の暮らし 7.1 日本
7.2 ドイツ
7.3 フランス
7.4 イギリス
7.5 アメリカ
7.6 ポルトガル

8 影響 8.1 損害
8.2 戦後処理
8.3 戦争裁判

9 新たに登場した兵器・戦術・技術
10 評価 10.1 植民地戦争時代の終結
10.2 大戦と民衆
10.3 『よい戦争』
10.4 民主主義と戦争

11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


概要[編集]

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりとされている。1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも[1]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。

ドイツも1940年にノルウェー、ベネルクス、フランス等を次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出したほか、イタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成した。1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。1941年12月8日(日本時間)には日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行ってアメリカ・イギリスに宣戦布告した。自らの戦争を「大東亜戦争」と位置づけた日本は連戦連勝を続け、1942年にセイロン沖海戦やアメリカ本土空襲、オーストラリア空襲を行い、インドシナ半島に現地協力者政府を構築するなどしてその勢力を拡大した。しかし1943年にはドイツがスターリングラード攻防戦、北アフリカ戦線で敗北し、同年枢軸国は北アフリカを放棄しイタリアが降伏する。太平洋戦線では1942年6月5日ミッドウェー海戦で大敗し半年間の攻勢が挫折した後も日本が優勢を保ったものの、補給線が国力を超えて伸びきった事などから1942年後半には連合国が次第に優勢になっていきガダルカナル戦では1943年1月4日大本営の撤退命令が正式に下り敗北が確定し、大局は暗転した[2]。1944年には連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させるほか、マリアナ沖海戦やインパール作戦に勝利するなど勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは4月30日に自殺。5月9日にドイツ国防軍は降伏して欧州における戦争は終結した。また日本も同年8月6日に広島市への原子爆弾投下、8日のソ連軍の参戦、さらに9日の長崎市への原子爆弾投下を受けて10日の御前会議で降伏の決定と諸外国への発表を行い、8月14日にポツダム宣言を正式に受諾、9月2日に降伏文書に調印した。

第二次世界大戦の戦域を大別すると、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋全域を含むものに分けられる。このうち、ドイツ・イタリア等とイギリス・フランス・ソ連・アメリカ等が戦った前者を欧州戦線、日本等とアメリカ・イギリス・中華民国・オーストラリア等が戦った後者は太平洋戦線、または特に太平洋戦争[3]と呼称される。ヨーロッパ戦線はさらに西部戦線、東部戦線(独ソ戦)に大別され、西部ではアメリカ・イギリス・フランス、東部ではソ連がドイツ他の枢軸国と戦った。太平洋戦線はアメリカ軍と日本海軍が戦った太平洋戦域(英語版)、インドネシアなどで日本と連合国軍と戦った南西太平洋戦域(英語版)、ビルマなどで日本とイギリス軍などが戦った東南アジア戦域(英語版)、そして中国大陸における日中戦争に大別される。しかしこれらの地域以外でも、中南米やカリブ海、マダガスカル島など世界各地で戦闘が行われた。

戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入が行われた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費はアメリカの3410億ドルを筆頭に、ドイツ2720億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス1200億ドル、イタリア940億ドル、日本560億ドルなど、総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。

航空機や戦車などの旧来型兵器の著しい発達に加えて長距離ロケットや原子爆弾などの「核兵器」という大量殺戮兵器が登場し、戦場と銃後の区別が取り払われた。史上最初の原子爆弾の投下を含む都市への爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、民間人および捕虜の多くが命を失った。またドイツは自国および占領地域においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的殺害を戦争と並行して進めており、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした様々な要因による大戦中の民間人死者は総数約5500万人の半分を超える、3000万人に達することとなった。また大戦直後には、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され[4]、その途上で200万人が死亡した[4]、新たにソビエト領とされたポーランド東部ではポーランド人の追放が行われルナ度大幅な住民の強制移住が行われた。アジア・太平洋では日本人強制送還が行われた。また、捕虜となった枢軸国の将兵や市民はシベリアなどで強制労働させられた[5]。

戦争中から連合国では、国際連合などによる戦後秩序作りが協議されていた。しかし戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的な影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きなものとなった。こうして両国は世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、長い冷戦時代の構図をもたらした。アジアやアフリカの旧植民地では独立運動の動きが高まり、多くの国が独立することになったが、冷戦構造の影響を受けずにはいられなかった。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦での対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。

参戦国[編集]

詳細は「第二次世界大戦の参戦国」を参照

枢軸国は1940年に成立した三国条約に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。対する連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。ただし、すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わない事もあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。

枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦、中華民国の5か国である。

背景[編集]

詳細は「第二次世界大戦の背景」を参照

「戦間期」も参照

ヴェルサイユ体制[編集]





ドイツがヴェルサイユ条約によって喪失した領土
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割された。また、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。また、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとされた[6]。1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[7]、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行した[7]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[8]。これによりハイパーインフレーションが発生した。軍事力の無いドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[7]。マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆等の反乱が発生した。

戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは、内政上の理由から伝統的な孤立主義(モンロー主義)に舞い戻り、国際政治の舞台から退いた。

1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。計画は1935年にも更新されたが欧州大陸でのナチス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年には更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、各国との戦争を想定した計画を立案していた。その後計画は第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。

共産主義の台頭[編集]





ロシア内戦における白軍のプロパガンダポスター。ボリシェヴィキのトロツキーを"ユダヤの悪魔"として描いている。
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭するようになった。これを阻止すべく欧米列強は、シベリア出兵を行うなど赤化を食い止めようとしたが失敗した[9]。旧勢力の駆逐に成功したソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立し、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。また、新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と弾圧が行われ、餓死や処刑により最終的に1,450万人のウクライナ人が命を落とした(ウクライナ大飢饉)[10]。また、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣するなど(ソ連空軍志願隊)、国際紛争に積極的に介入した。同時にソ連とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。





ヴィーンヌィツャ大虐殺の犠牲者を捜す遺族。枢軸国のウクライナ侵攻により共産勢力が駆逐され、事件が明らかにされた。
1937年にはウクライナでヴィーンヌィツャ大虐殺が行われた。1939年にはノモンハン事件が引き起こされた。このような中でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばしていった。これらの動きを食い止めようとする右派からファシズムが生み出されることとなった。

ファシズムの台頭[編集]

ヴェルサイユ体制は敗戦国のみならず戦勝国にも禍根を残すものであった。戦勝国イタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気によって政情が不安定化した。この状況下でイギリスの支援を受けて[11]勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。





ファシズムの指導者ヒトラーとムッソリーニ。1937年、ミュンヘン
ドイツではルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、ドイツ経済は平静を取り戻し、相対的安定期に入った。25年にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制をロカルノ体制という。

日本も22年にワシントン海軍軍備制限条約「ワシントン会議」に調印し、大正デモクラシーの興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。さらに、28年にはパリで不戦条約が結ばれ、63カ国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして、平和維持の試みは達成されるかに思われた。

しかし、1929年10月24日の暗黒の木曜日を端緒とする世界恐慌は状況を一変させた。アメリカ合衆国は、1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれていた。

英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、アメリカの資金が世界中から引き上げられた。

一方アメリカの資金で潤っていたドイツ、金解禁によるデフレ政策をとっていた日本の状況は深刻だった。ドイツでは失業者が激増、政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[12]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進した。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に広まった。日本も恐慌状態(昭和恐慌)となり、農村では子女の身売りが相次いだ。

1933年1月にナチ党は政権獲得に成功した。ナチスは全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。

宥和政策とその破綻[編集]

英仏米など列強は第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦をけん制する役割をナチス党政権下のドイツに期待し、彼らの軍備拡張政策に対し宥和政策を取っていた。1935年には再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめた。しかし間もなくイギリスはドイツと英独海軍協定を結び、再軍備を事実上容認した。その後もヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策が続くと判断し、1936年7月にはラインラント進駐を強行した。これによってロカルノ体制は崩壊した。

そのころ日本は1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ満州国を建国した。1937年7月には第二次上海事変を契機に宣戦布告なき戦争状態へ突入していった(日中戦争)。イタリアは1935年にエチオピア侵攻を開始した。これに対して国際連盟や列強は効果ある対策をとれず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。ドイツ、イタリア、日本の三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年には日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。

ドイツのヒトラーは、周辺各国におけるドイツ系住民の処遇問題に対して民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。次いでヒトラーはチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニア等領有要求が承認された。

しかしヒトラーはミュンヘンでの合意を守る気はなかった。1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策を捨てることを決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化した。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。

勃発直前[編集]

ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。

4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはドイツ・イタリア間に鋼鉄協約が結ばれた。そして8月23日にはドイツ・ソビエト連邦間に独ソ不可侵条約を締結した。反共のナチス・ドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れない、と考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約 (en) を結ぶことで対抗した。

1939年夏、アメリカのルーズベルト大統領は、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう英仏ポーランドに要請した[13]。

独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否した。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。

経過(欧州・北アフリカ・中東)[編集]

詳細は「ポーランド侵攻」、「バルト諸国占領」、「冬戦争」、「西部戦線 (第二次世界大戦)」、「独ソ戦」、「北アフリカ戦線」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照

1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍が、続いて1939年9月17日にソビエト連邦軍がポーランド領内に侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援護条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、ポーランド侵攻は第二次世界大戦に拡大した[14]。ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも[15]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。バルト三国に対しては、ソ連はまず軍隊を駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。

ポーランド分割後、約半年の非戦闘期間にドイツからイギリス・フランスへの和平工作が何度もなされたが、イギリス・フランスが要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れなかった[16]。1940年5月10日にドイツ軍はヨーロッパ西部へ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦。6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍の爆撃機・戦闘機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始。イギリス空軍戦闘機隊と激しい空中戦となる。その結果、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵入し、独ソ戦が始まった。ソ連軍はフィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ軍に対し、フィンランド領内で空爆を行ったため、フィンランドはソ連に宣戦布告を行い冬戦争の継続としての継続戦争が勃発した。これに対して、連合国はソ連側に立ったため、ソ連を加えた連合国と枢軸国にヨーロッパを二分する戦争となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までドイツ軍はヨーロッパの大半及び北アフリカの一部を占領、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃するなど圧倒的な優勢を保っていた。

1943年2月にはスターリングラードでドイツ第6軍が敗北。以降は東部戦線において連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月には、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。7月にはイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権のイタリア社会共和国が設立され、9月に本土上陸を果たした連合国軍と対峙することとなる。

1944年6月にはフランスに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が大規模反抗を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連により、ポーランド東部のソ連領化とオーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割とドイツ人追放が決定される。同年4月30日、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは自殺、5月2日のソ連軍によるベルリン占領を経て5月8日、ドイツは連合国に降伏した。

1939年[編集]





ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
9月1日未明、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など機動部隊約150万人、5個軍でポーランド侵攻[17]。ドイツ軍は北部軍集団と南部軍集団の2つに分かれ、南北から首都ワルシャワを挟み撃ちにする計画であった。

ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべも無く殲滅された。ただ、当時のドイツ軍は、まだ実戦経験に乏しく、9月9日のポーランド軍の反撃では思わぬ苦戦を強いられる場面も有った。

ソビエト連邦は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄してポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。一方、ポーランドとの相互援助協定が有るにもかかわらず、イギリスとフランスは、ソ連に対し宣戦布告を行わなかった。また両国はドイツには宣戦布告したが、救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍との交戦は行わなかった。またヒトラーは、以前から宥和政策を実施し、反共産主義という点で利害が一致していた英仏両国が、宣戦布告してくるとは想定していなかった。

国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までに、ポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命した。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害又は国外追放された。

ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年の春まで西部戦線に大きな戦闘はおこらなかった事(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間に、「たぶんクリスマスまでには停戦だろう」という、根拠の無い期待が広まった。11月8日にはミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了したため難を逃れた。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されたが、全て失敗に終わる。

ソ連はバルト三国及びフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。しかしフィンランドはソ連による基地使用及びカレリア地方の割譲などの要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランドに侵攻(冬戦争)。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。

1940年[編集]





ドイツのフランス占領(1940年)
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始。フィンランド軍防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。

さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。

4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。

5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアにおけるオランダ植民地は亡命政府に準じて、連合国側につくこととなる。





マジノ線の要塞




パリでパレードを行うドイツ軍
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。

一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。

さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄した。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告した。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[18]。なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。

一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。





イギリス海軍との砲撃戦の末に炎上するフランス海軍艦艇(1940年7月3日)
7月3日、イギリス海軍H部隊がフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。

西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。

イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111やユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止し、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。

参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備も不十分なまま性急に侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)が、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有り様であった。この年には日本、ドイツ、イタリアが三国条約(日独伊三国同盟)を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。

1941年[編集]





ドイツのバルカン半島侵攻(1941年)
詳細は「独ソ戦」、「北アフリカ戦線」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照

3月11日、中立国のアメリカはレンドリース法を成立させ、ソ連・イギリス・中華民国などのドイツや日本との交戦国に対して大規模軍事支援を開始する。

イギリスはイベリア半島先端の植民地[19]ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[20]を確保して枢軸国軍に対する反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。

一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。





砂漠の狐ことロンメル
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン半島の戦い)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。

6月22日、ドイツは不可侵条約を破り、北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった。6月26日、フィンランドがソ連に宣戦布告し継続戦争も併行して勃発した[21]。開戦当初、赤軍(当時のソ連陸軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト諸国などに侵攻した枢軸軍は共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族からは解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願することとなった。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍 (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。

ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、約960km離れたクイビシェフへの政府機能の一部疎開を余儀なくされた。しかし、急激な侵攻を続けていたドイツ軍は、その頃から泥まみれの悪路に悩まされるようになっていた。補給の滞りから、進撃の速度が緩んだ。またソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。また、冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。





イランを経由してアメリカからソ連に送られる軍需物資
8月9日にイギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を締結し世界に発表した。8月25日、ソ連・イギリス連合軍は中立国のイランに南北から進撃すると直ちに占領下においた(イラン進駐)。イラン国王は中立国のアメリカに連合軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒絶した。イランを占領下においたことでペルシア回廊を確保したイギリス・アメリカはソ連への大規模軍事援助を行うことに成功した。

ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていたイギリス・アメリカは、独ソ戦開始後、ソ連をイギリス側に受け入れることを決定。武器貸与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連はリヒャルト・ゾルゲなど日本に送り込んだスパイの情報により、この情報を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。ドイツ軍は厳寒のなか、11月19日には南部のロストフ・ナ・ドヌを占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ドイツ軍は開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫した。

政権取得以後、ナチ党の一党独裁国家となったドイツ政府によってドイツ国内、また開戦後の占領地では、レジスタンス関係者の容疑をかけられた者に対する過酷な恐怖政治が行われていた。秘密国家警察ゲシュタポ、ナチス親衛隊が国民生活を監視し、ユダヤ人に対する迫害が行われた。しかしそのような条件下においても、「白いバラ」などの勢力が粘り強い抵抗運動を続けた他、ヒトラーによる独裁に反対するドイツ軍関係者によるヒトラー暗殺計画が多数行われたり、ナチ党内においても覇権争いが行われているなど、その体制は決して一枚岩でなかった。

12月7日(現地時間)、日本陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸(マレー作戦)。その直後に日本海軍もハワイの真珠湾を攻撃(真珠湾攻撃)し、ここに太平洋戦争が勃発した。12月8日にアメリカ・オランダが日本に宣戦を布告[22]。12月9日には日本と英米蘭の間で開戦したことを受け、これに乗じて中華民国が日本に正式に宣戦布告。日本が参戦したことで12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。

1942年[編集]





ドイツのソビエト侵攻(1941年から1942年)




スターリングラードで戦うドイツ兵
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。

ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事になる。

8月23日からはスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まってゆく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。

北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。同盟国イタリア軍は終始頼りなく、事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見る事となる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。

この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーで、「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議を行った。ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行したとされる。

大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の支持または黙認の元に継続された。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。

1943年[編集]





連合国に東西から追い詰められるドイツ(1943年から1945年)




アラブ解放のため枢軸軍に参加した自由アラブ軍 (de)(1943年ギリシャ)
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。しかし、3月には、マンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。

北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、ドイツ・イタリア両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。





フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊
連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。

9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリア降伏を発表した(イタリアの講和)。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日、ドイツへ宣戦布告した。





チュニジア戦線におけるド・ゴール
イタリア戦線と、その後のヨーロッパ戦線での戦いで、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団は、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残した他、対日戦においても暗号解読や通訳兵として貢献した。これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。また、法的に人種差別が認められていたアメリカにおいて、過酷な人種差別を受けていたアフリカ系アメリカ人も多数が下級兵士として参加し、ヨーロッパ戦線を中心に多数の勲功を上げた。

また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。

さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14 - 24日ケベック会談、10月19 - 30日第3回モスクワ会談、11月22 - 26日カイロ会談、11月28 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行なった。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化する事になった。

1944年[編集]





インド解放のために連合軍と戦う自由インド軍(1944年)




フランスのノルマンディーに上陸する連合軍




パリ市内を行く自由フランス軍と連合軍の装甲車
この年の1月、ソビエト軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からはバグラチオン作戦が行われ[23]、ソ連軍の物量作戦の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連はほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。

1944年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連軍の呼びかけによりポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)するが、亡命政府系の武装蜂起であったためソ連軍はこれを救援せず、一方ヒトラーはソ連が救援しないのを見越して徹底鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡して10月2日、蜂起は失敗に終わった。また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアで政変が起き、親独政権が崩壊して枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも連合軍に降伏しようとしたが、動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦によって全土を占領し、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を食い止めた。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失はドイツの石油供給を逼迫させた。

一方、本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍指揮の元、北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出す激戦の末、上陸を成功させた。上陸時にはノルマンディーの民間人には同数の犠牲者を出し[24]、上陸後にはノルマンディー地方の女性たちは強姦された[24][25]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに西部戦線が再び構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。

敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり1944年7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を中心とする反ヒトラー派によりヒトラー暗殺計画が決行されるも、失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑させた。また、北アフリカ戦線の指揮官で国民的英雄でもあるロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させた上で10月14日、ロンメルは自殺した[26]。

ノルマンディーのドイツ軍は、必死の防戦により何とか連合軍の進出を食い止めていたが、7月25日のコブラ作戦で、ついに戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。また8月16日には南フランスにも連合軍が上陸している(ドラグーン作戦)。8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。その際、ドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることはなかった。6月にアルジェで成立したフランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大部分が連合軍の支配下に落ちた事で、ヴィシー政権は崩壊した。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行し、国外に逃亡するものも現れた。

9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせる事は不可能になった。

またこの頃、ドイツ軍はかねてから開発中だった、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me 262やジェット爆撃機アラド Ar 234、同じく世界初の飛行爆弾V1飛行爆弾、次いで世界初の超音速で飛行する弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化させ、ロンドンやイギリス本土及びヨーロッパ大陸各地の連合軍に対し実戦投入したものの、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるには至らなかった。

10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[27]。

その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で、西部戦線における最後の反攻(バルジの戦い)を試みる。ドイツ軍の、少ない戦力ながら綿密に計画された反攻計画が功を奏し、冬の悪天候をついた突然の反撃により、パニックに陥った連合軍を一時的に約130km押し戻した。しかし、連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされる。

この頃ドイツ政府は、イギリス経済を疲弊させることを目的としたイギリスポンドの偽札製作作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。

なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。

1945年[編集]





連合軍による強制収容所解放を祝うユダヤ人




ドイツ人捕虜を銃殺するアメリカ軍(1945年4月29日、ダッハウ)
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。

西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。

ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。

4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンから動こうとしなかった。4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(詳細はベルリンの戦いを参照)した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵やまともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。





ヒトラーの自殺を報じる星条旗新聞
詳細は「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」を参照

ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。

一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザンの蜂起により、4月25日にイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラーラ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。イタリア駐在のドイツ軍C方面軍も5月4日に降伏している。

4月30日15時30分頃、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチ党担当相および遺言執行人にマルティン・ボルマン党官房長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。

連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ナチスの犯罪が明るみに出された。一方、ドイツ軍を駆逐したソ連は、新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。





ベルリンでソ連軍に対する降伏批准文書に署名するヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった[28]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという。

ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍は連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書 (en))。翌5月8日午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。午後11時1分に停戦が発効し、各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ヨーロッパ戦線での連合軍とドイツ軍の戦闘はプラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員がバチカンやスペイン、ノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリなどの南アメリカ諸国に逃亡した。





ポツダムに集まった3ヶ国首脳。




ソ連領となった東プロイセンからのドイツ人難民
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相[29]、4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。この会議によって、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が行われた。一方で、この会談のさなかには日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も行われている。

ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[4][30]。


経過(アジア・太平洋)[編集]

詳細は「太平洋戦争」を参照

アジアでは、1937年7月7日の蘆溝橋事件以降、日中間の戦争状態が続いていた。日本は阿部信行内閣当時、ヨーロッパの戦争への不介入方針を掲げたが、同内閣総辞職後、松岡洋右ら親独派を中心に1940年9月、日独伊三国同盟を締結し、枢軸側に接近した。さらに日本軍は同月に本国がドイツの支配下に下ったフランス領インドシナ(仏印)北部への進駐を行った(仏印進駐)。1941年4月からは日米交渉が本格化したが、三国同盟の空文化・仏印や中国戦線からの撤退を求めるアメリカと、南進論が台頭する日本の溝は埋まらなかった。7月にアメリカは両洋艦隊法を成立させ大軍拡に着手するとともに在米日本資産の凍結を行い、日本は南部仏印への進駐を行った。

1941年12月8日(JST)に、日本陸軍がイギリス領マレーを攻撃し、その数時間後には日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃した事で日本とアメリカ合衆国との間で開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告し、戦争は世界的規模で戦われるようになった。

日本軍は東南アジアのイギリスやアメリカ、オランダの植民地から中部太平洋の島々を広範囲に占領し、日本海軍機動部隊はインド洋でイギリス海軍を放逐したほか、アフリカ南部のマダガスカルまでその攻撃範囲を広げた。1942年中盤にミッドウェー海戦でアメリカ軍に大敗北したものの、日本軍による攻撃によりアメリカ海軍は稼働空母が無くなる等の打撃を受け、さらに日本軍はアメリカ本土空襲をはじめとするアメリカ本土への攻撃やオーストラリア本土への空襲を行った。またソロモン諸島の戦いでアメリカ軍と対峙を続けたほか、ビルマ戦線でも攻勢を継続した。さらにオーストラリア本土への空襲を継続するなど1943年後半まで一進一退の戦況となった。

しかし、当初の予想を超えて広がり過ぎた占領区域の維持が困難になり、同年後半より各方面で連合国軍の攻勢が増す。1944年6月にはインパール作戦で敗北、7月にはサイパンの戦いでマリアナ諸島のサイパン島を失陥。日本本土の大半はアメリカ軍の新型戦略爆撃機ボーイング B-29の行動範囲内に入る。戦略ミスを続けた日本海軍は、連合艦隊が壊滅状態に陥ったために本土への補給路における制海権を喪失し、商船隊も壊滅状態になり生産力が激減、神風特攻隊による攻撃が始まる。

1945年になると、仏領インドシナのフランス植民地政府を放逐し、インドシナ半島を勢力下に置くものの(明号作戦)、本土における制空権を喪失したことでB-29の本土空襲が激化し、軍需産業と国民の戦意に打撃を与えた。さらに硫黄島、沖縄が陥落。広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連参戦を受け、天皇の意思により日本はポツダム宣言を受諾。8月15日終戦となったが、ソ連軍の攻撃は終戦後も続き、日本は北方領土を占領された。満州にもソ連の大軍が侵攻、満州にいた関東軍が必死に防戦して大量の民間人を日本へ脱出させたが、逃げ遅れた民間人や関東軍兵はシベリアへ抑留された。9月2日、米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、日本は正式に降伏した。

日本の参戦[編集]





タイ王国がフランスから獲得した領土




影響圏を拡大する日本軍
詳細は「日米交渉」を参照

1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職し、対独同盟派の勢いは停滞した。しかし1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、日米関係は開国以来の無条約時代に突入しており、情勢の打開が求められた。同年6月にフランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及び、近衛文麿内閣の松岡洋右外相ら枢軸国との提携を主張する声が高まった。7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定された。ヴィシー政権成立後の9月22日には、フランス領インドシナ総督政府と西原・マルタン協定を締結し、日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。9月27日には日独伊三国同盟が締結された。ルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけており、10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止した。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。また他方でオランダ領東インド(インドネシア)政府との石油等物品の買い付け交渉が行われていたが、6月17日に交渉は打ち切られた。

1941年4月からは日米交渉が本格化され、一時は「日米諒解案」に沿った合意が形成されつつあったが松岡外相の反対で白紙に戻った。松岡は三国同盟にソ連を加えたユーラシア四ヶ国同盟締結を構想していたが、6月22日の独ソ戦開始はその望みを打ち砕いた。松岡は即時対ソ宣戦を主張したが、ノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、松岡は事実上更迭された。6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され、南部仏印への進駐が決まった(南進論)。一方、7月には対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。

7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し、同日日本は南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油禁輸をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。8月1日、アメリカは日本を含む「全侵略国」に対する石油禁輸に踏み切った。対日制裁にはイギリスやオランダ領東インド政府も追随し、日本ではアメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる経済包囲が行われるとして「ABCD包囲網」と呼ぶ動きが広まった。9月3日には御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、10月末を目処とした開戦準備が決定された[31]。アメリカは8月に大西洋憲章を締結したイギリス首相チャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。

10月12日に近衛首相は五相会議を開いたが、日米交渉妥結の可能性があるとする豊田貞次郎外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條英機陸相の間で対立が見られた[32]。10月16日に近衛は突然辞職し、重臣会議で東條内閣成立が決まった。この推薦には東條しか軍部を押さえられないという木戸幸一内大臣の強い主張があった。10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった[33]。

10月14日に日本は最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。11月6日には帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤなどの攻略を目的とする南方作戦準備が指令され[34]、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された[35]。11月26日早朝に日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。11月27日(アメリカ時間11月26日)アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称「ハル・ノート」が手渡された。中国大陸(原文「China」)から全面撤退すべし、日本政府はこれを全中国大陸からの撤退要求と解釈し、事実上の最後通牒と認識した。一方でこの文書には「厳秘、一時的にして拘束力なし」と書かれており[36]、この文書が最後通牒であったかについては論争がある。

12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。

1941年[編集]





マレー半島へ上陸した日本陸軍




真珠湾攻撃に向かう零式艦上戦闘機
1941年12月8日午前1時30分(JST)、日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、タイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アジア太平洋戦線における戦闘はこの時間に開始されたのである。佗美支隊は苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。

マレー半島上陸開始の約1時間半後、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。





日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)




日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス
12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。

日本の、日米交渉の一方で戦争準備をすすめていたことは、後世「卑劣なだまし討ち」とその後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となったが、当時は一般的な流れであった[37]。なお、イギリスへの攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への交渉打ち切り文書の交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間以上遅れた。日本側では、宣戦布告文書として扱われているが、実際には、開戦を示唆する記述はない。

かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。

当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズベルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。

コタバルへ上陸した日本陸軍はシンガポールを目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機がフィリピン[38]の米軍基地を攻撃し、12月10日にはルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日にはウェーク島も占領。





ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵
12月25日にはイギリス領香港を占領した。しかし日本軍は、ポルトガル植民地東ティモールと、香港に隣接するマカオには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった[39]。

中国戦線において、中国国民党の蒋介石率いる中華民国政府は、アメリカやイギリス、ソ連からの豊富な軍需物資、戦闘機部隊や軍事顧問など、人的援助を受けた。日本軍は、地の利が有る国民党軍の攻撃に足止めされ、中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦を展開、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、満洲国[40]や中華民国南京国民政府[41]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。

1942年[編集]

東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった事で、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。

1月に日本はオランダとも開戦し、ボルネオ(現カリマンタン)島[42]、ジャワ島とスマトラ島[43]などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。





サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令
2月、日本海軍伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。

日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。





降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将




日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士
2月15日には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールが陥落。2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。

また、3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝し、連合国は連戦連敗により、アジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。この頃、フィリピンの日本軍はコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在のミャンマー)首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大した。しかし、4月18日、空母ホーネットから発進した米陸軍の双発爆撃機ノースアメリカン B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)は、日本の軍部に衝撃を与えた。

日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋にも進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[44]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。





日本軍の攻撃を受け沈むイギリス海軍巡洋艦「コーンウォール」
イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニ港まで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[45]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。

日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。

5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。しかし、アメリカ側は暗号伝聞の解読により日本海軍の動きを察知しており、防御を整えていた。





珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン




ミッドウェー海戦で急降下爆撃機の爆撃を受け炎上する日本海軍の空母飛龍
6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は太平洋戦争(大東亜戦争)の転換点となった。この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった(なお、アメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている)。日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は予想より早く反攻作戦を開始する。また、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。

6月20日には乙型潜水艦の「伊26」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかったが、翌21日に「伊25潜水艦」がオレゴン州アストリア市のスティーブンス海軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたスティーブンス海軍基地はパニックに陥り、「伊25」に対して何の反撃も行えなかったばかりか、結果的に基地に駐屯する兵士に数名の負傷者を出した。なおこの攻撃は、1812年にイギリスの軍艦がアメリカ軍基地に砲撃を与えて以来のアメリカ本土にある基地への攻撃であった。





アメリカ本土空襲を行った日本国海軍の零式小型水上偵察機
9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないため、アメリカ政府は爆撃があった事実をひた隠しにする。





ガダルカナル島でのアメリカ海兵隊
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本軍は日本海軍の攻撃でアメリカ・オーストラリア軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。

その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北したものの、10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊がアメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動空母が0という危機的状況へ陥った。





伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプ
日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給線が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による通商破壊作戦を実行。日本軍の物資・資源輸送船団を攻撃。ガダルカナル島では補給が途絶え、餓死する日本軍兵士が続出した。

しかし、日本軍の攻勢はその後も続き、この年の2月より実施されていたオーストラリア北部のダーウィンやケアンズのオーストラリア軍基地などへ対しての空襲は、年末になっても継続して行われ、同地のオーストラリア空軍の基地に大きな被害を出していた。

1943年[編集]





日本軍の攻撃を受け浸水した重巡洋艦シカゴ(左)




山本五十六連合艦隊司令長官
この年に入ってもオーストラリア北部に対する日本軍の空襲や攻撃は継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇パトリシア・キャムを撃沈させた他、ダーウィンの燃料タンクを破壊するなどの戦果を挙げていた。同月に日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈するという戦果を挙げたが、島の奪回は絶望的となっており、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日本軍と連合国軍の両軍に大きな損害が生じた。

なおこの頃ビルマ方面ではインド師団を中心としたイギリス軍が反抗を試み、「第一次アキャブ作戦」によりビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェー)の奪回を目指すとともに、「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によるビルマ北部への進入作戦を試みた。しかしインド師団は数にも質にも勝る日本陸軍に包囲されて大損害を受け敗北し、3月には作戦開始地点まで撤退することを余儀なくされた。

4月18日に、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[46]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキード P-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。

前年から行われていた日本軍によるオーストラリア北部への空襲は、この年の中盤に入るとその目標をオーストラリア空軍基地に集中した形で継続され、5月から11月にかけてノーザンテリトリーのみならず、西オーストラリア州内の基地に対しても空襲が行われ、大きな損害を与え連合国軍への後方支援を弱体化させた。一方5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。戦略的観点からここを重視せず守備が薄くなっていた日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。

ソロモン諸島での戦闘は依然日本軍が優勢なまま続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍はアメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊を撃破したほか、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦でもアメリカ海軍に勝利する。ニューギニア島でも日本軍とアメリカ軍とオーストラリア軍、ニュージーランド軍からなる連合国軍との激戦が続いていたが、物資補給の困難から8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点であるラバウルは孤立化し始める。しかしラバウルの日本軍航空隊の精鋭は周辺の島が連合国軍に占領され補給線が縮まっていく中で、自給自足の生活を行いながら連合軍と連日航空戦を行い、終戦になるまで劣勢になることはなかった(これは開戦時から生き残ったエースパイロット達の卓越した腕も関係している)。





大東亜会議に参加した各国首脳




太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)
11月に日本の東條英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。なおこれに先立つ10月には、イギリスからの独立運動を行っていたスバス・チャンドラ・ボースが首班となった自由インド仮政府が設立され、ボースは同時に英領マラヤ・シンガポールや香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、その後日本軍と協力しイギリス軍などと戦うこととなった。

一方、初戦の敗退をなんとか乗り越え戦力を整えた連合国軍はこの月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、太平洋戦線では南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始し、同月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いでオーストラリア軍からの後方支援を受けたアメリカ軍の攻撃により日本軍守備隊が全滅、同島はアメリカ軍に占領された。さらにビルマ戦線では、イギリス軍やアメリカ軍からの後方支援を受けた中華民国軍新編第1軍が、10月末に同国とビルマの国境付近で日本軍に対する攻撃を開始した。

これ以降は、ようやく態勢を立て直したアメリカ軍に加え、イギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとするイギリス連邦軍、中華民国軍など数カ国からなる連合軍と、さしたる味方もなく1国で戦う上、戦線が予想しないほど伸びたために兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍との力関係は連合国有利へと傾いていき、日本軍は次第に後退を余儀なくされていく。

1944年[編集]

ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。同作戦の失敗により翌年、アウンサン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。





サイパンに上陸するアメリカ兵
5月頃には、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は大成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国の成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。

昨年半ばまでは勢いを保ち続けていたものの、予想以上の勝利で伸びきった補給線を支えきれなくなり、それ以降はイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍や中華民国軍などの連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。





東條首相と閣僚
6月に、最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は、この決戦に敗北する。旗艦大鳳以下空母3隻と併せ、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊はその能力を大きく失った。しかし戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。

陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く8月にはかつてアメリカから奪取したテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きかった。

アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害は市民数名の死亡、数か所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、その後戦況悪化を理由に中止されている。





レイテ沖海戦から始まった特攻。写真は護衛空母ホワイト・プレインズに突入する零戦52型
戦況悪化と共に憲兵を使い独裁・強権的な政治を行う東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発が高まり、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。





レイテ沖海戦で日本機の攻撃を受け沈没するアメリカ空母プリンストン




開戦時から日本の快進撃を支え続け、日本最高の歴戦艦と評された空母瑞鶴の撃沈の際、乗組員たちが脱出する前に、降旗する瑞鶴軍艦旗に対し最敬礼を行う劇的な写真。1944年10月25日)
日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況になりつつあった。

ビルマ戦線がイギリス軍の攻勢により完全に劣勢となる中、10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。

1945年[編集]

1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。2月には、首都マニラを奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、バシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。

なお日本は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放、臨時政府によるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動してフランス植民地政府及び駐留フランス軍を武力で解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、かなりの戦力を維持していたので連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行なわなかった。





硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT




硫黄島で戦死した栗林忠道陸軍大将
2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有するアメリカ海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争(大東亜戦争)中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(アメリカ軍の死傷者が日本軍を上回った)を出した末に、硫黄島は陥落した。





焼夷弾を投下するアメリカ軍のB-29戦略爆撃機
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化していた。3月10日未明、東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。東京、大阪、名古屋、横浜、神戸の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になる。

低高度による爆撃に切り替えたことでアメリカ軍機の高射砲などによる被撃墜数は増加したものの、アメリカ軍は占領した硫黄島を、B-29護衛のP-51D戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、護衛がついたB-29迎撃は困難となった。これに対抗すべく日本軍は有効射高16,000m の五式十五糎高射砲と連動した高射指揮装置つき防空陣地を築きB-29の撃墜に成功したとも言われるほか、新型迎撃機の開発を急ぎ、ジェット機「橘花」を開発し敗戦直前の8月7日に初飛行に成功し、1945年秋の量産開始を予定していたが終戦に間に合わなかった。また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカ軍空母機動部隊やイギリス海軍の空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、艦載機による空襲、機銃掃射を行った。

4月1日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は沖縄本島へ上陸して沖縄戦が勃発。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、ここに日本海軍連合艦隊は事実上その戦闘能力を喪失した。連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、沖縄や九州周辺に展開していたアメリカやイギリスなどの連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は練習機さえ動員して必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。沖縄戦は民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員による猛反撃で、アメリカ軍とイギリス軍に10万人を上回る大損害を与え、連合軍が沖縄を退却する直前になるまで奮戦したが最後に力尽き、6月23日に第32軍司令官牛島満中将が自決し沖縄は陥落する。沖縄での日本軍の猛反撃により連合軍に与えた膨大な被害量の結果、連合軍は九州上陸作戦などの、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止せざるを得なくなる。





米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約によりソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国民軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。

5月7日、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。連合軍は沖縄での膨大な被害を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦を中止に追い込む一因となった。

すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことになった。

またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。





広島に投下された原子爆弾のきのこ雲




原子爆弾で破壊された長崎の浦上天主堂
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす目的と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的から史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上が死亡した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員したアメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。

ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を破棄、8月8日、対日宣戦布告し翌9日、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、必死に反撃を行うも総崩れとなった。降伏決定が報道された8月10日以降も、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る事となった。また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜として不当にシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人の民間人は、流刑囚から多く結成されたソ連軍、日本を見限ったあるいはソ連兵に加担した多くの朝鮮人によって、殺害・略奪・暴行された。

日本軍部指導層の一部が降伏を回避しようとしたため、8月10日の御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は降伏へと収束した。日本政府は降伏を決定した事実を、10日の午後8時に海外向けの国営放送(現在のNHKワールドの前身)を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送した。8月14日、政府が同宣言受諾の意思を連合国へ直接通告、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。





降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。

8月16日、タイは日本側の内諾を得た上で宣戦布告の無効宣言を発し、連合国側と独自に講和した[47]。日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への亡命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。その他占領地に日本が構築した諸政権も次々に崩壊した。

8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。

9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、アメリカ、中華民国、イギリス、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席[48]の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結した。

戦争状態の終結と講和[編集]

詳細は「パリ条約 (1947年)」、「ドイツ最終規定条約」、および「日本国との平和条約」を参照

連合国軍が進撃した地域と、降伏文書調印後の日本本土および朝鮮半島などには連合国軍による占領統治が開始された。旧枢軸国のうちイタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は1947年2月10日、パリにおいて個別に行われた(パリ条約)。これらの条約は1947年の7月から9月にかけて発効している[49]。

ドイツに関しては占領状態が続き、その後東西に分裂したため、講和条約を結ぶ国家が決まらなかった。1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツ(西ドイツ)との戦争状態終結を宣言した。1955年にはソ連がドイツ民主共和国(東ドイツ)との戦争状態終結を宣言している。1990年にはドイツ再統一が確実視される情勢となり、9月12日には東西ドイツとソ連・アメリカ・イギリス・フランスによるドイツ最終規定条約が結ばれた。1991年3月15日にこの条約が発効したことによりドイツの領域は確定して最終的な講和が実現し、1994年にはドイツ駐留ソ連軍が撤退した。

また大多数の連合国と日本との講和は1952年4月28日に発効した日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)によって行われ、日本は占領状態から解放された。この条約にはソ連などが参加しておらず、特にソ連および承継国となったロシアと日本の平和条約は現在も締結されていない。しかしロシアを含む平和条約に参加していない各国と日本は個別に戦争終結に関する合意・条約を交わしており、1957年5月18日に発効したポーランドとの国交回復協定によって、旧連合国諸国との戦争状態は法的にすべて終結している。

戦時下の暮らし[編集]

「第二次世界大戦下の銃後(英語版)」および「第二次世界大戦下の各国情勢」も参照

日本[編集]
日用品・食料




木炭バス(1940年)
日中戦争の開戦後に施行された国家総動員法以降、軍需品の生産は飛躍的に増加し、これを補うために自家用車や贅沢品などの生産や輸入が抑えられ、「国民精神総動員」政策の元に「ぜいたくは敵だ」との標語が多くみられた。さらに1938年よりガソリンの消費を抑える目的で導入された木炭自動車が増え、1940年には、外貨の流出を防ぐため個人利用目的の欧米からの自動車の輸入が禁止された。また、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。また、戦時下において団結や地方自治の進行を促し、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行うことを目的に、1940年に「隣組」制度が導入されたが、生活必需品や食量の生産及び流通はこれまでと変わらず、レストランやビヤホール、料亭などの営業は通常通りに行われた。1941年12月に対英米戦が開戦すると、1942年には食糧管理制度が導入され物価や物品の統制がなされ、政府に安い統制価格で生産品を売り渡すことを嫌った農家が売り渋りを行ったため、生産量は変わらなかったにもかかわらず食糧の流通量が減った[50]他、米など一部の食糧は配給制度が実施された。ただし、食料の配給の優遇を受けたレストランや食堂、ホテルなどで外食をしたり、闇で食料を調達することもできた上、新たに占領下に置いた外地から原油などの資源や食糧の調達も可能になったこともあり、大戦終結の前年の1944年の初頭頃までは電気やガスの供給、生活必需品や食料が不足することはなかった[51]。その後南方とのルートの制海権を連合国側に握られた1944年暮れになると、外地からの食糧のみならず、肥料などの生産に必要な各種原料の輸入、漁船を動かすための燃料の供給が減ったことから、食糧の生産や魚類の生産、配給量も急激に減りその質も悪化していったため、窮乏生活を余儀なくされ闇取引が盛んになった[52]。1945年に入ると、連合国軍機による相次ぐ空襲や商船隊の活動制限による供給の悪化により電気やガスの供給が滞るようになった他、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。なおこのような窮乏生活は戦後も2、3年間続くこととなった。
空襲




勤労動員され働く女性工員
日中戦争時代より国民の意識を高めるために防空訓練が行われ、1942年にアメリカ海軍の艦載機の空襲が行われた後は盛んに行われたが、この空襲が小規模なものにすぎず、これに続く空襲もなかったためにこれを真剣に行う国民は少なかった[50]。しかし本土に対する連合国軍機の空襲は1944年6月の九州北部からはじまり、さらに同年11月からは東京、名古屋、大阪方面も空爆にさらされた。1945年に入ると、沿岸地域ではアメリカ軍艦による艦砲射撃やイギリス海軍の艦載機による機銃掃射なども加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。空襲による発電所の破壊などで停電が増えたほか、爆撃や機銃掃射などにより鉄道の遅延も相次いだ。さらに、沖縄ではアメリカ軍とイギリス軍の上陸による地上戦が、南樺太や北方領土の島々ではソ連軍の侵攻による地上戦が行われ、一般市民が最前線に立つことを余儀なくされた。
教育
日中戦争開戦後、徴兵年齢に達した多数の男性(大学生などや軍需生産、開発に従事した者を除く)が徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。





出陣学徒壮行会
小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。1941年の国民学校令に基づいて国民学校が設立された。対英米戦の開戦以降も国民学校による基礎教育、中等教育は変わらず行われたものの、本土に対する連合国軍機の空襲を受け、1944年8月4日には学童疎開が開始された。対英米戦の開戦以降も大学や高等専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化した1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。また熟練工が戦場に動員された代わりに学生や女性が工場に動員された(学徒動員。しかしこの施策は資材不足の日本にとって致命的な失策であり、戦車・航空機などの各種兵器の無闇な乱造を招き、結果的に敗北の一因となった[要出典])。

対英米戦の開戦以降はドイツ語やイタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、マスコミや国粋派により「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された上、ディック・ミネなどの英語風の芸名や藤原釜足などの皇室に失礼に当たる芸名は、内務省からの指示を受け改名を余儀なくされた。しかし、その後も日常会話や軍隊内で英仏語が広く使われ続けた上、「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」という朝日新聞などのマスコミや国粋派の要求に対し、東條内閣はこれを「英語教育は必要である」として拒否している[50]。
娯楽・スポーツ
1940年に開催される予定であった東京オリンピックは、日中戦争の激化により開催権返上を余儀なくされた。高校野球は英米戦の開戦後の1942年から開催が中止されたものの、プロ野球はその後も継続して開催され、日本の敗色が濃くなりつつあった1944年夏まで開催された。

日中戦争当時より娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、この頃より欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作されるようになった。対英米戦開戦後には映画配給社により映画の配給が統合されたものの、その後も多くの娯楽作品が制作され、終戦の年に至るまで映画の製作と配給は継続された。

日中戦争以降は欧米諸国同様に子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居や漫画、玩具などが出回り、空き地では戦争ごっこが定番になった。
言論と思想の統制




「ぜいたくは敵だ」と書かれたポスター(1940年)
対英米戦の開戦前後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、さらに「隣組」を通じて管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求されたが、国民の間では政府に対する批判も行われた他、新聞などでは政府批判も比較的自由に行われた[50]。しかし、東條内閣になった後は、戦争に反対する言論、特に共産主義者などの思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧し、この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂が憲兵隊に逮捕されている。
外地
日本の統治下にあった朝鮮半島は大きな戦禍に見舞われなかったものの、大戦終盤には連合国軍機の空襲を受ける地域があった他、1945年8月には、かねてから朝鮮半島に対する領土的野心を持っていたソ連軍が東北部に侵攻した。また主要植民地の1つで、重要な軍事戦略拠点であった台湾島も、大戦終盤には連合国軍機の空襲や艦砲射撃を受ける地域があった。
在日外国人
日中戦争開戦後もタイ王国(当時日本以外でアジア唯一の独立国)や欧米諸国の駐在員や外交官の多くは、日本やその植民地で戦前と変わらない生活を行ったが、対英米開戦後には、日本とその占領地、そして枢軸国として参戦したタイ王国に取り残されたイギリス人やアメリカ人は開戦後軟禁、逮捕され、1942年から1943年にかけて3回運航された交換船で、同じくイギリスやアメリカなどの連合国に取り残され同じく軟禁、逮捕されていた日本人と交換される形で帰国した[53]。

ドイツやイタリア、タイ王国やフランス(ヴィシー政権)などの同盟国や、スウェーデンやスイス、バチカンなどの中立国の外交官やジャーナリストは、英米間との開戦後もこれまで通りの生活を送ったが、ヨーロッパ各地も戦火に見舞われたことから、同盟国の外交官や駐在員のみならず、中立国の駐在員や外交官の多くも本国への帰国もままならなかった。なおソ連やトルコなどの中立国の外交官の多くは、1945年以降に本土への空襲が増加した後は軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルへ疎開して活動した。なお、1943年9月のイタリアの敗戦後には、サロ政権側に付くことを拒否した外交官を含む在日イタリア人が警察の監視下のもと軟禁状態におかれることとなった。またフランス人は、ヴィシー政権の崩壊後もフランス領インドシナの植民地政府が日本との友好関係を保っていたために、ドゴール側に付くことを表明した外交官以外の在日フランス人は中立国民と同様の扱いを受けていたものの、1945年3月に行われた日本軍によるフランス領インドシナの植民地政府への攻撃(明号作戦)以降は、在日イタリア人同様に警察の監視下のもと軟禁状態におかれることとなった。

ドイツ人は外交官や軍関係者のみならず、駐在員の多くが対英米戦開戦後も日本に残留したほか、封鎖突破船やUボートの乗組員などのドイツ軍人は日本国内やシンガポール、ペナンなどの占領地に駐留し、日本占領地の近隣地域における連合国軍との戦闘や、日本の占領地間の輸送に従事した。しかし1945年5月のドイツの敗戦後には、占領地で日本軍への協力の継続を表明したドイツ軍人以外の在日ドイツ人が軟禁状態におかれ、戦争終結まで富士五湖近辺などの地方の別荘地などに送られた[51]。

ドイツ[編集]





防空壕に避難するベルリン市民
総統アドルフ・ヒトラーは、戦争中盤までは国民の生活水準をある程度考慮していたものの、食糧などの生活必需品が配給制度となることは避けられなかった。その一方で、秘密警察ゲシュタポの監視により、国民の反政府・反戦的な言動は徹底的に弾圧した。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、ミュンヘンの大学生による反戦運動が表面化した(白いバラ)。その時期、宣伝大臣ゲッベルスによる有名な「総力戦布告演説」が行なわれ、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始され、軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力もあり、1944年には激しい戦略爆撃を受けながらもドイツの兵器生産はピークに達する。

連合軍による空襲はすでに1940年から開始され、1942年にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、「自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い」とまで言われた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ」というブラックユーモアが流行した。

総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレーなど庶民の娯楽の場が次々と閉鎖に追い込まれた。そのような苦しい状況下において、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団といったドイツのみならず世界を代表する楽団は1945年の敗戦直前まで何とか活動を続けた[54]。ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭った事で、ドイツの芸術にあたえた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。

敗戦間際、ソ連軍の残虐な報復から逃れるために西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いの頃には、少年や老人までもが動員され、ソ連軍と戦った。そのような状況で、ゲシュタポや親衛隊はなおも国民や兵士を監視し、逃亡と見なした者を処刑して回ったという。

フランス[編集]
本土と植民地
「ナチス・ドイツのフランス占領」も参照

開戦後ドイツ軍の侵攻を受けるまでは平穏な日々が続いたものの、ドイツの侵攻を受けた後は、兵士として徴兵された多くの農民がそのまま捕虜となったこと、植民地との貿易が途絶したこと、ドイツの戦争経済体制に組み込まれたこともあり農産物の生産量が激減し、食糧や生活物資の供給は逼迫したために生活は困窮することとなった。また戦場となった地では、多くの一般市民が戦闘に巻き込まれ命を落とした。





ハーケンクロイツが掲げられたパリのオペラ座




キャバレー「ムーラン・ルージュ」の前でフランス人女性と談笑するドイツ軍兵士
ヴィシー政権成立後、インドシナやモロッコなど多くの植民地もヴィシー政権につき、同政権の管理下に置かれた。しかしその後フランス領西アフリカなど、ほとんどが自由フランス側に参加していった。シリアとレバノンは独立し、連合国に加わった。インドシナは1940年にヴィシー政権の了解のもとで日本軍の駐留を受け入れたものの、引き続きフランス植民地政府が行政を行なうこととなった。なおインドシナの多くが戦場とならなかったこともあり食糧や生活物資の供給状況はそれほど悪化しなかった。
ドイツ占領下の本土
ドイツ軍の占領、管理下となったパリをふくむ北部と西部地域では、警察をはじめとする行政機構はドイツ軍の管理下に置かれ、道路標識などはフランス語とドイツ語の両国語併記となった。なお、フランスでもドイツ国内と同じくユダヤ人迫害政策がとられ、外出時にはダビデの星を衣服に付けることを義務付けられたほか、強制収容所に送られるものの多かった。ドイツ軍の支配に不満を持つ市民はレジスタンスを結成した。その動きはマキ (抵抗運動)のように、右派から共産主義者まで含んだ広範囲な層に広がった。一方、ドイツ側もこれに対抗して親ナチス的な民兵団 を結成させ、レジスタンスを弾圧した。また、ドイツ占領下で自己の保身や利害の為に自発的にドイツ軍に協力したり、様々な形でドイツ軍と関係を持つ一般市民や経済人、芸術家も多かった。しかし、1944年にドイツ軍がパリから撤退した後に彼等は「対独協力者」として糾弾され、住民からリンチを受けることになる者も少なくなかった。なお、ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルはスイスに亡命し、戦後その行為を非難された。

非武装都市となり破壊をまぬがれ、その後ドイツ軍の占領、管理下となった北部と西部の中心都市となったパリでは、ドイツ軍の管理の下でインフラストラクチャーの維持が図られ電力やガスの供給が継続され、食糧や生活物資の供給は減少したものの、多くの市民は闇市で不足分を補った。戦場とならなかったこともあり、占領開始から暫くの間は多くのドイツ人が観光目的で訪れたほか、ドイツ軍の統制下で各種制限はあるものの、オペラをはじめとする芸術活動も継続された。

イギリス[編集]





爆撃を受け炎上するロンドン
開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、フランスの降伏後は、単独でドイツと戦った。ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷し、児童の地方への疎開や防空壕の設置、地下鉄駅への避難が行われた。

また、ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により食糧や生活物資の供給は逼迫、さらに燃料の枯渇と近海での軍事作戦のために魚業活動にも影響が出たことで、食料品をはじめとする生活必需品は配給となり、国民は困窮した生活を余儀なくされた。

1944年には戦局がイギリス有利になり、国民生活にもわずかながら余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV-1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV-2ロケットでの攻撃も加わり、市民に多数の死傷者が出た。戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV-2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、市民への心理的影響は決して小さく無かった。

アメリカ[編集]
本土への攻撃と防衛体制




アメリカ軍兵士の監視下で強制収容先に運ばれる日系アメリカ人




日本軍によるハワイ占領に伴い押収されることを恐れ「HAWAII」の印を押された20ドル紙幣




軍需工場に動員され働く女性工員
開戦後に、ハワイのパールハーバーにある海軍基地が日本海軍艦船の艦載機による空襲を受けて壊滅状態に陥り、またオアフ島内の民間施設が被害を受けたほか、開戦後から1942年下旬にかけて、カリフォルニア州からオレゴン州、ワシントン州までの本土西海岸一帯、そしてアラスカ州のアリューシャン列島が、日本海軍の潜水艦による砲撃や日本海軍艦船の艦載機による数度に渡る空襲を受けた他、西海岸一帯からハワイ、アラスカにかけての広い地域で日本海軍の潜水艦による通商破壊戦も盛んに行われた。しかし、アジア太平洋地域やヨーロッパの主戦場から距離が離れていたこともあり、大戦の全期間を通じて本土の大都市が大きな被害を受けることはなかった。

しかし、開戦後から終戦にかけて西海岸一帯及びハワイ、アラスカ州では、日本陸軍部隊の上陸を恐れ厳戒態勢におかれ続けたほか、ロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市圏では防空壕の設置や灯火規制、対空砲の設置が行われたほか、「ロサンゼルスの戦い」のような誤認攻撃が起き市民に死者が出るありさまであった。さらにハワイでは、日本軍による占領に伴い島内で流通している紙幣が日本に押収され、物資調達などの決済に使用されることを恐れ、島内で使用されているすべてのアメリカドル紙幣にスタンプが押された[55]。また、この様な対日戦に対する恐怖と日本人に対する人種偏見をもとにした日系人の強制収容が行われた[56]。

なお、ドイツ軍やイタリア軍による本土への攻撃は行われなかったものの、東海岸やメキシコ湾沿岸でのドイツ海軍潜水艦による通商破壊戦や、メキシコ湾などから潜水艦で上陸した工作員による破壊工作がいくつか行われた[57]。

1942年に行われた日本海軍機による本土空襲以降は本土への攻撃が行われることはなかったものの、西海岸一帯の厳戒態勢は継続されたほか、東海岸一帯やカリブ海沿岸においても軍民による警戒態勢が継続して行われた[58]。また、1944年から1945年にかけては日本陸軍の風船爆弾による攻撃を受けて民間人が死傷したほか、本土内の軍施設にも被害が出た。
日用品と食糧
1941年12月に対日戦、続いて対独伊戦が始まると、他国同様に肉類[55]や砂糖、チーズなどの食料品や、靴やストーブなどの日用品の配給制の導入が全土で行われた。肉類や砂糖の購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[59]。なお、同盟国である当時世界最大の食肉産出国のアルゼンチンやブラジル、メキシコからの食肉の輸入が出来たことや、本土での原油生産が出来たこと、そして本土が大きな戦災を受けることがなかったこともあり、1940年以降のイギリス本土やドイツ、1945年以降の日本本土のように食糧をはじめとする生活必需品の生産と供給が極端に滞る状況に置かれることはなかった。また、一般家庭からの鉄やアルミニウムの回収、供用が行われたほか[58]、ガソリンやオイル、タイヤの配給制の導入も行われた。さらに、民需向け自動車の生産制限[60]も全土で行われた。ガソリンの配給制は終戦後間もなく解除されたものの、タイヤの購入制限は終戦後しばらく経つまで継続された[59]。
国民の動員
アメリカの参戦をきっかけに多くの若者を中心とした男性は徴兵され、志願する者も少なくなく、最終的に兵士の数は1200万人になった。これは当時のアメリカの人口10.5%にあたる。単純作業者から熟練工まで戦場に動員されたことを受けて、軍需品の生産現場では人員不足になることが危惧されたため、多くの軍需工場で女性が工員として働くことになり[61]、他の大国に比べ遅れていた女性の社会進出を後押しすることになった。
人種差別




アフリカ系アメリカ人部隊
人種差別法の元で差別を受け続けていたアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種も多くが戦場へ狩りだされたものの、アフリカ系アメリカ人兵士が戦線で戦う場合は「黒人部隊」としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊からアフリカ系アメリカ人は排除されていた。さらにアフリカ系アメリカ人が佐官以上の階級に任命されることは殆どなかった。また、ある陸軍の将官が「黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、全体のレベルが大幅に低下する」と公言した[62]ように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく根拠のない差別的感情も蔓延していたものの、アフリカ系アメリカ人兵士は勇敢に戦い、アメリカの勝利に大きく貢献した。

敵国であるドイツ人やイタリア人をルーツに持つ者は、その主義主張が反米的でない限りこれまでと同様の生活を続けたものの、同じ敵国である日本人をルーツに持つ日系アメリカ人は、有色人種であるがゆえに人種差別を元にした政府の方針を受けて、その主義主張は関係なく強制収容されることとなった。しかし、強制収容されていた多くの日系アメリカ人の若者が第442連隊戦闘団に志願して、戦場へと向かい、ヨーロッパ戦線で数々の戦功をたてたほか、日本語教育や暗号解読などの任務につき、アメリカの勝利に大きく貢献した。

また、同じく人種差別を受けていたネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)の多くの若者も戦場へと向かい、同じくアメリカの勝利に大きく貢献した。しかし、これらの少数民族に対する差別は銃後でも行われ続けていた上に、差別が合法化された状況は終戦後も続き、そのような状況が終結するのは終戦から20年近く経った1964年の公民権法制定まで待たねばならなかった。
娯楽・スポーツ
戦意高揚を目的に「カサブランカ」をはじめとする娯楽プロパガンダ映画も多く製作された。なお、メジャーリーグベースボールは日本のプロ野球同様継続されたが、多くの有力選手が戦場へと向かったほか、終戦の年の1945年にはMLBオールスターゲームが中止となるなど、戦争の影響を大きく受けることになった。

ポルトガル[編集]
本土
アントニオ・サラザール政権下で中立国となったポルトガルの首都であるリスボンは、ヨーロッパの枢軸国、連合国双方と南北アメリカ大陸、アフリカ大陸を結ぶ交通の要所となり、さらに開戦後にはヨーロッパ各国からの避難民が殺到した。

中立国ではあるものの、ポルトガルからスペイン経由でドイツの占領下にあるフランスやドイツ本土へ流れる各種物資の流れを止めることを目論んだイギリス海軍による海上封鎖が行われたために、生活物資をはじめとする各種物資の輸入が激減した[63]。
植民地




東ティモールのディリ
中立国であるにもかかわらず、大戦勃発後に大西洋上にある植民地であるアゾレス諸島を、イギリスとアメリカによる圧力のために連合国軍の物資補給基地として提供させられることを余儀なくされたほか、大東亜戦争勃発後には、アジアにある植民地であるマカオもポルトガルの植民地として中立の立場を堅持したまま日本軍の影響下に置かれることを余儀なくされた。

さらに同じアジアにある植民地である東ティモールは、大東亜戦争開戦後の1942年にオランダ領東インド駐留オランダ軍とオーストラリア軍が「保護占領」し、その後両軍を放逐した日本軍が同じく「保護占領」下に置くなど、あくまで名目上は中立国としての立場を尊重されたまま、枢軸国と連合国の間の争奪戦の中に置かれた。なおこれらの植民地との交易は、上記のイギリス海軍によるポルトガル本土周辺海域の海上封鎖や戦禍の拡大を受けて激減した[63]。

影響[編集]

損害[編集]

詳細は「第二次世界大戦の犠牲者」を参照

第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。軍人・民間人の被害者数の総計は世界で5〜8千万人に上るといわれている。

戦後処理[編集]





ヤルタ会談における連合国首脳。いすに座った3人の左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。
詳細は「第二次世界大戦の影響」を参照

敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦を挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている。

ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。

第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなど(旧ドイツ東部領土)を喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。

戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連は(そして戦勝国の座を中華民国から引き継いだ中華人民共和国も)その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国の5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。

だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本人がインドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争などに加わり近代戦術を指導するなどし、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。また、中国における国共内戦では残留日本人が両陣営に参加するとともに共産軍の空軍設立に協力するなどした。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。

戦争裁判[編集]

第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。日本では戦争開始の罪、中国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東條英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。

しかしその一方で、広島・長崎への原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲など、民間人に対する無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が枢軸国のものより遥かに大規模であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[64]、フィンランドに対する侵略行為、大戦末期のベルリンの戦いなどのドイツ国内におけるソ連兵による虐殺、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・略奪行為、降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。 また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留などの事例について、国際法違反の人道犯罪として戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものがあったが、この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、以上の事例すべてが不問とされている。

サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする批判も存在する。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かった事後法によって裁くなど、刑事責任を問う裁判の根本的規則に反する疑義も指摘されている。

敗戦国側では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかった事を、戦勝国側のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、敗戦国側に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。

新たに登場した兵器・戦術・技術[編集]





V2ロケット




一〇〇式司令部偵察機




大戦末期に開発されたロケット戦闘機バッフェム Ba349a ナッター
第一次世界大戦は工業力と人口が国力を、第二次世界大戦はこれに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金・科学力が投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
兵器電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、四輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。また、アメリカやドイツ、日本などがこぞって開発を行った核兵器(原子爆弾)の完成とその利用は、日本の降伏を早めるなど大きな影響を与え、その影響は冷戦時代を通じ現代にも大きなものとなっている。なお、大戦中期に暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが生み出された。第一次世界大戦時に本格的な実用化が進んだ航空機は、大戦直前に実用化されたドイツのメッサーシュミット Bf 109やイギリスのスーパーマリン スピットファイアのような近代的な全金属製戦闘機だけでなく、アブロ ランカスターやボーイング B-17・ボーイング B-29などの大型爆撃機、三菱 一〇〇式司令部偵察機といった高速戦略偵察機、メッサーシュミット Me 262といったジェット機やメッサーシュミット Me 163のロケット機など、さまざまな形で戦場に導入された。これらの航空機において導入されたさまざま技術は、戦後も軍用だけでなく民間でもさかんに使用されることになった。同じく第一次世界大戦に本格的な実用化が進んだ潜水艦は、ドイツのUボートや、零式小型水上偵察機を艦内に収容した日本の伊一五型潜水艦など、さらなる大型化と多機能化を見せることとなった。また、アメリカのダグラス DC-3やボーイング B-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、九五式小型乗用車やジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。戦術戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海戦(日本)、4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への空襲(アメリカ、イギリス)や、V1やV2などの飛行爆弾・弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、戦闘機を敵艦に突進させるなどとした自殺攻撃である特別攻撃隊(日本)、核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争戦術にも大きな影響を与えた。技術・代用品の開発・製造絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。
評価[編集]

植民地戦争時代の終結[編集]

第二次世界大戦は帝国主義や植民地主義が極限に達したことで勃発したが、結果的に帝国主義と植民地戦争時代を終結させ、植民地の解放を促す引き金となった。

19世紀以来、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ合衆国など連合国(白人諸国家)の植民地支配を受けて来たアジア諸地域は、第二次世界大戦序盤における日本軍の勝利と連合国軍の敗北(特にシンガポールの戦いにおけるイギリス軍の敗北)により、一時的に白人宗主国による支配から切り離された。これにより、非白人国が白人の宗主国を打倒した事実を、植民地支配下の住民が直接目にする事となった。これは、被植民地住民にとって、宗主国たる白人に対する劣等感を払拭する大きな力になったと、後年に中華民国総統の李登輝、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相、インドネシアのスカルノ大統領など、当時の被植民地出身の政治家たちが述べている。インドネシア政府が1945年8月17日に独立を宣言した時には、年月日の表記に神武暦が用いられて「2605年8月17日」と表記された。そして、日本軍が敗北すると、日本軍に勝利したイギリス軍など白人宗主国軍がアジア諸地域を再び占領したが、現地住民は、一部の元日本軍兵士も含めて、独立運動に立ち上がった。彼らは日本軍の遺棄兵器を終戦直後の権力空白時に入手し、それが独立運動に寄与したと見られている。以上の諸点から、日本がアジア各国の植民地解放を結果的に促進したとする見解がある。

日本の支配下にあった朝鮮半島や太平洋諸国が戦後に独立し、満州国は中華民国領土へ復帰した。

なお、戦場とならなかったサハラ砂漠以南のアフリカ諸国(ブラックアフリカ)の独立運動がアジアより遅く、1960年以後に本格化した事は、第二次世界大戦が大きく関与しているという意見もある。しかし、それはサハラ以南の地域では白人の宗主国が第二次世界大戦終結後も残存し、また経済と社会の発展がアジア地域より遅れていたに過ぎない、という反論もある。

東ヨーロッパにおいては、勝戦国であるソビエト連邦が同地域のほとんどを占領し、バルト三国などを併合し、ポーランド、ドイツ、ルーマニアなどから領土を獲得すると共に、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ政権を樹立した。第二次世界大戦後の冷戦時代に、これらの国を「衛星国」という名の新たな植民地として支配する事になり、その状態は1991年末まで続いた。

大戦と民衆[編集]

第一次世界大戦は国家総力戦と呼ばれたが、第二次世界大戦で、一般民衆はさらに戦争と関わる事を余儀なくされた。戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃、ホロコーストなど一民族への大量虐殺など、戦争の様相は第一次世界大戦より過酷なものとなり、空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対し、占領下の民衆らによるパルチザン・レジスタンスなどゲリラ的に抵抗する活動が開始され、民衆自身が直接戦闘に参加した。しかし、それは時として正規軍関係者からの過酷な報復を招いた。

長期に渡る動員によって引き起こされた産業界の労働力不足により婦女子の産業・軍事への進出が第一次世界大戦当時より促進された。このことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。

原子爆弾や焼夷弾などの大量破壊兵器の登場は、多くの民衆を戦闘に巻き込んだ事から、彼らの反戦意識を向上させ、戦後の反戦運動や反核運動へ繋がっていった。

『よい戦争』[編集]

特に1970年代以降のアメリカでは、世界にアメリカの敗北と認識され、アメリカが世界から反感をもたれるきっかけとなったベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争 (good war) とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の勧善懲悪の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)』[65]としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。

戦後の冷戦構造の中でのアメリカは、ソビエト連邦の動きに対抗すべく「反共産主義的」であるとの理由で、チリやボリビアなどの中南米諸国や、韓国、フィリピン、南ベトナムなどのアジア諸国の軍事独裁政権を支援した。結果的にアメリカは1991年のソビエト崩壊により冷戦を勝ち抜いたが、経済面では西欧やアジアの復興の前に多極化が進んでおり、すでに1950年代のような絶対的な覇者とは言えない状況となった。ハワイ州を除き国土と生産設備の大半を戦災から免れたアメリカは、軍事外交および経済力において突出した存在となったが、東欧・アジア・中米での共産勢力との戦いやイスラエル建国にともなう中東での戦いなどにつねに当事者であることを求め続けられ、国民は血の献身を求められ続けた。

降伏後の日本の占領過程では、連合国の代表として日本の占領政策を事実上独占し、戦犯指定をうけた岸信介や児玉誉士夫などを利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど高権的統治をおこない、またGHQや極東委員会の非武装原則(憲法改正における非武装条項、極東委員会1948.2.12など)に反し、朝鮮戦争が始まると「警察予備隊を整備させ自陣営に組み込んだ」と、ソビエト陣営の影響下の共産主義者・日本の左翼などに批判されたもの、米国にとっては日本敗戦時から規定事項であり、予備隊を増強・再編を繰り返し、自衛隊という形で日本軍を事実上復活させた(ただし米国は負担軽減策として自衛隊を国防軍へ更に再編させるつもりであったが、日本国内の陸軍悪玉論により頓挫した)。

民主主義と戦争[編集]





カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所
大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[66]など差別は解消されなかった[67]。参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)[68]も同様であった。

また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。これは第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。

スペイン内戦

スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。



目次 [非表示]
1 概要
2 背景
3 内戦の展開 3.1 反乱軍の進撃
3.2 共和国軍の混迷
3.3 人民戦線最後の攻勢と内戦の終結

4 国際旅団
5 戦後
6 影響
7 交戦国・支援国・団体 7.1 共和派
7.2 ナショナリスト派

8 スペイン内戦を題材とした作品
9 年表 9.1 1936年
9.2 1937年
9.3 1938年
9.4 1939年

10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク


概要[編集]





フランシスコ・フランコ
スペイン内戦は、スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。

内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。また、共産主義とファシスト枢軸との間の代理戦争との見方がなされていた。

この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家アーネスト・ヘミングウェイ、女性戦場特派員マーサ・ゲルホーン(英語版)、全体主義批判作家ジョージ・オーウェル、従軍戦場写真家ロバート・キャパらが関わった)。そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。

背景[編集]





プリモ・デ・リベラ
第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立した。

1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立するが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立は続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れなかったため、政治的膠着状態が続いていたが、1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で、従来あらゆる政府に反対する立場から棄権を呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換。その結果、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャ(左翼共和党)を大統領、サンティアゴ・カサーレス・キローガ(es:Santiago Casares Quiroga)を首相とする人民戦線政府が成立した。

しかし、人民戦線も大きく分けて議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・無政府主義革命を志向する強硬派が存在し、決して一枚岩ではなかった。その中でも強硬派はさらに進んで、警察を使ってスペイン保守派の中心人物の一人であったカルボ・ソテーロ(es:José Calvo Sotelo)を7月13日に暗殺(突撃隊のホセ・カスティージョ(es:José del Castillo Sáenz de Tejada)中尉暗殺への報復)するなど、暴力による右派の排除に乗り出した。キローガ政権は暗殺に非難声明を出し、アサーニャ大統領を始めとする政権内の穏健派は、暗殺が反乱の引き金になると憂慮したが、果たしてソテーロ暗殺により、かねてから反乱を準備していた右派は急速に結束した。一方、人民戦線内の社労党左派や共産党などは民兵の動員に走り、労働者への武器供与を要求した。また、ストライキの頻発や地方議会の打倒など、革命ムードを高めて行った。

7月17日、エミリオ・モラ・ビダル(es:Emilio Mola)を首謀者として、植民地モロッコのメリージャで反乱が起こった。要注意人物としてカナリア諸島に左遷されていたフランコなどがこれに呼応し、フランコは植民地モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上った。反乱が起こると、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会、地主、資本家、軍部、外交官、グアルディア・シビルなどの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。政権側に留まったのは共和制支持者や左翼政党、労働者、バスクやカタルーニャ自治を求める勢力などであった。

アサーニャは右派をなだめるためキローガ内閣を辞職させ、7月18日、後任に穏健派である共和統一党のディエゴ・マルティネス・バリオ(es:Diego Martínez Barrio)を擁立した。バリオはモラに陸軍大臣の座を用意して懐柔しようとしたが、モラは「貴兄と意見の一致をみたなどと(反乱軍民兵隊の)連中に言ったら、私が真っ先に血祭りにあげられてしまう。マドリードの貴兄も同じことが言えるんじゃないか。二人とも、もはやお互いの大衆を抑えることなどできないんだ」と拒否した。一方、人民戦線内の左派は、反乱軍と交渉したバリオを「裏切り者」と非難した。民衆は倒閣のデモを起こし、扇動家はバリオを血祭りに挙げるよう気勢を上げた。バリオ内閣はわずか2日で辞職に追い込まれ、7月19日、徹底抗戦を掲げるホセ・ヒラル(es:José Giral)内閣(左翼共和党)が成立した。また、ヒラル内閣は労働者への武器供与要求を受け入れた。

ただし、どちらの勢力も一枚岩ではなく、軍部などでも主に地理的事情で人民戦線側に付いた者も少なくなかった。フランコ一族も、兄は反乱軍に付いたが、弟と従兄弟は人民戦線側に付いた。軍部は数の上では真っ二つに割れたが、主力は反乱軍側に付いたため、人民戦線側の軍事力は当初から劣勢であった。

内戦の展開[編集]





1936年の8月から9月にかけての勢力圏
当初の反乱指導者はモラであったが、トレドを陥落させるなど反乱軍内部で声望を高めたフランコが、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出され、指導者の地位に就いた。フランコは、ファシズム政権を樹立していたドイツとイタリア王国から支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。隣国のポルトガルに成立していたサラザールによる独裁政権もフランコを助け、アイルランドもエオイン・オ・デュフィ率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。

ドイツからは、空軍の「コンドル軍団」と空軍の指揮下で行動する戦車部隊、数隻の艦艇、軍事顧問が派遣された。イタリアはフランコにとっては最大の援助国であり、4個師団からなるスペイン遠征軍(CTV)と航空部隊、海軍部隊がスペインに派遣され、物資援助も含めると、援助額は当時の金額で14兆リラに達している。後に、フランコ政権に対して7兆リラの支払いが求められたが、踏み倒されている。ポルトガルは、最大で2万人規模の軍隊を派遣していた。 

当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換した。

そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられず、しかもメキシコからの軍事的な援助はごくわずかであった。しかし、国際旅団が各国から駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。

また、フランコの反乱と時を同じくして、工場労働者や農民などによる革命が勃発し、地方の実権を握ったとバーネット・ボロテンは指摘している。この革命は主に無政府主義者や社労党左派の支持者によって起こったが、ボロテンによれば、人民戦線路線を取るソ連にとってこの革命は不都合なものだったので、実態を隠蔽して社会主義革命ではなく「ブルジョワ民主主義革命」の段階であると主張したという。また、人民戦線政府にとっても、革命は英仏の心証を害しかねないため、やはり言及を避けた。

反乱軍の進撃[編集]

内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、ラ・マンチャ、アンダルシアなど国土の大半(どちらかというと地中海よりの国土の東半分)を確保したのに対して、反乱軍側はガリシアとレオン(反乱軍を支援するポルトガルと国境を接する西側の地域)を確保していたに過ぎなかった。

反乱軍は当初は首都のマドリード(攻撃が激化すると政府はバレンシアへ移転、さらにバルセロナへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力で塹壕が掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦の最後まで人民戦線側に掌握され続けた。このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍はイベリア半島北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。





空襲を受けた後のゲルニカ
反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコがドイツ・イタリアの支援をとりつけていたこと、反乱軍側の指導者であったモラの事故死(1937年6月)などが重なって権力の集中が進み、ファランヘ党(創設者のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラ侯爵は人民戦線側に捕らえられ処刑)と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。

反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ(6月)、サンタンデール(8月)、ヒホン(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。その間の4月26日にはバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52輸送機を改造した爆撃型を主体とした24機による空襲を受けた。これは前線に通じる鉄道・道路など交通の要であった同市を破壊して共和国軍の補給を妨害することが目的で、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出た(共和国側は死傷2500人以上と、被害を過大に発表。当時は爆撃の真相は不明で、人民戦線軍による焦土作戦と言うフランコ側の主張もかなり信じられていた。これ以前から民間人に対する無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生していたのだが、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』の題材になったことで、一躍有名になった)。

さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でもエブロ川南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。

共和国軍の混迷[編集]





共和国軍を率いるバレンティン・ゴンサレス。後に国際旅団を指揮。
一方、共和国軍(反ファシズム)側の足並みはそろわなかった。そもそも、労働者達は軍を敵視していたから、戦場でも共和国軍に留まった軍人の進言に耳を貸さなかった。一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持していたから、しばしば物量に勝る共和国軍を破った。さらに、民兵達は党派ごとに指揮系統もバラバラで、他党派の軍勢が負けると互いに喜ぶといった有様だった。緒戦の敗退から、ようやく共和国軍も軍隊の再建に乗り出したが、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって共和国軍の主導権を握ることになる。

急進的労働組合であり労働者自治(アナルコ・サンディカリズム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働党(POUM)と協力し、統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。

「モスクワの金」も参照

当時スペイン銀行は外貨準備用に金を保有しており、保有量は約710トンで当時世界3位と推定されていた。しかし、反乱軍の手に渡らないよう、適当な保管場所に移す必要があるという話が持ち上がった。また、この金は、英仏の不干渉政策によって、武器購入の信用取引ができなくなっていたため、現金購入の資金として、外貨調達を行うために使われた。そこで、両方の目的のため、共和国側が抑えていた唯一の海軍基地であるカルタヘナの洞窟に移された。





共和国軍の戦車
当初はカルタヘナからフランス銀行へ金を輸送し、そこで外貨を調達した。輸送量は200トンに上ったが、輸送の遅れやフランス銀行からの資金受け渡し認可に手間取ったため、武器調達ははかどらなかった。しかも、イギリスの銀行は、この取引を「歓迎すべからざる目的」と見なして、資金引き渡しの怠業を行った[1]。また、反乱軍は資金の受け取りを「マルクス主義者一味との恐るべき共同犯罪」であり、「略奪」行為であり、銀行基本法に抵触すると喧伝し、訴訟などちらつかせ各国の銀行を牽制した。こうした情勢から、親ソ派を中心にソ連への金移送が持ち上がり、ソ連も渡りに船とこれに応じた。しかしアサーニャに事前の相談はなかったといわれている。

ソ連に輸送された金は約510.08トンにのぼり、当時の価値で5億ドルを超えた。その多くは金塊ではなく各国の金貨だった。また、骨董的価値のある金貨も少なからず存在した。共和国の支援国ソ連は武器・人員を援助したが、それらの支援は有償であり、また、金の一部でアメリカとチェコから自動車を調達してスペインに送っている。戦後、『プラウダ』は1957年4月5日号でスペインは金を使い果たしたばかりか、5000万ドルの借款がソ連に対して残っていると主張したが、ソ連側は取引の明細を公開しなかったため信用されておらず、ソ連が金を横領したという批判も受けている[2]。現在では、ソ連から直接送り出された物資、各種兵器は4700万ルーブル分となっているが、これにはソ連が外国で調達した物資が含まれておらず、また、輸送途中でフランコ側海軍に阻止された分が含まれていない可能性もある[3]。いずれにせよ、共和国は資金を丸ごとソ連に差し出した形になり、ソ連に対してばかりか、第三国の武器禁輸を解くための交渉能力も失った。また、人民戦線内閣の崩壊直前にも、恐らくはフランコ政権へのあてつけのために金塊が運び出されている。これらの金塊に関しては、フランコ政権とソ連が国交回復したおり、返還について協議がもたれたようであるが、詳細は不明確である。





写真はソ連貨物船「クルスク」。1936年12月に支援物資をアリカンテ港に荷卸し中の写真。
更にソ連は人民戦線の指揮権を掌握することを目論み(人民戦線の内部抗争に辟易したためとも言われる)、軍事顧問などに偽装したNKVDが現地に派遣され、ソ連及びスペイン共産党の方針に反対する勢力を次々に逮捕・処刑した。スペイン共産党は内戦以前は極少数党派にすぎず、左翼は圧倒的にバクーニン派アナキストのCNT・FAIによって占められていたが、最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに共産党は次第に勢力を拡大していった。これらの非マルクス主義、あるいは非スターリン主義マルクス主義の左翼組織はコミンテルンに同調しなかったため、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党は彼らをトロツキストと批判し、内部対立を深めた。さらに、スペイン共産党側はマルクス主義統一労働党がフランコ側に内通しているとする証拠を偽造し、一気に潰そうとしたが失敗した。

第四インターナショナルのスペイン支部は、スターリン主義共産党のみならず、マルクス主義統一労働党やCNT・FAIの日和見主義をも批判したが、その勢力は数十名(しかもほとんどが外国人)を超えることはなく、革命に現実的な影響力を及ぼすことはできなかった。

1937年5月、バルセロナで遂に両勢力が衝突へと至り、500名近くの死傷者を出す惨事となった。共産党側は反対派を暗殺で脅したが、相次ぐ内ゲバに内外の反発を買ったばかりか、地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。しかし、イギリス・フランスなど他国が不介入政策を採り続けたため、ソ連に頼らざるを得ない状況だった。

国際的情勢は、さらにフランコに有利なものとなった。カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。共和国側の残された願いは、第二次世界大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスがファシズム勢力に対する宥和政策を継続することが明白となり、この期待もくじかれた。イギリス・フランスはファシズム勢力がソ連ら共産主義勢力と対立することを期待しており、ソ連の支援を受けた人民戦線に味方してもソ連という敵に塩を送ることになるばかりか、世界大戦の引き金となると考えていたのである。

人民戦線最後の攻勢と内戦の終結[編集]





1938年11月時点の勢力圏
1938年7月、人民戦線側は南北に分断された支配地域を回復しようと、エプロ川で攻勢に出る(エブロ川の戦い)。カタルーニャ側の人民戦線が総力を結集したことにより、戦闘の当初は人民戦線側が大きく前進するが、反乱軍が増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて人民戦線側はずるずると後退していった。両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国側はフランコ側の約2倍の死者を出し、もはやカタルーニャ側の人民戦線政府は勢力を消耗し尽くしてしまった。

1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末にバルセロナを陥落させた。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリス・フランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領辞任を余儀なくされた。

フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して人民戦線側は徹底抗戦を目指すスペイン共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。4月1日にフランコによって勝利宣言が出された。

国際旅団[編集]

多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。国際旅団が組織され、アーネスト・ヘミングウェイ、後にフランス文相となったアンドレ・マルローなどが参加、日本人ではジャック白井という人物が1937年7月にブルネテの戦いで戦死している。ただし、結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員は知識人や学生20%、労働者80%で(人口構成を考えれば特に異常ではない[要出典])、また全構成員の60-85%は共産党員だった。さらに、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる(三野正洋「スペイン戦争」)。 戦争終結直前に国際旅団は、イギリス外務省の「外国兵力を双方とも同程度撤退させる」との提案に従い解散した。人民戦線にとって厳しい戦局の中でのこの決断は、国際旅団がもはや助けではなく重荷になっていたからだと考えられる。

戦後[編集]

内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えた。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑した。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。

カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者は知識階級中心だったので、彼らがメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きいものがあった。例えばメキシコ出版業界の元締めであるフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社は、亡命スペイン人達によって設立された。





戦没者の谷
第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続いた。フランコの腹心で後継者を予定されていたルイス・カレーロ・ブランコ(es:Luis Carrero Blanco)は、米ソの東西冷戦を見て、人民戦線の残党を弾圧しても、共産主義の招来を恐れる西欧諸国は非難こそすれ、実効的な圧力を受けることはないから気にせず弾圧すればいいと進言したという(後にブランコはETAによって暗殺された)。

共和国政府は「スペイン共和国亡命政府」 (en) として、メキシコ、次いでパリにて存続。1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1世が独裁政治を受け継がず、1977年6月15日のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保った。同年6月21日、亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレス (en) が政府の解消を宣言。7月1日、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされた。

内戦の双方の戦没者はマドリード州にある国立慰霊施設「戦没者の谷」に埋葬されているが、フランコ時代に政治犯を動員して建設されたこと、モニュメントなどがいまでもフランコ時代の性格を残していることから、スペイン国内ではいまだ施設の性格の見直しを巡って議論の対象となっている。

影響[編集]

この内戦に参加することによって、ナチス・ドイツは貴重な実戦経験を得る事となった。このことはヴェルサイユ条約下においてさまざまな軍事的な制限を受けていたドイツにとっては得難い経験であり、第二次世界大戦初期の戦闘を優位に進めることにおいて多いに貢献した

交戦国・支援国・団体[編集]

共和派[編集]
スペインの旗 スペイン共和国 Flag of the Popular Front (Spain).svg 人民戦線
Bandera CNT-AIT.svg CNT(全国労働者連合)・FAI(イベリア・アナーキスト同盟)
Socialist red flag.svg UGT(労働総同盟)
Estelada blava.svg ERC(カタルーニャ左翼共和党)・EC
Flag of the Basque Country.svg EG(バスク軍) (1936年 - 37年)
Bandeira galega civil.svg PG(ガリシア党)

Flag of the International Brigades.svg 国際旅団
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
メキシコの旗 メキシコ

ナショナリスト派[編集]
スペインの旗 スペイン Bandera FE JONS.svg ファランヘ党
Flag of Traditionalist Requetes.svg カルロス主義派 (1936年 - 37年)
CEDA flag.svg CEDA(スペイン右翼自治派連盟) (1936年 - 37年)
スペインの旗 アルフォンソ主義派 (1936年 - 37年)

イタリア王国の旗 イタリア王国
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
Flag of Portugal.svg ポルトガル
アイルランドの旗 アイルランド

スペイン内戦を題材とした作品[編集]

関連カテゴリ - Spanish Civil War media
小説 『誰がために鐘は鳴る』(アーネスト・ヘミングウェイ)
『カタロニア讃歌』(ジョージ・オーウェル)
『希望』(アンドレ・マルロー)
『狼たちの月』(フリオ・リャマサーレス) - 内戦中、そして内戦後にもおよぶ、共和国軍敗残兵の若者と村人たちの姿を描く。
『サラミスの兵士たち』(ハビエル・セルカス) - 共和国側の集団銃殺から逃れたファランヘ党小説家のエピソードをきっかけに、戦った兵士たちの真実に迫る。
『さらばカタロニア戦線』(スティーヴン・ハンター) - イギリス情報部の依頼で国際旅団に潜入した元警官の青年の視点で、マルローやヘミングウェイが描かなかった共和国軍側の凄惨な内部抗争を描いている。
ドリュ・ラ・ロシェルの小説『ジル』や、ロベール・ブラジヤックの小説『七彩』の主人公は、最後にスペイン内戦にフランコの反乱軍側のファランヘ党の義勇兵として参加していく。

映画 『誰が為に鐘は鳴る』 - ヘミングウェイの小説に基づく1943年のアメリカ映画。ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演。
『命あるかぎり』 - 1955年の西ドイツ映画。ゲルニカを爆撃したとされるドイツ義勇軍「コンドル軍団」の若者たちの青春群像を描いた。
『日曜日には鼠を殺せ』 - 1964年のアメリカ映画。エメリック・プレスバーガーの同名小説を『酒とバラの日々』のJ・P・ミラーが脚色、『尼僧物語』のフレッド・ジンネマンが製作・演出。
『戦争は終った』 - 1965年のフランス映画。アラン・レネ監督。
『ミツバチのささやき』 - 1973年のスペイン映画。ビクトル・エリセ監督。
『鏡』 - 1975年のソ連映画。アンドレイ・タルコフスキー監督。
『歌姫カルメーラ』 - 1990年のスペイン映画。カルロス・サウラ監督。
『ベル・エポック』 - 1992年のスペイン映画。
『大地と自由』 - 1995年、イギリス・スペイン・ドイツ合作映画。フランコ派だけでなく左翼勢力間の争いを描くなど、共産党にも批判的で無政府主義者陣営には同情的な視線から描かれている。
『蝶の舌』 - 1999年のスペイン映画。マヌエル・リバスの同名小説の映画化。
『パンズ・ラビリンス』 - 2006年のメキシコ・スペイン・アメリカ合作映画。

絵画 『ゲルニカ』(パブロ・ピカソ)

写真 ロバート・キャパは『崩れ落ちる兵士』など、前線でのショットを世界に報道、従軍写真家としての地歩を築く。

宝塚歌劇 『誰がために鐘は鳴る』 - 鳳蘭・遥くらら主演。
『NEVER SAY GOODBYE』 - 2006年宙組公演。和央ようか・花總まり主演。


年表[編集]

1936年[編集]
人民戦線協定の締結(1月)
人民戦線政府の成立(2月)
スペイン領モロッコでフランコ将軍の蜂起(7月)
ドイツ・イタリアがフランコの支援を開始(9月)
ロンドンで不干渉委員会の開催(9月)
フランコ、トレドを占領(9月)
元首をフランコとして新国家の樹立を宣言(10月)
フランコによるマドリード攻撃開始(10月)
人民戦線、国際旅団の創設を承認(10月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(11月)

1937年[編集]
グアダラハーラの戦い(3月)
ドイツ義勇軍(コンドル軍団)によるゲルニカ爆撃(4月)
バルセロナで五月事件(5月)
フランコ、ビルバオ占領(6月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(10月末)
テルエルの戦い(12月から翌年2月)

1938年[編集]
フランコ、ブルゴスで内閣樹立(1月末)
フランコが地中海岸に到達、人民戦線側は南北に分断(4月)
パロス岬沖海戦(5月)
エブロ川の戦い(7月)
国際旅団の解散(10月)

1939年[編集]
フランコ、バルセロナ占領(1月)
イギリス、フランスがフランコ政府を承認(2月)
フランコ、日独伊防共協定に参加(3月)
フランコ、マドリード占領(3月)
フランコによる内戦終結宣言(4月)
アメリカ合衆国がフランコ政府を承認(5月)
第二次世界大戦勃発(9月)

ゲルニカ

ゲルニカ(バスク語:Gernika、スペイン語:Guernica)は、スペインのバスク自治州ビスカヤ県の都市。近隣のルモと連合したため、自治体の正式名称は「ゲルニカ=ルモ(Gernika-Lumo)」、スペイン語で「ゲルニカ・イ・ルノ(Guernica y Luno)」である。人口は16,224人(2009年)。

スペイン内戦の際にドイツ軍の激しい爆撃を受けたことで知られる。その悲惨な様子を描き表したパブロ・ピカソの『ゲルニカ』は彼の代表作の一つになっている。



目次 [非表示]
1 政治的な位置付け
2 歴史
3 姉妹都市
4 外部リンク


政治的な位置付け[編集]





ゲルニカのオーク
ゲルニカには、ビスカヤ県の議会(Junta)が置かれている(行政府はビルバオ)。何世紀もの間、ビスカヤ人の伝統的な議会はオークの木「Gernikako Arbola」の下で開かれてきた。バスク人にとって、この木は自由の象徴であった。オークの木は代々植え替えられてきた。1800年代まで立っていた木は、石化されて議会場の近くに置かれている。その木に代わって1860年に植えられた木は2004年に枯れた。植え替えられた若木は公式な「Gernikako Arbola」となったが、その木も病気にかかったために周りの土が入れ替えられている。木のそばには集会場が建てられ、1826年に建てられた現在の議会場と兼用されている。

歴史[編集]





爆撃後のゲルニカ
代々のビスカヤ伯は、その称号を受ける前にゲルニカを訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓うしきたりとなっていた。伯位はカスティーリャ王に受け継がれたが、王もまたゲルニカで誓いを行った。

世界的には、この都市はスペイン市民戦争中のゲルニカ爆撃(1937年4月26日、en:Bombing of Gernikaを参照)で有名である。この爆撃はフランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として実施された。同軍のモラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、コンドル軍団(ドイツ空軍遠征隊)の爆撃隊がその支援として空襲を行ったのだった。ゲルニカには共和国政府軍は存在しなかったが、通信所などの軍事目標があったほか、バスク地方に展開する共和国軍の補給路の要として極めて戦略的価値の高い後方の要衝であった。しかし、この日の爆撃は都市そのものに対する無警告の恐怖爆撃となった。これは都市と街路そのものを破壊し、共和国軍の移動、補給を妨げる目的を持っていた。また、この爆撃には3機のイタリア爆撃機が参加していた。 4月26日、ハインケル He111、ユンカース Ju52などの爆撃機が相次いで来襲、約3時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えた。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空におりて市街地に銃爆撃を加え、おりからの市に集まっていた住民や家畜を殺傷した。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人といわれる(諸説あり、実際の死傷者は300人とするものが有力)。

ゲルニカ爆撃が米、英、仏などの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは
「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」
という謀略宣伝に努めた。その結果、相当数の人々がこの宣伝を信じることになった。現在ではドイツ爆撃隊(イタリア軍含む)による攻撃であることが確認されており、ゲルニカ空襲は都市恐怖爆撃の先例として認識されている。

ちなみに都市は破壊されたが、ビスカヤ議会とオークの木は生き残った。また有名なピカソの『ゲルニカ』は、パリ博覧会のため壁画を依頼されていたピカソが爆撃を知り、憤怒をこめて描きあげたもの。ピカソは共和国政府を支持しており、『ゲルニカ』の前身ともいえる銅版画『フランコの夢と嘘』も製作している。この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治憲章は、1936年の自治憲章の継承者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認された。現在のバスク自治州首相(レンダカリ)もオークの木の前で宣誓を行っている。

姉妹都市[編集]
アメリカ合衆国の旗 ボイシ、アメリカ
ドイツの旗 プフォルツハイム、ドイツ
スペインの旗 ベルガ、スペイン
メキシコの旗 セラヤ、メキシコ

バスク国 (歴史的な領域)

歴史的な領域としてのバスク国(バスク語:Euskal Herria)は、バスク人とバスク語の歴史的な故国を指す概念である。ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペインの両国にまたがっている。

スペイン側にバスク自治州があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、スペインのナバーラ州の一部およびフランスのピレネー=アトランティック県の一部(フランス領バスク)が含まれる。統一された「バスク国」の概念は近代バスク民族運動の中で展開され、現在も「バスク国」全体の独立を目指す運動がある。



目次 [非表示]
1 地域区分 1.1 南バスク
1.2 北バスク

2 歴史 2.1 先史時代
2.2 古代
2.3 ガスコーニュ公国
2.4 ナバーラ王国
2.5 フランス・スペインの領土へ
2.6 近代バスク民族運動の勃興
2.7 第二次世界大戦後

3 関連項目
4 外部リンク


地域区分[編集]





バスク国の構成
バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、Zazpiak Bat(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。

Hegoalde(南部)と呼ばれる4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Iparralde(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さがある。


南バスク[編集]

南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの県に位置づけられている。このうち西部の3地域(アラバ、ビスカイア、ギプスコアの3県)は、1979年以来バスク自治州(Euskadi)を構成している。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。
アラバ
中心都市はガステイス(スペイン語:ビトリア)ビスカイア(スペイン語:ビスカヤ)
中心都市はビルボ(スペイン語:ビルバオ)ギプスコア
中心都市はドノスティア(スペイン語:サン・セバスティアン)
東部の1地域は、1県(ナファロア県)で1982年よりナバラ州を構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。
ナファロア(スペイン語:ナバラ)
中心都市はイルーニャ(スペイン語:パンプローナ)
これら二つの自治州(バスク、ナバラ)はそれぞれ独自の財政制度をもっている。

北バスク[編集]

北バスク(フランス領バスク)3地域は、フランスのピレネー=アトランティック県の一部である。行政団体としての位置づけはされていない。
低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:バス=ナヴァール)
中心都市はドニバネ・ガラシ(フランス語:サン=ジャン=ピエ=ド=ポル)ラプルディ(フランス語:ラブール)
中心都市はバイオナ(フランス語:バイヨンヌ)スベロア(フランス語:スール)
中心都市はマウレ(フランス語:モレオン=リシャール)
歴史[編集]

先史時代[編集]






フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布

現在のバスクの領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。アルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)同様、フランコ・カンタブリア美術に属する洞窟絵画の遺跡が、バスク地方から見つかっている。

古代[編集]






古代のバスク系部族

ローマ帝国期、バスク人の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。

ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。

ガスコーニュ公国[編集]





ガスコーニュ公国の領域
3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域はバガウダエ (Bagaudae) にからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、ガスコーニュ公国 (Duke of Gascony) の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいはアキテーヌ公国 (Duke of Aquitaine) との連合国であった。

ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌのウード公 (Odo of Aquitaine) 、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。

ナバーラ王国[編集]





1000年頃のナバーラ王国とその一族(ヒメノ家)の所領(橙色)
詳細は「ナバラ王国」を参照

南バスクではパンプローナ王国(のちのナバーラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネー両麓においてバスク国の唯一の政治的な実体となった。北バスクではバイオナとラプルディの沿岸部はイングランドの手に落ち、スベロアは自治を保った。

ナバーラ王国はヒメノ朝のサンチョ3世(985年 - 1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク(狭義)の大部分、ラ・リオハ、カスティーリャの北東部に加えて、当時は地方の小国であったカスティーリャ王国とアラゴン王国も傘下に収め、「大王」と呼ばれた。

サンチョ3世が死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ(ナバーラ)、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベ (Sobrarbe) とリバゴルサ (Ribagorza) である。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。やがてナバーラは衰退をはじめ、その所領はアラゴンとカスティーリャとの角逐の場となった。ナバーラの所領であったアラバは12世紀に、ビスカヤ・ギプスコアは1200年前後にカスティーリャ王国に帰属したが、トレビニョを除いて3県にはフエロ (Fuero) と呼ばれる自治権が認められた。

フランス・スペインの領土へ[編集]

1512年、アラゴン王フェルナンド2世の軍隊はナバーラ王国に侵攻、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ領を占領し、1515年に併合を宣言した。かくて南バスクはカスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国)の領土となる。いっぽう、ピレネー以北のバス=ナヴァール(低地ナヴァール)はナバーラ(ナヴァール)王の手に残り、独立を保ちつづけた。

1589年、ナバーラ(ナヴァール)王エンリケ3世はアンリ4世としてフランス王に即位し、ブルボン朝の始祖となった。ナヴァール王国はフランス王国と連合するようになり、実質的にその傘下となった。1620年、ナヴァール王国はフランス王国に編入されて州となった。

フランス領となった北バスクでは、ナバーラとその他の県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命が起こり、フランス共和国への中央集権化が進められると、北バスクの諸県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。

ナポレオンによるスペイン侵攻の間、南バスクの諸県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。

近代バスク民族運動の勃興[編集]





スペイン王国の法域を示す地図(1850年)。バスクでは、スペイン主要部と異なる法体系によって統治が行われていた
「バスク国民党」も参照

19世紀、スペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。スペイン側にとって、同じ王国内にありながら法域が異なり、関税がかかるという状況を改めることは、バスク側にとっては、中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。

19世紀後半に行われたカルリスタ戦争において、バスクは自治権を守るために、自由主義的な改革に反対するカルリスタと結んで戦った。しかし戦争は敗北に終わり、バスク地方は自治権を失った(徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った)。関税境界がバスクとスペイン側の国境から、バスクの中央を走っているスペイン・フランス国境へ移動した。このために、伝統的なパンプローナ−バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある密輸商売は消滅した。逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。





バラカルドにある、1898年にバスク国民党によって建てられた集会所(batzoki)。バルと政治集会の場を兼ねた。
カルリスタ戦争での敗北や、19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の影響を受け、バスク人はバスクをより近代的に変える思想と運動の再構築が試みられた。その中心人物にサビーノ・アラナ (Sabino Arana) 、ルイス・アラナの兄弟がいた。今日バスク国の旗として知られるイクリニャも、19世紀のバスク民族運動のシンボルとして生み出されたものである。1895年、サビーノ・アラナらによって、バスク民族主義者の政党としてバスク国民党(EAJ-PNV) が結党された。

バスク民族主義は、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。造船・冶金・小型兵器製造業といった産業は、ビルボや多くのギプスコアの都市を経済的中心に押し上げるとともに、影響力のあるバスク人ブルジョア階層を形成した。民族主義イデオロギーは、最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、ガリシア人移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。

アラナが興したバスク国民党は、民主主義的手段をもって、かつて認められていたかそれ以上の自治を目指した。バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。スペイン第二共和政(1931年〜1939年)は、スペイン内戦のさなかの1936年10月、バスク自治政府を認める。バスク自治政府は共和国側に立ち、フランコ軍と戦った。この内戦の中で、中世におけるバスクの自治の象徴であったゲルニカに爆撃を受けた。1937年6月、自治政府の首都である重工業都市ビルボがフランコ軍に占領され、自治政府は事実上活動を停止する。自治政府のビルボ撤退時、共和国政府は重工業施設を敵の手に渡すよりも破壊するように要請したが、バスクの民族主義者はこれに従わなかった。これは内戦後の復興に資することになる。

第二次世界大戦後[編集]

フランコ政権下でバスク民族主義者は強烈な抑圧を受けたが、数十年の間にそれは緩和された。ベネズエラとパリにバスク亡命政府が置かれたこともあったが、その活動は実態のない代表権と、困難な隠密活動に限られていた。その後、民族主義青年団 (EGI) の中に、即時行動を求める新グループを設立し分裂した。この新グループはエウスカディ・タ・アスカタスナ(バスク祖国と自由)と名乗り、現在ではETAとして知られている。後の非常に活発で過激な都市ゲリラ組織である。

スペインにおいて40年に及んだフランコ政権が終焉し、自由民主主義が取り戻されると、バスクにも自治をもたらすことになる。1978年、スペイン憲法によってバスク3県(アラバ・ビスカヤ・ギプスコア)にバスク自治州が設定され、1979年10月25日の国民投票で自治政府の行政機構を定めた地方自治憲章(ゲルニカ憲章)が承認された。一方、バスク3県と異なる歴史を歩んできたナバーラでは、親スペイン派の政党が政権を握ってきていたため、バスク州とは異なるナバーラ州となる道を選んだ。

バスク自治州では、穏健民族主義であるバスク国民党が州政府の与党を握ってきた。分離独立を求めるETAはテロリズムを繰り返し、2006年3月に「恒久的な休戦」を宣言するまでの38年間に800人以上のスペイン人死者を出した。休戦宣言の9ヵ月後の12月30日にバラハス空港の爆破事件を起こし、2007年6月には停戦破棄声明を出して爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていない。

ナバラ王国

ナバラ王国(ナバーラ王国とも、バスク語: Nafarroako Erresuma、スペイン語: Reino de Navarra、フランス語: Royaume de Navarre)は、中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国。824年バスク人の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、7世紀のスペインでの西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場している。



目次 [非表示]
1 起源
2 王国の興隆 2.1 拡大と分割
2.2 カスティーリャ、アラゴンへの併合と再独立

3 フランス人王朝
4 王国の衰退 4.1 フアン2世と後継者を巡る内乱
4.2 カトリック王フェルナンドの征服
4.3 バス=ナヴァール

5 参考文献
6 関連項目


起源[編集]

パンプローナ王国、のちのナバラ王国は、従来よりピレネー山脈西部の南側及びビスケー湾に居住していたバスクとガスコン(ガスコーニュ)などのヴァスコン族(Vascone)の地域の一部分を占めた。この国の起源の詳細は不明だが、ローマ人も西ゴート人もアラブ人も、常に自分たちの言語を守り通したこの西ピレネー地域を、完全に征服できた訳ではなかったと言うことである。6世紀中頃には、西ゴート王国の南西側からの圧力と、アキテーヌのフランク王国の勢力範囲の限界があったことにもよって、バスク族はピレネー山脈北側への大規模な移動を行い、独立を維持した。現在でもスペインのナバラ州北西部は主にバスク族で占められている。

王国の興隆[編集]

拡大と分割[編集]

史上最初のナバラ王国の王はアバルカというあだ名のあるサンチョ2世で、970年から994年までナバラ王及びアラゴン伯としてパンプローナを治めた。アラゴンの谷は母親から相続した。ジェーム・デル・ブルゴ(Jaime del Burgo)の『ナバラの概略史』によると、パンプローナ王が987年にアラスチュの邸宅をサンファン・デ・ラ・ペーニャに寄贈した際に、ナバラ王という称号をはじめて使用した。様々な場面で初代ナバラ王と名乗っていたが、第3代を名乗ることもあった。

サンチョ2世と次代の王の治世下、ナバラ王国は最大勢力に達した。サンチョ3世(サンチョ大王、在位:1000年 - 1035年)はカスティーリャ伯領の女子相続人ムニアドナと結婚した。その結果、ナバラ王国は当時のイベリア半島のキリスト教圏の大部分を支配し、その勢力圏は最大に達した。その後王国はレオン王国に属していたピスエルガ及びセアを制圧し、カスティーリャを得て、ガリシア国境からバルセロナまでの間を支配した。

大王の死後、領地は4人の息子に分割相続された。領土は再度ナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれたが、それぞれの地域をナバラのヒメノ王家が治めた。しかしその後(フェルナンド・カトリック王までは)大王の領土は融合することなく、カスティーリャはレオンと連合し、アラゴンは領土を拡大し、政略結婚を通じてカタルーニャと連合した。

カスティーリャ、アラゴンへの併合と再独立[編集]

ナバラ王国はその後独立を維持することが困難になり、近隣の大勢力の国々に依存することになる。ガルシア5世(1035年 - 1054年)の後、自らの弟に暗殺されたサンチョ4世(1054年 - 1076年)が治め、その後はアラゴン王がナバラ王国の地を治めることとなる。カスティーリャ王国はナバラ王国の西部を支配した。12世紀にはカスティーリャ王国は徐々にリオハとアラバを併合した。ナバラはアラゴンと連合(1076年 - 1234年)することにより東部の紛争を避けることが出来たが、西部はカスティーリャに取られたままとなった。1200年前後にはカスティーリャ王国のアルフォンソ8世が他のバスクの2地域(現在では県)であるビスカヤとギプスコアを併合した。タラソナは1134年のナバラの再独立後もアラゴンの所有のままとなった。バスクのビスカヤ統治はカスティーリャ保護下でも独立に近い状態が続き、そのため、これらの王子たちはビスカヤ統治公と呼ばれた。

サンチョ4世の暗殺(1076年)後、カスティーリャ王アルフォンソ6世とアラゴンのサンチョ・ラミレスは共同でナバラの統治にあたった。エブロ川以南の町とバスク地方がカスティーリャの統治となり、残りがアラゴン統治となり、1134年まで続いた。アラゴン統治者3代、サンチョ・ラミレス(1076年 - 1096年)と息子のペドロ・ラミレス(1094年 - 1104年)はウエスカを征服し、ペドロ・サンチェスの弟アルフォンソ・エル・バタラドール(戦闘王、1104年 - 1134年)は王国最大の領土拡張を達成した。ムーア人からトゥデラを奪取(1114年)し、1042年に失したブレバ全土を奪還し、ブルゴ州へと侵攻した。さらに、ロハ、ナヘラ、ログローニョ、カラオラ、アルファロは彼に従い、ギプスコアの港に戦艦を停泊させている間の短期間ではあるがバイヨンヌも従った。1134年、特に何事もなく彼が死んだ後は、ナバラとアラゴンは分離した。アラゴンでは聖職者であったアルフォンソの弟ラミロが王位に就いた。

ナバラでは、ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シッド)の孫であり、サンチョ大王の子ガルシア5世(ナバラ王としては3世)の庶流であるモンソン卿ガルシア・ラミレスが、大王の庶子ラミロ1世の系統であるアラゴン王家に奪われていたナバラ王位を、1134年に取り戻した。ガルシア・ラミレスは1136年にはリオハをカスティーリャに明け渡し、1157年にはタラゴナをアラゴンに明け渡し、さらにはカスティーリャのアルフォンソ7世の家臣だとも名乗ったりした。彼は全く無能であり、たびたび教会や修道院の収入の世話になっている。

ガルシア・ラミレスの息子サンチョ・ガルシア・エル・サビオ(賢王、1150年 - 1194年)は学習熱心の末、政治家としても有能となり、ナバラを内外共に強固にし、多くの町に憲章を制定し、戦争でも負けなかった。賢王は娘ベレンゲーラをイングランド王リチャード1世と結婚させることに同意する。ナバラまでピレネー山脈を越えやって来たリチャードの母アリエノール・ダキテーヌがベレンゲーラをシチリアへと連れて行き、まさに第3回十字軍に身を投じんとする息子に引きあわせ、1191年5月12日にキプロス島で2人は結婚した。彼女はイングランドに足を踏み入れなかった唯一のイングランド王妃である。

フランス人王朝[編集]

賢王の息子サンチョ7世が隠棲生活の後、1234年に死去した時、正嫡の子はおらず、ナバラ系ヒメノ家の男系は断絶した。そこで、サンチョの妹ブランカの息子でフランス貴族であるシャンパーニュ伯ティボー4世がテオバルド1世として王に迎えられた。その息子テオバルド2世(ティボー5世)はフランス王ルイ9世の王女イザベルと結婚するなど、フランス王家とは近い関係にあり、シャンパーニュ伯家(ブロワ家)はフランスでも屈指の名門貴族であった。そのためにイベリア半島の領地よりはフランスに関心が向けられ、ナバラは次第に衰退へと向かうことになる。

ブロワ家では1274年にエンリケ1世(アンリ3世)が没して男子が絶え、幼い娘フアナ1世(ジャンヌ)を女王としたナバラは周囲の諸国から狙われることになった。フアナの母でフランス王族であったブランシュはフランス王フィリップ3世に庇護を求め、王太子フィリップ(のちのフィリップ4世)とフアナの結婚が取り決められた。フィリップは1284年にナバラ王フェリペ1世となり(翌1285年にフランス王位も継承)、ナバラはフランスから総督を通じて統治されることになった。以後、カペー朝の断絶までフランスとナバラの同君連合は続いた。ナバラ王家の血を引かないヴァロワ家のフィリップ6世の即位によって1328年に同君連合は解消され、ルイ10世の娘ジャンヌ(フアナ2世)とその夫でフランス王族のエヴルー伯フィリップ(フェリペ3世)がナバラ王位に就いた。

エヴルー家のナバラ王はフアナとフェリペの孫カルロス3世(シャルル3世)で男子が絶え、1425年にカルロスの娘ブランカとその夫のアラゴン王子フアン(のちのフアン2世)が継いだ。

王国の衰退[編集]

フアン2世と後継者を巡る内乱[編集]

ナバラ女王ブランカ1世の夫フアン2世は、たびたび外征を重ねる兄アルフォンソ5世に代わってアラゴンを統治し、ナバラの統治を長男ビアナ公カルロスに任せた。ブランカは夫に先立って死去した際、カルロスが父の同意の下にナバラ王位を継承するよう遺言したが、フアンは同意を与えず、ナバラの王位継承法に反して王位にとどまった。カルロスには総督の地位のみが授けられた。1450年にフアンはナバラを自身の統治下に戻し、野心家の後妻フアナ・エンリケスから、彼らの間に生まれた息子フェルナンド(のちのカトリック王フェルナンド)をアラゴンおよびナバラの王位継承者とするように執拗に迫られた。その結果、王と王妃を支持した強力なアグラモンテス党と、カルロスの主張に賛同した大臣ボーモントのフアンを指導者とし、その名に由来するベアウモンテス党との間で激しい内乱が勃発した(ナバーラ内戦)。高地が王太子の側に、平野が王の側にあった。

不幸な王太子は、1451年にアイバルで父に敗れ、2年間投獄された。その間にカルロスは、この事件に関する現在の知識の典拠となったナバラの年代記を書いた。カルロスは釈放後、フランス王シャルル7世と伯父アルフォンソ5世(ナポリ在住)の支援をむなしく求めた。1460年、継母のそそのかしによりカルロスは再び投獄された。しかし、カタルーニャの人々がこの不正に抗議し、暴動を起こした。カルロスは再び解放され、カタルーニャの総督に任命された。カルロスはナバラ王国を奪回することができないまま、1461年に死去した。彼は相続人として同母妹ブランカを指名した。しかし、ブランカはフアン2世によって直ちに投獄され、1464年に死去した。

ブランカの権利は、フアン2世の同盟者であるフォワ伯兼ベアルン伯ガストン4世の夫人となっていた、同母妹のレオノールに受け継がれた。レオノールはフアン2世の死後間もなく死去したため、1479年にほんの僅か玉座にあっただけだが、彼女が死んだ後はその孫であるフォワ家のフランシスコ・フェボ(在位:1479年 - 1483年)が王位を継承した。早世したフランシスコも、次に王位に就いたその妹カタリナも未成年者だったため、2人の母であるフランス王シャルル7世の王女マドレーヌが摂政を続けた。

カトリック王フェルナンドの征服[編集]

カトリック王フェルナンドは、カタリナを長男フアンと結婚させようとしたが、彼女は南フランスに広大な領地を有するペリゴール伯兼アルブレ伯ジャン(ジャン・ダルブレ)との結婚を選んだ(1494年)。カトリック王フェルナンドはそれに懲りずに、ナバラに対して長く抱いてきた計画を諦めず、カタリナの従妹である自身の姪孫ジェルメーヌと再婚した(ジェルメーヌの父ジャン・ド・フォワは、兄の遺児カタリナを差し置いてナバラ王位を要求したこともあった)。ナバラはフランスに対する神聖同盟への加盟を拒んで中立を宣言し、フェルナンド軍の国内通過を妨害しようとしたため、後にフェルナンドは将軍ファドリケ・デ・トレド(第2代アルバ公)を1512年にナバラ侵攻のために派遣した。ジャン・ダルブレは逃れ、パンプローナ、エステーリャ、オリテ、サングエサ、およびトゥデラは占領された。ナバラ王家および神聖同盟のすべての敵対者は教会から破門されたため、ナバラの人々は、フェルナンドが1515年6月15日に王国領を獲得したと宣言した。王国領のうちピレネー山脈の北側については、フェルナンドは寛大にも敵に譲った。

カトリック王フェルナンドはジャン・ダルブレを破った後、1515年にナバラの大部分を自領に加えた。1511年または1516年に、スペインのナバラ、すなわち王国領の大部分にあたるピレネー山脈の南側部分は、最終的にフェルナンドによって併合された。後にフェルナンドは、この王国領を娘のカスティーリャ女王フアナ1世に譲った。このため、スペインのナバラはアラゴンではなく、カスティーリャの統治下にあると理解されることになった。しかし、スペインのナバラは副王領として統治され、公式には1833年までスペイン王国に併合されなかった。国土の2つの部分の歴史は、スペインのナバラがカトリック王フェルナンドに征服され、北側の一部がフランスに残る1512年までは同一である。

バス=ナヴァール[編集]

ナバラのピレネー山脈北側のわずかな部分は、低ナバラ(フランス語で Basse-Navarre:バス=ナヴァール)と呼ばれ、隣接するベアルヌ公領と共に、相続によって継承された小さな独立君主国として生き残った(この王国はフランスの封建制度下にあるため、日本語ではフランス語風に「ナヴァール王国」とも呼ばれる。以下その表記を使用する)。ナヴァールは、ジャンの息子アンリ2世の代から王国として承認され、代表議会、バイヨンヌとダクスの司教によって代表される聖職者ら、サン=ジャン=ピエ=ド=ポルの教区司祭、サン=パレ、ユトゥジア及びアランプレの小修道院長が置かれた。

1589年アンリ4世のフランス国王即位に伴いその政府がフランス政府に統合されたとき、それはまだ王国と呼ばれていた。アンリ4世以後、フランスの王はその称号に「ナヴァールの王」を追加した。バスク語はこの地方の大部分でまだ話されている。ナヴァール王アンリ3世がフランス王アンリ4世となり、フランスの王位によって統合した1589年まで、ピレネー山脈の北側地域、すなわちナヴァールはフランス人の土地を大きく加えた独立王国のまま存続した。ナヴァールはベアルヌ公領と統合し、フランスの州となった。

参考文献[編集]
レイチェル・バード 著、狩野美智子 訳『ナバラ王国の歴史 山の民バスク民族の国』(彩流社)

ヒメノ朝

ヒメノ朝 (ヒメノちょう、Dinastía Jimena)は、中世イベリアのバスク人王朝。パンプローナ王国(ナバーラ王国)の有力貴族で、バスク人の英雄イニゴ・アリスタの親族(諸説あり)ヒメノ1世により創始されたヒメノ家を起源とする。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 中世における隆盛
1.2 衰退とその名残

2 ヒメノ朝の君主 2.1 パンプローナ副王
2.2 ナバーラ王
2.3 アラゴン王
2.4 カスティーリャ王、レオン王

3 家系図
4 関連項目


歴史[編集]





11世紀時点でのヒメノ朝の領域。赤色がナバラ本領で、オレンジ色が本家の領地、桃色が分家の領地を指す。




サンチョ3世時代
中世における隆盛[編集]

イニゴ・アリスタ家に男子が絶えると、当時のヒメノ家当主サンチョ・ガルセス1世がアリスタの曾孫である女王トダを娶り、ヒメノ朝を創始した。サンチョ・ガルセス3世の治世では妻と母の領地を継承してカスティーリャ伯とアラゴン地方の支配者を兼ね、更に息子たちの婚姻外交や外征でカタルーニャ、レオン王国をも支配下に収めた。更に縁の深いガスコーニュの一部も獲得し、イベリアのキリスト教諸国を統一したサンチョ3世は「大王」「ヒスパニア皇帝」を自称し、後者に関しては正式な戴冠式を行っている。

サンチョ3世の帝国は死後に息子たちの領土分割で潰えたが、それが北イベリア諸国にヒメノ家が拡散する結果を生んだ。息子たちはレコンキスタの前半を主導してタイファ諸国と激しい戦いを繰り広げつつ、父祖の所領を統一しようとたびたび争った。また有力な者は再び「ヒスパニア皇帝」を自称した。

衰退とその名残[編集]

12世紀から13世紀の間に、ヒメノ家は各系統とも男子が絶え、歴史から姿を消し始める。しかしあくまで西欧的な王朝交代であり、後の諸王もイニゴ・アリスタやヒメノ1世、サンチョ3世の血を引いている。イベリアのキリスト教諸国が勢威を取り戻した時代に、ほぼ全ての有力国の王家に血を広めたヒメノ家は、決して少なくない影響をイベリア史に残している。

ナバーラ王国のヒメノ朝もサンチョ7世で断絶しているが、ヒメノ家の血を引くシャンパーニュ伯ティボー4世がテオバルド1世として王位を継承した。以後、ナバーラ王位はその血を引くフランスの貴族(カペー朝末期のフランス国王を含む)によって継承され、その末裔であるアンリ4世に始まるブルボン朝の歴代フランス王は、いずれも「フランスとナバーラの王」を称した。

ナバーラ王国は一方で、フランスへの統合以前にその大部分がアラゴン王フェルナンド2世に征服され、後のスペイン王国へ統合されているが、フェルナンド2世もその妻であるカスティーリャ女王イサベル1世も、カスティーリャ女王ウラカの血を引く(女系では他の系統の血も引く)トラスタマラ家の国王・女王である。その血はカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)からスペイン・ハプスブルク家へと受け継がれた。

ボルボン朝の初代国王フェリペ5世はブルボン・ハプスブルク両家の血を引いており、その末裔である現スペイン国王フアン・カルロス1世もまた、ヒメノ1世の末裔としてバスク人の血統を継いでいることになる。

ヒメノ朝の君主[編集]

パンプローナ副王[編集]
ヒメノ1世(9世紀頃) 初代パンプローナ王イニゴ・アリスタの分家筋とされる。
ガルシア・ヒメネス(9世紀頃)

ナバーラ王[編集]
サンチョ・ガルセス1世(905年 - 925年)アリスタ家の末裔トダと結婚
ヒメノ・ガルセス(925年 - 931年)
ガルシア・サンチェス1世(931年 - 970年)
サンチョ・ガルセス2世(970年 - 994年)
ガルシア・サンチェス2世(994年 - 1004年)
サンチョ・ガルセス3世(1004年 - 1035年) 大王・ヒスパニア皇帝
ガルシア・サンチェス3世(1035年 - 1054年)
サンチョ・ガルセス4世(1054年 - 1076年)
サンチョ5世ラミレス(1076年 - 1094年) アラゴン王サンチョ1世
ペドロ1世(1094年 - 1104年) アラゴン王ペドロ1世
アルフォンソ1世(1104年 - 1134年) アラゴン王アルフォンソ1世
ガルシア・ラミレス(1134年 - 1150年)
サンチョ6世(1150年 - 1194年)
サンチョ7世(1194年 - 1234年)

アラゴン王[編集]
ラミロ1世(1035年 - 1069年)
サンチョ・ラミレス(1069年 - 1094年)
ペドロ1世(1094年 - 1104年)
アルフォンソ1世(1104年 - 1134年)
ラミロ2世(1134年 - 1137年)
ペトロニラ(1137年 - 1164年)

カスティーリャ王、レオン王[編集]
フェルナンド1世(1037年 - 1065年、カスティーリャ伯:1035年 - 1037年)
サンチョ2世(カスティーリャ王:1065年 - 1072年、レオン王:1072年)
アルフォンソ6世(カスティーリャ王:1072年 - 1109年、レオン王:1065年 - 1072年、1072年 - 1109年)
ウラカ(1109年 - 1126年)

家系図[編集]
サンチョ・ガルセス1世以前の系図については諸説が存在する事に注意

























イニゴ・アリスタ
パンプローナ王







































































ガルシア・イニゲス
パンプローナ王







































































フォルトゥン・ガルセス
パンプローナ王























































ヒメノ1世
パンプローナ副王

アズナール・サンチェス
ララウン領主

フォルトゥス
パンプローナ王女

























































ガルシア・ヒメネス
パンプローナ副王





トダ
パンプローナ王女

































































ヒメノ・ガルセス
ナバラ王

サンチョ・ガルセス1世
ナバラ王























































































ガルシア・サンチェス1世
ナバラ王

ガリンデス
アラゴン伯女











































































































サンチョ・ガルセス2世
ナバラ王

ウラカ・フェルナンデス
カスティーリャ伯女



















































































































ガルシア・サンチェス2世
ナバラ王



















































































































サンチョ・ガルセス3世
ナバラ王
ヒスパニア皇帝































































































































































フェルナンド1世
カスティーリャ王
レオン王





























ガルシア・サンチェス3世
ナバラ王

ラミロ1世
アラゴン王















































































































サンチョ2世
カスティーリャ王

アルフォンソ6世
カスティーリャ王
レオン王

















サンチョ・ガルセス

サンチョ・ガルセス4世
ナバラ王

サンチョ・ラミレス
アラゴン王
ナバラ王























































































































ライムンド
ガリシア伯

ウラカ
カスティーリャ女王
レオン女王

テレサ

エンリケ
ポルトゥカーレ伯

ラミロ・サンチェス

ペドロ1世
アラゴン王
ナバラ王

アルフォンソ1世
アラゴン王
ナバラ王

ラミロ2世
アラゴン王























































































(イヴレーア家)
アルフォンソ7世
カスティーリャ王
レオン王









(ボルゴーニャ家)
アフォンソ1世
ポルトガル王





ガルシア・ラミレス
ナバラ王









ラモン・ベレンゲー4世
バルセロナ伯

ペトロニラ
アラゴン王











































































































サンチョ6世
ナバラ王













(バルセロナ家)
アルフォンソ2世
アラゴン王















































































































サンチョ7世
ナバラ王

ブランカ

ティボー3世
シャンパーニュ伯





























































































































(シャンパーニュ家)
テオバルド1世
ナバラ王







ペルピニャン

ペルピニャン(フランス語:Perpignan、カタルーニャ語:Perpinyà [pərpiˈɲa] パルピニャー)はフランス南部、ラングドック=ルシヨン地域圏、ピレネー=オリアンタル県の県庁所在地。周辺のコミューンを含め人口約28万人の都市圏を形成している。フランス領カタルーニャ(北カタルーニャ)の中心都市。



目次 [非表示]
1 地理
2 気候
3 歴史
4 史跡・行事
5 料理
6 産業
7 交通
8 環境対策
9 スポーツ
10 友好都市・姉妹都市
11 脚注
12 外部リンク


地理[編集]

市内をテート川(Têt)が流れ、川から市内に水を供給する数か所の灌漑用水路がある。

ペルピニャンは、ルシヨン平野 (Plaine du Roussillon) の中央に位置する。南はピレネー山脈、西はコルビエール地方 (Corbières) 、東は地中海、北はラバネール川である。

気候[編集]

地中海性気候であり、冬は温暖で氷点下まで冷え込む日は年4日ほどである。夏は暑くて乾燥するが、北西風トラモンターヌ (en:Tramontane) がしばしば吹き(日に4時間ほど)、夏には新鮮な空気をもたらす。年間平均気温は15.9℃である。夏期の最高気温は30℃を上回る。ペルピニャンのあるルシヨン平野は、フランス有数の暑い地域である。


[隠す]ペルピニャンの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




平均最高気温 °C (°F)
12.3
(54.1) 13.4
(56.1) 15.7
(60.3) 17.6
(63.7) 21.3
(70.3) 25.3
(77.5) 28.8
(83.8) 28.4
(83.1) 25.1
(77.2) 20.4
(68.7) 15.6
(60.1) 13.2
(55.8) 19.8
(67.6)

平均最低気温 °C (°F)
4.4
(39.9) 5.1
(41.2) 7.0
(44.6) 8.9
(48) 12.4
(54.3) 16.1
(61) 18.8
(65.8) 18.8
(65.8) 15.6
(60.1) 11.9
(53.4) 7.6
(45.7) 5.3
(41.5) 11.0
(51.8)

降水量 mm (inch)
50.6
(1.992) 44.8
(1.764) 43.5
(1.713) 55.9
(2.201) 50.1
(1.972) 28.3
(1.114) 17.1
(0.673) 32.0
(1.26) 47.3
(1.862) 89.8
(3.535) 58.6
(2.307) 54.4
(2.142) 572.4
(22.535)

平均降雨日数
5.2 4.7 4.5 5.9 5.5 4.1 3.0 3.9 4.2 5.1 5.1 5.3 56.5

平均月間日照時間
147.5 153.2 206.2 214.2 240.1 270.6 313.9 270.7 217.7 182.3 147.7 141.9 2,506
出典: Météo France[1]

歴史[編集]





現存する城壁
ローマ時代から人が定住していた。中世のペルピニャンの建設が始まったのは10世紀初め、927年に初めて地名ヴィラ・ペルピニナルム(villa Perpiniarum)として名が現れた。ルサリョー(フランス語ではルシヨン)伯領の本拠地としてである。1172年、ルサリョー伯ジラルドに嗣子がなくルサリョー伯家が断絶するとバルセロナ伯領に吸収され、アラゴン王国の一部となった。1197年、ペルピニャンは半自治的なコミューンとして法令を獲得した。アラゴン王ハイメ1世がマヨルカ王国を建国した1276年から1344年まで、本土にあるペルピニャンが王国の首都として黄金時代を迎えた。王国はバレアレス諸島、ルサリョー、サルダーニャを領有する他、モンペリエ領主でもあった。布地製造、革製品製造、金細工やその他手の込んだ工芸品の中心地として栄えた。アラゴンに対する十字軍遠征が不成功に終わった1285年、フランス王フィリップ3世は、ペルピニャンで病死した。

1344年、アラゴン王ペドロ4世がマヨルカ王国を併合すると、ペルピニャンは再びバルセロナ伯領となった。数年の後、ペルピニャンは黒死病の流行で人口のおよそ半分を失った。1463年、ルイ11世に攻撃され占領された。1473年、フランス支配に対する暴動は長い包囲戦の後無慈悲に弾圧された。しかし1493年、イタリア侵攻を自由に行うためにシャルル8世はカスティーリャ王国を懐柔しようと、ペルピニャンをフェルナンド2世(カスティーリャ王家であるトラスタマラ家と同族)へ割譲した。

1642年9月、三十年戦争の最中にフランス軍が再び包囲しペルピニャンを占領した。1659年、ピレネー条約によってペルピニャンを含むルサリョーはフランス領となった。

史跡・行事[編集]
サン=ジャン=バティスト大聖堂 (Cathédrale Saint-Jean-Baptiste de Perpignan) - 1324年から1509年にかけて建設された。
マヨルカ王国の王城 - 13世紀に建てられた。城壁はルイ11世とシャルル5世によって強化され、17世紀にはルイ14世に仕えた軍人ヴォーバンによって改善が加えられた。市街を取り囲んでいた城壁は、1904年に市域の拡大によって破壊され、現在は一部が残る。
セメーヌ・サント(Semaine Sainte) - カトリック教会の聖週間のこと。Sanchと呼ばれる礼拝行進が行われる。
中世市(Le marché médiéval) - 毎年9月に開催。







サン=ジャン=バティスト大聖堂







カタルーニャ時代の旧ジャナラリター(市代表部)庁舎







2007年のセメーヌ・サント。異様に見える衣装は告解者の扮装である







中世市。中世の衣装を身につける



料理[編集]

ペルピニャンの伝統料理は、明らかにカタルーニャ料理である。オリーブ・オイルをかけて食す野菜と魚介のグリル、エスカリヴァーダ (Escalivada) 、ポトフに似た伝統的な煮込み料理オジャーダ (Ollada) 、パエーリャの一種リズ・ア・ラ・カタラーナ (Riz à la Catalane) 、コリウールで水揚げされたアンチョビ、ヌガーなどがある。

産業[編集]

観光以外では、ワインやオリーブ・オイル、コルクの生産が主である。他に羊毛製品、皮革製品が知られる。

交通[編集]





BIP!のロゴが目印の貸し自転車鉄道 - フランス国鉄 (SNCF) のナルボンヌ=ポルトボウ線とLGVペルピニャン-フィゲラス線が通る。市の後背地では、ピレネー山中のモン=ルイへ向かうセルダーニュ線が通っている。TGVはパリ・リヨン駅およびリール・ユーロップ駅、シャルル・ド・ゴール空港第2TGV駅からの直通列車が設定されている。TERは、ナルボンヌ、カルカソンヌ、トゥールーズ、モンペリエ、マルセイユ方面の列車が発着する。
空港 - ペルピニャン=リヴサルト空港
道路 - オトルートA9がナルボンヌからバルセロナへと通じている。
貸し自転車 - 2008年2月より、ペルピニャン市の施策により、150台の自転車を集めた15箇所の貸し自転車ステーションが設けられた。

環境対策[編集]

2009年4月に、周辺の23自治体とともに、2015年までに太陽光と風力発電で地域内の民生部門電力を全て自給する計画を発表した。フランス国内最長の日照時間と、ピレネー山脈に沿って流れる風を利用し、約7万平方メートルのソーラーパネル、3箇所の太陽光発電所、40基の風力発電機、公共施設の屋根を全面太陽光パネル化、廃熱利用施設を1か所整備することで、年間消費電力である毎時437ギガワットに対応した毎時440ギガワットの電力生産を目指す[2] [3]。

スポーツ[編集]
USAペルピニャン - ラグビークラブ。フランス一部リーグTOP14所属。非常に熱狂的なサポーターを持つことで知られる。

友好都市・姉妹都市[編集]
ドイツの旗 ハノーファー、ドイツ
イギリスの旗 ランカスター、イギリス
アメリカ合衆国の旗 レイクチャールズ、ルイジアナ州、アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の旗 サラソータ、フロリダ州、アメリカ合衆国
レバノンの旗 ティルス、レバノン
スペインの旗 ジローナ、スペイン
スペインの旗 バルセロナ、スペイン
スペインの旗 フィゲーラス、スペイン
イスラエルの旗 Ma'alot-Tarshiha、イスラエル
ポルトガルの旗 タヴィラ、ポルトガル

ジャナラリター・デ・カタルーニャ

ジャナラリター・デ・カタルーニャ (カタルーニャ語:Generalitat de Catalunya 発音: [ʒənəɾəliˈtat də kətəˈluɲə])は、スペイン、カタルーニャ自治州の自治政府である[1]。議会(「州議会」とも。Parlament de Catalunya ; ca、es)、州政府首相(President de la Generalitat de Catalunya ; ca、es)、内閣(Govern de Catalunya ; ca、es)によって構成される。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 常設代表機関の誕生
1.2 最初の廃止
1.3 最初の復活
1.4 2度目の廃止
1.5 2度目の復活

2 現在の地位
3 政府の自治システム
4 スペイン国外での存在感
5 参照
6 外部リンク


歴史[編集]

常設代表機関の誕生[編集]

ジャナラリターは、バルセロナ伯ジャウマ1世(アラゴン王としてはハイメ1世)時代に、王が当時の社会的階層の代表を召集して面会するものであった、コルツ(Corts Catalanes ; ca、es、聖職者、軍人または貴族、市民代表の3身分で構成。コルテスに相当)にて誕生した。ペラ3世時代の1283年、バルセロナでのコルツにて、最初のカタルーニャ憲法が誕生した。この時期に、王は毎年通常のコルツを開催するよう義務化された。1289年、モンソンのコルツで、全体会議(Diputación del General)という、コルツが開催されない合間に常設代表機関を設置することが決められ、王に納める税金を集めることになった。この税金は一般的にジャナラリタツ(Generalitats ; ca、es)として知られ、王が戦費調達目的で行った。時を経て、税金から派生したジャナラリターという非公式の名が、全体会議の名に取って代わって常設代表機関を意味するようになった。

1358年から1359年にかけ、バルセロナ、ビラフランカ・ダル・パナデス、サルベラでコルツが開催された。このコルツで、税問題についての執行権を持つ12人の議員を選出した。同様に、ジャナラリター初代代表に選出されたジローナ司教バランゲーの権威の下で、幾人かの監督者たちが行政部門を管理していた。

マルティー1世が後継者を指名しないまま急逝したことで生じた空位時代、ジャナラリターが政治的な責任を負った。議員選出のシステムは一定の議論の対象であった。1455年のコルツでは、縁故者登用による寡頭政治を避けるため、投票を採用した。任期を満了する議員が、無作為に選ばれた12人の候補のうちから選ぶようにしたのである。中世後期のジャナラリターは、君主に次いでカタルーニャの主たる統治機関であった。

最初の廃止[編集]

ジャナラリターに依存していたカタルーニャの機関は、ピレネー条約の1年後にスペインからフランスへ宗主権が委譲されたことで、北カタルーニャ(現在のピレネー=オリアンタル県)で廃止された。

その後、18世紀初頭の新国家基本法(en)成立によって、スペイン領のカタルーニャにおいても廃止された。

最初の復活[編集]





ジュゼップ・タラデーリャス
スペイン第二共和政時代の1932年、カタルーニャの自治政府としてその近代政治性と代表的機能を与えられ、スペイン領カタルーニャにおいてジャナラリターが復活した。

1934年のスペイン総選挙で右翼同盟が勝利すると、ジャナラリターの左翼指導者たちがスペイン当局に対し反抗した。一時的に1934年から1936年までジャナラリターは停止させられた。1936年2月のスペイン総選挙でスペイン人民戦線が勝利するまで、停止は解除されなかった。

2度目の廃止[編集]

1939年、共和国側の敗退によってスペイン内戦が終結し、フランシスコ・フランコはジャナラリターの廃止を宣した。ジャナラリターとその代表は国外へ亡命し、その状態は1975年のフランコの死と1976年の自由選挙施行まで続いた。

2度目の復活[編集]

1939年から1977年まで、ジャナラリターとその代表は国外へ亡命したままであった。フランコ没後、マドリードの政府との合意によって、当時の亡命ジャナラリター代表ジュゼップ・タラデーリャス(es )はカタルーニャへ帰国し、スペイン政府によって合法的なジャナラリタ代表と認定された。カタルーニャへ帰国した際のタラデーリャスの第一声、Ciutadans de Catalunya: ja sóc aquí(カタルーニャ国民たちよ、今、私はここへ戻った)は、カタルーニャが自治を取り戻した瞬間、現代スペインの歴史的愛国主義の一つとしてしばしば引用される。

1977年9月、ジャナラリター・デ・カタルーニャは再びバルセロナのジャナラリター庁舎に入った。この後、1978年スペイン憲法によって自治権がジャナラリターに与えられた。カタルーニャにおける国民投票での承認とスペイン国会での可決を得て、1979年にカタルーニャ自治憲章(ca)が成立した。

現在の地位[編集]





現ジャナラリター代表アルトゥール・マス
現在の、選挙で選ばれたジャナラリター代表は、2010年11月カタルーニャ州議会選挙で勝利したアルトゥール・マス(ca)である。彼はカタルーニャ・ナショナリズム政党カタルーニャ民主集中党(Convergència Democràtica de Catalunya、略称CDC)とカタルーニャ民主同盟党(Unió Democràtica de Catalunya、略称UDC)の政党連合である集中と統一(略称CiU)の代表であり、2010年12月27日に就任した[2].[3]。前任は、カタルーニャ社会党(es、略称PSC)党首でもあるホセ・モンティージャ(es:José Montilla)で、カタルーニャ左翼共和党(ca、ERC)やカタルーニャ緑の党イニシアティブ(ca、ICV)などとの三党連立を基盤としていた。モンティージャの所属する社会党は実際、2006年カタルーニャ議会選挙(議席数が過半数に達した政党はなかった)において野党第一党のCiUに次いで議席数は2番目であった。しかし議会内で他党議員から彼は幅広い支持を集めており、彼の前任者(パスクアル・マラガイ)が23年間に及んだジョルディ・プジョール政権後初めてCiUを野党の地位にするため、繰り返し連立政権を発足させたように、複数政党による連立を繰り返していた。

2006年6月18日、改正カタルーニャ自治州法が承認され、8月から効力を発生した。改正法の議事開始において、自治州法改正は政権側である左翼政党及び野党第一党(CiU)からも支持された。これはスペイン政府レベルからの地方分権を要請するために足並みをそろえたものであった。自治州の会計と財源を増強し、カタルーニャの民族的アイデンティティーの認識を明らかにする目的もあった。しかし、自治州法改正の最終段階ではその細部について厳しく争われ、カタルーニャの政治シナリオにおける主な論争となっているものが主題となった。

政府の自治システム[編集]

ジャナラリターの執行部門は、代表、議会、内閣から構成される。一部の人々は、誤ってこの名前が執行部門のみならず内閣と意味が同じだとして用いる。しかし、ジャナラリター・デ・カタルーニャとは、カタルーニャ自治州の自治機構全体を指すのである。

1979年以降、カタルーニャは徐々に自治の割合を高めてきた。ナバーラ自治州とバスク自治州に次いで、カタルーニャはスペイン国内で最大級の自治政府を持っている。ジャナラリターは、文化、環境、電気通信、輸送、商業、公安、自治政府といった様々な事項で、高度で広範囲な管轄権を保持している[1]。教育、健康、司法に関係する多くの面では、州はスペイン中央政府と管轄を分担している [2]。

カタルーニャの自治の度合いを示す例の一つとして、独自の警察組織モソス・デスカドラー("La Policia de la Generalitat de Catalunya"とも。 : ca、en)がある。これは現在カタルーニャ州内で、グアルディア・シビルとスペイン国家警察隊(Policía Nacional)の持つ警察機能のほとんどを引き継いでいる。.

いくつかの例外を除き、司法制度は国の司法機関によって運営されている。法制度は民法を除いて、スペイン国内で統一されている。カタルーニャでは、民法が州内で独自に運用されている [3]。ジャナラリターから別の機関として発足しているが、そのチェックとバランス機能において独立した機関であるシンディック・ダ・グレウジェス(Síndic de Greuges ; ca)と呼ばれるオンブズマン[4]は、民間人または組織、ジャナラリターまたは地方自治体との間に生じる問題に対処する。

スペイン国外での存在感[編集]

現在のカタルーニャは、国際連合加盟国からもデ・ファクト国家からも、主権国家としてまったく承認されておらず、「スペインという主権国家の一自治体」とみなされている。しかし、近年のカタルーニャは徐々に、より高度な自治を獲得しており、ジャナラリター・デ・カタルーニャは国外の機関との二国間関係をほぼ確立している。ほとんどの場合、これらの関係はカナダ・ケベック州のような別の『国家でない国』(en:Stateless nations)の州政府とであるか [5]、アメリカ合衆国・カリフォルニア州のような政治権力のある準国家政体との間で結ばれている[6]。加えて、大半のスペイン自治州のように、カタルーニャはヨーロッパ連合のような国際機関において、恒久的な代表団を持っている[7]。

カタルーニャは世界中に40箇所以上の駐在員事務所を抱えている[8] [9]。これらの事務所のほとんどが、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルス、パリ、東京といった世界の主要都市に置かれている。それぞれの事務所は、省庁や部署によって特定の職務を持つ。一般的には、これらの事務所の機能はジャナラリターの、貿易、外国投資、カタルーニャ文化・言語支援、観光振興や国際協力活動といった、特定の利益を代表している [10] [11]。

フランスに属するピレネー=オリアンタル県は北カタルーニャと称されるが、特定の政治機関をもたない。しかし2003年9月5日以降、ペルピニャンにカサ・ド・ラ・ジャナラリタ(Casa de la Generalitat)が設置され、西仏国境の両側からのカタルーニャ文化振興及び交流促進を目指している[12]。

バルセロナ伯

バルセロナ伯 (カタルーニャ語:Comtes de Barcelona)は、9世紀から17世紀まで続いたカタルーニャの君主。



目次 [非表示]
1 概要
2 バルセロナ伯の一覧 2.1 群雄時代(801年から878年)
2.2 バルサローナ家(878年から1162年)
2.3 アラゴン家(1162年から1410年)
2.4 トラスタマラ家(1412年から1516年)
2.5 アブスブル家(1516年から1700年)
2.6 スペイン継承戦争(1700年から1714年)

3 関連項目
4 外部リンク


概要[編集]

バルセロナ伯領は、カール大帝がエブロ川の北の土地を征服後に創設した。これらの土地は、スペイン辺境伯領と呼ばれ、多様な伯領に分割されていた。バルセロナ伯領は常に他の伯領を同時に保有しており、その後すぐ一帯の第一位の座を獲得してきた。

伯領として一つの家系が世襲し、カペー朝がカロリング朝に取って代わった後すぐ、伯爵と宗主国・フランク王国との関係は弱まった。

11世紀、バルセロナ伯はアラゴン王国との同君連合(アラゴン連合王国)を形成、1人の君主の下で2カ国統治を行うようになった。1258年、フランス王がコルベイユ条約においてバルセロナ伯領への封建的な宗主権を放棄した(それまで、形式上はフランスがカタルーニャの宗主国のままであった)。

バルセロナはアラゴン王国の一部のままであり、1500年前後にはカスティーリャ王国と統合し、スペイン王国を形成した。伯領の最後の残存した証拠は、18世紀のスペイン継承戦争後取り除かれた。

バルセロナ伯は現在、スペイン国王が持つ世襲称号の一つとなって残っている。またスペイン国王の法定推定相続人たるアストゥリアス公も、カタルーニャ貴族としてサルベラ伯(Conde de Cervera)及びバラゲー領主(Señorío de Balaguer)の称号を有する。

20世紀、「バルセロナ伯」の称号が久方ぶりに公に現れた。亡命していたスペイン・ブルボン家の王位継承権保持者フアン・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグがバルセロナ伯とされたのである。フアンは長男フアン・カルロスが当時のスペインの独裁者フランシスコ・フランコによって後継者にされると、王位請求権を取り下げ、代わりに歴史ある王家の称号を欲したのである。フアン・カルロス1世は1975年のフランコの死で即位すると、1977年に父フアンの王位継承権を認め、バルセロナ伯の称号を与えた。フアンは1993年に亡くなるまでこの称号を保持し続けた。その後、バルセロナ伯の称号はフアン・カルロス1世へ返され(代わりにフアンはスペイン王を追尊された)、現在に至っている。バルセロナ伯フアンの未亡人マリア・デ・ラス・メルセデスは2000年に亡くなるまでバルセロナ伯妃(Comtessa de Barcelona)の称号を使用していた。

バルセロナ伯の一覧[編集]

人名はカタルーニャ語表記を優先する。

群雄時代(801年から878年)[編集]




肖像

治世

説明

ベラー 801年 - 820年 トゥールーズ伯ギヨームの子。同時にジローナ伯、バサルー伯、アウソーナ伯、ラゼースとコンフレン伯
ランポー 820年 - 826年 ジローナ伯、バサルー伯
ベルナト1世 826年 - 832年 トゥールーズ伯ギヨームの子。セプティマニア辺境伯
ベレンゲー 832年 - 835年 トゥールーズ伯
ベルナト
(Bernat) 836年 - 844年 シャルル2世の命で任命。
スニフレー1世 844年 - 848年 カルカソンヌ伯ベロの子、アウソーナ伯、バサルー伯、ジローナ伯、ナルボンヌ伯、アグド伯、ベジエ伯、ロデーヴ伯、メルゲイユ伯、サルダーニャ伯、ウルジェイ伯、コンフレン及びニーム伯
ギリェン
(Guillem) 848年 - 850年 ベルナト1世の子、トゥールーズ伯。反乱を起こして殺害された。
アレラン 850年 - 852年 イセンバルーと同治。アンプリアス伯、ルサリョー伯、セプティマニア辺境伯
イセンバルー 850年 - 852年 プロヴァンス伯グェランの子、アレランと同治。アンプリアス伯、ルサリョー伯およびセプティマニア辺境伯
オダリック 852年 - 858年 イストラ辺境伯スニフレーの子、ジローナ伯、ルサリョー伯、アンプリアス伯、セプティマニア辺境伯
ウンフリー 858年 - 864年 ラエティア伯ウンフリーの子、ジローナ伯、アンプリアス伯、ルサリョー伯、ナルボンヌ伯、ゴティア辺境伯
ベルナト2世
(Bernat II) 865年 - 878年 ポワティエ伯ベルナールの子、ジローナ伯、ゴティア及びセプティマニア辺境伯。反乱を起こした。





スペイン辺境伯領
バルサローナ家(878年から1162年)[編集]




肖像

治世

説明

ギフレー1世(スペイン語版)
(Guifré I)
多毛伯 (el Pelós) Wilfredo el Velloso 01.jpg 878年 - 897年 ギフレー・ダリアー伯の子。自身の子孫による世襲制を確立。
ギフレー2世ボレイ(スペイン語版)
(Guifré II Borrell) 897年 - 911年 ギフレー多毛伯の子
スニェー1世(スペイン語版) 911年 - 947年 ギフレー2世の弟。修道院へ引退する
ボレイ2世(スペイン語版) 947年 - 992年 スニェー1世の子
ミロー1世と共同統治(947年 - 966年)、ラモン・ボレイと共同統治(988年 - 992年)、
ウルジェイ伯(948年 - 992年)。サラセン人との戦いで西フランク王ロテールへ支援を依頼したが不成功に終わり、987年にユーグ・カペーをフランス王として承認するのを拒絶した。
ミロー1世(スペイン語版) 947年 - 966年 スニェー2世の子、ボレイ2世と共同統治。
ラモン・ボレイ(スペイン語版) 988年 - 1018年 ボレイ2世の子、父王とともに共同統治(988年 - 992年)。
バランゲー・ラモン1世(スペイン語版)
背曲がり伯 (el Corbat) 1018年 - 1035年 ラモン・ボレイの子。母親であるカルカソンヌ伯女エルメシンダが摂政を務め、彼はナバーラ王サンチョ大王の宗主権を認めることを強いられた。
ラモン・バランゲー1世(スペイン語版)
老伯 (el Vell) 1035年 - 1076年 バランゲー・ラモン1世の子
ラモン・バランゲー2世(スペイン語版)
糸屑頭伯 (el Cap d'Estopes) 1076年 - 1082年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるバランゲー・ラモン2世と共同統治。
バランゲー・ラモン2世(スペイン語版)
兄弟殺し伯 (el Fratricida) 1076年 - 1097年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるラモン・バランゲー2世と共同統治(1076年 - 1082年)。甥であるラモン・バランゲー3世と共同統治(1082年 - 1097年)
ラモン・バランゲー3世(スペイン語版)
偉伯 (el Gran) Ramon Berenguer III.jpg 1082年 - 1131年 ラモン・バランゲー2世の子
ラモン・バランゲー4世
聖人伯 (el Sant) Petronila Ramon Berenguer.jpg 1131年 - 1162年 ラモン・バランゲー3世の子。1137年、アラゴン王女ペトロニーラと婚約、1150年に結婚。





ラモン・バランゲー1世の墓碑
アラゴン家(1162年から1410年)[編集]

ラモン・ベレンゲー4世はアラゴン女王ペトロニラ(カタルーニャ語名パルネリャ)と結婚し、アラゴンとの同君連合(アラゴン連合王国)を成立させた。2人の息子であるアルフォンス2世はカタルーニャとアラゴンの君主位につき、バルセロナ伯領とアラゴン王国を共に統治した。アラゴン史ではこの王家はバルセロナ家と呼ばれている。




肖像

治世

説明

アルフォンス1世
純潔王 (el Cast)
吟遊詩人王 (el Trobador) Aragon 1162年 - 1196年 ラモン・ベレンゲー4世とアラゴン女王パルネリャの子
ペラ1世
(Pere I)
カトリック王 (el Catòlic) Pietro II d'Aragón.jpg 1196年 - 1213年 アルフォンス2世の子
ジャウマ1世
(Jaume I)
征服王 (el Conqueridor) Jaume I Palma.jpg 1213年 - 1276年 ペラ1世の子。1258年にコルベイユ条約を締結。これにより、カタルーニャはフランスの属国状態から脱する。
ペラ2世
(Pere II)
大王 (el Gran) PedroIII.jpg 1276年 - 1285年 ジャウマ1世の子
アルフォンス2世
自由王 (el Franc) Alifonso III d'Aragón.jpg 1285年 - 1291年 ペラ2世の子
ジャウマ2世
(Jaume II)
公正王 (el Just) Chaime II d'Aragón.jpg 1291年 - 1327年 アルフォンス2世の弟
アルフォンス3世
慈悲王 (el Benigne) Alifonso IV d'Aragón.jpg 1327年 - 1336年 ジャウマ2世の子
ペラ3世
(Pere III)
尊儀王 (el Cerimoniós)
el del Punyalet Pietro IV d'Aragón.jpg 1336年 - 1387年 アルフォンス3世の子
ジュアン1世
(Joan I)
狩猟王 (el Caçador)
不注意王 (el Descurat)
優雅者の愛好者 (l'Amador de la Gentilesa) Chuan I d'Aragón.jpg 1387年 - 1396年 ペラ3世の子
マルティー1世
(Martí I)
人文王 (l'Humà)
聖職者王 (l'Eclesiàstic) Marti l'humà.jpg 1396年 - 1410年 ジュアン1世の弟。男子後継者なしに亡くなる。

トラスタマラ家(1412年から1516年)[編集]

マルティー1世の死により、ギフレ多毛伯以来男系で世襲されてきたバルセロナ伯家が断絶した。カスペの妥協に至った2年後、カスティーリャ王家であるトラスタマラ家からフェラン1世を迎えた。フェランの母エリオノールがペラ4世の娘であり、最近親の男子であったためである。




肖像

治世

説明

フェラン1世
(Ferran I)
アンテケラ王 el d'Antequera Ferrando I d'Aragón.jpg 1412年 - 1416年 カスティーリャ王フアン1世と王妃エリオノール・ダラゴーの子
アルフォンス4世
寛大王 el Magnànim Alfonso-V-el-Magnanimo.jpg 1416年 - 1458年 フェラン1世の子
ジュアン2世
(Joan II) Chuan II d'Aragón.jpg 1458年 - 1479年 フェラン1世の子。最初の王妃であるナバラ女王ブランカの生んだ王子、ビアナ公カルラスとの対立から、国王派とビアナ公派に分かれて争うカタルーニャ内戦が起きた。
フェラン2世
(Ferran II)
カトリック王 el Catòlic Michel Sittow 004.jpg 1479年 - 1516年 ジュアン2世の子。カスティーリャ女王イサベルと1469年に結婚。

ジュアン2世の保持していたアラゴン王とバルセロナ伯の称号は、カタルーニャ内戦(1462年 - 1472年)の間、アラゴン王家の血を引く以下の人物たちによって争われた(バレンシア王の称号は含まれていない):

エンリック4世 Enrique IV.jpg 1462年 - 1463年 フアン2世と王妃マリア・ダラゴー・イ・アルブルケルケ(フェラン1世王女)の子。
ペラ4世 1463年 - 1466年 アヴィシュ家のコインブラ公ペドロとウルジェイ女伯エリサベの子。
レナト1世
(Renaut I) 04.Le roi Rene.jpg 1466年 - 1472年 アンジュー公ルイ2世とビオラン・ダラゴー(ジュアン1世王女)の子。

アブスブル家(1516年から1700年)[編集]

フェラン2世はカスティーリャ女王イサベル1世と結婚し、スペイン王国が成立した。彼の死後、ハプスブルク家の孫カルラスが継いだ。




肖像

治世

説明

カルラス1世
(Carles I) Emperor charles v.png 1516年 - 1556年 フェラン2世の孫
フェリプ1世
(Felip I) King PhilipII of Spain.jpg 1556年 - 1598年 カルラス1世の子
フェリプ2世
(Felip II) PhilipIIISpain.jpg 1598年 - 1621年 フェリプ1世の子
フェリプ3世
(Felip III) Philip IV of Spain.jpg 1621年 - 1665年 フェリプ2世の子

収穫人戦争の間、バルセロナ伯の称号をブルボン家のフランス王らが僭称した:

ルイ13世 Louis XIIIval grace.jpg 1641年 - 1643年
ルイ14世 Louis XIV of France.jpg 1643年 - 1652年


カルラス2世
(Carles II) Juan de Miranda Carreno 002.jpg 1665年 - 1700年 フェリプ3世の子。男子を残さなかったため家系が断絶した。

スペイン継承戦争(1700年から1714年)[編集]

スペイン継承戦争の間、スペイン王位(バルセロナ伯位も含む)を請求したのは以下の人物である。

カルラス2世没後、スペイン王位を継承したのはブルボン家のフェリプ4世であった。イングランド王国、ネーデルラント連邦共和国、オーストリアら大同盟諸国は、対立候補としてハプスブルク家のスペイン王位請求者カール大公(レオポルト1世の子)を推し、軍事支援を行った。カタルーニャは事実上フェリプを受け入れていたが、これをついにやめてしまった。1705年にカール大公はバルセロナに到着し、1706年にスペイン王であることを宣言した。

1705年から1714年まで続いた戦争の結果、カール大公の外国人同盟側が恩恵を受け、カタルーニャとアラゴンの両方にとっては災いとなった。1710年以後、バレンシアとアラゴンにおける独自の政治行政機構と特権が廃止された。1711年、兄ヨーゼフ1世の死により、カール大公は皇帝カール6世として即位するため、オーストリアへ戻った。大同盟諸国は、ハプスブルク家の領土拡大につながるとしてカール6世支持に消極的となり、フェリプ4世を推すスペイン・フランス側と交渉を始めた。徹底抗戦を呼びかけていたカタルーニャ、そして同時にスペイン王家に反旗を翻したバレンシアとアラゴンは、他勢力からの支援を失い、スペイン・フランス両軍の侵入で国土が荒廃した。ユトレヒト条約によって、カタルーニャの抵抗運動は封じられた。1714年9月11日にバルセロナがスペイン軍によって陥落した。




肖像

治世

説明

フェリプ4世
(Felip IV) Felipe V; Rey de España.jpg 1700年 - 1714年 フランスのドーファン・ルイの子。1700年から1705年までバルセロナ伯と承認された。
カルラス3世
(Carles III) Carles-III-de-Catalunya.jpg 1705年 - 1714年 神聖ローマ皇帝レオポルト1世の子。1705年から1714年までバルセロナ伯と承認された。

1707年から1716年の間に、フェリプ4世は全領土を中央集権体制下のスペイン王国に統一した。バルセロナにおいて、1716年1月の新国家基本法(en)によって、ジャナラリター、コルツといった中世以来の組織が全て廃止された。マドリードから軍・民両方を統括する総督が派遣され、大学が廃止された。カタルーニャ法は廃止され、公の場でのカタルーニャ語の使用も禁止された。バルセロナ伯の称号は、独立したカタルーニャ君主が名乗るものではなく、スペイン王が名乗る多くの称号の一つにすぎなくなったのである。

カタルーニャ君主国

カタルーニャ君主国またはカタルーニャ公国(カタルーニャ語: Principat de Catalunya, アラン語: Principautat de Catalonha, アラゴン語: Prencipato de Catalunya, スペイン語: Principado de Cataluña, フランス語: Principauté de Catalogne, ラテン語: Principatus Cathaloniae)は、イベリア半島北東部にかつて存在した国家。現在は大半がスペインのカタルーニャ州に属し、一部がフランス南部ピレネー=オリアンタル県となっている。「君主国」ないし「公国」という呼称については後述する。

カタルーニャ君主国は、レコンキスタ時代に生じたスペイン辺境領の別々の伯爵領が、バルセロナ伯の支配下で連合したものである。1137年、アラゴン女王ペトロニラ(パルネリャ)とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、アラゴン連合王国の一部と見なされるようになったが、実際はカタルーニャ君主国とアラゴン王国は対等な関係であった。ラモン・ベレンゲー4世の子アルフォンソ2世は、アラゴンではアラゴン王ではあったが、カタルーニャではバルセロナ伯アルフォンス1世を名乗った。

カタルーニャ君主国という呼称はスペイン第二共和政時代まで使用されたが、君主制との歴史的関係を理由に使用されなくなった。現在でも時折使われることがある。[要出典]



目次 [非表示]
1 カタルーニャの成立 1.1 1283年のカタルーニャ憲法
1.2 中世以後のカタルーニャ

2 「君主国」という呼称
3 言語
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


カタルーニャの成立[編集]

イベリア半島の地中海沿岸地方のように、古代ギリシャ人がロザス(現ジローナ県の自治体)を植民地化した。ギリシャ人・カルタゴ人はどちらもイベリア人住民に影響を及ぼした。カルタゴの敗退後、ローマ属州ヒスパニアの一部となり、首都タラッコ(現在のタラゴナ)がイベリア半島におけるローマの駐屯地となった。





アラゴン王国の家系を示す絵。ラモン・バランゲー4世と女王ペトロニラ、2人の長男であるアルフォンソ2世が描かれている。
ローマ帝国の崩壊後、事実上西ゴート族が支配したが、8世紀にアルアンダルスのムーア人が権力を掌握した。太守のアブドゥル・ラフマーン・アル・ガフィキワ軍が732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで退けられると、ムーア人が治めていたかつての西ゴート王国領をフランク人が征服した。そしてカタルーニャ北部の諸伯領とは同盟関係を結んだ。795年、カール大帝はスペイン辺境領の名で知られる緩衝地帯を創設した。この緩衝地帯は、地元諸侯が治める別々の小王国からなるセプティマニア地方を越え、ウマイヤ朝支配下のアルアンダルスのムーア人とフランク王国間の防衛用の盾にされた。

カタルーニャ文化は中世に発展を始めた。カタルーニャ北部の至る所で小さな伯領が組織され、これらの弱小国からカタルーニャ文化が生まれた。バルセロナ伯はフランク王国に臣従を誓っていた(801年から987年まで)。

987年、バルセロナ伯ボレイ2世はユーグ・カペーを(西)フランク王と承認するのを拒否し、これによってバルセロナ伯はフランク王国のくびきから脱した。1137年、バルセロナ伯ラモン・ベレンゲー4世はアラゴン女王ペトロニラ(パルネリャ)と結婚、アラゴン王国との同君連合によるアラゴン連合王国が成立した。

1258年のコルベイユ条約締結までは、フランス王は公式にカタルーニャ君主国及びアラゴン王国への封建的宗主権を放棄しなかった。この条約は、フランス支配からアラゴン人の支配への合法な過渡期の中で、カタルーニャを事実上の独立国家へと転換させたものである。これは歴史的な不平等も解消した。アラゴン王国の一部として、カタルーニャは大きな海事力を持つようになり、バレンシア、バレアレス諸島、サルデーニャ島やシチリア島までの貿易や征服の拡大が進んだ。

1265年、バルセロナにおける市議会として百人議会(en、クンセイ・ダ・サン)が誕生した。議員定数100人と決められていたことからこの名がついた議会は、カタルーニャにおける地方自治の象徴であった。

1283年のカタルーニャ憲法[編集]





1413年に編纂されたカタルーニャ憲法
初めてのカタルーニャ憲法はハイメ(ジャウマ)1世時代の1283年にバルセロナで開催されたカタルーニャ議会(コルテスと同義で、カタルーニャ語ではコルツ)から生まれた。この時、全ての法律の成立にコルツの承認が必要とされることが決められた。1192年以降から行われているコルツは、最初カタルーニャ各地を巡回して開催された。最後の憲法は1702年の議会によって発布された。カタルーニャの憲法及び他の権利の編集は、ローマ法典の伝統にならった。13世紀からの歴史を持つジャナラリター・デ・カタルーニャ(議会の常設代表部。現在のカタルーニャ自治州政府もジャナラリターを名乗る)は、ヨーロッパ大陸最初の政府の一つであった。やがてジャナラリターは、王が不在であったり、戦争のような非常事態になれば、君主に代わってカタルーニャを統治した。

中世以後のカタルーニャ[編集]





現在のジャナラリター庁舎
カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド(フェラン)2世の結婚によって、イベリア半島のキリスト教王国が(ポルトガル王国、および1513年に併合されたナバラ王国を除いて)統合された1492年、最後まで残っていたグラナダ周辺のアル=アンダルスの残党が征服され、レコンキスタが完了した。そして同時期にはアメリカ大陸進出が始まった。政治的権力はアラゴンからカスティーリャへ移り始め、その結果としてカタルーニャはスペイン帝国の一部となり、世界征服のためヨーロッパで頻発する戦争に従事した。

長期間、カタルーニャは独自の法と憲法を維持し続けた。しかしこの法的・行政的特権は、封建国家から近代国家へと移り変わり、スペイン継承戦争の結果カタルーニャがブルボン家に最終的に敗退させられるまで、可能な限りカタルーニャから権力をもぎ取ろうとするスペイン王との格闘が続き、徐々に浸食されていった。続く数世紀以上の間、カタルーニャは、スペインでのさらなる中央集権化へ結びつく連戦で、全般的に敗者の側であった。フェリペ4世が締結した1659年のピレネー条約後、ルサリョー、クンフレン、ヴァリャスピー、サルダーニャ北部がフランスへ割譲された。近年のこの一帯は北カタルーニャ(フランス語名:ルシヨン)として知られている。





1659年のピレネー条約で分断されたカタルーニャ君主国




バルセロナ包囲戦
フランスへ割譲された旧カタルーニャ領ではカタルーニャ憲法が抑圧され、カタルーニャ語の公での使用が禁止された。現在、この地域はピレネー=オリアンタル県となっている。

スペイン継承戦争において、カタルーニャはハプスブルク家のカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)を担いで敗退した。第3次バルセロナ包囲戦の終わった1714年9月11日は、現在カタルーニャの公式の休日となっている。勝者となったブルボン家のアンジュー公フィリップはフェリペ5世として即位し、新国家基本法(Nueva Planta decrees)によってアラゴン連合王国の旧制度、そして残存するカタルーニャ憲法全て(その他コルツ、ジャナラリター、百人議会も同様)を廃止し、行政・司法の場でのカタルーニャ語の使用を禁じた。

18世紀と19世紀の間、スペイン支配下のカタルーニャは、対アメリカ大陸貿易の解禁(それまでは対アメリカ貿易参加をカタルーニャは禁じられていた)、スペイン政府による保護貿易政策実行によって恩恵を受け、スペインにおける産業革命の中心となった。今日までカタルーニャは、マドリードやバスク州と共にスペインで最も工業化の進んだ地域のままである。20世紀に入ってからの30年間、スペイン領カタルーニャは数度にわたって多様な自治権を得たり失ったりした。しかしスペインの他の地方のように、カタルーニャの自治権と文化は、スペイン内戦(1936年 - 1939年)でスペイン第二共和政が打破された後に権力を掌握したフランシスコ・フランコの独裁政権によって、弾圧を受けた。公共の場でのカタルーニャ語の使用は、事実上の復権期間後に再度禁止された。

フランコ独裁は、1975年の彼の死とともに終わった。その後のスペインの民主体制への以降において、カタルーニャは政治的・文化的な自治を回復した。現在はカタルーニャ自治州となっている。それに比べ、北カタルーニャの自治権ははるかに制限されている。

「君主国」という呼称[編集]





15世紀のジャナラリターの図
カタルーニャ君主国という名称は、カタルーニャ語ではPrincipat de Catalunya、英語ではPrincipality of Cataloniaとなる。日本語ではprincipalityは通常、公国または大公国と訳されるため、「カタルーニャ公国」と訳されることも多い。これは誤りではないが、公(プリンス、prince)が統治した国ではないため、本項では「君主国」の訳語を採っている[3](後述のように「君主国」ないし「公国」は誤解に由来する名称であり、「公国」はこの誤解を正しく反映した、ある意味正確な訳語である)。

バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世はアラゴン女王ペトロニラと結婚した際、2人の間の子孫が「バルセロナ伯」に加えて「アラゴン王」を称することとしたが、自身は女王の王配として「プリンケプス」(princeps、貴族の第一人者を意味するラテン語)を称した。

プリンケプスの称号が(アラゴン王国においてであるが)使用されたのは、長男アルフォンソ(アルフォンス)2世が成人し、アラゴン王兼バルセロナ伯(その支配領域にはカタルーニャを含む)となるまでの短い期間であった。成人したアルフォンソ2世もその子孫たちも二度とプリンケプスを使わず、アラゴン王を称した。

14世紀、カタルーニャのローマ法学者は、上述の「プリンケプス」を領主の称号としての意味(すなわち通常「公」と訳される意味)と解釈した。したがってその領地を「公国」(principatus)、すなわちカタルーニャ公国(カタルーニャ君主国、Principatus Cathaloniae)と呼び、王国の地位を持っていないことを明示した。例えば、1362年から1363年アラゴンにおけるコルツ法令(Actas de las cortes generales de la Corona de Aragón 1362-1363)に見られるようにである[4]。公的記録上、「カタルーニャ君主国」という語の初出は、1350年パルピニャー(現ペルピニャン)でペドロ(ペラ)4世臨席の下に開かれたコルツにおけるものである。

当時、別にバルセロナ伯領(Comitatus Barchinone)という語も使われていたが、バルセロナ伯の支配下には、本来の意味のバルセロナ伯領以外にもウルジェイ伯領のような多くの伯領が加わっていた。このためバルセロナ伯領の支配する領地全体を指す別の名称を作る必要が生じており、カタルーニャ君主国という名称が適当と考えられたのである。カタルーニャは、それぞれバルセロナ伯領とその他の伯領を包含する地域名だったからである。

「カタルーニャ君主国」あるいはその省略形としての「君主国」という用語は、カタルーニャという地域そのものの多様な定義ともあいまって、長く公的な地位を持つに至らなかった[5][6]。しかしのちにフェリペ5世がヌエバ・プランタ法令においてカタルーニャ地域の領土を記述するためにこの語を用い、公的用語としても定着した[7]。1931年、スペインの共和主義勢力はこの名称を廃止する途を選んだ。歴史的に、この用語が君主制(monarchy)と関係していたためだった。

カタルーニャ自治憲章 (en) 、スペイン1978年憲法、フランス共和国憲法のいずれにもこの「カタルーニャ君主国」なる語は現れない。しかしカタルーニャのナショナリストや独立運動家の間では(両者とも大部分は共和制支持であるにもかかわらず)、割合に人気のある呼び方である。[要出典]

言語[編集]

カタルーニャの中核を構成するのは、カタルーニャ語話者である。カタルーニャ語は、イベリア半島で話されるイベロ・ロマンス語と主にフランスで話されるガロ・ロマンス語の特徴を併せ持っているため、言語学者によって、イベロ・ロマンス語に分類されたり、あるいはガロ・ロマンス語に分類される。

カタルーニャ自治法によって、カタルーニャ語はカタルーニャ州における3つの公用語の1つとされる(その他はスペイン語(カスティーリャ語)と、オック語に近いアラン語)。北カタルーニャでは、カタルーニャ語は公用語となっていない。

トラスタマラ家

トラスタマラ家(スペイン語:Casa de Trastámara)は、イベリア半島を発祥とする王家。14世紀から16世紀にかけて、イベリア半島(カスティーリャ王国、アラゴン王国、ナバラ王国など)、南イタリア(シチリア王国、ナポリ王国)を支配した。



目次 [非表示]
1 概要
2 系図 2.1 王位についた人物
2.2 カスティーリャ=レオン王家
2.3 アラゴン=カタルーニャ王家、ナバラ王家
2.4 ナポリ王家

3 関連項目


概要[編集]

家名のトラスタマラは、始祖であるカスティーリャ王エンリケ2世(生没年:1333年 - 1379年)が即位前にトラスタマラ伯であったことに由来する。エンリケ2世はブルゴーニュ(イヴレーア)家のカスティーリャ王アルフォンソ11世の庶子であったが、第一次カスティーリャ継承戦争において嫡子である異母弟ペドロ1世を倒し、1369年に王位に就いた。カスティーリャ王位はその後フアン1世(1358年 - 1390年)からエンリケ3世(1379年 - 1406年)、そしてその子孫へと継承された。

一方、エンリケ3世の弟フェルナンド1世(1380年 - 1416年)は、母方の伯父であるバルセロナ家のマルティン1世に嗣子がなかったことから、1412年にアラゴン王に選ばれ、併せてシチリア王位も継承した。その子アルフォンソ5世(1396年 - 1458年)はナポリ王国を1442年に獲得した。アルフォンソ5世には嫡子がなかったため、アラゴンとシチリアの王位は弟フアン2世(1397年 - 1479年)が継承したが、ナポリの王位は庶子フェルディナンド1世(1423年 - 1494年)の家系に継承された。

フアン2世はまた、これに先立つ1425年に妃ブランカ1世がナバラ王位を継承したことで、自身もナバラ王となった。しかし、2人の末娘レオノール(1426年 - 1479年)の死後、ナバラ王位は一旦トラスタマラ家から離れた。

これらの諸国は、カトリック両王と称されたカスティーリャ女王イサベル1世(1451年 - 1504年)とアラゴン王フェルナンド2世(1452年 - 1516年)の結婚、およびフェルナンド2世の征服によって大部分が統合された。また、両王の下でグラナダ王国が征服され、レコンキスタが終焉を迎えた。このうちイベリア半島の諸国から、今日に至るスペイン王国が形成された。一方、南イタリアはフェルナンド2世以降、ナポレオン戦争の時代を除いて一人の君主の下に治められるようになった。そして海外植民地や南イタリアの諸国も含めて、両王の娘フアナ(1479年 - 1555年)の長男であるハプスブルク家のカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に受け継がれ、スペイン・ハプスブルク朝が成立する。

系図[編集]

以下は男系による区分で、呼称は便宜上のものである。
 :カスティーリャ系
 :アラゴン系
 :ナポリ系

王位についた人物[編集]

代表的な王位のみを記す。


エンリケ2世
カスティーリャ王











































































フアン1世
カスティーリャ王































































































エンリケ3世
カスティーリャ王









フェルナンド1世
アラゴン王













































































フアン2世
カスティーリャ王





フアン2世
アラゴン王

アルフォンソ5世
アラゴン王





















































































エンリケ4世
カスティーリャ王



レオノール
ナバラ女王











フェルディナンド1世
ナポリ王







































































イサベル1世
カスティーリャ女王

フェルナンド2世
アラゴン王





アルフォンソ2世
ナポリ王

フェデリーコ1世
ナポリ王

























































フアナ
カスティーリャ女王









フェルディナンド2世
ナポリ王










カスティーリャ=レオン王家[編集]



















































































































































マリア・デ・ポルトゥガル

アルフォンソ11世

レオノール・デ・グスマン





































ペドロ1世
ポルトガル王























































































































































ペドロ1世

ペドロ4世
アラゴン王

フアナ・マヌエル

エンリケ2世

ファドリケ・アルフォンソ

サンチョ・デ・アルブルケルケ

ベアトリス・デ・ポルトゥガル

フェルナンド1世
ポルトガル王

































































































































































































































































ジョン・オブ・ゴーント
ランカスター公

コンスタンサ

マルティン1世
アラゴン王

レオノール

フアン1世

ベアトリス
ポルトガル女王



























































































































































































カタリナ

エンリケ3世

フェルナンド1世
アラゴン王

レオノール・デ・アルブルケルケ









(エンリケス家)

















































































































































イサベル・デ・ポルトゥガル

フアン2世



マリア

アルフォンソ5世
アラゴン王



マリア

フアン2世
アラゴン王

フアナ・エンリケス























































































































































































































































































フアナ・デ・ポルトゥガル

エンリケ4世

ブランカ

































































































































イサベル1世



アルフォンソ

アフォンソ5世
ポルトガル王





フアナ・ラ・ベルトラネーハ



















フェルナンド2世/5世
アラゴン王兼カスティーリャ王













































































































































































































































































































































































































イサベル

マヌエル1世
ポルトガル王

マリア

フアン
アストゥリアス公

マルグリット

フィリップ美公

フアナ

カタリナ

ヘンリー8世
イングランド王

































































































































































































































































ジョアン3世
ポルトガル王

エンリケ1世
ポルトガル王

イザベル









レオノール



カール5世/カルロス1世
神聖ローマ皇帝
スペイン王

フェルディナント1世
神聖ローマ皇帝
ハンガリー王
ボヘミア王





メアリー1世
イングランド女王










































































































アラゴン=カタルーニャ王家、ナバラ王家[編集]

バレンシア、マヨルカ、シチリアの王位はアラゴン王位と兼位された。

エンリケ2世
カスティーリャ王

フアナ・マヌエル









































































































































































































































































































































フアン1世
カスティーリャ王

レオノール

フアン1世
アラゴン王

マルティン1世
アラゴン王

レオノール

カルロス3世
ナバラ王





































































































































































フェルナンド1世

レオノール・デ・アルブルケルケ

マリア
シチリア女王

マルティーノ1世
シチリア王

ブランカ1世
ナバラ女王













































































































































































































































アルフォンソ5世





マリア

フアン2世
カスティーリャ王

















フアン2世
兼ナバラ王

フアナ・エンリケス











レオノール

ドゥアルテ1世
ポルトガル王









































































































































































































フェルディナンド1世
ナポリ王



カルロス
ビアナ公



エンリケ4世
カスティーリャ王

ブランカ

レオノール
ナバラ女王

ガストン4世
フォワ伯



フェルナンド2世
兼カスティーリャ王
ナバラ王

イサベル1世
カスティーリャ女王



フアナ

アフォンソ5世
ポルトガル王



フアナ・デ・ポルトゥガル







































































































































































































































































































































































































































































































マドレーヌ・ド・フランス

ガストン・ド・フォワ
ビアナ公

マリー・ドルレアン
ルイ12世の姉

ジャン・ド・フォワ
ナルボンヌ子爵



マルグリット・ド・フォワ

フランソワ2世
ブルターニュ公































































































































































































フランシスコ1世
ナバラ王

カタリナ
ナバラ女王

ガストン・ド・フォワ
ヌムール公

ジェルメーヌ・ド・フォワ



シャルル8世
フランス王

アンヌ・ド・ブルターニュ
ブルターニュ女公

ルイ12世
フランス王
























ナポリ王家[編集]















































































































ヒラドルナ・デ・カルリノ

アルフォンソ5世/1世
アラゴン王兼ナポリ王

マリア・デ・カスティーリャ

フアナ・エンリケス

フアン2世
アラゴン王

ブランカ1世
ナバラ女王

























































































































イザベッラ・ディ・キアロモンテ

フェルディナンド1世

ジョヴァンナ(フアナ)









フェルナンド2世
アラゴン王



レオノール
ナバラ女王

ガストン4世
フォワ伯











































































































































































































































イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ

アルフォンソ2世

フェデリーコ1世

イザベッラ・デル・バルツォ

ベアトリーチェ
ハンガリー王妃



ジョヴァンナ



ジャン・ド・フォワ
ナルボンヌ子爵

マリー・ドルレアン





































































































































フェルディナンド2世











フェルディナンド
カラブリア公



























ジェルメーヌ・ド・フォワ

カスペの妥協

カスペの妥協(スペイン語:Compromiso de Caspe、カタルーニャ語:Compromís de Casp)は、1412年にカスペで成立した、アラゴン王国、カタルーニャ君主国、バレンシア王国(これらはアラゴン連合王国を構成する)の各国代表による決議およびその合意内容のこと。これは1410年にバルセロナ家のアラゴン王マルティン1世が後継者を定めないまま没した後の空位を解消するためのもので、カスティーリャ王子であったトラスタマラ家のフェルナンド1世が後継者に選出された。



目次 [非表示]
1 概要
2 カスペの妥協以後
3 系図
4 脚注
5 参考文献


概要[編集]

当時のアラゴン連合王国には明確な王位継承法が存在せず、継承者の決定は何らかの法律というよりは慣習に基いていた。また判例法も存在していなかった。当時、アラゴン=カタルーニャにおける王位の継承はすべて、長男・次男・長女(娘しかいない場合)へと行われていた。しかし、それまでの継承履歴はアラゴン王家の娘やその娘への継承よりも男系相続が優先されていたことを示していた。例として、マルティン1世は長兄フアン1世に娘ビオランテがいたにもかかわらず王位を継いでいる。しかし、過去の男子相続は11世紀後期、ペトロニラ女王がナバラにいたヒメノ家の同族(ナバラ王ガルシア・ラミレスら)を差し置いて即位したことで断絶していた。また、ペトロニラの息子アルフォンソ2世の王位継承によってバルセロナ家がヒメノ家に代わるアラゴンの王家となり、カタルーニャとの同君連合はこの時に成立していた。

J.N ヒルガースはこう記述している:



男系子孫の中では、マルティン1世に最も近い血統を持つのはウルジェイ伯ジャウマ(スペイン語名:ウルヘル伯ハイメ)であった[1]。

またT.N.ビッソンはこう記述している:



…王位継承は単純な正当性というよりはむしろ政治的な問題であり、王朝に何らかの縁のある候補者のうちでいずれの者が最良の王となるだろうか、という実際的な問題である[2]。

有力な候補者は以下の人物であった(年齢は1410年末時点)。
ルナ伯ファドリケ(es, 1402年 - 1438年、8歳) - マルティン1世と王妃マリア・デ・ルナ(en, 1358年 - 1406年)の唯一の男子だった若マルティン(シチリア王マルティーノ1世)の庶子。王妃マリアと同じルナ家出身の教皇ベネディクトゥス13世がファドリケを正当な継承者として認めていた。
ウルジェイ伯ジャウマ2世(en, 1380年 - 1433年、30歳) - アルフォンソ4世の男系の曾孫で、マルティン1世が王国の長官職に任命していた。マルティンの従兄の子にあたり、またマルティンの異母妹イサベル(en, 1380年 - 1424年、30歳)と結婚していた。
ガンディア公アルフォンソ(es, 1332年 - 1412年、78歳) - ハイメ2世の男系の孫。マルティン1世の父ペドロ4世の従弟にあたる。候補者の中で最高齢である上、系図でも上位であった。アラゴン王候補の最右翼とされていたが、1412年に死去した。
ルイ3世・ダンジュー(1403年 - 1434年、7歳) - アンジュー公、プロヴァンス伯およびナポリの対立王ルイ2世・ダンジュー(1377年 - 1417年、33歳)の長男。母ヨランド(ビオランテ、1384年 - 1442年、26歳)はフアン1世の王女で、マルティン1世の姪にあたる。
フェルナンド・デ・アンテケラ(1380年 - 1416年、30歳) - カスティーリャ王子。当時のカスティーリャ王フアン2世(1405年 - 1454年、5歳)の叔父で摂政も務めていた。母レオノール(1358年 - 1382年)はペドロ4世の王女でマルティン1世の同母妹。

アラゴン、バレンシア、カタルーニャの議会または政府間の交渉は、新王に関わる様々な利害、貴族の派閥抗争、ウルジェイ伯支持者らの性急ぶり、そしてカスティーリャ王子フェルナンドの軍の干渉などのため、困難を極めた。マルティン1世は孫であるファドリケを後継に望んでいたとされるが、庶出であることが問題となった。ガンディア公アルフォンソが血統では優位であったが、決定前に死去した。その後、マルティン1世に長官職を与えられ厚遇されていたウルジェイ伯ジャウマが本命候補となった。しかし彼はその専制的な政治姿勢が災いし、ジャナラリター・デ・カタルーニャをないがしろにする者と警戒されていた。また、ベネディクトゥス13世はイベリア半島へ自身の影響力を伸ばすために、カスティーリャ王子フェルナンドを推していた。

各国代表者として法律に精通した者たちが各3人ずつ任命され(1412年2月15日、アルカニス)、彼らはサラゴサ近郊のカスペに集まって正統性主張者らを吟味した。代表者は以下の人物たちである。
ウエスカ司教ドメネク・ラム
ベネディクトゥス13世の全権大使フランセスク・デ・アランダ
アラゴン王国のコルテス代表ベレンゲル・デ・バルダイシー
タラゴナ大司教ペレ・デ・サガーリガ
バルセロナ評議員ベルナト・デ・グアルベス
カタルーニャのコルテス代表ギリェン・デ・バイセカ
ポルタセリ修道院長ボニファシ・フェレール
ドミニコ会派聖職者ビセンテ・フェレール
ペレ・ベルトラン - 法に精通していることでバレンシア代表となった

1412年6月28日、6票(アラゴン3票、バレンシア2票、カタルーニャ1票)を獲得したカスティーリャ王子フェルナンドが、フェルナンド1世として即位した。アラゴン王家(バルセロナ家)の血を引いているとはいえ、3カ国の臣民は外国人の王を戴くことを選択したことになる。それには、投票で選ばれた王ならば、各国の自治制度(3カ国とも独自の法体系を持っていた)を尊重するに違いないという期待が働いていた。その期待は、結果的にはフェルナンド1世の後継者たちによって裏切られることになる。

カスペの妥協以後[編集]

バルセロナ家の別系統が治めていたシチリア王国は、1377年にフェデリーコ3世の死により男系男子が絶えた後、1392年にマルティン1世(母レオノールはフェデリーコ3世の姉)と息子の若マルティン(マルティン1世の異母姉コンスタンサとフェデリーコ3世の娘マリア女王と結婚)によって征服されていたが、マルティン1世の死後は在地の貴族たちが内紛によって消耗していた。そのため、2年間の空位を経た後もアラゴン王に対抗する余力がなく、翌1413年にカターニアの議会でフェルナンド1世をシチリア王として承認した。

カスペの妥協によって王位請求権の問題は完全に決着したわけではなかった。有力候補でありながら王位を得られなかったウルジェイ伯ジャウマ2世はただちに兵を挙げたが、フェルナンド1世に敗れ、翌1413年から20年間幽囚の身となってそのまま死去し、これによりバルセロナ家の正嫡の男系男子は絶えた。その間、1416年にフェルナンド1世の長男アルフォンソ5世が王位を継承している。

また、1458年にアルフォンソ5世の後を継いだ弟フアン2世に対して起こったカタルーニャの内乱 (en) が1462年から1472年まで続く間に、対立王としてフアン2世の甥であるカスティーリャ王エンリケ4世、ウルジェイ伯ジャウマ2世の外孫でポルトガル王族のペドロ・デ・コインブラ、ルイ3世・ダンジューの弟ルネ・ダンジューが次々とバルセロナ伯に選ばれた(彼らはアラゴン王も称したが、バレンシア王位はフアン2世が終始保っていた)。ルイ3世・ルネ兄弟との間では、他にもアルフォンソ5世がナポリ王位の継承権を争い、1442年に獲得を果たしている。なお、若マルティンの後妻であったナバラ王女ブランカがフアン2世の最初の妻となっており、フアンのアラゴン王位継承以前の1425年に共同でナバラ王位を継承している。

1479年にアラゴン王位を継いだフアン2世の息子フェルナンド2世は、すでに1474年に妻イサベル1世とともにカスティーリャ王位についており、これによってアラゴン連合王国とカスティーリャの連合が新たに成立し、スペイン王国へと統合されていくことになる。

系図[編集]





















ハイメ2世
(1)

ブランカ・デ・ナポレス









































































































































































































アルフォンソ4世
(2)

テレサ・デ・エンテンサ













ペドロ

フアナ・デ・フォワ































































































































































レオノール・デ・シシリア

ペドロ4世
(3)

シビラ・デ・フォルティア

ジャウマ1世
ウルジェイ伯

セシリア・デ・コミンゲス

アルフォンソ
ガンディア公

























































































































































































































































































































































ビオランテ・デ・バル

フアン1世
(4)

マルティン1世
(5)

マリア・デ・ルナ

レオノール

フアン1世
カスティーリャ王



















ペラ2世
ウルジェイ伯

マルガリタ・デ・モンフェラート

































































































































ルイ2世
アンジュー公

ビオランテ

タルシア・リッツァーリ

マルティーノ1世
シチリア王

カタリナ・デ・ランカステル

エンリケ3世
カスティーリャ王

フェルナンド1世
(6)

レオノール・デ・アルブルケルケ

イサベル

ジャウマ2世
ウルジェイ伯



































































































































































































ルイ3世
アンジュー公

ルネ
ナポリ王

ファドリケ
ルナ伯

イサベル・デ・ポルトゥガル

フアン2世
カスティーリャ王



アルフォンソ5世
(7)



マリア

フアン2世
(8)

フアナ・エンリケス

エリサベ
ウルジェイ女伯

ペドロ
コインブラ公





























































































































































イサベル1世
カスティーリャ女王





エンリケ4世
カスティーリャ王

















フェルナンド2世
(9)









ペドロ5世




































































































































凡例 :マルティン1世没後の王位請求者
 :フアン2世およびその対立王
( ):アラゴン王、バルセロナ伯、バレンシア王位の継承順(対立王を除く)

アラゴン王国

アラゴン王国(アラゴンおうこく、アラゴン語:Reino d'Aragón カタルーニャ語:Regne d'Aragó スペイン語:Reino de Aragón)は、中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペインのアラゴン州に存在した王国。



目次 [非表示]
1 起源
2 アラゴン連合王国 2.1 カタルーニャとの連合
2.2 地中海への発展
2.3 ナポリ王国の領有
2.4 カスティーリャとの連合

3 年表
4 関連項目
5 外部リンク


起源[編集]

アラゴン王国はナバーラ王(イベリア王とも自称した)サンチョ3世(在位:1004年 - 1035年)による庶子ラミロ1世への領土分割に端を発する。サンチョ3世は大王と称される傑物で、イベリア半島北方のレオン王国のベルムード3世をガリシアへ敗走させ、カスティーリャ伯爵領(カスティーリャ王国の前身)を1029年、妃マヨールに継がせるなど、イベリアのキリスト教世界に覇を唱えた人物である。サンチョ大王は死に臨んで、息子たちに遺領を分割した。当時、アラゴン川流域のチャカ(アラゴン語;スペイン語ハカ)を中心とするアラゴンの領域は庶子ラミロ1世に与えられ、国王の称号も許された。アラゴン王国の成立である。12世紀レコンキスタ(再征服運動)の進展とともに、アラゴン王国はより広いエブロ川流域に進出し、1118年にはアルフォンソ1世がサラゴサの町をイスラム教徒から奪回した。以後サラゴサはアラゴン王国の都となっている。

アラゴン連合王国[編集]

「アラゴン連合王国」も参照

カタルーニャとの連合[編集]

カタルーニャはアラゴンとは別の起源をもつ地域で、801年にカロリング王朝のルイ敬虔王が南フランスからピレネー山脈を越え、イベリア半島北西部のバルセロナをイスラム教徒から奪回したのが始まりである。フランク王国のスペイン辺境伯領として成立し、住民は南フランスのセプティマニアから来た者が多かった。このため今日でもこの地方の言語(カタルーニャ語)はスペインの他地域とは異なる。やがてフランク王国の解体によって政治的に自立し、現在のカタルーニャ州に当たる地域はバルセロナ伯領(カタルーニャ君主国)となった。アラゴン王家はこのバルセロナ伯家と通婚を重ね、1137年にアラゴン王ラミロ2世の一人娘ペトロニーラ女王とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、両家の連合が成立した。アラゴン、バルセロナともそれぞれ別のコルテス(議会)を持ち、法制度の違いも残ったが、2人の間の子アルフォンソ2世以降はバルセロナ家の君主の下に統合された。こうしてアラゴン連合王国と呼ばれる同君連合が成立した。

地中海への発展[編集]





アラゴン王国 (濃) と アラゴン連合王国 (淡)
強大化したアラゴン連合王国はレコンキスタを加速化させ、1229年にはハイメ1世がイスラム教徒が支配するバレアレス諸島を占領し、1238年にはバルセロナの南にあるイスラムのバレンシア王国を征服した。これによってイベリア半島におけるレコンキスタは一応終結し、アラゴン王国はバルセロナを拠点に地中海へ発展していく。1282年シチリア島民がフランス・アンジュー家の圧政に反して蜂起したシチリアの晩鐘事件が起こると、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王として迎えられた。これ以後、アラゴン王家の分家が代々シチリアを支配することになる。またサルデーニャ島の領有権をイタリアのジェノヴァ共和国と争ったこともある。アラゴン王家とは無関係であるが、東ローマ帝国に傭兵として雇われたアラゴンとカタルーニャの騎士たち(アルモガバルス)が反乱を起こし、1311年から1390年頃までアテネ公国を支配したこともあった。

ナポリ王国の領有[編集]

アンジュー家はナポリ王国でさらに100年近く続いたが、女王ジョヴァンナ2世の時代に後継問題がこじれて内紛が起こる。後継者のいないジョヴァンナ2世はフランスのアンジュー公ルネを後継指名したり、アラゴン王国のアルフォンソ5世に指名を変えたりと、気の変わりやすい女王だった。このためナポリ王国の政治に巻き込まれたアルフォンソ5世は、本国の政治を妃マリアに任せてナポリを征服し、1443年には「両シチリア王」を称してイタリアの政治に深くかかわることになる。アルフォンソ5世没後はその弟フアン2世が本国とシチリアなど旧来の領土を受け継いだが、ナポリの王位はアルフォンソの庶子ドン・フェランテ(フェルディナンド1世)に与えられた。中世ヨーロッパでは私生児が君主になることは珍しく、ローマ教皇はドン・フェランテのナポリ王位を無効とした。これに乗じてヴァロワ朝のフランス王シャルル8世が1494年ナポリに侵攻し、ナポリ王位に就くが、シャルルの即位は関係諸国の反感を買った。結局ナポリのフランス軍はアラゴン王フェルナンド2世の軍勢によって追放され、ナポリはアラゴン王家の領土となる。

カスティーリャとの連合[編集]

1469年、アラゴン王太子フェルナンド(後のフェルナンド2世)がカスティーリャ王女イサベル(後のイサベル1世)と結婚し、1479年にはアラゴン王国とカスティーリャ=レオン王国の同君連合が形成された。いわゆるスペイン王国(Monarquía Española)の成立である。ローマ教皇アレクサンデル6世はこの2人を「カトリック両王」と呼んだ。ただし各地方はそれぞれ独自のコルテス(身分制議会)や法制度を有し、自治制度が尊重された(この自治制度の温存がスペインを近代的国民国家に変質させる最大の足かせともなった)。1492年にはイベリア半島に最後まで残ったイスラム王朝のグラナダ王国も征服され、同年にはクリストファー・コロンブスが新大陸を発見する。もっとも、アメリカ大陸への進出はもっぱらカスティーリャ人によって担われ、アラゴン人、カタルーニャ人はバルセロナを拠点に地中海で活躍することになる。しかしカスティーリャ王国との連合、スペイン王国の成立は、アラゴン王国の地位を低下させることとなった。両国の国力の差は歴然で、次第にカスティーリャ王国を中心に統合され、さらにスペインの政策が地中海から新大陸へと移ったことで地中海への影響力は弱体化し、16世紀以降、西地中海にまで影響力を拡大したオスマン帝国によって、地中海帝国の座を奪われていった。

その後、スペイン継承戦争を経てスペイン・ブルボン朝の支配が確立し、18世紀初めには、新国家基本法により旧来の政治機構は解体されて中央集権化が図られた。かつてのアラゴン連合王国としてのイタリアの領土は、ブルボン家の分家によって支配される事となった。

年表[編集]
1035年 アラゴン王国(Reino d'Aragón)成立、初代国王ラミロ1世即位。
1118年 アラゴン王アルフォンソ1世のサラゴサ占領。
1137年 アラゴン王国とバルセロナ伯国の連合によるアラゴン連合王国(Corona d'Aragón)の成立。
1229年 アラゴン王ハイメ1世、バレアレス諸島を占領(1235年まで)。
1238年 アラゴン王ハイメ1世、バレンシアを占領。
1258年 アラゴン王ハイメ1世とカペー朝フランスのルイ9世が条約締結。
1282年 アラゴン王ペドロ3世、シチリア島を領有(シチリアの晩鐘事件)
1343年 アラゴン王ペドロ4世、バレアレス諸島を併合。
1412年 カスペの妥協(アラゴン王フェルナンド1世即位)。トラスタマラ朝の成立。
1442年 アラゴン王アルフォンソ5世、ナポリ王国を領有。
1469年 アラゴン王子フェルナンド(のちのフェルナンド2世)、カスティーリャ王女イサベル(のちのイサベル1世)と結婚。
1479年 アラゴン王国とカスティーリャ王国の同君連合の成立(スペイン王国(Monarquía Española)の成立)。

関連項目[編集]
アラゴン君主一覧
バルセロナ伯
アラゴン連合王国
カタルーニャ君主国
バルセロナ家
トラスタマラ家
カスペの妥協

イベリア半島

イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。

イベリアの名は、古代ギリシア人が半島先住民をイベレスと呼んだことに由来する。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域を指した言葉である。一方、イベリア半島を属州としたローマ人たちは、この地をヒスパニアと呼称したが、このラテン語に由来して現在の「スペイン」(英語名)は「イスパニア」とも「エスパーニャ」とも呼ばれるようになった。



目次 [非表示]
1 概要
2 存在する国家
3 歴史 3.1 旧石器時代
3.2 新石器時代
3.3 青銅器時代
3.4 ローマ帝国による統治
3.5 イスラムによる統治
3.6 レコンキスタから現代まで

4 脚注
5 参考文献
6 関連項目


概要[編集]

面積は約59万平方km、形状は東西約1100km、南北約1000kmのほぼ方形をなす。北緯44度と北緯36度、西経9度と東経3度の間に広がっている。半島の付け根にあたる北東部は、幅約30キロにわたりピレネー山脈[1]によってフランスと画されている。一方、南西端は最も狭いところが約14キロのジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸と向かい合っている。半島の周囲8分の7にあたる4000キロを上回る海岸線は、地中海と大西洋に大きく開かれている。
北にはピレネー山脈、ビスケー湾(ビスカヤ湾)、カンタブリア海
南にはジブラルタル海峡、アフリカ
東には地中海、バレアレス諸島
西には大西洋

存在する国家[編集]
スペイン
ポルトガル
アンドラ
イギリス(ジブラルタル)

歴史[編集]

旧石器時代[編集]

イベリア半島に人類が居住していた形跡は約50〜40万年前に溯る。これら最古の住人は原人類で、火を使い、石斧・石刃をはじめとする石器をつくり、洞窟に住んでいた。

1848年、半島南端のジブラルタル付近で化石人類の人骨が発見された。その後も数カ所で発見された化石人骨は、いずれもネアンデルタール人に属する。約20万年前頃には活動しており、氷河期最後のビュルム氷河期までその活動は続いた。現生人類のホモ・サピエンスの活動は、このビュルム氷河期に始まった。クロマニョン人がピレネー山脈を越えてフランス方面からやって来たと見られている。彼らが残した文化は、マドレーヌ文化と呼ばれる。日常の道具は、狩猟漁労の石刃・鑿・鏃・弓矢・石の銛・石槍などと釣り針などの骨角器が発明された。洞窟に住み、壁面や岩に牛や山羊などの動物を描いた。これらの遺跡はピレネー山脈を間に挟んで、南フランス・ドルドーニュ地方と、北スペイン・カンタブリア地方に分布する。これらは紀元前2万5000年から紀元前1万年までの間に描かれたと見られている。このうち代表的なものはアルタミラ洞窟で、約1万5000年前ごろのもので、1879年に発見された。壁画を描いた目的は、狩りの成果を祈る呪術的なものであったとされている。

新石器時代[編集]

約1万年前に氷河時代が終わり、気候は温暖化した。地質年代では、完新世に入った。この頃のイベリア半島では、人類の活動は低調であった。アジル文化[2]、アストゥリアス文化[3]、洞窟壁画などの遺跡が残っている。ちょうどその時期には、地中海東端メソポタミアで農耕は始まっており、紀元前5000年紀か前4000年紀にイベリア半島を伝播した。当時の農耕は素朴なものであったが、まもなく大規模な農耕文化が伝わり、イベリア半島は新石器時代に入っていった。この時期の文化は半島の東南部の地中海沿岸地方に多く見られる。とりわけ半島南部のアルメリアが農耕文化受容の拠点の一つと考えられている。代表的な遺物に籠目(かごめ)模様の土器[4]とドルメン(支石墓)[5]がある。

青銅器時代[編集]

新石器時代と明確な区分はないが、紀元前2500年頃に青銅器時代に入る。はじめに銅器が、次いで青銅器が用いられるようになった。これらの金属器は、地中海を渡って伝播してきたが、鉱山資源が豊富な半島なのでそのうちに自作するようになった。農耕文化受容の拠点であったアルメリアでは、早くから銅器が用いられ、紀元前2000年頃に最盛期を迎えた。アルメリア文化と呼ぶ。集団埋葬の墳墓から推定して、氏族社会であったと考えられている。紀元前1500年頃には青銅器の使用が始まり、紀元前100年頃まで繁栄した。代表的な遺跡名からエル・アルガール文化(青銅器文化)と呼ぶ。この頃から籠や壺形の甕棺を用い、個人別に家屋の地下に埋葬された。この文化は半島全域に広がり、錫を産出する西部のガリシア地方と並んで二大中心地と成り、東部地中海地方や南部都市との交易も盛んになった。さらに大西洋を越えたブルターニュやアイルランドなどとの交易も盛んに行われた。紀元前1000年頃を境に、半島の青銅器文化は沈滞していった。しかし、青銅器時代に培った地中海文化圏やヨーロッパ先史文化圏との強い結びつきが、これ以後も引き続き諸民族と交流していく。

ローマ帝国による統治[編集]

古くはローマ帝国の支配にまで遡る。

イスラムによる統治[編集]

ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが711年ウマイヤ朝のターリク・イブン=ズィヤードにより西ゴート王国は滅亡、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝が代わって支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡、後ウマイヤ朝を建てる。

レコンキスタから現代まで[編集]

イベリア半島北部においては、アラゴン王国やレオン王国、カスティーリャ王国、ポルトガル王国などのキリスト教国が建国され、レコンキスタを推し進めていった。一方、南部においては、1031年に後ウマイヤ朝が自滅し、多数のイスラム系小王国(タイファ)が割拠する状態となった。後に、アフリカ大陸のイスラム王朝であるムラービト朝、その後ムワッヒド朝の支配下に置かれた。

次第に力をつけていったキリスト教国は、イスラム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年にはアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の結婚によりスペイン王国が成立、レコンキスタに拍車がかかり、1492年にはイベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝が滅ぼされ、イベリア半島からイスラム王朝は完全に駆逐された。

以降はスペイン王国とポルトガル王国がイベリア半島を支配することになった。

ジブラルタルの岩

ジブラルタルの岩(ジブラルタルのいわ、英: Rock of Gibraltar、The Rock(ザ・ロック)、羅: Calpe[1]、亜: جبل طارق‎、Jabal Tariq(ターリクの山)、西: Peñón de Gibraltar)は、ヨーロッパのイベリア半島南端にあたるジブラルタルにある、岬をなす一枚岩の石灰岩[2]。高さ426メートル。この山はイギリス領であり、スペインと国境を接する。ジブラルタルの主権は、スペイン継承戦争の後、1713年にユトレヒト条約によってスペインからイギリスに移った[3]。2002年時点で、イギリスとスペインは「この山を巡る何世紀にもわたる領有権問題に終止符を打つ」べく協議している[4]。山頂近くの殆どは自然保護区となっており、約250頭のバーバリーマカクの棲家となっている。これらの猿と、迷宮のような地下道網は、毎年多くの観光客を呼び寄せている。

ザ・ロックは、ジブラルタル海峡を挟んだ対岸の北アフリカのモンテ・アチョ(英語版)あるいはイェベル・モウッサ(英語版)にあるもう一つの山と共にヘラクレスの柱をなし、古代ローマ人から「カルプ山」と呼ばれていた。かつてここは世界の最果てとみなされ、その神話は元はフェニキア人が育んだものである[2][5]。



目次 [非表示]
1 地質
2 要塞 2.1 ムーア城
2.2 地下道
2.3 第二次世界大戦とその後
2.4 難攻不落

3 山頂近辺の自然保護 3.1 動植物相 3.1.1 鳥


4 脚注
5 参考文献
6 関連項目


地質[編集]

ザ・ロックは岬をなす一枚岩であり、ひっくり返った褶曲が深く侵食し、各所に断層が生じている。ザ・ロックを構成する堆積岩地層は、天地逆にひっくり返っており、古い地層が新しい地層の上に横たわっている。これらの地層はカタラン・ベイ(英語版)頁岩層(最新)、ジブラルタル石灰岩、リトル・ベイ頁岩層(最古)、ドックヤード頁岩層(年代不明)である。これらの地層は著しく断層が生じ、変形している[6]。

カタラン・ベイ頁岩層は、殆どが頁岩からなる。これは、茶色の石灰質の砂岩、柔らかい頁岩質の砂岩と濃紺の石灰岩が交互に重なった層、緑がかった灰色の泥灰土(英語版)と濃い灰色のチャートが交互に重なった層、それらからなる厚い層を含む。カタラン・ベイ頁岩層には、同定はできないがウニの棘、ベレムナイト類(英語版)のかけら、稀にジュラ紀前期のアンモナイトも見られる[6]。

ジブラルタル石灰岩には、灰色がかった白あるいは薄灰色の、目の詰まった、時にきれいに結晶化した、中程度あるいは厚い石灰岩と苦灰岩からなり、そこにはチャートの薄い層が含まれる。この地層は、ザ・ロックの約 1/3 を占める。地質学者たちはここから、原型をとどめず激しく侵食・変形した様々な海洋生物の化石を発見してきた。ジブラルタル石灰岩で発見された化石には、様々な腕足動物、サンゴ、ウニのかけら、(アンモナイトを含む)腹足綱、二枚貝、ストロマトライトがある。これらの化石は、ジブラルタル石灰岩が堆積したのがジュラ紀前期であることを示す[6]。

リトルベイ頁岩層とドックヤード頁岩層がザ・ロックに占める割合は非常に少ない。リトルベイ頁岩層は、紺色がかった灰色の、化石を含まない頁岩であり、天然砥石、泥岩、石灰岩の薄い層が交互に層になっている。これはジブラルタル石灰岩により先に形成された。ドックヤード頁岩層は年代不明のまだらの頁岩で、ジブラルタルの造船所と護岸構造物の下に横たわっている[6]。

これらの地質学的な岩層は、1億7500万年〜2億年前のジュラ紀初期の間に堆積したものであるが、これが現在のように地表に現われたのはもっと最近、約500万年前のことである。アフリカプレートがユーラシアプレートと激しく衝突した時、地中海は湖となり、メッシニアン塩分危機の間、長い年月をかけて完全に干上がっていった。その後、大西洋はジブラルタル海峡から堰を切って流れ込み、その洪水が地中海を形成した。ザ・ロックは、南東イベリアを特徴づける山脈である Baetic 山地の一部となっている[6]。





サン・マイケル洞窟(英語版)の内部
今日、ザ・ロックはスペイン南岸からジブラルタル海峡へ突き出た半島を形成している。この岬は、最高で標高3メートルの砂洲で本土とつながる陸繋島である[7]。ザ・ロックの北面は、海面高度から標高411.5メートルのロック・ガン砲台まで垂直に切り立っている。ザ・ロックの最高地点は、海峡を見下ろすオハラ砲台の標高426メートル地点にあたる。ザ・ロックの中心部にある頂点はシグナル・ヒルと言い、標高387メートルである。ザ・ロックの東側は殆ど崖になっており、その下の風が吹きつける一続きの砂の傾斜地は海面が今より低かった氷河期まで遡る。ザ・ロックの基部から東へは砂の平地が延びている。ジブラルタルの町がある西面は、比較的傾斜は緩やかである。





ザ・ロックの頂上から北を望んだパノラマ写真
石灰岩を形成する方解石は、雨水で徐々に溶かされる。時と共に、この作用は洞窟を形成する。これにより、ザ・ロックには100以上の洞窟が存在する。ザ・ロックの西斜面中程にあるサン・マイケル洞窟(英語版)は、その中でも最も有名なもので、観光名所になっている。

ゴーラム洞窟(英語版)は、ザ・ロックの険しい東斜面の海面近くにある。ここは考古学的発掘調査の結果、3万年前にネアンデルタール人が住んでいた証拠が見つかったという点で特記すべきものである。また洞窟内(及び周辺)で見つかった植物と動物の遺物は、ネアンデルタール人たちが非常に多様な飲食物を摂っていたことを示しており、特に重要である[8]。

要塞[編集]





英国旗をはためかせるムーア城




帝国マーケティング部(英語版)用にチャールズ・ピアズ(英語版)が描いたザ・ロック
ムーア城[編集]

詳細は「ムーア城」を参照

ムーア城は、710年間にわたりジブラルタルを支配したムーア人の遺物である。これは今もザ・ロックの別名として名を残すベルベル人の首領ターリク・イブン=ズィヤードが初めてザ・ロックに足を踏み入れた711年に建てられた。17世紀のイスラム教徒の歴史家アル・マッカリーは、ターリクは上陸の際、自らの船団を焼き払ったと記している。

この遺物の主建築物は、タワー・オブ・ハミッジであり、これは煉瓦と、tapia と呼ばれる非常に硬いコンクリートからなる、がっしりした建物である。塔の上部には、以前の居住者たちの住居およびムーア浴場がある。

地下道[編集]





湾から見た見たザ・ロック北面の崖(1810年頃)。崖に並んだ銃眼が見える。
ザ・ロックならではの呼び物の一つは、Galleries(地下道網)あるいは Great Siege Tunnels(大包囲戦トンネル)と呼ばれる地下トンネル網である。

それらのうち最初のものは、ジブラルタル包囲戦(1779年 - 1783年)の終わりにかけて掘られた。攻城戦を通じて守備隊を指揮したエリオット将軍(英語版)(のちヒースフィールド卿)は、ザ・ロックの北面下の平地にいるスペイン軍の砲列に側面から砲撃できないものかと気を揉んでいた。そして王立工兵(英語版)のインス軍曹の提案により、ウィリス砲台の上から、北面にある天然の突出部「ザ・ノッチ」まで連絡すべく、トンネルを掘らせた。そこに砲台を築くという計画であった。当初はこのトンネルに銃眼用の穴を開ける計画は無かったが、換気用の穴が必要だと分かり、穴が開けられるとすぐにそこへ大砲が据えられた。包囲戦が終わるまでに、イギリス軍は同様の銃眼用の穴を6箇所開け、4門の大砲を据えた。

観光客が訪れる地下道は、同様の意図で後年に掘られたもので、1797年に完成した。これらは、いくつかの広間、銃眼、通路からなるネットワークであり、総延長はほぼ304メートルである。それらから、ジブラルタル湾(英語版)、地峡、スペインにおよぶ独特の景観を目にすることができる。

第二次世界大戦とその後[編集]

1939年に第二次世界大戦が発生すると、当局は一般市民をモロッコ、イギリス、ジャマイカ、マデイラ諸島へ避難させ、これにより軍は、起こりうるドイツ軍の攻撃に対しジブラルタルを要塞化することができた。1942年には、3万人以上のイギリス軍兵士、水兵、航空兵がザ・ロックにいた。彼らはトンネル網を拡充し、ザ・ロックを地中海への航路防衛における要石とした。

1997年2月、イギリス軍がトレーサー作戦という秘密計画を持っていたことが明らかになった。これはドイツ軍に占領された場合、ザ・ロックの下のトンネルに兵士らを隠しておくというものだった。そこでは、部隊は敵の動きを報告するために無線設備を使う予定だった。6人編成のチームが2年半の間、ジブラルタルに秘密裏に待機した。しかしドイツ軍がここを占領しに近づくことはなく、彼らが岩の中に移ることもなかった。このチームは戦争が終わると解散し、一般市民に戻った。

難攻不落[編集]

長い包囲戦の歴史の中で、ザ・ロックとそこの人々を打ち負かせたものはいないように思われる。これにより、克服不能かつ不動の人物や状況を指す「堅きことジブラルタルの岩の如し」という言葉が生まれた[9]。ラテン語で "Nulli Expugnabilis Hosti"(いかなる敵も我らを退かし得ず)はジブラルタル連隊(英語版) 、時にはジブラルタルそのもののモットーとされるが、それはこの難攻不落さを表したものである。

山頂近辺の自然保護[編集]


Upper Rock Nature Reserve


IUCNカテゴリIa(厳正保護地域)

Rock of Gibraltar.jpg
自然保護区に含まれるザ・ロックの尾根を、北向き(スペイン方向)へ見たところ。


地域
ザ・ロック

最寄り
ジブラルタル

座標
北緯36度08分43秒 西経05度20分35秒

創立日
1993年

運営組織
Gibraltar Ornithological and Natural History Society

ジブラルタルの陸上部分の約40パーセントは1993年に自然保護区に指定された。

動植物相[編集]





ザ・ロックの地中海階段状地 (Mediterranean Steps) で自らの子供に授乳する雌のバーバリーマカク
アッパー・ロック自然保護区(山頂近辺の自然保護区)の動植物相は、生態保全の対象として法律で保護されている[10]。ここには様々な動植物がいるが、有名なのがバーバリーマカク(Rock Apes)、バーバリーパートリッジ(英語版)、ジブラルタル特有の Chickweed(ハコベの類)、タイム、Iberis gibraltarica(アブラナの一種)といった花である[要出典]。バーバリーマカクたちの祖先は、北アフリカから逃れてスペインに渡ったものかもしれない。あるいは、550万年前まで遡る鮮新世の間、南ヨーロッパ全体に分布したとされる種族の生き残りかもしれない[11][12]。3頭のバーバリーマカクを飼っているアラメダ野生生物保護公園は、ザ・ロックの動物のうちのいくつかを再移入してきている。

鳥[編集]

ジブラルタル海峡に突き出たザ・ロックは際立った突端となっており、渡りの季節には渡り鳥たちが集まってくる。南イベリア半島では独特となるザ・ロックの植生は、海と砂漠を越えて渡りを続ける前に羽を休めて腹ごしらえをする各種の渡り鳥たちに一時の棲家を提供する。春になると彼らは戻ってきて、西ヨーロッパ、グリーンランド、ロシアへと旅を続けてゆく[13]。

バードライフ・インターナショナルはザ・ロックを重要野鳥生息地と認定している。理由として第一に、毎年海峡を渡る25万匹と見積もられる猛禽類たちにとって渡りの要地となっている点、第二にバーバリーパートリッジ(英語版)とヒメチョウゲンボウの繁殖を支えている点が挙げられる[14]。

ジブラルタル

ジブラルタル(Gibraltar)は、イベリア半島の南東端に突き出した小半島を占める、イギリスの海外領土。ジブラルタル海峡を望む良港を持つため、地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地、すなわち「地中海の鍵[1]」として軍事上・海上交通上、重要視されてきた[2]。現在もイギリス軍が駐屯する。

半島の大半を占める特徴的な岩山(ザ・ロック)は、古代より西への航海の果てにある「ヘラクレスの柱」の一つとして知られてきた。半島は8世紀よりムーア人、レコンキスタ後はカスティーリャ王国、16世紀よりスペイン、18世紀よりイギリスの占領下にあるが、その領有権を巡り今もイギリス・スペイン間に争いがある。

地名の由来は、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島を征服したウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードにちなんでおり、アラビア語で「ターリクの山」を意味するジャバル・アル・ターリク[1](Jabal al-Ţāriq[3]、亜: جبل طارق‎)が転訛したものである。なお、ジブラルタルの英語での発音は「ジブラルタ」、スペイン語での発音は「ヒブラルタル」[4]に近い。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 古代
1.2 ムスリム支配期(711年 - 1462年)
1.3 カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)
1.4 イギリス領期(1713年 - )

2 地形 2.1 ザ・ロック

3 気候
4 生物
5 政治 5.1 帰属問題

6 経済
7 社会
8 交通
9 エピソード
10 ギャラリー
11 脚注
12 関連書籍
13 外部リンク


歴史[編集]

詳細は「ジブラルタルの歴史(英語版)」を参照

古代[編集]

人類の痕跡は古く、ネアンデルタール人の遺跡が発見されている。紀元前950年にフェニキア人がジブラルタルに初めて定住するようになった。その後もローマ人やヴァンダル族、ゴート族などがジブラルタルに訪れたが、どれも永住ではなかった。フェニキア人国家のカルタゴが第1次ポエニ戦争後にジブラルタルと南イベリア半島を勢力下としたのち、第2次ポエニ戦争によってローマ帝国がジブラルタルとイベリア半島を属領としたものの、400年代初期から西ゴート族がイベリア半島に居住するようになり、西ローマ帝国滅亡後は西ゴート王国の支配下となった。

ムスリム支配期(711年 - 1462年)[編集]

711年、西ゴート王国はウマイヤ朝のターリク・イブン=ズィヤードに征服され、滅亡する。ムーア人の支配を受けてイスラム圏に入るが、およそ4世紀の間ジブラルタルが発展することはなかった。756年には後ウマイヤ朝が成立。変遷を経て1309年にナスル朝グラナダ王国の一部となる。カスティーリャ王国によって一時占領されるが、1333年にマリーン朝が奪還し、マリーン朝はグラナダ王国にジブラルタルを割譲した。

カスティーリャ・スペイン領期(1462年 - 1713年)[編集]

1462年にメディナ・シドニア公がジブラルタルを奪取し、750年間に渡るムーア人の支配を終えた。 メディナ・シドニアは追放されたスペイン・ポルトガル系ユダヤ人にジブラルタルの土地を与え、コンベルソのペドロ・デ・エレアがコルドバとセビリアから一団のユダヤ人を移住させ、コミュニティが建設された。そして、半島を守るため駐屯軍が設立された。しかし、セファルディムとなったユダヤ人は数年後にコルドバか異端審問所に送還された。フェルナンド2世がスペイン王国を打ちたて、1501年にはジブラルタルもスペイン王国の手の下に戻った。同年にイサベル1世からジブラルタルの紋章が贈られた。

八十年戦争中の1607年にオランダ艦隊がスペイン艦隊を奇襲し、ジブラルタル沖が戦場となった(ジブラルタルの海戦)。この海戦でスペイン艦隊は大きな打撃を被った。1701年にスペイン王位継承で候補者の1人カール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)の即位を後押しするオーストリア、イギリス、オランダがフランス王ルイ14世とスペイン王フェリペ5世に宣戦布告し、スペイン継承戦争が始まると、オーストリア、イギリス、オランダの同盟艦隊はスペイン南岸にある港町の襲撃を繰り返した。

1704年8月4日、ジョージ・ルーク提督率いるイギリスとオランダの艦隊の支援の下、オーストリアの軍人であるゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ6世の息子)指揮下の海兵隊がジブラルタルに上陸した。交渉の末、住民は自主退去を選択し、海兵隊はジブラルタルを占領した(ジブラルタルの占領)。フランス・スペイン連合軍はジブラルタル奪回のため艦隊をトゥーロンから派遣、それを阻止しようとルーク率いるイギリス・オランダ海軍が迎撃に向かい、フランス・スペイン海軍が撤退したことでジブラルタルは確保された(マラガの海戦)。

イギリス領期(1713年 - )[編集]

1713年4月11日にユトレヒト条約の締結によって戦争が終結するものの、その条約でジブラルタルはイギリス領として認められ、スペインは奪回の機を失った。 アメリカ独立戦争中はスペインが独立軍の支援にまわり、1779年からジブラルタルへの厳重な封鎖を行った(ジブラルタル包囲戦)。イギリス軍は1782年に浮き砲台と包囲兵を撃破し、包囲網を破ることに成功した。翌年にはパリ条約に先立ち、講和が行われ、ジブラルタルは解放された。

1805年、トラファルガーの海戦ではイギリス海軍の拠点となった。その後、インドへのルートにスエズ運河の開通で地中海が加わり、蒸気機関を動力とする装甲巡洋艦などが海軍で普及すると給炭基地の役割も求められ、ジブラルタルが重要視されるようになった。第二次世界大戦中もジブラルタル海峡の封鎖を行っていたフランスがドイツに敗北し、親独政権であるヴィシー政権が設立されフランス海軍がその指揮下に入ると、イギリス海軍H部隊がジブラルタルに配備された。トーチ作戦ではアメリカ軍もジブラルタルを拠点にした。

第二次世界大戦後は、東西冷戦がはじまるもイギリス海軍が役割を縮小すると同時にジブラルタルの軍事的役割も低下している。1967年にイギリス地中海艦隊が解体され、これに代わるアメリカ海軍第6艦隊はイタリアのガエータを拠点にしている。しかし、1982年のフォークランド戦争で再び基地の重要性が確認され、現在もイギリス海軍のジブラルタル戦隊(Gibraltar Squadron)が駐留している。

地形[編集]





ジブラルタルの地図
領域は南北に細長く伸びた半島になっており、南北に5キロ、東西に1.2キロある[5]。東は地中海、南はジブラルタル海峡、西はジブラルタル湾(英語版)に面する。北側は砂質の低地でスペイン本土と繋がり、いわゆる陸繋島となっている[2]。

半島の南端はエウローパ岬(英語版)(ヨーロッパ岬)と呼ばれ、そこからジブラルタル海峡をはさんだアフリカ側にはスペイン領セウタがある。一方、北側の砂州にはジブラルタル空港があり、その北に幅800メートルの中立地帯(イスモ、Istmo[6])が設けられて国境を成し[2]、さらにその北がスペイン本土の町ラ・リネアである。

ザ・ロック[編集]

詳細は「ジブラルタルの岩」を参照

半島の大半を占める、石灰岩と頁岩からなる岩山は「ザ・ロック」と呼ばれる。東側は事実上登攀不能の崖であり[7]、西側も山頂付近は急峻だが、中腹以下は比較的緩やかな傾斜となって市街地が階段状に連なり[5]、さらに下った沿岸部分は港湾施設が大部分を占める[5]。最高峰(ターリク山)は岩山の南側頂点にあたるオハラ砲台(英語版)跡の展望台で、海抜426メートルある。北側頂点(トップ・オブ・ザ・ロック、海抜412メートル)には麓の市街からロープウェーで登ることができ、徒歩による九十九折のトレッキングコースもある。こちらも展望台があり、レストランなどもある。

石灰岩地質によって形成された鍾乳洞が山の中腹にある。鍾乳洞は見学ができ、見学コースの途中には、世界的にも珍しい鍾乳洞の空間を利用したコンサートホールがあるが、自然の鍾乳洞に手が加えられていて、自然保護からの観点から賛否がある。

また岩山を掘って作られた主に軍事目的の地下通路、弾薬庫、貯蔵庫などもあり、掘り出された土砂は北西岸の埋め立て(飛行場建設など)に使われた[2]。

ジブラルタルには自然の湧水源や河川が無く[5][7]、夏季に全く雨が降らないこともしばしばであるため[7]、東側山麓の斜面に岩山そのものを穿った雨水用の貯水槽が作られている[5]。上水はそこから集めた水、ポンプでくみ上げた水、海水を蒸留した水をブレンドして供給されている[5](非飲料用としては海水も利用されている[5])。

気候[編集]

地中海性気候及び亜熱帯に属する。夏季は高温多湿であり、冬季は比較的温暖で降雨も適度にある[5]。





[隠す]ジブラルタルの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




平均最高気温 °C (°F)
16
(61) 16
(61) 17
(63) 18
(64) 21
(70) 24
(75) 27
(81) 27
(81) 26
(79) 21
(70) 18
(64) 16
(61) 21
(70)

日平均気温 °C (°F)
13
(55) 13
(55) 15
(59) 16
(61) 18
(64) 21
(70) 23
(73) 24
(75) 22
(72) 19
(66) 16
(61) 14
(57) 18
(64)

平均最低気温 °C (°F)
11
(52) 11
(52) 12
(54) 13
(55) 15
(59) 17
(63) 20
(68) 20
(68) 20
(68) 16
(61) 13
(55) 12
(54) 15
(59)

降水量 cm (inch)
12
(4.7) 10
(3.9) 10
(3.9) 6
(2.4) 3
(1.2) 1
(0.4) 0
(0) 0
(0) 2
(0.8) 7
(2.8) 14
(5.5) 13
(5.1) 83
(32.7)
出典: Weatherbase

生物[編集]





バーバリーマカク
植生は500種以上にのぼる[5]。ザ・ロックの頂上付近にはオリーブやパイナップルが自生し[5]、ジブラルタル・キャンディタフトというこの地特有の花も見られる[7]。

ザ・ロックはヨーロッパで唯一となる野生猿の生息地である[5][7]。これらのバーバリーマカクはマカク属なのでニホンザルと近縁だが、オスの成体は体毛が長くタイワンザルに似ている。彼らがジブラルタルからいなくなったら英国がジブラルタルから撤退するとの伝説がある[8]。この猿達の世話はイギリス陸軍砲兵隊の管轄。また第二次世界大戦中に物資不足から猿の個体数が減少したがチャーチル首相が直々に猿の保護を命じたという逸話が残っている。

猿のほかには、ウサギ、キツネなどの小動物がみられる[5]。また、ザ・ロックは渡り鳥の群れの中継地点ともなっている[7]。

政治[編集]





ジブラルタル議会
1969年の憲法制定以来、ジブラルタル自治政府によって、防衛以外では内政に関して完全な自治が行なわれている[5](ただし、国際連合非自治地域リストに掲載されてもいる)。イギリス国家が選任し、イギリス国王によって任命されるジブラルタル総督が行政上の最高権限を持ち、最高軍事司令官(守備隊長[1])を兼ねる[5]。

選挙権は18歳以上のジブラルタル人と、6ヶ月以上居住しているイギリス人に与えられる[5]。4年毎の選挙によって、ジブラルタル議会(一院制)の議員17名が選ばれる。また、彼ら以外に1名の議長が総督によって任命される。議会の多数党党首より選出された首相(英語版)は議員のうちから9名の閣僚を選任し、ともに総督によって任命される。

帰属問題[編集]

1713年のユトレヒト条約以降イギリスが統治を続けているジブラルタルだが、スペインは今も返還を求めている。ジブラルタルはヨーロッパに残る最後の「植民地」であり[6]、また係争当事国がいずれもEU加盟国である点、係争が300年もの長きにわたっている点で、世界の領土問題のなかでも異色の存在と言える[6]。

スペインの基本的見解は、ユトレヒト条約第10条はジブラルタルの町、城、それに付随する港、要塞の所有と軍事利用をイギリスに認めたに過ぎず、主権はスペインに残っているというものである[1]。スペインにとってジブラルタルは長らく「スペインの靴の中に入ったペニョン(岩山)」となっている[6]。しかし返還を求めるスペインの主張は、モロッコのセウタなど自らの植民地所有と矛盾するものでもある[9]。一方、現在のイギリス統治が住民から圧倒的支持を受けていることは1967年9月の住民投票から明らかであるが[2][5]、同年12月に国連の非植民地化委員会(英語版)はイギリスのジブラルタル領有を植民地主義的だとして返還を促す決議を採択している[2][9]。

1704年のイギリスによるジブラルタル占領以降、スペインはジブラルタルを武力で奪回すべく1705年、1727年、1783年に包囲戦をしかけたが、いずれも失敗した[1]。またその後の外交による交渉も全て不首尾に終わった[1]。19世紀後半以降、スペインの国力が衰えている時期にイギリスは国境を北へ押し上げる行動に出た[6]。最終的にこれはスペイン本土との間に非武装中立地帯を設けることで落ち着いたが、ここの境界線の画定は今も棚上げされた状態である[6]。

1954年2月、イギリスの植民地を歴訪していたエリザベス2世がスペインの抗議にも関わらず[1]最後の訪問地としてジブラルタルに入ると、スペイン各地で抗議運動が沸き起こった[6]。スペインは翌1955年に国連加盟を果たし、さっそくジブラルタル問題を国際世論に訴えかけ、1957年にジブラルタル返還を求めて国連に提訴した[6]。1960年代には運動を強化し[5]、1964年に国連の非植民地化委員会へ返還要求を提出した[2]。イギリスはこれに対し、イギリス統治の可否を問う住民投票を1967年に実施し、住民は 12138 対 44 という圧倒的大差でイギリスへの帰属を選択した[5]。この投票はスペインの態度を決定的に硬化させ、1969年にスペインは国境を封鎖して物流とスペイン人の通勤を差し止めるという、ジブラルタルに対する経済封鎖に踏み切った[1][5]。これによってジブラルタルは陸の孤島と化し、往来はモロッコ経由かロンドンからの航空便に頼るしかなくなった[2]。1982年にスペインに社会労働党政権が発足すると[5]、徒歩での往来が許可されるなど封鎖は部分的に解かれ[2]、両国間の交渉再開が宣言された[5]。1985年には封鎖は完全に解除された[2][5]。

2002年には共同主権の検討がなされた。これに対し、地元の二大政党である保守系のジブラルタル社会民主党(英語版)および革新系のジブラルタル社会主義労働党(英語版)は、共にスペインに対する主権の譲渡に強硬な反対を行い、住民投票においても90%以上が反対の意思を示したため、この構想は実現しなかった。これ以降、帰属に関する交渉はイギリス、スペインにジブラルタル自治政府を加えた三者間会議に移り、2006年9月に初の会議が開かれた[8]。ジブラルタル自治政府はその3ヶ月後、自治権拡大を意図した新憲法草案を住民投票にかけ、可決させた[8]。

ジブラルタルの独立を求める声もある。特にジブラルタルの元首相でもある、ジブラルタル社会主義労働党のジョー・ボサノ(英語版)党首はEUの後援の元での、独立を求めていた。

経済[編集]





ジブラルタル港(左)と市街
ジブラルタルの主な経済基盤は、第一には駐留するイギリス軍(守備隊および海軍ドック)に関する軍事関連産業である[1][2][5]。ほか、ジブラルタル港では自由港として中継貿易も多く行なわれている[1][5]。ジブラルタルはもともと領土が狭く、さらに平地が限られるため、農業は殆ど見られない[5]。工業も小規模な食品加工関連(タバコ、飲料、缶詰など)があるだけである[5]。近年は観光開発にも力を入れており、1988年には377万人が観光に訪れた[5]。またスペインに対して相対的に低い法人税が銀行・金融部門の成長を促しており、2013年時点で同部門がGDPに占める割合は25-30%に増加、特にオンライン・ギャンブル関連はGDPの15%を占めるまでになっている[10]。ジブラルタルで正規に登録されている企業は1万8000社にのぼるが[10]、ペーパーカンパニーも少なくなく[11]、租税回避地として域外(特にスペイン[10])から問題視されているという面もある[11]。

人口の約60%は総督府に雇用されている[2]。民間部門では建設業、船舶修理業、観光業などの従事者が多くみられる[5]。

通貨としてジブラルタル・ポンド(イギリス・ポンドと等価)が発行されている。ジブラルタルではイギリス・ポンドも使えるが、逆にイギリス本国でジブラルタル・ポンドを使うことはできない[12]。ユーロが使える店舗も多いが、レートにばらつきがある[12]。ジブラルタルには消費税がない[10]。

社会[編集]





セント・マリー・ザ・クラウンズ教会
3万人近い人口のうち、イギリス系 27%、スペイン系 24%、イタリア系 19%、ポルトガル系 11%、他 19%という比率になっている[6]。また、スペインはユダヤ人を追放したことから独特のユダヤ人コミュニティが成立している。小売業に多いインド人やモロッコからの労働者もそれぞれコミュニティを形成している[5]。1925年以前にジブラルタルで生まれたもの及びその子孫である「ジブラルタル人」はイギリスの完全な市民権を認められており、人口全体の2/3を占める[5]。それ以外の外国人(人口全体の1/5)および軍関係者は居住権が無いため居住許可証を必要とする[5]。スペイン本土からは毎日1万人ほどが越境通勤してくる[10]。

住民の多くはカトリックであり[1][5]、ジブラルタル教区の司教座聖堂としてセント・マリー・ザ・クラウンズ教会が置かれている。またイングランド国教会の主教座聖堂としてはホーリー・トリニティ教会があり、こちらのジブラルタル教区はスペイン・ポルトガル・モロッコと広範囲にわたる。

公用語は英語であるが、殆どの住人はスペイン語を母語とする[1]バイリンガルである[5]。また、英語の影響を受けたスペイン語方言であるジャニート語(英語版)(ラニト語)も話されており、ジブラルタル人は自分たちのことをジャニートス(西: Llanitos)と呼ぶことがある[6]。ほか、ヘブライ語、アラビア語も用いられている。

教育は、4-15歳を義務教育とし、公立小学校が12校、公立総合中学校が2校、私立小学校が2-3校ある[5]。大学などの高等教育はイギリス本国で受けることになる[5]。

交通[編集]





ジブラルタル空港の滑走路は西側がジブラルタル湾に大きくはり出し、南北に道路が平面交差している。
50 kmの道路と50 kmのトンネルがある。20世紀初めにザ・ロックの東西を結ぶトンネルが掘られ、道路網が整備された[5]。かつて車両はイギリス本国同様に左側通行だったが、1990年代後半に右側通行へ変更された。国際交通における車両識別記号はGBZ。

ジブラルタル港には旅客船も寄港しており、モロッコのタンジールとの間で毎日カーフェリーが往来している[5]。

ジブラルタル空港はスペインとの国境付近にあり、滑走路は国境に沿うようにジブラルタルのある半島を完全に横切って、一部は海に突き出して作られている。国境検問所とジブラルタル中心部を結ぶ道路は滑走路と平面交差している。そのため飛行機が離着陸する時は、道路側に設置された遮断機が降り通行禁止になる。この対航空機「踏切」は自動車だけでなく自転車・歩行者も通行可能である。この問題の解消にむけて、立体交差のための新設道路およびトンネルの建設を行っており、当初は2009年完成予定であった。しかし工事遅延のため2013年現在も完成しておらず、先延ばしになっている。

エピソード[編集]
アメリカの金融グループ、プルデンシャル・ファイナンシャルは、社章にジブラルタル(ジブラルタ)・ロックをデザインしている。これはジブラルタルの要塞が難攻不落という意味から生まれた諺、"As safe as the Rock"(ジブラルタル・ロックのように安心)から作成された。このプルデンシャルの傘下にある日本の外資系生命保険会社、ジブラルタ生命保険は、社章だけでなく社名もジブラルタルにちなんでいる。
サッカージブラルタル代表は1895年設立という古い歴史を持つが、国際サッカー連盟(FIFA)には未加盟である。これは、加盟に関してジブラルタルの領有権を主張するスペインが「ジブラルタル代表の加盟を認めるなら、スペインはFIFAより脱退する」と、強い圧力をかけているからである[8]。欧州サッカー連盟については、2013年5月に加盟が認められた[13]。
1969年3月20日、 ジョン・レノンとオノ・ヨーコはこの地で結婚式を挙げた。ジブラルタル郵政局は1999年に結婚30周年の記念切手を発行している[8]。
1981年、イギリスのチャールズ王太子とダイアナ妃の新婚旅行の第一目的地となった。ジブラルタルの返還を求める立場のスペイン国王フアン・カルロス1世はこれに抗議し、結婚式への参列をボイコットした[1][8]。
2002年2月17日、イギリス海兵隊がジブラルタルへの上陸演習を行ったが、誤ってすぐ北のスペイン領内であるラ・リネアに上陸した。民間人の多数いた海岸に上陸してしまった海兵隊員達は駆けつけたスペイン警察の警察官に位置の誤りを指摘され、即座に沖合の揚陸艦に撤収した。英国防省は2月19日にスペイン政府に対し正式に謝罪し、「我が国はスペインへの侵攻の意図は全くない」とコメントした。
2012年5月18日、エリザベス2世の即位60年を祝う昼食会が開かれたが、体調不良(訪問先のボツワナで転んで腰を強打、手術を受けた)により欠席したカルロス国王の代理として出席する事になっていたソフィア王妃も、イギリス王族の同島訪問予定に抗議し欠席した。

スペイン

スペイン(España)、スペイン国(スペイン語: Estado Español)またはスペイン王国(スペイン語: Reino de España)は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 先史時代から前ローマ時代
2.2 ローマ帝国とゲルマン系諸王国
2.3 イスラームの支配
2.4 イスラーム支配の終焉と統一
2.5 スペイン帝国
2.6 斜陽の帝国
2.7 スペイン内戦終結まで
2.8 フランコ独裁体制
2.9 王政復古から現在

3 政治
4 軍事
5 国際関係 5.1 日本との関係

6 地方行政区画 6.1 主要都市

7 地理 7.1 地形
7.2 気候
7.3 標準時

8 経済 8.1 鉱業

9 交通 9.1 道路
9.2 鉄道
9.3 海運
9.4 空運

10 国民 10.1 民族 10.1.1 民族の一覧

10.2 言語 10.2.1 言語の一覧

10.3 宗教
10.4 教育

11 文化 11.1 食文化 11.1.1 アルコール類
11.1.2 スペイン料理

11.2 文学
11.3 哲学
11.4 音楽
11.5 美術
11.6 映画
11.7 世界遺産
11.8 祝祭日

12 スポーツ 12.1 サッカー
12.2 バスケットボール
12.3 サイクルロードレース
12.4 モータースポーツ
12.5 テニス
12.6 その他

13 科学と技術 13.1 医学

14 著名な出身者
15 脚註
16 参考文献
17 関連項目 17.1 スペインに関する著書が多い作家・文化人

18 外部リンク


国名[編集]

正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、España(エスパーニャ)、Estado Español(エスタード・エスパニョール)などが用いられている[1]。Reino de España(レイノ・デ・エスパーニャ)も用いられることがある。

日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン国、スペイン王国。これは英語の Spain に基づく。漢字で西班牙と表記し、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近いイスパニアという呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名ヒスパニアであり、「スペイン」は長らく俗称だった。1492年の王国統合以降でも国王はあくまで連合王国の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている複合王政だった。1624年宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年ナポレオンの兄ホセ・ボナパルトの即位時に正式に「スペイン国王」が誕生した。

現在のスペインは、国王を元首とする王国であるが、スペイン1978年憲法では、それまでの憲法では明記されていた国号は特に定められていない。憲法で国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。

歴史[編集]

詳細は「スペインの歴史」を参照

先史時代から前ローマ時代[編集]





アルタミラ洞窟壁画のレプリカ。
アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている[2]。3万5000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州のアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。

この時期の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌(英語版)』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。

紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった[3] 。

ローマ帝国とゲルマン系諸王国[編集]

詳細はヒスパニアを参照





メリダのローマ劇場。
紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとなり(帝政期にヒスパーニア・タラコネンシス、ヒスパーニア・バエティカ、ルシタニアの3州に分割)、法と言語とローマ街道によって結びつけられ、その支配はその後500年以上続くことになる[4]。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった[3]。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[3]。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[4]。

ローマの支配は409年にゲルマン系のスエビ族、ヴァンダル族、アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国もジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニア(英語版)を確保し、ローマ帝国再建の手がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年にトレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。

イスラームの支配[編集]

詳細はアンダルスを参照





ナスル朝の首都グラナダに建設されたアランブラ宮殿。
711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテの戦い(英語版)で敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる[5]。

イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[6]。





後ウマイヤ朝の首都コルドバに建設されたメスキータ(モスク)の内部。
シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀頃のアンダルスではムデハル(イベリア半島出身のムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[7][8]。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている[8]。

11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[8]。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[3]。

イスラーム支配の終焉と統一[編集]

詳細はレコンキスタを参照





マンサナーレス・エル・レアルの城。
レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨが722年のコバドンガの戦い(英語版)に勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行していた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川とドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらくのちにフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる[5]。





1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦い。
アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[9]。





カトリック両王、フェルナンド2世とイサベル1世。
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた[10]。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した[11]。

1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約(英語版)ではムスリムの信仰が保障されている[12]。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[13]。その後同じ条件でムスリムも追放された[14]。

イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア(Hispania)を語源とするエスパーニャ(España)が王国の総称として用いられるようになった[14]。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。

スペイン帝国[編集]

詳細はスペイン帝国を参照





スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)。
1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。

16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国やイギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された[15]。

スペイン帝国はその最盛期には南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカの幾つかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた[16]。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。





フェリペ2世。
このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。

この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、コムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(英語版)(1568年)、オスマン帝国との衝突(英語版)(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(英語版)(1635年 - 1659年)が起こっている。

16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。更に、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった[17]。





16世紀のスペインのガレオン船。
1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。

1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代は終わりを告げた。

18世紀の初頭のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる[18]。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀初めまで維持拡大し続けた。

この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている[19]。

1713年、1714年のユトレヒト条約とラシュタット条約によるスペイン・ブルボン朝の成立後、18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。1759年に国王に即位した啓蒙専制君主カルロス3世治下でのフランスの制度の導入は、行政と経済の効率を上げ、スペインは中興を遂げた。またイギリス、フランス発の啓蒙思想がホベリャーノスや、フェイホーによって導入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。18世紀後半には貿易が急速に成長し、1776年に勃発したアメリカ独立戦争ではアメリカ独立派に軍事援助を行い、国際的地位を向上させている[20]。

斜陽の帝国[編集]

詳細はスペイン独立戦争と米西戦争を参照





フランシスコ・デ・ゴヤ画「マドリード、1808年5月3日」。スペイン独立戦争の一局面を描いている。
1789年にフランス革命が勃発すると、1793年にスペインは革命によって成立したフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦したが、戦場で敗れて1796年にサン・イルデフォンソ条約を結び、講和した。その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、ナポレオン率いるフランス帝国と結んだスペインは、フランス海軍と共に1805年にイギリス海軍とトラファルガーの海戦を戦ったものの惨敗し、スペイン海軍は壊滅した。

19世紀初頭にはナポレオン戦争とその他の要因が重なって経済が崩壊状態になり、1808年3月にスペインの直接支配を目論んだフランスによってブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。この外国の傀儡国王はスペイン人にとっては恥辱とみなされ、即座にマドリードで反乱が発生した。これが全土へ広がり、1808年からいわゆるスペイン独立戦争に突入する[21]。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した[22]。フェルナンド7世は復位後絶対主義への反動政策を採ったため、自由主義を求めるスペイン人の支持を受けて1820年にラファエル・デル・リエゴ将軍が率いるスペイン立憲革命が達成され、戦争中にカディスで制定されたスペイン1812年憲法が復活したが、ウィーン体制の崩壊を恐れる神聖同盟の干渉によって1823年にリエゴ将軍は処刑され、以後1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂を決定づけた。また、挫折した立憲革命の成果もあって、1825年にシモン・ボリーバルをはじめとするリベルタドーレスの活躍によって南米最後の植民地ボリビアが独立し、キューバとプエルトリコ以外の全てのアメリカ大陸の植民地を失った。

立憲革命挫折後の19世紀スペインは、王統の正統性を巡って三次に亘るカルリスタ戦争が勃発するなどの政治的不安定と、イギリスやベルギー、ドイツ帝国、アメリカ合衆国で進行する産業革命に乗り遅れるなどの経済的危機にあった。1873年にはスペイン史上初の共和制移行(スペイン第一共和政)も起こったが、翌1874年には王政復古した。また、19世紀後半には植民地として残っていたフィリピンとキューバで独立運動が発生し、1898年にハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈したことをきっかけに、これらの植民地の独立戦争にアメリカ合衆国が介入した。この米西戦争に於いて、スペイン軍の幾つかの部隊は善戦したものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は "El Desastre"(「大惨事」)の言葉で知られており、敗戦の衝撃から「98年の世代」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。

スペイン内戦終結まで[編集]





国王アルフォンソ13世とミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍(1930年)。




スペイン内戦に参戦した国際旅団のポーランド人義勇兵。
スペインはアフリカ分割では僅かな役割しか果たさず、スペイン領サハラ(西サハラ)とスペイン領モロッコ(英語版)(モロッコ)、スペイン領ギニア(英語版)(赤道ギニア)を獲得しただけだった。スペインは1914年に勃発した第一次世界大戦を中立で乗り切り、アメリカ合衆国発のインフルエンザのパンデミックが中立国スペインからの情報を経て世界に伝わったため、「スペインかぜ」と呼ばれた。第一次世界大戦後、1920年にスペイン領モロッコで始まった第3次リーフ戦争では大損害を出し、フランス軍の援軍を得て1926年に鎮圧したものの、国王の権威は更に低下した。内政ではミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の愛国同盟(英語版)(後にファランヘ党に吸収)による軍事独裁政権(1923年 - 1930年)を経て、1930年にプリモ・デ・リベーラ将軍が死去すると、スペイン国民の軍政と軍政を支えた国王への不満の高揚により、翌1931年にアルフォンソ13世が国外脱出し、君主制は崩壊した。君主制崩壊によりスペイン1931年憲法が制定され、スペイン第二共和政が成立した。第二共和国はバスク、カタルーニャそしてガリシアに自治権を与え、また女性参政権も認められた。

しかしながら、左派と右派との対立は激しく、政治は混迷を続け、1936年の選挙にて左翼共和党、社会労働党、共産党ら左派連合のマヌエル・アサーニャスペイン人民戦線政府が成立すると軍部が反乱を起こしスペイン内戦が勃発した。3年に及ぶ内戦はソビエト連邦の支援を受けた共和国政府をナチス・ドイツとイタリア王国の支援を受けたフランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍が打倒することで終結した。第二次世界大戦の前哨戦となったこの内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り、50万人が死亡[23] 、50万人が国を捨てて亡命し[24]、社会基盤は破壊され国力は疲弊しきってしまっていた。

フランコ独裁体制[編集]

詳細は「スペイン国 (1939年-1975年)」および「フランキスモ」を参照





フランシスコ・フランコ総統。1939年から1975年までスペインの事実上の元首として君臨した。
1939年4月1日から1975年11月22日まで、スペイン内戦の終結からフランシスコ・フランコの死去までの36年間は、フランコ独裁下のスペイン国 (1939年-1975年)の時代であった。

フランコが結成したファランヘ党(1949年に国民運動に改称)の一党制となり、ファランヘ党は反共主義、カトリック主義、ナショナリズムを掲げた。第二次世界大戦ではフランコ政権は枢軸国寄りであり、ソ連と戦うためにナチス・ドイツに義勇兵として青師団を派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。

第二次世界大戦後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年まで国際連合にも加入できなかった。しかし、東西冷戦の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり、スペインの国際的孤立は緩和した。また、フランコは1957年にモロッコとの間で勃発したイフニ戦争(Ifni War)などの衝突を経た後、国際的な脱植民地化の潮流に合わせて徐々にそれまで保持していた植民地を解放し、1968年10月12日には赤道ギニアの独立を認めた。フランコ主義下のスペイン・ナショナリズムの高揚は、カタルーニャやバスクの言語や文化への弾圧を伴っており、フランコ体制の弾圧に対抗して1959年に結成されたバスク祖国と自由(ETA)はバスク民族主義の立場からテロリズムを繰り広げ、1973年にフランコの後継者だと目されていたルイス・カレーロ・ブランコ首相を暗殺した。

王政復古から現在[編集]





首都マドリードのクアトロ・トーレス・ビジネス・エリア。
1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古がなされた。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法の制定により民主化が達成され、スペイン王国は制限君主制国家となった。1981年2月23日には軍政復帰を目論むアントニオ・テヘーロ中佐ら一部軍人によるクーデター未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された(23-F)。

民主化されたスペインは1982年に北大西洋条約機構(NATO)に加入、同年の1982年スペイン議会総選挙により、スペイン社会労働党 (PSOE) からフェリペ・ゴンサレス首相が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生した。1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入。1992年にはバルセロナオリンピックを開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク地域分離運動のETAによるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、1996年スペイン議会総選挙にて右派の国民党(PP)に敗れ、ホセ・マリア・アスナールが首相に就任した。

21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている[25]。

2002年7月18日、ペレヒル島危機(英語版)が起こり、モロッコとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、アスナール首相がイラク戦争を非常任理事国として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は有志連合の一員として、米英軍と共にイラクにスペイン軍1400人を派遣した。2004年3月11日にスペイン列車爆破事件が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派のアスナール首相はこれを政治利用し、バスク祖国と自由 (ETA) の犯行だと発表したが、3月14日に実施された2004年スペイン議会総選挙では左派の社会労働党が勝利し、サパテロ政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件はアルカーイダの犯行[26]と CIAからの発表があると、この対応を巡って政治問題となった。サパテロ政権は2008年スペイン議会総選挙でも勝利したが、同年9月のリーマン・ショック勃発により、スペインの経済は壊滅的な打撃を受けた。

2011年スペイン議会総選挙では国民党が勝利し、マリアーノ・ラホイが首相に就任した。

政治[編集]

詳細は「スペインの政治」および「:en:Politics of Spain」を参照





代議院議事堂。




スペイン最高裁判所。
政体は立憲君主制(制限君主制)。1975年のフアン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、国王は存在するものの、象徴君主という位置づけであり、主権は国民に在する。国王は国家元首であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官である。国王は議会の推薦を受けて首相の指名を行なうほか、首相の推薦を受けて閣僚の任命を行う。現行憲法はスペイン1978年憲法である。

「スペイン君主一覧」および「スペインの首相」も参照

国会は両院制であり、代議院(下院)は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、元老院(上院)は定数264議席で208議席が選挙によって選出され、残り56議席が自治州の推薦で選ばれる。

2011年12月現在の与党は国民党で、スペイン社会労働党と共に二大政党制を構成する。その他には、スペイン共産党を中心に左翼少数政党によって構成される政党連合統一左翼や進歩民主連合などの全国政党のほかに、集中と統一(CiU)、カタルーニャ共和主義左翼、バスク民族主義党、ガリシア民族主義ブロックなどカタルーニャやバスク、ガリシアの民族主義地域政党が存在する。

「スペインの政党」も参照

軍事[編集]

詳細は「スペイン軍」を参照





空母プリンシペ・デ・アストゥリアス
スペイン軍は陸軍、海軍、空軍、グアルディア・シビルの4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。2001年末に徴兵制が廃止され、志願制に移行した。2007年の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。

イージス艦や軽空母、ユーロファイター タイフーン、レオパルト2EA6等最新鋭の兵器を配備している。

国際関係[編集]

詳細は「スペインの国際関係」および「:en:Foreign relations of Spain」を参照

1986年のEC加盟以降、EUの一員として他のEU諸国との関係が密接になっている。

旧植民地であったラテンアメリカ諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・ポルトガルとラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催されるイベロアメリカ首脳会議にも参加しているが、ラテンアメリカにスペイン企業が進出し過ぎていることから一部には、ラテンアメリカに対するレコンキスタ(本来はイスラームに征服された国土の回復運動だが、ここでは文字通り「再征服」)であるという批判もある。

また、特に南部アンダルシア地方にイスラーム文化の影響が非常に強く残っていることなどもあり、他のEU諸国と比べるとイスラーム諸国との友好関係の構築に比較的積極的であるといえる。

スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領のセウタとメリリャの帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。また、スペインが1801年以来実効支配しているオリベンサに対してポルトガルが返還を求めているが、ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとのイベリスモ思想も存在する。

日本との関係[編集]

詳細は「日西関係史」を参照

岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のスペインの地理・歴史について記述した個所がある[27]。

地方行政区画[編集]

詳細は「スペインの地方行政区画」および「スペインの県」を参照






Galicia


Navarra


Madrid


La Rioja


Aragón


Cataluña


Comunidad
Valenciana


Castilla-
La Mancha


Extremadura


Portugal


Castilla
y León


Asturias


Cantabria


País
Vasco


Región de Murcia


Andalucía


Gibraltar (R. U.)


Ceuta


Melilla


Francia


Islas
Baleares


Islas
Canarias


Mar Mediterráneo


Mar Cantábrico


Océano
Atlántico


Andorra


Océano
Atlántico


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スペインの自治州


スペインは、17の自治州から構成される。また、各州は50の県に分かれる。
アンダルシア州(Andalucía)
アラゴン州(Aragón)
アストゥリアス州(Asturias)
バレアレス諸島州(Las Islas Baleares)
バスク州(El País Vasco)
カナリアス諸島州(Las Islas Canarias)
カンタブリア州(Cantabria)
カスティーリャ=ラ・マンチャ州(Castilla-La Mancha)
カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)
カタルーニャ州(Cataluña)
エストレマドゥーラ州(Extremadura)
ガリシア州(Galicia)
ラ・リオハ州(La Rioja)
マドリード州(La Comunidad de Madrid)
ムルシア州(La Region de Murcia)
ナバラ州(Navarra)
バレンシア州(Valencia)

また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。セウタとメリリャの諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。チャファリナス諸島、ペニョン・デ・アルセマス島、ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラは、スペインが直轄統治している。

主要都市[編集]





首都マドリードはビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付けで18位の都市と評価された[28]。
詳細は「スペインの都市の一覧」を参照

人口の多い上位10都市は次の通り(2006年1月、スペイン統計局の2007年1月発表のデータによる)。


順位

都市



人口

1 マドリード マドリード州 3,128,600
2 バルセロナ カタルーニャ州 1,605,602
3 バレンシア バレンシア州 805,304
4 セビリア アンダルシア州 704,414
5 サラゴサ アラゴン州 649,181
6 マラガ アンダルシア州 560,631
7 ムルシア ムルシア州 416,996
8 ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア カナリア諸島自治州 377,056
9 パルマ・デ・マリョルカ バレアレス諸島自治州 375,048
10 ビルバオ バスク州 354,145

このほかに、歴史上有名な都市としては、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、バリャドリード、ブルゴス、コルドバ、グラナダ、トレドなどが挙げられる。

地理[編集]

詳細は「スペインの地理」および「:en:Geography of Spain」を参照

地形[編集]





スペインの地形。




スペインの地図。
スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈やシエラ・ネバダ山脈)に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川、エブロ川、ドゥエロ川、グアディアナ川、グアダルキビール川)が流れている。沖積平野は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川、フカール川、トゥリア川)による平野が見られる。

南部と東部は地中海に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は大西洋に面し、北部で面している海域はカンタブリア海(ビスケー湾)と呼ばれる。カナリア諸島はアフリカ大陸の大西洋沖にある。

スペインが接する国境の長さは、アンドラ63.7km、フランス623km、ジブラルタル1.2km、ポルトガル1,214km、モロッコ6.3kmである。[要出典]

気候[編集]

全国的には地中海性気候に属する地域が多いが、北部(バスク州からガリシア州にかけて)は西岸海洋性気候で、雨が多い。また、本土から南西に離れたカナリア諸島は亜熱帯気候に属する。

標準時[編集]

スペインはイギリス同様、国土の大部分が本初子午線よりも西に位置しているが、標準時としてはイギリスよりも1時間早い中央ヨーロッパ時間を採用している(西経13度から18度にかけて存在するカナリア諸島は、イギリス本土と同じ西ヨーロッパ時間)。このため、西経3度42分に位置するマドリッドにおける太陽の南中時刻は午後1時15分頃(冬時間)、午後2時15分頃(夏時間)となり、日の出や日の入りの時刻が大幅に遅れる(カナリア諸島についても同様)。スペインでは諸外国と比べて昼食(午後2時頃開始)や夕食(午後9時頃開始)の時刻が遅いことで有名だが、これは太陽の南中や日没に時間を合わせているためである。

経済[編集]

詳細は「スペインの経済」、「:en:Economy of Spain」、および「スペイン経済危機 (2012年)」を参照

IMFによると、2010年のスペインのGDPは1兆3747億ドルであり、世界第12位である[29]。

1960年代以来、「スペインの年」と一部では呼ばれていた1992年頃までの高度成長期が過ぎ去り、低迷していたが、ヨーロッパの経済的な統合と、通貨のユーロへの切替えとともに経済的な発展が急速に進んでいる(2003年現在)。市場為替相場を基とした国内総生産は2008年は世界9位で カナダを超えるがサミットには参加していない。企業は自動車会社のセアトやペガソ、通信関連企業のテレフォニカ、アパレルのザラ、金融のサンタンデール・セントラル・イスパノ銀行などが著名な企業として挙げられる。またスペイン人の労働時間はEU内で第1位である。

しかし、近年の世界金融危機の影響からスペインも逃れられず、2011年1月から3月までの失業率21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている[30]。2012年でも失業率は回復せず、さらに悪化した。2012年10月5日、スペインの月次の失業率はスペインの近代史上初めて25%を突破した。若年失業率は現在52%を超えており、先進国全体の平均の3倍以上に上っている[31]。

鉱業[編集]

スペインの鉱業資源は種類に富み主要な鉱物のほとんどが存在するとも言われる。しかし歴史的に長期に亘る開発の結果21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。

有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭(1228万トン)が有力。品質の高い石炭(975万トン)、原油(32万トン)、天然ガス(22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。

金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の水銀(150トン)のほか、2.1%の占有率のマグネシウム鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、金、銀、亜鉛、銅、鉛、わずかながら錫も対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸のシエラネバダ山脈とシエラモリナ山脈に集中している。水銀はシエラモリナ山脈が伸びるカスティーリャ地方のシウダ・レアル県に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に亘って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、ビルバオが著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。

その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。

交通[編集]

詳細は「スペインの交通」および「:en:Transport in Spain」を参照

道路[編集]

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鉄道[編集]

詳細は「スペインの鉄道」を参照

スペインの鉄道は主にレンフェ(RENFE)によって経営されており、標準軌(狭軌)路線など一部の路線はスペイン狭軌鉄道(FEVE)によって経営されている。一般の地上鉄道の他、高速鉄道AVEが国内各地を結んでいる。

地上路線の他にも、マドリード地下鉄をはじめ、バルセロナ地下鉄、メトロバレンシアなど、主要都市には地下鉄網が存在する。

海運[編集]

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空運[編集]

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国民[編集]

詳細は「スペインの人口統計」および「:en:Demographics of Spain」を参照





ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。カトリック教会の聖地の一つであり、古くから多くの巡礼者が訪れている。
民族[編集]

詳細は「スペイン人」を参照

ラテン系を中核とするスペイン人が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特にカタルーニャ、バスクなどの住人はスペイン人としてのアイデンティティを否定する傾向にあり、ガリシアやカナリア諸島の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。それ以外の地方でも地域主義、民族主義の傾向が存在し、運動としては非常に弱いものの独立を主張するものまで存在する。一般に「スペイン人」とされる旧カスティーリャ王国圏内の住民の間でも、イスラーム文化の浸透程度や歴史の違いなどから、アラゴン、アンダルシアの住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。

近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%に当たる522万人にも上る(2000年の外国人人口は92万人であった)。

民族の一覧[編集]
スペイン人
カスティーリャ人
カタルーニャ人
バレンシア人
バスク人
カンタブリア人
アラゴン人
ガリシア人
アンダルシア人
カナリア人
アストゥリアス人
レオン人

言語[編集]

詳細は「スペインの言語」を参照

スペイン語(カスティーリャ語とも呼ばれる)がスペインの公用語であり全国で話されており、憲法にも規定されている。その他にも自治州憲章によってカタルーニャ語、バレンシア語、バスク語、ガリシア語、アラン語が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語とアラゴン語もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語(俗ラテン語)に由来するロマンス語である。、また、ラテンアメリカで話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。

ローマ帝国の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉はすたれている。

北スペインのフランス寄りに、バスク語を話すバスク人が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、他のヨーロッパと共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。

言語の一覧[編集]

現在、エスノローグはスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。
ガリシア語(ガリシア州)
スペイン語(国家公用語)
カタルーニャ語(カタルーニャ州、バレアレス諸島州)
バレンシア語(バレンシア州)
アストゥリアス語(アストゥリアス州、カスティーリャ・イ・レオン州)
アラゴン語(アラゴン州北部)
エストレマドゥーラ語(エストレマドゥーラ州の一部)
バスク語(バスク州、ナバーラ州)

宗教[編集]

詳細は「スペインの宗教」を参照

カトリックが94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディムもいた。残りは、ムスリムなど。

なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにも関わらず、近年ではローマ教皇庁が反対している避妊具の使用や同性婚を解禁するなど社会的には政教分離の思想が進んでいる点も特徴である。

教育[編集]

詳細は「スペインの教育」を参照





サラマンカ大学(1218年創立)の図書館。
スペインの教育制度は初等教育が6歳から12歳までの6年制、前期中等教育が12歳から16歳までの4年制であり、以上10年間が義務教育機関となる。後期中等教育はバチジェラトと呼ばれる16歳から18歳までの2年制であり、このバチジェラト期に進路が決定する。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり[32]、これはアルゼンチン(97.2%)やウルグアイ(98%)、キューバ(99.8%)と並んでスペイン語圏最高水準である。

主な高等教育機関としては、サラマンカ大学(1218年)、マドリード・コンプルテンセ大学(1293年)、バリャドリード大学(13世紀)、バルセロナ大学(1450年)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(1526年)、デウスト大学(1886年)などが挙げられる。大学は4年制乃至6年制であり、学位取得が出来ずに中退する学生の多さが問題となっている。

文化[編集]

詳細は「スペインの文化」および「:en:Culture of Spain」を参照





バルセロナのサグラダ・ファミリア。
情熱的で明るい、気さくなスペイン人という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ闘牛は世界中に知られている。1991年に創設されたセルバンテス文化センターによって、世界各地にスペイン語やスペイン文化が伝達されている。

食文化[編集]

詳細は「スペイン料理」を参照

スペインでは日本と異なる時間帯に食事を摂り、一日に5回食事をすることで有名。
1.デサジュノ (Desayuno) :朝食。起きがけに摂る食事。パンなどを食べる。
2.メリエンダ・メディア・マニャーナ (Merienda media Mañana) :朝の軽食。午前11時頃、サンドイッチ、タパス(おつまみ)などを食べる。
3.アルムエルソ (Almuerzo) :昼食。一日のメインの食事で、午後2時頃、フルコースを食べる。
4.メリエンダ (Merienda) :夕方の軽食。午後6時頃、タパス、おやつなどを食べる。
5.セナ (Cena):夕食。午後9時頃、スープ、サラダなどを食べる。

アルコール類[編集]
スペイン・ワイン
カバ (Cava) - シャンパーニュ地方産ではないのでシャンパンとは呼べないが、シャンパンと同じ製法で作られる発泡ワインである。主にカタルーニャ地方で造られている。
シェリー酒 - シェリーは英名。スペイン名「ヘレス」。アンダルシア地方のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ原産。
サングリア - 赤ワインを基にしたカクテル。

スペイン料理[編集]
スペイン料理
トルティージャ(トルティージャ・エスパニョーラ、トルティージャ・デ・パタータ) - ジャガイモのオムレツ
パエリア

文学[編集]

詳細は「スペイン文学」を参照





『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテス。
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌』はスペイン最古の叙事詩と呼ばれている。

スペイン文学においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスが挙げられる。

1492年から1681年までのスペイン黄金世紀の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人サン・フアン・デ・ラ・クルスの神秘主義や、ホルヘ・デ・モンテマヨールの『ラ・ディアナの七つの書』(1559) に起源を持つ牧歌小説、マテオ・アレマンの『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599, 1602) を頂点とするピカレスク小説、『国王こそ無二の判官』(1635) のロペ・デ・ベガ、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625) のティルソ・デ・モリーナなどの演劇が生まれた。

近代に入ると、1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「98年の世代」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノやオルテガ・イ・ガセト、小説家のアンヘル・ガニベ、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)やアントニオ・マチャードなどが活躍した。

スペイン内戦の時代には内戦中に銃殺された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカなどが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期にはラモン・センデールやカルメン・ラフォレ、フアン・ゴイティソーロ、ミゲル・デリーベスらがスペイン内外で活躍した。

民主化以後はカミーロ・ホセ・セラが1989年にノーベル文学賞を受賞している。

セルバンテスに因み、1974年にスペイン語圏の優れた作家に対して贈られるセルバンテス賞が創設された。

哲学[編集]

「スペインの哲学」も参照





ホセ・オルテガ・イ・ガセット。20世紀の精神に多大な影響を与えた『大衆の反逆』(1929年)で知られる。
古代ローマ時代に活躍したストア派哲学者の小セネカはコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルスでは学芸が栄え、イブン・スィーナー(アウィケンナ)などによるイスラーム哲学が流入し、12世紀のコルドバではアリストテレス派のイブン・ルシュド(アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者マイモニデスもコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン・スィーナーやイブン・ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によってアラビア語からラテン語に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学はスコラ学に大きな影響を与えた。

16世紀にはフランシスコ・デ・ビトリアやドミンゴ・デ・ソトらのカトリック神学者によってサラマンカ学派が形成され、17世紀オランダのフーゴー・グローティウスに先んじて国際法の基礎を築いた。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、ベニート・ヘロニモ・フェイホーやガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスなどの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学に覆われた。19世紀後半に入るとドイツ観念論のクラウゼ (Krause) 哲学が影響力を持ち、フリアン・サンス・デル・リオと弟子のフランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオスを中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。

20世紀の哲学者としては、「98年の世代」のキルケゴールに影響を受けた実存主義者ミゲル・デ・ウナムーノや、同じく「98年の世代」の『大衆の反逆』(1929年)で知られるホセ・オルテガ・イ・ガセット、形而上学の再構築を目指したハビエル・スビリの名が挙げられる。

音楽[編集]

詳細は「スペインの音楽」および「:en:Music of Spain」を参照





マヌエル・デ・ファリャ。
クラシック音楽においては声楽が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウス、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、モンセラート・カバリェ、テレサ・ベルガンサなどの名を挙げることができる。クラシック・ギターも盛んであり、『アランフエス協奏曲』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴや、ギター奏者のセレドニオ・ロメロ、ペペ・ロメロ、アンヘル・ロメロ一家、マリア・エステル・グスマンなどが活躍している。その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャとホアキン・アチュカーロの名が挙げられる。近代の作曲家としては、スペインの民謡や民話をモチーフとして利用した、デ・ファリャの知名度が高い。

南部のアンダルシア地方のジプシー系の人々から発祥したとされるフラメンコという踊りと歌も有名である。

美術[編集]

詳細は「スペインの芸術」および「:en:Spanish art」を参照

イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の壁画美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期にはエル・グレコが活躍している。バロック期にはフランシスコ・リバルタやホセ・デ・リベラ、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンソ・カーノ、ディエゴ・ベラスケス、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フアン・デ・バルデス・レアルなどが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤが活躍した。

19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野でサンティアゴ・ルシニョール、ラモン・カザス、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリ、ジュリ・ゴンサレス、パブロ・ガルガーリョなどが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。

映画[編集]

詳細は「スペインの映画」を参照





ペドロ・アルモドバルとペネロペ・クルス。
スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年にはルイス・ブニュエルによって『糧なき土地』(1932) が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲が行われたが、1950年代にはルイス・ガルシア・ベルランガやフアン・アントニオ・バルデムらの新世代の映像作家が活躍した。

民主化以後はホセ・ルイス・ボロウやカルロス・サウラ、マリオ・カムス、ペドロ・アルモドバル、アレハンドロ・アメナバルなどの映像作家らが活躍している。

世界遺産[編集]

スペイン国内には、ユネスコの世界遺産一覧に登録された文化遺産が34件、自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。詳細は、スペインの世界遺産を参照。

祝祭日[編集]

スペイン全国共通の祭日を以下に示す。この他に自治州の祝日や自治体単位での祝日がある。


日付

日本語表記

スペイン語表記

備考

1月1日 元日 Año Nuevo
移動祝祭日 聖金曜日 Viernes Santo 復活祭の2日前の金曜日
5月1日 メーデー Día del Trabajador
8月15日 聖母被昇天の日 Asunción
10月12日 エスパーニャの祝日 Día de la Hispanidad または Fiesta Nacional de España
11月1日 諸聖人の日 Todos los Santos
12月6日 憲法記念日 Día de la Constitución
12月8日 無原罪の聖母の日 Inmaculada Concepción
12月25日 クリスマス Navidad del Señor

スポーツ[編集]

詳細は「スペインのスポーツ」を参照

サッカー[編集]

詳細は「スペインのサッカー」を参照

スポーツにおいてスペインではサッカーが最も盛んである。スペイン代表はFIFAワールドカップに13回の出場を果たしている。1998年のフランス大会予選のときに「無敵艦隊」と呼ばれ、以後そのように呼ばれる事もある。最高成績は1950年のブラジル大会の4位を久しく上回れず、「永遠の優勝候補」などと言われてきたが、2010年の南アフリカ大会で初めて決勝に進出し、オランダ代表との延長戦の末、初めて優勝を手にした。一方欧州選手権では2012年までに3度の優勝を経験している。

また、国内のリーグ戦であるリーガ・エスパニョーラは、世界各国の有力選手が集結しイングランド(プレミアリーグ)やイタリア(セリエA)のリーグと並んで注目を集めている。特にFCバルセロナ対レアル・マドリードの対戦カードはエル・クラシコと呼ばれ、スペイン国内では視聴率50%を記録、全世界で約三億人が生放送で視聴するとも言われる。

バスケットボール[編集]

詳細は「スペインのバスケットボール」および「:en:Basketball in Spain」を参照

バスケットボールもスペイン代表が2006年に世界選手権を制覇し注目を集めている。NBAで活躍する選手も2001-2002ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したパウ・ガソルやホセ・カルデロン、セルヒオ・ロドリゲスらがいる。

サイクルロードレース[編集]

自転車ロードレースも伝統的に盛んで、ツール・ド・フランス史上初の総合5連覇を達成したミゲル・インデュラインをはじめ、フェデリコ・バーモンテス、ルイス・オカーニャ、ペドロ・デルガド、オスカル・ペレイロ、アルベルト・コンタドール、カルロス・サストレといった歴代ツール・ド・フランス総合優勝者を筆頭に(2006年、2007年、2008年、2009年と4年連続でスペイン人による総合優勝)、著名な選手を数多く輩出している。また、例年8月末から9月中旬まで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャはツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアとともに、グランツール(三大ツール)と呼ばれる自転車競技の最高峰的存在である。

モータースポーツ[編集]

近年はモータースポーツも人気を博しておりサッカーに次ぐ盛況ぶりである。ロードレース世界選手権 (MotoGP) の視聴率は40%を超えることもしばしば。世界ラリー選手権ではカルロス・サインツがスペイン人初のワールドチャンピオンに輝いた。フォーミュラ1 (F1) ではフェルナンド・アロンソが2005年(当時)F1 史上最年少世界王者に輝き、スペインのスポーツ選手人気ランキングでサッカー選手のラウル・ゴンサレス(レアル・マドリード)を抑え1位になるなど、その人気は過熱している。

テニス[編集]

テニスの水準も高く、近年注目度の高いラファエル・ナダルをはじめフアン・カルロス・フェレーロ、カルロス・モヤといった世界1位になったことのある選手等数多くの著名な選手を輩出し、男子の国別対抗戦であるデビスカップでも毎年好成績を収めている。

現在でも男子世界ランキングで100位以内の選手が一番多い国である。

その他[編集]

その他にも闘牛を行う伝統が存在する。近年ではシンクロナイズドスイミングにおいて独特の表現力で世界的に注目を集めている。

科学と技術[編集]

詳細は「スペインの科学と技術」を参照

医学[編集]

臓器移植大国である[要出典]。

著名な出身者[編集]

詳細は「スペイン人の一覧」を参照

脚註[編集]

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1.^ 1978年憲法では国名について言及している条文はないが、同憲法内ではEspañaという語は23回使われている。またEstado españolという語は2回使われている。国家を意味するEstado(英語のStateに相当)が大文字となっているため、このEstadoは固有名詞の一部と考えられる。しかしReino de Españaという表現は同憲法内では全く使用されていないが、一般には使われることも多い。(Gobierno de España, La Moncloa. Constitución Española (Report).参照)
2.^ “'First west Europe tooth' found”. BBC. (2007年6月30日) 2008年8月9日閲覧。
3.^ a b c d Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Hispania”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
4.^ a b Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 1 Ancient Hispania”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
5.^ a b Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Castile and Aragon”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
6.^ “The Treatment of Jews in Arab/Islamic Countries”. 2008年8月13日閲覧。 See also: “The Forgotten Refugees”. 2008年8月13日閲覧。 and “The Almohads”. 2008年8月13日閲覧。
7.^ Islamic and Christian Spain in the Early Middle Ages. Chapter 5: Ethnic Relations, Thomas F. Glick
8.^ a b c Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 2 Al-Andalus”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
9.^ “Ransoming Captives in Crusader Spain: The Order of Merced on the Christian-Islamic Frontier”. 2008年8月13日閲覧。 See also: Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 4 Castile-León in the Era of the Great Reconquest”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
10.^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 5 The Rise of Aragón-Catalonia”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
11.^ “The Black Death”. Channel 4. 2008年8月13日閲覧。
12.^ “The Treaty of Granada, 1492”. Islamic Civilisation. 2008年8月13日閲覧。
13.^ Spanish Inquisition left genetic legacy in Iberia. New Scientist. December 4, 2008.
14.^ a b Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - The Golden Age”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
15.^ エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』大久保光夫訳 新評論 1986
16.^ Payne, Stanley G. (1973年). “A History of Spain and Portugal; Ch. 13 The Spanish Empire”. The Library of Iberian Resources Online. 2008年8月9日閲覧。
17.^ “The Seventeenth-Century Decline”. The Library of Iberian resources online. 2008年8月13日閲覧。
18.^ Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Spain in Decline”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
19.^ Rinehart, Robert; Seeley, Jo Ann Browning (1998年). “A Country Study: Spain - Bourbon Spain”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
20.^ Gascoigne, Bamber (1998年). “History of Spain: Bourbon dynasty: from AD 1700”. Library of Congress Country Series. 2008年8月9日閲覧。
21.^ (Gates 2001, p.20)
22.^ (Gates 2001, p.467)
23.^ Spanish Civil War crimes investigation launched, Telegraph, October 16, 2008
24.^ Spanish Civil War fighters look back, BBC News, February 23, 2003
25.^ Pfanner, Eric (2002年7月11日). “Economy reaps benefits of entry to the 'club' : Spain's euro bonanza”. International Herald Tribune 2008年8月9日閲覧。 See also: “Spain's economy / Plain sailing no longer”. The Economist (2007年5月3日). 2008年8月9日閲覧。
26.^ “Al-Qaeda 'claims Madrid bombings'”. BBC. 2008年8月13日閲覧。 See also: “Madrid bombers get long sentences”. BBC. 2008年8月13日閲覧。
27.^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・5』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、126〜140頁
28.^ 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2012年4月公表)
29.^ IMF: World Economic Outlook Database
30.^ スペインの失業率がさらに上昇(CNN.co.jp)2011年4月30日
31.^ “希望を失うスペイン国民の悲哀”. JBpress (フィナンシャル・タイムズ). (2012年11月6日)
32.^ CIA World Factbook "Spain" 2010年11月8日閲覧。

参考文献[編集]
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牛島信明、川成洋、坂東省次編 『スペイン学を学ぶ人のために』 世界思想社、京都、1999年5月。ISBN 4-12-101564-8。
エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。
田沢耕 『物語カタルーニャの歴史──知られざる地中海帝国の興亡』 中央公論社〈中公新書1564〉、東京、2000年12月。ISBN 4-12-101564-8。
立石博高編 『スペイン・ポルトガル史』 山川出版社〈新版世界各国史16〉、東京、2000年6月。ISBN 4-634-41460-0。
野々山真輝帆 『スペインを知るための60章』 明石書店〈エリア・スタディーズ23〉、東京、2002年10月。ISBN 4-7503-1638-5。
坂東省次、戸門一衛、碇順治編 『現代スペイン情報ハンドブック[改訂版]』 三修社、東京、2007年10月。ISBN 4-7503-1638-5。
渡部哲郎 『バスクとバスク人』 平凡社〈平凡社新書〉、東京、2004年4月。ISBN 4-7503-1638-5。

関連項目[編集]

ウィクショナリーにスペインの項目があります。
スペイン関係記事の一覧
スペインによるアメリカ大陸の植民地化
セルバンテス文化センター

スペインに関する著書が多い作家・文化人[編集]
堀田善衛 - 小説家
天本英世 - 俳優
逢坂剛 - 推理作家
俵万智

カスティーリャ王国

カスティーリャ王国(カスティーリャおうこく、スペイン語: Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。

Castilla の日本語表記は、カスティーリャ、カスティリャ、カスティリア、カスティーヤ、カスチラと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。



目次 [非表示]
1 カスティーリャ伯領
2 カスティーリャ=レオン王国
3 カスティーリャ王国統一
4 トラスタマラ朝
5 新大陸
6 スペイン王国
7 参考文献
8 関連項目


カスティーリャ伯領[編集]

8世紀初頭にイスラム教勢力がイベリア半島を侵略、キリスト教勢力は、半島北端のカンタブリア山脈以北および北東部のピレネー山脈山麓周辺に追いつめられた。カンタブリア山脈の北ではアストゥリアス王国が成立、イスラム軍と衝突しつつも、徐々に南方へ領域を広げていき、914年、レオンへ遷都した(これ以降はレオン王国と呼ばれる)。レオン王国の東部地域は、メセータと呼ばれる周りを山々に囲まれる高原が広がり、常にイスラム軍の侵攻ルートとして使われ、戦闘が繰り返された。この地域の住人は、防衛のため多くの城塞を作った。この地域がカスティーリャと呼ばれるようになったのは、スペイン語で城を意味するカスティーリョ(castillo)に由来すると言われる。当初この地は複数の伯領に分かれていたが、最前線としての軍事力強化を目的として、932年にカスティーリャ伯領として統合された。カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスは、レオン王国内での地位を強め、伯領に対する王国の支配力を排斥し、961年には事実上独立した。

1029年に、カスティーリャ伯ガルシア・サンチェスが暗殺されると、その妹を妃としていたナバーラ王サンチョ3世が伯領を継承し、ナバーラ王国に併合した。この頃、イベリア半島の中部および南部のイスラム圏(アル=アンダルス)では後ウマイヤ朝が内紛で衰退し、タイファと呼ばれる小国が乱立する群雄割拠の時代に向かっていた。タイファの多くは、キリスト教国のナバーラ王国に貢納しつつ、タイファ間での戦争により、ますます疲弊していった。

カスティーリャ=レオン王国[編集]





サンチョ3世時代。赤がナバーラ王国で、カスティーリャはその最も西の逆T字形の部分




1210年のイベリア半島
1035年にサンチョ3世が死去すると、ナバーラ王国領は4人の王子によって分割相続された。カスティーリャを相続した次男フェルナンド1世はカスティーリャ王を称し、さらに、1037年にはレオン王ベルムート3世を倒してレオン王位をも獲得する。こうしてカスティーリャ=レオン王国が誕生した。

フェルナンド1世の死後も分割相続されたが(1065年)、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世は弟や妹らの領地を力ずくで再統合すべく行動を起こす。しかし、最後に残った都市サモーラを攻囲中にサンチョ2世は暗殺された。その結果、亡命していた弟のレオン王アルフォンソ6世が1072年にカスティーリャの王位も得て、再び両王国は同君連合となった。アルフォンソ6世は1085年、イスラム国のトレドを攻略し、さらに支配領域を拡大させようとした。危機感を抱いたタイファ諸国は、アフリカのムラービト朝に援助を求めた。ムラービト朝はそれに応えて1086年に兵を上陸させ、サグラハスの戦いにおいてアルフォンソ6世率いるカスティーリャ軍を撃破した。敗れたアルフォンソ6世はトレドまで撤退した。決戦に敗れはしたが、アルフォンソ6世はイベリア半島の中央部を流れるタホ川流域以北をキリスト教圏とすることに成功した。一方、南部のアル=アンダルスでは、ムラービト朝によってタイファ諸国が併合され、統一された。

アルフォンソ7世の時代に、カスティーリャ王国からポルトガル王国が独立した(1143年)。また、ムラービト朝に代わりムワッヒド朝がイベリア半島南部を統治する。1157年にムワヒッド軍との戦いでアルフォンソ7世が戦死すると、カスティーリャ=レオン王国は再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世のレオン王国とに分かれた。カスティーリャ王国は、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国、ポルトガル王国とは国境線をめぐって戦闘が繰り返された。ムワッヒド朝との戦いも進展せず、一進一退を繰り返していた。

このような状況で、教皇インノケンティウス3世は、キリスト教諸国間の争いをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争に邁進することを命じた。これに従い、カスティーリャにはレオン、ポルトガル、アラゴン、ナバラ各国の兵、さらにテンプル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが集結した。ムワッヒド朝のカリフ、ムハンマド・ナースィルも、10万以上の兵を集め、キリスト教連合軍を撃ち破るべく北上する。両軍は1212年7月16日にラス・ナバス・デ・トローサで決戦し、キリスト教連合軍が勝利した(ラス・ナバス・デ・トローサの戦い)。この戦いによって、ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失い、イスラム勢力圏は再び小国乱立状態となり、その多くはタイファ同士の主導権争いで敗れたり、勢いづいたキリスト教諸国の餌食になり、滅びた。その中でグラナダを首都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。


Castilla and Leon.png

カスティーリャ王国統一[編集]

カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘とレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は、1217年にカスティーリャ王となっていたが、父の死に伴い1230年にレオン王位を継承した。レオンとカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降両国が分かれることはなかったため、単にカスティーリャ王国と呼ばれる。

1236年にコルドバの攻略に成功、1246年にはナスル朝を臣従させる。1248年のセビリャ攻略には、ナスル朝からも兵を拠出させ、長期戦の末に陥落させた。こうして、イベリア半島のイスラム国はナスル朝グラナダ王国のみとなった。

フェルナンド3世の後を継いだアルフォンソ10世は、カスティーリャとレオンで異なっている政治制度、法律、通貨、税制、度量衡などの統一にとりかかり、ローマ法を元に『七部法典』を編纂した。首都トレドでは、アラビア語で書かれた医学、数学、天文学の著作がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにもたらされた。

アルフォンソ11世は、『七部法典』を実施に移した。グラナダ王国は、アフリカのマリーン朝と提携してカスティーリャ王国に対抗していたが、1340年のサラードの戦いでカスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝にイベリア半島から手を引かせ、グラナダ王国を孤立化させた。しかし、グラナダを攻略することはできなかった。1343年にカタルーニャに上陸したペストは、翌年カスティーリャでも猛威を振るい、全人口の2割近くが死亡した。また、王権強化を目指す王は下級貴族を登用し、有力貴族を押さえようとするが、既得権を守りたい有力貴族は反発し、王位継承権をめぐる争いに発展する。ペドロ1世と庶子であるエンリケ2世の王位継承権争いは、アラゴン、グラナダ、さらには、百年戦争中のフランスとイングランドの介入を招き、戦乱が拡大する(第一次カスティーリャ継承戦争)。1369年、ペドロ1世がモンティエールの戦いで戦死、エンリケ2世がカスティーリャ王に即位し、トラスタマラ朝が開かれた。

トラスタマラ朝[編集]





イサベル1世がカスティーリャ王に即位した1474年におけるイベリア半島の勢力地図




グラナダ開城。右側がカトリック両王(イサベルとフェルナンド)
エンリケ3世が死去すると、息子フアン2世が即位し、エンリケ3世の弟フェルナンドが摂政となった。フェルナンドは1410年、対グラナダ戦争を開始し、アンテケーラを攻略した。フェルナンドは1412年にアラゴン王に選出され(カスペの妥協)、フェルナンド1世となるが、その後もカスティーリャの宮廷に影響力を及ぼし続けた。フェルナンドの死後も息子たちが権勢を振るっていたが、成人したフアン2世とカスティーリャ貴族らはこれを追放、アラゴンとの関係は悪化した。

エンリケ4世は有力貴族らとの間で争ったが、1468年にトロス・デ・ギサント協定を結び、王位継承者を娘のフアナ・ラ・ベルトラネーハではなく、貴族らが推す異母妹のイサベル1世とすることに同意した。1474年にイサベル1世が即位すると、アラゴン王太子である夫のフェルナンド5世を共同統治者とした。一方、ポルトガル王妃となっていたフアナ・ラ・ベルトラネーハもカスティーリャ女王即位を宣言し、カスティーリャはイサベル支持派とフアナ支持派とに分裂する。フアナ支持派とポルトガルの連合軍に対し、イサベル派とアラゴンの連合軍は戦闘に勝利し、1479年、ポルトガルはイサベルの王位継承を承認した。同年にフェルナンドもアラゴン王に即位し(アラゴン王としてはフェルナンド2世)、カスティーリャとアラゴンが同君連合となった。イサベルとフェルナンドは国内の反対派を討伐した後、1482年に、対グラナダ戦争を開始する。そして1492年、グラナダは陥落し、レコンキスタは終結した。

1504年にイサベルが死去すると、ハプスブルク家に嫁いでいた娘フアナが女王に即位、フェルナンド5世が摂政となった。1515年、ナバラ王国を併合し、イベリア半島はカスティーリャ=アラゴン連合王国(すなわちスペイン王国)とポルトガル王国の2ヶ国となった。

新大陸[編集]

詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照

1492年、クリストファー・コロンブスが西インド諸島に到達。1494年にポルトガルとの間で締結されたトルデシリャス条約に基づき、カスティーリャ王国は、アメリカ大陸をその領土にする。

スペイン王国[編集]

フェルナンド2世が死去すると、孫のカルロス1世がアラゴン、カスティーリャ両王に即位する。これにより、ハプスブルク朝スペインが成立する。ただしこの時点では、カスティーリャ王国はスペインを構成する国の1つとして、政治的に独自性を保持し続けた。カスティーリャ王国がスペイン王国に糾合され正真正銘消滅するのは、スペイン継承戦争を経てブルボン朝スペインが成立した後、フェリペ5世の時代に、国内の中央集権化が実施されたときであった。

ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa、ミランダ語:República Pertual)、通称ポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。

ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家であり、かつてはヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者ともなった。そのためヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った国家でもある。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 先史時代とローマ化
2.2 ゲルマン諸王国とイスラームの侵入
2.3 ポルトガル王国の盛衰
2.4 近代のポルトガル
2.5 共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制
2.6 カーネーション革命以降

3 政治 3.1 統治機構
3.2 最近の政治状況

4 軍事
5 国際関係 5.1 日本との関係

6 地方行政区分 6.1 主要都市

7 地理 7.1 気候

8 経済
9 交通 9.1 道路
9.2 鉄道
9.3 航空機

10 国民 10.1 言語
10.2 宗教
10.3 婚姻
10.4 教育

11 文化 11.1 食文化
11.2 文学
11.3 音楽
11.4 美術
11.5 映画
11.6 世界遺産
11.7 祝祭日

12 スポーツ 12.1 サッカー
12.2 陸上競技
12.3 その他

13 著名な出身者 13.1 政治家
13.2 聖職者
13.3 文学者
13.4 音楽家
13.5 芸術家
13.6 スポーツ関係者

14 脚註
15 参考文献
16 関連項目
17 外部リンク


国名[編集]

正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa(レプーブリカ・ポルトゥゲザ)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。

公式の英語表記は、Portuguese Republic (ポーチュギーズ リパブリク)。通称、Portugal (ポーチュゴル)。日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字では葡萄牙と表記され、 葡と略される。

歴史[編集]

詳細は「ポルトガルの歴史」を参照

先史時代とローマ化[編集]

現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。

紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の支配が完成し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。

ゲルマン諸王国とイスラームの侵入[編集]





紀元560年のイベリア半島の勢力図。スエヴィ王国と西ゴート王国が並立している。ピンクはローマ領ヒスパニア属州。
ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。 

キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコパドンガの戦い(英語版)の勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領(英語版)が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。

ポルトガル王国の盛衰[編集]

ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。

ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。

ディニス1世の下で最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。





16世紀ポルトガルの領土拡張。
ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。1494年にスペインとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定し、条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った[1]。一方、1509年のディウ沖海戦(英語版)で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年〜1543年には日本へもやってきた[2]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。





ジョアン4世の即位(ポルトガルの独立回復)。
こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。

スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした[3]ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約(英語版)で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(英語版)(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。

広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。

1755年のリスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。

近代のポルトガル[編集]





19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域。
ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争(ポルトガル語版)の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。

ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制の下でロタティヴィズモ(ポルトガル語版)と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモ(ポルトガル語版)(葡: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。

また、19世紀になっても工業化が進まず、農業に於いても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域を巡って対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した[4]。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。その他にも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。

共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制[編集]





共和制革命の寓意画。
1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく第一次世界大戦が終結した後も政治不安は続いた。

幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返した後、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領の下で財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。 [5]

対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。

第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード(英語版)将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン(英語版)退役大尉が指導するイベリア解放革命運動(スペイン語版)によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。





アンゴラに展開するポルトガル軍。脱植民地化時代にもポルトガルはアフリカの植民地維持のために戦争を続け、植民地とポルトガル双方に大きな傷跡を残す激しいゲリラ戦争が繰り広げられた。
一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争(英語版)が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻(英語版))、同植民地を喪失した。ギニアとモザンビークでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニア・ビサウ独立戦争(英語版)が始まり、1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。

サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相俟って1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。

1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り[6]、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動(ポルトガル語版)」が結成された。翌1974年3月に大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(英語版)」(MFA)に再編された。

カーネーション革命以降[編集]





「自由の日、4月25日万歳」、カーネーション革命を記念する壁画。
1974年4月25日未明、国軍運動(英語版)(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血の内にカーネーション革命が達成された。革命後共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE(英語版)が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍は革命を抑制する方針を採ったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス(英語版)、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)と結んだコスタ・ゴメス(英語版)将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制の下で急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことを以て革命は穏健路線に向かった。この間海外植民地では既に1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5ヶ国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオも中華人民共和国から軍事侵攻を仄めかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけは植民地として残った)、レトルナードス(ポルトガル語版)と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。

1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ(英語版)、モタ・ピント(英語版)、ピンタシルゴと三つの内閣が成立したが、何れも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ(英語版)が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァの下で1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。

1990年代に入り経済が失速したことを受けて1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権の下では1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが中華人民共和国に返還され、実質上植民地を全て手放し、2002年に名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールが独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりと共に生まれたポルトガル帝国は、名実共にその歴史を終えて消滅した。

政治[編集]

詳細は「ポルトガルの政治」および「:en:Politics of Portugal」を参照





共和国議会が置かれているサン・ベント宮殿。




大統領府、ベレン宮殿。
大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。

一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。

憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。

統治機構[編集]

政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(一回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、及び国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。

大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出等の権限を有するが、多分に名誉職的な性格が強く、ほとんどの行政権限は議会で多数得た政党から選ばれる首相が掌握している。

「ポルトガルの大統領」および「ポルトガルの首相」も参照

最近の政治状況[編集]
2005年2月の総選挙により、社会党が1976年の民主化以降初めて単独過半数を獲得。同年3月社会党党首ジョゼ・ソクラテスが首相に就任。
2006年1月22日、大統領選挙が行われる。社会民主党アニバル・カヴァコ・シルヴァ50.6%の得票で当選。無所属で立候補した社会党マヌエル・アレグレは20.7%、社会党マリオ・ソアレスは14.3%、共産党のデ・ソウザは8.6%をそれぞれ獲得した。
2011年3月の大統領選でアニバル・カヴァコ・シルヴァが再戦。
2011年6月の総選挙にて社会党が敗北。社会民主党の党首ペドロ・パッソス・コエーリョが首相に就任。

「ポルトガルの政党」および「:en:List of political parties in Portugal」も参照

軍事[編集]

詳細は「ポルトガルの軍事」を参照

ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍22,400人、海軍14,104人、空軍8,900人。他に国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。

2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。

国際関係[編集]

詳細は「ポルトガルの国際関係」および「:en:Foreign relations of Portugal」を参照





ポルトガルが外交使節を派遣している諸国の一覧図。
NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとって最も重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。

旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。

EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。

2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張している為、同国と対立している。しかし、同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。

日本との関係[編集]

詳細は「日葡関係」を参照
ポルトガル出身のイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは、1577年に来日し、その後1620年にマカオで語学書「日本語小文典」を発行している[7]。
岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある[8]。

地方行政区分[編集]

詳細は「ポルトガルの地域区分」を参照

ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。

主要都市[編集]

詳細は「ポルトガルの都市の一覧」を参照

2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70%〜90%(例えば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。



都市

人口


都市

人口

1 リスボン 564,657 11 ケルス 78,040
2 ポルト 263,131 12 アヴェイロ 55,291
3 ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア 178,255 13 ギマランイス 52,181
4 アマドーラ 175,872 14 オディヴェラス 50,846
5 ブラガ 109,460 15 リオ・ティント 47,695
6 アルマーダ 101,500 16 ヴィゼウ 47,250
7 コインブラ 101,069 17 ポンタ・デルガダ 46,102
8 フンシャル 100,526 18 マトジーニョス 45,703
9 セトゥーバル 89,303 19 アモーラ 44,515
10 アグアルヴァ=カセーン 81,845 20 レイリア 42,745
2004年調査

地理[編集]

詳細は「ポルトガルの地理」および「:en:Geography of Portugal」を参照





ポルトガルの地図。




アルガルヴェの海岸。




アソーレス諸島のピコ島。
アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中で最も西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500km離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900km離れている。

ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351m。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991m。エストレーラとは星を意味する。

東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第二の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km2にとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。

気候[編集]

本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候 (Cs) に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200から1,500mmである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500から700mmである。南部は典型的な地中海性気候である。そのため、夏季の雨量が少なく年間降水量は500mmを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。

首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706mmである。冬季の雨量は100mm程度だが、夏季は数mmにとどまる。

経済[編集]

詳細は「ポルトガルの経済」および「:en:Economy of Portugal」を参照





ポルトガルのコルク。
1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。

1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。一人当たり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。

主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛ん。オリーブ油の生産高は世界7位。ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)。森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている[9]。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている[9]。

鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。主な鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。

2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易。主な輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)。主な相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。主な輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)。主な相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。

2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。主な品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの2/3はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアについで2位。輸入が6.5億ドル。主な品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。

2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある[10]。

交通[編集]

詳細は「ポルトガルの交通」および「:en:Transport in Portugal」を参照

道路[編集]

国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。

主な高速道路は以下のとおり。
A1 リスボン - ポルト
A2 アルマダ - アルガルヴェ地方 リスボン市へはテージョ川を4月25日橋で渡る。
A3 ポルト - スペイン・ガリシア地方国境方面
A4 ポルト - アマランテ
A5 リスボン - カスカイス
A6 マラテカ - スペイン・バダホス国境方面 国境にてマドリッド方面のA-5に接続。

鉄道[編集]

詳細は「ポルトガルの鉄道」を参照
ポルトガル鉄道(CP)
リスボンメトロ リスボン市
ポルトメトロ ポルト都市圏

航空機[編集]

リスボン、ポルト、ファロが主な国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。
TAPポルトガル航空
SATA Air Açores - ポルトガル のアソーレス諸島を中心とした航空会社

国民[編集]

詳細は「ポルトガルの人口統計」および「:en:Demographics of Portugal」を参照





ポルトガル語圏諸国を表す地図。




ジェロニモス修道院。




コインブラ大学。
ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。

かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには1881年から1931年までの期間にかけて実に185万人が移住した。ブラジル以外にもベネスエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。

しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。

このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。

言語[編集]

詳細は「ポルトガルの言語」および「:en:Languages of Portugal」を参照

言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)[11]が公用語である。

1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。

また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。

宗教[編集]

詳細は「ポルトガルの宗教」を参照

宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。

婚姻[編集]

婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置、あるいは後置することを選択することが可能である。

教育[編集]

詳細は「ポルトガルの教育」および「:en:Education in Portugal」を参照

6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。

主な高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。

2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり[12]、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。

文化[編集]

詳細は「ポルトガルの文化」および「:en:Culture of Portugal」を参照

ポルトガルの文化は、イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人等の影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダーデ」(Saudade)という言葉がある。

食文化[編集]

詳細は「ポルトガル料理」を参照





ポルトワイン。




ポルトガルのフェジョアーダ。
ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、鰯、鯖、鮟鱇などの多様な魚の中でも、特に干鱈(バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。他には豚肉が使われる。主な料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。

ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。

文学[編集]

詳細は「ポルトガル文学」を参照





ルイス・デ・カモンイス。ポルトガルの民族叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1572年)を残した。




ノーベル文学賞作家、ジョゼ・サラマーゴ。『白の闇』(1995)はブラジルのフェルナンド・メイレリスによって『ブラインドネス』として映画化された。
ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。

16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている[13]。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。

17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダーデ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。

現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。

カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。

音楽[編集]

詳細は「ポルトガルの音楽」および「:en:Music of Portugal」を参照

ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれて来た。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。

ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽/ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920~1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。その他にも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼び難いが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。

近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。

また、ポルトガルは近来、デス/ブラック/シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。

美術[編集]





ジョゼ・マリョア画『ファド』。
絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスが最も傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラの他に傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだフランシスコ・ヴィエイラやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、ロマン主義派のフランシスラコ・メトラスが活躍した。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義の下にポルトガル北部の田園風景を描いたシルヴァ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。

ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。

映画[編集]

詳細は「ポルトガルの映画」を参照

ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5ヶ月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。

現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。

世界遺産[編集]

ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ポルトガルの世界遺産を参照。





アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモ中心地区 - (1983年)






リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 - (1983年)






バターリャ修道院 - (1983年)






トマールのキリスト教修道院 - (1983年)






エヴォラ歴史地区 - (1986年)






アルコバッサ修道院 - (1989年)






シントラの文化的景観 - (1995年)






ポルト歴史地区 - (1996年)






コア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群 - (1998年)






マデイラ島の照葉樹林 - (1999年)






アルト・ドウロ・ワイン生産地域 - (2001年)






ギマランイス歴史地区 - (2001年)






ピコ島のブドウ畑の景観 - (2004年)


祝祭日[編集]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日 Ano Novo
2月 カルナヴァル Carnaval 移動祝日
3月〜4月 聖金曜日 Sexta-Feira Santa 復活祭前の金曜日
3月〜4月 復活祭 Páscoa 移動祝日
4月25日 解放記念日 Dia da Liberdade カーネーション革命(1974年)記念日
5月1日 メーデー Dia do Trabalhador
6月10日 ポルトガルの日 Dia de Portugal カモンイスの命日
6月 聖体の祝日 Corpo de Deus 移動祝日
復活祭60日後
6月13日 聖アントニオの日 Dia de Santo António リスボンのみ
6月24日 聖ジョアンの日 Dia de São João ポルト、ブラガのみ
8月15日 聖母被昇天祭 Assunção de Nossa Senhora
10月5日 共和国樹立記念日 Implantação da República
11月1日 諸聖人の日 Todos os Santos
12月1日 独立回復記念日 Restauração da Independência 1640年にスペインとの同君連合を廃絶
12月8日 無原罪の聖母 Imaculada Conceição
12月25日 クリスマス Natal

スポーツ[編集]

詳細は「ポルトガルのスポーツ」および「:en:Sport in Portugal」を参照

サッカー[編集]

サッカーが盛んであり、1934年に国内の1部リーグスーペル・リーガが創設され、主なプロクラブとしてSLベンフィカ、FCポルト、スポルティング・リスボンの名が挙げられる。ポルトガル代表は初出場となった1966年のイングランド大会以降、1986年のメキシコ大会、2002年の日韓共同大会、2006年のドイツ大会、2010年の南アフリカ大会と合計5回のワールドカップに出場している。

陸上競技[編集]

陸上競技においては、1984年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウルオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタなどの名を挙げることが出来る。

その他[編集]

ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり、基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコスではポルトガル全土で唯一牛を殺す闘牛が行われている[14]。

著名な出身者[編集]

詳細は「ポルトガル人の一覧」を参照

王族以外のポルトガル出身者・関係者を挙げる。

政治家[編集]
アントニオ・サラザール - 元大学教授、元首相、大統領。独裁者。
ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ - 元首相、欧州連合の欧州委員会委員長。
マリア・デ・ルルデス・ピンタシルゴ - 同国初の女性首相。その後欧州議会議長。

聖職者[編集]
ジョアン・ロドリゲス - イエズス会士、ならびに通訳士。
ルイス・フロイス - イエズス会士、『フロイス日本史』の著者。

文学者[編集]
ルイス・デ・カモンイス - 国民詩人、『ウズ・ルジアダス』の著者。
フェルナンド・ペソア - 詩人
ヴェンセスラウ・デ・モラエス - 海軍軍人、外交官、知日家
ジョゼ・サラマーゴ - ノーベル文学賞作家

音楽家[編集]
ルイス・デ・フレイタス・ブランコ - 作曲家
アマリア・ロドリゲス - ファドの歌手
マリア・ジョアン・ピリス - ピアニスト
ネリー・ファータド - ポルトガル系カナダ人歌手。両親がアソーレス諸島出身。

芸術家[編集]
ファティマ・ロペス - ファッションデザイナー
アルヴァロ・シザ - 建築家
マノエル・デ・オリヴェイラ - 映画監督

スポーツ関係者[編集]
ジョゼ・モウリーニョ - リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード監督
ルイス・フィーゴ - サッカー選手
マヌエル・ルイ・コスタ - サッカー選手
クリスティアーノ・ロナウド - サッカー選手、リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード
デコ - サッカー選手。ブラジル生まれでポルトガル国籍を取得
エウゼビオ - サッカー選手。モザンビーク出身
ティアゴ・モンテイロ - F1ドライバー
ペドロ・ラミー - 元・F1ドライバー
セルジオ・パウリーニョ - 自転車ロードレース選手
ルイ・コスタ - 自転車ロードレース選手
ロザ・モタ - 女子マラソン選手
フェルナンド・マメーデ - 元陸上選手

ブルゴーニュ王朝

ブルゴーニュ王朝は、1143年から1383年までポルトガルを支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュ(Bourgogne)はフランス語名であり、ポルトガル語に基づいてボルゴーニャ王朝(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者であるアフォンソ1世の父親アンリがフランスのブルゴーニュ出身であることに由来する[1]。カスティーリャ王国およびレオン王国の王朝にも同じくブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝と呼ばれるものがあるが、起源が異なる。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 王国の成立
1.2 レコンキスタ
1.3 繁栄期
1.4 王朝の交代

2 社会
3 経済
4 文化 4.1 建築
4.2 文学、言語
4.3 大学の設立

5 歴代国王
6 系図
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目


歴史[編集]

王国の成立[編集]





オーリッケの戦い
ポルトガル王国の起源は、イベリア半島におけるキリスト教国のレコンキスタ(国土回復運動)に始まる[2]。

フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)は、十字軍運動の一環としてカスティーリャ=レオン王国のレコンキスタに参加した。1096年にエンリケはカスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)からポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵位を授けられ、王女テレサと結婚した。

アンリの死後、ポルトガルではガリシアの大貴族トラヴァス家が勢力を広げ、在地の貴族たちはガリシアの拡大に抵抗を示した[3]。ポルトガルの貴族、サンティアゴ大司教の干渉に不満を抱くポルトガルの司教たちは協力して外部の勢力に抵抗し、彼らはアンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)を指導者に選出した[4]。アフォンソ1世は従兄であるカスティーリャ=レオンのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した[2]。ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた[5]。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結び、1179年にローマ教皇庁から正式に国王として認められた[1][5][6]。

レコンキスタ[編集]

アフォンソ1世の治世では首都コインブラを本拠としてレコンキスタが進められ、1147年にアフォンソ1世はイスラム教徒からリスボンを奪取した。モンデゴ川以北ではプレスリア(自由小土地所有者)の中から現れた平民騎士(カヴァレイロ・ヴィラン)がレコンキスタの主戦力として活躍し、モンデゴ川以南の地域では十字軍騎士と騎士修道会が戦争と植民に従事していた[5]。レコンキスタによる南下はさらに続き、1168年までにアレンテージョ地方全域がポルトガルの支配下に入った[7]。西方十字軍の呼びかけに応じた国外の兵士もポルトガルのレコンキスタに参加し、ポルトガルは1147年のリスボン奪還から1217年のアルカセル・ド・サル奪還までの6度の戦闘で彼らの支援を受ける[8]。また、領土を拡張するポルトガルは、レコンキスタの過程で同じキリスト教国であるレオン王国とたびたび衝突した。

イスラーム勢力との戦いはその後も一進一退を繰り返したが、1212年にナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教軍が決定的な勝利を収め、キリスト教諸国の南下はより進展する[9][10]。サンシュ2世はアレンテージョ全土を回復し、1238年にタヴィラ、カセーラ、東アルガルヴェを奪還した。1249年にポルトガルの国土は南部海岸に達し、イスラーム勢力の飛び地となっていたアルガルヴェ東部のファロとシルヴェスを陥落させたことでポルトガルのレコンキスタは完了する。一連のイスラーム勢力との戦争で国王と領主が獲得した富の多くが大聖堂、修道院、教会などの宗教施設に充てられ、12世紀半ばから13世紀半ばにかけての宗教建築熱と技術の発展を促した[11]。また、レコンキスタの過程で奪還した土地では、イスラーム的な中央集権制度を望む国王と特権を求める封建貴族の対立が表面化していく[12]。

南部からイスラーム勢力を駆逐した後、ポルトガルはカスティーリャとアルガルヴェを巡って争うが、1267年までにアルガルヴェの領有権を確保した。

繁栄期[編集]

サンシュ2世の治世にポルトガルは混乱期を迎え、1245年にサンシュ2世は教会から廃位を宣告された[13]。代わって国王に擁立されたサンシュ2世の弟アフォンソ3世は混乱を収拾し、1249年にレコンキスタを完了させる。1255年、アフォンソ3世はコインブラからリスボンに遷都した。市民の反発を受けながらもアフォンソ3世はリスボン市内の国王の権限を拡大し、ポルトガル王はリスボンの最大の庇護者となる[14]。

次のディニス1世の治世にポルトガル中世の繁栄期が訪れる[13][15]。1289年に国王と聖職者との間に協定が結ばれ、アフォンソ2世の時代から続いていた教会との抗争が終息する[16]。中央集権化を進めるためにポルトガルにローマ法が導入され、複数の国にまたがって活動する騎士団勢力は王権の支配下に組み入れられた[17]。ディニス1世の治下では殖民と干拓が推進され、多くの入植地に定期市の開催を認める特許状が発布されて国内交易が活発になる[18]。農業の発達による収穫量の増加は国内外の商業の発展にもつながり、ジェノヴァ、フィレンツェなどのイタリア商人が王国内で本格的な活動を始める[13]。

1295年から1297年にかけて、ポルトガルは長らく友好関係にあったカスティーリャと交戦し、アラゴン王国と連合してカスティーリャの内戦に介入する。戦争の結果、ポルトガルはコア川(ポルトガル語版)とアゲダ川(ポルトガル語版)間の地域を獲得した。また、1297年に締結されたアルカニセス(アルガニーゼス)条約によってポルトガルとカスティーリャ王国との国境が確定し、この条約によって引かれた国境線はヨーロッパ最古の国境として長らく存続し続ける[19]。海運の安定化を図るために保険制度が創設され、1317年にはジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャを招聘して海軍が増強された[13]。

王朝の交代[編集]





アヴィス王朝の創始者ジョアン1世
14世紀中ごろにヨーロッパ・地中海世界で流行したペスト(en)は1348年にポルトガル王国でも流行し、王国の人口の約3分の1が失われた[20][21][22]。労働人口が減少した農村部では、領主の搾取に抵抗する農民一揆が各地で頻発した[21]。労働力の確保を求める貴族・領主は国王に迫って農民の移動を制限する法令を発布させたが、効果は現れなかった[22]。この危機の中でリスボン商人を初めとする一部の富裕層は輸出で利益を上げ、国王は彼らの支持を得ようと頻繁にコルテス(身分制議会)を開いた[22]。

1345年に即位したフェルナンド1世はカスティーリャの王位継承問題に介入し、3度にわたって戦争を挑んだが勝利を収めることができなかった。フェルナンド1世はカスティーリャの王位継承権をイングランドエドワード3世の息子であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに譲り、カスティーリャはフランスと同盟したため、カスティーリャ王位を巡る戦争は百年戦争の展開と連動する(第一次カスティーリャ継承戦争)[23]。また、1378年からの教会大分裂の中でポルトガルはローマとアヴィニョンの教皇を交互に支持したが、戦争と教会大分裂はポルトガルに大きな痛手を与えることになる[24]。戦争に敗れたポルトガルの国土は荒廃し、海軍は壊滅した[23][24]。このため、フェルナンド1世は娘のベアトリスをカスティーリャ王子フアン(のちのフアン1世)の元に嫁がせなければならなくなった[23][21]。

フェルナンド1世はディニス1世の路線を継承した経済政策を実施し、外交とは反対に一定の成果を挙げた[25]。収穫量を増やすために農民に課した租税を軽減し、未開地の所有者には開墾に従事した人間に土地を譲渡することが義務付けられた。海上交易を推進するため、造船の規制が緩和され、リスボンとポルトには海上保険機関が設置された。

1383年にフェルナンド1世が没すると、後継者問題が生じてポルトガルは政治的危機に見舞われる。国内はベアトリスの母である摂政レオノールの派閥と、ペドロ1世の庶子であるアヴィス騎士団長ドン・ジョアンの派閥に分かれ、大貴族は前者、中小貴族と都市民は後者を支持した[21]。1383年12月にレオノールの派閥を支持するカスティーリャのフアン1世がポルトガルに侵攻すると、大法官アルヴァロ・パイスとリスボン市民の一部はドン・ジョアンをポルトガルの指導者に擁立し、ジョアンの擁立に連動して各地で民衆の暴動が発生した[26]。1384年1月にレオノールがサンタレンに進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を譲渡すると、国内はカスティーリャを支持する大貴族とジョアンを支持する下層民・富裕層・中小貴族に分かれて内戦が始まる。ジョアンの籠るリスボンはフアン1世の包囲を受けるが、カスティーリャ軍内でペストが流行したために包囲が解かれる[21]。1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として即位し、アヴィス王朝が創始された[21]。

社会[編集]

他の西欧の国家と比べてポルトガル国王の王権は強く、多くの直属の家臣と最高裁判権を保有していた[19][27]。1281年の王弟ドン・アフォンソの反乱以後、14世紀から15世紀にかけてポルトガルではしばしば国王の兄弟・息子が中央政府に対して反乱を起こしているが、一連の反乱は他のヨーロッパ諸国で発生した封建闘争との類似性を指摘されている[28]。

財産と土地を所有する教会勢力、レコンキスタの過程で領地を獲得した騎士修道会は王権に対抗できるだけの力を持っていた[29]。大貴族(リコ・オーメン)は戦闘において自らの家臣を率いて国王に従軍することを義務付けられ、義務の見返りとして領地内での完全な裁判権、不輸不入権などの様々な特権を認められていた[30]。アフォンソ2世以降の国王は貴族勢力・聖職者の抑制を試み、検地(インキリサン)と所領確認制(コンフィルマサン)を実施した。インキリサンとコンフィルマサンに抵抗する教会はポルトガル国王に破門の処分を下したが、なおも検地は続けられ、多くの聖俗貴族が王権に屈した[31]。貴族が有する封建的特権の証明の提出、ディニス1世によって作成された土地台帳により、領主権の伸張は抑制される[31]。また、貴族のうち中貴族(インファンサン)、騎士(カヴァレイロ)はポルトガルのレコンキスタの終了に伴い、没落していった[32]。貴族階級が必要とする多額の出費に対して1340年に奢侈禁止令が公布されたが、この法令は封建制度によって支えられていた貴族の基盤の揺らぎ、労働者階級の台頭への不安を表していると考えられている[20]。

レコンキスタの過程で大きな役割を果たしたテンプル騎士団、ホスピタル騎士団、カラトラーバ騎士団、アヴィス騎士団、サンティアゴ騎士団などの騎士修道会は、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった[31]。リスボンへの遷都によってポルトガル南部の重要性が増した後、ポルトガル王は南部に領地を持つ騎士団と協調を図りながら政策を展開した[14]。1312年にテンプル騎士団が解散させられた後、国王はテンプル騎士団が保有する財産の流出を防ぐため、1317年にポルトガルに拠点を置く主イエス・キリスト騎士団を創設し、テンプル騎士団の財産を全て移管した[16]。ポルトガルのレコンキスタが終了した後も騎士団は荘園領主として19世紀に至るまで存続し、ポルトガル南部地域における大土地所有制の始まりとなった[33]。

王家の信仰を集めるアルコバーサ修道院やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も、寄進によって大荘園領主となった。1348年の黒死病の流行後、神の助けを求める多くの貴族や領主が教会や修道院に寄進を行い、教会勢力の元に多くの土地が集まった[22][34]。アフォンソ2世とアフォンソ3世は教会の権限を抑制するため、聖職者法廷の廃止と聖職者裁判の一般化を要求した[35]。

モンデゴ川以北でのレコンキスタに参加した平民騎士は兵力の提供と引き換えに様々な特権を与えられ、彼らは後にオーメン・ボンと呼ばれるようになった[5]。辺境の防衛組織、征服地に形成された殖民の自治共同体はコンセーリョと呼ばれ、オーメン・ボンで構成される議会の指導下に置かれていた[36][37]。王領内の集落は全てコンセーリョとされ、税制、上級行政、集落内の生産手段の権限は国王が有していた[38]。国王、領主、高位聖職者ら土地の所有者は多くの人間を呼び寄せるために緩やかな統治を布く必要に迫られ、多くの特許状(フォラル)や特権を付与した[39]。都市や村落に成立したコンセーリョは国王や領主からフォラルを授与され、租税・裁判に関する権利と義務が制定された[31]。1254年にレイリアで開催されたコルテスには、有力コンセーリョの一員として初めて平民の代表者が参加した。平民階層には平民騎士のほかに自営の農民、荘園の労働に従事する農奴、手工業者、商人、日雇い労働者などの区分が存在していた[32]。農奴の多くは解放されるか、あるいは領主の元から逃亡し、殖民地や都市に移住した[40]。

ポルトガルにはユダヤ教徒、イスラム教徒のコミュニティが存在し、差別を受けながらも彼らは宗教・伝統的な習慣を継承していた[32][41]。中でも金融・医術に携わるユダヤ教徒はポルトガル社会に欠かせない存在だった[42]。一方、イスラム教徒はレコンキスタ終盤の急速かつ苛烈な弾圧を避けて国外に逃れた[40]。ポルトガルの征服地からイスラム教徒の領主は消えていき、郊外に移住したイスラム教徒には税金が課せられた[43]。レコンキスタから3世紀が経過した後、イスラム教徒のほとんどはキリスト教に改宗したが、農村では彼らの組織が継承されていく[44]。

経済[編集]

ディニス1世の時代、従来のポルトガルで行われていた移動を伴う牧羊に代わって開墾が進み、多くの新しい村落が作られた[13]。収穫の増加に伴って各地で定期市が開かれるようになり、フランドルやイギリスへの輸出も活発に行われる[13]。しかし、商業に比べて手工業の発達は遅れており、国王やコンセーリョからの介入によってギルドに相当する職人組織もまだ現れなかった[45]。ディニス1世の時代には銀、錫、硫黄の鉱山の開発が進められ、鉄の採掘が許可制にされて生産量の5分の1が国家の取り分とされるようになった[46]。

1303年にはイングランド王エドワード1世より、ポルトガル商人はイギリス内の港湾における特権を付与される。主な輸出品としては、ワイン、オリーブ油、塩、イチジク、アーモンドが挙げられる[13]。隣国カスティーリャからは織物と穀物などが輸入され、イベリア半島外のフランドル、イギリス、フランスからは織物や木材が輸入された[47]。ポルトガル・カスティーリャの商取引は両国の国王から保護を受け、カスティーリャから輸入された穀物はポルトガルの飢饉の解消に貢献した[48]。ポルトガルの海上交易は、リスボン・ポルトの商人たちが担い、交通の便が良く良港を有するリスボンは経済の中心地として発展を続けていく[49]。1270年代からポルトガル貿易に乗り出したイタリア商人たちによってポルトガル・イタリア間の交易は統制され、さらに彼らは北ヨーロッパ諸国との交易において仲介者となったため、ポルトガル商人は北海交易における活躍の場を失った[50]。

政府によってイスラーム世界との交易は禁止されていたが、それでもなおイスラーム世界との交易は活発に行われ、国内にはイスラーム国家の金貨・銀貨が流通していた[18][48]。しかし、14世紀に経済の成長は停滞し、人口の増加は食料の不足と物価の高騰をもたらした[21]。黒死病の流行によって労働力が減少した後、収益率の高いワイン、オリーブ油が穀物よりも優先して生産されたが、都市部での穀物の需要は増加しており、この時代より先ポルトガルは長らく穀物不足に悩まされる[22][51]。

文化[編集]

建築[編集]





アルコバッサ修道院
国王と教会の対立にもかかわらず、ポルトガル市民の生活、ポルトガル文化はカトリック教会の影響下に置かれていた[52]ポルトガル文化の中心となったクリュニー修道会、シトー修道会は国の保護を受け、土地が寄進された[53]。モンデゴ川以北の地域では、コインブラ大聖堂などの12世紀に流行していた素朴なクリュニー・ロマネスク様式の建築物が多く造られた[52][54]。一方南部地域ではゴシック様式の建築物が多く、アフォンソ1世の寄進によって建立されたアルコバッサ修道院はロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に完成した中世ポルトガル最大の建築物である[55]。

ポルトガルにおいてはレコンキスタが早い時期に完了したため、同じイベリア半島のキリスト教国と比べて純粋なイスラーム建築物は少ない[56]。メルトラのノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアサオン教会は、メスキータ(モスク、イスラームの寺院)をそのままキリスト教徒の教会として使用している建物である。

文学、言語[編集]

サンシュ1世の治世から先、宮廷では詩と音楽が発達していく[57]リスボンに遷都したアフォンソ3世の治世から宮廷がポルトガル文学の中心地となり、ディニス1世は宮廷に出入りする詩人を保護しただけでなく、自らも詩作を嗜んだ[58]。13世紀末のポルトガルでは南フランスからトルバドゥール文化が伝わり、イスラム世界の詩の影響を受けて独自の発展を遂げる[59]。13世紀まではトルバドゥールの詩歌は口承で伝えられてきたが、ガリシア・ポルトガル語で作品が記録されるようになり、トルバドゥールが生み出した詩歌はジョグラルと呼ばれる歌い手によって詠み上げられた[60]。ブルゴーニュ王朝期の代表的な詩歌には『カンティガス・デ・アミゴ』『カンティガス・デ・アモール』が挙げられる[60]。『カンティガス・デ・エスカルニオ・イ・マルディゼール』は叙情的な前の2作と異なる風刺の詩であり、当時の社会を知ることのできる資料にもなっている[60]。

トルバドゥールの活躍はポルトガル語の成立に影響を与え、レコンキスタを経てガリシア・ポルトガル語はモンデゴ川以南に居住していたモサラベ(イスラーム勢力下のキリスト教徒)の言語と合わさり、ポルトガル語に分化した[57][61]。ディニス1世の治世にポルトガル語はラテン語に代わる公用語として採用され、公文書で使用されるようになった[55][61]。

大学の設立[編集]





コインブラ大学のディニス1世像
1290年、ディニス1世によってリスボンにコインブラ大学の前身であるエストゥード・ジェラルが設置される。エストゥード・ジェラルでは法学、文学、論理学、医学が教授され、修道院に設置されていた聖職者を養成する学校とは異なり、国政に携わる世俗の人間の教育機関として機能していた[55]。しかし、エストゥード・ジェラルの教育水準は他の西欧の大学に比べて低く、14世紀にリスボン・コインブラの間で本部の移動が数度行われたために衰退していく[52]。学生と教授には多くの特権が与えられたが、それらはすぐに濫用された[62]。

歴代国王[編集]
アフォンソ1世(1128年 - 1185年) ポルトゥカーレ伯エンリケの息子
サンシュ1世(1185年 - 1211年) アフォンソ1世の息子
アフォンソ2世(1211年 - 1223年) サンシュ1世の息子
サンシュ2世 (1223年 - 1248年) アフォンソ2世の息子
アフォンソ3世(1248年 - 1279年) サンシュ2世の弟
ディニス(1279年 - 1325年) アフォンソ3世の息子
アフォンソ4世(1325年 - 1357年) ディニスの息子
ペドロ1世(1357年 - 1367年) アフォンソ4世の息子
フェルナンド1世(1367年 - 1383年) ペドロ1世の息子

系図[編集]

ロベール2世
フランス王









































































































































アンリ1世
フランス王

ロベール1世
ブルゴーニュ公





























































































































































アンリ





ヒメーナ・ムーニョス

アルフォンソ6世
カスティーリャ王

コンスタンサ































































































































ユーグ1世
ブルゴーニュ公

ウード1世
ブルゴーニュ公

エンリケ
ポルトゥカーレ伯

テレサ・デ・レオン

ウラカ
カスティーリャ女王

ライムンド
ガリシア伯











































































































マファルダ・デ・サボイア

アフォンソ1世
ポルトガル王









アルフォンソ7世
カスティーリャ王



























































































































































































































































































サンシュ1世
ポルトガル王

ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ

テレサ
ブルゴーニュ公妃









アルフォンソ8世
カスティーリャ王













ウラカ

フェルナンド2世
レオン王





















































































































































































































































































































アフォンソ2世
ポルトガル王

ウラカ・デ・カスティーリャ

フェルナンド
フランドル伯

ジャンヌ
フランドル女伯

エンリケ1世
カスティーリャ王

マファルダ

テレサ

アルフォンソ9世
レオン王

ベレンゲラ
カスティーリャ女王













































































































































































































































サンシュ2世
ポルトガル王

マティルド2世
ブローニュ女伯

アフォンソ3世
ポルトガル王

ベアトリス・デ・カスティーリャ





























サンチョ4世
カスティーリャ王















































































































































イザベル・デ・アラゴン

ディニス1世
ポルトガル王































































































































































































アフォンソ4世
ポルトガル王

ベアトリス・デ・カスティーリャ





















コンスタンサ

フェルナンド4世
カスティーリャ王













































































































































イネス・デ・カストロ

ペドロ1世
ポルトガル王

コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャ

レオノール
アラゴン王妃











マリア

アルフォンソ11世
カスティーリャ王











































































































































テレサ・ロレンソ







フェルナンド1世
ポルトガル王

レオノール・テレス



















ペドロ1世
カスティーリャ王



エンリケ2世
カスティーリャ王































































































































ジョアン

ディニス

ジョアン1世
ポルトガル王

ベアトリス
(ポルトガル女王)































フアン1世
カスティーリャ王



ブルゴーニュ家

ブルゴーニュ家(仏:maison de Bourgogne)は、フランス王家であるカペー家の支流の一つで、11世紀から14世紀にかけてのブルゴーニュ公の家系。カペー(家)系ブルゴーニュ家(maison capétienne de Bourgogne)、第一ブルゴーニュ家とも呼ばれる。この家系からはポルトガルのブルゴーニュ(ボルゴーニャ)朝も出ている。14世紀から15世紀にかけてブルゴーニュ公国を統治したヴァロワ=ブルゴーニュ家や、10世紀から12世紀にかけてのブルゴーニュ伯の家系であるイヴレア家(この家系からはカスティーリャ、レオンのブルゴーニュ(ボルゴーニャ)朝も出ている)とは直接につながりがあるわけではないので注意を要する(ただし、いずれも女系を通じてのつながりはある)。

系図[編集]

ユーグ・カペー
フランス王













































































































ロベール2世
フランス王

























































































































アンリ1世
フランス王

ロベール1世
ブルゴーニュ公

























































































































アンリ

コンスタンス
カスティーリャ王妃























































































































ユーグ1世
ブルゴーニュ公

ウード1世
ブルゴーニュ公

エンリケ
ポルトゥカーレ伯



































































































































ユーグ2世
ブルゴーニュ公

























アフォンソ1世
ポルトガル王





























































































ウード2世
ブルゴーニュ公



















テレサ

サンシュ1世
ポルトガル王





































































































ユーグ3世
ブルゴーニュ公



























アフォンソ2世
ポルトガル王





























































































ウード3世
ブルゴーニュ公



























サンシュ2世
ポルトガル王

アフォンソ3世
ポルトガル王









































































ユーグ4世
ブルゴーニュ公

































ディニス1世
ポルトガル王













































































ウード
ヌヴェール伯

ロベール2世
ブルゴーニュ公

































アフォンソ4世
ポルトガル王











































































































マルグリット
シチリア王妃

ユーグ5世
ブルゴーニュ公

ブランシュ
サヴォイア伯妃

マルグリット
フランス王妃

ジャンヌ
フランス王妃

ウード4世
ブルゴーニュ公

ペドロ1世
ポルトガル王







































































































フィリップ
オーヴェルニュ伯

フェルナンド1世
ポルトガル王







































































































フィリップ1世
ブルゴーニュ公

ベアトリス
(ポルトガル女王)

カペー家

カペー家(Capétiens)は、フランスのパリ周辺、イル=ド=フランスに起源を持つ王家。2人の西フランク王を出したロベール家の後身である。家名は始祖のユーグ・カペーに由来するが、カペー(capet)とは短い外套(ケープ)のことで、元はユーグに付けられたあだ名であった。

カペー家はフランス王家となった他、その分家から他の多くのヨーロッパ諸国の君主の家系が出ている。ここではカペー家及びその分家について解説する。



目次 [非表示]
1 カペー家の諸分枝 1.1 カペー家 1.1.1 フランス王家
1.1.2 ナバラ王家

1.2 ブルゴーニュ家
1.3 ポルトガル王家 1.3.1 ボルゴーニャ家
1.3.2 アヴィシュ家
1.3.3 アヴィシュ=ベージャ家
1.3.4 ブラガンサ家
1.3.5 ペドロ1世以降のブラガンサ家 1.3.5.1 ポルトガル王家
1.3.5.2 ブラジル皇帝家
1.3.5.3 ミゲル1世系


1.4 ヴェルマンドワ家
1.5 ドルー家 1.5.1 ドルー伯家
1.5.2 ドルー=ブルターニュ家

1.6 クルトネー家
1.7 アルトワ家
1.8 アンジュー=シチリア家 1.8.1 アンジュー=シチリア家
1.8.2 アンジュー=ハンガリー家 1.8.2.1 ラヨシュ1世以降のアンジュー=ハンガリー家 1.8.2.1.1 ハンガリー王家
1.8.2.1.2 ポーランド王家


1.8.3 アンジュー=ドゥラッツォ家
1.8.4 アンジュー=ターラント家

1.9 ブルボン家 1.9.1 ブルボン公家
1.9.2 第一ブルボン=モンパンシエ家
1.9.3 ブルボン=ラ・マルシュ家
1.9.4 ブルボン=ヴァンドーム家(フランス・ブルボン家)
1.9.5 第二ブルボン=モンパンシエ家

1.10 ヴァロワ家
1.11 エヴルー家

2 系図
3 外部リンク


カペー家の諸分枝[編集]

カペー家[編集]

詳細は「カペー朝」を参照

カロリング朝断絶を受けて、987年に婚姻関係にあったユーグ・カペーがフランス王位に就き、1328年にシャルル4世が死去するまで15代の国王が続いた。フィリップ4世以降はナバラ王も兼ねている。

なお、カペー朝以後のフランスの王朝は皆カペー家の分家によるものであり、その支配は1789年(広義では1848年)まで続いている。

フランス王家[編集]
ユーグ・カペー(987年 - 996年)フランス王:987年 - 996年
ロベール2世(996年 - 1031年)フランス王:996年 - 1031年
アンリ1世(1031年 - 1060年)フランス王:1031年 - 1060年
フィリップ1世(1060年 - 1108年)フランス王:1060年 - 1108年
ルイ6世(1108年 - 1137年)フランス王:1108年 - 1137年
ルイ7世(1137年 - 1180年)フランス王:1137年 - 1180年
フィリップ2世(1180年 - 1223年)フランス王:1180年 - 1223年
ルイ8世(1223年 - 1226年)フランス王:1223年 - 1226年
ルイ9世(1226年 - 1270年)フランス王:1226年 - 1270年
フィリップ3世(1270年 - 1285年)フランス王:1270年 - 1285年
フィリップ4世(1285年 - 1314年)ナバラ王:1284年 - 1305年、フランス王:1285年 - 1314年
ルイ10世(1314年 - 1316年)ナバラ王:1305年 - 1316年、フランス王:1314年 - 1316年
ジャン1世(1316年)フランス王:1316年、ナバラ王:1316年
フィリップ5世(1316年 - 1322年)フランス王:1316年 - 1322年、ナバラ王:1316年 - 1322年
シャルル4世(1322年 - 1328年)フランス王:1322年 - 1328年、ナバラ王:1322年 - 1328年

サリカ法によりヴァロワ家が継承(フィリップ6世)。

ナバラ王家[編集]
フアナ2世(1328年 - 1349年)ナバラ女王:1328年 - 1349年

男系断絶のためエヴルー家が継承(配偶者:フェリペ3世)。

ブルゴーニュ家[編集]

詳細は「ブルゴーニュ家」を参照

ブルゴーニュは11世紀初頭に一時フランス王の支配下にあったが、アンリ1世の弟ロベール1世がブルゴーニュ公に封じられて以降、その子孫によって支配された。この家系がカペー系ブルゴーニュ家である。1361年にフィリップ1世が嗣子無くして断絶すると、ヴァロワ家のフランス王ジャン2世が公位を継承し、1363年に息子のフィリップ2世に引き継がれた(この家系はヴァロワ=ブルゴーニュ家と呼ばれる)。
ロベール1世(1032年 - 1076年)ブルゴーニュ公:1032年 - 1076年
ユーグ1世(1076年 - 1079年)ブルゴーニュ公:1076年 - 1079年
ウード1世(1079年 - 1103年)ブルゴーニュ公:1079年 - 1103年
ユーグ2世(1103年 - 1143年)ブルゴーニュ公:1103年 - 1143年
ウード2世(1143年 - 1162年)ブルゴーニュ公:1143年 - 1162年
ユーグ3世(1162年 - 1192年)ブルゴーニュ公:1162年 - 1192年
ウード3世(1192年 - 1218年)ブルゴーニュ公:1192年 - 1218年
ユーグ4世(1218年 - 1271年)ブルゴーニュ公:1218年 - 1271年
ロベール2世(1271年 - 1306年)ブルゴーニュ公:1271年 - 1306年
ユーグ5世(1306年 - 1315年)ブルゴーニュ公:1306年 - 1315年
ウード4世(1315年 - 1350年)ブルゴーニュ公:1315年 - 1350年
フィリップ1世(1350年 - 1361年)ブルゴーニュ公:1350年 - 1361年

断絶のためヴァロワ家が継承(ジャン2世)。

ポルトガル王家[編集]

詳細は「ブルゴーニュ王朝」、「アヴィシュ王朝」、および「ブラガンサ王朝」を参照

ブルゴーニュ公ウード1世の弟エンリケはイベリア半島でレコンキスタに参加し、カスティーリャ王アルフォンソ6世によってポルトゥカーレ伯に封じられた。その息子アフォンソ1世は初代ポルトガル王に即位してブルゴーニュ王朝を開く。

最後の王フェルナンド1世が死ぬと、異母弟ジョアン1世がアヴィシュ王朝を新たに立て、この王朝の下でポルトガルは黄金時代を迎える。その断絶後にポルトガルはスペイン・ハプスブルク家の統治下に入るが、1640年にアヴィシュ家傍系のジョアン4世がポルトガル王として独立する。以後、ブラガンサ王朝が1910年までポルトガルを支配し、ブラジル皇帝も出している。

ボルゴーニャ家[編集]
エンリケ(1093年 - 1112年)
アフォンソ1世(1112年 - 1185年)ポルトガル王:1139年 - 1185年
サンシュ1世(1185年 - 1211年)ポルトガル王:1185年 - 1211年
アフォンソ2世(1211年 - 1223年)ポルトガル王:1211年 - 1223年
サンシュ2世(1223年 - 1248年)ポルトガル王:1223年 - 1248年
アフォンソ3世(1248年 - 1279年)ポルトガル王:1248年 - 1279年
ディニス1世(1279年 - 1325年)ポルトガル王:1279年 - 1325年
アフォンソ4世(1325年 - 1357年)ポルトガル王:1325年 - 1357年
ペドロ1世(1357年 - 1367年)ポルトガル王:1357年 - 1367年
フェルナンド1世(1367年 - 1383年)ポルトガル王:1367年 - 1383年
ベアトリス(1383年 - 1385年)

アルジュバロータの戦いによりアヴィシュ家が継承。

アヴィシュ家[編集]
ジョアン1世(1385年 - 1433年)ポルトガル王:1385年 - 1433年
ドゥアルテ1世(1433年 - 1438年)ポルトガル王:1433年 - 1438年
アフォンソ5世(1438年 - 1481年)ポルトガル王:1438年 - 1477年、1477年 - 1481年
ジョアン2世(1481年 - 1495年)ポルトガル王:1477年、1481年 - 1495年

嫡流断絶のためアヴィシュ=ベージャ家が継承。

アヴィシュ=ベージャ家[編集]
マヌエル1世(1495年 - 1521年)ポルトガル王:1495年 - 1521年
ジョアン3世(1521年 - 1557年)ポルトガル王:1521年 - 1557年
セバスティアン1世(1521年 - 1578年)ポルトガル王:1521年 - 1578年
エンリケ1世(1578年 - 1580年)ポルトガル王:1578年 - 1580年

嫡流断絶のためスペイン・ハプスブルク家が継承(フェリペ2世)。

ブラガンサ家[編集]
アフォンソ1世(1442年 - 1461年)
フェルナンド1世(1461年 - 1478年)
フェルナンド2世(1478年 - 1483年)
ジャイメ1世(1483年 - 1532年)
テオドジオ1世(1532年 - 1563年)
ジョアン1世(1563年 - 1583年)
テオドジオ2世(1583年 - 1630年)
ジョアン4世(1630年 - 1656年)ポルトガル王:1640年 - 1656年
アフォンソ6世(1656年 - 1683年)ポルトガル王:1656年 - 1683年  
ペドロ2世(1683年 - 1706年)ポルトガル王:1683年 - 1706年
ジョアン5世(1706年 - 1750年)ポルトガル王:1706年 - 1750年
ジョゼ1世(1750年 - 1777年)ポルトガル王:1750年 - 1777年
マリア1世(1777年 - 1816年)ポルトガル女王:1777年 - 1816年、ブラジル女王:1815年 - 1816年
(共同統治) ペドロ3世(1777年 - 1786年)
ジョアン6世(1816年 - 1826年)ポルトガル王:1816年 - 1826年、ブラジル王:1816年 - 1822年
ペドロ1世(1826年 - 1834年)ブラジル皇帝:1822年 - 1831年、ポルトガル王:1826年

ペドロ1世以降のブラガンサ家[編集]

ポルトガル王家[編集]
マリア2世(1834年 - 1853年)ポルトガル女王:1826年 - 1828年、1834年 - 1853年

男系断絶のためブラガンサ=コブルゴ家へ(配偶者:フェルナンド2世)。

ブラジル皇帝家[編集]
ペドロ2世(1834年 - 1891年)ブラジル皇帝:1831年 - 1889年
イザベル(1891年 - 1921年)

男系断絶のためオルレアンス=ブラガンサ家へ(配偶者:ガスタン)。

ミゲル1世系[編集]
ミゲル1世(1834年 - 1866年)ポルトガル王:1828年 - 1834年
ミゲル2世(1866年 - 1920年)
ドゥアルテ・ヌノ(1920年 - 1976年)
ドゥアルテ・ピオ(1976年 - )

ヴェルマンドワ家[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

「:de:Haus Frankreich-Vermandois」も参照

フィリップ1世の弟ユーグは、ヴェルマンドワ伯の女子相続人と結婚してヴェルマンドワ伯となった。この家系をヴェルマンドワ家と呼ぶ。ユーグは破門中の兄に代わって第1回十字軍に参加した。
ユーグ1世(1080年 - 1102年)
ラウール1世(1102年 - 1152年)
ラウール2世(1152年 - 1167年)
エリザベート(1167年 - 1183年)

男系断絶のためアルザス家が継承(配偶者:フィリップ1世)。

ドルー家[編集]

詳細は「ドルー家」を参照

ルイ7世の弟ロベール1世はドルー伯に封じられ、その家系であるドルー家の本家は14世紀まで続いた。

ドルー伯ロベール3世の弟ピエール1世はブルターニュ公国の女公アリックスと結婚し、この家系はフランス内で独自の勢力を築いた。しかし、最後の公フランソワ2世には娘のアンヌしかおらず、彼女がヴァロワ家のシャルル8世と結婚したことで、ブルターニュは後にフランス王領へと併合される。

ドルー伯家[編集]
ロベール1世(1137年 - 1184年)
ロベール2世(1184年 - 1218年)
ロベール3世(1218年 - 1234年)
ジャン1世(1234年 - 1249年)
ロベール4世(1249年 - 1282年)
ジャン2世(1282年 - 1309年)
ロベール5世(1309年 - 1329年)
ジャン3世(1329年 - 1331年)
ピエール1世(1331年 - 1345年)
ジャンヌ1世(1345年 - 1346年)
ジャンヌ2世(1346年 - 1355年)

男系断絶のためトゥアール家が継承(配偶者:ルイ1世)。

ドルー=ブルターニュ家[編集]
ピエール1世(1213年 - 1237年)ブルターニュ公:1213年 - 1237年
ジャン1世(1237年 - 1286年)ブルターニュ公:1237年 - 1286年
ジャン2世(1286年 - 1305年)ブルターニュ公:1286年 - 1305年
アルテュール2世(1305年 - 1312年)ブルターニュ公:1305年 - 1312年
ジャン3世(1312年 - 1341年)ブルターニュ公:1312年 - 1341年
ジャン(1341年 - 1345年)
ジャン4世(1345年 - 1399年)ブルターニュ公:1365年 - 1499年
ジャン5世(1399年 - 1442年)ブルターニュ公:1399年 - 1442年
フランソワ1世(1442年 - 1450年)ブルターニュ公:1442年 - 1450年
ピエール2世(1450年 - 1457年)ブルターニュ公:1450年 - 1457年
アルテュール3世(1457年 - 1458年)ブルターニュ公:1457年 - 1458年
フランソワ2世(1458年 - 1488年)ブルターニュ公:1458年 - 1488年
アンヌ(1488年 - 1514年)ブルターニュ女公:1488年 - 1514年

男系断絶のためヴァロワ家が継承(配偶者:ルイ12世)。

クルトネー家[編集]

ルイ7世の弟ピエール1世を祖とするクルトネー家 (en) は18世紀まで存続した。ピエールの息子ピエール2世は第四回十字軍の後に建てられたラテン帝国の皇帝位に就いた。しかし、ピエール1世の息子ボードゥアン2世の時にニカイア帝国によって駆逐された。
ピエール(1150年 - 1183年)
ピエール(1183年 - 1219年)ラテン皇帝:1216年 - 1219年
ロベール(1219年 - 1228年)ラテン皇帝:1219年 - 1228年
ボードゥアン2世(1228年 - 1273年)ラテン皇帝:1228年 - 1261年
フィリップ(1273年 - 1283年)
カトリーヌ(1283年 - 1307年)

男系断絶によりヴァロワ家が継承(配偶者:シャルル)。

アルトワ家[編集]

ルイ9世の弟アルトワ伯ロベール1世を祖とするアルトワ家 (fr) は15世紀まで続いた。ロベール1世の娘ブランシュはナバラ王エンリケ1世と結婚して女王フアナ1世の母后となり、カペー朝末期にナバラとフランスの同君連合を成立させた。ロベール1世から4代後のロベール3世はイングランド王エドワード3世に加担して百年戦争の原因の一つを作った。
ロベール1世(1237年 - 1250年)
ロベール2世(1250年 - 1302年)
マオー(1302年 - 1320年)

男系断絶のためアンスカリ家が継承(配偶者:オトン4世)。

アンジュー=シチリア家[編集]

詳細は「アンジュー=シチリア家」、「ナポリ・アンジュー朝」、「ハンガリー・アンジュー朝」、および「ポーランド・アンジュー朝」を参照

ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューはシチリア王国を支配していたホーエンシュタウフェン家を滅亡させて、1268年にシチリア王に即位する。しかし、シチリアの晩祷事件を契機としてシチリア島をアラゴン王国に奪われ、最後の君主となったジョヴァンナ2世が1435年に死去するまではナポリ王家として続いた。

一方、一族のカーロイ・ローベルトはハンガリー王となり、その息子ラヨシュ1世はポーランド王も兼ねている。ラヨシュ死後は2人の娘に王国は分割されているが、両人とも夫との間に子を生さなかったため血筋は絶えている。

ルイ10世の2番目の王妃でジャン1世を生んだクレマンス・ド・オングリー、ヴァロワ伯シャルルの最初の妃でフィリップ6世の母であるマルグリット・ダンジューはこの家系の出身である。

アンジュー=シチリア家[編集]
カルロ1世(1247年 - 1285年)シチリア王:1266年 - 1282年、アカイア公:1278年 - 1285年、ナポリ王:1282年 - 1285年
カルロ2世(1285年 - 1309年)ナポリ王:1285年 - 1309年、アカイア公:1285年 - 1289年
ロベルト1世(1309年 - 1343年)ナポリ王:1309年 - 1343年、アカイア公:1318年 - 1322年
ジョヴァンナ1世(1343年 - 1382年)ナポリ女王:1343年 - 1382年、アカイア女公:1373年 - 1381年

断絶のためアンジュー=ドゥラッツォ家が継承(カルロ3世)。

アンジュー=ハンガリー家[編集]
カーロイ(1290年 - 1295年)
カーロイ1世(1295年 - 1342年)ハンガリー王:1308年 - 1342年
ラヨシュ1世(1342年 - 1382年)ハンガリー王:1342年 - 1382年、ポーランド王1370年 - 1382年

ラヨシュ1世以降のアンジュー=ハンガリー家[編集]

ハンガリー王家[編集]
マーリア(1382年 - 1395年)ハンガリー女王:1382年 - 1385年、1386年 - 1395年

男系断絶のためルクセンブルク家が継承(配偶者:ジギスムント)。

ポーランド王家[編集]
ヤドヴィガ(1382年 - 1399年)ポーランド女王:1382年 - 1399年

男系断絶のためヤギェウォ家が継承(配偶者:ヴワディスワフ2世)。

アンジュー=ドゥラッツォ家[編集]
ジョヴァンニ(1332年 - 1336年)アカイア公:1322年 - 1332年
カルロ(1336年 - 1348年)
ルイージ(1348年 - 1362年)
カルロ3世(1362年 - 1386年)ナポリ王:1382年 - 1386年、ハンガリー王:1385年 - 1386年
ラディズラーオ1世(1386年 - 1417年)ナポリ王:1382年 - 1389年、1399年 - 1417年
ジョヴァンナ2世(1413年 - 1435年)ナポリ女王:1413年 - 1435年

断絶のためヴァロワ=アンジュー家が継承(ルネ)。

アンジュー=ターラント家[編集]
フィリッポ1世(1294年 - 1332年)アカイア公:1307年 - 1313年
ローベルト(1332年 - 1364年)アカイア公:1332年 - 1364年
フィリッポ2世(1364年 - 1374年)アカイア公:1364年 - 1373年

断絶のためレ・ボー家が継承(ジャコモ)。

ブルボン家[編集]

詳細は「ブルボン家」、「ブルボン朝」、「スペイン・ブルボン朝」、「シチリア・ブルボン朝」、および「ブルボン=パルマ家」を参照

フィリップ3世の弟クレルモン伯ロベールを祖とするブルボン家はアンリ4世の時代にフランス王位を獲得してブルボン朝を築き、更にはスペイン・ナポリ・シチリアの王位も獲得している。

ブルボン公家[編集]
ロベール(1287年 - 1317年)
ルイ1世(1317年 - 1342年)
ピエール1世(1342年 - 1356年)
ルイ2世(1356年 - 1410年)
ジャン1世(1410年 - 1434年)
シャルル1世(1434年 - 1456年)
ジャン2世(1456年 - 1488年)
シャルル2世(1488年)
ピエール2世(1488年 - 1503年)
シュザンヌ(1503年 - 1521年)

男系断絶のためブルボン=モンパンシエ家が継承(配偶者:シャルル3世)。

第一ブルボン=モンパンシエ家[編集]
ルイ1世(1434年 - 1486年)
ジルベール(1486年 - 1496年)
ルイ2世(1496年 - 1501年)
シャルル3世(1501年 - 1527年)

断絶のためブルボン=ヴァンドーム家が継承(シャルル)。

ブルボン=ラ・マルシュ家[編集]
ジャック1世(1356年 - 1362年)
ピエール1世(1362年)
ジャン1世(1362年 - 1393年)
ジャック2世(1393年 - 1435年)
エレオノール(1435年 - 1462年)

男系断絶のためアルマニャック家が継承(配偶者:ベルナール8世)。

ブルボン=ヴァンドーム家(フランス・ブルボン家)[編集]
ルイ1世(1393年 - 1446年)
ジャン8世(1446年 - 1477年)
フランソワ(1477年 - 1495年)
シャルル(1495年 - 1537年)
アントワーヌ(1537年 - 1562年)ナバラ王:1555年 - 1562年
アンリ4世(1562年 - 1610年)ナバラ王:1562年 - 1610年、フランス王:1589年 - 1610年
ルイ13世(1601年 - 1643年)ナバラ王:1610年 - 1620年、フランス王:1610年 - 1643年
ルイ14世(1643年 - 1715年)フランス王:1643年 - 1715年
ルイ15世(1715年 - 1774年)フランス王:1715年 - 1774年
ルイ16世(1774年 - 1793年)フランス王:1774年 - 1792年
ルイ17世(1793年 - 1795年)
ルイ18世(1795年 - 1824年)フランス王:1814年 - 1815年、1815年 - 1824年
シャルル10世(1824年 - 1836年)フランス王:1824年 - 1830年
ルイ・アントワーヌ(1836年 - 1844年)
アンリ(1844年 - 1883年)

第二ブルボン=モンパンシエ家[編集]
ルイ3世(1561年 - 1582年)
フランソワ(1582年 - 1592年)
アンリ(1592年 - 1608年)
マリー(1608年 - 1627年)

男系断絶のためブルボン家が継承(配偶者:ガストン)。

ヴァロワ家[編集]

詳細は「ヴァロワ家」および「ヴァロワ朝」を参照

フィリップ4世の弟シャルルはヴァロワ伯となったが、その息子フィリップ6世はカペー家嫡系の断絶を受けて1328年にフランス王に即位し、ヴァロワ朝を開いた。 最後の王アンリ3世は短期間ポーランド王兼リトアニア大公に就いていた。

エヴルー家[編集]

詳細は「エヴルー家」を参照

フィリップ4世の弟ルイはエヴルー伯に封じられたが、その息子フィリップはルイ10世の娘ジャンヌと結婚してナバラ王位を獲得した。カペー家嫡系およびヴァロワ家とは他にも複雑な婚姻関係を結んでいる。

エヴルー家はヴァロワ家に次いでカペー家嫡系に近い家系であったことから、フランス王位やブルゴーニュ公位の獲得に野心を燃やしたが果たされず、ナバラ女王ブランカ1世が1441年に死去して断絶した。

系図[編集]

ロベール
ネウストリア辺境伯

















































































































































ウード
西フランク王

ロベール1世
西フランク王

ベアトリス・ド・ヴェルマンドワ





ハインリヒ1世
ドイツ王









































































































































ユーグ
パリ伯

ヘートヴィヒ

オットー1世
神聖ローマ皇帝









































































































































ユーグ・カペー
フランス王

ウード=アンリ
ブルゴーニュ公





























































































































ロベール2世
フランス王















































































































































































ユーグ
フランス共同統治王

アンリ1世
フランス王

























ロベール1世
ブルゴーニュ公
(ブルゴーニュ家)



















































































































フィリップ1世
フランス王

ユーグ1世
ヴェルマンドワ伯
(ヴェルマンドワ家)

















アンリ































































































































ルイ6世
フランス王

























ユーグ1世
ブルゴーニュ公

ウード1世
ブルゴーニュ公

アンリ(エンリケ)
ポルトゥカーレ伯









































































































































フィリップ
フランス共同統治王

ルイ7世
フランス王

アンリ
ランス大司教

ロベール1世
ドルー伯
(ドルー家)

フィリップ
パリ司教

ピエール1世・ド・クルトネー
(クルトネー家)

ユーグ2世
ブルゴーニュ公

アフォンソ1世
ポルトガル王





























































































フィリップ2世
フランス王









ロベール2世
ドルー伯















































































































































ルイ8世
フランス王

フィリップ・ユルプル
クレルモン伯

ロベール3世
ドルー伯

ピエール1世
ブルターニュ公

















































































































































































































ルイ9世
フランス王

ロベール1世
アルトワ伯
(アルトワ家)

シャルル・ダンジュー(カルロ1世)
シチリア王
(アンジュー=シチリア家)

























































































































































































































































フィリップ3世
フランス王





















































ロベール
クレルモン伯





































































































































フィリップ4世
フランス王
ナバラ王

ジャンヌ(フアナ)1世
ナバラ女王





























シャルル
ヴァロワ伯
(ヴァロワ家)

ルイ
エヴルー伯
(エヴルー家)

ルイ1世
ブルボン公
(ブルボン家)



































































































































































































































ルイ10世
フランス王
ナバラ王



フィリップ5世
フランス王
ナバラ王

ジャンヌ2世
ブルゴーニュ女伯

シャルル4世
フランス王
ナバラ王

ジャンヌ・デヴルー



フィリップ6世
フランス王







フィリップ(フェリペ)3世
ナバラ王





































































































































































































































































































ジャン1世
フランス王
ナバラ王

ジャンヌ(フアナ)2世
ナバラ女王



ジャンヌ3世
ブルゴーニュ女伯

マルグリット1世
ブルゴーニュ女伯

ブランシュ

フィリップ
オルレアン公

ジャン2世
フランス王

シャルル(カルロス)2世
ナバラ王













































































ヴァロワ家

ヴァロワ家(maison de Valois メゾン・ドゥ・ヴァルワ)は、フランス王国の王家。カペー家の分家であり、フィリップ3世の四男でフィリップ4世の弟ヴァロワ伯シャルルに始まる。1328年から1589年の間に13代の王を出したが、庶流は19世紀末まで続いた。ここではヴァロワ家及びその分家について解説する。



目次 [非表示]
1 ヴァロワ家の諸系統 1.1 ヴァロワ家嫡系
1.2 ヴァロワ=オルレアン家 1.2.1 ヴァロワ=アングレーム家
1.2.2 ヴァロワ=ロングウィル家
1.2.3 ヴァロワ=サン=レミ家

1.3 ヴァロワ=アランソン家
1.4 ヴァロワ=アンジュー家
1.5 ヴァロワ=ベリー家
1.6 ヴァロワ=ブルゴーニュ家

2 系図
3 関連項目
4 外部リンク


ヴァロワ家の諸系統[編集]

ヴァロワ家嫡系[編集]

詳細は「ヴァロワ朝」を参照

ヴァロワ伯シャルルの息子であるフィリップ6世は、カペー家嫡系の断絶を受けて1328年にフランス王に即位し、以後7代の国王が続いた。最後のシャルル8世が1498年に嗣子を残さず没して嫡系は断絶した。

ヴァロワ=オルレアン家[編集]

詳細は「ヴァロワ=オルレアン家」を参照

シャルル5世の次男であるルイがオルレアン公に叙されたのが始まり。ルイの息子シャルルはアルマニャック伯ベルナール7世の娘と結婚してアルマニャック派を形成した。その息子のルイ12世はヴァロワ家嫡系の断絶を受け、1498年にフランス王位に就くが、1代で断絶した。

フランスで最初にオルレアン公に叙されたのはルイの大叔父に当たるフィリップであるが、子供がなく1代で公位は消滅した。

ヴァロワ=アングレーム家[編集]

オルレアン公ルイの息子ジャンがアングレーム伯に叙されたのが始まり。その孫フランソワ1世が、1515年にルイ12世の死去を受けてフランス王に即位する。1589年にアンリ3世が暗殺されるまで、5代の王が続いた。アンリ3世は短期間ポーランド王兼リトアニア大公に就いていた。

アングレーム公位はシャルル9世の庶子シャルル (en) が相続し、その家系は17世紀前半まで存続した。

ヴァロワ=ロングウィル家[編集]

詳細は「オルレアン=ロングヴィル家」を参照

オルレアン公ルイの庶子であるジャン・ド・デュノワがロングウィル伯に叙されたのが始まり。後にロングウィル公に昇爵し、17世紀末まで家系が続いた。

ヴァロワ=サン=レミ家[編集]

アンリ2世の庶子アンリ・ド・サン=レミを祖とする家系は19世紀末まで存続した。首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワはこの家系の出身とされる。

ヴァロワ=アランソン家[編集]

詳細は「ヴァロワ=アランソン家」を参照

ヴァロワ伯シャルルは同時にアランソン伯となり、その次男シャルル2世 (en) の系統が所領を相続した。曾孫のアランソン公ジャン2世はジャンヌ・ダルクの戦友として知られている。庶子の系統を除けば最も長い期間続いた家系であったが、1525年にシャルル4世が嗣子を残さず死去し、断絶した。なお、シャルル4世の妹フランソワーズはブルボン朝の祖アンリ4世の父方の祖母である。

ヴァロワ=アンジュー家[編集]

詳細は「ヴァロワ=アンジュー家」を参照

ヴァロワ伯シャルルは3度結婚したが、フィリップ6世やアランソン伯シャルル2世の母である最初の妃は、アンジュー=シチリア家のナポリ王カルロ2世の娘マルグリットであった。2人の曾孫でジャン2世の次男であるアンジュー公ルイ1世は、ナポリ女王ジョヴァンナ1世の養子となった。このルイの家系をヴァロワ=アンジュー家と呼ぶ。この一族はアンジュー=シチリア家の別系統やトラスタマラ家とナポリ王位やプロヴァンス伯領を争った。また結婚によりロレーヌ公位を獲得している。シャルル7世の王妃マリー・ダンジューはルイ1世の孫の一人であり、百年戦争期には一族でシャルル7世に与してイングランドと敵対したが、後に和平の一環としてマリーの姪マーガレット・オブ・アンジューがイングランド王ヘンリー6世に嫁いでいる。

1481年にシャルル5世が嗣子無くして没した後、マリー・ダンジューの孫であるシャルル8世はアンジュー家の継承権を主張してイタリア戦争が勃発する。

ヴァロワ=ベリー家[編集]

ジャン2世の三男ジャンがベリー公に叙されたのが始まり。長命であったベリー公ジャンはヴァロワ家の長老として権勢を誇ったが、息子に先立たれ、かつ男系の継承者がなかったため、その死とともに家系としては断絶した。遺領の一部はブルボン家に相続されたが、ベリー公位はその時々の王の近親者に授けられるものとなった。

ヴァロワ=ブルゴーニュ家[編集]

詳細は「ヴァロワ=ブルゴーニュ家」を参照

ジャン2世の末子フィリップ豪胆公は断絶したカペー家系ブルゴーニュ家の跡を継ぎ、ブルゴーニュ公となった。その息子ジャン無怖公はブルゴーニュ派としてフランスで勢力を持った。3代目のフィリップ善良公は関心をフランスからネーデルラントに変えた。事実上最後の当主シャルル突進公はルイ11世との抗争に敗れて滅亡する。その後、遺領を巡る争いが契機となり、フランス王家とハプスブルク家の抗争が勃発する。

系図[編集]

















シャルル
ヴァロワ伯

















































































































































































フィリップ6世
フランス王









シャルル2世
アランソン伯
(ヴァロワ=アランソン家)



























































































































































ジャン2世
フランス王

フィリップ
オルレアン公





















































































































































































































シャルル5世
フランス王

















ルイ1世
アンジュー公
(ヴァロワ=アンジュー家)

















ジャン
ベリー公
(ヴァロワ=ベリー家)

フィリップ2世
ブルゴーニュ公
(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)



























































































































































































































































































シャルル6世
フランス王









ルイ
オルレアン公
(ヴァロワ=オルレアン家)

ルイ2世
アンジュー公

シャルル
モンパンシエ伯

カトリーヌ

ジャン
モンパンシエ伯

ルイ





























































































































































































































































































































































































































ルイ
ギュイエンヌ公

ジャン
トゥーレーヌ公

シャルル7世
フランス王

マリー・ダンジュー

シャルル1世
オルレアン公

イザベル
イングランド王妃

ジャン
アングレーム伯
(ヴァロワ=アングレーム家)

ジャン・ド・デュノワ
(ヴァロワ=ロングウィル家)















































































































































ルイ11世
フランス王

シャルル
ベリー公



ルイ12世
フランス王









シャルル
アングレーム伯

































































































































































シャルル8世
フランス王

ジャンヌ



クロード
ブルターニュ女公

フランソワ1世
フランス王













































































































































































フランソワ3世
ブルターニュ公

アンリ2世
フランス王

シャルル2世
オルレアン公



























































































































































































フランソワ2世
フランス王

シャルル9世
フランス王

アンリ3世
フランス王
ポーランド王

フランソワ
アンジュー公

アンリ・ド・サン=レミ
(ヴァロワ=サン=レミ家)







































































































































シャルル
アングレーム公



























































































ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア

ラ・モット=ヴァロワ伯爵夫人ことジャンヌ・ド・ヴァロワ=サン=レミ(Jeanne de Valois-Saint-Rémy, comtesse de la Motte-Valois, 1756年7月22日 - 1791年8月23日)は、首飾り事件の首謀者と思われるフランスの伯爵夫人。通称ラ・モット夫人。フランスの旧王家ヴァロア家の末裔を称した。肩にVの焼印を付けられ投獄されたが、脱獄してフランス革命期にロンドンで転落死を遂げた。



目次 [非表示]
1 生涯
2 首飾り事件
3 著作
4 脚注
5 関連項目


生涯[編集]

父ジャック・ド・サン・レミ男爵はアンリ2世の認知されなかった庶子アンリ・ド・サン=レミの子孫で、困窮していた。9歳で両親を喪う。少女時代、貴族の娘としての教養を身につけるため、ロンシャン修道院の寄宿女学校に入学。22歳の時、修道女になる事を嫌って逃亡した。1780年、バール=シュル=オーブでマルク・アントワーヌ・ニコラ・ド・ラ・モット伯爵と知り合い結婚した。ジャンダルムリの士官であったこの夫は、伯爵を名乗っていたが、本当に貴族であったかどうかは疑わしい。

1786年、首飾り事件を起こし、裁判でジャンヌは有罪となった。監獄でジャンヌは鞭打ちの刑を受けた後、両肩に「V」の焼き鏝(当時の刑法では泥棒、窃盗犯にはフランス語で「泥棒」を意味する「Voleuse」(女性形)の頭文字「V」の焼き鏝を両肩に捺される刑罰があったen)を捺された後、サルペトリエール監獄enでの終身禁錮刑となった。しかしジャンヌは、たくさんの民衆から同情され、いつの間にかイギリスへと脱走した。

1791年、精神錯乱の発作により窓から転落して死んだ。35歳没。ロンドンで強盗に襲われたために窓から転落したと言う説もある。

首飾り事件[編集]

ド・ロアンは、枢機卿にして宮廷司祭長という地位にある聖職者でありながら大変な放蕩家であったため、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアとその娘であるフランス王妃マリー・アントワネットに嫌われていた。宰相になりたいという野望を持つロアンに近づいたジャンヌは、自分が王妃の親しい友人であると吹聴し、王妃の名を騙って金品を騙し取っていた。

かつて先王ルイ15世が愛人デュ・バリー夫人のために作らせたまま契約が立ち消えになっていた160万リーブル相当のダイヤが、宝石商によってマリー・アントワネットのもとに持ち込まれるが、あまりに高額だったのを理由にマリーに断られた。1785年1月、それを知ったジャンヌは、ロアンにマリー・アントワネットの要望として、この首飾りの代理購入を持ちかけた。ジャンヌの巧みな嘘に騙されたロアンは、言われるがままに首飾りを代理購入し、ジャンヌに首飾りを渡してしまう。しかし、首飾りの代金が支払われないことに業を煮やした宝石商の申し出により事件が発覚。ジャンヌとロアンをはじめ事件にかかわった者が次々逮捕された。なお、当の首飾りはジャンヌが解体した上に詐欺師仲間に分配、それぞれが売却した為に消失したという(現存するのはそのレプリカ)[1]。

この事件に激怒したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)で身の潔白を証明しようと試みたが、政治的に宮廷と対立していた高等法院は、王妃にとって都合の悪い判決を下した。1786年3月に下された判決は、ロアン無罪、ジャンヌ有罪というものであった。

著作[編集]

ジャンヌはロンドンに脱走した際に、「回想録」と首飾り事件のあらましについて書いた書籍を出版した。

ヴァロワ朝

ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、仏: dynastie des Valois)は、中世フランス王国の王朝。1328年から1589年まで続いた。

1328年にカペー朝が断絶したため、カペー家の支流でヴァロワを所領とするヴァロワ家からフィリップが即位しヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1491年のシャルル8世の代にブルターニュ公女アンヌとの結婚によってフランスを再統一することを果たしたが、直後に直系が断絶し、庶家に引き継がれつつ1589年までの間で13代の王が続いた。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 成立と百年戦争
1.2 イタリア侵略

2 歴代国王
3 関連項目


歴史[編集]

成立と百年戦争[編集]

カペー朝第10代国王フィリップ3世の子シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世が諸侯の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。

ところが、当時のイングランド王エドワード3世もフランス王家の血を引く人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が勃発した。

名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒が原因で44歳の若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂には王国存続の危機にまで立たされた。

そのような中でシャルル7世の時代に現れたジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年、遂に百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じた。

イタリア侵略[編集]





フランソワ1世
フランスを事実上統一したヴァロワ朝はイタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。1498年、フィリップ4世に始まるヴァロワ本家はシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代シャルル5世の子オルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が即位した。

1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=アングレーム家の従兄アングレーム伯シャルルの息子フランソワ1世を娘婿とするとともに王位継承者とした。以後、フランソワ1世からアンリ3世まで5代の王が続いた。なお、アンリ3世はフランス王即位前に一時ポーランド国王(ポーランド名:ヘンリク・ヴァレジ)に選出されているが、自ら放棄している。

その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペインとオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。

ただし、断絶したのはヴァロワ家の嫡流で、庶流では絶えていない。オルレアン公ルイの庶子であるジャンを祖とするヴァロワ=ロングウィル家は17世紀末まで存続し、シャルル9世の庶子であるアングレーム公シャルルを祖とする家系も17世紀初期まで存続した。又、アンリ2世の庶子であるアンリ・ド・サン=レミーを祖とする家系は19世紀末まで存続し、首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ はこの家系の出身と言われている。

歴代国王[編集]
1.フィリップ6世(1328年 - 1350年)
2.ジャン2世(善王(le Bon) 1350年 - 1364年)
3.シャルル5世(賢明王(le Sage) 1364年 - 1380年)
4.シャルル6世(親愛王、狂気王(le Fol) 1380年 - 1422年)
5.シャルル7世(勝利王(le Victorieux) 1422年 - 1461年)
6.ルイ11世(商人王 1461年 - 1483年)
7.シャルル8世(温厚王 1483年 - 1498年)
8.ルイ12世(民衆の父 1498年 - 1515年) ヴァロワ=オルレアン家
9.フランソワ1世(1515年 - 1547年) 以下5代ヴァロワ=アングレーム家
10.アンリ2世(1547年 - 1559年)
11.フランソワ2世(1559年 - 1560年)
12.シャルル9世(1560年 - 1574年)
13.アンリ3世(1574年 - 1589年) ポーランド王兼リトアニア大公(1573年 - 1575年)

百年戦争

百年戦争





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百年戦争

Jeanne d'Arc - Panthéon III.jpg
シャルル7世の戴冠とジャンヌ・ダルク。
戦争:
年月日:1337年11月1日 - 1453年10月19日
場所:主にフランス、ネーデルラント
結果:フランス王国側の勝利。ヴァロワ朝によるフランスの事実上の統一

交戦勢力

Flag of Île-de-France.svgフランス王国側
Blason France moderne.svgヴァロワ家
Escudo Corona de Castilla.png カスティーリャ王国
Royal coat of arms of Scotland.svg スコットランド王国
CoA civ ITA milano.png ジェノヴァ共和国
Armoiries Majorque.svg マヨルカ王国
Small coat of arms of the Czech Republic.svg ボヘミア王国
Aragon Arms.svg アラゴン連合王国
COA fr BRE.svgブルターニュ Flag of England.svgイングランド王国側
England Arms 1340.svg プランタジネット家
Lancashire rose.svg ランカスター家
Blason fr Bourgogne.svg ブルゴーニュ公国
Blason de l'Aquitaine et de la Guyenne.svg アキテーヌ
COA fr BRE.svg ブルターニュ
Armoires portugal 1385.png ポルトガル王国
Blason Royaume Navarre.svg ナバラ王国
Blason Nord-Pas-De-Calais.svg フランドル
Hainaut Modern Arms.svg エノー
Luxembourg New Arms.svg ルクセンブルク
Holy Roman Empire Arms-single head.svg 神聖ローマ帝国
百年戦争
百年戦争(1337年 - 1360年)
キャドザント - スロイス - サン・トメール - オーブロッシェ - カーン - クレシー - カレー - ネヴィルズ・クロス - ポワティエ


ブルターニュ継承戦争(1341年 - 1364年)
シャントソー - ブレスト - モルレー - サン・ポル・ド・レオン - ラ=ロシュ=デリアン - 30人の戦い - モーロン - オーレ


百年戦争(1369年 - 1389年)
ナヘラ - モンティエル - ポンヴァヤン - ラ・ロシェル


百年戦争(1415年 - 1453年)
アジャンクール - ルーアン - ラ・ロシェル(第2次) - ボージェ - モー - クラヴァン - ヴェルヌイユ - オルレアン - ジャルジョー - モン=シュル=ロワール - ボージャンシー - パテー - コンピエーニュ - コンピエーニュ - ジュルブヴォワ - フォルミニー - カスティヨン


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百年戦争(ひゃくねんせんそう、英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い。現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争である。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。

伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。



目次 [非表示]
1 背景 1.1 ギュイエンヌ問題
1.2 フランス王位継承問題
1.3 フランドル問題
1.4 スコットランド問題

2 戦争の経過 2.1 宣戦
2.2 エドワード3世の遠征による勢力圏の拡張 2.2.1 フランドルの反乱
2.2.2 ブルターニュ継承戦争
2.2.3 フランス王軍の大敗

2.3 賢王シャルル5世による国家内政の転換 2.3.1 ジャン2世の捕囚と全国三部会の開催
2.3.2 シャルル5世による税制改革と戦略転換
2.3.3 カスティーリャ王国遠征
2.3.4 再征服戦争

2.4 休戦 2.4.1 ランカスター朝の成立
2.4.2 オルレアン派とブルゴーニュ派の対立

2.5 イングランド・フランス統一王国 2.5.1 ヘンリー5世の攻勢
2.5.2 アングロ・ブールギニョン同盟

2.6 フランスの逆襲 2.6.1 ジャンヌ・ダルクの出現
2.6.2 イングランドの撤退


3 戦争の影響
4 その他
5 参考文献
6 百年戦争をモチーフにした作品 6.1 映画
6.2 ゲーム

7 関連項目
8 外部リンク


背景[編集]

詳細は「百年戦争の背景」を参照

百年戦争はプランタジネット家とヴァロワ家との確執によってもたらされた。対立の第一義的な火種はギュイエンヌ問題で、その意義は両家にとって極めて大きい。

ギュイエンヌ問題[編集]





1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)
プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン欠地王の失策とフィリップ尊厳王の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年にヘンリー3世が聖王ルイに臣下の礼をとることで安堵されたものである。このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ端麗王とシャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。

フランス王位継承問題[編集]





百年戦争前のフランス王家の家系図
987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは、1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップのフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。

フランドル問題[編集]

フランドルは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年の金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールが都市同盟の反乱により追放されると、フランス王フィリップ6世は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイを戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。

スコットランド問題[編集]

13世紀末からイングランド王国はスコットランド王国の征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。エドワード3世は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。

戦争の経過[編集]

宣戦[編集]

スコットランド問題によって両家の間には深刻な亀裂が生じた。フィリップ6世は、ローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世に対してギュイエンヌ領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、1337年10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。これが百年戦争の始まりである。

エドワード3世の遠征による勢力圏の拡張[編集]

詳細は「百年戦争 (1337-1368)」を参照

フランドルの反乱[編集]

百年戦争にいたるまでのヴァロワ朝との関係悪化にともない、エドワード3世は1336年にフランスへの羊毛輸出の禁止に踏み切った。このため、材料をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は大きな打撃を受け、 1337年にはアルテベルデの指導によりヘント(ガン)で反乱が勃発、これにフランドル諸都市が追従し、反乱軍によってフランドル伯は追放され、1340年にフランドル都市連合はエドワード3世への忠誠を宣誓した。

1338年、イングランド王エドワード3世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入した。何度か中世騎士道物語さながらに挑戦状を送り決戦を迫ったが、フランス王フィリップ6世は戦いを避け、低地諸侯も戦意が低かったため特に成果を挙げることができないままだった。





スロイスの海戦、フロワサールの年代記の挿絵
これに対してフランス王軍は直接対決を避け、海軍を派遣してイングランド沿岸部を攻撃、海上輸送路を断つ作戦をとった。両王軍は海峡の制海権をめぐり、1340年6月24日にエクリューズで激突、イングランド王軍はフランス王軍200隻の艦隊を破った(スロイスの海戦)。しかし、内陸部ではフランス王軍にたびたび敗北を喫し、両者とも決定的な勝利をつかめないまま、1340年9月25日、約2年間の休戦協定が結ばれた。休戦の最中、スコットランド王デイヴィッド2世が帰国したため、エドワード3世はスコットランド問題にも手を回さなければならなかった。

ブルターニュ継承戦争[編集]

詳細は「ブルターニュ継承戦争」を参照

1341年、ジャン3世が亡くなるとブルターニュ公領の継承をめぐって、ジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャンと、姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌの間で争いが起きた。ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワがフィリップ6世の甥であったため、モンフォール伯はエドワード3世に忠誠を誓い、ナントを占拠してフランス王軍に対峙した。

フィリップ6世はシャルル・ド・ブロワを擁立するために軍を差し向けナントを攻略し、モンフォール伯を捕らえたが、モンフォール伯妃ジャンヌ・ドゥ・フランドルの徹底抗戦によってブルターニュの平定に時間がかかり、休戦協定の期限切れを迎えたエドワード3世の上陸を許した。このブルターニュ継承戦争は、1343年に教皇クレメンス6世の仲介によって休戦協定が結ばれたが、一連の戦闘によってイングランドはブルターニュに対しても前線を確保することができた。

フランス王軍の大敗[編集]





クレシーの戦い




ポワティエの戦い
1346年7月、イングランド王軍はノルマンディーに上陸し、騎行を行った。このためフィリップ6世はクレシー近郊に軍を進め、8月26日、クレシーの戦いが勃発した。フランス王軍は数の上では優勢であったが、指揮系統は統一できておらず、戦術は規律のない騎馬突撃のみで、長弓を主力とし作戦行動を採るイングランド王軍の前に大敗北を喫した。

勢いづいたイングランド王軍は港町カレーを陥落させ、アキテーヌでは領土を拡大、ブルターニュではシャルル・ド・ブロワを、スコットランドではデイヴィッド2世を捕縛するなどの戦果を挙げた。クレシーの敗戦で痛手を被ったフィリップ6世はこれらに有効な手を打つことはできなかったが、フランドル伯ルイ・ド・マールがフランドルの反乱を平定し、フランドルについてはイングランドの影響力を排除することに成功した。

両者は1347年、教皇クレメンス6世の仲裁によって1355年までの休戦協定が結ぶが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。

1350年、フランス王フィリップ6世が死去、ジャン2世がフランス王に即位した。1354年、アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード3世はジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を求めた。しかし、ジャン2世はこれを一蹴、このためイングランド王軍は1355年9月に騎行を再開した。

1356年、エドワード黒太子率いるイングランド王軍は、アキテーヌ領ボルドーを出立し、ブルターニュからの出陣する友軍と合流して南部から騎行を行う予定であったが、フランス王軍の展開に脅かされ、急遽トゥールからボルドーへの撤退を試みた。しかし、ポワティエ近郊でフランス王軍の追撃に捉えられたため、黒太子エドワードはこれに応戦する決意を固めた。このポワティエの戦いは、イングランド王軍が明らかに劣勢だったが、フランス王軍はクレシーの戦いと同じ轍を踏み、またも大敗北を喫した。この敗戦でジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンに連行された。

賢王シャルル5世による国家内政の転換[編集]

ジャン2世の捕囚と全国三部会の開催[編集]

国王ジャン2世を捕縛されたフランス王国では、王太子シャルルが軍資金と身代金の枯渇、王不在の事態に対処するために1356年10月17日、パリで全国三部会を開いた。しかし、敗戦によって三部会の議事進行は平民議員に支配され、特にパリの商人頭エティエンヌ・マルセルの台頭により、国政の運営を国王から剥奪する案も提出された。

平民議員との交渉は1年以上にもわたって続けられたが平行線をたどり、このためシャルルはパリでの三部会の利用を諦め、国王代理から摂政を自任して、1358年4月から5月にかけてプロヴァンスやコンピエーニュでパリとは別の三部会を開催した。これらの三部会で軍資金を得、またジャックリーの乱を鎮圧すると、シャルルはパリ包囲に着手し、パリ内紛を誘引して7月31日にはエティエンヌ・マルセル殺害に成功した。





ブレティニィ条約、赤がイングランド支配地域、ピンクが条約で割譲された領土
この間、ロンドンにて1358年1月に1回目の、1359年3月24日に2回目の和平交渉が行われており、ジャン2世は帰国を条件に、アキテーヌ全土、ノルマンディー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を承諾した。しかし、王太子シャルルが三部会においてその条約を否決、これを受けて1359年10月28日、イングランド王軍はカレーに上陸して騎行を始めた。

王太子シャルルはこの挑発には応じず、イングランド王軍の資金枯渇による撤退を待ち、1360年5月8日、教皇インノケンティウス6世の仲介による、ブレティニィ仮和平条約の締結を行った。これは10月24日にカレー条約として本締結され、アキテーヌ、カレー周辺、ポンティユー、ギーヌの割譲と、ジャン2世の身代金が決定された。

ジャン2世は、身代金全額支払い前に解放されたが、その代わりとなった人質の一人が逃亡したため、自らがその責任をとって1364年1月3日、ロンドンに再渡航した。4月8日、ジャン2世はそのままロンドンで死去し、5月19日、王太子シャルルはシャルル5世として即位した。

シャルル5世による税制改革と戦略転換[編集]

シャルル5世は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からのみ年貢にたよる方式から国王課税収入へと転換した。彼は1355年に規定された税制役人を整備し、国王の身代金代替という臨時徴税を1363年には諸国防衛のためという恒久課税として通常税収とした。このため、シャルル5世は税金の父とも呼ばれる。税の徴収によって、フランス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤を直轄領から全国的なものにすることとなった。

シャルルは外交による勢力削除にも力を入れる。フランドルはルイ・ド・マールによって平定されていたが、ルイ自身がイングランド寄りの姿勢を見せ、1363年には娘マルグリットとケンブリッジ伯エドマンド(後のヨーク公)の婚姻を認めた。シャルル5世は教皇ウルバヌス5世に働きかけ、両者が親戚関係にあることを盾に破談を宣言させた。1369年には弟フィリップとマルグリットを(両者も親戚関係にあるが教皇の特免状を得て)結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。

また、1364年にはブルターニュ継承戦争が再燃し、オーレの戦いでイングランド王軍が勝利を収めたが、シャルル5世はこれを機会に継承戦争から手を引き、第一次ゲランド条約を結んでブルターニュ公ジャン・ド・モンフォール(ジャン4世)を認めた。しかし、ジャン4世に臣下の礼をとらせたことで反乱は封じられ、イングランドはブルターニュからの侵攻路を遮断された。

カスティーリャ王国遠征[編集]

1366年、シャルル5世はカスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ1世の弾圧によって亡命したエンリケ・デ・トラスタマラを国王に推すために、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス王軍を遠征させた。これはエンリケ・デ・トラスタマラをエンリケ2世として戴冠させることのほかに、国内で盗賊化している傭兵隊の徴収と、彼らを国外に追放する意味もあり、ゲクランはこれを見事に成功させた。

フランス王の介入によって王位を追われたペドロ1世は、アキテーヌの黒太子エドワードの元に亡命し、復位を求めた。1366年9月23日、黒太子エドワードとペドロ1世の間でリブルヌ条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。

1367年、ナヘラの戦いに勝利した黒太子エドワードは、総大将デュ・ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たしたが、この継承戦争によって赤痢の流行と多額の戦費の負債を抱えることとなった。戦費はペドロ1世の負担だったはずだが、彼は資金不足を理由にこれを果たさず、遠征の負債はアキテーヌ領での課税によって担われた。しかし、これはアキテーヌ南部のガスコーニュに領地を持つ諸侯の怒りを買い、パリ高等法院において黒太子エドワードに対する不服申し立てが行われた。

1369年1月、黒太子エドワードにパリへの出頭命令が出されたが、これが無視されたため、シャルル5世は彼を告発した。エドワード3世は、アキテーヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求したため、1369年11月30日、シャルル5世は黒太子エドワードに領地の没収を宣言した。

再征服戦争[編集]





ベルトラン・デュ・ゲクラン
1370年3月14日、モンティエルの戦いでカスティーリャ王ペドロ1世を下したデュ・ゲクランはパリに凱旋し、フランス王軍司令官に抜擢される。シャルル5世は会戦を避け、敵の疲労を待って着実に城、都市を奪回して行く戦法を取った。1370年12月4日、ポンヴァヤンの戦いでブルターニュに撤退中のイングランド王軍に勝利し、1372年には、ポワトゥー、オニス、サントンジュを占拠、7月7日にはポワティエを、7月22日のラ・ロシェルの海戦でイングランド海軍を破った後、9月8日にはラ・ロシェルを陥落させ、イングランド王軍の前線を後退させた。これに対して、イングランドは1372年にブルターニュ公ジャン4世と軍事同盟を結び、1373年にはイングランド王軍がブルターニュに上陸したが、デュ・ゲクランはこれを放逐し、逆にブルターニュのほとんどを勢力下においた。

1375年7月1日、フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世とシャルル5世はブルッヘで2年間の休戦協定が設けられるに至った。しかし、両陣営は互いに主張を譲らず、また1376年には黒太子エドワードが、1377年にはエドワード3世が死去するに及んで両陣営は正式な平和条約を締結することがなかった。

両陣営の動きが膠着する中、1378年12月18日、シャルル5世はすでに征服したブルターニュを王領に併合することを宣言した。しかし、これは独立心の強いブルターニュの諸侯の反感を買い、激しい抵抗にあった。また、国内ではラングドック、モンペリエで重税に対する一揆が勃発したため、シャルル5世はやむなく徴税の減額を決定し、1380年9月16日に死去した。1381年4月4日、第二次ゲランド条約が結ばれ、ブルターニュ公領はジャン4世の主権が確約され、公領の国庫没収(併合)はさけられた。

休戦[編集]

ランカスター朝の成立[編集]

1375年に休戦が合意された後、両国は和平条約締結にむけての交渉がはじまった。1381年5月には、ルーランジャンで新王リチャード2世とシャルル6世の和平交渉がはじめられる。話し合いはまとまらなかったが、この間、休戦の合意はずるずると延長された。

イングランドでは、年少のリチャード2世即位にあたってランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを筆頭とする評議会が設置されていたが、1380年に戦費調達のための人頭税課税に端を発するワット・タイラーの乱が勃発、この乱を鎮めたリチャード2世は評議会を廃して親政を宣言した。しかし、彼が寵臣政治を行い、かつ親フランス寄りの立場を採ったため、主戦派の諸侯とイングランド議会は王に閣僚の解任を求めた。

1387年12月20日、議会派諸侯はラドコット・ブリッジの戦いで国王派を破り、1388年2月3日にはいわゆる無慈悲議会において王の寵臣8人を反逆罪で告発した。これに対して、1392年のアミアン会議や1393年のルーランジャン交渉、1396年のアルドル会議などでフランス王との交渉に忙殺されていたリチャード2世は、交渉が一段落した1397年7月10日、対フランス和平案にも反発した議会派の要人グロスター公トマス・オブ・ウッドストック、アランデル伯らを処刑した。

これらの政情不安の最中、ランカスター公ジョンの息子ヘリフォード公ヘンリー・オブ・ボリングブロクがリチャード2世に狙われているという陰謀を議会で告訴、リチャード2世がその報復としてヘリフォード公を追放刑に処したことにより、王と議会派諸侯はさらに激しく対立することになった。

ヘリフォード公からランカスター公領を剥奪したことにより、議会派は再び軍事蜂起してリチャード2世を逮捕、1399年9月29日には退位を迫られ、ロンドン塔に幽閉された。翌日、ヘリフォード伯ヘンリーがイングランド王ヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が成立した。

オルレアン派とブルゴーニュ派の対立[編集]

イングランドの一連の内紛によって、フランスとイングランドとの和平交渉は早急にまとめられつつあった。1392年のリチャード2世、シャルル6世の直接会談(アミアン会議)の後、1396年3月11日にはパリにおいて、1426年までの全面休戦協定が結ばれた。

しかし、和平交渉はイングランドの内紛だけでなく、フランス国内の混乱によるためでもあった。幼少のシャルル6世の後見人となったアンジュー伯ルイ、ベリー公ジャン、ブルボン公ルイ1世らは、国王課税を復活させて財政を私物化し、特に反乱を起こしたフランドル諸都市を平定したブルゴーニュ公フィリップは、フランドル伯を兼任して力を持ち、摂政として国政の濫用を行った。これに対して、1388年、シャルル6世による親政が宣言され、オルレアン公ルイや、マルムゼと呼ばれる官僚集団がこれに同調して後見人一派を排斥するようになった。しかし、1392年、突如シャルル6世に精神錯乱が発生し、国王の意志を失ったフランス王国の事態は混迷する。

国王狂乱によって、ブルゴーニュ派とオルレアン派の対立は壮絶な泥仕合となった。当初、王妃イザボー・ド・バヴィエールの愛人であったオルレアン公が財務長官、アキテーヌ総指令となり国政をにぎったが、ブルゴーニュ派はフィリップの後を継いだブルゴーニュ公ジャンによって1405年にパリの軍事制圧を行い、1407年11月23日にはオルレアン公ルイを暗殺して政権を掌握した。しかし、ルイの跡目を継いだオルレアン公シャルルの一派は、アルマニャック伯ベルナール7世を頼ってジアン同盟を結び、ブルゴーニュ派と対立した。両派の対立はついに内乱に派生し、ともにイングランド王軍に援軍を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた。

イングランド・フランス統一王国[編集]

「イングランド・フランス二重王国」も参照

ヘンリー5世の攻勢[編集]

アルマニャック派と公式に同盟を結んだイングランド王軍は、1412年8月10日、ノルマンディーに上陸、ボルドーまでの騎行を行った。1413年3月21日、ヘンリー4世の死去によってヘンリー5世が即位する。ヘンリー5世は1414年5月23日にブルゴーニュ公と同盟を結び、12月にはフランス王国にアキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言した。

内紛によって動きのとれないフランス宮廷を尻目に、イングランド王軍は1415年8月12日にノルマンディー北岸シェフ・ド・コーに再上陸した。フランス王家は内乱によって全く有効な手立てを打ち出せなかったが、パリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、進撃を続けるイングランド王軍に対して軍を派遣した。1415年10月25日、アジャンクールの戦いでフランス王軍は勢力差4倍以上の軍勢を揃えたが、全く足並みが揃わず大敗を喫した。オルレアン公シャルルは捕らえられ、アルマニャック派は弱体化したが、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派も対イングランドに対しては無力であった。1417年、フランス王軍を破って再上陸したイングランド王軍は、 ルーアンを陥落させてノルマンディー一帯を掌握した。

アングロ・ブールギニョン同盟[編集]





トロワ条約時の勢力範囲、フランス(青)、イングランド(赤)、ブルゴーニュ(紫)、及び主要な戦場、アジャンクール(Azincourt)、オルレアン(Orleans)、パテー(Patay)、フォルミニー(Formigny)、カスティヨン(Castillon)
この間、フランス王家はブルゴーニュ公ジャンがシャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(「淫乱王妃」と呼ばれ、王太子はシャルル6世の子ではないと発言して王太子シャルルの王位継承を否定しようとした)に接近して王太子シャルルを追放した。ブルゴーニュ公ジャンは親イングランドの姿勢を見せていたが、イングランド王軍にブルゴーニュのポントワーズが略奪されるにおよんで王太子との和解を試みた。しかし、1419年9月10日にモントローで行われた会談において、王太子シャルルがブルゴーニュ公を惨殺したため、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド王家と結託し、1419年12月2日、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだ。

両陣営は度重なる折衝の末、1420年5月21日、トロワ条約を締結した。これはシャルル6世の王位をその終生まで認めることとし、シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世および彼ら(ヘンリー5世とカトリーヌ)の子をフランス王の継承者とするものである。事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するものであった。

国王代理である王太子シャルルとアルマニャック派はこの決定を不服とし、イングランド連合軍に抵抗するが、王太子シャルルの廃嫡を認めるトロワ条約は三部会の承認を受け、このためイングランドは着実に勢力を拡大した。

しかし、1422年8月31日、ヘンリー5世がヴァンセンヌにて急死し、10月21日にはシャルル6世が死去したため、事態は再び混迷しはじめた。イングランド王国はヘンリー6世をイングランド王位とフランス王位(ただしフランス王としての正式な戴冠式は1431年)に就けるが、ヘンリー6世は前年の1421年に生まれたばかりの赤子であり、また、王太子シャルルは10月30日にシャルル7世を名乗り、ブールジュでなおも抵抗を続けた。

フランスの逆襲[編集]

ジャンヌ・ダルクの出現[編集]





シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ・ダルク ドミニク・アングル画
イングランド摂政ベッドフォード公ジョンは、アングロ・ブルギーニョン同盟にブルターニュ公ジャン5世を加え、ノルマンディー三部会を定期的に開催することによって財政の立て直しを計った。また、シャルル7世は、反イングランド勢力との同盟を結び、ブールジュでの再起を狙っていたが、イングランド側は、ロワール河沿いのオルレアンを陥落させ、勢力を一気にブールジュにまで展開する作戦を立てた。

これに対して、1429年4月29日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8日にはイングランド連合軍を撤退させた。このオルレアン解放が、今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。

オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを制圧しつつ、1429年6月18日のパテーの戦いに勝利し、ランスに到達し、シャルル7世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。その後、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世によりパリの解放を指示されるが失敗、1430年にはコンピエーニュの戦いで負傷、捕虜として捕らえられ、1431年5月30日に火刑に処された。

イングランドの撤退[編集]





百年戦争の変遷、フランス(黄)、イングランド(グレー)、ブルゴーニュ(黒)
1431年、リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップとシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。これを機にシャルル7世は、ブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟破棄を画策し、1435年には、フランス、イングランド、ブルゴーニュの三者協議において、イングランドの主張を退け、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。

ブルゴーニュとイングランドの同盟解消に成功したフランスは、徐々にイル=ド=フランスを制圧し、アキテーヌに対してはその周囲から圧力をかけ始めた。1439年、オルレアンで召集された三部会において、フランス王国は軍の編成と課税の決定を行い、1444年に行われたロレーヌ遠征の傭兵隊を再編成して、1445年には常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族は予備軍として登録され、平民からは各教会区について一定の徴兵が行われ、訓練・軍役と引き換えに租税が免除されたため、自由(franc)という名前の付いた「自由射手隊francs archers」が組織されている。

これら一連の軍備編成を行うと、シャルル7世はノルマンディーを支配するイングランド軍討伐の軍隊を派遣した。1449年、東部方面隊・中部方面隊・西部方面隊に別れたフランス軍は3方からノルマンディーを攻撃し、12月4日にはルーアンを陥落させた。これに対し、シェルブールに上陸したイングランド軍は1450年4月15日、アルチュール・ド・リッシュモン元帥が指揮を執るフランス軍と激突、このフォルミニーの戦いにおいて、イングランド軍は大敗を喫し、8月には完全にノルマンディー地方を制圧されてしまった。

シャルル7世は、イングランド軍の立て直しを計る時間を与えまいと、すぐさまアキテーヌ占領に着手し、1451年6月19日、ボルドーを陥落させた。ボルドーは翌年10月にイングランド軍に奪還されるが、イングランド軍の劣勢はいかんともしがたく、1453年7月17日、フランス軍はカスティヨンの戦いに大勝し、10月19日、再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。

戦争の影響[編集]

この戦争の後、イングランドでは、「薔薇戦争」が起こって諸侯は疲弊し没落したが、王権は著しく強化されテューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生したが、祖国が統一されたことで王権が伸張し、ブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。

その他[編集]

ヘンリー6世以降のイングランド王は、百年戦争以降も「フランス王」の称号を用い続けた。これはハノーヴァー朝まで続いており、ジェームズ1世以降はフランス、イングランド、スコットランド、アイルランドの4ヶ国の王を称した。

ジェフリー・チョーサー

ジェフリー・チョーサー(英語: Geoffrey Chaucer、 1343年頃 - 1400年10月25日)は、イングランドの詩人である。当時の教会用語であったラテン語、当時イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中英語を使って物語を執筆した最初の文人とも考えられている。

アメリカ合衆国の女優・外交官シャーリー・テンプルはその末裔に当たる。

来歴[編集]

彼の家系はもともとイプスウィッチの豪商であり、祖父と父はロンドンの豊かなワイン商人の家に生まれた。父親ジョンを大金持ちの叔母が無理やりに連れ出し、自分の12歳の娘と結婚させて跡取りにしようとしたことがあり、そのため叔母は投獄の上に250ポンドの罰金を支払う事となったと言う。結局父親ジョンはその娘と結婚し、叔母の所有するロンドンの大店舗を受け継ぐ事になる。チョーサーは当時のイングランドの裕福な上流中産階級の出自だったと言える。チョーサーは1357年のエリザベス・ドゥ・バーグ(ウルスター伯爵夫人)の台帳にその名が見られる事から父親の縁故を使い上流社会への仲間入りをしたと思われる。廷臣、外交使節、官吏としてエドワード3世、リチャード2世に仕えた。エドワード3世に仕えていた時にウルスター伯爵夫人の夫であるライオネル・アントワープ(第1代クラレンス伯)とともに敵国フランスへ渡航、ランスにて捕虜となり獄につながれたが、エドワード王が16ポンドの身代金を支払い釈放される。

それ以降しばらくの間チョーサーの消息は記録から消える事となるが、恐らくは使節としてフランス、スペイン、フランドルに赴いていたものと思われる。またこの間サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の旅を行っていた可能性もある。1366年になると彼の名が再び現れ、エドワード3世妃フィリッパ・エノー(Phillippa of Hainault)の侍女であったフィリッパ・ドゥ・ロエ(Philippa de Roet)と結婚する。そして後に王妃の妹の夫であったジョン・オブ・ゴーントが彼のパトロンとなる。

この頃のチョーサーは法律を学んでいたと思われるが、資料にはそれを示すものは残ってはいない。1367年6月20日に彼は王の側近として、騎士に次ぐ身分であるエスクワイアの身分となったと記録されている。彼は何回も海外へ出かけていたが、その中の何回かは王族の側近として赴いたものであった。

チョーサーは外交使節としてイタリアを訪問、この時イタリアの人文主義者で詩人のペトラルカと親交を結ぶ事になるが、この2人を結びつける事例として1368年に主人であるライオネルがガレアッツォ1世・ヴィスコンティの娘ヴィオランテと再婚した事が指摘されている。ミラノで行われたこの婚儀にペトラルカは出席しており、この時チョーサーも出席していた可能性がある。そしてペトラルカの影響からチョーサーは彼が用いたソネット形式を英文学に導入する。 多彩な学歴を持ち、学識が豊かで、"The father of English poetry"(英詩の父)と呼ばれる大詩人となった。「アストロラーベに関する論文」は同天体観測機器の初の英語版解説書である。

また1370年には軍事出征の一環としてジェノヴァ、1373年にはフィレンツェに赴いている。また1377年にもチョーサーは旅に出かけているが、この内容は分かっていない。後世の書類から、百年戦争の終結を図るためにジャン・フロワサールとともにリチャード2世とフランス王女との婚儀を進める密命を帯びていたと思われる。後世の我々から見た場合、現実には婚姻はされていないのは分かっているので、もしそうであったのなら、これは不成功に終わった事になる。

1378年にチョーサーはリチャード2世の密命を帯びてミラノに渡航。ヴィスコンティ家と傭兵隊長ジョン・ホークウッドと接触、傭兵を雇い入れるために交渉する。この時チョーサーと出会ったホークウッドの出で立ちがカンタベリー物語の「騎士の物語」への影響が見られる。ホークウッドの装いは騎士というより14世紀の傭兵そのものであった。

なお、彼を称えて、小惑星(2984)チョーサーが彼の名をとり命名されている。

著作[編集]

主著『カンタベリー物語』はボッカッチョ『デカメロン』の影響を受けた作品で、カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼者たちが語るという体裁の説話集。未完ながら中英語を代表する文学作品のひとつである。

チョーサーを題材にした映画[編集]

2001年製作のアメリカ映画『ROCK YOU!(ロック・ユー!)』は、チョーサーが何をしていたか不明とされている1370年頃のヨーロッパを舞台とした物語で、チョーサーはジュースティング(馬上槍試合)に挑む主人公の仲間となる、重要なキャラクターとして登場。ポール・ベタニーがチョーサーを演じた。

カンタベリー物語

『カンタベリー物語』(The Canterbury Tales)は、14世紀にイングランドの詩人ジェフリー・チョーサーによって書かれた物語集である。

聖トマス・ベケット廟[1]があるカンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々の身分・職業の人間が、旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく「枠物語」の形式を取っている。これはボッカッチョの『デカメロン』と同じ構造で、チョーサーは以前イタリアを訪問した時に『デカメロン』を読んだと言われている。各人が語る物語は、オリジナルもあれば、そうでないものもあり、ジャンルは騎士道物語(ロマンス)、ブルターニュのレー、説教、寓話、ファブリオーと様々である。中英語で書かれている。



目次 [非表示]
1 登場人物
2 あらすじ 2.1 総序(General Prologue)
2.2 騎士の話(The Knight's Tale)
2.3 粉屋の話(The Miller's Tale) 2.3.1 粉屋の話・序
2.3.2 粉屋の話

2.4 親分の話(The Reeve's Tale) 2.4.1 親分の話・序
2.4.2 親分の話

2.5 料理人の話(The Cook's Tale) 2.5.1 料理人の話・序
2.5.2 料理人の話

2.6 法律家の話(The Man of Law's Tale) 2.6.1 法律家の話・序
2.6.2 法律家の話

2.7 バースの女房の話(The Wife of Bath's Tale) 2.7.1 バースの女房の話・序
2.7.2 バースの女房の話

2.8 托鉢僧の話(The Friar's Tale) 2.8.1 托鉢僧の話・序
2.8.2 托鉢僧の話

2.9 刑事の話(The Summoner's Tale) 2.9.1 刑事の話・序
2.9.2 刑事の話

2.10 学僧の話(The Clerk's Tale) 2.10.1 学僧の話・序
2.10.2 学僧の話

2.11 貿易商人の話(The Merchant's Tale) 2.11.1 貿易商人の話・序
2.11.2 貿易商人の話

2.12 騎士の従者の話(The Squire's Tale) 2.12.1 騎士の従者の話・序
2.12.2 騎士の従者の話

2.13 郷士の話(The Franklin's Tale) 2.13.1 郷士の話・序
2.13.2 郷士の話

2.14 医者の話(The Physician's Tale)
2.15 免罪符売りの話(The Pardoner's Tale) 2.15.1 免罪符売りの話・序
2.15.2 免罪符売りの話

2.16 船長の話(The Shipman's Tale)
2.17 尼寺の長の話(The Prioress' Tale) 2.17.1 尼寺の長の話・序
2.17.2 尼寺の長の話

2.18 チョーサーの話 サー・トーパス物語(Chaucer's Tale of Sir Topas) 2.18.1 チョーサーの話 サー・トーパス物語・序
2.18.2 チョーサーの話 サー・トーパス物語

2.19 メリベ物語(The Tale of Melibee)
2.20 修道僧の話(The Monk's Tale) 2.20.1 修道僧の話・序
2.20.2 修道僧の話

2.21 尼院侍僧の話(The Nun's Priest's Tale) 2.21.1 尼院侍僧の話・序
2.21.2 尼院侍僧の話

2.22 第二の尼の話(The Second Nun's Tale) 2.22.1 第二の尼の話・序
2.22.2 第二の尼の話

2.23 僧の従者の話(The Canon's Yeoman's Tale) 2.23.1 僧の従者の話・序
2.23.2 僧の従者の話

2.24 大学賄人の話(The Manciple's Tale) 2.24.1 大学賄人の話・序
2.24.2 大学賄人の話

2.25 牧師の話(The Parson's Tale) 2.25.1 牧師の話・序
2.25.2 牧師の話

2.26 チョーサーの撤回(Chaucer's Retraction)

3 テキストと順番
4 分析 4.1 ジャンルと構造
4.2 スタイル
4.3 歴史的文脈
4.4 影響

5 評判 5.1 発表当時
5.2 15世紀

6 ロケーション
7 大衆文化の中の『カンタベリー物語』 7.1 小説
7.2 映画
7.3 演劇
7.4 音楽

8 参考文献 8.1 日本語訳テキスト

9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク


登場人物[編集]


騎士
粉屋
親分
料理人

法律家
バースの女房
托鉢僧
刑事

学僧
貿易商人
騎士の従者
郷士

医者
赦罪状売り
船長
尼寺の長

チョーサー
修道院僧
尼寺侍僧
第二の尼

僧の従者
大学賄人
牧師
宿屋の主人


あらすじ[編集]

総序(General Prologue)[編集]







Hengwrt写本の『総序』の冒頭の詩行




リチャード・ピンソンによる1492年版の『総序』から騎士の挿絵。3詩行含む




1850年頃の「陣羽織」

Whan that Aprill, with his shoures soote
The droghte of March hath perced to the roote
And bathed every veyne in swich licour,
Of which vertu engendred is the flour;

4月、チョーサーはカンタベリー大聖堂への巡礼を思い立ち、ロンドンのサザーク(Southwark)にある「陣羽織(Tabard Inn)」という宿屋(実在の宿屋で1307年開業)に泊まっている。そこに、聖職者・貴族・平民と雑多な構成の巡礼団がやってくる。チョーサーと宿屋の主人も仲間に加わり一緒に旅することになる。この時、宿屋の主人ハリー・ベイリー(Harry Bailey)がある提案をする。旅の途中、全員が2つずつ面白い話をし、誰の話が最高の出来か、競い合おうというのである。全員がそれに賛成し、宿を出発する。最初の語り手はクジで騎士に決まる。(858行)

騎士の話(The Knight's Tale)[編集]






エルズミア写本の『騎士の話』の表紙 セーセウス公によって捕虜としてアテネに連れて来られたアルシータとパラムンはテーベの王族で従兄弟同士だった。最初は励まし合っていた二人だが、牢獄の窓から偶然見た美女エメリー(セーセウスの妃イポリタの妹)にともに恋をし、不和になる。アルシータは国外追放になるがアテネに戻り、パラムンは脱獄。偶然再会して争っているところをセーセウス公に見つかり、100対100の大がかりな決闘を提案される。そして、戦闘がはじまるが−−。
ボッカッチョの叙事詩『Teseida delle nozze di Emilia』に基づいているが、『Teseida』が9000行なのに対して『騎士の話』は2000行ちょっとしかなく、さらに内容も「騎士道物語」に変更されている。プロットの一部が失われているが、以前チョーサーが翻訳したことのあるボエティウスの『哲学の慰め』に主に想を得た哲学的な伏線が加えられている。

この物語はウィリアム・シェイクスピアとジョン・フレッチャー共作の戯曲『二人の貴公子』の原作となった他、1700年にはジョン・ドライデンによってとして当時の英語に翻訳された(『パラモンとアルシット(Palamon and Arcite)』)。


粉屋の話(The Miller's Tale)[編集]





1492年のフォリオから粉屋の絵
粉屋の話・序[編集]

チョーサーはこれから語る話は下品な話だが、あくまで粉屋が語ったことで、読む読まないは読者の自由だと断ってから、話を始める。

粉屋の話[編集]

大工の家に下宿していた書生ニコラスは、大工の若妻アリスーンと恋仲になる。『聖書』の「ノアの方舟」規模の大洪水が来ると大工を騙して、屋根の下に吊り下げた桶の中に避難させた隙に、二人は大工のベッドでいちゃつく。そこに、アリスーンに横恋慕する教会役員のアブソロンがやってきて、窓越しにキスさせろと頼むので、ニコラスが尻をつきだし、屁をかませるが−−。

『騎士の話』で描かれた「宮廷の愛」とは対照的な、下品・猥褻・風刺的な「寝取られ」がテーマのファブリオーである。

親分の話(The Reeve's Tale)[編集]

親分の話・序[編集]

全員が粉屋の話に大笑いしたが、荘園の親分オズワルドは面白くない。昔、大工をしていたからだった。そこで逆襲とばかり、粉屋をばかにした話を始める。

親分の話[編集]

粉屋のシムキンは大悪党で、見学に来たカンテブリッジ大学ソレル・ハルの学生ジョンとアレンから汚い手で粉を騙し取る。しかし、学生たちに一夜の宿を貸したところ−−。

『デカメロン』第9日第6話にも使われた、当時人気のファブリオーに基づいている。

料理人の話(The Cook's Tale)[編集]





エルズミア写本の料理人の絵
料理人の話・序[編集]

料理人のロジェルが話を始める。

料理人の話[編集]

道楽者の丁稚小僧の話。しかし58行で中途半端に終わっていて、未完と言われるが、チョーサーはわざとそうしたのだと主張する研究者もいる[2]。

法律家の話(The Man of Law's Tale)[編集]





1492年のフォリオから法律家の絵
法律家の話・序[編集]

この中で、法律家がチョーサーの作品(『公爵夫人の書(The Book of the Duchess)』と『善女伝説(The Legend of Good Women)』)について言及している。

法律家の話[編集]

数奇な運命を辿るローマ皇帝の王女クスタンス姫の話。クスタンス姫に恋をしたシリアのサルタンはキリスト教に改宗し、クスタンスを王妃に迎える。しかし、サルタンの母親の陰謀でサルタンは虐殺され、クスタンスは海に流される。長い漂流の末、クスタンスは奇跡的にグレートブリテン島のノーサンバーランドに漂着する。その地の王アラ(モデルとなったのは実在のノーサンバランド王Ælla)はクスタンスを気に入り、キリスト教に改宗し、結婚。マウリシュウスという子が生まれるが、王の母親の陰謀で子供とともに海に流されるが−−。

1387年頃に書かれた。ジョン・ガワーが『恋人の告白(Confessio Amantis)』で取り上げた、ニコラス・トリヴェット(Nicholas Trivet)の『年代記』の中の挿話に基づく。

バースの女房の話(The Wife of Bath's Tale)[編集]





エルズミア写本の『バースの女房の話』の表紙
バースの女房の話・序[編集]

5度の結婚歴のあるバースの女房(アリスーン)が、自分の人生について長々と語る。その中で、バースの女房は、イエス・キリストは決して複数の結婚を否定しなかったし、アブラハムやヤコブやソロモン王も二人以上の妻を持ったと例証することで自分の生き方を正当化し、さらに貞節や処女性を重視する価値観を次々と論破してゆく。

バースの女房の話[編集]

アーサー王は、死刑の決まった家来の若い騎士に対して、命を助ける条件として「女は何が一番好きか」の答えの探索を命じ、1年と1日の猶予を与える。騎士は旅の途中に出会った醜い老婆からその答えを教えてもらい、王宮でそれを言うと、女性全員の同意を得られ、無事死刑を免れた。しかし、老婆はその御礼に騎士に「結婚」を求め、無理矢理結婚させられる。そして、新婚の床に入ることになったが−−。

中世文学の「Loathly lady(嫌でたまらない女)」モチーフを利用している。その古い例ではアイルランド神話の『Niall Noígíallach』がある。アーサー王の甥ガウェインを主人公にした『ガウェイン卿とラグネル婦人の結婚(The Wedding of Sir Gawain and Dame Ragnelle)』やバラッド『ガウェイン卿の結婚(The Marriage of Sir Gawain)』も『バースの女房の話』と同じ話である。

托鉢僧の話(The Friar's Tale)[編集]

托鉢僧の話・序[編集]

托鉢僧が、巡礼団の中の刑事を挑発する話を始める。

托鉢僧の話[編集]

無実の人を偽りの罪で教会裁判所(Ecclesiastical court)に召喚すると脅して、金をまきあげる悪徳刑事は、偶然出会った郷士と兄弟の契約を交わすが、実は郷士は悪魔だった。刑事は、相手が悪魔と知りながら、さらなる悪事を働こうとするが−−。

刑事の話(The Summoner's Tale)[編集]

刑事の話・序[編集]

『托鉢僧の話』に対する刑事の逆襲。

刑事の話[編集]

物乞いして暮らしている托鉢僧の話。托鉢僧からしつこく寄進を迫られた病人が、托鉢僧の仲間たちに等分することを条件にとんでもないものを寄進する。

学僧の話(The Clerk's Tale)[編集]





1492年のフォリオから学僧の絵
学僧の話・序[編集]

オックスフォルド大学の学僧が話を始める。

学僧の話[編集]

サルッツォー侯ワルテルは家臣から結婚を迫られ、貧しい田舎娘グリセルダを妻に娶る。グリセルダは良妻の鑑のような女性だったが、ワルテルはグリセルダの自分への愛を試そうと、とんでもないことを考える。

『デカメロン』に出てくる話で、おそらく口承文学から採られたものだろうと指摘されている。1734年にペトラルカが高徳・貞節を表す教訓的逸話としてラテン語に翻訳し、学僧はそのペトラルカから聞いた話と「序」で前置きしている。ペトラルカの詩は1382年から1389年頃、Philippe de Mézièresによってフランス語にも翻訳されている。

『バースの女房の物語』のアンチテーゼとも言える話だが、結句がついていて、その中でチョーサーは自分の妻を試す夫は愚か者だと注釈している。

貿易商人の話(The Merchant's Tale)[編集]

貿易商人の話・序[編集]

人生経験豊かな貿易商人が話を始める。

貿易商人の話[編集]

ロムバルジヤの独身騎士ジャニュアリは60歳にして結婚を思い立ち、メイという若妻を娶る。しかし、ジャニュアリは失明し、妻の浮気を警戒して、片時とも自分のそばから離さない。メイにはダミアンという恋人がいて、庭の樹の上(夫の頭上)で密会しようと計画するが−−。

『デカメロン』第7日第9話、ユスタシュ・デシャン(Eustache Deschamps)の『Le Miroir de Mariage』、ギヨーム・ド・ロリス(Guillaume de Lorris)の『薔薇物語』(伝えられるところではチョーサーが英訳した)、アンドレアス・カペラヌス(Andreas Capellanus)、スタティウス(Statius)、『Catonis Disticha(カートーの二行連句)』の影響が見られる。神々(プルートーとプロセルピナ)が事件を見守っていたり、話の途中途中に作者の注釈が挿入されている。テオフラストス作品のような反フェミニズム文学を揶揄っている。

騎士の従者の話(The Squire's Tale)[編集]

騎士の従者の話・序[編集]

この従者は騎士の息子にあたる。

騎士の従者の話[編集]

第1部はダッタンの王カムビンスカンの在位20年を祝う話。瞬間移動能力を持つ馬、誰が敵で誰が味方かわかる鏡、鳥と会話ができる指輪がお祝いの品として献上される。第2部は、指輪でハヤブサと会話をするカナセ姫の話。第3部は未完。

郷士の話(The Franklin's Tale)[編集]





Haweis夫人による1877年版の『郷士の話』の挿絵
郷士の話・序[編集]

ブルターニュのレーを紹介すると前置きして、話を始める。

郷士の話[編集]

ブルターニュの騎士アルヴェラグスがグレートブリテン島で武者修行をしている間、フランスに残された妻ドリゲンにアウレリュウスという若者が恋をする。ドリゲンはアウレリュウスの求愛を断るため、ブルターニュに現実では絶対起こりえない満潮を起こすことができたら応じてもいいという条件を出す。しかし、アウレリュウスは奇術家に頼み、それが起きたように見せる。ドリゲンは絶望して自殺を覚悟する。そこに夫のアルヴェラグスが帰還して−−。

「序」ではブルターニュのレーに由来すると言っているが、実際にはボッカッチョの作品から採られたものである。

医者の話(The Physician's Tale)[編集]

ローマの貴族ヴィルジニュウスの美しい娘ヴィルジニヤを手に入れたい裁判官アビュウスは、手下に「その娘は自分の娘で、子供の時誘拐された」と偽証させ、引き渡しを求める。しかしヴィルジニヤは、恥辱よりもいっそ殺して欲しいと父親に懇願する。

ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史(Ab Urbe condita)』の話で、『薔薇物語』、ジョン・ガワー『恋人の告白』にも取り上げられている。チョーサーは『聖書』のエフタ(Jephthah)の話からも着想を得ている。

免罪符売りの話(The Pardoner's Tale)[編集]





1492年のフォリオから免罪符売りの絵
免罪符売りの話・序[編集]

金儲けの説教で鍛えたことを前置きして、赦罪状売りが話を始める。

免罪符売りの話[編集]

フランドルに住む大酒飲みの悪漢3人が「死」(俗に言う死神)を退治に出かけ、大金を見つける。1人に酒を買いに行かせ、その間、残りの2人はその男の殺害を企むが−−。

「教訓的逸話」の形式。オリエント起源の民話に基づいている。

船長の話(The Shipman's Tale)[編集]

成金でケチな商人と贅沢好きの妻の話。家に出入りする僧は、妻から100フランの借金を申し込まれる。お金を貸してくれればどんなサービスをしてもいいと言う。僧は夫から別の理由で100フラン借りて、その金で妻と寝るが−−。

ファブリオーの形式。似た話が『デカメロン』の中にある。

尼寺の長の話(The Prioress' Tale)[編集]

尼寺の長の話・序[編集]

聖母マリアへの祈りを捧げてから、尼寺の長は話を始める。

尼寺の長の話[編集]

ユダ人に殺されて殉教した子供の話。子供は信仰篤く、死んでも賛美歌を歌い続けた。

中世キリスト教ではありふれた話だったが、後には反ユダヤ主義的な話として批判されている。

チョーサーの話 サー・トーパス物語(Chaucer's Tale of Sir Topas)[編集]





エルズミア写本からチョーサー本人の肖像
チョーサーの話 サー・トーパス物語・序[編集]

チョーサーが宿屋の主人に乞われて、韻文で話を始める。

チョーサーの話 サー・トーパス物語[編集]

妖精の女王との結婚を望むサー・トーバスは、妖精の国を見つけるが、女王を守る巨人サー・オリファウント(象)から決闘を挑まれるが−−まで話したところで、宿屋の主人から「つまらないから話をやめてくれ」と言われ、打ち切られる。チョーサーはしかたなく、代わりに散文で『メリベ物語』を話し始める。

騎士道物語のパロディ。擬似英雄詩の趣もある。サー・トーパスの名前はトパーズに由来する。

メリベ物語(The Tale of Melibee)[編集]

メリベウスとその妻プルデンスの物語。留守中、妻と娘を襲って怪我を恐れた連中に対し、メリベウスは相談役の人々を招集し、復讐することを決める。しかしプルデンスはおびただしい古人の格言やことわざを引用して、夫に復讐を思いとどまらせる。

アルベルターノ(Albertano)の『慰安と忠告(Liber consolationis et consili)』をフランス語に翻訳したRenaud de Louensの『メリベとプリデンス(Livre de Melibée et de Dame Prudence)』の翻訳。当時人気のあった話と思われる。冗談にしては1000行以上と長いため、現代英語版では省略され、あらすじや宗教的・哲学的意図を簡単に紹介するにとどめることが多い(たとえばNevill Coghill訳のペンギン・クラシック版)。

修道僧の話(The Monk's Tale)[編集]

修道僧の話・序[編集]

修道僧は100以上の悲劇を知っていると前置きして、話を始める。

修道僧のいう「悲劇」とはアリストテレスの定義する「悲劇」、つまり王侯・貴族など高貴な人が転落していく話を指す。

修道僧の話[編集]

悲劇を短く次々に紹介してゆく。順に、ルシファー、アダム、サムソン、ヘラクレス、ネブカドネザル、ベルシャザル、ゼノビア、ペドロ1世、キプロスのペトロ王(Peter I of Cyprus)、ベルナボ・ヴィスコンティ(Bernabò Visconti)、ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ、ネロ、ホロフェルネス、アンティオコス4世エピファネス、アレクサンドロス大王、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)、クロイソス。しかし、騎士から「もうたくさんだ」と言われ、話は打ち切られる。

基本構造はボッカッチョの『王侯の没落(De Casibus Virorum Illustrium)』から、また、ウゴリーノ・デッラ・ゲラールデスカの話はダンテ『神曲』から取られている。

尼院侍僧の話(The Nun's Priest's Tale)[編集]

尼院侍僧の話・序[編集]

修道院僧の話が打ち切られ、面白い話を求められ、話が始まる。

尼院侍僧の話[編集]

雄鶏のチャンティクリアはずる賢い狐にさらわれるが−−。

「狐物語」と呼ばれるもので、『チャンティクリアときつね(Chanticleer and the Fox)』という名前でも知られる。動物寓話であり、擬似英雄詩でもある。チョーサーはマリー・ド・フランスの『Del cok e del gupil』(12世紀)と『ロマン・ド・ルナール(Le Roman de Renart)』を翻案した。アイソーポス(イソップ)の影響もある。1480年代頃、ロバート・ヘンリスン(Robert Henryson)は『尼院侍僧の話』を、自著『イソップ寓話集(The Morall Fabillis of Esope the Phrygian)』の中の『Taill of Schir Chanticleir and the Foxe』の素材とした。1951年にゴードン・ジェイコブが、1976年にマイケル・ジョン・ハード(Michael John Hurd)がそれぞれこの詩に作曲した(ハード版の題名は『Rooster Rag』)。ウォルト・ディズニー・カンパニーは映画原作として『Chanticlere and the Fox - A Chaucerian Tale』を出版したが、映画は完成しなかった。1991年のドン・ブルース(Don Bluth)の映画『Rock-a-Doodle』の主人公の雄鶏の名前は「チャンティクリア」だった。

第二の尼の話(The Second Nun's Tale)[編集]

第二の尼の話・序[編集]

聖母マリアへの祈りを捧げてから、話を始める。

第二の尼の話[編集]

聖セシリアの話。敬虔なキリスト教徒セシリアはヴァレリアン(ヴェレリアヌス)という男の元に嫁ぐ。その初夜、セシリアはヴァレリアンを説得し、ウルバンのところに向かわせ、ヴァレリアンはキリスト教に改宗する。その後、弟のティブルスも改宗するが、ことごとく殉教する。

中世に人気のあった聖人伝(Hagiography)の形式。

僧の従者の話(The Canon's Yeoman's Tale)[編集]

僧の従者の話・序[編集]

巡礼団が旅を続けていると、カノン(僧)とその従者が追いつく。従者が何か喋ろうとすると僧は逃げてゆく。残った従者が、主人は錬金術師であることを告げ、別の錬金術師の話を始める。

僧の従者の話[編集]

錬金術師のいかさまの手口が詳細に語られる。

ベン・ジョンソンの戯曲『錬金術師(The Alchemist)』と多くの類似点がある。

大学賄人の話(The Manciple's Tale)[編集]

大学賄人の話・序[編集]

酔っぱらいの賄人が話を始める。

大学賄人の話[編集]

まだ白く、声も美しかったカラスをアポロが黒く、汚い声に変えた話。

オウィディウスの『変身物語』にある話で、ジョン・ガワーの『恋人の告白』にも含まれ、当時人気があった。

牧師の話(The Parson's Tale)[編集]

牧師の話・序[編集]

牧師の話[編集]

『カンタベリー物語』中、最も長い話で、高徳な生き方についての説教で、七つの大罪について語られる。散文で書かれている。

チョーサーの撤回(Chaucer's Retraction)[編集]

最後にチョーサーは、これまで書いてきた世俗的作品を撤回すると言う。その作品とは、『トロイラスとクレセイデ(Troilus and Criseyde)』、『誉の館(The House of Fame)』、『善女伝説(The Legend of Good Women)』、『公爵夫人の書(The Book of the Duchess)』、『百鳥の集い(Parlement of Foules)』、そして『カンタベリー物語』の一部の話である。

『牧師の話』を受けてのチョーサーの懺悔の表明か、作品の宣伝かは不明である。こうした詩はパリノードと呼ばれる。






ワシントンD.C.、Library of Congress John Adams Buildingのエズラ・ウィンターによる壁画(1939年)
なお、『総序』で約束した「全員が2つずつ」語らず、「勝者」も決まらずに話は終わる。チョーサーは元々は120の話(30人x往路2・復路2)を語るつもりだったが、24を語り終えただけで亡くなってしまった。

テキストと順番[編集]

『カンタベリー物語』の中世の写本は全部で83あることとがわかっていて、その数は、中英語で書かれた本では『Ayenbite of Inwyt』(ケント方言)を除いて他に並ぶものはない。これは『カンタベリー物語』の人気の高さを表している[3]。83の写本のうち55は完全版だったと見られ、残り28(もしくはそれ以上)は断片だが、それが個別の話の写しなのか、あるいは、一部なのかを特定することは難しい[4]。話の細かな差異は明らかに筆耕のミスである。しかし、それ以外はチョーサー本人が絶えず加筆・修正をしていたことを暗示している。これこそ『カンタベリー物語』の決定版だというものは存在しない。話の順番についても同様である[4][3]。話の繋がりから、『カンタベリー物語』の各話を以下の断片に分けることができる[4]。


断片



断片1(A) 総序、騎士、粉屋、親分、料理人
断片2(B1) 法律家
断片3(D) バースの女房、托鉢僧、刑事
断片4(E) 学僧、貿易商人
断片5(F) 騎士の従者、郷士
断片6(C) 医者、赦罪状売り
断片7(B2) 船長、尼寺の長、チョーサー、メリベ、修道院僧、尼院侍僧
断片8(G) 第二の尼、僧の従者
断片9(H) 大学賄人
断片10(I) 牧師

この順番は、写本のうちもっとも美麗なエルズミア写本(Ellesmere manuscript、略称:El)の順番で、数世紀にわたって、そして現在でもなお、多くの編者がこの順番に従っている[3][4]。現在、エルズミア写本の筆耕はチョーサーの下で働いていたアダム・ピンクハースト(Adam Pinkhurst)だということがわかっている。しかし、現存する中で最古の写本と見られているHengwrt写本(Hengwrt Chaucer、略称Hg)は順番が異なっていて、抜けている話もある[5]。Hengwrt写本にしてもチョーサーの死後編纂されたもので、チョーサーのオリジナルのものはない。また、ヴィクトリア朝には断片2の後に断片7を置くことが多かったり[4]、他にもいろいろな順番がある[6]。

印刷されたもので最古のものはウィリアム・キャクストン(William Caxton)による1478年の版だが、その元となった写本は現在では失われている(しかし83の写本の中には数えられている)[3]。

分析[編集]

ジャンルと構造[編集]

『カンタベリー物語』の構造は枠物語と呼ばれるものである。しかし、チョーサーは他の枠物語には見られない工夫を凝らしている。多くの枠物語は1つの(たいていは宗教的な)テーマに絞っている。『デカメロン』ですら日ごとのテーマが決められていた。しかし『カンタベリー物語』では、テーマのみならず、語り手の階級、各話の韻律、スタイルにも多様化がはかられている。巡礼団という設定がそれを可能にし、さらに話を競い合うという設定は、話をバラエティ豊かにし、様々なジャンル、スタイルに精通したチョーサーの腕の見せ所となった[4]。

物語の構造が線形であるが、ただ話が順番に語られるだけではない。『総序』においてチョーサーは物語を語らず、語り手となる登場人物たちを紹介する。これは『カンタベリー物語』が全体的なテーマより、登場人物のキャラクターに重きを置いていることをはっきりと示している。話が済んだ後で登場人物たちが感想を述べ合ったり、他人の話を遮ったり、話の途中で口を挟んだりする。

巡礼団がいつ・どこにいるのかに関して、チョーサーはあまり気を遣っていない。巡礼そのものではなく、語られる話に専念しているように見える[4]。

スタイル[編集]

話のバラエティさは、チョーサーの様々な修辞形式、文学様式への熟知を示している。当時の修辞学はこうした多様性を奨励し、(ウェルギリウスが提起したように)修辞形式と語彙の濃さによって文学が格付けされた。一方、アウグスティヌスは話の内容よりも聴き手の反応に重きを置き、文学を説得力などから3段階に分類した。つまり、作家は語り手・テーマ・聞き手・目的・流儀・機会を心に留めて書くことを求められた。チョーサーは自由にスタイルを変え、そのどれにも偏愛を示していない。聞き手は読者だけでなく、本の中の語り手もそうだと考え、多層的・多義的な修辞的パズルを作り上げた。

しかし、階級が低いからといって知識も低いようにはしなかった。たとえば下層階級の粉屋の話は確かに下品だが、その語り口には驚くべき修辞技法を駆使している。しかし、語彙に関しては、「女性」のことを上流階級には「lady」と言わせているのに対して、下層階級には「wenche」と例外なく言わせている。時には、同じ語が階級によって違うものを意味することもある。たとえば「pitee」という語は、上流階級にとっては高貴さの概念だが、貿易商人には「性交」の意味である。騎士の話が当時としては極端なくらい単純な語り口なのに対して、尼院侍僧の話などは、下層階級で使われていた語を用いて、驚くべき技巧を見せている[4]。

『メリベ物語』と『牧師の話』が散文で、残りはすべて韻文で書かれている。韻文はほぼ全部が10音節詩行(Decasyllable)である。おそらくフランスとイタリアの詩形から借りてきたものと思われる。他に「riding rhyme」(『カンタベリー物語』で馬に乗りながら話すことから)も使われ、時々、行の中央にカエスーラ(中間休止)が入る。riding rhymeは15世紀・16世紀にヒロイック・カプレットに発展し、弱強五歩格の原型でもあった。しかし、チョーサーはカプレットだけになることを避け、4つの話(法律家、学僧、尼寺の長、第二の尼)では帝王韻律(ライム・ロイヤル)を使っている[4]。

歴史的文脈[編集]





『カンタベリー物語』の中でも言及されている1381年のワット・タイラーの乱を描いた絵(1385年 - 1400年頃、British Library Royal MS 18)
『カンタベリー物語』が書かれた時期は、イングランド史の中でも騒然とした時代だった。カトリック教会は教会大分裂の真っ只中にあった。ヨーロッパではまだ唯一のキリスト教権威だったが、激しい議論が交わされていた。『カンタベリー物語』の中では、ジョン・ウィクリフから始まったイングランド初期の宗教運動ロラード派についての言及がある(『法律家の話』結語)。赦罪状売りがそこから来たとある「ルースイヴァルの僧院(St. Mary Rouncesval hospital)」もある事件を指している[7]。

ワット・タイラーの乱(1381年)やリチャード2世の廃位(1399年)といった事件もこの当時起こり、チョーサーの親友の多くが処刑され、チョーサー自身もロンドンからケントに疎開することを余儀なくされた[4]。

影響[編集]

『カンタベリー物語』以降、イングランドの作家たちはフランス語やラテン語より自国語である英語を使うようになり、その点で『カンタベリー物語』は英文学に大きな貢献をしたとよく言われる。しかし、チョーサー以前から文学に英語は使われていたし、チョーサーの同時代人でも、ジョン・ガワー、ウィリアム・ラングランド(William Langland)、パール詩人(Pearl Poet。『Pearl 』という詩の作者)らが英語で書いていた。しかし、チョーサーが大きな影響力を持っていたのは確かである。

評判[編集]

発表当時[編集]

『カンタベリー物語』がどのような人々を想定して書かれたかはわからない。チョーサーは廷臣だったが、宮廷詩人で貴族のために『カンタベリー物語』を書いたことを記す歴史的文献、知人たちの言及は存在しない。声に出して読んで聞かせるために作ったのではないかと示唆する意見もあり、それは当時としては一般的なことだったので、ありうることではある。しかし、『カンタベリー物語』の中でチョーサーが語り手(登場人物)としてではなく作者として自己言及している部分もあり(たとえば『貿易商人の話』)、「読者」も想定していたように見える。

チョーサーが存命中に作品が断片として、あるいは個別作品として出回っていたことは明かである。友人たちの間で回覧されていたが、大部分の人はチョーサーの死後までその存在を知らなかったという説がある。しかし、それ以降は写本の数からもその人気の高かったことは言うまでもない。

15世紀[編集]

『カンタベリー物語』を最初に評価したのはジョン・リドゲイト(John Lydgate)とトマス・オックリーヴ(Thomas Occleve)で、15世紀中頃になると、多くの評論家がそれに同意した。当時の写本の注解では、中世の評論家が詩を評価する2つの柱、「文」と修辞技術の両方を賞賛している。とくに、『騎士の話』がその両方が充実していると、高い評価を受けていた[3]。

ロケーション[編集]





カンタベリー大聖堂(撮影:Hans Musil、2005年9月)
カンタベリー市には『カンタベリー物語』博物館がある[8]。

巡礼のルートがどうなっていたのかの興味の対象で、それに関する続編も書かれている。作者不詳の15世紀の写本『Tale of Beryn』は貿易商人が復路で最初に語る話である。ジョン・リドゲイトの『Siege of Thebes』も復路に語られる話だが、内容は『騎士の話』のオリジナルの前編部分である。

大衆文化の中の『カンタベリー物語』[編集]

小説[編集]
ベルギーの作家ジャン・レーによる幻想小説『新カンタベリー物語(Les Derniers Contes de Canterbury)』(1944年、フランス語)。題名どおり『カンタベリー物語』へのオマージュである。
SF作家ダン・シモンズのヒューゴー賞受賞作『ハイペリオン』(1989年)は『カンタベリー物語』へのオマージュで、ハイペリオンへ向かう巡礼団がそれぞれの話を物語る。
歴史ミステリ作家P・C・ドハティー(P. C. Doherty)は『カンタベリー物語』の登場人物と枠を使った『Canterbury Tales』シリーズ(1994年 - )を書いている。
動物行動学者リチャード・ドーキンスのノンフィクション『祖先の物語 - ドーキンスの生命史』(2004年。原題は『The Ancestor's Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Life』で、直訳すると『祖先の話:生命の黎明への巡礼』)は『カンタベリー物語』の構造を使い、動物たちから成る巡礼団がそれぞれの祖先について語る。
ヘンリー・アーネスト・デュードニーのパズル集『Canterbury Puzzles』。カンタベリー物語の登場人物が互いにパズルを出し合うという趣向であり、本来ならカンタベリー物語に収録されるはずであったという設定付けがされている。

映画[編集]
カンタベリー物語(I racconti di Canterbury、1972年) - 監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ。ベルリン国際映画祭金熊賞。『貿易商人の話』、『托鉢僧の話』、『料理人の話』(ニネット・ダボリが道楽者ペルキンをチャールズ・チャップリン風に演じる)、『粉屋の話』、『バースの女房の話』、『親分の話』、『赦罪状売りの話』、『刑事の話』(序も含む)。パゾリーニ本人がチョーサーを演じている。
カンタベリー物語(A Canterbury Tale、1944年) - 監督:マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー。中世の巡礼団の描写から映画は始まるが、すぐに第二次世界大戦に移行する。『カンタベリー物語』の完全映画化ではなく、枠と構造を使って、イギリスへの愛国心を鼓舞するために作られた戦時宣伝映画。ちなみにマイケル・パウエルはカンタベリーにあるキングズ・スクールの出身。
セブン(1995年) - モーガン・フリーマン扮するサマセット刑事の愛読書の1つとして登場。
ロック・ユー!(2001年。原題は『A Knight's Tale』で『騎士の話』にちなんでいる) - チョーサー自身が登場し、これから執筆するカンタベリー物語についてほんの少し触れられている。

演劇[編集]
Mike Poulton訳でロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演。

音楽[編集]
エリック・チゾームのオペラ『カンタベリー物語』(1961年完成) - 『バースの女房の話』、『赦罪状売りの話』、『尼院侍僧の話』から成る3幕もの。
プロコル・ハルムの『青い影』(1967年)の詞の中に『粉屋の話』への言及がある[9]。
『テン・サマナーズ・テイルズ』(スティング)

カンタベリー大司教

カンタベリー大司教( - だいしきょう、Archbishop of Canterbury)は、 イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教であった。

597年、「アングロ・サクソン人たちをキリスト教に改宗すべし」というローマ教皇グレゴリウス1世の命を受けて、イングランドへやってきたカンタベリーのアウグスティヌスがカンタベリーに教会を建てて布教の根拠地とし、初代カンタベリー大司教となる。

タルソスのテオドルス(669〜690年)によって、イングランドの司教区はカンタベリー大司教座を中心に組織された。最初はベネディクト会の教会として建立されたが、16世紀半ばに修道院は解散させられ、以降はヘンリー8世の離婚問題が引き金となって創立されたイングランド国教会の総本山となる。

歴代カンタベリー大司教の中では、「スコラ哲学の父」と称されるアンセルムス、1170年に国王ヘンリー2世との不和が原因で大聖堂内で暗殺されたトマス・ベケット、リチャード1世の大法官を兼任して遠征で不在の国王に代わって政務を執ったヒューバード・ウォルター、メアリー1世に抗して刑死したトマス・クランマーが有名である。

関連項目[編集]
カンタベリー大主教の一覧 ‐ カトリック時代のカンタベリー大司教も列挙する
カンタベリー大主教
イングランド国教会
聖公会
ヨーク大司教
カンタベリー物語

カンタベリー大主教

カンタベリー大主教(カンタベリーだいしゅきょう、Archbishop of Canterbury)は、カンタベリー大聖堂を主教座とする、イギリス国教会の大主教であり、イギリスにおける人臣としては宮中席次第1位である(第2位は大法官、その次にヨーク大主教(Archbishop of York))。イギリス国教会とその世界的組織である聖公会(アングリカン・コミュニオン)の最上席の聖職者である。イングランドの大主教の間では、次席はヨーク大主教となる。カンタベリー大主教の職務は、カンタベリー管区総監督ならびに全イングランドの首位聖職(the Metropolitan of the Province of Canterbury and as the Primate of All England)と呼ばれる。カンタベリー大主教区自体は、東ケントを範囲とする。カンタベリー大主教は、ヨーク大主教、他の24名の主教とともに、大主教職にある間、貴族院の議員となる。

元来はローマ・カトリック教会のカンタベリー大司教であった。 ヘンリー8世がローマ教皇庁から離脱し、イギリス国教会を創設して以来、イングランド王(後にはイギリス王)に選任される。現在では、国王(ないし女王)の名により指名されるものの、実際の選任はイギリス首相により、聖職者と信徒からなる委員会が選んだ二名の候補から選択される。二十世紀以降は、高教会と低教会から一名ずつが候補となる。

現在のカンタベリー大主教は、2002年から2012年末までローワン・ウィリアムズが第104代大主教をつとめたあと引退し、 2013年1月からジャスティン・ウェルビーがあとをついでいる。

初代のカンタベリー大主教(大司教)は、アウグスティヌスである(ヒッポのアウグスティヌスとは別人)。アウグスティヌスはケントに597年に到着した。以来、カンタベリー大主教職は「聖アウグスティヌスの椅子」の異名を持つ。 カンタベリー大主教の公邸はロンドンのランベス宮殿である。

関連項目[編集]
カンタベリー大主教の一覧
カンタベリー大司教

神の存在証明

神の存在証明 (かみのそんざいしょうめい,英語:Arguments for the Existence of God) とは、主として、中世哲学における理性による、神の存在の根拠の提示を意味する。神の存在は、諸事物の存在が自明であると同様に、自明と考えられていたが、トマス・アクィナスが『神学大全』において取った立場が示すように、神は、自然なる理性においても、その存在や超越的属性が論証可能な存在である。このように神の存在を、理性(推論)によって導出する手順が、「神の存在証明」と呼ばれる。神の存在証明は、古代から中世にかけての哲学的思索の中で、代表的には3つのものが知られ、これに、3つの神の存在証明を全て論駁し否定したイマニュエル・カントが、彼自身の哲学の帰結として要請した「神の存在」の根拠が加わって、4種類が存在する。

また、この4種類の存在証明は、いわば典型的な論証形式のパターン区別に当たり、他の様々な個別的な思想家が、神の存在証明を試みてきた。



目次 [非表示]
1 4種類の存在証明 1.1 目的論的証明
1.2 本体論的証明
1.3 宇宙論的証明
1.4 道徳論的証明

2 様々な存在証明の試み 2.1 アタナシウス・キルヒャーによる神の存在論証
2.2 オイラーによる神の存在証明
2.3 アシモフへの反論による神の存在証明

3 現代における存在証明
4 関連項目
5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク


4種類の存在証明[編集]

4種類の存在証明は、カントがなした分類に従って、通常、次のように言う。
目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。
道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。

前3者は、カントが『純粋理性批判』の第三章「純粋理性の理想」において中世以来の神の存在証明をその論駁のために独自にまとめたものである。しかし、神の存在証明の分類としてよくまとまっているため説明の際にしばしば使用される。

目的論的証明[編集]

世界の事物は、自明的に存在し、それらはきわめて精妙かつ、壮大な秩序と組織原理を持っている。太陽や星の運行を見れば、その規則性には驚くべきものがある。あるいは、植物の花や葉や枝などを見ると、信じ難い精巧さで造られている。動物の身体などは、更に精巧で見事であり、人間となると、もっと精巧である。しかも自然世界は、草を食べる牛がいれば、牛を食べる狼や人間が存在し、空から降る雨は、適切な季節に大地を潤し、植物の生長を促し、その実の熟成を、太陽の光が促す。

このような精巧な世界と自然の仕組みは、調べれば調べるほど、精巧かつ精妙で、人間の思考力や技術を遥かに超えている。世界に、このような精巧な仕組みや、因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ、説明がつかない。すなわち、自然の世界は、その高度な目的的な仕組みと存在のありようで、まさに神の存在を自明的に証明している。

これはカントにおいては自然神学的証明とも呼ばれる。西暦1世紀に使徒パウロは「神の永遠の力と神性は被造物に現れておりこれを通して神を知ることができる」と言っている。現代においては、インテリジェント・デザインが目的論的証明と同様の立場を取る運動として著名である。

本体論的証明[編集]

アンセルムスやデカルトが、このような形の神の存在証明を試みたので有名である。この証明はいくつかのヴァリエーションを持つが、「存在する」という事態を属性として捉え、例えば次のような論理を展開する。


我々は「可能な存在者の中で最大の存在者」を思惟することができる。ところで「任意の属性Pを備えた存在者S」と、「Sとまったく同じだけの属性を備えているが(Sは備えていない)「実際に存在する」という属性を余計に備えている存在者S'」では、S'のほうが大きい。よって「可能な存在者の中で最大の存在者」は(最大の存在者であるためには、論理的必然として)「実際に存在する」という属性を持っていなければならない。ゆえに「可能な存在者の中で最大の存在者」は我々の思惟の中にあるだけでなく実際に存在する。ところで、可能な存在者の中で最大の存在者とは神である。したがって、神は我々の思惟の中に存在するだけでなく実際に存在する。

この証明は一見して詭弁じみており、アンセルムスの同時代人ガウニロによっても批判されているが、中世哲学においては一般的な議論であった。 ヒュームやカントによる決定的な論駁がなされてからは、誤謬とみなされて今日に至っている。

宇宙論的証明[編集]

中世哲学で、「宇宙論的証明」と呼ばれる神の存在証明の論証手順は、古代ギリシアのアリストテレスに遡る。事物や出来事には、全て「原因」と「結果」があると考えたのはアリストテレスである。従って、神の宇宙論的証明は、アリストテレスがすでに行っていた。

中世スコラ哲学は、13世紀の「アリストテレス・ルネッサンス」の言葉で知られるように、アラビア・スコラ哲学を介して、古代ギリシアの哲学者、とりわけアリストテレスの思想を取り入れたところで成立したとも言える。トマス・アクィナスは、アリストテレスの根本の原因者の概念を、キリスト教の神に当て嵌めて、この証明を行った。

全ての事物や出来事には、必ず原因があり結果がある。これは原因とか結果の概念は何かを考えれば、必然的に妥当な命題である。ところで、宇宙には、運動している物体がある。物体が運動するには、何か原因がなければならない。原因となった出来事が存在して、初めてこの宇宙での物体の運動という出来事は説明される。そこで、原因となった出来事を考えると、この出来事にもまた原因がなければならない。こうして考えると、出来事の「原因」の序列は、より根本的な原因へと遡行して行くことになる。しかし、この過程は「無限」ではないはずである。宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限に遡行するというのはおかしい。それ故、一切の運動には、原初の根源原因があるはずであり、出来事の因果は、この根源原因よりも先には遡らない。これこそ「神」であり、宇宙に運動があり、出来事があるということは、その根源原因である「神の存在」を自明的に証明している。

この証明に対し、出来事の原因と結果は、必ずしも一対一ではないという考えがある。原因は1つとは限らないし、結果も1つとは限らない。しかし、原因が仮に非常に多数あったとしても、それらの多数の原因となる出来事の原因を尋ねて行けば、やはり、根源の宇宙の初原の原因に辿り着かざるを得ない。この初原の原因が、すなわち神である。

あるいは、神の世界創造を否定して、宇宙の時間は無限にあるなどという議論も可能かも知れない。原因は無限に遡行して、根源の原因には辿り着かないという可能性である。しかし、我々の世界はそもそも「有限の世界」であり、宇宙が無限だというのなら、そのような宇宙は、この世界に対し超越的であり、超自然である。もし無限の宇宙があるなら、それこそ神の存在の明証である。このような論証を、「神の宇宙論的証明」と言う。

道徳論的証明[編集]

カントは理論理性によっては神の存在を証明することはいかなる方法でもできないと考えた。この点でまずデカルトやアクィナスの存在証明とは質を異にする。カントの証明の特質は、たとえ理論理性では神の存在の証明が不可能であるとはいえ、道徳的実践の見地からすると、実践理性の必然的な対象である最高善の実現のためにぜひとも神の実在が“要請”されねばならない、とした点にある(『実践理性批判』)。

カントによれば、道徳法則に従うことが善である。道徳法則に従った行為をなしうる有徳な人間は最上の善をもつ。しかし、有徳であるだけでは善は完全でなく、善がより完全であるには有徳さに比例して幸福が配分されねばならない。徳とそれに伴う幸福との両立が完全な善としての最高善である。しかし、まずもって不完全である人間が最高善を実現するためには無限な時間が必要である。永遠に道徳性を開発せねばならないことから、魂の不死が要請される。また、この徳と幸福の比例関係は神によって保証されねばならない。そのため神の存在は道徳的実践的見地から要請されねばならない、とした。したがって厳密に言えばカントは神の現実存在を決して証明したわけではない。この要請論をヘーゲルが「ずらかし」として批判したのは有名である(『精神現象学』)。

様々な存在証明の試み[編集]

4種類の存在証明は、基本的なパターン分類であり、一人の思想家・哲学者の神の存在論証において、これらのパターンの一部が使用されたり、また複合形で論証が行われたりする例もある。

近世以降にも神の存在論証はあるが、それぞれの思想家で、何を強調するかのバリエーションであるとも言える。「神の不在証明」の問題と共に、人間の思想の歴史を通じて、世界の根源、存在の根拠、人間の存在意味などを問いかけるとき、神の存在と不在の議論がそこには恒に伏在しているとも言える。

例えば、スピノザは神とは「自然」であるとしたが、自然の存在は自明であり、そうとすれば神の存在も自明となる。しかし、このような形の議論は存在証明というより、存在の独断であるとも言える。対し、精神(思惟実体)と物質(延長実体)の二実体論を提示したデカルトの思想では、精神と物体が調和している根拠が不明であり、しかし、にもかかわらず、現に精神と物体の調和性が存在することは、両者の仲介者としての「神の存在」が、ここから導かれるとも言える。

あるいはスピノザの場合でも、彼の語る自然は、必然法則を備え、更にその法則は倫理的法則でもあって、物体世界と精神世界が一元論的に統合され、かつ、このような一元実体が倫理的な必然法則を備えるというのであるから、このような意味では、スピノザの思想そのものが、神の存在証明になっているとも言える。

アタナシウス・キルヒャーによる神の存在論証[編集]

以下はしばしばニュートンの逸話として語られている神の存在論証であるが、このやり取りに触れた最も古い資料は1800年代初めのものであり、それによればニュートンではなく、ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの逸話とされている。

彼は太陽系の模型を上手な機械工に作らせた。その太陽系模型は、惑星を表す球体が実物そっくりに連動しながら軌道上を回るように作られていた。
ある日、1人の無神論者の友人が彼を訪ねた。友人は模型を見るとすぐにそれを操作し,その動きの見事さに感嘆の声を上げた、「誰が作ったのかね?」。彼は答えた。「誰が作ったのでもないさ!」無神論者は言い返した。「君はきっと、私のことを愚か者だと考えているのだろう。勿論、誰かが作ったのに違いないが、その人は天才だな。」彼はその友人に言った。「これは、君もその法則を知っている、遥かに壮大な体系のごく単純な模型に過ぎないものだ。私はこの単なる玩具が設計者や製作者なしに存在することを君に納得させることができない。それなのに、君は、この模型の原型である偉大な体系が設計者も製作者もなしに存在するようになったと信じている、と言うのだ!」その友人は神の存在を認めるようになった。
オイラーによる神の存在証明[編集]

18世紀の数学者レオンハルト・オイラーは、ロシアに滞在していた時、エカチェリーナ2世から「ディドロが無神論を吹聴しているので何とかしてほしい」という依頼をうけた。オイラーはディドロと対決し、
「閣下、{\frac {a+b^{n}}{n}}=x 故に神は存在する。何かご意見は?」
と問いかけたところ、数学の素養のないディドロは尻尾をまいて逃げた、というエピソードが語られている。無論、この数式は何の意味もない全くのデタラメである。しかし実際のところ、ディドロは数学の教養が十分にあったことから、この逸話は単に見かけ倒しの学識でいかに相手を困惑させられるかという発想に当てられただけの可能性が高い[1]。

アシモフへの反論による神の存在証明[編集]

生化学者・SF作家であるアイザック・アシモフは神秘主義を否定し、神の創造がなくても生命は発生できるというエッセイを発表したが、読者から次のような反論が届いた。

「複雑な化合物が満ち溢れた原始海洋で数十億年の年月をかけてさえも、DNAと認識される分子が偶然に構成されるということは確率的にありえない。DNA分子が64種類のトリヌクレオチドが400個集まってできたものだと考えると、その構成パターンは3×10^{{724}}である。この宇宙に存在する生命のDNAの種類は多く見積もっても2.5×10^{{63}}なので[2] 、3×10^{{724}}と比べればゼロに等しい」(ゆえに、生命は何者かに創造されたとしか考えられず、神は存在する)

これは目的論的証明の一種である。アシモフはこれに対して「現在までに存在したDNA分子のパターンだけで、有用な組み合わせ全てを使い尽くしたわけではない。この宇宙に存在しない別の組み合わせであっても、別の生命に至るのではないか」と反論している。

現代における存在証明[編集]

20世紀のカトリック思想家で、考古学者であったテイヤール・ド・シャルダンの人間精神の進化思想と、その究極目標としての「オメガ点」の措定は、生物進化の多様さと精緻さ、その「目的性」という観点からは、「目的論的証明」の一種であるとも言える。またオメガが、人間の倫理性から進化するとの考えからは、「道徳論的証明」の一種とも考えられる。

また、20世紀後半以降、「人間原理」の概念が提唱されている。これには「弱い人間原理」と「強い人間原理」があるが、とりわけ強い人間原理の思想的背景は、人間の現象の意味の根拠として、「神の存在」を論証していると解釈することも可能である。

関連項目[編集]
アリストテレス
アンセルムス
トマス・アクイナス
バールーフ・デ・スピノザ
イマニュエル・カント
マーリン・グラント・スミス
クルト・ゲーデル
衆人に訴える論証
パスカルの賭け

脚注[編集]

1.^ J.ファング、『ブルバキの思想』、森毅訳、東京図書、p.13。本書ではディドロが微分方程式の専門的な知識を要する論文を完璧に発表していたことから、この逸話の事実性を否定している。( ディドロが書いた数学に関する書物 )しかし、この逸話でオイラーが行ったような学術的はったりはしばしば見受けられ、近年ではデタラメな自然科学・数学用語を用いた論文を文芸評論雑誌が掲載してしまったソーカル事件などが有名である。
2.^ アシモフによる推計。人間の細胞1つには2万5000種類のDNAがあり、全ての細胞は異なったDNAを持つと仮定すると、1人の人間が持つDNAの種類は1.25×10^{{18}}。地球には40億人の人間がいる(1970年代当時)ので、全人類の持つDNAの種類は5×10^{{27}}。地球上の全生命のDNAはこの1000万倍だとして5×10^{{34}}。さらに30分ごとに新しいDNAが誕生し、30億年前からDNAの多様さが変わらないと仮定して2.5×10^{{41}}。地球だけにとどまらず、銀河の中には地球と同じ惑星が1000億個あるとして、そのような銀河がさらに1000億存在すると考える。するとDNAの種類は合計2.5×10^{{63}}となり、これを宇宙に存在するDNAの総数だと推計している。

アンセルムス

カンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuariensis, 1033年 - 1109年4月21日)は中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまで カンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 ル・ベックの修道士
1.2 聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教

2 思想
3 日本語文献情報
4 関連項目


生涯[編集]

ル・ベックの修道士[編集]

神聖ローマ帝国治下のブルグンド王国の都市アオスタで誕生した。アオスタは、今日のフランスとスイス両国の国境と接する、イタリアのヴァッレ・ダオスタ州に位置する。父のガンドルフォはランゴバルドの貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグンドの貴族の出自であり、大地主であった。

父は息子に政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰に大いに影響された。15歳の時、修道院に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムスは心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ、放埓な生活を送ったといわれる。この間に彼の真摯な気持ちを理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスはこれ以上父の激しい性格に我慢ならなくなった。1056年(もしくは1057年)に家を出たアンセルムスはブルグンドとフランスを歩いてまわった。その途中、ブルグンドにあるベネディクト会クリュニー修道院、その系列のル・ベック修道院の副院長を当時務めていたランフランクスの高名を聞きつけ、アンセルムスは同修道院のあるノルマンディーに向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院で修道士として生きることを決意する。アンセルムスが27歳の時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育を受けてきたアンセルムスの才能が開花するのはこの時からである。

3年後の1063年、ランフランクスがカーンの修道院長に任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院の副院長に選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長であるハールインの死によって、アンセルムスは同修道院長に選出された。彼自身は積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この期間に、アンセルムスの最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』が書かれたのもこの時期である。

聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教[編集]

その後アンセルムスは、師であったランフランクスを継いでカンタベリー大司教となるが、当時はオットー1世の「オットーの特権」(963年)、ハインリヒ3世の教会改革運動を巡るいざこざ(1030-40年代)を始まりとし、有名なカノッサの屈辱(1077年)で最盛期を迎える聖職者叙任権闘争の時代であった。イングランドも例外ではなく、イングランド教会の長であるカンタベリー大司教を始めとする聖職者の座を、王室と教皇、どちらの権威を持って叙任するのかという問題へ発展してゆく。これは、ただ単に名誉的な問題ではなく、高位聖職者は司教管区や修道院を元として、封土(不動産とそこに基づく財産の所有)が慣習として認められていたため、政治的、実質的問題となるのであった。このようにして、イングランドにおける教会の代表者アンセルムスはイングランド国王たちと、長きに渡る闘争に巻き込まれてゆくのである。

ノルマンディー公であったギヨーム2世は、1066年にイングランド国王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を興す。ノルマンディー公として、ウィリアム1世はル・ベック修道院の保護者であり、また同修道院がイングランドに広大な地所を所有するにいたり、アンセルムスは時折同地を訪れるようになる。彼の温厚な性格とゆるぎない信仰精神により、アンセルムスは同地の人々に慕われ、尊敬されるにいたって、当時カンタベリー大司教であったランフランクスの後継者だと、当然のように思われていた。

しかし1089年、その偉大なるランフランクスの死に際して、(教会に対する)王権の拡大を狙っていた当時のイングランド国王ウィリアム2世は、司教座の土地と財産を押さえ、新たな大司教を指名しなかった。約4年後の1092年に、チェスター卿ヒューの招きによって、アンセルムスはしぶしぶ(というのも、その様な態度を明らか様にしていた同王の下で大司教に任命されるのを恐れたから)イングランドへ渡った。4ヶ月ほどチェスターにおける修道院設立などの任務により同地に拘束された後、アンセルムスがノルマンディーへ帰ろうとした時、イングランド王によって引き止められた。翌年、ウィリアム2世は病に倒れ、死が近づいているように思えた。そこで、大司教を任命しなかった罪の許しを欲したウィリアム2世は、アンセルムスをしばらくの間空位となっていたカンタベリー大司教の座に指名した。いざこざがあったものの、アンセルムスは司教座を引き受けることを納得した。

ノルマンディーでの職務を免ぜられた後、アンセルムスは1093年12月4日に司教叙階を受けた。彼は大司教座を引き受ける代わりに、イングランド王に次の事項を要求した。すなわち、
1.没収した大司教管区の財産を返すこと
2.大司教の(宗教的な)勧告を受け入れること
3.対立教皇クレメンス3世を否認し、ウルバヌス2世を教皇として認めること

である。自分の死が近いと思っていたウィリアム2世はこれらのことを約束するが、実際には、最初の事項が部分的に認められたのみであり、また、3番目の事項はアンセルムスとイングランド王を険悪な関係に追い込むことになる。

幸か不幸かウィリアム2世は病の床から回復して、アンセルムスの大司教座の見返りに多大な財産の贈呈を要求した。これを聖職売買と見たアンセルムスはきっぱりと断り、これに怒った国王は復讐に出る。教会の決まりとして、カンタベリー大司教などの首都大司教として聖別されるには、パリウムを直接、教皇の手から授与されなくてはならない。したがって、アンセルムスはパリウムを受け取りにローマへ行くことを主張したが、これは実質的に王室が教皇ウルバヌス2世の権威を認めることとなるため、ウィリアム2世はローマ行きを許さなかった。

イングランド教会の首都大司教の叙任問題は、その後2年にわたって続いた。1095年、国王はひそかにローマへ使いを出し、教皇ウルバヌス2世を認める旨を伝え、パリウムを持った教皇特使を送ってくれるよう教皇に頼んだ。そして、ウィリアム2世は自らパリウムを授与しようとしたが、聖職者叙任という教会内の事柄に俗界の王権が入り込むことを強硬に拒んだアンセルムスは、国王から受け取ることはなかった。

1097年10月、アンセルムスは国王の許可を得ずにローマへ赴いた。怒ったウィリアム2世はアンセルムスの帰還を許さず、直ちに大司教管区の財産を押さえ、以降彼の死まで保ち続けた。ローマでのアンセルムスはウルバヌス2世に名誉をもって迎えられ、翌年のバーリにおける大会議にて、正教会の代表者らの主張に対抗して、カトリック教会のニカイア・コンスタンティノポリス信条で確認された聖霊発出の教義を守る役に指名された(東西教会の分裂は1054年の出来事である。また、聖霊問題に関してはフィリオクェ問題を参照)。また、同会議は教会の聖職者叙任権を再確認したが、ウルバヌス2世はイングランド王室と真っ向から対決することを好まず、イングランドの叙任権闘争は決着を見ずに終わった。ローマを発ち、カプア近郊の小村で時を過ごしたアンセルムスは、そこで受肉に関する論文『神はなぜ人間になられたか』を書き上げ、また、翌1099年のラテラノ宮殿での会議に出席した。

1100年、ウィリアム2世は狩猟中に不明の死を遂げた。王位を兄のロバートが不在の間に継承したヘンリー1世は、教会の承認を得たいがために、ただちにアンセルムスを呼び戻した。しかし、先代王と同じく叙任権を要求したヘンリー1世とアンセルムスは、再び仲たがいをすることとなる。国王は教皇に何度かこれを認めようと仕向けたものの、当時の教皇パスカリス2世が認めることはなかった。この間、1103年4月から1106年8月まで、アンセルムスは追放の身にあった。そしてついに1107年、ウェストミンスター教会会議にて、国王が叙任権の放棄を約束し、和解がもたらされた。このウェストミンスター合意は、後の聖職者叙任権闘争に幕を下ろす1122年のヴォルムス協約のモデルとなる。こうして、アンセルムスは長きにわたった叙任権闘争から解放されたのである。

彼の最後の2年間は大司教の職務に費やされた。カンタベリー大司教アンセルムスは1109年4月21日に死亡した。彼は1494年に教皇アレクサンデル6世によって列聖され、また1720年には学識に優れた聖人に贈られる教会博士の称号を得た。

思想[編集]





カンタベリー大聖堂に飾られているステンドグラス
アンセルムスがスコラ学の父と呼ばれる所以は、すでに処女作『モノロギオン』に見て取れる。「独白」を意味するこの論文で、彼は神の存在と特性を理性によって捉えようとした。それは、それまでの迷信にも似た、キリスト教の威光をもって神を論ずるものとは一線を画した。

もうひとつの主要論文『プロスロギオン』は、構想当初「理解を求める信仰」と題されていたが、これは彼の神学者、スコラ学者としての姿勢を特徴づけるものとしてしばしば言及される。この立場は通常、理解できることや論証できることのみを信じる立場ではなく、また、信じることのみで足りるとする立場でもなく、信じているが故により深い理解を求める姿勢、あるいはより深く理解するために信じる姿勢であると解される。

神の存在証明は、『プロスロギオン』の特に第2章を中心に展開されたもので、おおよそ以下のような形をとる。
1.神はそれ以上大きなものがないような存在である。
2.一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。
3.もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。
4.そこで、神は人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する。

この証明は、後にイマヌエル・カントによって存在論的な神の存在証明と呼ばれ、ルネ・デカルトなど中世以降の哲学者にも大きな影響を与えたと言われる(歴史上、神学者や哲学者によって、神の存在証明は多くの側面から検討された。)

日本語文献情報[編集]

アンセルムスは「スコラ哲学の父」と哲学入門書などで紹介されることは多いものの、その著書を入手することは非常に困難となっているのが現状である。聖文舎より全1巻の『アンセルムス全集』(1980年:古田暁訳)が出ている。上智大学中世思想研究所(編訳、1996年)『中世思想原典集成7 前期スコラ学』(平凡社)は、『モノロギオン』、『プロスロギオン』を始めとするアンセルムスの主著を納めている。また、主要著作は単書としても存在する。
聖アンセルムス(1942年)『プロスロギオン』長澤信壽(訳)(岩波文庫)
--(1946年)『モノロギオン』長澤信壽(訳)(岩波文庫)
--(1948年)『クール・デウス・ホモ - 神は何故に人間となりたまひしか』長澤信壽(訳)(岩波文庫)

アンセルムスに関する著作、研究書には、印具徹(1981年)『聖アンセルムスの生涯』(中央出版社)などがあり、また日本でも有名なカール・バルトによる研究書も存在する。

スコラ学

スコラ学はラテン語「scholasticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問のスタイルのこと。このスコラ学の方法論にのっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。



目次 [非表示]
1 概要
2 スコラ学的方法
3 スコラ学的分野
4 スコラ学学校
5 歴史
6 著名なスコラ学者
7 著名な反スコラ学的学者
8 脚注
9 関連項目


概要[編集]

スコラ学は決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさすものである。スコラ学の「スコラ」とは英語の「School(学校)」と同源語であり、この言葉が入っていることからわかるように、当時の「修道院」において用いられた学問の技法と対照的なものであった。すなわちスコラ学の特徴は問題から理性的に、理づめの答えが導き出されることにあった。これに対して修道院で伝統的にとられていた学問のスタイルは古典の権威をとおして学ぶだけであり、研究者の理論的思考というものは必要とされていなかった点に違いがある。

スコラ学の究極の目的は問題に対する解答を導き出し、矛盾を解決することにある。スコラ学の最大のテーマは信仰と理性である[1]などと言われ、神学の研究のみが知られているきらいがあるが、真の意味でのスコラ学は神学にとどまらず哲学から諸学問におよぶ広いものであった。「真の宗教とは真の哲学であり、その逆もまた真である[2]」ということがスコラ学の基本的命題だと言われることもある。

スコラ学は西方教会のキリスト教においては大きな位置を占めたが、他方正教会では17世紀頃に西方教会からスコラ学を含め影響を蒙ったものの[3]、19世紀以降の正教会では東方の伝統に則った見地から批判的に捉えられており[4]、20世紀以降21世紀に入った現在においても、論理と理性に基盤を置く西方の神学は、静寂に基盤を置く東方の神学とは方法が異なると捉えられている[5]。

スコラ学的方法[編集]

スコラ学の方法においては、まず聖書などの、著名な学者の記したテキストが題材として選ばれる。テキストを丹念に、かつ批判的に読むことによって学習者はまず著者の理論を修得する。次にテキストと関連のある文献を参照する(たとえば聖書についていえば古代から同時代にかけての公会議文書集、教皇書簡など)。一連の作業によって、それらのテキストのあいだにある不調和点や論議の点が抜き出される。たとえば聖書についていえば、古代から同時代にかけての学者たちによって書かれた文書と聖書の間の矛盾点、論点がすべてあげられ、多方面から偏見なしに考察をおこなう。

矛盾点や論議となる点があきらかになると、弁証法的に二つの対照的な立場(たとえば賛成と反対)が示され、議論がつくされ、やがて合意点が見出される。この合意点にいたるために二つの方法がある。第一は哲学的分析である。用語が徹底的に吟味され、筆者の意図する意味が検証される。意味が不明瞭な用語においては相対する立場で合意に至るような意味を検討する。第二に、論理の規則に従った理論的分析を通じて矛盾自体を読者の主観的なものとして解消してしまう方法である。

スコラ学的分野[編集]

スコラ学は文学における二つの分野を発展させた。第一は「クエスティオネス」(質疑)と呼ばれるものであるが、これは特定の学者に限定されるものではない。基本的にすでに説明してきた手法であるが質疑応答へ適用されたスコラ学的方法論である。たとえば「自分の身を守るために人を殺しても良いか?」という質問があるとすると、過去のあらゆる著作から賛成意見と反対意見の両方が集められる。第二のジャンルは「スンマ」(大全)とよばれるものである。スンマにおいてキリスト教に関するすべての質問に対する解答が用意されている。こうしてすべての疑問に対する解答が用意され、これによってさらなる疑問に対する解答の論拠となる。スンマの中でもっとも有名なものはトマス・アクィナスの『スンマ・テオロジカ』(『神学大全』)であり、キリスト教神学の大全を目指したものであった。

スコラ学学校[編集]

スコラ学の学校では教育において二つの方法が用いられた。一つは「レクツィオ」(読解)である。教師がテキストを読み、ある用語や思想について詳しく解説する。そこでは疑問をさしはさむことは許されない。とにかく丹念にテキストを読み込むことが目的であり、教師だけが語ることを許される時間なのである。第二は「ディスプタツィオ」(討議)であり、これこそがスコラ学の肝ともいえる。討議には二つの型がある。一つは「通常討議」で、質問は前もって提示されている。もう一つは「クォドリベタル」(自由討議)というもので、教師に対して生徒から前もって提示することなしに自由に質問がぶつけられる。教師はこれにしっかりと答えなければならない。たとえば「盗んでもよいか」という質問が出るとすると、教師は聖書のような権威あるテキストから引用して自らの立場を示す。生徒はそれに対して反論し、時には本筋から脱線しながらも議論が繰り返される。このような無計画に行われる議論においても筆記者がおり、翌日には教師は筆記録から議論を要約し、すべての反論に答え、自らの最終的な立場をあきらかにする。

歴史[編集]

通常のスコラ哲学は論理、形而上学、意味論などを一つの分野に統合したものであり、人間の事物理解を過去の文献によりながら深化させたものである。

盛期スコラ学の時代(1250年-1350年)、スコラ学の方法は神学はもちろんのこと、自然哲学、自然学(物理学)、認識論(≒科学哲学)などに応用されていた。スペインにおいては経済理論の発展に大きく寄与し、後にオーストリア学派へ影響した。ただ、スコラ学はやはりキリスト教の教義に束縛されるものであり、信仰そのものをゆるがすような質問は異端へ向けられない限り許されないものであった。

1400年代から1500年代にかけての人文主義者の活躍した時代以降、スコラ学は目の敵にされ、忘れ去られたかのようになっていた。スコラ学が ”ガチガチで形式主義的で古臭く、哲学において不適切な方法”とみなされるようになったのは人文主義者たちの吹聴によるところが大きい。

19世紀の後半に入るとカトリック教会においてスコラ学のリバイバル運動である新トマス主義が興り、再びスコラ学が注目を浴びた。それはトマス・アクィナスなどに限定された非常に狭い範囲でのスコラ学であった。ここでいわれるスコラ学とは神学と同義であり、他の分野への波及については考慮されていなかった。

スコラ学は歴史的にはマイモニデスなどのユダヤ哲学とアヴェロエスなどのイスラーム哲学などの動きと連動した思想運動であったといえよう。

スコラ学において、以下のような著者の著作が論拠として用いられた。
アリストテレス(単に「哲学者」といえば彼のこと)およびアヴェロエス (イブン=ルシュド)による『注解』(単に『注解』といえばこの著作)
ボエティウス(特に『哲学の慰め』)
アウグスティヌス
プラトン(特に『ティマイオス』)
ペトルス・ロンバルドゥス(特に『命題集』)
聖書

著名なスコラ学者[編集]
初期スコラ学期(1000年-1200年)カンタベリーのアンセルムス
コンピエーニュのロスケリヌス
ピエール・アベラール
ソロモン・イブン・ガビーロール
ペトルス・ロンバルドゥス
ギルベルト・デ・ラ・ポリー
盛期スコラ学期(1200年-1350年)ヘールズのアレクサンダー
ロバート・グロステスト
ロジャー・ベーコン
アルベルトゥス・マグヌス
トマス・アクィナス
ブラバンティアのシゲルス
ガンのヘンリクス
ダキアのボエティウス
後期スコラ学期(1350年-1500年)ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス
ラドゥルフス・ブリト
パドヴァのマルシリウス
オッカムのウィリアム
ジャン・ビュリダン
リミニのグレゴリウス
ガブリエル・ビール
ピエール・ダイイ
ジャン・ジェルソン
近代スコラ学期(1500年以降)フランシスコ・スアレス

著名な反スコラ学的学者[編集]
クレルヴォーのベルナルドゥス 常にスコラ学に対する論駁者であり続けた。
ルネ・デカルト デカルト思想の方法論はスコラ学によっているが、スコラ学を厳しく批判。
トマス・ホッブズ
ジョン・ロック 著書『人間知性論』においてスコラ学の論理学の空虚性などを批判。
ロバート・ボイル
ガリレオ・ガリレイ

アルベルトゥス・マグヌス

アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, 1193年頃 - 1280年11月15日・ケルン)は大聖アルベルト(St.Albert the great)、ケルンのアルベルトゥスとも呼ばれる13世紀のドイツのキリスト教神学者である。またアリストテレスの著作を自らの体験で検証し注釈書を多数著す。錬金術を実践し検証したこともその一端である。

カトリック教会の聖人(祝日は命日にあたる11月15日)で、普遍博士(doctor universalis)と称せられる。トマス・アクィナスの師としても有名である。ピウス10世によって教会博士の称号を与えられている。



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1 生涯
2 思想
3 錬金術
4 著作
5 関連項目
6 外部リンク


生涯[編集]

ドイツのシュヴァーベン地方ラウインゲンに貴族の子弟として生まれたアルベルトゥスは、イタリアのパドヴァ大学で哲学、自然科学、医学を学び、30歳のときにヨルダヌスにつきドミニコ会会員となりボローニャで神学を学んだ。パリ大学やケルンのドミニコ会の学校など各地で神学と哲学の教鞭をとった他、教会行政にも手腕を発揮した。

1254年にドミニコ会のドイツ(テウトニカ)管区長に就任し、また1259年にヴァレンシアの院長会議でトマス他とドミニコ会学校の修学規則を作成したほか、1261年から数年の間、レーゲンスブルクの司教を務めた。

晩年は主にケルンを中心とするドイツ各地で活動したが、1274年には第2リヨン公会議に出席した。またトマスの死後、1277年パリにおいてトマスに異端の嫌疑を掛けられたときは、老境にあったアルベルトゥスはケルンからパリまで徒歩で旅行して、その弟子を弁護した。

思想[編集]





ヨース・ファン・ワッセンホフによるアルベルトゥス・マグヌス像
アルベルトゥスの思想の特徴はアリストテレス思想の受けいれに対して積極的だったことにある。この点で、同時代のボナヴェントゥラなどのフランシスコ会学派の思想の潮流とは対称をなす。ただ、アヴェロエスなどアラブの学者の注釈の翻訳から主に学んだため、アルベルトゥスのアリストテレス理解には、プラトン思想が混入している部分がある。

アリストテレスの注解書のほか、『被造物についての大全』(Summa de creaturis)をあらわし、自然の観察に基づく自然学を推し進めた。また神学においては、アリストテレス思想に基づく思弁とともに、偽ディオニシウス・アレオパギタへの注解書を書き、ドイツ神秘主義へ影響を与えた。またアルベルトゥスの弟子たちを「アルベルトゥス学派」と呼ぶ研究者もいる。

錬金術[編集]

『鉱物書』において、マグヌス自身で錬金術をおこなったが金、銀に似たものができるにすぎないと述べられている。

『錬金術に関する小冊子』では自分で実験したことのみを記し金と銀の製法とできた金属についてふれている。

また1250年に著作にヒ素について言及し、その発見者とされる。

著作[編集]

ウィキクォートにアルベルトゥス・マグヌスに関する引用句集があります。
『植物について』(De vegetabilibus)
『動物について』(De animalibus)全26巻(第19巻まではアリストテレスの注釈書)

タブラ・ラーサ

タブラ・ラーサ(ラテン語: tabula rasa)は、白紙状態の意。蝋などを引いた書字版を取り消して何も書き込まれていない状態[1]。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史 2.1 古代
2.2 中世
2.3 近世

3 参考書籍
4 関連項目
5 外部リンク


概要[編集]

感覚論において魂は外部からの刺激による経験で初めて観念を獲得するとされており、その経験以前の魂の状態。ロックの用語とされるが古くからある概念。プラトン、ストア派、特にアリストテレスに同様の考えがあり、タブラ・ラーサはアリストテレスの訳語としてローマのアエギディウスが考案したとされる。後にアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスが用いて定着した[1]。

経験主義の比喩。原義はラテン語で「磨いた板」の意味。人は生まれたときには何も書いていない板のように何も知らず、後の経験によって知識を得ていくというものである。

歴史[編集]

古代[編集]

タブラ・ラーサと呼べる思想は古く、プラトンの『テアイテトス』、アリストテレスの著作『霊魂論』(Περι Ψυχης)に見られる。ただし、前者では蝋板である。



What the mind thinks must be in it in the same sense as letters are on a tablet (grammateion) which bears no (methen) actual writing (grammenon); this is just what happens in the case of the mind.

− Aristotle, On the Soul, 3.4.430a1.

中世[編集]

13世紀にトマス・アクィナスが議論に提起した。当時は知識の本体は天界にあり生まれるときに肉体に合わさるという説が主流であった。



But the human intellect, which is the lowest in the order of intellects and the most removed from the perfection of the Divine intellect, is in potency with regard to things intelligible, and is at first "like a clean tablet on which nothing is written", as the Philosopher [Aristotle] says.

− Aquinas, Summa Theologica 1.79.2.

近世[編集]

17世紀にジョン・ロックが新しく経験主義を唱えた。 現代では、スティーブン・ピンカーが反論している。

経験論

経験論(けいけんろん、英: empiricism)、あるいは経験主義(けいけんしゅぎ)は、人間の全ての知識は我々の経験に由来する、とする哲学上または心理学上の立場である(例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である)。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史 2.1 古代
2.2 中世
2.3 近世 2.3.1 近代経験論の成立
2.3.2 功利主義

2.4 現代 2.4.1 ヘーゲル学派の台頭
2.4.2 現代経験論


3 主な論者
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク


概要[編集]

経験論の哲学は特にイギリスで発達し、その伝統は大陸哲学と区別してイギリス経験論とも呼ばれる。経験論は哲学的唯物論や実証主義と緊密に結びついており、大陸合理主義や、認識は直観的に得られるとする直観主義、神秘主義、あるいは超経験的なものについて語ろうとする形而上学と対立する。

経験論における「経験」という語は私的ないし個人的な経験や体験というよりもむしろ、客観的で公的な実験、観察といった風なニュアンスである。したがって、個人的な経験や体験に基づいて物事を判断するという態度が経験論的と言われることがあるが、それは誤解である。

歴史[編集]

古代[編集]

キニコス派、キレネ派、エピクロス派など古代ギリシアの哲学者、いわゆるソクラテス以前の哲学者の多くは経験を重視していた。古代の自然哲学の発展を促したのは彼らであったし、今やきわめて評判の悪い言葉となってしまったソフィストでさえある意味で経験を重視していた。これに真っ向から反対したのがプラトンであった。彼の主張したイデアは、仮象の現象界を超越したものであり、単に経験を積み重ねるだけでは認識し得ず、物の本質は、物のイデアを「心の眼」で直視し、「想起」することによって初めて認識することができるものであった。プラトンの弟子アリストテレスは、その学問体系において、両者を調停させ、統合したのであった[1]。

中世[編集]

13世紀のオックスフォード学派は、スコラ学を批判し、経験を重視し、数学や自然哲学の発展に寄与した。先駆的な研究はロバート・グロステストの「光の形而上学」であるが、その弟子のロジャー・ベーコンは、「無知の四原因」を挙げて数学の意義を強調し、実験を用いることの重要性を説いた。14世紀のオッカムは、内的な反省的直観のみならず、具体的個別的な感性的経験をも認識の起源として重視して普遍は単に思考上の単なる記号にすぎないとして唯名論を主張し、近世の経験論を準備した。

近世[編集]

フランシス・ベーコンは、ロジャー・ベーコンの「無知の四原因」を発展させ、四つのイドラを示し、イドラを取り除くことが正しい知識に必要だと考え、従来のスコラ哲学で重視されてきた演繹と対比して、感覚的観察を無条件で信頼せず、実験という方法を駆使して少しずつ肯定的な法則命題へと上っていく帰納法を明示した。帰納法は、自然科学の発展を促したが、のちにヒュームの懐疑主義を生むことになった。

近代経験論の成立[編集]

ロックは、人間は観念を生まれつき持っているという生得説を批判して観念は経験を通して得られると主張し、いわば人間は生まれた時は「タブラ・ラサ」(白紙)であり、経験によって知識が書き込まれる、と主張した。アイルランドのバークリやスコットランドのヒューム、そしてフランスではコンディヤックが観念、知識は経験によって得られるという考えをロックから受け継いだ。

功利主義[編集]

ジェレミー・ベンサムは、経験を重視し、快楽と苦痛に支配される人間という冷厳な事実を直視し、倫理学において、功利性の原理を基礎に「最大多数の最大幸福」、ある行為が道徳的に善いか悪いかの判断基準はその行為が人々の幸福を全体として増大させるか否かにあると主張した。

現代[編集]

ヘーゲル学派の台頭[編集]

ベーコンやロックによって打ち立てられた経験論の考えはバークリを経てヒュームに流れ込み、ヒュームは経験論的な発想を極限まで推し進めてその帰結として懐疑論に陥り、そしてカントの批判哲学によって大陸合理論と総合された。経験論は、ドイツ観念論の成立によって衰退し、ヘーゲル学派の台頭を招き、イギリスではケンブリッチヘーゲル学派を形成した。

現代経験論[編集]

近代以降においては、現象主義、実証主義、論理実証主義(論理経験主義とも)などが経験論の一種として生まれ、特に論理実証主義は経験に基かず、経験的に検証や確証ができない形而上学的な概念や理論を痛烈に批判した。経験論は、我々の理論や命題、そしてそれらの真偽や確実性の判断などは直観や信仰よりむしろ世界についての我々の観察に基礎に置くべきだ、とする近代の科学的方法の核心であると一般にみなされている。その方法とは、実験による調査研究、帰納的推論、演繹的論証である。

現代の科学哲学における経験論の重要な批判者はカール・ポパーである。ポパーは理論はしばしば誤ることがある経験的・帰納的な仕方(cf.帰納、自然の斉一性)で検証されるべきではなく、むしろ反証のテストを経てその信頼性が高められるべきとして反証主義を唱えた。

主な論者[編集]
フランシス・ベーコン
ジョン・ロック
ジョージ・バークリー
デイヴィッド・ヒューム

脚注[編集]

1.^ 杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)

参考文献[編集]
杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
一ノ瀬正樹『功利主義と分析哲学』(2010年、日本放送出版協会)

関連項目[編集]
功利主義

外部リンク[編集]
杖下隆英「経験論」(Yahoo!百科事典)
「Rationalism vs. Empiricism」 - スタンフォード哲学百科事典にある「合理主義 vs 経験主義」についての項目。(英語)
「Empiricism」 - ディクショナリー・オブ・フィロソフィー・オブ・マインドにある「経験論」についての項目。(英語)
「Empiricism」 - Skeptic's Dictionaryにある「経験論」についての項目。(英語)

ニコラ・ド・マルブランシュ

ニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas de Malebranche、1638年8月6日−1715年10月13日)はフランスの哲学者。オラトリオ会修道士。ルイ14世と生没年が一緒でもある。



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1 人物
2 主張
3 脚注
4 参考文献
5 外部リンク


人物[編集]

1664年にデカルトの遺稿『人間論』に接したのをきっかけに哲学に目覚め、オラトリオ会が帰依するアウグスティヌスの神秘的な思想と理性を重視するデカルト哲学の総合を目指した。その成果は、まず、初期の大著『真理の探究』として1674年-1675年に発表された(1674年に第1巻-第3巻までを収めた第1分冊を、1675年に残りの第4巻-第6巻までを収めた第2分冊を刊行)。『真理の探究』は、1.感覚、2.想像力、3.知性、4.傾向性、5.情念および6.方法の各巻からなり、人間の心のはたらきを詳細に分析した上で、それらから生じる誤謬を防ぐ方法で全巻を締めくくっている。この著作は公刊直後から大きな反響を呼び、ボシュエ、フェヌロン、アルノーらの神学者、哲学者との論争を受けて、マルブランシュの生前に5回改訂されている。『真理の探究』の問題提起は、こうした論争のなかで深化され、その成果は『形而上学と宗教についての対話』(1688年)などに結実した。

主張[編集]

マルブランシュの哲学的主張は「すべての事物を神において見る」(voir toutes en Dieu)というフレーズで知られ[1]、人間は神のうちなる観念を通して事物的世界を認識するとして、デカルト流の心身二元論の解決を試みた[2]。マルブランシュによれば、人間の感覚や想像は真の認識をもたらすものではなく、神のうちなる観念に至るきっかけであった。また、現象としての物体(身体)の運動を認めながら、その原因を物体そのものに与えることを拒み、物体の衝突や精神の意欲をきっかけ(機会)として神が発動し、最終的には神がさまざまな運動を引き起こしているとした。この説は哲学史上「機会原因論」と呼ばれる。

スピノザの思想が無神論として危険視され、ライプニッツの主要な著作が公刊されなかったなかで、18世紀にはデカルト流の合理主義哲学の主流はマルブランシュに受け継がれたものとみなされ、マルブランシュ派=新たなデカルト派として、経験論、感覚論や唯物論など、新たな思想潮流と対決していった。

脚注[編集]
1.^ 『ものはなぜ見えるのか』 25頁。
2.^ 『ものはなぜ見えるのか』 27-28頁。

参考文献[編集]



出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年8月)
『神と魂の闇――マルブランシュにおける認識と存在』(伊藤泰雄、高文堂出版社、1997年) ISBN 4770705433
木田直人 『ものはなぜ見えるのか…マルブランシュの自然的判断理論』 中央公論新社〈中公新書〉(原著2009年1月25日)、初版。ISBN 9784121019813。2009年8月16日閲覧。

外部リンク[編集]
「Nicolas Malebranche」 - スタンフォード哲学百科事典にある「ニコラ・ド・マルブランシュ」についての項目。(英語)



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ゴットフリート・ライプニッツ

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日)は、ドイツの哲学者、数学者。ライプツィヒ出身。なお Leibniz の発音は、/ˈlaɪpnɪʦ/(ライプニッツ)としているもの[1]と、/ˈlaɪbnɪʦ/(ライブニッツ)としているもの[2]とがある。ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』など。



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1 概要
2 経歴
3 哲学における業績 3.1 同時代の哲学者との関係
3.2 著作
3.3 モナド Monade(単子)

4 数学における業績
5 ドイツ出身の悲哀
6 著作
7 参考文献
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


概要[編集]

ライプニッツは哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。ライプニッツは稀代の知的巨人といえる。

経歴[編集]
1646年、ライプツィヒに生まれる。父は大学教授。
1661年、ライプツィヒ大学入学。専攻は法学。
1663年、哲学のドクトルをとるため、論文を執筆。
1666年、スイスのアルトドルフの大学に移り、翌年法学のドクトルとなった。
1672年、フランス王ルイ14世にエジプト遠征を勧めるため、パリに滞在。
1676年、カレンベルク侯ヨハン・フリードリヒによって顧問官兼図書館長。
1700年、ベルリン科学アカデミー院長。
1711年、神聖ローマ皇帝カール6世によって帝国宮中顧問官、男爵。
1716年、ハノーファーにて逝去。

哲学における業績[編集]

「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。

モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。

さらにライプニッツは、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになった。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感があるほどである。

その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつある。

同時代の哲学者との関係[編集]

ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。
特筆されるのは、1676年にバールーフ・デ・スピノザを訪問したことである。そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といった様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。
デカルトやスピノザの他に、マルブランシュの影響を強く受けている。
ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1,000人を優に超えると言われている。王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワーヌ・アルノー[3]、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人としても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス、最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場ともなったサミュエル・クラーク(ニュートンの弟子であり友人でもあった)などが知られている。

著作[編集]

『力学要綱』、『弁神論』を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため(現在も全集は完結していない)、17〜18世紀にはライプニッツの学の全貌は完全には理解されず、楽天主義的であるとの誤解を生んだ[4]。

モナド Monade(単子)[編集]

詳細は「モナド」を参照

複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モナドは自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これが宇宙における真の存在者である。したがってモナドは単純実体ではあるが、同時にモナドは表象perceptionと欲求appetiteとを有するが故に、モナドは自発的に世界全体を自己の内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めることが可能となる。そしてこの内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはないが、神が創造において設けておいた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かすといった働きができるのである。要するに、モナドとは魂に類比的に捉えられる存在者なのである。[5]

数学における業績[編集]





ライプニッツが1697年に書いた書簡。2進法の記述が見える。
微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多い。

しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。ライプニッツによれば、それを用いることで、どんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いることで、誤った推論は原理的に起こり得ないようにすることができるというものであった。彼は、優秀な人材が何人かかかって取り組めば、それを実現するのに5年もかからないと信じていたようであったが、現実にはそれを実現するには300年以上を要した。彼は記号に取り憑かれていた人物で、論理学以外にも、例えば幾何学について、記号を用いて機械的に証明をする構想を得ていた(これも後世には現実となった)。

上記の事柄に含まれるが、2進法を研究したのもライプニッツの業績である。彼は中国の古典『易経』に関心をもっており、1703年、イエズス会宣教師ブーヴェから六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術があることを見いだしている。

ドイツ出身の悲哀[編集]

ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わらなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するが、当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。

ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーと、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセン王フリードリヒ1世妃)と、エルンスト・アウグストとゾフィーの孫ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2世)の妃のキャロライン(ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。

ハノーファーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが同年にイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。その文通者は国内外あわせて千人を超えていた。

著作[編集]
ライプニツ 『形而上学叙説』 河野与一訳、岩波書店〈哲学古典叢書 第3〉、1925年。 ライプニツ 『形而上学叙説』 河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫 青616-2〉、1950年4月15日。ISBN 4-00-336162-8。

ゴツトフリード・ウヰルヘルム・ライブニツツ 『ライブニツツ』 松永材・小暮春雄訳、尚文堂〈哲学名著選集〉、1925年。
ライプニツツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈哲学古典叢書 5〉、1928年。 ライプニツ 『単子論』 河野与一訳、岩波書店〈岩波文庫 青616-1〉、1951年9月25日。ISBN 4-00-336161-X。

ライブニッツ「モナッド論」松永材訳、『世界大思想全集』第2巻、春秋社、1929年。
『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、春秋社〈春秋社思想選書〉、1949年。 『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、春秋社〈大思想選書〉、1950年。
『ライプニッツ論文集』 園田義道訳、日清堂書店、1976年、改訂版。

ライプニッツ 『人間知性新論』 米山優訳、みすず書房、1987年12月。ISBN 4-622-01773-3。
ライプニッツ 『モナドロジー 形而上学叙説』 清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2005年1月。ISBN 4-12-160074-6。
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ 『ライプニッツの国語論 ドイツ語改良への提言』 高田博行・渡辺学編訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 843〉、2006年3月。ISBN 4-588-00843-9。
『ライプニッツ著作集』全10巻、工作舎。 1.『論理学』、1988年12月。ISBN 4-87502-149-6。
2.『数学論・数学』、1997年4月。ISBN 4-87502-277-8。
3.『数学・自然学』、1999年3月。ISBN 4-87502-306-5。
4.『認識論『人間知性新論』上』、1993年8月。ISBN 4-87502-221-2。
5.『認識論『人間知性新論』下』、1995年7月。ISBN 4-87502-253-0。
6.『宗教哲学『弁神論』上』、1990年1月。ISBN 4-87502-164-X。
7.『宗教哲学『弁神論』下』、1991年6月。ISBN 4-87502-180-1。
8.『前期哲学』、1990年12月。ISBN 4-87502-175-5。
9.『後期哲学』、1989年6月。ISBN 4-87502-154-2。
10.『中国学・地質学・普遍学』、1991年12月。ISBN 4-87502-193-3。


参考文献[編集]
山本信 『ライプニッツ哲学研究』 東京大学出版会、1953年2月。ISBN 4-13010-005-X。
大野真弓「絶対君主と人民」、『世界の歴史 8』 中央公論社〈中公文庫〉、1975年2月10日。ISBN 978-4-12-200188-6。
E・J・エイトン 『ライプニッツの普遍計画 バロックの天才の生涯』 渡辺正雄・原純夫・佐柳文男訳、工作舎、1990年1月。ISBN 4-87502-163-1。
池田善昭 『『モナドロジー』を読む ライプニッツの個と宇宙』 世界思想社、1994年10月。ISBN 4-79070-525-3。
ルネ・ブーヴレス 『ライプニッツ』 橋本由美子訳、白水社、1996年7月。ISBN 4-56005-779-6。
佐々木能章 『ライプニッツ術 モナドは世界を編集する』 工作舎、2002年10月。ISBN 4-87502-367-7。
石黒ひで 『ライプニッツの哲学 論理と言語を中心に』 岩波書店、2003年7月。ISBN 4-00002-420-5。
山内志朗 『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』 日本放送出版協会、2003年11月。ISBN 4-14-009304-8。
松田毅 『ライプニッツの認識論 懐疑主義との対決』 創文社、2003年12月。ISBN 4-38941-191-8。
酒井潔 『ライプニッツ』 清水書院、2008年9月。ISBN 4-42317-139-2。
酒井潔、佐々木能章 『ライプニッツを学ぶ人のために』 世界思想社、2009年12月。ISBN 4-79071-444-6。
『思想 no.930 創刊80周年記念号:ライプニッツ』 岩波書店、2001年10月。
『水声通信 no.17 特集:甦るライプニッツ』 水声社、2007年5月。ISBN 9-78489-176-6。

合理主義哲学

合理主義哲学(ごうりしゅぎてつがく, Rationalism)は、17-18世紀の近代哲学・認識論における一派。大陸合理主義(Continental Rationalism)、大陸合理論とも呼ばれる。



目次 [非表示]
1 解説
2 主な論者
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク


解説[編集]

大陸合理主義の思想的内容は、通常、当時のイギリスにおいてロック、ヒュームらによって担われていたいわゆるイギリス経験論との対比で、ヨーロッパ大陸側の傾向として理解される。イギリス経験論において人間は経験を通じて様々な観念・概念を獲得すると考えるのに対し、大陸合理主義においては、人間は生得的に理性を与えられ、基本的な観念・概念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつと考える[1]。

また、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする演繹法が真理の探求の方法とされた。

17世紀、フランスのデカルトに始まり、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツやヴォルフ、フランスのマールブランシュなどによって継承・展開された。

今日広く普及している西洋哲学史観では、18世紀にカントによって合理主義と経験論の総合が行われたという見方がなされている。




主な論者[編集]
ルネ・デカルト
バールーフ・デ・スピノザ
ゴットフリート・ライプニッツ
ニコラ・ド・マルブランシュ

脚注[編集]

1.^ 後掲の坂井の記事を参照。

参考文献[編集]
坂井昭宏『大陸合理論』[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
サイモン・クリッチリー 『ヨーロッパ大陸の哲学』 佐藤透訳、野家啓一解説、岩波書店〈1冊でわかる〉、2004年6月。ISBN 4-00-026872-4。

ルネ・デカルト

ルネ・デカルト(仏: René Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。



目次 [非表示]
1 概要
2 生涯 2.1 生い立ち、学生時代
2.2 遍歴時代
2.3 パリでの交流
2.4 オランダでの隠棲時代
2.5 最後の旅

3 思想 3.1 哲学 3.1.1 体系
3.1.2 方法

3.2 形而上学 3.2.1 方法的懐疑
3.2.2 コギト・エルゴ・スム
3.2.3 神の存在証明
3.2.4 心身合一の問題

3.3 自然哲学 3.3.1 機械論的世界観

3.4 倫理学
3.5 数学

4 著作 4.1 日本語訳

5 脚注
6 日本語文献
7 伝記
8 関連項目
9 外部リンク


概要[編集]

考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つである。そしてこの命題は、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

初めて哲学書として出版した著作『方法序説』(1637年)において、冒頭が「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」という文で始まるため、思想の領域における人権宣言にも比される。

また、当時学術的な論文はラテン語で書かれるのが通例であった中で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で書いた。その後のフランス文学が「明晰かつ判明」を指標とするようになったのは、デカルトの影響が大きい、ともいわれる。

レナトゥス・カルテシウス(Renatus Cartesius)というラテン語名から、デカルト主義者はカルテジアン(仏: Cartésien; 英: Cartesian)と呼ばれる。その他、デカルト座標系(仏:système de coordonnées cartésiennes ; 英:Cartesian coordinate system)のようにデカルトの名がついたものにもカルテジアンという表現が用いられる。

生涯[編集]

生い立ち、学生時代[編集]

デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。

1606年、デカルト10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ(La Flèche)学院に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校できており、多くの生徒が在籍していた。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。

イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの報せに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。

デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの1つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩にあたる。

好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。

1614年、デカルトは18歳で学院を卒業する。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めた。1616年、デカルト20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタ(ヴィエタについては#数学への功績も参照)の後を継ぐものと騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げた。

遍歴時代[編集]

デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。

1618年、デカルト22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わる。ただし、八十年戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン、ジャック・アローム等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。

1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学的な才能に驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。

1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。

1619年10月、精神力のすべてをかけてこれから自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもる。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。

パリでの交流[編集]

1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。

そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。1628年、オランダ移住直前に、みずからの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書く。未完である。

オランダでの隠棲時代[編集]

1628年にオランダに移住する。その理由は、この国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。

32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。

1637年、『方法序説』を公刊する。

1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。

1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。

1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。

1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。

1649年『情念論』を公刊する。

最後の旅[編集]





クリスティーナ(左)とデカルト(右)
1649年のはじめから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。

1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した。

デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。[1]

思想[編集]

哲学[編集]

体系[編集]

『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。

デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。

方法[編集]

ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
1.明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
2.考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
3.最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
4.何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)

形而上学[編集]

方法的懐疑[編集]

幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。

この方法的懐疑の特徴として、2点挙げられる。1つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、2つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。

この強力な方法的懐疑は、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続けられる。まず、肉体の与える感覚(外部感覚)は、しばしば間違うので偽とされる。また、「痛い」「甘い」といった内部感覚や「自分が目覚めている」といった自覚すら、覚醒と睡眠を判断する指標は何もない事から偽とされる。さらに、正しいと思っている場合でも、後になって間違っていると気付く事があるから、計算(2+3=5のような)も排除される。そして、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神(Dieu trompeur)で、自分が認める全てのものが悪い霊(genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、とされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられることになる。

この方法的懐疑の特徴は、当時の哲学者としてはほとんど初めて、「表象」と「外在」の不一致を疑った事にある。対象が意識の中に現われている姿を表象と呼ぶが(デカルトは観念 仏:Idée と呼んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいては外在の対象と一致すると思われていた。しかし、デカルトは方法的懐疑を推し進める事によって、この一致そのものを問題に付したのである。

コギト・エルゴ・スム[編集]





『省察』(1641年)
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[2]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[3]。詳細は同名の内部リンクを参照。

コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)

のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした[4]。

神の存在証明[編集]

欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊(genius malignus)を否定し、誠実な神を見出すために、デカルトは神の存在証明を行う。
1.第一証明 - 意識の中における神の観念の無限な表現的実在性(観念の表現する実在性)は、対応する形相的実在性(現実的実在性)を必然的に導く。我々の知は常に有限であって間違いを犯すが、この「有限」であるということを知るためには、まさに「無限」の観念があらかじめ与えられていなければならない。
2.第二証明 - 継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
3.第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む。(アンセルムス以来の証明)

悪い霊という仮定は神の完全性・無限性から否定され誠実な神が見出される。誠実な神が人間を欺くということはないために、ここに至って、方法的懐疑によって退けられていた自己の認識能力は改めて信頼を取り戻すことになる。

物体の本質と存在の説明も、デカルト的な自然観を適用するための準備として不可欠である。三次元の空間の中で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物体の本質であり、これは解析幾何学的手法によって把捉される。一方、物体に関わる感覚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物体が感覚器官を触発することによって与えられる。なにものかが与えられるためには、与えるものがまずもって存在しなければならないから、物体は存在することが確認される。しかし、存在するからといって、方法的懐疑によって一旦退けられた感覚によってその本質を理解することはできない。純粋な数学・幾何学的な知のみが外在としての物体と対応する。このことから、後述する機械論的世界観が生まれる。

明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。

なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。

心身合一の問題[編集]

1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、心身合一の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な公女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。

『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気(esprits animaux)と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。そして、ただ生理学的説明だけに留まらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類した後、自由意志の善用による「高邁」の心の獲得を説いた。

デカルトが(能動としての)精神と(受動としての)身体との間に相互作用を認めたことと、一方で精神と身体の区別を立てていることは、論理の上で、矛盾を犯している。後の合理主義哲学者(スピノザ、ライプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服することを試みた。

1645年11月3日のエリーザベトへのデカルトの書簡をみてみると、デカルトは自身の哲学の二元性をあくまでも実践的・実際的問題として捉えていたことが伺われる。デカルトはその書簡において、自由意志と神の無限性が論理的には両立しないことを認めながら、自由意志の経験と神の認識が両立の事実を明らかにしていると書いている。

自然哲学[編集]

機械論的世界観[編集]

デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。

更にデカルトは、見出した物理法則を『世界論』(宇宙論)において宇宙全体にも適用し、粒子の渦状の運動として宇宙の創生を説く渦動説を唱えた。その宇宙論は、
宇宙が誕生から粒子の運動を経て今ある姿に達したという発生的説明を与えた
地上と、無限に広がる宇宙空間において同じ物理法則を適用した

という点で過去の宇宙論とは一線を画すものであった。

デカルトは見出した法則を数学的に定式化せず、また実験的検証を欠いたことで法則の具体的な値にも誤謬が多い。そのために科学史の上ではガリレイとニュートンの間で、独断論に陥った例として取り上げられることが多かった。しかし今日ではニュートンはデカルトの『哲学の原理』を熱心に読んでいたことが科学史家ヘリヴェルの研究によって明らかにされるなど、その位置付けが見直されている。

倫理学[編集]

デカルトは、完全に基礎づけられた倫理学を体系化したいと望んでいたが、それまでは暫定的道徳を守るほかない、と考えた(『方法序説』1)。

数学[編集]

2つの実数によって平面上の点の位置(座標)を表すという方法は、デカルトによって発明され、『方法序説』の中で初めて用いられた。この座標はデカルト座標と呼ばれ、デカルト座標の入った平面をデカルト平面という。デカルト座標、デカルト平面によって、後の解析幾何学の発展の基礎が築かれた。座標という考え方は今日、小学校の算数で教えられるほど一般的なものとなっている。

また、今日、数式の表記でアルファベットの最初の方(a,b,c,…)を定数に、最後の方(…,x,y,z)に未知数をあて、ある量(例えばx)の係数を左に(2x)、冪数を右に(x^3)に書く表記法はデカルトが始めた。

ちなみに、アルファベットを用いた数式というだけであれば、『解析術序論』を著したフランソワ・ビエトの方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあてた。

著作[編集]

著作を時系列で並べると以下のようになる。
1618年『音楽提要』Compendium Musicae
公刊はデカルトの死後(1650年)である。1628年『精神指導の規則』Regulae ad directionem ingenii
未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。1633年『世界論』Le Monde
ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)
試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説』Discours de la méthode と略す。1641年『省察』Meditationes de prima philosophia
1644年『哲学の原理』Principia philosophiae
1648年『人間論』Traité de l'homme
公刊はデカルトの死後(1664年)である。1649年『情念論』Les passions de l'ame

日本語訳[編集]
文庫版谷川多佳子訳[5] 『方法序説』(岩波文庫、1997年)ISBN 4003361318、(同ワイド版、2001年)
谷川多佳子訳 『情念論』(岩波文庫、2008年)ISBN 4003361350
山田弘明訳・注解 『省察』(ちくま学芸文庫、2006年)ISBN 4480089659
山田弘明ほか訳・注解 『哲学原理』(ちくま学芸文庫、2009年)ISBN 4480092080
山田弘明訳・注解 『方法序説』(ちくま学芸文庫、2010年) ISBN 4480093060
山田弘明訳・解説[6] 『デカルト=エリザベト往復書簡』(講談社学術文庫、2001年)ISBN 4061595199
野田又夫訳 『方法序説・情念論』(中公文庫、初版1974年)ISBN 4122000769
岩波文庫で復刊されたテキスト野田又夫訳 『精神指導の規則』 ISBN 4003361342、改訳1974年
桂壽一訳 『哲学原理』 ISBN 4003361334、古い訳文
三木清訳 『省察』 ISBN 4003361326、戦前の訳 岩波文庫旧版 『方法序説』は落合太郎訳

新書(再刊)判野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎訳
『方法序説・哲学の原理・世界論』(中公クラシックス:中央公論新社、2001年)ISBN 4121600126井上庄七・森啓・野田又夫訳 『省察・情念論』(中公クラシックス:中央公論新社、2002年)ISBN 4121600339
三宅徳嘉・小池健男訳 『方法叙説』(白水Uブックス:白水社、2005年)ISBN 4560720827
全集『デカルト著作集』(白水社、全4巻、増補版1993年、2001年)

バールーフ・デ・スピノザ

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者、神学者。一般には、そのラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)で知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

スピノザの汎神論は唯物論的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論(岩波文庫版『エチカ』解説等参照)に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、神を信仰する神学者でありながら、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。

スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。



目次 [非表示]
1 生涯
2 思想 2.1 哲学史上の意義
2.2 存在論・認識論
2.3 倫理学
2.4 国家論
2.5 宗教との関係

3 著書
4 批判
5 脚注 出典
6 関連項目
7 外部リンク


生涯[編集]


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アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。

伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。 追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。1662年にはボイルと硝石に関して論争した。

1664年にオランダ共和派の有力者、ヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。この前後から代表作『エチカ』の執筆は進められていたが、オランダの政治情勢の変化などに対応して『神学・政治論』の執筆を優先させることとなった。1670年に匿名で版元も偽って『神学・政治論』を出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた[1]。しかし、1672年にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。

1673年にプファルツ選帝侯からハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年には『神学・政治論』が禁書となる。この影響で翌1675年に『エチカ−幾何学的秩序によって証明された』を完成させたが、出版を断念した。スピノザの思想の総括であった。執筆には15年の歳月をかけている。しかし、スピノザ没後友人により1677年に刊行されている[2]。また、その翌1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。肺の病(肺結核や珪肺症などの説がある)を患っていたため、その翌年スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳(1677年)の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。

ハーグ移住後、スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。 なお、スピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあったとも言われるが、これはスピノザの信条に合わない。スピノザのレンズ磨きは生計のためではなく学術的な探求心によるものだというのも仮説にすぎない。

生前に出版された著作は、1663年の『デカルトの哲学原理』と匿名で出版された1670年の『神学・政治論』(Tractus Theologico-Politicus)だけである。『人間知性改善論』(Tractatus de intellectu emendatione)、『国家論』、『エチカ』その他は『ヘブライ語文法綱要』(Compendium gramatices linguae Hebraeae)などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。以上の著作は全てラテン語で書かれている。遺稿集の中の『小神論』(Korte Verhandeling van god)はオランダ語で書かれているがこれは友人がラテン語の原文をオランダ語に訳したものである。(スピノザは日常会話にはポルトガル語を使いオランダ語には堪能ではなかった。)

思想[編集]

哲学史上の意義[編集]

スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。

その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。

一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している[3]。フランス現代思想のドゥルーズも、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザと表現の問題』、『スピノザ−実践の哲学』などの研究書を刊行している。

代表作『エチカ』は、副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。

この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学[4]を議論している。

存在論・認識論[編集]

ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。

デカルトは神を無限な実体[5]として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[6]神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[7] ものである(自己原因)[8]。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[9]。神とはすなわち自然(この自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[10]。

スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[11]と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[12]」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[13]人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[14]、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

倫理学[編集]

スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想[15]を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている[16]。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている[17]。

スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念[18])を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る[19]」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。

上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する[20]。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力[21]に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。

国家論[編集]

上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である[22]」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする[23]。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。

統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている[24]。

またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。

宗教との関係[編集]

スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている[25]

キリスト教については、スピノザとしては、キリストの復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮[26]として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ)という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している[27]。また徳の報酬は徳そのものである[28]とする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨している。また神をその正義の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している[29]。

理神論

理神論(りしんろん、英: deism)は、一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説。

神の活動性は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つとされる。人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。



目次 [非表示]
1 起源
2 理神論論争
3 フランスとドイツ
4 参考書籍
5 関連項目


起源[編集]

16世紀のソッツィーニ派によって、すでに宗教上の意見の相違を迫害によって解決することが罪であるという考えが提出され、イギリスではその見解はユニテリアンと呼ばれる人々によって擁護された。ユニテリアンは1840年代になるまで市民権を得られなかったとはいえ、その他のプロテスタントでも信仰の基礎を教会の権威にではなく、論証の上に築くことを目指す。そのさい神学者たちが根拠としたのは、聖書とならんで理性であった。

1624年チャーベリーのハーバート卿は『真理について』を公刊して、自然宗教の5つの基本命題をあげた。それは(1)神の存在、(2)神を礼拝する義務、(3)経験と徳行の重要性、(4)悔悟することの正しさ、(5)来世における恩寵と堕罪の存在を信じること、などである。

50年後にスピノザが『神学政治論』において、(1)神の存在、(2)単一性、(3)遍在性、(4)至高性、などの箇条を列挙して、「神は博愛心と正義心によって崇拝されなければならず、神に従うものは救われ従わないものは滅びるが、悔い改めるものの罪は必ず許されるであろう」ことを主張した。

ハーバート卿とスピノザの宗教は、とくにキリスト教だけに当てはまる条件ではないところに問題があると、神学者たちは考えた。では旧来のキリスト信仰とこの新しい普遍宗教は矛盾がないのだろうか、またキリスト教の唯一の基礎である聖書の記述は、普遍宗教の条件から見て真理を現しているといえるのか。

スピノザは『神学政治論』で、聖書それ自体も同じように歴史的批判にさらされなければならないことを提唱し、理神論への道を開いた。しかしスピノザは生前は無神論者であるという人身攻撃を受け、イギリスではいわゆる「理神論論争」が始まった。

理神論論争[編集]

1695年にロックが『キリスト教の合理性』で、理性の権威と聖書の権威が両立することを証明しようと努めたが、それでも「救済の条件を不当に低めて、異端者が救われるようにした」というとがめを受けた。ロックが知性の力で支持できない教説の地位を下げたことをさらに進め、1696年にジョン・トーランドが『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、キリスト教の本質は道徳の掟に他ならず、後世の教会が設けた教義はキリスト教の信条を独断的に改ざんしたものである、と主張した。キリスト教から秘蹟を追放しようとする彼の企ては、人間の認識というものが神に関する知識におよぶものなのか、それともロックやトーランドの反対者が言うように「神の存在とは理性を超えるもの」なのかという問題を提起し、ヒュームの懐疑主義により「神が存在するかどうかは、人間には認識できない」という形で一時は解決する。

理神論論争における論敵同士は、自然法則を再構成する能力を理性に認める点で一致している。理神論者の多くは、聖書が神に由来するものであることを認めた。つまり立派なキリスト教徒でなおかつ理神論者であることは可能であった。これらの似たもの同士で行われた論争は1750年より以前に終熄し、『政治的正義』の著者で無政府主義者のゴドウィンは「騒ぎから50年たった今では、過去にまるで論争がなかったのと同じである」と言うことができた。

フランスとドイツ[編集]

イギリス理神論をフランスで嗣いだのはヴォルテールである。イギリスでは論争になるだけの見解でも、カトリック教会が権威をもっているフランスでは異端邪説となった。ヴォルテールは「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」と言った奇妙なキリスト教徒であった。彼はキリスト教にまつわるさまざまな伝説・聖物を笑いものとし、無神論の手前まで進んだ。コンディヤック、エルヴェシウス、ドルバック、ラ・メトリなどはデカルトの機械論を受け継いでおり、理神論者とほとんど区別がつかない。彼らは人間を機械の一種と見なしているのでそれを最初に創造した機械工(神)を想定しないわけに行かないからだ。

ルソーが『エミール』第4巻で披露する有神論は、理性ではなく感情に基礎をおいている。その自然宗教では特定の人間に示されるような啓示は必要ない、とされている。ルソーの「有神論」はロベスピエールに受け継がれ、フランス革命が過激化した時期に「理性の崇拝」に反対して挙行された「最高存在の祭典」にあらわれている。

ドイツにおける理神論の代表者はレッシングである。ただレッシングはキリスト教について固定した立場をとらず、「論証によって信仰を強制しよう」とする理神論者についても反対していた。戯曲『賢人ナータン』には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のうち、どの宗教を選ぶかよりも「人間であることで十分だ」というテーマが扱われた。

カントは『純粋理性批判』で理神論者が使った神の存在証明すべてが無効であることを証明したが、『実践理性批判』では神は理性によって認識されるものではなく、意志によって要請される存在として考えられ、ヘーゲルはカントのこのような神の論証を「矛盾の巣」と呼んだ。理神論はカントの手によって一度は殺されて、彼自身の手で復活させられたわけである。

参考書籍[編集]
L.スティーヴン 『十八世紀イギリス思想史 上巻』 中野好之訳、筑摩書房、初版1969年
H.ハイネ 『ドイツ古典哲学の本質』 伊東勉訳、岩波文庫、ISBN 4003241851

関連項目[編集]
無神論論争
汎神論
汎神論論争



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ナルシシズム

ナーシシズム(英語 narcissism)、ナルシシスム(フランス語 narcissisme)(自己愛)とは自己の容貌や肉体に異常なまでの愛着を感じたり、自分自身を性的な対象とみなす状態を言う。ナルシシズムを呈する人をナルシシスト (narcissist) と言う。ナルシズム(narcism)、ナルシスト (narcist) とも言う。





ナルキッソス
日本では「うぬぼれ」「耽美」といったニュアンスで使われることが多い。



目次 [非表示]
1 概要
2 発症機序
3 ナルシシズムの動態 3.1 原始的防衛機構
3.2 家族の機能障害
3.3 分離と個体化
3.4 幼年期のトラウマと自己愛型の発達

4 研究の流派 4.1 フロイトとユング

5 関連項目
6 参考文献
7 外部リンク


概要[編集]

一次性のナルシシズムは人格形成期の6ヶ月から6歳でしばしばみられ、発達の分離個体化期において避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きである。

二次性のナルシシズムは病的な状態であって、思春期から成年にみられる、自己への陶酔と執着が他者の排除に至る思考パターンである。二次性ナルシシズムの特徴として、社会的地位や目標の達成により自分の満足と周囲の注目を得ようとすること、自慢、他人の感情に鈍感で感情移入が少ないこと、日常生活における自分の役割について過剰に他人に依存すること、が挙げられる。二次性ナルシシズムは自己愛性パーソナリティ障害の核となる。

ナルシシズムという語はフロイトの心理学において初めて使われた。語の由来はギリシア神話に登場するナルキッソス(Narcissus、フランス語ではナルシスNarcisse)である。ナルキッソスはギリシアの美しい青年で、エコーというニンフの求愛を拒んだ罰として、水たまりに映った自分の姿に恋するという呪いを受けた。彼はどうしても想いを遂げることができないので、やつれ果てた挙句スイセン(narcissus)の花になってしまった。

ナルシシズムの研究に貢献した心理学者には、メラニー・クライン、カレン・ホーナイ、ハイマン・スポトニッツ、ハインツ・コフート、オットー・カーンバーグ、セオドア・ミロン、エルザ・F・ロニングスタム、ジョン・ガンダーソン、ロバート・D・ヘア、スティーヴン・M・ジョンソンなどがいる。

発症機序[編集]

ナルシシズムが生じる原因は解明されていない。遺伝とも、育て方の問題とも、社会のアノミーが社会適応の過程を混乱させるためとも言われている。ナルシシズムについては研究が少ないばかりか、診断基準でさえも曖昧。

精神分析によると、誰でも子供のうちはナルシシズムをもっている。ほとんどの幼児は自分が世界の中心で、もっとも重要で、何でもできるし何でも知っていると感じる。一方、両親は神話の人物のように、不死で恐るべき力を持つが、子供を守り育てるためだけに存在するものとみなされる。このように、自他は観念的に位置づけられる。それを心理学のモデルでは原始的ナルシシズムと呼ぶ。

成長にしたがって、原始的ナルシシズムは現実に見合った認識に置き換えられてゆく。この過程が予測できないものだったり、過酷だったりすると、幼児の自尊心は深く傷つけられる。さらに重要なのは親(最初の他人)の助けである。親の助けが足りなくてナルシシズムを育ててしまった大人は、自尊心の働きで、自他を観念的にきわめて重く見ること(観念化)と、逆に軽く見ること(デバリュエーション)の間で揺れ動く。幼い頃に、自分にとって重要な人物に根本から幻滅し、落胆することがナルシシズムにつながると考えられている。

ナルシシズムの動態[編集]

原始的防衛機構[編集]

ナルシシズムは分離と関連した防衛機構である。ナルシシストは他の人、環境、政党、国家、民族といったものを、よい要素と悪い要素が混じったものとして見ることができず、観念化かデバリュエーションのどちらかに偏る。すなわち、対象を完全な善か完全な悪に振り分けてしまうのである。悪いアトリビュートは常に投影されるか、別のもので置き換えられるか、外的要因に帰せられる。よいアトリビュートは、膨張した(誇大に考えられた)自己認識を支持し、自信喪失や幻滅を遠ざけるものとして内面化される。

ナルシシストは自己愛備給、すなわち注目されることを求める。それによって傷つきやすい自尊心を制御するのである。

家族の機能障害[編集]

ナルシシストの多くは正常に機能していない家庭に産まれる。ナルシシストを生み出す家族の特徴は、家族に問題があることを内外に対して強く否定することである。このような家庭では虐待が珍しくない。子供は優秀になることを望まれるが、それはナルシシズムの目的に至る手段としてでしかない。両親は、貧困や未熟な感情、そしてナルシシズムといった素因をもち、そのために、子供の能力の限界と感情の要求を正しく認識し尊重することができない。その結果、子供の社会化は不完全になり、アイデンティティーに関わる問題が起こる。

分離と個体化[編集]

精神動態理論によると、両親、特に母が社会化を促す最初の要素になる。子供はもっとも重要な、人生のすべてに関わる疑問の答えを母に見出す。その疑問とは、自分はどれくらい愛されているのか、世界はどれくらい理解できるのか、といったことである。より後の段階では、精神的な結合に加えて身体的な結合を漠然と望む初期の性欲が、男の子なら母に向けられる。ここで母は概念化・内面化され、精神分析で「超自我」と呼ばれる良心の一部になる。

成長は母から離れることとエディプス・コンプレックスの解決、つまり性的関心を社会的に適切な対象へ向けなおすことを含む。これらは自立して世界を探求し、自我を強く意識するために重要である。どの段階が妨げられても、正常に分化することはできなくなり、自立した求心力のある自我は形成されず、他人への依存と幼稚症を呈する。ときには子離れしない母によってその障害が起こされることもある。

子供が親から離れ、それに続いて個体化をとげることは広く認められている。ダニエル・N・スターンは、著書“The Interpersonal World of the Infant” (1985年)で、子供は最初から自我をもち、自分と親を区別するといっている。

幼年期のトラウマと自己愛型の発達[編集]

幼年期の虐待とトラウマは、模倣戦略と、ナルシシズムを含む防衛機構を働かせる。模倣戦略のひとつは、内面に引きこもり、絶対に信頼できる源泉から、つまり自らの自我から満足を得ようとすることである。拒絶と虐待を恐れる子供は、他人に触れることを避け、愛と充足の妄想に逃げ込む。繰りかえし傷つけられることが自己愛性パーソナリティ障害の誘引になる。

研究の流派[編集]

フロイトとユング[編集]

ジークムント・フロイトはナルシシズムについて初めて一貫した理論を唱えた。フロイトは主体指導型リビドーから客体指導型リビドーへの移行が両親の働きに媒介されると説明した。この移行がうまく進まないと、神経症が引き起こされる。だから、子供は両親から愛されず軽んじられると、ナルシシズムに退行する。

一次性ナルシシズムの発生は、子供が頼るべきものを探して、手元にある自我を選び、満足したと感じるという、適応的な現象である。しかし、後の段階から二次性ナルシシズムに退行することは適応的でない。それはリビドーを「正しい」対象に向けられなかったことの現れである。

ナルシシズムが遷延すると、自己愛性神経症が成立する。ナルシシストは自我を刺激して喜びを得ることに慣れ、現実よりも妄想を、現実的な評価よりも誇大な自己認識を、普通の性行為よりもマスターベーションと性的妄想を好むようになる。

自己愛神経症とは精神分裂病を指す。フロイトは対象に一切のリビドーが向かっていない事をナルシシズムと命名したが、二次的なナルシシズムで最も病理なのは精神分裂病であると考えられ、それは空想などの対象表象などにも一切のリビドーが向かっていないような現象を指す。精神病においては自己の幻想の部分にリビドーや死の欲動が備給されており、故に現実とは全く関係ない「幻想」を見るのだと考えられている。

リーディング

リーディングは英語のreadingまたはleadingの日本語読みで、日本語では次の意味で使う。
特に語学教育における読解(reading)。
演劇界においては、朗読劇の意味。これに対して、普通に動きの伴う舞台劇はストレート・プレイと呼ぶ。
レディング(Reading) イギリス(イングランド)のバークシャーのレディングにある。 レディングFC - 上記リーディングを本拠地とするサッカーのクラブチーム

アメリカ合衆国ペンシルベニア州のレディング。

霊的な啓示によって、個人の深層心理や、過去の事象・体験等を読みとること。(reading の訳)アメリカのエドガー・ケイシー(Edgar Cayce)によるものが有名。
相手に自分の言うことを信じさせる話術。コールド・リーディングおよびホット・リーディング。
競馬における成績順位のこと。リーディング (競馬)の項を参照。(leading)

ロンドン塔

ロンドン塔(Tower of London)は、イギリスの首都のロンドンを流れるテムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれた中世の城塞である。

正式には「女王陛下の宮殿にして要塞」(Her Majesty's Royal Palace and Fortress)と呼ばれるように、現在も儀礼的な武器などの保管庫、礼拝所などとして使用されている。その景観から「ホワイト・タワー」とも呼ばれる。世界最大級のカット・ダイヤモンド「カリナン」はここで保管されている。



目次 [非表示]
1 沿革
2 ロンドン塔のカラス
3 ロンドン塔を構成する主な塔櫓・建物など
4 ロンドン塔で処刑された人々
5 世界遺産 5.1 登録基準

6 関連作品
7 関連項目
8 外部リンク


沿革[編集]

1066年にイングランドを征服したウィリアム1世が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、本体は約20年で完成した。その後、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成させた。

長い歴史の間に国王が居住する宮殿として1625年まで使われ、その間、14〜19世紀にかけては、造幣所、天文台でもあり、1640年までは銀行、13世紀から1834年までは、王立動物園でもあった。なお、ロンドン塔に最後に居住した王はジェームズ1世とされる。

また、身分の高い政治犯を幽閉、処刑する監獄としても使用されはじめたのは1282年のことで、やがて14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する処刑場となった。第二次世界大戦中の1941年から1944年にかけては、対英和平交渉を結ぶべくドイツから単独で飛来し捕虜となったルドルフ・ヘスが幽閉された。

現在もイギリス王室が使用している宮殿であるが、ロンドン観光の目玉になるほど観光客も多く、内部にある建物の幾つかは、世界最大のダイヤモンド「偉大なアフリカの星」など様々な歴史的展示物を陳列して、見学できるようになっている。1988年にはユネスコの世界遺産に登録されている。すぐ近くには、世界的にも有名な跳ね橋であるタワーブリッジがある。

観光の場合は、3月〜10月の日曜を除く日なら9時から18時まで、11月から翌2月までは9時から17時までで、日曜日は10時から入場可能で、入場料は大人15.00ポンド、学生12.00ポンド等となっている(2006年9月現在・最新の入場料は公式サイトで)。

護衛兵の制服は、オーダーメイドで1着50万円、季節により衣替えするので1人3着を所有し、乗馬で破れやすいので2年に1度新調すると2013年7月18日放送のミヤネ屋で解説された。

ロンドン塔のカラス[編集]





ロンドン塔のワタリガラス
ロンドン塔には、世界最大級の大きさであるワタリガラス(Raven)が一定数飼育されている。ワタリガラスは大型で雑食の鳥で、1666年に発生したロンドン大火で出た大量の焼死者の腐肉を餌に大いに増えたともいわれている(しかし、実際に記録されているロンドン大火で死者は5名だけである)。当然、ロンドン塔にも多数住み着いたが、チャールズ2世が駆除を考えていた所、占い師に「カラスがいなくなるとロンドン塔が崩れ、ロンドン塔を失った英国が滅びる」と予言され、それ以来、ロンドン塔では、一定数のワタリガラスを飼育する風習が始まったとされる。

またイギリス人に人気のあるアーサー王伝説において、アーサー王が魔法でワタリガラスに姿を変えられてしまったという伝説もあり、ワタリガラスを殺す事は、アーサー王への反逆行為とも言われ、古くから不吉な事が起こるとされている。

現在でも、ロンドン塔のカラスは「レイヴンマスター」と呼ばれる役職の王国衛士によって養われており、風きり羽を切られて逃げないようにされたものが、豚ガラを餌に半ば放し飼いで飼育されていたが、近年では鳥インフルエンザの罹患をおそれて、飼育舎を設置しての飼育に切り替えられた模様である。約25年の寿命を持つワタリガラスであるが、飼育数が一定数を割ると、野生のカラスを捕獲して補充していたが、最近では人工繁殖にも成功している模様である。なおワタリガラスは気性が荒いため、みだりに観光客がちょっかいを出すと襲われるケースもあるという警告がなされている。

ロンドン塔を構成する主な塔櫓・建物など[編集]
ホワイト・タワー:ロンドン塔の天守閣にあたる建物。
ミドル・タワー
ベル・タワー
トレイターズ・ゲイト(叛逆者の門)
セント・トーマス・タワー
ソルト・タワー
ブラッディー・タワー
クイーンズ・ハウス
ビーチャム・タワー
セント・ピーター・アド・ヴインキュラ礼拝堂
ウォータールー兵舎

ロンドン塔で処刑された人々[編集]





ロンドン塔とタワーブリッジ
ロンドン塔は監獄でもあったから、ここで処刑もしばしば行われた。以下はそのうち歴史に名を残す著名な人々のリストである。
1471年 ヘンリー6世ランカスター朝最後の王。薔薇戦争でヨーク朝のエドワード4世に捕らえられ、暗殺される。1483年 エドワード5世とヨーク公リチャード共にエドワード4世の王子。父の死後ロンドン塔に連れ込まれたまま行方不明となった。王位を簒奪したリチャード3世が殺害したとされる。1624年に二人の子供の骸骨が発見されている。1535年 トマス・モアヘンリー8世に反抗してタワー・ヒルで処刑された。1536年 アン・ブーリンヘンリー8世の2番目の王妃。姦通罪などにより城内のタワー・グリーンで処刑された。アンに着せられた姦通などの罪は濡れ衣であったとされ、ロンドン塔には今でもアン・ブーリンの亡霊が出ると噂される。1540年 トマス・クロムウェルヘンリー8世を支えた宰相。クロムウェルの推挙により4番目の王妃としてイングランドへ輿入れしてきたアン・オブ・クレーヴズをヘンリーが気に入らず(半年で離縁)、クロムウェル自身も王の不興を買い失脚。反逆罪に問われ、タワー・ヒルで処刑された。1542年 キャサリン・ハワードヘンリー8世の5番目の王妃。アン・ブーリンと同様に姦通罪に問われ、不貞の手引きをしたとされる女官のロッチフォード子爵未亡人ジェーン・ブーリンと共にタワー・グリーンで処刑された。1554年 ジェーン・グレイヘンリー7世の曾孫。エドワード6世の死後、有力貴族の思惑でイングランド女王に擁立されたが、メアリー1世に敗れ9日間で廃位。タワー・グリーンで処刑された。なお夫ギルフォード・ダドリーも同日タワー・ヒルで処刑された。1601年 エセックス伯ロバート・デヴルー
エリザベス1世の寵臣。反乱を企てたためタワー・グリーンで処刑された。

世界遺産[編集]

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準[1]からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

関連作品[編集]

ホット・リーディング

ホット・リーディング(hot reading)は、超能力や霊感によるリーディング(他人を読み取り、過去や現在を言い当てたり助言や将来の予言などをすること)に際して、事前に得た情報を利用すること。なぜ超能力者が、様々な事実を言い当てることができるかということを説明するために、こうした技法が紹介されることがある。



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1 概要
2 関連項目
3 外部リンク
4 参考文献


概要[編集]

リーディングを行う者は、その対象となる人(シッター、sitter)の情報を、事前調査やリーディング直前の話の立ち聞きに至るまで、あらゆる方法で行うことがある。こうした調査では自分だけでなく、弟子や協力者を動員することもある。自称・霊能力者や自称・超能力者同士で膨大な「顧客名簿」を作成し、依頼に来た者の悩みなど背後関係に関する情報を共有することさえある。

現代のテレビ番組に登場する超能力者や霊能力者には、この手をよく使うものがいる。例えば日本のテレビバラエティで有名な宜保愛子は、ロンドン塔を霊視する際に夏目漱石の『倫敦塔』をあらかじめ読んでいた。

また、超能力者や霊能力者たちは、リーディングの受付に予約制を導入し、リーディングの日を受付の数週間後に設定させ、その間に予約者の家にセールスマンなどを装った人物を派遣して、情報収集をさせることもある。こうした調査で、周囲の住民や家族からだけでなく、住む家だけからも予約者の人となりや生い立ちを広く得ることもできる。そうして、自称「霊能者」は十分な情報を受けた状態で相手を前にするのである。

超能力者が様々な事実を言い当てる際にホット・リーディングとコールド・リーディングの技法と組み合わせて使われることが少なくない。

コールド・リーディング

コールド・リーディング(Cold reading)とは話術の一つ。外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけで相手のことを言い当て、相手に「わたしはあなたよりもあなたのことをよく知っている」と信じさせる話術である。「コールド」とは「事前の準備なしで」、「リーディング」とは「相手の心を読みとる」という意味である。



目次 [非表示]
1 概要
2 技法
3 コールド・リーディングの利用
4 知らずに使うコールド・リーディング
5 参考文献
6 関連項目


概要[編集]

コールド・リーディングは、詐欺師・占い師・霊能者などが、相手に自分の言うことを信じさせる時に用いる話術である。しかし、その技術自体はセールスマンによる営業、警察官などの尋問、催眠療法家によるセラピー、筆跡学や筆跡診断、恋愛などに幅広く応用できるものであり、必ずしも悪の技術とは言えない。

たとえ相手に対する事前情報が全くなくても、コールドリーダーは相手の外観に対する注意深い観察と、コールド・リーディング特有の話術によって、いくらでも相手の情報を掴むことができるのである。対象者への観察力や会話の説得力、相手に与える安心感・信頼感…などが必要であり、高い技術と経験が必要になる。

探偵を使ったり、占いの待合室で助手が世間話をしたりして事前に相手のことを調べておいた上で、あたかも本当に占いや霊感、超能力などで相手の心を読んだと見せかけるホット・リーディングはコールド・リーディングとは異なる。超能力者が様々な事実を言い当てる際にホット・リーディングとコールド・リーディングの技法と組み合わせて使われることが少なくない。

知り合いなどある程度は情報を持っている相手に対してコールド・リーディングを行うことは、ウォーム・リーディングと呼ばれる。

コールド・リーディングによく似たもので、ショットガンニング(Shotgunning)という技術も、超能力者や霊能者を自称する者が用いる技術である。彼らは実演する相手に大量の情報を話すが、そのうちのいくつかは当たるため、相手の反応を見計らいながらその反応に合わせて最初の主張を修正し、全てが当たったように見せかける。エドガー・ケイシー(Edgar Cayce)、シルヴィア・ブラウン(Sylvia Brown)、ジョン・エドワード(John Edward)、ジェイムズ・ヴァン・プラーグ(James Van Praagh)らは全てショットガンニングの疑いがもたれている。

技法[編集]
1. 対象者の協力を引き出す実際のリーディングを始める前に、読み取る者は相手の協力を引き出そうとする。「私には色々なイメージが見えるのですが、どれも明確ではないので、私よりあなたの方が意味が分かるかもしれません。あなたが助けてくだされば、二人で協力してあなたの隠れた姿を明らかにできます。」これは相手から、より多くの言葉や情報を引き出そうという意図である。2. 対象者に質問する分からないように相手をよく観察しながら、誰にでも当てはまりそうなごく一般的な内容から入る。「あなたは、自信がなくなる感じのすることがあるようですね。特に知らない人と一緒にいるときなどです。そのように感じますがどうですか?」(バーナム効果を参照)または、観察に基づき、より具体的にみえる内容(実は具体性はあまりない)に踏み込んで推測を行う。「私には年老いた婦人があなたのそばによりそっているイメージが見えます。少し悲しそうで、アルバムを持っています。このご婦人はどなたかお分かりになりますか。」「私はあなたの痛みを感じます。多分頭か、もしくは背中です。」3. 対象者の反応をさぐる相手はこれら具体性のない推測に対して、びっくりしたり思い当たることを話したりするなどの反応をすることで、リーディングを行う者になんらかの情報を明かしてしまうことになる。これを基礎に、リーディングを行う者はさらに質問を続けることができる。推測が次々当たれば、相手はリーディングを行う者への信頼をどんどん深めてしまう。もし相手に推測を否定されたとしても、態度を崩したりうろたえたりせず、威厳をもって「あなたは知らないかもしれないが、実は私にはそのように見えるのです」と言い張るなど、信頼を損なわずうまく切り返す方法がある。4. さらに情報を引き出す一般的に、この間にしゃべり続けるのはリーディングを行う者だが、情報はその相手からリーディングを行う者へ、一方的に流れ続ける。年齢、服装、顔色、しぐさ、口調、雑談やリーディングに対する顔や言葉の反応など、すべてがリーディングを行う者にとって、相手を知ることのできる情報になる。5. 次のステップに移行するこうして、リーディングを行う者は相手に関する情報の精度を高め、相手は何もしゃべっていないのに、自分の奥深くまで全てが言い当てられてしまった気分に陥る。こうなれば、相手はリーディングを行う者による「将来に関する占い」、「心霊による伝言」、「未来に関する予言」、「霊力のある商品の購入の薦め」などの不確かな結論まで信じてしまう。
コールド・リーディングの利用[編集]

コールド・リーディングには確立した技術がある。多くの演者がこの技術を習っており、能力者を装って一対一の占いを行ったり、ジョン・エドワードのように「死者と対話する」などと題した公開の場で、観客に死んだ近親者からのメッセージを披露したりする。

演者の中には、観客について言い当てて大喝采を受けてからはじめて、実は超能力は使っておらず、心理学とコールド・リーディングの知識だけあればできるとばらすものもいる。たとえば、心理学者でコールド・リーディングの研究者であるイアン・ローランド(Ian Rowland)、あるいはマーク・エドワード(Mark Edward)、リン・ケリー(Lynne Kelly)、カリ・コールマン(Kari Coleman)、心理学を利用した手品で知られるデレン・ブラウン(Derren Brown)などである。

知らずに使うコールド・リーディング[編集]

自称・能力者によるコールド・リーディングは、詐欺や詐取を意図して行うものばかりではない。中には全く善意の者もいる。かつてニューエイジの実践家だったカーラ・マクリーンは、「私は、自分がずっとコールド・リーディングをしてきたとは、理解していなかったのです。私はコールド・リーディングについて習ったこともないし、誰かを騙す気もありませんでした。私はただ、知らず知らずの間に技術を身につけていたのです」と語っている。[1]

またフィクションの世界では、シャーロック・ホームズなどが外観や遺留品だけで、相手の特徴を言い当てていたが、これもコールド・リーディングの手法である。捜査機関が行うプロファイリングとも通じる技術でもある。

ほかにもテレビドラマ「トリック」、「クロサギ」などでも使われている。

参考文献[編集]
石井裕之 『一瞬で信じ込ませる話術コールドリーディング』 フォレスト出版、2005年、ISBN 4-894-51196-7
石井裕之 『なぜ、占い師は信用されるのか?』 フォレスト出版、2005年、ISBN 4-894-51208-4
石井裕之 『図解版 なぜ、占い師は信用されるのか?』 フォレスト出版、2006年、ISBN 4-894-51224-6
佐藤六龍 『「占い」は信じるな!』 講談社〈講談社プラスアルファ新書〉、2008年、ISBN 978-4062724951

タミル語

バーナム効果(バーナムこうか、英: Barnum effect)とは、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象。

1956年にアメリカ合衆国の心理学者、ポール・ミール(P.E.Meehl)が、興行師 P・T・バーナムの "we've got something for everyone"(誰にでも当てはまる要点というものがある)という言葉に因んで名付けた。アメリカの心理学者バートラム・フォア(en:Bertram Forer)の名をとってフォアラー効果(Forer effect)ともいう。被験者に何らかの心理検査を実施し、その検査結果を無視して事前に被験者とは無関係に用意した「あなたはロマンチストな面を持っています」「あなたは快活に振舞っていても心の中で不安を抱えている事があります」といった診断を被験者に与えた場合、被験者の多くが自分の診断は適切なものだと感じてしまうが、この現象を「バーナム効果」と呼んでいる。

フォアの実験[編集]

1948年、フォアは学生たちに性格について心理検査を実施し、その検査の結果に基づく分析と称して下記の文を与えた。

あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っており、それにかかわらず自己を批判する傾向にあります。
また、あなたは弱みを持っているときでも、それを普段は克服することができます。
あなたは使われず生かしきれていない才能をかなり持っています。
外見的には規律正しく自制的ですが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向があります。
正しい判断や正しい行動をしたのかどうか真剣な疑問を持つときがあります。
あなたはある程度の変化や多様性を好み、制約や限界に直面したときには不満を抱きます。
そのうえ、あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、十分な根拠もない他人の意見を聞き入れることはありません。
しかし、あなたは他人に自分のことをさらけ出しすぎるのも賢明でないことにも気付いています。
あなたは外向的・社交的で愛想がよいときもありますが、その一方で内向的で用心深く遠慮がちなときもあります。
あなたの願望にはやや非現実的な傾向のものもあります。

フォアはこの文章を星座占いの文章を組み合わせて作文したのであった。フォアは学生たちに分析がどれだけ自分にあてはまっているかを0(まったく異なる)から5(非常に正確)の段階でそれぞれに評価させた。このときの平均点は4.26であった。その後、フォアはどの学生にも上記のようなまったく同じ分析を与えていたと種明かしをした。

効果の影響の変化[編集]

次のような条件を満たす時、被験者はテストの正確さにより高い評価を与える事が後の研究でわかっている。
被験者がその分析は自分にだけに適合すると信じている
被験者が評価者の権威を信じている
分析が前向きな内容ばかりである

詳しくは、下記文献リストにあるディクソンとケリーによる1985年の論文を参照[1]。

文献[編集]
Forer, B. R.(1949). The fallacy of personal validation: A classroom demonstration of gullibility. Journal of Abnormal and Social Psychology, 44, 118-123.
Ulrich, R.E., Stachnik, T.J., & Stainton, S.R.(1963). Student acceptance of generalized personality interpretations. Psychological Reports, 13, 831-834.
Dickson, D. H. and Kelly, I. W.(1985). The 'Barnum Effect' in Personality Assessment: A Review of the Literature. Psychological Reports, 57, 367-382.

脚注[編集]

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1.^ 松岡圭祐の公式サイトには、かつてバーナム効果を利用した血液型性格判断サイト「究極の血液型心理検査」のページがあった(2013年2月現在当該ページなし)。このページは松岡の読者よりも、検索サイト経由などで占い目的にやってくる一般の人々に多く利用されていて、最後に「当たっていると思う」「当たっていないと思う」の2択アンケートが行われ、常時8〜9割の人々が「当たっていると思う」と回答している。実はここで表示される性格判断結果は、血液型とは無関係なランダム表示であり(同じパソコンで2度以上試みると同じ結果しか表示されなくなる)、いかに多くの人々がバーナム効果にだまされやすいかを測定・実証している。この試みは小説「ブラッドタイプ」の中で描かれる実証方法をほぼそのまま再現したもの。なお、当該のページには小さく This system depends on Barnum effect(このシステムはバーナム効果に依存している)と記されている。

タミル語

タミル語(タミルご、தமிழ் Tamiḻ)は、ドラヴィダ語族に属する言語で、南インドのタミル人の言語である。同じドラヴィダ語族に属するマラヤーラム語ときわめて近い類縁関係の言語だが、後者がサンスクリットからの膨大な借用語を持つのに対し、タミル語にはそれが(比較的)少ないため、主に語彙の面で隔離されており意思疎通は容易でない。インドではタミル・ナードゥ州の公用語であり、また連邦レベルでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語のひとつであるほか、スリランカとシンガポールでは国の公用語の一つにもなっている。世界で18番目に多い7400万人の話者人口を持つ。1998年に大ヒットした映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』で日本でも一躍注目された言語である。

「タミール語」と呼称・表記されることもあるが、タミル語は母音の長短を区別する言語であり、かつ Tamiḻ の i は明白な短母音である。そのため、原語の発音に忠実にという原則からすれば明らかに誤った表記といえる。タミル(Tamiḻ)という名称は、ドラミラ Dramiḻa(ドラヴィダ Dravida)の変化した形という説もある。Tamiḻ という単語自体は sweetness という意味を持つ。

なお、ドラヴィダとは中世にサンスクリットで南方の諸民族を総称した語で、彼らの自称ではなく、ドラヴィダ語族を確立したイギリス人僧侶 Caldwell による再命名である。



目次 [非表示]
1 地域
2 歴史
3 文字
4 発音
5 文法 5.1 品詞
5.2 数詞 5.2.1 基本数詞


6 他言語からの影響
7 日本語クレオールタミル語説
8 タミル映画と日本での認知
9 その他
10 脚注
11 関連書籍
12 関連項目


地域[編集]

南インドのタミル・ナードゥ州で主に話されるほか、ここから移住したスリランカ北部および東部、マレーシア、シンガポール、マダガスカル等にも少なくない話者人口が存在する。これらはいずれも、かつてインド半島南部に住んでいたタミル人が自ら海を渡ったり、あるいはインドを植民地化した英国人がプランテーションの働き手として、彼らを移住させた土地である。スリランカには人口の約10%を占めるイスラム教徒、スリランカムーア人が存在するが、彼らの母語もタミル語である。

歴史[編集]

タミル語はドラヴィダ語族の中で書かれた言語としては最も古く、現在残る文献の最も古いものの起源は紀元前後までさかのぼるといわれる。

文字[編集]

詳細は「タミル文字」を参照

現代タミル語は、主として独自の文字であるタミル文字で表記される。詳しくはタミル文字の項目を参照のこと。 なおイスラム教徒は、かつてタミル語をアラビア文字で書き記していた(arwiを参照)。現在はイスラム教徒もタミル文字を使用している。

発音[編集]

北インドの多くの言語が三母音(サンスクリット等で母音/半母音として扱われるrやlを除いて)を基礎としており、ヒンディー語等ではe、oが常に長母音として扱われる。それに対してタミル語の基本はa, i, u, e, oの五母音であり、それに長短の別と二重母音(aiとau)が加わることで計12の母音を区別することになる。

子音は有気音と無気音を区別しない他、有声音(日本語で言う濁音)と無声音(同じく清音または半濁音)の間の対立もない。ただ単語の先頭や同子音が重なった場合に無声音、単語の中途、同系の鼻音の後などに有声音で発音される傾向がある(これらの点は日本語の連濁と相似である)。

タミル語で特徴的なのは、日本語で「ラ行」にあたる音、英語を含む西洋語なら r や l の流音に相当する音に、五種の区別が存在することである。日本語で「ン」にあたる音、鼻音にも4種の区別がある。このうち、l は ṟ・ṉ と互換性があり、その ṉ も ṟ と互換性がある。朝鮮語・韓国語で音節末の l と語中の r が違う音素であるのに、同一の形態素として扱っているのと対照的である。更に、反り舌の ḷ と l、ṟ と r(/j/ と同じ調音位置)が入れ替わっても意味の変わらない単語がある。ṟ は語中の位置によって /r, t, d/ と三様に発音される。

また日本語を母語とする者にとって習得が難しいとされるものに、反舌音(舌の先を硬口蓋まで反らせて発音する一連の子音)があるが、こちらは他のインド系言語にも共通する特徴である。

文法[編集]

サンスクリットの影響を受けて古くから文法が記述されており、現在の正字法は詩論を含む文語文法書であり13世紀に書かれた『ナンヌール』などに基づいている。

語順は日本語と同様、基本的にはSOV型。OSV型となる場合もあるが、動詞に接辞をつけて文相当の意味を持たせる場合はSOVが基本。ただし、マラヤーラム語と同様に、主部だけが文末に来るOVS型も少なからず用いられる。倒置表現とされる場合もあるが、新聞等にも見られ、修辞技法として意図されていないことが明らかとなっている。

修飾語は被修飾語の前につく。

主(格)語はしばしば省略されるが、日本語のように文脈でわかるからというより、スペイン語などのように動詞に人称が示されるため、省略されるのである。コピュラ(英語のbe動詞、日本語の「だ」)は用いない。所有を表すには「私は…を持っている」でなく「私には…がある」と表現する。

複文を作るための関係詞はなく、日本語と同じく「水を-飲む-人」、「私が-見た-物」という順でつなげばよい。ただし、文芸作品ではサンスクリット語の影響を受けた関係節表現が見られる。たとえば、サンスクリット語の「यथा…तथा…」の構文に従い、「எப்படி…அப்படி…」と表現するような実例がある。

タミル語は他のドラヴィダ諸語と同じく膠着語であり、単語は語根にいくつかの接辞(ほとんどは接尾辞)を付加して作られている。接辞は単語の意味などに変化を加える派生接辞と、文法カテゴリ(人称、数、法、時制など)により変化する活用接辞とに分けられる。膠着の長さにはあまり制限はなく、例を挙げると、 pōkamuṭiyātavarkaḷukkāka (「行けない人々のために」という意味)は、
pōka(行くこと)- muṭi(できる)- y(調音)- āta(否定)- var(人々)- kaḷ(複数)- ukku(ために)- āka(「ために」の強調)
と分析できる。

詩歌(サンガム)には、五七五七五七……七、五七五七七、五七七の音節を持つものがある。係り結びもある(下記品詞、係助詞の項参照)。

品詞[編集]

名詞および代名詞は名詞クラス(印欧語の性のようなもの)により分類される。まず2つの超クラス(tiṇai)に分類され、さらに全部で5つのクラス(paal :「性」の意味)に分けられる。超クラスの1つは "rational" (uyartiṇai) で、人および神がここに含まれ、さらに男性単数・女性単数・複数(性によらない)に分けられる。複数形は単数に対する敬語としても用いられる。もう1つは "irrational" (aḵṟiṇai) で、その他の動物・物体・抽象名詞がここに含まれ、単数・複数(性によらない)に分けられる。このクラスにより代名詞が使い分けられるほか、主語のクラスによって動詞の接尾辞が変化する。

代名詞の前に動詞(「…する人」など)や形容詞(「よい人」など)を付加して複合名詞にする。この場合など、下の例(「…する人(物)」)のように、paal が接尾辞によって示される。

peyarccol (名詞)
uyartiṇai
(rational) aḵṟiṇai
(irrational)
āṇpāl
男性 peṇpāl
女性 palarpāl
複数の人 oṉṟaṉpāl
単数の物 palaviṉpāl
複数の物
例:タミル語「…した人(物)」
ceytavaṉ
した男 ceytavaḷ
した女 ceytavar
した人々 ceytatu
した物(単数) ceytavai
した物(複数)

また格を表すのにも日本語の助詞に相当する接尾辞が用いられる。伝統的にはサンスクリットに倣って8格に分類される(が実際には複合的なものもあり、必ずしも8格に収まらない)。

また日本語の「こ・そ・あ・ど」にちょうど相当する4種の接頭辞i、a、u、e がある。vaḻi 「道」に対して、ivvaḻi 「この道」、avvaḻi 「あの道」、uvvaḻi 「その道」、 evvaḻi 「どの道」。ただし、uは古語および擬古体で用いられ、普通の現代語では用いられず、「その」はaにより代表される。

動詞は、人称、数、法、時制および態を示す接尾辞によって活用する。たとえば aḷkkappaṭṭukkoṇṭiruntēṉ 「私は滅ぼされんとしていた」は次のように分析される:


aḷi

kka

paṭṭu

koṇṭiru

nt

ēn

動詞語根
滅ぼす 不定詞マーカー
受動態の態マーカーへの接続形 態マーカー
受動態 態マーカー
過去進行 時制マーカー
過去 人称マーカー
一人称
単数

人称と数は代名詞の斜格(語幹)に接尾辞をつけた形で示される(例では ēn)。このような人称マーカーはアイヌ語にもある(アイヌ語では an)。三人称はクラスにより変化する。さらに時制と態も接尾辞として示される。

態は補助動詞によって表現される。受動態のみならず、主動詞に対し進行などの動詞のアスペクトを表すことができる。

動詞には強変化と弱変化の対応する2種あるものがあり、おおよそ強変化は他動詞、弱変化は自動詞に対応する。たとえば、「aḷi」(強変化「滅ぼす」:aḷikka、弱変化「滅びる」:aḷiya)、「ceer」(強変化「集める」:ceerkka、弱変化「集まる」:ceera)など。 また、語幹が対応する一組の動詞で他動詞と自動詞に対応しているものもある。たとえば、「aaku」(成る)に対する「aakku」(作る←成す)、「aṭnku」(従う)に対する「aṭkku」(従える)など。

時制には過去・現在・未来があるが、古語では現在形が見られず、未来形により表現されていた。未来形という名称にもかかわらず、実際の文章では「〜したものだった」という過去の習慣や、「〜する」という現在の意味、「〜するだろう」という推量の意味にも用いられ、未来の意味以外にも用法は広い。法は命令法、願望法のほか、話者の態度(事象やその結果に対する軽蔑、反発、心配、安心など)を示すことができる。

このほか、準動詞(動名詞や種々の分詞など)も動詞語幹に接尾辞をつけて作られる。

形容詞と副詞の区別はなく(uriccol という)、名詞を基本として接尾辞をつけて形容詞または副詞とするのが普通(独立の形容詞・副詞も一部ある)。ほかに接続詞(iṭaiccol )がある。 係助詞(clitic)があり、名詞、動名詞・分詞名詞・(ē)、副詞・副詞+(ē) などで結ぶ。

数詞[編集]

通常の数詞に使われる文字の他、タミル語では10、100、1000には特別な文字を使う。参考のために上記に加えて、日、月、年、負債、残高、同上、貨幣単位(ルピー)、数詞を以下に示す。


0

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

100

1000

௦ ௧ ௨ ௩ ௪ ௫ ௬ ௭ ௮ ௯ ௰ ௱ ௲








負債

残高

同上

ルピー

数詞

௳ ௴ ௵ ௶ ௷ ௸ ௹ ௺

基本数詞[編集]

以下に0から9までの基本数詞の読みを示す。


現代タミル文字

アラビア数字

タミル語とその発音

0 0 சுழியம் (Suzhiyam)
௧ 1 ஒன்று (Ondru)
௨ 2 இரண்டு (Irendu)
௩ 3 மூன்று (moondru)
௪ 4 நான்கு (nangu)
௫ 5 ஐந்து (ainthu)
௬ 6 ஆறு (aaru))
௭ 7 ஏழு (ézhu)
௮ 8 எட்டு (ettu)
௯ 9 ஒன்பது (onepathu)

他言語からの影響[編集]

タミル語にはきわめて近縁のマラヤーラム語という言語があるが、両者は同一の言語の方言の関係にあるとは必ずしも言いがたい。それはマラヤーラム語は北インドのサンスクリット語、プラークリット、ヒンドゥスターニー語をはじめとするインド・アーリア語族の言語から語彙、文法面での多大な影響を受けており、その他アラビア語、ペルシア語、ポルトガル語、英語などの語彙を借用しているため、両者の意思疎通が容易でないからである。

但しタミル語はドラヴィダ語族の諸語の中では最も上記の言語からの影響が少ない部類に入るが、サンスクリットやヒンドゥースターニー語などからの借用語は少なからずある。

日本語クレオールタミル語説[編集]

国語学者大野晋は、日本語の原型がドラヴィダ語族の言語の影響を大きく受けて形成されたとする説を唱えている。ただし、この説には系統論の立場に立つ言語学者からの批判も多く、この説を支持するドラヴィダ語研究者は少ない。

詳細は「大野晋#クレオールタミル語説」を参照

タミル映画と日本での認知[編集]

日本でも、1990年代のアジア映画ブームの中で、インド映画が紹介された。その中でも特に『ムトゥ 踊るマハラジャ』などのタミル映画作品がピックアップされたことなどから、昨今ではタミル語を学ぶ日本人も増えてきている。

その他[編集]

タミル語は7000万人もの話者を持つ言語であり、インド国内のみならず世界的に見ても大言語である。南アジア、東南アジアのいくつかの国で公用語にも採用され、豊富な古典文語も持つ。これだけの影響力のある言語でありながら、日本では本格的なタミル語文法学習の書籍や辞書、音声教材などがほとんど出ていない(小さい書籍が数点出版されているにとどまる)。かなりマイナーな言語も扱う大手の語学専門出版社でも、タミル語の学習書はあまり出版されていない[1]。その一方で、タミル語と日本語の関連性を扱った書籍は多数出版されている。そのような現状から、タミル語学習の書籍を出版すると、批判の多い仮説を扱った書籍と混同されるのを恐れて、大手の出版社はタミル語の学習書を出版するのを躊躇っているのではないかといった都市伝説さえ生まれた。しかし実は、タミル語を学習する書籍は英語などの他言語で出版された物でも決して豊富とは言いがたい。

アガスティア

アガスティアは、紀元前3000年頃にインドに存在していたと言われている伝説上の人物。

インドではリシ(聖仙)とされており、鹿の皮に古代タミル語で書かれた予言を書き残したとされている。この予言は弟子によってパルミラ椰子(Palmyra)の葉に書き写されて残されており、この世に存在するすべての個人に関する予言が残されている(または、葉を見に来る人物を予見しその人物の葉を残した)とされている。現在南インド十数か所にアガスティアの葉を管理し、来訪者に見せるアガスティアの館が存在している。ただしこのアガスティアの葉に関しては真偽が疑わしいともされている。

アガスティアの葉

アガスティアの葉(-は)は、紀元前3000年頃に実在したとされるインドの聖者アガスティアの残した予言を伝えるとされる葉のこと。



目次 [非表示]
1 概要
2 葉の検索
3 葉の種類
4 予言の内容について
5 活用
6 疑問
7 関連項目


概要[編集]

聖者アガスティアが太古に残した個人の運命に対する予言が書かれているとされる葉。南インドのタミル語文化圏に保管されている。その葉は、古代タミル語で書かれており、ナディ・リーダーと呼ばれる人たちが現代タミル語に翻訳する。この葉を読むことができるのは、10歳前後から6年以上かけて特別な訓練を受け、代々ナディ・リーダーとして運命づけられた人だけという。その数は、総数800人といわれ、読むレベルに個人差があるため、信頼できるナディ・リーダーを選ばないとアガスティアの予言が曲解される可能性が否定できないとされる。日本においては、1993年青山圭秀の著作『理性のゆらぎ』で一躍ブームとなり、マスコミも大々的に取り上げたが、トリックであると指摘する懐疑説が広がったこともあり、現在そのブームは沈静化している。しかし、変化が速くて先行きの見えない不安な時代に、自分の未来が描かれているとされるアガスティアの葉に助けを求める人は後を絶たない。

葉の検索[編集]

アガスティアの葉の取り出しに際して男性の場合は右手の親指、そして女性の場合は左手の親指の指紋が必要となる。指紋の部分だけをナディ・アストロジャーに渡し、ナディ・アストロージャーは、それを持って葉の保管されている倉庫へと1人入っていく。その時点で相手にはプロフィールはおろか、依頼者の名前すら話さない。向こうもそういった情報は一切必要としない。葉は、指紋のパターンによって108種類に分かれていて、依頼者の指紋のパターンの葉が集められた束を持って、再度現れる。次に、その束に中に、依頼者の葉があるかどうかを検証するプロセスが始まる。

例えば「きょうだいは1人である」「それは、女性である」「父親は、生きている」こういった簡単なことに対して、依頼者が「イエス」「ノー」で答えていく。少しでも違えば、次の葉に進む。その束すべてが合わない場合には、別の葉の束を再度取り出しに行くことになる。見つかれば、最後には「彼の名前は〇〇」といった具体的に依頼者の名前、あるいは両親や祖父母、離婚した相手の名前など具体的な固有名詞を言い当てる。さらに条件を詰めていき、依頼者の生年月日を述べ、葉の検索の作業は終了となる。何分で葉が見つかるかは、開けてみないと分からないが、長い場合には、5時間かけても見つからなかった場合もあれば、3〜4の質問の後、すぐに本人の名前が出てきた例もある。

実際に現地に行くと、イエスノーだけではなく、「あなたの名前は4音からなる」「いいえ」「では3音」「イエス」「最初の名前の音は、アイウエオからなる」「いいえ」「じゃあ、カキクケコのどれかだ」「イエス」……というような調子で行われることもある(ヴァティスワランコイル・シバサミーの館)これらの質問から、結果として導かれる答えを「もともと書いてあった」と主張するアガスティアの館もあるようだ。

葉の種類[編集]

アガスティアの葉は、一人に対して普通14種類存在するが、それ以外にも特別な葉がある。第1の葉に人生全般が記載されていて、まずこの葉を開くことから運命を知る作業が始まる。その内容は、個人差があるが、指紋の名前や特徴、生まれた時の星の配置から今生の基本的性格が述べられ、これまでの人生を軽く概観した後、現状と未来についての解説が始まる。多くの場合、大きな流れだけが語られるのでピンと来ない人も多いという。その場合には、第2から第12の葉を読むことで明確にする必要があるらしい。あるいは、プラチナ(質問)の葉を開けることで、どんな質問にもアガスティアが答えてくれるという。第1章の中で、アガスティアにだいたい共通して勧められることは、第13章と第14章を開けることである。第13章は、前世のカルマ(悪行)について語られ、その悪影響の厄払いをするために、何が必要か書かれている。第14章は、今生における悪運から身を守るために「御守り」を作成し、身につけることが勧められる。それには、別途料金がかかり、その額はアガスティアの葉を開けるまで分からない。それが高額で、アガスティアの勧めを拒む人も少なからずいるという。
第1章:生まれてから死ぬまでのおおまかな人生
第2章:財産、家族、家庭生活、教育、視覚
第3章:兄弟や姉妹関係
第4章:母親との関係、土地、家、車、財産、人生の喜び
第5章:子供の誕生、子供に恵まれない理由など子供に関すること
第6章:病気、借金、訴訟、敵
第7章:結婚の時期や問題点、配偶者との関係
第8章:死期、事故、寿命
第9章:父親との関係、富、幸運、健康、信仰
第10章:職業、仕事、転居
第11章:利益、再婚について
第12章:出費、政治活動、外国との関係、来世、解脱
第13章:前世とそのカルマ(罪)とその解消方法
第14章:今生でのトラブルを回避するお守りの作成方法

予言の内容について[編集]

アガスティアの葉に書かれたとおりの人生を送る人もいれば、違った人生を送る人もいるという。そこからアガスティアの予言に対して不信感を抱く人たちが出てくるが、もともとアガスティアは、運命を決め付けるために予言をしているのではなく、道に迷わないようにナビゲーションを行っているだけだという。どんなバラ色の未来を描かれても、何の努力もせずにその未来がやってくるわけではないが、未来はすでに決まっているのだと誤解する人がいて、利用者は気をつける必要があるという。インドでは、このような誤解がほとんどなく、90%以上の確率で、葉に書かれたとおりに実現していくらしい。素晴らしいことが書かれていれば、それを神に感謝して、実現に向けて努力するのが当たり前であるインドに対して、日本での実現率は、かなり低いらしい(一説によれば30%程度)。素晴らしいことが書かれていても感謝することなく、疑いながら何の努力もしないので、実現しない確率が高いらしい。そして実現しなかったときに、葉に書かれていたことは嘘だったと思う人が、日本ではかなり多いらしい。運命は、決まっているのではなく、自分で作って行くものだということを理解しなければ、葉に書かれた預言を無駄にしていることになるから、気を付ける必要があるという。アガスティアは、人生の75%(50%の南インド占星術+25%の前世のカルマ)を知っているだけで、残り25%は人間に自由意思に任せている、ことを理解した上で活用しないと、時間もお金も無駄にすることになるので注意する必要があるらしい。

活用[編集]

アガスティアの葉は、現地では安価で読むことができ、南インドでは、結婚相手や進路などで迷いがあるときに気楽に活用しているという。特に政治家や大企業の経営者などは、選択に迷ったときこの葉を活用する人が多いという。日本人が葉に出会うことは、容易ではなく、交通の便の悪い現地に行き、タミル語から英語に通訳できる人を雇わなければならない。そのため多数の代行業者が、通訳を雇い、代行業務を行っている。近年になって、アガスティアの命により、ナディー・リーダーがアガスティアの葉を持って、日本を訪れ、日本でも目の前で自分の葉を見ることができるようになったという。

疑問[編集]
ナディ・リーダーは葉を探す際に依頼者に質問をする。その数は、5時間かかる場合、1000以上の質問に及ぶ(すぐに見つかる場合には、数問で終わる)。生年月日、職業、家族関係など個人情報を詳細に聞かれるために、ナディ・リーダーが語る個人の運命は、それによって導き出されたものではないか、という疑問が残る。批判本には、偽名を名乗ったり、質問にわざと違う答えを返すとそれに基づいた葉が出てきた、という話があるようだが、そもそも質疑が正しくないのでは批判になりようがない。本物の葉を見つけるには、本当の情報を提供する、というのが大前提となっている。
また、これらの館はナディ・リーダーの解説のために葉の検索料金と翻訳料を払う。外国人が行った場合は通訳料も加わる。こうした料金はえてして高額であるが、5時間かけても見つからない場合、無料となることを考えると妥当なのかもしれない。最初の葉に書かれている「運命」はきわめて凡庸であり誰にでも起こりうるようなこと(バーナム効果)が多いとされている。より詳しく知るためには、第2から第12の葉を開ける必要がある。
日本に紹介された当初、300万円もかかるツアーが決行されたこともあり、ビジネス目的で行う業者も出てきた。海外渡航の際に旅行代理業者が渡航者の個人情報を取得できることを考えれば、その場合の仕掛けは明らかである。今では、多数のアガスティアの葉検索代行サービス業者があり、安価で、現地に行かなくても「運命」がわかるというが、それが本物であるかどうかを疑う人や、自分の館が一番なのだと主張する業者も現れて、信頼を損ねる一因となっている。アガスティアの葉の信憑性を100%得たいという方は、現地まで赴くか、日本に在住されているナディー・リーダーに目の前で葉を開けていただき、自分で確かめる以外にないという。
ナディー・リーダーの中には、依頼者が中身を解読できないことをいいことに、葉に書かれてはいない料金を別に請求するということもあるらしい。信頼の置ける業者を選ぶことが大切である。
その他、懐疑論はアガスティアの葉に関する否定的な体験を綴った本「アガスティアの葉の秘密」パンタ笛吹・著(ISBN4-88481-389-8)を参照。

アカシックレコード

アカシックレコード、アカシャ年代記(英: Akashic Records、アーカーシックレコードとも)は人類の魂の活動の記録の概念であり、アーカーシャに映る業(カルマ)の投影像とされる[1]。一般に話題に上るものは、暗黙的に、様々な問いかけに回答するエドガー・ケイシーのものを指しており、用語の影響力の及ぶ範囲では神智学上に定義されたものである[2]。

記録のあるアカシャ(サンスクリット: आकाश、アーカーシャ、阿迦奢)の漢訳は「虚空」であり、「上空」、「空間」を意味し、地と対をなす[注 1]一切を存在させる六界の一つ[注 2]である。虚空は目視できないが、存在が音によって確認され[注 3]、創造と帰滅または輪廻転生を象徴する蛇として象徴されることもある[3]。



目次 [非表示]
1 歴史 1.1 原型 - 「因果律」と「生命の書」
1.2 発祥の過程・神智学にて
1.3 顕在化・「アカシャ年代記より」
1.4 神智学協会内の権力抗争の過程にて
1.5 ニューエイジ思想の柱として

2 アクセスと性質
3 脚注 3.1 注釈
3.2 出典

4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク


歴史[編集]





Le livre du Ciel et du Monde 1377 ニコル・オレーム著。画家は不明。グノーシスの天使の領域「アストラル層」を描いたもの。神智学ではアイテール、アーカーシャ




ストア派(Stoicism)小宇宙図。アストラル体について、魂の乗り物と拘束の二面性が表現されている




神智学協会 Adyar 1890




ブラヴァツキー夫人(中央:創設者)とミード(右:秘教部門事務局長)[注 4]1891 London、ブラヴァツキー夫人は同年逝去。ミードは1909年にレッドビーター復職に反対して退会
原型 - 「因果律」と「生命の書」[編集]

「アカシックレコード」の直接の原型はブラヴァツキー夫人著作「シークレット・ドクトリン」の中の「生命(いのち)の書」(the Book of Life)[注 5]であり、源流はプラトン(BC427 - BC347)の神性(divine thought)とされる。この「生命の書」は七大天使の子である言葉、声、霊から創造された「リピカ」(記録者)が綴るアストラル光 (Astrsral light)で構成される見えざるキャンバスであり、アトランティス時代では「第三根本人種」の者達(多神教の神)が読み取ることができたという[4]。「アーカーシャ」に、壮大な画廊が形成されて人間の行動(カルマ)を記録するとともに[5]、この記録に対する応報の法則として、縁起(ニダーナ)や幻影(マーヤー)[6]を通じて因果律として機能し、また、すべての人はこの記録をたどるとしているが[7]、このうち、「アカシックレコード」として閲覧されるものは、アーカーシャに映るアストラル光の幻影(マーヤー)である。

「生命の書」は諸宗教に同様の定義があり、イスラム教では天の書板(al Lawf)[8]、仏教では四天王の記録、カバラでは四天使の記録と表現され、エゼキエル書や世界 (タロット)に描かれる四生物は人間の行動の記録者のイメージである[9]。

リピカの記録の媒体であるアストラルはギリシア語の「星」であるが、プラトンやアリストテレス(BC384 - BC322)は、星は四大元素と異なる物質「エーテル」(アストラル光)とし、人間の体が四大元素に加えアストラル体を含む小宇宙とされたことから、当時は「生命の書」を占星術により読み解くことができると考えられていた。
参考占星術は、プトレマイオス(83-168)著作の天文学書「アルマゲスト」及び占星術書「テトラビブロス」を基本とするが、前提の天動説では太陽や月は惑星であり、地動説に照らすと矛盾が生じる。シークレット・ドクトリンでは、特に太陽の扱いに苦慮しており、本来は天王星に与えられる位置づけを太陽に適用したものと説明している[10]。 この転換の過程において占星術では、ケプラー(1571 - 1630)がアスペクトという新しい考え方を提唱し、広く受け入れられるようになった。想定より遠方にある恒星は影響力が疑問視され、黄道十二星座はハウスに意味を残すのみになった[注 6]。
四大元素について、シークレット・ドクトリンでは太陽系内の人間の表現の性質としており、現代的な意味での元素と異なる概念としている[11]。また、第五元素「エーテル」は四大元素の内部の裏打ちとしてアカシャに存在しているという[12]。
シークレット・ドクトリンは1905年にアインシュタインの特殊相対性理論が発表される以前の著作物であり、光はエーテルを媒体とした波動であるという考えが強く残っていた時代の叢書として、随所に媒体としての記述が残っている。
アカシャの属性である音は、科学的には真空中を伝わらないとされるが、シークレット・ドクトリンでは「言葉」"Logos"に相当する、第4根源人種の後期において物質的な大きな発展を遂げた際に失われた器官によって認識されたものとしている。
神智学ではダーウィンのような進化論(evolution)を魂に適用した点が特徴的だが、適者生存ではなく成長に近いイメージが置かれるなど、内容は全く性質の異なるものである。神智学では、人類は自然界の中で上位の階層の霊的存在(大師)の導きによって進化することから、高位指導霊の霊媒からの情報が根幹となった。

発祥の過程・神智学にて[編集]





旧インダス川流域

「現代文明による科学によって明らかにされていない自然の"occult side"[13][注 7]を明らかにする」 - Eelena Petrovna Blavatsky 

− The Secret Doctrine PREFACE

神智学(Theosophy)は現代版グノーシス主義であり、名称はウァレンティノス派グノーシス神話における、プレーローマ(天)の30番目のアイオーン"Sophia"(女性格[14]の叡智・哲)に由来する。「神智学」はヤコブ・ベーメ[15](1575-1624)のオマージュであり[16]、推進団体である神智学協会の創設者はブラヴァツキー夫人とオールコットである(米国で独立社団となった米神智学協会の後継者のウイリアム・ジャッジ(1851-96)も設立時の創設者の一人に数えられる)。

神智学協会はインダス川流域(旧シンドゥ川とサラスヴァティー川)の弥勒菩薩・ミトラ神[注 8]信仰を多くの宗教の源流とする、比較宗教学の考え方に基づく普遍宗教の構築を目指す社団であって、人間の本来の居住地である「天上の世界」から、自らの好奇心によって地上に捕らえられ、天からの救出活動によって帰還するという、世界の神話に共通する元型としての宗教観を基本とした啓蒙活動を展開していた。

顕在化・「アカシャ年代記より」[編集]





左から初代会長オールコット、第2代会長アニー・ベサント、レッドビーター Adyar 1905

未熟な者が扱うと権力につながる危険がある - ルドルフ・シュタイナー 

− 「アカシャ年代記より」講演における回答(『アカシャ年代記より』補遺)

アカシャと記録を結びつけた成果物を公表したのは、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の「アカシャ年代記より」が最初であるが、同記中では、すでに神智学において定義されたものと解説されており、実際にヤコブ・ベーメや霊媒を用いた他の神智学者の年代記との類似性が見られ[17]、神智学協会における霊媒を用いた文献に近い内容になっている。ルドルフ・シュタイナーの主張から判断するところ、アカシャの記録は「形式」として権威付けを意図したものであり、ブラヴァツキー夫人のマハートマーレターも同様の「形式」として、文献の作成過程は個々の研究に依存していると暗示しても、意外感は持たれなかったようである。

神智学協会ドイツ支部事務総長ルドルフ・シュタイナーは、1904年から1908年の5年間にわたり「ルツィフェル・グノーシス」[18]において「アカシャ年代記より」を寄稿し、同時期の1910年にはレッドビーター(C.W.Leadbeater 1854-1934)が、アディヤールにおいて、アトランティス時代から28世紀の間の地球の歴史に関するアカシックレコードの霊視を行っている。
アカシャ年代記の世界観は、ニーチェの主張した、アポロン的な理性の暴走の時代へのアンチテーゼ[注 9]に沿っており、五感で認識できないディオニュソス的な精神世界の認識が説かれている。太陽紀が初期に置かれ、仮説としての水星の内惑星である高炉星の時代「ヴルカン紀」を後期に置いているが、ここにディオニュソス的な芸術や感性を重視したニーチェの思想の支持が表現されている。天上の精神世界観は、明示的にゲーテを参照したとしている。

神智学協会内の権力抗争の過程にて[編集]





シュタイナーとアニー・ベサント 1907。マイトレーヤ擁立を契機として離反
1907年に初代会長オールコットが死去すると、第二代会長となったアニー・ベサントが、神智学協会上層部(アディヤール派)に限定されたモリヤ大師による指示への絶対服従を各支部、全会員に求めはじめると、同社団はカルト集団的様相を帯び、学究的雰囲気が失われて形式的な組織になっていった。この動きに対する反発が、ブラヴァツキー夫人の跡目争いと暴露合戦の呈を示し始めると、退会者が相次ぎ、社会的な信用が目に見えて崩壊していった。

シュタイナーは、アニー・ベサントらが1911年に「星の教団」(Order of the Star in the East)[注 10]を設立した頃からアディヤール派と袂を分かち、1912年には人智学協会を設立する。世界各地において土着化したロッジ間、特に西洋と東洋の宗教の相違による各支部間の対立が顕在化し、アニー・ベサントによって高位霊媒への接触が禁止され、また、暴露合戦によってモリヤ大師等の書簡への信頼性が低下して[注 11]、退会者が相次いだ。

アニー・ベサントは1911年に社団の目的であった弥勒菩薩及び再臨キリストによる救済の実行者の擁立を目的として「星の教団」を組織し、世界教師の実体として養子ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)を団長に擁立する。しかしクリシュナムルティは、絶対服従を拒む会員が退会して盲信的信者によって構成された「星の教団」に幻滅し、権威と組織の有害性を主張して1929年に教団を解散すると遊説生活を続けていく。

ニューエイジ思想の柱として[編集]

アカシックレコードという概念は、催眠状態における自我による説明に基づく医療行為によって、地元名士の娘を治療したことで、米国の新聞記事で取り上げられたエドガー・ケイシー(1877-1945)の名前とともに改めて知られるようになる。エドガー・ケイシーは神智学者アーサー・ラマース(Theosophist Arthur Lammers)[19]に導かれて、過去に疾病の治療に用いていたものを、神智学を応用するが如く人生の苦悩、輪廻転生やカルマの問題へ応用を広げている[20]。ニューエイジにおいて支持される同氏の神話的なエピソードは、アーサー・ラマースの時期に特に集中しており、必ずしもアカシックレコードのリーディング結果の神話的な的中率については、一部、記録によって確認できないものが含まれている。

同氏のリーディング結果に基づく啓蒙活動を行う米エドガー・ケイシーAssociation for Research and Enlightenment(A.R.E.)やルドルフ・シュタイナーの独・人智学協会は、ニューエイジ活動の積極的推進団体となっており、アカシックレコードが活動の構成要素として、あるいは神話化された思想や予言の源泉として、結果的に組み込まれていくことになる。A.R.E.の活動の背景には、以下のようなヤコブ・ベーメに由来するニューエイジ思想に特化した質問及びリーディング結果等がある。


ヤコブ・ベーメに多数の幻像が示された 〜 これはヨハネの黙示録の記述と等しい 〜 1998年、うお座とみずがめ座の狭間の変化 〜 うお座はキリストの入り口である 〜 この(みずがめ座の)時代には"Creative Force"の物質世界への応用に覚醒する...

− ECR 1602-3 3. 4. 8. 19. Ans.

ニューエイジは神智学を源泉として、ミトラ教とシークレット・ドクトリン[21]における、「水瓶座の時代の神話(春分点が黄道十二宮の宝瓶宮にある時代への、キリストに象徴されるうお座[22]からの推移の神話)」に由来する新しい占星術と精神世界の時代の幕開けを待望する思想である。これは、ネビル・ドゥルーリー(Nevill Drury b 1947)著作「ニューエイジ・四つの重要な予兆」においてスウェーデンボルグ(1688 - 1772)、フランツ・メスメル(Franz Anton Mesmer 1734-1815)、ブラヴァツキー夫人及びゲオルギイ・グルジエフ(George Gurdjieff 1872-1949)の4人の思想の重要性を説いたことが初端の一つにあり、同氏が同様に評価したヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda 1863-1902)を含め、カール・ユング[注 12]の主張例も交えて、エドガー・ケイシーやルドルフ・シュタイナーも参照される合成的な思想である。ルドルフ・シュタイナーは第六根源人種の出現をヨハネの黙示録の第六天使の象徴と重ねた友愛の時代[注 13]を宣言している。

米国で一般に「ニューエイジ」が知られるきっかけになったのは、女優シャーリー・マクレーンの"Out on a Limb"(1983)の影響が大きく、アカシックレコードは全ての人の潜在意識とつながる神と人間の共通の基盤として紹介されている。ニューエイジは現代社会の否定としての意味が強く、新たな精神世界の時代の到来を宣告する一方で、日本では輪廻転生、業や瞑想は"New"というほど目新しいものでもなく、批判対象のキリスト教が広く普及していないため、前衛的な印象が薄い[23]。現代科学、大量消費、環境破壊といった諸問題に対するカウンターカルチャーを形成し、活動家によっては、キリスト教会に対して、終焉を迎えるうお座の時代の象徴として遠慮無い批判を加えており、普遍宗教、Oneness、占星術、瞑想、音楽、疑似宗教、ホリスティック医療、環境保護、女性解放、超能力、疑似科学、古代文明、輪廻転生等を積極的に推進している(参照:List of New Age topics)。

「アカシックレコード」へのアクセス方法(チャネリング又はリーディング)が、ニューエイジ活動の中で醸成されていく。これらの方法は、ヨハネの黙示録においてヨハネが瞑想中に出会った高次の自我のエピソード[24]の理解を参考にして、瞑想によって、ハイアーセルフがアクセスした情報を顕在意識の自我が受け取るというものが基本となっており、場合によってはエドガー・ケイシーのように、催眠療法で情報を引き出すものもある。「アカシックレコード」は「人類の魂の記録」から、「神の無限の記録又は図書館」とも再定義され、汎用性のある情報源として謳われることがある[25]。歴史的に神智学協会の影響を強く受けて過去のエピソードと混じりながら確立された一面があり[注 14]、内容もカウンターカルチャーの影響を強く受けて、世界破滅や世界の転換といった内容のものが多い(例:2012年の世界の破滅等)。

アクセスと性質[編集]





エドガー・ケイシー 1910年
現時点において、再現性のある実用的なアカシックレコードへのアクセス方法の実績例はないが、リーディングを客観的に表現した例がエドガー・ケイシーの記録に示されている。到達不可能ではあるが、信仰によって達し得る境地の一つとして、物質世界の出来事は魂(創造主)の世界が投影されたものであって、目に見える世俗的な心が隔てているが、善と悪や精神と肉体といった二つの選択肢を含みつつ、キリストを通じた無限に対する調和によって合一することが可能であり、肉体の休息時に滞在する惑星の領域や魂の接点となる水元素を通じて、精神が肉体を離れているときに精神世界を視覚化することでアクセスされるとしている[26]。

エドガー・ケイシーのリーディングによると、個人の魂の記録は「生命の書」といい、ヨハネの黙示録における「天にある証しの幕屋の神殿」がアカシックレコード又は生命の書と同一のものと位置づけられている[27]。生命の書は人の獣性が強い時期において停止し[28]、常に、人による積極的な運命への反逆(黙示録又はアカシックレコードの加筆)がある[29]と述べられている。「獣の数字」に象徴される者は、超常能力を有して欲望のためにヨハネの黙示録やアカシックレコードの能力を用いるとされるように[30]、必ずしもリーディングを行う者に高い精神性が付随しているわけではない。

人類の魂は、無限の中で時間の制約を受けない性質を持っているため、人間の生活における時刻は意味が乏しく、時刻と完全に一致した運命の情報は存在しないことから[31](必ず生じる事象であっても、適切な時でなければ発動しない)、アクセスによって得られる時刻の情報は、相対的に得られる推定又は蓋然性に過ぎない。また、リーディングを行う者と受ける者の求める理解や経験が限界であることが暗示され[32]、得られる内容は、真に探し求めている知識に応じて、実体の経験と願望によって定まるものだという[33]。

エドガー・ケイシーによるリーディングの場合の、アクセス結果に影響を与えている過去世の経験として、エジプト転生時の高僧「ラータ」が方向性を与え[34]、ペルシャ転生時の医師の「ユールト」(Uhjltd)の負傷下での数日間の生死の狭間の苦痛の忍耐が能力に力を与え[35]、医療に関する情報への同調を可能にしていると言及されている。一時的にギャンブルに助力している例があるが、これは過去に「ジョン・ベインブリッジ」という、後にならず者の放浪者になった英国の兵士[注 15]に転生した際に獲得した能力とされ、新約聖書時代のルカによる福音書の実質的な記者「キレネ人のルキオ」[36]への転生が聖書の解釈に関する能力を与えたと指摘されている。

いずれにしても、アカシックレコードから得られる情報は個人の過去生や意識上の関心に根ざした指向性が見られ、時々民族差別的な内容が含まれたり、エドガー・ケイシーの前世では経験のない油田発掘や富豪に至る能力を発揮したリーディング例がないなどに現れており、病院建設資金の収集や日々の生活に苦慮しているところにも見られる。

因果性

因果性(いんがせい、英: causality)とは、何かある物事が他の物事を引き起こしたり生み出している、とされる/する、結びつきのことである。



目次 [非表示]
1 概要
2 アリストテレスの説
3 ヒュームの因果説
4 因果規則性説
5 単称因果言明、因果律
6 因果律という考え方の反事実条件法への置き換え
7 因果律 7.1 物理学における因果律
7.2 歴史
7.3 SFなどにおける因果律

8 脚注 8.1 出典

9 参考文献
10 関連項目


概要[編集]

因果性とは、2つの出来事が原因と結果という関係で結びついていることや、あるいは結びついているかどうかを問題にした概念である。英語ではcausalityと言う。日本語では類語で「因果関係」という表現も用いられる。

「Cが起きた原因はB1とB2である」「Aの結果、Zが起きた」「AのせいでBが起きた」などが因果性があると表現した文章である。





ひとつの出来事に骨状・ツリー状に原因の連鎖を挙げ、それらを分析することで改善を図る特性要因図の一例。(純粋科学的なレベルではなく、日常・実用・工学的なレベルで 原因を分析する)
ある出来事の原因、について考察する時、しばしばたったひとつのことを原因として挙げる人がいる。例えば、「今朝遅刻した原因は、昨日飲み過ぎたのが原因だ」といったような考え方をする人である。だが、「昨日飲み過ぎたことが、今朝の遅刻の原因」と言うことが適切なのかは実は怪しい。例えば、昨日飲み過ぎたとしても、昨晩目覚まし時計をかけるのを忘れなければ、起きられたかもしれない。夜中に近所で騒音がして睡眠が妨害されることが無かったら起きられたかも知れない。カーテンを閉めて朝日が入らなかったことも原因かも知れない。他にも書ききれない無数の条件が揃っていたからその出来事は起きたのである。「遅刻した」というひとつの出来事には、実際には無数の原因が存在しているのである。

人々が因果関係だと信じているものの中には、実は誤解・錯覚にすぎず、因果関係ではないものが多数含まれている。因果性に関する誤謬のひとつに、同時に発生している2つの出来事のあいだに因果性を認めてしまう誤謬もある。アイスクリームの消費が増える時期と水死者が増える時期はおおむね一致するが、だからといって「人々がアイスクリームを食べたから、水死者が増えた」とするのは短絡的で、実際には相関関係にすぎない。「暑い→アイスクリーム消費量が増える」「暑い→水遊びをする人が増え水死者が増える」という共通原因があるに過ぎない。

西洋哲学では古来、因果性についてさまざまな考察が行われてきた。アリストテレスは原因を4つに分類して考察してみせた。これは現在でも有用性が認められることがある。ヒュームは哲学的に、因果性の存在自体について疑問視した。

もともとギリシアでは自然はそれ自体に変化する能力がある、と理解されており、自然は動的なもの、それ自体で変化するもの、としてとらえられていた[1]。自然自体、そして個々の存在自体の中にも原因・動因がある、という理解である。それは一般的な理解であった(東洋人でも、一般的な自然理解としては、昔も今も、自然自体に変化する能力を認めている)。西欧でデカルトが世界論を最初に構想・執筆した時、(ギリシアの自然観同様)自然自体に発展する能力を認めた説を構築しその原稿を書いた[1][2]のだが、原稿を書き終えた後でガリレオ裁判の判決の結果を聞いたデカルトは、自身がブルジョア階級者で体制側の人間そのものでもあったこともあり、体制である教会を敵にまわすことを避けるため、その説の出版は止め[1]、説の内容を改変し[1]、キリスト教的な神が必要とされるように、”自然は死んでいて、常に神が働きかけることによって動いている”、とする世界観の説へと変えてしまい、それを出版した(『世界論』)[1]。もともと世の中では一般的に、力(要因・原因)には、内的な力と外的な力があるとされていたのが、デカルトの政治的な意図によって改変されたその論では内的な力がすっかりそぎ落とされてしまったわけである。こうして改変された説が、同時代・後世へと大きな影響(悪影響)を及ぼしてゆき、死んだものとしての自然観、個々の存在の内的な力(動因)の記述が欠落した説明方法が登場し、世に広まってゆくことになった。自然哲学アイザック・ニュートンも、自身の信仰によって神を考慮しつつ説を組み立てており万有引力と関係させ、空間は神の感覚中枢、と述べた[3]。デカルトの書物の影響も大いに受けつつ、またニュートンの説の中の含まれている粒子論などの影響も受けつつ(しかもデカルトの意図ともニュートンの意図とも異なった形で)、18世紀の西欧では機械論という、世界を独特の単純な図式、外的な動因だけで説明する方法が広まったが、そこでは原因と結果についてもきわめて単純な考え方をしていた。19世紀ごろに数が増えていった科学者たちは、(ニュートンの意図とは異なり)自分たちの単純な機械論的世界観に合う部分だけを恣意的に抽出して古典力学を構築して、ついにはラプラスのように神は不要と主張しつつ決定論的な世界観を強く主張するものが出た。ある状態が決まれば結果は一意に決まるはずだ、といった主張である。だが一時期強固にも見えたこうした世界観は20世紀になり崩れてゆくことになった。

20世紀に発展した量子力学では、subatomicレベル(原子より小さいレベル)での状態は、直前の状態によって決定されるのではなく、純粋に確率的に起きている、とされるようになった[4]。そこでは、機械論的な因果観はもはや通用しない。現代科学では、厳密に言って、もはや決定論は時代遅れとなった。状態が決まっても結果は一意には決まらない、とする論などを非決定論と言う。

ただし、日常的には、原因や結果という概念は(古典力学的にでもなく、量子力学的にでもなく)従来からの人々の習慣どおりに用いられている。

アリストテレスの説[編集]

アリストテレスは、ものごとが存在する原因を以下の四種類に分類した(これを「四原因説」と言う)。
素材因(質料因)
形相因
作用因(始動因)
目的因

この考え方が良く理解できるひとつの例を挙げると、例えば、目前にひとつの木彫りの彫刻が存在する場合、これが存在するのは、誰かが、木材という「素材」を用いて、何らかの表現をする「目的」で、彫るという「作用」を加え、なんらかの「形」を作り出したからである。このようにアリストテレスは、原因というものを四つに分類してみせた。

「四原因説」も参照

また、アリストテレスは、世界の様々なできごとの原因を、原因の原因、またさらにその原因…と遡ってゆくと、最終的に第一原因にたどりつく、とした。この第一原因を、別の文脈では「不動の動者」と呼んでおり、神とほぼ同じ意味で用いられた。

ヒュームの因果説[編集]

西洋近代ではデイヴィッド・ヒュームが、因果性とは、空間的に隣接し時間的に連続で、2種類の出来事が伴って起きるとき、この2種類の出来事の間に人間が想像する(人間の心、精神の側に生まれる)必然的な結合関係のことである、とした。つまり、物事はたまたま一緒に起きているだけでも、人間が精神活動によって勝手に結びつきの設定をしている、という指摘を含んでいる。

因果規則性説[編集]

隣接し、連続して起きる二つの出来事は、それを述べる普遍言明の文に組み込まれるとき、因果的に結びついている、とする。ヒュームの心理的要素を除き、そのかわりstatement記述の生成という点に着目している説。科学の場で記述を作りだしてゆく方法やその問題点についての示唆も与えてくれる説である。

単称因果言明、因果律[編集]

人間というものは、あるいは人間の頭脳というものは、規則性の記述が現前になくても、いくつかの出来事を知覚・認知しただけで、それらが因果的に結びついていると考える強い傾向を持っている。

例えば、「この医者がお産にたずさわったことが、この妊婦の産褥熱を引き起こした」というstatement言明がある。この言明は、たとえ「お産への従事が、全て産褥熱を引き起こす」という普遍言明(全称命題)が偽であるにしても、それとは独立に真でありうる(可能性がある)。個々の出来事は、この言明が記述する順序で起きているためである。

個々の出来事の間に因果性の関係を設定するのは、人間の精神というものが、「全ての出来事には原因がある」という考え方、いわゆる「因果律」の考え方、を前提にしているからである。

人間は日常生活を送る上では、そのような考え方、つまり「全ての出来事には原因がある」とする考え方をして、特に問題は生じはしない。だが、いざそれが本当にそうなのか、正しく論証しよう、科学的に究明しようとすると、実は非常に困難である。それが困難であることは、歴史的には、カントによる論証の試みにも現れている。

因果律という考え方の反事実条件法への置き換え[編集]

「全ての出来事には原因がある」と「因果律」という考え方を採用するということは、宇宙全体の性質に関して、検証も無しに、形而上学的に非常に強い主張をしてしまうことになる[5]。このような主張を含んでしまうと、結局、証明も反証もできない言明をしてしまっているのと同じことになるので、(広く認められている反証主義の方法論を採用すると)これはもはや科学的言明ではない、ということになってしまうのである。

一般に、科学の世界では、もし途方もなく強い主張をする時は、途方もない主張を支えるに足るだけの非常に確たる証拠を示さなければならない、とされている。したがって、(科学的な方法を守り、科学的な記述を構築してゆくためには)このような主張(因果律)を含めずに済むならば、そのほうが良いのである[6]。

また、「出来事xが、別の出来事yを引き起こした」という単称因果言明は、「この状況においては、出来事xがなければ、出来事yは起きなかったはずだ」という、条件法命題に置き換えると、「因果律」という、途方もない前提は含んでいない。

「この状況においては」という箇所の明示的な記述が必要となってくる。実は、これを厳密に行おうとすると、大きな困難が生じる。というのは、その状況というのは、つきつめると厳密には全宇宙の状態を記述しなければならないということになるからである。このように結局、因果性という概念は、本質的に形而上学的概念である[7]。

因果律[編集]

物理学における因果律[編集]

古典物理学での因果律とは、「現在の状態を完全に指定すればそれ以後の状態はすべて一義的に決まる」と主張するものであったり、「現在の状態が分かれば過去の状態も分かる」と主張するものである[8]。

また相対性理論の枠内においては、情報は光速を超えて伝播することは無く、光速×時間の分以上離れた距離にある二つの物理系には、時間をさかのぼって情報が飛ぶ事無しに、上記の時間内に情報のやり取りは起こらない。物理学の範疇ではこの「光速を超える情報の伝播は存在しない」という原理を同じく因果律という。[8]。

日常に比べて極めて小さいスケールでは物理を論じるに当たって量子力学が必要となるが、 量子論が必要な極小の世界では古典的な意味での因果律は完全には成り立っていない[9]。 量子論では不確定性原理の許す範囲でならば運動量やエネルギーが運動方程式に従わない値を取ることが可能である。運動方程式の解である状態関数は全ての実現可能な状態の中から運動方程式が示す状態が実現している確率振幅しか与えず、運動方程式によって全ての運動が一義的に決まることは無い[10]。

古典的定義から離れ因果律の定義を「時間軸上のある一点において状態関数が決まれば以降の状態関数は自然に決まる」と解釈すれば「量子論的領域でも因果律は保たれる」と言える。[11]「一見因果律が破れているように見える思考実験であるEPR相関においても、実際光速を超えているのは状態関数の波束の収束速度であり、状態関数そのものが演算子によって書き換えられる(つまり情報を受け取る)わけではなく、因果律は保たれている」と言える。[12]。

歴史[編集]

因果律の概念を正確に理解しようとすると、人間が素朴に抱いている「時間」という概念(あるいはそう捉える人間の認知システム)の本質についての考察と切り離して考える事はできないのだが、「そもそも時間とは何か」という点についてすらも確かなことは分からず、西洋科学の時間論も結局はキリスト教的時間観を先入観として構築したものにすぎず(時間の項も参照のこと)、人類が素朴に抱く因果律という観念の基盤は実は危うい。

人間の因果に関する認識について問題提起を行った哲学者にイギリスのディヴィッド・ヒュームがいる。彼は普段人間がある物事と物事を結びつけて考える際、先に起こった事が後の事の原因になっていると観察する暗黙の経験則に導かれているに過ぎないのではないかと疑った。つまり蓋然性は必ずしも必然性を意味しないという事であり、連続して起こった偶然を錯覚している可能性があるとする。

近世になると西欧で機械論的な世界観が強く主張され、単純な因果律が主張された。そして、20世紀初期にはアルベルト・アインシュタインによって相対性理論が発表されたが、そこには時空連続体という概念が含まれており、因果律についても新たな観点が与えられる事となった。

20世紀も半ばになると、確率論、統計学、量子力学も大きな発展をとげ、特に量子力学は、全ての事象は(先行する物理的状態と結びつけることは困難なしかたで)確率的に起きている、ということを実証し、因果律という考え方は後退することになった。ニールス・ボーア(1885- 1962)も、"因果律"というのは、あくまで人間的なスケールにおいて限定的に、あたかも成り立っているように見えているにすぎない、近似として成り立っているにすぎない、微視的なスケールでは成り立っていない、と釘をさした。[13]

SFなどにおける因果律[編集]

因果律は、サイエンス・フィクション(SF)の分野ではしばしば扱われるテーマである。例えばタイムマシンについて、その存在により因果律が破綻することによるパラドックス(タイムパラドックス)がエッセンスとして用いられたり、または、そのようなパラドックスの「発生を防ぐ」という事が物語の主要テーマとして用いられるような例がある。

また、タイムマシンの可能性を否定する根拠として"因果律"が用いられている場合がある。タイムパラドックスの存在がその根拠とされる。しかし、因果律自体が科学的客観的に証明された事実ではない以上、タイムマシンの存在を否定する根拠として用いるのは不適当である。「ただし、因果律について考察を行う場合には、仮にタイムマシンの存在を仮定してみることが必要不可欠である」という。

宿命論

宿命論(しゅくめいろん、fatalism)あるいは運命論とは、未来は神または超越的存在によってあらかじめ定められている、とする考え方。

概説[編集]

一種の決定論であるが宗教的色彩が強く、自分が自由意志と思い込んでいるものも実は全知である神が前からそうなるよう定めていた、という風に解釈する。例えばこの「宿命論」を読んでそれに反論しようとしても、その反対したこと自体がすでに定まっていた、という風になり基本的な反証できない性質の論理である。

以上のように科学的・論理学的には無価値のものと見なされるが、宗教・神学的にはキリスト教の一部における予定説、神仏による救済とそれに対する信頼など、救済宗教の重要な柱でもある(ただしキリスト教における予定説は一部教派にしか受け入れられていない)。古代人にとって神とは、ヤハウェのような「裁きを下す神」、スサノオのような「荒ぶる神」など、恩寵と同時にそれと反対のものももたらす両義的原理であった。

逆に言うとそれに合理的な説明を与えることが古代哲学の芽生えであり、自由意志を否定するような宗教的決定論に挑戦する試みは、現代的合理主義へたどる過程だったといえよう。

なおこれの一段階発展したものとして理神論があり、神の定めた自然法則が未来を含めた一切を定めているとする。宿命論と違うのは神は万物を法則と共に創り上げ、その時点まで神の意志は活かされていたが現在は世界の運命に介入していない、とする点である。この立場は定められた物理法則を解き明かそうという動機に繋がり、アイザック・ニュートンなど初期近代科学の推進に果たした役割は大きかった。

業(ごう)とは、仏教の基本的概念である梵: कर्मन् (karman) を意訳したもの。サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。

業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。

現在日常的にこの語を使う場合は、行為で生じる罪悪を意味したり(例えば「業が深い」)、不合理だと思ってもやってしまう宿命的な行為という意味で使ったりすることが多い。



目次 [非表示]
1 釈迦以前の業
2 バラモン教の業
3 ジャイナ教における業
4 仏教における業 4.1 思業と思已業
4.2 三業
4.3 三時業

5 北伝部派仏教における業思想 5.1 五業
5.2 業道
5.3 物質としての業
5.4 引業・満業
5.5 共業

6 密教における業
7 注記


釈迦以前の業[編集]

釈迦が成道する以前から、従来のバラモン教に所属しない、様々な自由思想家たちがあらわれていた。かれらは高度な瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、様々な思想哲学を生み出し、業、輪廻、宿命、解脱、認識論などの思想が体系化されていった。

この中に業の思想も含まれていたのである。

バラモン教の業[編集]

業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。



善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる

− 『百道梵書』 (Zatapathaa-braahmana)

このような倫理的な力として理解されてきた業がやがて何か業というものとして実体視されるようになる。



あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある

− 『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』

インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論や宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。

ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。

なおバラモン教における輪廻思想の発生を、従来考えられているよりも後の時代であるとする見解もある。例えば上座仏教では、釈迦在世時に存在したバラモン経典を、三つのヴェーダまでしか認めておらず[1]、釈迦以前のバラモン教に輪廻思想は存在しなかったとする。もちろん、当時の自由思想家たちが輪廻思想を説いていたことは明白であるが、彼らはバラモン教徒ではなかったことに注意すべきである。

ジャイナ教における業[編集]

詳細は「ジャイナ教のカルマ」を参照

仏教における業[編集]

釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去ないし未来ないし現在の応供等正覚者は、業論者、業果論者、精進論者であった」と言ったといわれるように、カルマ(業)論の主張者であった。しかし、業を物質的なものであると考えたニガンタ・ナータプッタとは異なり、心のエネルギーとして、物質的形態をとらないものとして考えた。



比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。

− 『中部経典』 (Majjhima-Nikāya)




思業と思已業[編集]

仏教では心を造作せしめる働きとして、思考する行為が先に来ると考え、これをまず思業と名づけ、後に起こる身口の所作を思已業と名づける。

三業[編集]
身業(しんごう、Kāya) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。
口業(くごう、Vāca) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。
意業(いごう、Manas) - 意識・心のはたらきで起こすこと。悪業では貪欲・瞋恚・邪見(とんよく・しんい・じゃけん)など。

業は意志・形成作用(行、サンカーラ)とも同一視され、良き意志・良き行為を持つことが勧められる。そして、より究極的には、煩悩を滅し、善悪を乗り越えることで、一切の業を作らないことが理想とされる。

三時業[編集]

業によって果報(むくい)を受ける時期に異なりがある。
順現法受業(じゅんげんぽうじゅごう、dRSTa-dharma-vedaniiyaM karma) - 現世において受くべき業。
順次生受業(じゅんじしょうじゅごう、upapadya-vedaniiyaM karma) - 次の生で受くべき業。
順後次受業(じゅんごじじゅごう、aparaparyaaya-vedaniiyaM karma) - 三回目以降の生において受くべき業。

これらは報いを受ける時期が定まっているので定業という。また、報いを受ける時期が定まっていないものを順不定業(じゅんふじょうごう、aniyataavedaniiyaM karma)といい、この不定業を加えて四業という。

北伝部派仏教における業思想[編集]

五業[編集]

意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業(vaag-vijJapti-karman)という。

このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業(しんむひょうごう、kaaya-avijJapti-karman)・語無表業(vaag-avijJapti-karman)という。このようにして、初めの意業と身語二業の表無表の四業とで五業説を形成する。

いま、これらの業の分類を通して、仏教の業説の意図するところを考える時、そこには仏教の基本的な考えかたが示されている。すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること、したがって人間の行為は現在刹那に終結してしまうものでなく、常に因縁果と相続してゆくものであり、すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。釈迦が、



人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為によって尊くも賤しくもなる

というのも、この業説のうえに立っていわれたのである。さらに、このような人間の行為についての因果論的立場は、単に現実の身体的行動や言語活動の上にいわれるものでなく、その根本を人間の精神に位置づけるのが仏教であり、道徳的には結果論でなく、動機論の立場をとるものであることを示している。

ところで、この厳格な因果関係について、仏教は三時業ということを説いて、因果の連鎖を三世、あるいはそれ以上の世代にまで及ぼし、業の永遠性を説いている点に注意しなければならない。このことは因が結果となることは必ず条件(縁)によるものであることを示すとともに、因であること自体、実は結果である現実に立ってこそ因といわれることを示している。より具体的には果となった時、因が因として働きを完了するのであるから、果とならなければ因とはいえないはずである。たとえば、たとえ種子を大地におろしたとしても、条件次第で種子は敗種となってしまう。この点、因果応報は明らかであっても、その応報は因の働きをなさしめる条件次第であるといわねばならない。仏教はこのように縁を強調することによって、人間の現実を生きる姿勢を正すべきことを教えるものである。良因・良縁のととのった時に良果がえられるので、良因のみで良縁がないならば、良因もその働きを完了することができなく、ついに敗種となる。といっても悪因はたとい条件がよくても、良果とはならないのはいうまでもないが、悪因も良因とともに条件次第で、それを敗種たらしめることが可能であることは注意すべきである。

業道[編集]

業とは心の造作であるから、その造作が具体的に働いてゆくところを業道という。すなわち、思という心の造作は貪欲とか瞋恚(しんい)とかいうものによって、具体的に働くから、このような思を具体的に働かしめるものを業の道、業道というのである。その業道について十不善業道、十善業道を説いている。この中、十不善業道(daZaakuZalakarma-pathaa)とは殺生・偸盗・邪淫の身体的なもの、妄語・綺語・悪口・両舌の言語的なもの、貪欲・瞋恚・邪見の心的なものの十種の不善をいうのである。思はこのような十種の不善を業道として働くわけである。十善業道については、十不善業道から反顕してしるべきである。

物質としての業[編集]

善悪等の人間の行為と苦や楽の果報とに関して、業が問題となる。業の善・悪・無記の三性のように道徳的な立場で問題とされ、善因楽果・悪因苦果と人間の生活の中での因果応報との結びつきが説かれる。業因業果と業の働きの相続を説く場合、その業力はどうして相続するか。この点が明らかにならねばならないので、業力を何らか把握しうるものとして考えようとするものがでた。

説一切有部では、その業の体性(ものがら)を、業が具体的には身体の動作や言語のための口や舌の働きによるものであるから、何か物質的なものと考えた。すなわち堅湿煙動などの性格を示す地水火風のような要素の結合による物質的な何ものか(色法)と考えた。その点で表業も無表業も実体と考えていた。経量部は、大乗仏教と同じように思の心所の働く姿について身業語業意業などの区別を立てたので、実体的なものがないとして、その思に審慮思(しんりょし)・決定思(けつじょうし)・動発勝思(どうはっしょうし)の三種を立てて説明している。
審慮思 - 身語の二業を起そうとするとき、審慮するもの
決定思 - 決定心をおこして、まさになさんとする
動発勝思 - 身語の二業において動作する

このような思の三種からして、意業は審慮と決定をその自体とし、身語の表業は動発する善不善の思を自体とし、無表業は思の種子のうえにある不善あるいは善を防ぐ功能(はたらき、可能性)を自体とすると説かれる。

引業・満業[編集]

このように業論は仏教において非常に重要な思想であり、人間生活におけるすべての現象の説明がこの業説に集約されて考えられる。

人間の現実生活において、人間としての果報を生ずる力を引業(いんごう、aakSepa karma)といい、その人間の果報上にある種々の要件すなわち支体・諸根・形量等の差異を結果せしめるものを満業(まんごう、paripuurak karma)という。

共業[編集]


曖昧さ回避 「共業」はこの項目へ転送されています。協力して働くことについては「協働」をご覧ください。

集団に共通するような、ある結果を「引き起こす条件」(有力増上縁)、「妨げない条件」(無力増上縁)を生み出す力を共業(ぐうごう)といい、自己のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力を不共業とよぶ。説一切有部において、共業による影響は、これを結果に対する増上縁(adhipati-pratyaya)と考え、直接的な結果、すなわち異熟(vipāka)とは考えない。

密教における業[編集]

また密教では、身密・口密・意密の三密により仏の微妙(みみょう)なる働きを思惟し修行する。

因果

因果(いんが、梵 hetu-phala)は、もとは仏教用語であった。

本記事では、主として仏教やインドの哲学における考え方について解説する。

西洋哲学や科学哲学等々も含めて、原因・結果という考え方についての人類が考えてきたことに関する総合的な記事としては因果性が立てられているのでそちらを参照のこと。

時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。



目次 [非表示]
1 ヴェーダやバラモン教における説明 1.1 因中有果(いんちゅううか)

2 仏教における説明 2.1 過去現在因果経
2.2 因果応報 2.2.1 因果応報説の受容


3 関連文献
4 脚注、出典


ヴェーダやバラモン教における説明[編集]

因中有果(いんちゅううか)[編集]

正統バラモン教の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。




仏教における説明[編集]

釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。

釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。

仏教において因果は次のように説かれる。
善因善果(ぜんいんぜんか)…善を行うことが新たな善を促す
悪因悪果(あくいんあっか)…悪を行うことが新たな悪を促す
善因楽果(ぜんいんらっか)…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く
悪因苦果(あくいんくか)…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く

例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。 これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、同類因・等流果と呼ぶ。

一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。 両者は原因と結果の性質が異なるため、異熟因・異熟果と呼ぶ。

「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。




過去現在因果経[編集]





挿絵のついた『過去現在因果経』(8世紀、日本)
『過去現在因果経』は、5世紀に求那跋陀羅(ぐなばつだら)によって漢訳された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行(本生譚、ジャータカ)と現世での事跡(仏伝)を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。

因果応報[編集]

因果応報とは、「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」とする考え方、信仰である。

「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。

もともとインドにおいては、バラモン教などさまざまな考え方において広く、業と輪廻という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。

仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道(あるいはそこから修羅を除いた五道)をぐるぐると輪廻している、とするようになった。

仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。

修行によって悟ることができない人の場合は、(次に仏界に行けないにしても)善行を積むことで天界に生まれる(=生天)のがよいとされた。

因果応報説の受容[編集]

インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていたが、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではない。

中国ではもともと『易経』などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想はあった。だが、これは現世の話であり、家族・親族の間でそのような影響がある、という考え方である。輪廻という考え方をしていたわけではないので、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方には違和感を覚える人たちが多数いた。中国の伝統的な思想と仏教思想との間でせめぎあいが生じ、六朝期には仏教の因果応報説と輪廻をめぐる論争(神滅・不滅論争)が起きたという。

とはいうものの、因果応報説はやがて、六朝の時代や唐代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の道教の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていった。

日本では、平安時代に『日本霊異記』で因果応報の考え方が表現されるなどし、仏教と因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていった。現在、日本の日常的なことわざとしての用法では、後半が強調され「悪行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多い。ただ、ここにおいての因果応報という考えも輪廻との関わりよりも、現実での利益を強調しているという事実も見逃すことはできない。

[1]




関連文献[編集]
神塚 淑子「霊宝経と初期江南仏教--因果応報思想を中心に」東方宗教 91,1998/05, pp.1-21 (日本道教学会)
西本陽「上座仏教における積徳と功徳の転送」金沢大学文学部論集. 行動科学・哲学篇[1]

脚注、出典[編集]
1.^ しかし実際の起源・意味としては間違っており、ただ単に「行動」と「結果」は結び付いているという意味でしかない。ここに一つ例を挙げる。[要出典] 人物Aが人物Bの落としたハンカチを、まったくの善意で拾って手渡してあげた。しかし人物Bは自身の持ち物を他人に触れられることに極度の嫌悪を感じる人間であり、逆上した人物Bは包丁で人物Aを刺殺した。 ここでは「善意が悪意で返ってきた」わけではあるが、因果応報という言葉の意味とは矛盾しない。なぜなら人物Aがハンカチを拾った「行動」によって、人物Bが人物Aを刺し殺すという「結果」が生まれてしまったわけであり、「行動と結果の因果関係に矛盾や無理が存在しないから」である。[要出典]

因縁

因縁(いんねん)
1.きっかけ・動機・契機などの意味。
2.由来や来歴の意味。縁起と同様に用いる。
3.関係、ゆかりのこと。


仏教の解釈[編集]

「縁起」、「因果」、および「業」も参照


仏教

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基本教義

縁起 四諦 八正道
三法印 四法印
諸行無常 諸法無我
涅槃寂静 一切皆苦
中道 波羅蜜 等正覚

人物

釈迦 十大弟子 龍樹

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仏の一覧

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大乗仏教 密教
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仏教における因縁の意味。因と縁のこと。因とは、結果を生ぜしめる内的な直接原因のこと。縁とは外から因を助ける間接原因(条件)のこと。一切のものは、因縁によって生滅するとされる。因縁(サンスクリット:hetu-pratyaya)『新・佛教辞典』中村元監修 誠信書房 参照

初期の仏教では因(hetu)も縁(pratyaya)も、ともに原因を意味する言葉であり、後に区分が生じて因を原因、縁を条件、とみなした。

仏教では、修行による成仏を前提としており、
宿作因説 - 因や果を固定したり、創造神の力を因としたり、外在的・宿命的な力を因とする説
無因有果説 - 因なく最初から果があったとする宿命論的な主張
無因縁説 - 原因は有り得ないという説

に対してきびしい批判を行った。 ことに龍樹は、『中論』観因縁品で、無自性空の立場からこれらの外部の説と、説一切有部の四縁六因説を批判し、四諦品で因縁によって生じる諸法は空であり、条件が変われば、変化すると説いている。

因縁とは存在の相依性をいう。すべての事象はそれ自体、孤立して存在するのではなく、相互に依存して存在しているということである。

釈迦の教説の根本であるところの「四諦の法門」を一言でいうと「因縁」となる。
これありてこれあり
これ生じるがゆえにこれ生じ
これなければこれなく
これ滅すればこれ滅す

という存在理論であり、「苦諦・集諦・滅諦・道諦」(略して苦集滅道の四諦)という。

またこれは、違う表現をすれば『法華経』方便品に説かれる諸法実相、つまり相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という、十如是になるとも説かれる。 これは存在をあらわし、
1.どのようなものでも存在するかぎり、相(形)がある
2.相には、性(本質)がある
3.相・性には、体(体質)がある
4.相・性・体には、力(能力)がある
5.相・性・体・力には、作(作用)がある
6.相・性・体・力・作には、因(直接的な原因)がある
7.相・性・体・力・作には、縁(間接的な原因)もある
8.相・性・体・力・作・因には、果(因に対する結果)がある
9.相・性・体・力・作・縁には、報(縁に対する結果)がある
10.相・性・体・力・作・因・縁・果・報には、本末究竟等(本の相から末の報までが究極的に無差別で等しく関連している)がある

なお、十如是は鳩摩羅什訳出の漢文『法華経』のみで、サンスクリット語原典や竺法護訳『正法華経』、闍那崛多・達磨笈多共訳『添品妙法蓮華経』にはない。

新宗教・霊能者の解釈[編集]

一部の新宗教や霊能者による因縁は、本人や先祖・土地・所属する組織などの長年にわたって蓄積された「業」に由来する影の部分、つまり悪業や悪因縁といった悪い事象の一面だけを指したり、強調する場合がある。

この悪因縁が数々の事件・事故・病気などの原因とされ、そして悪因縁は切るべきもの、とされることもある。それを指摘した教団または霊能者などの指導を受けながら、浄霊・祈祷・修行を受け続けることや、徳を積むことによって切れる、とされる場合もある。これらから、因縁は心霊的・オカルト的に拡大解釈され、反社会的な教団や霊能者と自称する人物に、都合よく利用されることも往々にして多い。

これに対し、法華系などの一部の新宗教団体では霊魂を否定し、因縁とはもともと具わっているものであるから「因縁を切る」というのは誤った解釈だと批判する。しかし逆にそれらの教団でも、題目を唱えることで悪因縁を浄化する、あるいは宿命を転換させる、などということもある。

したがって、因縁や業の解釈は、既成宗派や宗教学者、あるいは新宗教や霊能者個人によっても様々で、教義解釈の違いや誤解による他教団の批判も含まれるため、それらの点に注意する必要がある。

慣用句[編集]
因縁をつける主に無法者が用いる「言いがかりをつける」こと。まったく無関係のものに関係性を理由づけて、みずからの主張を述べ立てること。因縁話(いんねんばなし)前世の因縁を説く物語。近い話であった場合には、いきさつが複雑に絡み合った場合に用いる。因縁尽(いんねんずく)逃れられない条件が重なっていること。

いろは歌

いろは歌





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曖昧さ回避 2009年〜2010年の楽曲「いろは唄」とは異なります。

いろは歌(いろはうた)とは、すべての仮名を重複させずに使って作られた誦文のこと。七五調の今様の形式となっている。のちに手習いの手本として広く受容され、近代にいたるまで用いられた。また、その仮名の配列は「いろは順」として中世から近世の辞書類や番号付け等に広く利用された。ここから「いろは」は初歩の初歩として、あるいは仮名を重複させないもの、すなわち仮名尽しの代名詞としての意味も持つ。



目次 [非表示]
1 概要
2 文脈の解釈
3 作者
4 歴史 4.1 金光明最勝王経音義のいろは歌
4.2 出土物
4.3 手習いの手本としてのいろは歌

5 その他 5.1 鳥啼歌(とりなくうた)
5.2 暗号説

6 地名でのイロハの例
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク


概要[編集]

現代に伝わるいろは歌の内容は、以下の通りである。

いろはにほへと ちりぬるをわかよたれそ つねならむうゐのおくやま けふこえてあさきゆめみし ゑひもせす
色はにほへど 散りぬるを我が世たれぞ 常ならむ有為の奥山  今日越えて浅き夢見じ  酔ひもせず (中学教科書) 



古くから「いろは四十七字」として知られるが最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では「ん」を加えることがある。四十七文字の最後に「京」の字を加えるのは、弘安10年(1287年)成立の了尊の著『悉曇輪略図抄』に「末後に京の字有り」とあって、当時既に行われていたようである。「京」の字が加えられた理由については、仮名文字の直音に対して「京」の字で拗音の発音を覚えさせるためだという説がある[1]。いろは順には「京」を伴うのが広く受け入れられ、いろはかるたの最後においても「京の夢大坂の夢」となっている[2]。

文脈の解釈[編集]

文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである[3]。

中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」などと、仏教的な無常を歌った歌と解釈してきた。12世紀の僧侶で新義真言宗の祖である覚鑁は『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は『涅槃経』の中の無常偈(むじょうげ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。

しかし語句の具体的な意味については諸説ある。前述の『悉曇輪略図抄』においては「いろは」は「色は」ではなく「色葉」であり、春の桜と秋の紅葉を指すとし、また「あさきゆめみし」の「し」は「じ」と濁音に読み、すなわち「夢見じ」という打消しの意であるとする。一方『密厳諸秘釈』はこの「し」を清音に読み、助動詞「き」の連体形「し」としている。17世紀の僧観応の『補忘記』(ぶもうき)では最後の「ず」以外すべて清音とするなど、この歌は古文献においても清濁の表記が確定していない。「夢」や「酔」が何を意味するかも多様な解釈があり、結局のところ文脈についての確定した説明は、現時点では存在しない。

作者[編集]

作者は諸説あるが、確定した説はなく、現時点では不明である。

院政期以来卜部兼方の『釈日本紀』などには、いろは歌は空海の作であるとしている。しかしそれが史実である可能性はほとんどない。空海の活躍していた時代に今様形式の歌謡が存在しなかったということもあるが、何より最大の理由は、空海の時代にはまだ存在したと考えられている上代特殊仮名遣における「こ」の甲乙の区別はもとより、「あ行のえ(e)」と「や行のえ(je)」の区別もなされていないことである[4]。ただし破格となっている「わかよたれそ」に注目し、「あ行のえ」があった可能性(わがよたれそえ つねならむ)を指摘する説も出されている[5]。

『いろはうた』の著者、小松英雄はなぜ空海が創作者とされたかについて、
1.書の三筆のひとりである。
2.用字上の制約のもとに、これほどすぐれた仏教的な内容をよみこめるのは空海のような天才にちがいない。
3.さらに、いろは歌はもともと真言宗系統の学僧のあいだで学問的用途に使われており、それが世間に流布したが、真言宗においてまず有名な僧侶といえば空海であることから。

といった理由をあげ、いろは歌の作者は真言宗系の学僧であると推定している。また後述の暗号説を根拠に、空海よりさらに古い時代の柿本人麻呂を作者とする説や[6] 、讒言で大宰府に左遷された源高明が作ったなどの説も一部に存在するが、いずれも付会の域を出ない。

歴史[編集]

文献上に最初に見出されるのは承暦3年(1079年)成立の『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうぎょうおんぎ)であり、大為爾の歌を収録する天禄元年(970年)成立の源為憲の著『口遊』には、同じく仮名を重複させない誦文であるあめつちの詞については言及していても、いろは歌のことはまったく触れられていないことから、10世紀末〜11世紀中葉に成ったものとみられる。

金光明最勝王経音義のいろは歌[編集]

文献上の初出である『金光明最勝王経音義』とは、『金光明最勝王経』についての音義である。音義とは経典に記される漢字の字義や発音を解説するもので、いろは歌は音訓の読みとして使われる仮名の一覧として使われている。ここでの仮名は借字であり、7字区切りで大きく書かれた各字の下に小さく書かれた同音の借字一つ乃至二つが添えられている(ただし「於」〈お〉の借字には小字は無い)。



以呂波耳本へ止
千利奴流乎和加
餘多連曽津祢那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須

− 『金光明最勝王經音義』

それぞれの文字には声点が朱で記されており、それぞれの字のアクセントが分かるようになっている。小松英雄は各文字のアクセントの高低の配置を分析し、このいろは歌が漢語の声調を訓練するための目的に使われたのではないかと考察している。

出土物[編集]

三重県明和町の斎宮跡で、平成22年(2010年)に平仮名でいろは歌が書かれた4片の土器が発見された。これは平安時代の11世紀末から12世紀前半の皿型の土師器であり、出土物でひらがなで記されたいろは歌としては国内最古となる。4個の破片をつなぎあわせると 縦6.7センチ、横4.3センチほどになり、内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と墨書で書かれている。繊細な筆跡と土器両面に書かれていることから斎宮歴史博物館では斎王の女官が文字の勉強のために記したと推定している[7][8]。

また木簡では、岩手県磐井郡平泉町の志羅山遺跡で出土した「らむうゐの」「おく」と書かれた12世紀後半のものなどが存在する[9][10]。

手習いの手本としてのいろは歌[編集]

仮名を網羅したいろは歌は、11世紀ごろから仮名を手習いをするための手本としても使われるようになり、江戸時代に入るとさらに仮名の手本として広く用いられた。大正時代に3,065の寺子を対象に行われた調査では、いろは歌を手習いに用いていたところは2,347箇所におよび、それに亜ぐ「村名」(近隣の地名を列挙するもの)より850箇所も多い[11]。

明治時代以前の平仮名は、ひとつの仮名に複数の異字体(変体仮名)を有するものであったが、いろは歌が手習いに用いられるときの字体は、そのばらつきがほとんどないことが知られている[12]。その字体はほとんどが現代の平仮名と一致するものであって、「え」「お」「そ」のみ異なる。このことから山田孝雄は、現代の平仮名の成立にこのいろは歌の字体が影響したことを指摘している[13]。

その他[編集]

鳥啼歌(とりなくうた)[編集]

明治36年(1903年)に万朝報という新聞に、新しいいろは歌(国音の歌)が募集された。通常のいろはに、「ん」を含んだ48文字という条件で作成されたものである。一等には、坂本百次郎の以下の歌が選ばれ、「とりな順」として、戦前には「いろは順」とともに使用されていた。

とりなくこゑす ゆめさませみよあけわたる ひんかしをそらいろはえて おきつへにほふねむれゐぬ もやのうち
鳥啼く声す 夢覚ませ見よ明け渡る 東を空色映えて 沖つ辺に帆船群れゐぬ 靄の中



暗号説[編集]

巷間の一部に、いろは歌の作者が折句で暗号を埋め込んでいるとする俗説が古くから流布している。暗号とからめて表面上の文意にも二重三重の異なった意味なども指摘される。『金光明最勝王経音義』など古文献の一部では、七五調の区切りではなく、下のように七文字ごとに区切って書かれていることがある。この書き方で区切りの最後の文字を縦読みすると「とか(が)なくてしす(咎無くて死す)」となる。これをもっていろは歌には作者の遺恨が込められており、源高明を作者とする説が出た。しかし大矢透はこれを「付会」としている[14]。また作者は高明ではなく柿本人麻呂であるとし、同じく五文字目を続けて読むと「ほをつのこめ(本を津の小女)」となる(本を津の己女、大津の小女といった読み方もある)。つまり、「私は無実の罪で殺される。この本を津の妻へ届けてくれ」といった解釈もある。

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす
いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす



義太夫浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」とは、赤穂浪士四十七士をいろは仮名四十七文字になぞらえたものだとされているが、じつはこの「とがなくてしす」の暗号が当時広く知られていることを前提として「仮名手本」と付けられたのだともいう。すなわち赤穂浪士たちが「咎無くして死んだ」ことを意味するというものである[15]。江戸時代はこの読みは偶然という見方が主流だったが、縁起が悪いので教育に用いるべきではないという意見もあった。

地名でのイロハの例[編集]
千葉県(地名にイロハ順を採用している地域が多く見られる。いろは順の記事を参照) 旭市(旭地区)
香取市(佐原地区)
匝瑳市(八日市場地区)
山武市(蓮沼地区)

諸行無常

諸行無常(しょぎょうむじょう、sabbe-saMkhaaraa-aniccaa, सब्बे संखारा अफिच्चा)とは、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。

解説[編集]

涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。

「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。
生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。

しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると言われている。
いろはにほへどちりぬるを  諸行無常
わがよたれぞつねならむ   是生滅法
うゐのおくやまけふこえて  生滅滅已
あさきゆめみじゑひもせず  寂滅為楽


パーリ語ではこの偈は次のようである。
諸行無常  aniccaa vata saGkhaara
是生滅法  uppaadavayadhammo
生滅滅已  uppajjitvaa nirujjhanti
寂滅為楽  tesaM ruupasamo sukho


三法印・四法印は釈迦の悟りの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されている。

なお平家物語の冒頭にも引用されている。

縁起

縁起(えんぎ)
1.仏教の縁起。下記で詳述。
2.一般には、良いこと、悪いことの起こるきざし・前兆の意味で用いられ、「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」などと言う。このような意味から、「縁起直し」、「縁起物」などという風俗や習慣がうかがわれる。
3.寺社縁起。故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革(由緒)や、そこに現れる功徳利益などの伝説を指す。



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基本教義

縁起 四諦 八正道
三法印 四法印
諸行無常 諸法無我
涅槃寂静 一切皆苦
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人物

釈迦 十大弟子 龍樹

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原始仏教 部派仏教
大乗仏教 密教
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宗派

仏教の宗派

地域別仏教

インド スリランカ
 中国 台湾 チベット
日本 朝鮮
東南アジア タイ


聖典

経蔵 律蔵 論蔵

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八大聖地

歴史

原始 部派
上座部 大乗
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表・話・編・歴


縁起(えんぎ、サンスクリット:pratiitya-samutpaada、パーリ語:paTicca-samuppaada)とは、仏教の根幹をなす発想の一つで、「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指す。

開祖である釈迦は、「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」という、「煩悩」と「苦」の認知的・心理的な因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)を説いたが、部派仏教・大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになった。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史的変遷 2.1 初期仏教
2.2 部派仏教
2.3 大乗仏教

3 その他 3.1 機縁説起

4 脚注
5 関連項目


概要[編集]

仏教の縁起は、釈迦が説いたとされる


「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」

という命題に始まる。これは上記したように、「煩悩」と「苦」の因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)であり、それをより明確に説明するために、十二因縁(十二支縁起)や四諦・八正道等も併せて述べられている。

部派仏教の時代になると、膨大なアビダルマ(論書)を伴う分析的教学の発達に伴い、「衆生」(有情、生物)の惑業苦・輪廻の連関を説く「業感縁起」(ごうかんえんぎ)や、現象・事物の生成変化である「有為法」(ういほう)としての縁起説が発達した。

大乗仏教においては、中観派の祖である龍樹によって、説一切有部等による「縁起の法」の形式化・固定化を牽制する格好で、徹底した「相互依存性」を説く「相依性縁起」(そうえしょうえんぎ)が生み出される一方、中期以降は、唯識派の教学が加わりつつ、再び「衆生」(有情、生物)の内部(すなわち、「仏性・如来蔵」「阿頼耶識・種子」の類)に原因を求める縁起説が発達していく。

歴史的変遷[編集]

初期仏教[編集]

経典によれば、釈迦は縁起について、



私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。

− 『南伝大蔵経』12巻、234頁

と述べた。またこの縁起の法は、



わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり

と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。

縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、



此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。

− 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)

と説かれる。

この「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)の命題は、「彼」が「此」によって生じていることを示しており、この独特の言い回しは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、前後の小命題が論理的に結び付けられていて、「此があれば彼があり」の証明・確認が、続く「此がなければ彼がない」によって、「此が生ずれば彼が生じ」の証明・確認が、「此が滅すれば彼が滅す」によって、それぞれ成される格好になっている。

既述の通り、この「此」と「彼」とは、「煩悩」と「苦」を指しており、その因果関係は、「十二因縁」等[1]や「四諦」としても表現されている。

また、この因果関係に則り、「煩悩」を発見し滅することで「苦」を滅する実践法(道諦)として、「八正道」や戒・定・慧の「三学」等が、説かれている。







此縁性





十二因縁

部派仏教[編集]

部派仏教の時代になり、部派ごとにそれぞれのアビダルマ(論書)が書かれるようになるに伴い、釈迦が説いたとされる「十二支縁起」に対して、様々な解釈が考えられ、付与されていくようになった。それらは概ね、衆生(有情、生物)の「業」(カルマ)を因とする「惑縁(煩悩)・業因→苦果」すなわち「惑業苦」(わくごうく)の因果関係と絡めて説かれるので、総じて「業感縁起」(ごうかんえんぎ)と呼ばれる。


有力部派であった説一切有部においては、「十二支縁起」に対して、『識身足論』で 「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『発智論』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで輪廻のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。そして、『婆沙論』(及び『倶舎論』『順正理論』等)では、
「刹那縁起」(せつなえんぎ)--- 刹那(瞬間)に十二支全てが備わる
「連縛縁起」(れんばくえんぎ)--- 十二支が順に連続して、無媒介に因果を成していく
「分位縁起」(ぶんいえんぎ)--- 五蘊のその時々の位相が十二支として表される
「遠続縁起」(えんばくえんぎ)--- 遠い時間を隔てての因果の成立

といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の「分位縁起」(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。説一切有部では、この「分位縁起」に立脚しつつ、十二支を「過去・現在・未来」の3つ(正確には、「過去因・現在果・現在因・未来果」の4つ)に割り振って対応させ、「過去→現在」(過去因→現在果)と「現在→未来」(現在因→未来果)という2つの因果が、「過去・現在・未来」の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。

(なお、この説一切有部の「三世両重(の)因果」と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の上座部仏教、すなわちスリランカ仏教大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている[2]。)

三世両重(の)因果



過去因→現在果

現在因→未来果





無明 愛・取


行 有




識 生
名色・六処・触・受 老死


また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された「業感縁起」だけではなく、『品類足論』に始まる、「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた(参考 : 五位七十五法)。

一般的に「因縁生起」(いんねんしょうき)の有為法として説明される縁起説[3]もその一形態である。これは、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。

なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「因」と考え、それ以外の原因は「縁」と考えるのが一般的である。






因縁生起
大乗仏教[編集]

大乗仏教においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら、様々な縁起説が成立した。

ナーガールジュナ(龍樹)は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの「法有」(五位七十五法)説に批判を加える形で、「有為」(現象、被造物)も「無為」(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した「相依性」(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる「相依性縁起」(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた。

(特に、『華厳経』で説かれ、中国の華厳宗で発達した、「一即一切、一切即一」の相即相入を唱える「法界縁起」(ほっかいえんぎ)との近似性・連関性は、度々指摘される[4]。)


大乗仏教では、概ねこうした、「有為」(現象、被造物)も「無為」(非被造物、常住実体)もひっくるめた、壮大かつ徹底的な縁起観を念頭に置いた縁起説が 、醸成されていくことになるが、こうした縁起観やそれによって得られる「無分別」の境地、そして、それと対照を成す「分別」等に関しては、いずれもそうした認識の出発点としての「心」「識」なるものが、隣り合わせの一体的な問題・関心事としてついてまわることになるので、(上記の部派仏教(説一切有部)的な「業感縁起」等とは、また違った形で)そうした「心」「識」的なものや、衆生(有情、生物)のありようとの関連で、縁起説が唱えられる面がある。(大乗仏教中期から特に顕著になってくる、仏性・如来蔵の思想や、唯識なども、こうした縁起観と関連している。)

主なものとしては、
「唯心縁起」(ゆいしんえんぎ)--- 『華厳経』十地品で説かれる、三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)。
「頼耶縁起」(らやえんぎ)--- 瑜伽行唯識派・法相宗で説かれる、阿頼耶識(あらやしき)からの縁起を唱える説。
「真如縁起」(しんにょえんぎ)・「如来蔵縁起」(にょらいぞうえんぎ)---「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)は、真如(仏性・如来蔵)からの縁によって生起するという説。馬鳴の名に擬して書かれた著名な中国撰述論書である『大乗起信論』に説かれていることでも知られる。

などがある。

また、 真言宗・修験道などでは、インドの六大説に則り、万物の本体であり、大日如来の象徴でもある、地・水・火・風・空・識の「六大」によって縁起を説く「六大縁起」(ろくだいえんぎ)などもある。

その他[編集]

機縁説起[編集]

縁起は、「機縁説起」として、衆生の機縁に応じて説を起こす、と解釈されることもある。

たとえば華厳教学で「縁起因分」という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起すことをさす。

色 (仏教)

仏教における色(しき、サンスクリット:ruupa)とは、一般に言う存在のことである。「色法」と同じ意味。

仏教ではすべてが修行・禅定を前提に考えられるため、存在はすべて物質的現象と見なされる。色は認識の対象となる物質的現象の総称で、感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって認識する対象(「境」)の一つ。特に眼識の対象。

物質的現象であるから、諸行無常・諸法無我であり、縁起であるからこのような現象が生じている。

『般若心経』の「色即是空 空即是色」における「色」は、「色・受・想・行・識」の五蘊の一つで、「(人間の肉体を含む)全ての物質」を意味する。

六欲天

六欲天(ろくよくてん)は、天部(神)のうち、いまだ欲望に捉われる6つの天界をいう。六天ともいう。またそのうちの最高位・他化自在天を特に指して言う場合もある。

他化自在天は、天魔波旬(てんま・はじゅん)の住処であることから、織田信長は「六欲天の魔王」と自称したといわれる。

概略[編集]

仏教では、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)、また十界(六道の上に声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えたもの)といった世界観がある。

このうち、六道の地獄から人間までは欲望に捉われた世界、つまり欲界という。しかし天上界では細部に分けられ、上に行くほど欲を離れ、物質的な色界・そして精神的な無色界(これを三界という)がある。

ただし、天上界の中でも人間界に近い下部の6つの天は、依然として欲望に束縛される世界であるため、これを六欲天という。

六欲天を上から記載すると次の通りとなる。
他化自在天(たけじざいてん)
欲界の最高位。また天界の第6天、天魔波旬の住所。化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん、とも)
六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする。兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん、とも)
六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん、とも)
六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界。忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん、とも)
六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所。四大王衆天(しだいおうしゅてん、四天王の住む場所)
六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所。

衆生

衆生 (しゅじょう,(sanskrit)sattva सत्त्व,(pali)satta सत्त, (sanskrit)bahujana बहुजन)は、生命あるものすべて。

概要[編集]

玄奘訳では有情(うじょう)と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記 )といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情(ひじょう)に対して、一切の生きとし生けるもののすべてを含めていわれる。この点で、多くのものが共に生存しているという意味で「bahujana」といわれ、衆人と訳される。

衆生の中には、人間だけでなく、動物など他の生命も含まれている。その点、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏といわれる十界の中でも、一般的には前の六道にあるものをさす。

したがって、衆生は、そのまま人間のことではない。この意味で「わたくしは人間である」といういい方は、仏教では適当でなく、厳密には「わたくしは人間界の衆生である」というべきである。

仏教で人間は、サンスクリット語で「マヌシャ」(manuSya मनुष)といわれ、ヨーロッパでの「マン」(en:man)「メンシュ」(de:Mensch)と同じく「考えるもの」の意味である。

仏教では人間とは人間の境界のことで、単なる個人とは考えず、多くの人に接し、人びとと共にある世界のことで、主として思考を中心に生きているものの意味である。仏教の中に、われわれが自分の在り方を求める場合、衆生という表現の方が「人間」と呼ぶより本来的である。
サンスクリット語の「サットヴア」、パーリ語の「サッタ」は、「生きているもの、存在するもの」の意味である。ところが、これを「衆生」と訳した中国人の受け取り方に、人間の在り方への深い反省がみられると同時に、そこには仏教の思想がよく言いあらわされている。

衆生が、「バフジャナ」と言われるのは、多くのものと一緒に生存しているものを意味し、衆多之生(しゅうたのしょう)の意味である。輪廻転生といろいろな生をめぐる人間の姿の反省からいわれる場合で、「いろいろと多くの生死をもっているもの」の意味である。これを人間はお互いにみな各自別々の生活を営んでいるという点から「異生」(いしょう)と同じ意味とみることがある。

「異性」とはサンスクリット語のプリタグジャナ(pRthagjana पृΝग्जन)、チベット語のソソル・ケボ(so-sor-skyes-bo)で、しばしば凡夫(ぼんぶ)と同じ意味である。各自の担っている業(ごう、karman)、現に造りつつある業によって生きている。日々心で考え、話し、行動する。この人間の心と言葉と行為は、それぞれの人びとの生活の仕方を決定し、規定づける。これによって、幸福も不幸も、一切の生活は自己の責任において行なわれる。このように、自己の生活を自己の責任において考えてゆく生き方こそ、もっとも人間らしい生き方であるとするのが、衆生と呼んで自己を見つめた仏教徒の態度を示している。

漢訳仏典で、衆生を衆縁所生(しゅうえんしょしょう)と分析する。この場合は、一般にはいろいろの原因と条件が組み合わさって、いろいろな結果を生み出すのであるから、このわたくしの生存は、単一の原因だけでなく、多くの条件によるのだと、外からの条件を重くみる考え方と思われる。
この解釈の根源は、釈迦の正覚の内容といわれる縁起(えんぎ)そのものを意味し、縁生(えんしょう)ということである。すなわち、あらゆる存在は、自分自身に存在性をもつものではなく、他によって存在性をあたえられて存在するということである。すべての存在は、もともと空(くう)でありながら、そのままで縁起して有(う)である。

自らに即して言えば、わたくしは、独りぼっちでは生きられず、他と関係することにおいてのみ生きられるのである。歴史的には過去と未来を離れて現在のわたくしはありえないし、社会的には無限ともいうべき、多くの横とのつながりにおいて生きている。これが、衆縁所生と自己をうけとった衆生の意味である。

衆生を、衆多の妄想の生起せるものとうけとった人もある。それは、本来すべてのものは一体であるのに、それぞれ差別観をもって生きる人間の妄想顛倒を反省し、自分に対する痛烈な批判をあらわしたものである。因果の道理をしらず、責任を他に転嫁しようと腐心し、他によって生かされている自己を見失って、自己を絶対視する間違った人間の生き方への批判からあらわれた人間観を示している。

輪廻

輪廻(りんね、サンスクリット:संसार saṃsāra)は、ヴェーダ、仏典などに見られる用語で、人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わること、また、そう考える思想のこと。漢字の輪廻は生命が無限に転生を繰り返すさまを、輪を描いて元に戻る車輪の軌跡に喩えたことから来ている。なお、「輪廻」をリンネと読むのは国語学上の 連声れんじょうという現象である(リン+エ=リンネ)。



目次 [非表示]
1 インドの諸宗教における輪廻 1.1 ヒンドゥー教における輪廻
1.2 仏教における輪廻 1.2.1 仏教における輪廻思想の発展
1.2.2 仏教内における輪廻思想の否定

1.3 ジャイナ教における輪廻

2 その他の地域における輪廻 2.1 古代エジプト
2.2 古代ギリシア・西洋

3 脚注
4 関連項目
5 参考文献
6 輪廻転生をモチーフにした芸術作品
7 外部リンク


インドの諸宗教における輪廻[編集]

輪廻はインドにおいてサンサーラ(saṃsāra)と呼ばれる。サンサーラとは、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることである。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とする。

ヒンドゥー教における輪廻[編集]

ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献[1]ないし最初期のウパニシャッド文献[2]においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。

五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している[3]。

これが、バラモン教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ、karman)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。

行為が行われた後、なんらかの結果(para)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)輪廻の原因とされた。

生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。

これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。

仏教における輪廻[編集]

仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)[4]。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない[4]。

仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり[5]、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[5]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。[6]このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。[7]この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[8][6]、意識が断絶することはない。[9][5]また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。[6]それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。

仏教における輪廻思想の発展[編集]

成立がもっとも早い、最古層のグループとして分類される経典に、ダンマパダ、およびスッタニパータがあり、これらの経典にも輪廻思想が登場する。 ダンマパダにおいては単純に、善趣(良き境遇)と悪趣(悪しき境遇)として説かれている。スッタニパータでは悪趣として具体的に、地獄が説かれ、そこでは獄卒によって様々な責め苦に遭わされるという。

部派仏教の時代になると、世親(ヴァスバンドゥ)の『倶舎論』に、天・人・畜生・餓鬼・地獄の五趣(五道)輪廻の説が見られ、命あるものは、この五趣を輪廻するものとされた。

後にこの五趣に、闘争にあけくれる境遇として阿修羅が加わり、これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて六道と称するようになった。

後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展した。自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚・声聞・菩薩・如来としての境遇を想定し、六道と併せて十界を立てるようになった。

仏教内における輪廻思想の否定[編集]

一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。[10]

輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[11]。 このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。

ジャイナ教における輪廻[編集]

詳細は「サンサーラ (ジャイナ教)」を参照

ジャイナ教において輪廻とは、様々な存在領域への再生・復活が繰り返されることを特徴とする、この世での生活のことを言う。輪廻は苦痛・不幸に満ちたこの世の存在であり、そのため望ましくない、放棄するべきものだとされる。輪廻には始まりがなく、魂は悠久の過去からカルマに縛られていたことに気付くのである。モクシャ(解脱)は輪廻から解放される唯一の手段である。

その他の地域における輪廻[編集]

古代エジプト[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

古代ギリシア・西洋[編集]

古代ギリシアなどにはオルペウス教やピタゴラス教団、プラトンなど一部で輪廻の発想はあったが、その後に来るキリスト教文化圏の、人間を他の動物から峻別する伝統にとっては異端である。ただ、欧米のキリスト教文化圏でも、Reincarnation(リンカネーション、もしくはリインカネーション)という霊魂の生まれ変わりないしは転生の概念は存在する。例えば神秘学の範疇においては、輪廻はその教義展開の題材となっていることが多く、信奉者も多い。また、怪奇小説や映画の題材になることもある。なお、神秘学の歴史は比較的新しいもので、これといった起源は特定しにくい。つまり、西洋においては、時間は直線のように進むが、輪廻の字義通り輪のように循環するという発想は伝統的教義には見られないのである。なお、10世紀半ばにフランス南部とイタリア北部で行われた反聖職者運動であるカタリ派はグノーシス主義の二元論などの影響を受けており、この世は悪であり、悪人が現世に転生する、という教義を持っていた。

脚注[編集]

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1.^ ブラーフマナは、ヴェーダのシュルティ(天啓文書)のひとつで、ヴェーダの祭式を解説するいくつかの注釈書。紀元前900年頃から紀元前500年頃にかけて成立したされ、この時代をブラーフマナ時代という。
2.^ 紀元前800年頃以降にサンスクリットで書かれた哲学書で「奥義書」と称される。
3.^ 『南アジアを知る事典』(1992)
4.^ a b 石飛道子『仏教と輪廻(下)ブッダは輪廻を説かなかったか』 http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation2.html
5.^ a b c V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』 http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-2.html
6.^ a b c V.F Gunaratna 『仏教から見る死(下)』 http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-3.html
7.^ A.スマナサーラ, 藤本晃(共著)『アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析』サンガ、p.83
8.^ アビダルマ教学では、二つのエネルギーの因果関係が距離の影響を受けるとは考えない。(V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』)
9.^ 仏教は完全な意識(路心 citta-vīthi)と無意識(有分心 bhavanga-citta)を区別し、どちらも意識(viññāna)と見做す。(V.F Gunaratna 『仏教から見る死(中)』)
10.^ 和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』岩波書店、望月海慧『ブッダは輪廻思想を認めたのか』日本佛教学會年報第六十六号、並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版など
11.^ アンベードカル『ブッダとそのダンマ』光文社、田中公明『性と死の密教』春秋社、山際素男『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』光文社

無色界

無色界(むしきかい、ārūpya-dhātu)は、天部の最高部に位置し三界の一つである。欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。4つの禅定があるので四禅定という。

概説[編集]

受想行識の四蘊のみより成る世界。無色と名づくのは、説一切有部では色がまったく無いからといい、大衆部・化地部などは麁色なき所謂とし、経部では色の起るを妨げずをいうからといわれる。上から非想非非想処・無所有処・識無辺処・空無辺処の4つがある。

分類[編集]

非有想非無想処(非想非非想処、有頂天とも)
無色界の最高の天。何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣な想のみが存在する定。有における天界の最上部であるため有頂天とも言う。
無所有処
無色界の第3天。何物も無しと思惟する定。
識無辺処
無色界の第2天。識は無限大であると思惟する定。
空無辺処
無色界の第1天。定を抑える一切の想を滅し、空間が無限大であると思惟する定。

色界

色界(しきかい、Skt:rūpa-dhātu)は三界の一つ。色天、色行天ともいう。

色は物質の義、あるいは変礙の義。欲望を離れた清浄な物質の世界。無色界の下にあり、欲界の上にある世界。色界に住む天人は、食欲と淫欲を断じ、男女の区別がなく、光明を食とするという。しかし情欲と色欲はある。色界の諸天は、世間の禅定並びに上品の十善を修してこの報を感じるという。色界には、初禅、二禅、三禅、四禅の四地があり、最上の色究竟天を過ぎると無色界に入る。天界28天に属す。

大乗仏教(特に唯識)は、上座部と同じく18天とするが、薩婆多部は16天、経部は17天とするなど、数には諸説ある。


なお、上位から述べると次の通りになる。
1.色究竟天
2.善見天
3.善現天
4.無熱天
5.無煩天
6.廣果天
7.無想天(薩婆多・経の2部は、廣果天の中に摂す)
8.福生天
9.無雲天
10.遍照天
11.無量浄天
12.少浄天
13.光音天
14.無量光天
15.少光天
16.大梵天
17.梵輔天
18.梵衆天


上記の天部を、四禅から初禅に振り分けると以下の通りとなる。
四禅
色究竟天・善見天・善現天・無熱天・無煩天(これを五浄居天と称す)と廣果天・福生天・無雲天三禅
遍照天・無量浄天・少浄天二禅
光音天・無量光天・少光天初禅
大梵天・梵輔天・梵衆天

欲界

欲界(よくかい、skt:kaama-dhaatu कामधातु )とは、仏教における世界観のなかで欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界。三界の一つで、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人(にん)・天上(神)が住む世界のこと。なお、天上界は、三界のうち上に行くほど色界と無色界があるが、それより下部にある欲界に属する天を六欲天という。

三界

三界(さんがい、tridhātu)は、欲界・色界・無色界の三つの総称。三有ともいう。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。なお、仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。
欲界(kāmadhātu)淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた有情の住む処。六欲天から人間界を含み、無間地獄までの世界をいう。色界(rūpadhātu)欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわれた有情が住む処。この色界は禅定の段階によって、4つ(四禅天)に分けられ、またそれを細かく18天に分ける。無色界(ārūpyadhātu)欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。

地獄 (仏教)

地獄(じごく、Skt:नरक Naraka、音写:奈落)とは仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界。欲界・冥界・六道、また十界の最下層である。一般的に、大いなる罪悪を犯した者が死後に生まれる世界とされる。

地獄は、サンスクリット語で Naraka(ナラカ)といい、奈落(ならく)と音写されるが、これが後に、演劇の舞台の下の空間である「奈落」を指して言うようになった。






目次 [非表示]
1 概説 1.1 地獄の色

2 種別
3 地獄思想の成立
4 関連項目
5 外部リンク


概説[編集]

六道の下位である三悪趣(三悪道とも、地獄・餓鬼・畜生)の1つに数えられる。あるいは三悪趣に修羅を加えた四悪趣の1つ、また六道から修羅を除く五悪趣(五趣)の1つである。いずれもその最下層に位置する。

日本の仏教で信じられている処に拠れば、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる。

こうした地獄の構造は、イタリアのダンテの『神曲』地獄篇に記された九圏からなる地獄界とも共通することがたびたび指摘される。たとえば、ダンテの地獄には、三途の川に相当するアケローン川が流れ、この川を渡ることで地獄に行き着くのである。

『古事記』には地獄に似ている黄泉国が登場する。ただし、『日本書紀』の中に反映されている日本神話の世界では、地獄は登場しない。代わりに恨みや果たせなかったのぞみなどを抱えたまま死んだ魂は、鬼となるといった物語は、菅原道真や今昔物語などのその例が見られるが、地獄に落ちてといったものはでてこない。





地獄草紙



地獄の色[編集]

東アジアの仏教では、地獄の色は道教的に、あるいはその影響を受けた陰陽道的に「黒」で表す。餓鬼は赤、畜生は黄、修羅は青、この三色を混ぜると地獄の黒になると言われる。また、節分で追われる赤鬼、黄鬼、青鬼はここから来ている。

種別[編集]

衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。 この無間地獄は阿鼻地獄と同意で、阿鼻はサンスクリットaviciを音写したものとされ、意味は共に「絶え間なく続く(地獄)」である。

その上の1万9千由旬の中に、大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層しているという。これを総称して八大(八熱)地獄という。これらの地獄にはそれぞれ性質があり、そこにいる衆生の寿命もまた異なるとされる。

また、この八熱地獄の4面に4門があり、門外に各4つの小地獄があり、これを合して十六遊増地獄という(四門地獄、十六小地獄ともいう)。八熱地獄と合せば百三十六地獄となる。また八熱地獄の横に八寒地獄または十地獄があるともいわれる。

また、山間廣野などに散在する地獄を孤独地獄という。

地獄思想の成立[編集]

元々は閻魔大王、牛頭、馬頭などの古代インドの民間信仰である死後の世界の思想が、中国に伝播して道教などと混交して、仏教伝来の際に日本に伝えられた。

そのため元来インド仏教には無かった閻魔大王を頂点とする官僚制度などが付け加えられた。その後、浄土思想の隆盛とともに地獄思想は広まり、民間信仰として定着した。

大乗仏教が発展すると、地獄は死後に赴く世界と見なされるようになった。

地獄は、日本の文化史の中では比較的新しいもので、これが特に強調されるようになったのは、平安時代の末法思想の流行からのことと思われる。

地獄思想の目的は、一つには宗教の因果応報性であり、この世界で実現されない正義を形而上世界で実現させるという機能を持つ。(→キリスト教の「最後の審判」)

神道では江戸後期に平田篤胤が禁書であったキリスト教関係の書物を読み、幽明審判思想を発明した。すなわちイエスの最後の審判のように、大国主命(おおくにぬしのみこと)が死者を「祟り神」などに格付けしてゆくという発想である。

畜生

畜生(ちくしょう、Skt:Tiryagyoni、漢訳:横生=おうしょう、傍生=ぼうしょう)とは、仏教において、神や人間以外に生まれた生物のことをいう。六道また十界の1つである。十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。

概要[編集]

畜生は、苦しみ多くして楽少なく、性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、父母兄弟の区別なく互いに残害する人間以外の禽獣虫魚など生類をいう。その種類はすこぶる多い。住所は水陸空にわたるが、本所は大海中に在すといわれる。

衆生・人間が悪業を造り、愚痴不平多くして感謝報謝なき者は死後に畜生に生るとされる。なお、大乗仏教ではこの思想は後々に、死後生まれ変わる世界としてだけではなく、人間が実生活における所行に応じて現れた結果、今生においての精神状態をも指すようになった。

漢語の「畜生」とは、「家畜・蓄養」と「衆生」のことで、「管子」禁蔵や、「韓非子」解老等に用例が見られる。

俗語への転用[編集]

本来は仏教用語であるが、次第に、動物のような生き方をする人に対する呼称となり、さらに転じて「犬畜生」のように他人を罵倒したり、自分の失敗や敗北を悔やんだりする言葉と変化していった。近親相姦のことを畜生道ということもある。

阿修羅

阿修羅(あしゅら、あすら、Skt:asuraの音写、意訳:非天)は八部衆に属する仏教の守護神[1]。修羅(しゅら)とも言う[2]。

大乗仏教時代に、その闘争的な性格から五趣の人と畜生の間に追加され、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主となった。



目次 [非表示]
1 概要
2 歴史的背景
3 戦闘神になった背景
4 阿修羅王と住処 4.1 阿修羅道(修羅道)

5 出典
6 関連項目
7 外部リンク


概要[編集]

古代ペルシアの聖典『アヴェスター』に出る最高神アフラ・マズダーに対応するといわれる(以下、歴史的背景の項を参照)[3]。それが古代インドの魔神アスラとなり、のちに仏教に取り入れられた[2]。古くインドでは生命生気の善神であった[2]。天の隣国だが天ではなく、男の顔立ちは端正ではない。醸酒にも失敗し、果報が尽きて忉利天にも住めないといわれる。

本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、「a」が否定の接頭語となり、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され[2]、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。また、中国において「阿」の文字は子供への接頭辞(「○○ちゃん」)の意味合いを持つため「修羅」と表記されることもあった。帝釈天とよく戦闘した神である[2]。『リグ・ヴェーダ』では最勝なる性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。

仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた[1]。なお五趣説では認めないが、六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。

興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。

姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い[2]。

奈良県・興福寺の八部衆像・阿修羅像(国宝)や[2]、京都府・三十三間堂の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が有名。

日本語では、争いの耐えない状況を修羅道に例えて修羅場(しゅらば)と呼ぶ場合もある。激しい闘争の行われている場所、あるいはそのような場所を連想させる状況を指す。

歴史的背景[編集]

一般的には、サンスクリットのアスラ(asura)は歴史言語学的に正確にアヴェスター語のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い神格であると考えられている[3]。宗教学的にも、ヴェーダ文献においてアスラの長であるとされたヴァルナとミトラは諸側面においてゾロアスター教のアフラ・マズダーとミスラに対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。

ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーやそれらの神が中央アジアの初期アーリア人経由でインドに伝来してアスラとなり[3]、中国で阿修羅の音訳を当てた[2]。阿素羅[2]、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛[2]、阿須倫[2]、阿須輪などとも音写する。

仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けた。阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。

戦闘神になった背景[編集]

阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されているが、阿修羅はもともと天部の神であった。阿修羅が天部から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある。

阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。

阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。

帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところへ蟻の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から軍を止めた。それを見た阿修羅は驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという。

一説では、この話が天部で広まって阿修羅が追われることになったといわれる。また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。

阿修羅を意訳すると「非天」というが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義から名づけられた。

阿修羅王と住処[編集]

阿修羅王の名前や住処、業因などは経論によって差異がある。パーリ語(Pl)では、阿修羅王に Rāhu、Vepacitti、Sambara、Pahārāda、Verocana、Bali の5つの名が見られる。ただし大乗仏典では、一般的に阿修羅王は4人の王とされることが多い。 『法華経』序品には、4人の王の名を挙げ、各百千の眷属を有しているとある。

また『十地経』や『正法念処経』巻18〜21には、これら4人の住処・業因・寿命などを説明しており、其の住処は妙高山(須弥山)の北側の海底地下8万4千由旬の間に4層地に分けて住していると説く。以下説明は主に正法念処経による。
羅喉阿修羅王(らご) Skt及びPl:Rāhu、ラーフ、パーリ語(PI):訳:障月、執月、月食など、 
その手でよく日月を執て、その光を遮るので、この名がある。

(住処) - 第1層、海底地下21000由旬を住処とする。身量広大にして須弥山のようで、光明城に住み、縦横8000由旬。(業因) - 前世にバラモンであった時、1つの仏塔が焼き払われるのを防ぎ、その福徳により後身に大身相を願った。不殺生の実践したが、諸善業を行わなかったので、その身が破壊(はえ)し、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。(寿命) - 人の500歳を1日1夜として、その寿命は5000歳婆稚阿修羅王(ばち、婆稚とも) Skt及びPl:Bali、バリ、訳:被縛
帝釈天と戦って破れ、縛せられたためにこの名がある。正法念処経では勇犍(ゆうごん)阿修羅王。ラーフの兄弟で、彼の子らはみなVerocaと名づく。

(住処) - 第1層の下の第2層、さらに21000由旬の月鬘(げつまん)という地で、双遊城に住み、縦横8000由旬。(業因) - 前世に他人の所有物を盗み、不正の思いをなして離欲の外道に施して、飲食(読み:おんじき)を充足させたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。(寿命) - 人の600歳を1日1夜として、その寿命は6000歳佉羅騫駄阿修羅王(きゃらけんだ) Skt:Śambara、Pl:Sambara、サンバラ、訳:勝楽、詐譌、木綿など
正法念処経では華鬘(けまん)阿修羅王と訳される。

(住処) - 第2層の下の第3層、さらに21000由旬の修那婆(しゅなば)という地で、鋡毘羅城(かんびら)に住み、縦横8000由旬。(業因) - 前世に食を破戒の病人に施して、余の衆は節会の日により相撲や射的など種々の遊戯をなし、また不浄施を行じたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。(寿命) - 人の700歳を1日1夜として、その寿命は7000歳毘摩質多羅阿修羅王(びましったら) Skt:Vemacitra、Vimalacitra、Pl:Vepacitti、ヴェーパチッティ、訳:浄心、絲種種、綺書、宝飾、紋身など
乾闥婆の娘を娶り、娘の舎脂を産んだ。前出のように舎脂は帝釈天に嫁いだため、帝釈天の舅にあたる。

(住処) - 第3層の下の第4層、さらに21000由旬の不動という地で、鋡毘羅城(かんびら)に住み、縦横13000由旬。(業因) - 前世に邪見の心を以って持戒する者に施して、余の衆は自身のために万樹を護ったので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
その他『起世経』では、須弥山の東西の面を去ること1000由旬の外に毘摩質多羅王の宮があり、縦横8万由旬であるといい、また修羅の中に極めて弱き者は人間山地の中に在りて住す、すなわち今、西方の山中に大きくて深い窟があり、多く非天=阿修羅の宮があるという。

阿修羅道(修羅道)[編集]

六道のひとつ。妄執によって苦しむ争いの世界。果報が優れていながら悪業も負うものが死後に阿修羅に生る。

人間道の下とされ、天道・人間道と合わせて三善趣(三善道)、あるいは畜生道・餓鬼道・地獄道の三悪趣と合わせて四悪趣に分類される。五趣に修羅道はなく、天道に含まれていた。また「増一阿含経」では、神通力を持つ魔羅身餓鬼の阿修羅と、海底地下84000由旬を住処とする畜生道の阿修羅が居るとしている。

「起世経」によれば、阿修羅たちは身長や寿命、三十三天の住人と特徴を同じくする。身長は1由旬で、寿命は一昼夜が人間の100年で1000歳。形色、楽、寿命の3点において人間に勝る。「正法念処経」では寿命は5000歳。

「正法念処経」によれば、衣食は望むままに現れ、天界と変わらぬ上等なものが得られる。「大智度論」によれば人間道に勝る食事ではあるが、竜王の食事が最後の一口がカエルに変わるように、修羅の食事も食べ終わるとき口の中に泥が広がるため、人間道に勝るものではない。

人間界

人間界(にんげんかい、Skt:Manussya)は、人間がいる世界のこと。

仏教における人間界[編集]

仏教における人間界とは、迷界・欲界・六道、また十界の中の1つの世界にして、地獄から数えて第5番目に位置する。また三善道[1]の1つ。過去世において、五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)、また中品の十善の善因を修した者が生れる場所とされる。

ストーリーにおける人間界[編集]

小説・漫画・アニメ・映画などのストーリーにおいて、人間のいる世界(現世、この世)とは別の世界(異世界、パラレルワールド)を取り扱った作品の場合、その世界に対して人間のいる世界を「人間界」と表現することがある。

天 (仏教)

天(てん)は、仏教の世界観の中で、神々や天人が住むとされる最上位の世界。天界(てんかい、てんがい)、天道(てんどう)、天上界(てんじょうかい、てんじょうがい)、天上道(てんじょうどう)。サンスクリットではデーヴァローカ (devaloka, deva loka)。

天の住人を意味するデーヴァ (देव, deva) も天と訳されることがある(あるいは天部、天神、天人、天部神)。天の住人(天人)一般についてはここで併せて述べるが、信仰の対象としての仏教の神々については天部も参照。なお、女性の天人を天女ともいう。

六道の中の天[編集]

天道は、六道の最上位である(この文脈では天道と訳すことが多い)。そのすぐ下位が人の住む人道である。

天人は長寿で、空を飛ぶなどの神通力が使える。また、快楽に満ち、苦しみはない。

ただし、天道はあくまで輪廻の舞台である六道の1つであり、天人も衆生にすぎない。天人は不死ではなく(天人が死ぬ前には天人五衰という兆しが現れる)、死ねば他の衆生同様、生前の行いから閻魔が決めた六道のいずれかに転生する。

天人は悟りを開いてはおらず、煩悩から解放されていない。悟りを開いたものは仏陀であり、輪廻から開放され六道に属さない涅槃(浄土、極楽)へと行く。

現在の大乗仏教では人道の下に阿修羅が住む阿修羅道が位置するが、初期仏教では六道のうち阿修羅道がなく五趣とされ、阿修羅は天に住んでいた。

天台宗では六道の上に仏陀が属する仏界などの四聖を加え十界とするため、その上から第5位が天界となる。

三界の中の天[編集]

三界も六道と同じく、輪廻の舞台となる世界の分類だが、分け方が異なる。三界のうち上2つの無色界・色界と、最下位の欲界のうち上部の六欲天が、天に相当する。

天の分類[編集]

天はより細かく分けられる。以下で上位から述べる28天が、日本の大乗仏教では標準的である。

これらの天の名の多くは、世界と同時に、その世界の住人をも意味する。また、「〜天」の「天」は省略されることもある。
無色界(無色天、無色界天、四禅定) - 欲望や色(肉体や五感などの物質的世界)から超越した、精神のみの世界。禅定の段階により4天に分けられる。 非想非非想天(非想非非想処、非想非非想処天、非想天、有頂天)
無所有天(無所有処、無所有処天)
識無辺天(識無辺処、識無辺処天)
空無辺天(空無辺処、空無辺処天、無量空処)

色界(色天、色界天、色行天、色界十八天) - 欲望からは開放されたが、色はまだ有している世界。禅定の段階により大きく4つに分けられる。 四禅天(四禅九天) बृहत्फल (Bṛhatphala) 五浄居天(首陀会天:智度論では阿那含の住処とする) 色究竟天(阿迦尼吒天)
善見天 - 善見天と善現天は位置が逆になることがある。
善現天
無熱天
無煩天(浄居天)

無想天 - 外道天とする。置かなかったり、広果天に含めることがある。
広果天
(福愛天をこの位置に置くことがある)
福生天
無雲天

三禅天(三禅三天) शुभकृत्स्न (Śubhakṛtsna) 遍浄天
無量浄天
少浄天

二禅天(二禅三天) आभास्वर (Ābhāsvara) 光音天(極光浄天)
無量光天
少光天

初禅天(初禅三天、一禅天) ब्रह्मा (Brahmā) 大梵天 - 梵天が住む。
梵輔天
梵衆天


欲界 कामधातु (Kāmadhātu) - 欲にとらわれた世界。 六欲天 他化自在天(第六天) परिनिर्मित वशवर्तिन् (Parinirmita-vaśavartin) - 天魔が住む。
化楽天(楽変化天) निर्माणरति (Nirmāṇarati)
兜率天(兜率陀天、兜卒天、都率天、覩史多天) तुषित (Tuṣita)
焔摩天(閻魔天) याम (Yāma)
忉利天(三十三天) त्रायसत्रिंश (Trāyastriṃśa) - 帝釈天が住む。
四天王天(四大王衆天、四王天) चातुर्महाराजिककायिक (Cāturmahārājikakāyika)

この下に、天以外の世界が続く。

六道

六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。

なお一部には、天狗など、この輪廻の道から外れたものを俗に外道(魔縁)という場合もある(ただし、これは仏教全体の共通概念ではない)。



目次 [非表示]
1 六道一覧
2 歴史
3 観音信仰
4 六道輪廻図
5 関連項目


六道一覧[編集]
天道天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。人間道人間道は人間が住む世界である。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもある。修羅道修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。畜生道畜生道は牛馬など畜生の世界である。ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。餓鬼道餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われる。地獄道地獄道は罪を償わせるための世界である。詳細は地獄を参照のこと。
このうち、地獄から畜生までを三悪趣(三悪道、あるいは三悪、三途)と呼称し、これに対し修羅から天上までを三善趣と呼称する場合がある。また地獄から修羅までを四悪趣と称することもある。

また六道から修羅を除いて五趣(五道)と称すこともある。初期仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上を五趣とし、修羅はなかった。つまり五趣の方が六道より古い概念とされる。これは当初、修羅(阿修羅)が、天部に含まれていたもので、大乗仏教になってから天部から修羅が派生して六道となった。したがって、これらを一括して五趣六道という。

歴史[編集]

仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。

インド・中国起源ではないが、日本では11世紀ころ、六道の各々に配当された六地蔵が各所に祀られ、大いに庶民から信仰された。

観音信仰[編集]

観音菩薩の導きで六道世界より救われるという観音信仰がある。その六つの世界に応じたそれを六観音とよび天台宗と真言宗とでは、人間道のそれが不空羂索観音と准胝観音とで異なっている。七観音とよばれるものは、この二観音を含めたものである。


六道

真言宗の六観音

天台宗の六観音


天道
如意輪観音 如意輪観音

人間道
准胝観音 不空羂索観音

修羅道
十一面観音 十一面観音

畜生道
馬頭観音 馬頭観音

餓鬼道
千手観音 千手観音

地獄道
聖観音 聖観音

六道輪廻図[編集]





六道輪廻図(ラサのセラ寺)
六道輪廻図ではそれぞれ、
怪物と骸骨 - 無常大鬼
外周の円環 - 人の行い(十二因縁)
次の内側円環 - 六道(上半分が天道・人道・修羅道の三善趣。下半分が畜生道・餓鬼道・地獄道の三悪趣)
最も内側の円環 - 人(右半分が悪行により地獄道に落ちる姿、左半分は善行により天道に行く姿)
中心の円 - 貪(鳥)・瞋(蛇)・癡(豚)の三毒

を表している。

餓鬼

餓鬼(がき、Skt:Preta、音写:薜茘多=へいれいた)は、仏教において、亡者のうち餓鬼道に生まれ変わったものをいう。Preta とは元来、死者を意味する言葉であったが、後に強欲な死者を指すようになった。六道また十界の1つである。十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。



目次 [非表示]
1 概要
2 餓鬼の種類
3 餓鬼への供養
4 民間信仰における餓鬼
5 俗語の転用
6 脚注
7 関連項目


概要[編集]

俗に、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされている。ただし仏教の立場から正確にいえば、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。しかし大乗仏教では、後々に死後に生まれ変わるだけではなく、今生においてそのような行状をする人の精神境涯をも指して言われるようになった。

餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる。極端な飢餓状態の人間と同じように、痩せ細って腹部のみが丸く膨れ上がった姿で描かれることが多い。

「正法念処経」巻16には、餓鬼の住処は2つある。
1.人中の餓鬼。この餓鬼はその業因によって行くべき道の故に、これを餓鬼道(界)という。夜に起きて昼に寝るといった、人間と正反対の行動をとる。
2.薜茘多(餓鬼)世界(Preta-loka)の餓鬼。閻浮提の下、500由旬にあり、長さ広さは36000由旬といわれる。しかして人間で最初に死んだとされる閻魔王(えんまおう)は、劫初に冥土の道を開き、その世界を閻魔王界といい、餓鬼の本住所とし、あるいは餓鬼所住の世界の意で、薜茘多世界といい、閻魔をその主とする。余の餓鬼、悪道眷属として、その数は無量で悪業は甚だ多い。

餓鬼の種類[編集]

餓鬼の種類はいくつかある。

「阿毘達磨順正理論」31は、3種×3種で計9種の餓鬼がいると説く。
1.無財餓鬼、一切の飲食ができない餓鬼。飲食しようとするも炎となり、常に貪欲に飢えている。唯一、施餓鬼供養されたものだけは食することができる。
2.少財餓鬼、ごく僅かな飲食だけができる餓鬼。人間の糞尿や嘔吐物、屍など、不浄なものを飲食することができるといわれる。
3.多財餓鬼、多くの飲食ができる餓鬼。天部にも行くことが出来る。富裕餓鬼ともいう。ただしどんなに贅沢はできても満足しない。



「一に無財鬼、二に少財鬼、三に多財鬼なり。この三(種)にまた各々三(種)あり。無財鬼の三は、一に炬口鬼、二に鍼口鬼、三に臭口鬼なり。少財鬼の三は、一に鍼毛鬼(その毛は針の如く以て自ら制し他を刺すなり)、二に臭毛鬼、三に癭鬼なり。多財鬼の三は、一に希祠鬼(常に社祠の中にありその食物を希うなり)、二に希棄鬼(常に人の棄つるを希うて之を食すなり)、三に大勢鬼(大勢大福、天の如きなり)」

「正法念処経」では36種類の餓鬼がいると説かれている。
1.鑊身(かくしん)、私利私欲で動物を殺し、少しも悔いなかった者がなる。眼と口がなく、身体は人間の二倍ほども大きい。手足が非常に細く、常に火の中で焼かれている。
2.針口(しんこう)、貪欲や物惜しみの心から、布施をすることもなく、困っている人に衣食を施すこともなく、仏法を信じることもなかった者がなる。口は針穴の如くであるが腹は大山のように膨れている。食べたものが炎になって吹き出す。蚊や蜂などの毒虫にたかられ、常に火で焼かれている。
3.食吐(じきと)、自らは美食を楽しみながら、子や配偶者などには与えなかった者がなる。荒野に住み、食べても必ず吐いてしまう、または獄卒などに無理矢理吐かされる。身長が半由旬もある。
4.食糞(じきふん)、僧に対して不浄の食べ物を与えたものがなる。糞尿の池で蛆虫や糞尿を飲食するが、それすら満足に手に入らず苦しむ。次に転生してもほとんど人間には転生できない。
5.無食(むじき)、自分の権力を笠に着て、善人を牢につないで餓死させ、少しも悔いなかった者がなる。全身が飢渇の火に包まれて、どんなものも飲食できない。池や川に近づくと一瞬で干上がる、または鬼たちが見張っていて近づけない。
6.食気(じっけ)、自分だけご馳走を食べ、妻子には匂いしか嗅がせなかった者がなる。供物の香気だけを食すことができる。
7.食法(じきほう)、名声や金儲けのために、人々を悪に走らせるような間違った説法を行った者がなる。飲食の代りに説法を食べる。身体は大きく、体色は黒く、長い爪を持つ。人の入らぬ険しい土地で、悪虫にたかられ、いつも泣いている。
8.食水(じきすい)、水で薄めた酒を売った者、酒に蛾やミミズを混ぜて無知な人を惑わした者がなる。水を求めても飲めない。水に入って上がってきた人から滴り落ちるしずく、または亡き父母に子が供えた水のわずかな部分だけを飲める。
9.悕望(けもう)、貪欲や嫉妬から善人をねたみ、彼らが苦労して手に入れた物を詐術的な手段で奪い取った者がなる。亡き父母のために供養されたものしか食せない。顔はしわだらけで黒く、手足はぼろぼろ、頭髪が顔を覆っている。苦しみながら前世を悔いて泣き、「施すことがなければ報いもない」と叫びながら走り回る。
10.食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない。
11.食鬘(じきまん)、仏や族長などの華鬘(花で作った装身具)を盗み出して自らを飾った者がなる。華鬘のみを食べる。
12.食血(じきけつ)、肉食を好んで殺生し、妻子には分け与えなかった者がなる。生物から出た血だけを食べられる。
13.食肉(じきにく)、重さをごまかして肉を売った者がなる。肉だけを食べられる。四辻や繁華街に出現する。
14.食香烟(じきかえん)、質の悪い香を販売した者がなる。供えられた香の香りだけを食べられる。
15.疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける。
16.伺便(しべん)、人々を騙して財産を奪ったり、村や町を襲撃、略奪した者がなる。人が排便したものを食し、その人の気力を奪う。体中の毛穴から発する炎で焼かれている。
17.地下(じげ)、悪事で他人の財産を手に入れた上、人を縛って暗黒の牢獄に閉じ込めた者がなる。暗黒の闇である地下に住み、鬼たちから責め苦を受ける。
18.神通(じんつう)、他人から騙し取った財産を、悪い友人に分け与えたものがなる。涸渇した他の餓鬼に嫉妬され囲まれる。神通力を持ち、苦痛を受けることがないが、他の餓鬼の苦痛の表情をいつまでも見ていなければならない。
19.熾燃(しねん)、城郭を破壊、人民を殺害、財産を奪い、権力者に取り入って勢力を得た者がなる。身体から燃える火に苦しみ、人里や山林を走り回る。
20.伺嬰児便(しえいじべん)、自分の幼子を殺され、来世で夜叉となって他人の子を殺して復讐しようと考えた女がなる。生まれたばかりの赤ん坊の命を奪う。
21.欲食(よくじき)、美しく着飾って売買春した者がなる。人間の遊び場に行き惑わし食物を盗む。身体が小さく、さらに何にでも化けられる。
22.住海渚(じゅうかいしょ)、荒野を旅して病苦に苦しむ行商人を騙し、品物を僅かの値段で買い取った者がなる。人間界の1000倍も暑い海(ただし水は枯れ果てている)の中洲に住む。朝露を飲んで飢えをしのぐ。
23.執杖(しつじょう)、権力者に取り入って、その権力を笠に着て悪行を行った者がなる。閻魔王の使い走りで、ただ風だけを食べる。頭髪は乱れ、上唇と耳は垂れ、声が大きい。
24.食小児(じきしょうに)、邪悪な呪術で病人をたぶらかした者が、等活地獄の苦しみを得た後で転生する。生まれたばかりの赤ん坊を食べる。
25.食人精気(じきにんしょうき)、戦場などで、必ず味方になると友人を騙して見殺しにした者がなる。人の精気を食べる。常に刀の雨に襲われている。10年〜20年に一度、釈迦、説法、修法者(仏・法・僧)の三宝を敬わない人間の精気を奪うことができる。
26.羅刹(らせつ)、生き物を殺して大宴会を催し、少しの飲食を高価で販売した者がなる。四つ辻で人を襲い、狂気に落としいれ殺害して食べる。
27.火爐焼食(かろしょうじき)、善人の友を遠ざけ、僧の食事を勝手に食った者がなる。燃え盛る炉心の中で残飯を食べる。
28.住不浄巷陌(じゅうふじょうこうはく)、修行者に不浄の食事を与えた者がなる。不浄な場所に住み、嘔吐物などを喰う。
29.食風(じきふう)、僧や貧しい人々に施しをすると言っておきながら、実際に彼らがやってくると何もせず、寒風の中で震えるままにしておいた者がなる。風だけを食べる。
30.食火炭(じきかたん)、監獄の監視人で、人々に責め苦を与え、食べ物を奪い、空腹のため泥土を喰うような境遇に追いやった者がなる。死体を火葬する火を食べる。一度この餓鬼になった者は、次に人間に転生しても必ず辺境に生まれ、味のある物は喰うことができない。
31.食毒(じきどく)、毒殺して財産を奪ったものがなる。険しい山脈や氷山に住み、毒に囲まれ、夏は毒漬けと天から火が降り注ぎ、冬には氷漬けと刀の雨が降る。
32.曠野(こうや)、旅行者の水飲み場であった湖や池を壊し、旅行者を苦しめた上に財物を奪った者がなる。猛暑の中、水を求めて野原を走り回る。
33.住塚間食熱灰土(じゅうちょうかんじきねつかいど)、仏に供えられた花を盗んで売った者がなる。屍を焼いた熱い灰や土を食べる。月に一度ぐらいしか食べられない。飢えと渇き・重い鉄の首かせ・獄卒に刀や杖で打たれる三つの罰を受ける。
34.樹中住(じゅちゅうじゅう)、他人が育てた樹木を勝手に伐採して財産を得たものがなる。樹木の中に閉じ込められ、蟻や虫にかじられる。木の根元に捨てられた食物しか喰えない。
35.四交道(しきょうどう)、旅人の食料を奪い、荒野で飢え渇かせた者がなる。四つ角に住み、そこに祀られる食べ物だけを食べられる。鋸で縦横に切られ、平らに引き延ばされて苦しむ。
36.殺身(せっしん)、人に媚びへつらって悪事を働いたり、邪法を正法のごとく説いたり、僧の修行を妨害した者がなる。熱い鉄を飲まされて大きな苦痛を受ける。餓鬼道の業が尽きると地獄道に転生する。

餓鬼への供養[編集]
1.中元(旧暦の7月15日)の日、餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する施餓鬼(施餓鬼会)という法会が行われる。
2.餓鬼に施しを与えて鎮める方法がある。地蔵菩薩の足元へ水やお粥を供え、経文をあげると餓鬼に飲ませたり食べさせたりできる。これを行うと、餓鬼にとりつかれても飢えが鎮まる。[要出典]

民間信仰における餓鬼[編集]

仏教の布教とともに餓鬼が市井に広まると、餓鬼は餓鬼道へ落ちた亡者を指す仏教上の言葉としてではなく、飢えや行き倒れで死亡した人間の死霊、怨念を指す民間信仰上の言葉として用いられることが多くなった。こうした霊は憑き物となり、人間に取り憑いて飢餓をもたらすといい、これを餓鬼憑きという[1]。

俗語の転用[編集]

また、子供は貪るように食べることがあるため、その蔑称・俗称として餓鬼(ガキ)が比喩的に広く用いられる。餓鬼大将・悪餓鬼など。

四天王

四天王(してんのう、サンスクリット語:चतुर्महाराज caturmahārāja)は、欲界の六欲天の中、初天をいい、またこの天に住む仏教における、4人の守護神をいう。この四天王が住む天を四王天、あるいは四大王衆天(しおうてん、しだいおうしゅうてん)ともいう。



目次 [非表示]
1 概要
2 日本での信仰
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク


概要[編集]

六欲天の第1天、四大王衆天の主。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で伴に仏法を守護する。

須弥の四洲(東勝神洲=とうしょうしんしゅう、南瞻部洲=なんせんぶしゅう、西牛貨洲=さいごけしゅう、北倶廬洲=ほっくるしゅう)を守護し、忉利天主・帝釈天の外臣である。この天に住む者の身長は半由旬、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当する。
持国天 - 東勝神洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多を眷属とする。
広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。
多聞天 - 北倶廬洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天[1]。夜叉、羅刹を眷属とする。
高砂市時光寺(播州善光寺)の四天王





東方持国天






南方増長天






西方広目天






北方多聞天

中国北京十方普覚寺(臥佛寺)の四天王





東方持国天






南方増長天






西方広目天






北方多聞天

中国北京大覚寺の四天王





東方持国天






南方増長天






西方広目天






北方多聞天


また、仏教の「四天王」から転じて、ある分野における有力な四人組(カルテット)を、俗に「○○四天王」と呼ぶようになった。

日本での信仰[編集]

四天王は早くから日本でも信仰されていた。 『日本書紀』によれば仏教をめぐっておこされた蘇我馬子と物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したとされる。(後、荒陵の現在地に移転。)

後世の仏像製作においても、釈迦三尊像などのメインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像*が配置されている。四天王像としては、東大寺(奈良市)の戒壇院のものが有名である。

鳩槃荼

鳩槃荼(くばんだ)Kumbhandaは、インド神話の魔神で、仏教では護法神(鬼神)の一族である。弓槃荼・倶満拏とも書く。サンスクリットではカバンダ (Kabhanda) パ−リ語でクバンダ (Kubhanda)。

陰嚢のような形をしていることから陰嚢・甕形鬼・冬瓜鬼と漢訳される。また、人の睡眠を妨げて災難を引き起こすことから厭魅鬼・厭眉鬼とも呼ばれる。

地位[編集]

鳩槃荼は、天部や竜(八大竜王)などと同じく鳩槃荼衆とも呼ばれる集団の名であり、大黒天や弁才天のような一人の神を指すものではない。

紀元前10世紀頃に作られたヴェーダ神話では、暴風神ルドラに従っていた。

仏典では、四天王の一尊で南方を守護する増長天に従う。

形象[編集]





興福寺八部衆像より、右が鳩槃荼像
鳩槃荼の形象について説く経典がないことから、鳩槃荼の形象については不明である。

胎蔵界曼荼羅最外院の南方に首から上が馬で体が人間の形をした二神がそれぞれ鼓とばつ鈸(ばつ)を持つ姿に描かれるが、これは緊那羅とする説もある。なお、奈良興福寺では八部衆の一人として一面二臂で武人形の像があり、八部衆の夜叉に当てられる。

カバ(クンバ)は「瓶」を意味し、瓶のような性器をもつとされ、男性を誑かしては精気を吸い取るといわれている。瓶そのものに変身することもできる。

元来は女性しかいないとされていたが、密教では男女の区別があるとされており、身長3mで、黒い肌をした馬頭の人間の姿をした怪物とされた。

ピシャーチャ

ピシャーチャ(Piśāca, デーヴァナーガリー表記:पिशाच)は、インド神話における鬼神の1種。食人鬼。グールに相当。人の血肉を喰らい、ヴェーダでは喰屍鬼とも呼ばれる。叙事詩では単に悪鬼の意味で用いられることもあり、その場合はアスラやラークシャサと変わりない。『ブリハット・カター』の縁起譚で述べられているカーナブーティのように神の呪いでピシャーチャに変えられることもある。

仏典では「畢舎遮」、「毘舎遮」などと音写され、持国天の従者とされる。

持国天

持国天(じこくてん)、梵名ドゥリタラーシュトラ (धृतराष्ट्र [dhRtaraaSTra] 『国を支える者』、提頭頼咤)とは仏教における天部の仏神。増長天、広目天、多聞天と共に四天王の一尊に数えられる。三昧耶形は刀。種子はヂリ(dhR)。

持国天は四天王の一体、東方を護る守護神として造像される場合が多く、仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。

持物は刀の場合が多い。例えば胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれる。また、中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表される。左図は鎌倉時代作の四天王像のうちの持国天像で、足下に邪鬼を踏みつけ、刀を持つ右手を振り上げて仏敵を威嚇し、左手を腰に当てる姿に表されている。

本来はインド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神として取り入れられた。仏の住む世界を支える須弥山の4方向を護る四天王の1人として東面の中腹である第四層の賢上城に住み、東の方角、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち東勝身州(とうしょうしんしゅう)を守護するとされる。

また、乾闥婆や畢舎遮を配下とする。

八部衆

八部衆(はちぶしゅう)または天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)は、仏法を守護する8神。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが仏教に帰依し、護法善神となったものである。十大弟子と共に釈迦如来の眷属を務める。

概要[編集]

八部衆とは8つの種族という意味である。これにはいくつかの説がある。通常に用いられるのは「舎利弗問経」を基本に、「法華経」や「金光明最勝王経」などの説により、天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の8つを指す。

ただし、奈良・興福寺の著名な八部衆像の各像の名称は上述のものと異なり、寺伝では五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)と呼ばれている。

なお、四天王に仕える八部鬼衆は、これらの八部衆と名称も類似し一部重複するので間違われやすいが基本的に異なる。ちなみに八部鬼衆は、乾闥婆・毘舎闍・鳩槃荼・薛茘多・那伽(龍)・富單那・夜叉・羅刹の名を挙げる。

法華経の序品(じょぼん)には、聴衆として比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(出家在家の男女)などの「人」のほかに、この八部衆を「非人」として名が連ねられている。





緊那羅(Kimnara、きんなら)天(Deva、てん)梵天、帝釈天を初めとする、いわゆる「天部」の神格の総称。欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四空処天のこと。光明・自然・清浄・自在・最勝の義を有す。古代インドにおける諸天の総称。天地万物の主宰者。龍(Naga、りゅう)「竜」、「竜王」などと称される種族の総称。 蛇を神格化したもので、水中に棲み、雲や雨をもたらすとされる。また、釈尊の誕生の際、灌水したのも竜王であった。人面人形で冠上に龍形を表す。夜叉(Yaksa、やしゃ)古代インドの悪鬼神の類を指すが、仏法に帰依して護法善神となったもの。空中を飛行する。乾闥婆(Gandharva、けんだつば)香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神とも言う。 仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされている。インド神話におけるガンダルヴァであり、ギリシア神話におけるケンタウロスと同源であると推定されることからインド・イラン共通時代よりもさらに印欧祖語時代に起源をさかのぼる。阿修羅(Asura、あしゅら)古代インドの戦闘神であるが、インド・イラン共通時代における中央アジア、イラン方面の太陽神が起源とも言われる。通常、三面六臂に表す。迦楼羅(Garuda、かるら)ガルダを前身とする、竜を好んで常食するという伝説上の鳥である。鷲の如き獰猛な鳥類の一類を神格化したもの。緊那羅(Kimnara、きんなら)音楽神であり、また半身半獣の人非人ともいう。人にも畜生にも鳥にも充当しない。仏教では乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、美しい声で歌うという。摩睺羅伽(Mahoraga、まこらが)緊那羅とともに帝釈天の眷属の音楽神ともいう。または廟神ともいわれる。身体は人間であるが首は蛇である。龍種に属す。大蛇(ニシキヘビとも)を神格化したもの。
興福寺の八部衆像[編集]





阿修羅像
日本における八部衆像の作例としては、奈良・興福寺の旧 西金堂(さいこんどう)安置像(奈良時代、国宝)がよく知られる。 この他には、涅槃図などの絵画作品に諸菩薩や釈尊の弟子達と共に描かれる場合があり、法隆寺五重塔初層北面の釈迦涅槃を表した塑像群の中にも阿修羅を初めとする八部衆の姿が認められるが、彫像の作例は他にほとんど見ない。
千手観音の眷属である二十八部衆(日本での代表的な作例は京都・三十三間堂、同・清水寺など)の内にも八部衆に相当する像が包含されている。

興福寺の八部衆像は麻布を漆で貼り重ねた乾漆造で、廃絶した西金堂に安置されていた。西金堂は光明皇后が亡母橘三千代の追善のため天平6年(734年)建立したもので、本尊釈迦三尊像を中心に、梵天・帝釈天像、八部衆像、十大弟子像などが安置されていたことが知られる。京都国立博物館蔵の「興福寺曼荼羅図」(平安末〜鎌倉初期、重文)を見ると、八部衆像は本尊の左右前方と後方に各2体ずつ安置されていたことが分かる。作者は、像造は百済からの渡来人将軍万福、彩色は秦牛養とされる。八部衆を含む興福寺西金堂諸像については、法華経序品ではなく、金光明最勝王経所説に基づく造像だと解釈されている。

以下に興福寺の八部衆像について略説する。
1.五部浄像 - 像高48.8cm。色界最上位の色究竟天(色界第四禅天)に浄居天と呼ばれる5人の阿那含の聖者(自在天子、普華天子、遍音天子、光髪天子、意生天子)が住んでおり、五部浄居天はこれらを合わせて一尊としたものである。陀羅尼にすがる者を守護するとされ、今昔物語集では釈迦の四門出遊の際「老人、病人、死人、出家者」の4つを見せて釈迦の出家を促している。
象頭の冠をかぶり、少年のような表情に造られている。興福寺像は頭部と上半身の一部を残すのみで大破している(他に、本像の右手部分が東京国立博物館に所蔵されているが、これは1904年(明治37年)、個人の所有者から当時の帝室博物館に寄贈されたものである)。 経典に説く「天」に当たる像と考えられる。 千手観音の眷属の二十八部衆の内には「五部浄居天」という像があるが、三十三間堂、清水寺本堂などの五部浄居天像は両手に1本ずつの刀を持つ武神像である。
2.沙羯羅像 - 像高153.6cm。頭頂から上半身にかけて蛇が巻き付き、憂いを帯びた少年のような表情に造られている。本像は、経典に説く「竜」に当たる像と考えられている。ただし、興福寺の沙羯羅像を「竜」でなく「摩睺羅伽」に該当するものだとする説もある。二十八部衆には「沙羯羅竜王」の名で登場する。
3.鳩槃荼像 - 像高151.2cm。頭髪が逆立ち、目を吊り上げた怒りの表情に造られている。経典に説く「夜叉」に相当する像とされている。 四天王の内の増長天の眷属ともいう。 二十八部衆の内には鳩槃荼に該当する像がない。
4.乾闥婆像 - 像高160.3cm。獅子冠をかぶる着甲像である。両目はほとんど閉じられている。
5.阿修羅像 - 像高153cm。三面六臂に表される。興福寺の阿修羅像は、奈良観光のポスター、パンフレットにしばしば取り上げられる著名な像である。
6.迦楼羅像 - 像高149.7cm。興福寺像は鳥頭人身の着甲像である。三十三間堂、清水寺本堂の二十八部衆中の迦楼羅王像は異なって翼を持ち、笛を吹く姿に造られている。
7.緊那羅像 - 像高149.1cm。頭上に一角、額に縦に3つ目の目があり、寺伝とおり、当初から緊那羅像として造られたものと思われる。
8.畢婆迦羅像 - 像高156cm。他の像と異なり、やや老相に造られ、あごひげを蓄えている。経典に説く「摩睺羅伽」に相当するものとされるが、定かでない。二十八部衆の内には畢婆迦羅と摩睺羅伽の両方が存在し、前者は通常の武神像、後者は五眼を持ち、琵琶を弾く像として表されている。

八部鬼衆

八部鬼衆(はちぶきしゅう)は、四天王に仕える鬼神などのこと。

一覧[編集]

『仁王経合疏』上には、以下の8つの鬼神の名を挙げている。
乾闥婆(けんだつば) - 古代インドのガンダルヴァ。香陰と訳す。酒や肉を食さず、ただ香をもってその陰身を保つ。東方を守護する持国天の眷属(けんぞく)。
毘舎闍(びしゃじゃ) - 啖精気と訳す。人および五穀の精気を食す。東方を守護する持国天の眷属。
鳩槃荼(くはんだ) - 甕形と訳す。その陰茎甕形に似た厭魅鬼である。南方を守護する増長天の眷属。
薛茘多(へいれいた) - 餓鬼と訳す。常に飢餓・涸渇に切迫せられた鬼神である。南方を守護する増長天の眷属。
那伽(ナーガ、龍) - 水属の王とされる。西方を守護する広目天の眷属。
富單那(ふたんな) - 臭餓鬼と訳す。これ主熱の病鬼である。西方を守護する広目天の眷属。
夜叉(やしゃ) - 勇健鬼と訳す。地行夜叉・虚空夜叉・天夜叉の3種類がある。北方を守護する多聞天の眷属。
羅刹(らせつ) - 捷疾鬼と訳す。北方を守護する多聞天の眷属。

八部衆との相違[編集]

八部衆と名称が似ており、また鬼神名も一部重複するため間違われやすい。八部衆も八部鬼衆も天部に位置し仏法を守護する護法善神に属するという点では同じであるが、八部鬼神は四天王の配下とされる点で異なる。

『名義集』2では、天龍八部衆、すなわち八部衆と混同している。

ガンダルヴァ

ガンダルヴァ(梵: गंधर्व)は、インド神話においてインドラ(梵: इंद्र、इन्द्र 仏教では帝釈天)に仕える半神半獣の奏楽神団で、大勢の神の居る宮殿の中で美しい音楽を奏でる事に責任を負っている。また、ソーマの守護神であるとも伝えられている。アプサラスの夫だが、女性のガンダルヴァも存在する。ガンダルヴァの演奏は自然界の中のラーガとして見出される。外見は主に頭に八角の角を生やした赤く逞しい男性の上半身と、黄金の鳥の翼と下半身を持った姿で表される。その大半が女好きで肉欲が強いが、処女の守護神でもある。

酒や肉を喰らわず、香りを栄養とする為に訪ね歩くため食香または尋香行とも呼ばれ、自身の体からも香気を発する。香気と音楽は非常にかすかでどこから発しているのかわからないともされる。 その身から冷たくて濃い香気を放つため、サンスクリットでは「変化が目まぐるしい」という意味で魔術師も「ガンダルヴァ」と呼ばれ、蜃気楼の事をガンダルヴァの居城に喩え「乾闥婆城」(gandharva-nagara)と呼ぶ。

かつてはギリシア神話のケンタウロスと同源であると推定されていたが、現在では否定的である。

仏教におけるガンダルヴァ(乾闥婆 けんだつば)[編集]


仏教

Dharma wheel

基本教義

縁起 四諦 八正道
三法印 四法印
諸行無常 諸法無我
涅槃寂静 一切皆苦
中道 波羅蜜 等正覚

人物

釈迦 十大弟子 龍樹

信仰対象

仏の一覧

分類

原始仏教 部派仏教
大乗仏教 密教
神仏習合 修験道

宗派

仏教の宗派

地域別仏教

インド スリランカ
 中国 台湾 チベット
日本 朝鮮
東南アジア タイ


聖典

経蔵 律蔵 論蔵

聖地

八大聖地

歴史

原始 部派
上座部 大乗
ウィキポータル 仏教

表・話・編・歴


仏教での漢訳は乾闥婆(けんだつば)となり、天竜八部衆、また四天王眷属の八部鬼神の一つである。楽乾闥婆王、健達婆、犍達縛、健闥婆、乾沓和、乾沓婆、彦達縛、犍陀羅、香神、 嗅香、香陰、香音天など様々な訳名がある。

ガンダルヴァ・ヴェーダ

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ガンダルヴァ・ヴェーダはサーマ・ヴェーダのウパ(副)・ヴェーダ。または、ガンダルヴァの楽曲。「サ・リ・ガ・マ・パ・ダ・ニ(SA、RI、GA、MA、PA、DHA、NI)」の7音階からなるラーガを演奏する。

自然界のラーガを奏でることで、人と環境の調和をもたらす音楽療法でもある。

熟達した人が雨のラーガを演奏すると雨が降るといわれる。

『サーマ・ヴェーダ』(Sāmaveda, सामवेद)は、バラモン教の聖典であるヴェーダの一つ。

概要[編集]

祭式において旋律にのせて歌われる讃歌(sāman)を収録したもの。 歌詠を司るウドガートリ祭官(udgātr)によって護持されてきた。

讃歌の多くは『リグ・ヴェーダ』に、一部は他のヴェーダ文献に材を取っており、オリジナルのものは少ない。 が、インド古典音楽の源流として貴重な資料であり、声明にも影響を及ぼしている。

伝承によれば、『サーマ・ヴェーダ』はかつて1000の流派に分かれていたというが、現在は3派のものが文献として残っている。三派の詩の数は、それぞれ585、1225、58篇あるが、重複部分もある。

『サーマ・ヴェーダ』の本文であるサンヒターは、讃歌の歌詞のみを収録したアールチカ(ārcika)と、符号を用いて旋律や音節の長短、反復なども示したガーナ(gāna)に分類される。

副ヴェーダ[編集]
ガンダルヴァ・ヴェーダ

リグ・ヴェーダ

リグ・ヴェーダ』(ऋग्वेद Rigveda)は、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語(英語: Vedic Sanskrit)で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。



目次 [非表示]
1 呼称
2 歴史
3 内容
4 日本語訳
5 脚注
6 関連項目


呼称[編集]

中国語では「梨倶吠陀」と表記され、日本語文献でも用いられた事がある。

歴史[編集]

古代以来長らく口承され、のち文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的なヒンドゥー教の立場ではリシ(聖者・聖仙)たちによって感得されたものとされる。中央アジアの遊牧民であったインド・アーリア人がインドに侵入した紀元前18世紀ころにまで遡る歌詠を含む。

紀元前12世紀ころ、現在の形に編纂された[1]。

内容[編集]

中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる。9巻はこれらとは大きく異なり、神酒ソーマに関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。 讃歌の対象となった神格の数は非常に多く[2]、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。しかし、他方でリグ・ヴェーダの終末期には宇宙創造に関する讃歌を持つにいたり、ウパニシャッド哲学の萌芽ともいうべき帰一思想が断片的に散在している[3]。

後期ヴェーダ時代(紀元前1000年頃より紀元前600年頃まで)に続くヴェーダとして『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の三つが編纂される。付属文典として『ブラーフマナ』(『祭儀書』)、『アーラニヤカ』(『森林書』)、『ウパニシャッド』(『奥儀書』)が著された。

日本語訳[編集]
辻直四郎訳注『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波文庫、初版1970年

ヤジュル・ヴェーダ

ヤジュル・ヴェーダ (yajurveda, यजुर्वेद)とは、バラモン教の聖典であるヴェーダの一つ。

概要[編集]

祭式において唱えられるヤジュス(yajus 「祭詞」)を収録したもの。yajur とは yajus の音便である。 祭式において行作を担当するアドヴァリユ祭官(adhvaryu)によって護持されてきた。

ヤジュスとは、祭式の効力が現れる事を祈って、神格や祭具、供物などに一定の行作と共に呼びかける言葉で、多くは散文で書かれている。祭式の作法や供物の献呈方法など祭式の実務が詠まれている。

成立年代は、紀元前800年を中心とする数百年間と推定されている。 伝承によれば、かつては86あるいは101の流派に分かれて伝承されていたというが、現存するのはこのうちの数種である。

分類[編集]

『ヤジュル・ヴェーダ』はまた、その形式によって『黒ヤジュル・ヴェーダ』(Krishna Yajurveda)と『白ヤジュル・ヴェーダ』(Shukla Yajurveda)の2種に大別される。

『黒ヤジュル・ヴェーダ』は、一つの文献の中に、本文であるサンヒターとその注釈・解説であるブラーフマナが混在している。 一方『白ヤジュル・ヴェーダ』は、サンヒターとブラーフマナが分離してそれぞれ独立した文献となっている。そのため、『黒ヤジュル・ヴェーダ』は『白ヤジュル・ヴェーダ』よりも古く成立したと考えられている。

関連項目[編集]
ヴェーダ
リグ・ヴェーダ
サーマ・ヴェーダ
アタルヴァ・ヴェーダ

ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド

『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』(英語綴り Brihad-Aranyaka Upanishad)は、ウパニシャッドの1つ。『白ヤジュル・ヴェーダ』に含まれる文献のひとつで、古ウパニシャッドの中では初期の「古散文ウパニシャッド」に分類され、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と並び、最初期・最古層のウパニシャッドとされる[1]。

思想家ヤージュニャヴァルキヤの思想などを含む。



目次 [非表示]
1 内容
2 日本語訳 2.1 全訳
2.2 抄訳

3 脚注・出典
4 関連項目


内容[編集]

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日本語訳[編集]

全訳[編集]
湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。

抄訳[編集]
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1, 中公バックス〉、1979年。ISBN 412400611X。 服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1〉、1969年。

岩本裕 『原典訳 ウパニシャッド』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年。ISBN 4-480-09519-5。 岩本裕 『ウパニシャッド』 筑摩書房〈世界文学古典全集3〉、1967年。

佐保田鶴治 『ウパニシャッド』 平河出版社、1979年。ISBN 4892030260。
日野紹運、奥村文子 『ウパニシャッド』 日本ヴェーダンタ協会、2009年。ISBN 4931148409。

脚注・出典[編集]

アートマン

アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。



目次 [非表示]
1 概要
2 ウパニシャッド
3 仏教における解釈
4 関連項目


概要[編集]

最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。

ウパニシャッド[編集]

初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない。

また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。

ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。

仏教における解釈[編集]

釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。

カースト

カースト(英語:caste)[1]とは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナやジャーティ)を指すポルトガル語、英語である[2]。インドでは現在も「カースト」でなく「ヴァルナ:varna」である[3]。

紀元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、身分制度カーストの枠組みがつくられ、その後、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に大きく分けられるヴァルナとし定着した。現実の内婚集団であるジャーティもカースト制度に含まれる。基本的にはカースト間の移動は認められておらず、カーストは親から子へと受け継がれる。結婚も同じカースト内で行われる。

インドでは1950年に制定されたインド憲法で全面禁止が明記され、また最下層の民を「神の子(ハリジャン)」と呼び、制度改善に取り組んものの、現在でも身分制度はヒンドゥー社会に深く根付いている[3]。



目次 [非表示]
1 「カースト」名称の形成 1.1 語源
1.2 植民地主義における呼称

2 インドにおけるカースト:ヴァルナ 2.1 ヒンドゥー社会の原理

3 歴史 3.1 発祥
3.2 他宗教とのかかわり
3.3 植民地支配時代

4 現代の状況 4.1 職業とカースト
4.2 カーストと選挙
4.3 児童とカースト
4.4 結婚とカースト
4.5 改宗問題
4.6 国連人権委員会とカースト

5 その他の国のカースト 5.1 ミャンマー
5.2 ネパール
5.3 バリ島

6 比喩的用法
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目


「カースト」名称の形成[編集]

語源[編集]

カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源をもつ[2]。

植民地主義における呼称[編集]

15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ[3]。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる[4]。

植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした[4]。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している[4]。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた[4]。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している[4]。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる[4]。

ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆるたぐいの共通の出自を指し示しうるものと指摘している[4]。

カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。
ヴァルナ・ジャーティ制
カースト制を、在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制がすでにそれ自体としての意味をもってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている[2]。

インドにおけるカースト:ヴァルナ[編集]

ヒンドゥー社会の原理[編集]

「ヴァルナ (種姓)」を参照

カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ - varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれたあとにカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がることができる。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。まさにカーストとはヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる[3]。

一方、アーリア文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある[5]。

ヴァルナの枠組み
ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕)神聖な職に就いたり、儀式を行うことができる。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。クシャトリヤ王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「武士」とも翻訳される。ヴァイシャ商業や製造業などに就くことができる。「平民」とも翻訳される。シュードラ(スードラ)一般的に人が忌避する職業のみにしか就くことしか出来ない。ブラフミンに対しては影にすら触れることを許されない。「奴隷」とも翻訳されることがある。元来は先住民族でありながら、支配されることになった人々と推定されている。ヴァルナをもたない人びと
ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおりアチュートという。「不可触賎民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる[6]。1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを『ダリット』(Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。

歴史[編集]

発祥[編集]

「ヴァルナ (種姓)」を参照

アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由はすでにかなり研究されている。アーリア人はトゥーラーン近郊を起源としているが、当然、このあたりに存在する疾患にしか免疫(液性免疫・細胞性免疫)を有していなかった。アーリア人の侵略の初期においては、ドラヴィダ人などの原住民と生活圏をともにし、時には婚姻関係さえ結んでいた。しかし、侵略範囲が広大化してくると、トゥーラーンから離れれば離れるほど、アーリア人が経験したことのない感染症を原住民が保有・保菌している事態が出てきた。 原住民はすでにそれらの感染症に免疫を獲得しているが、アーリア人はまったく免疫を持っていないため、次々とアーリア人のみが風土感染症により死亡する事態が出てきた。 これらに対応するためにアーリア人が取った政策がアーリア人とそれ以外の民族との「隔離政策」「混血同居婚姻禁止政策」である[7]。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1〜2階層程度に分けたため、全体で3〜4の階層を設定した[8]。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。

他宗教とのかかわり[編集]
仏教
紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタは、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことが出来たが、5世紀以後に勢力を失って行ったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけて行き、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。

仏教は、衰退して行く過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやって来た」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれて行ったと言われる。ヒンドゥーの庇護のもとに生活をすることを避けられなかったためである。
キリスト教
イエズス会がインドでキリスト教を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。宣教師らはそれぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。
イスラム教
ムガル帝国におけるイスラム教の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し自由になるのが目的でもあった。

植民地支配時代[編集]

大英帝国支配下のイギリス領インド帝国時代、イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を憲法で禁止する大きな要因となった。
カースト差別撤廃運動
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アーリヤ・サマージやブラフモ・サマージなど、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動がうまれた。

アーリア人に征服されたドラヴィダ民族というアイデンティティから「非バラモン運動」が正義党(南インド自由党)などによって展開した[9]。1925年には非バラモン運動には限界があるとしてラーマスワーミ・ナーイッカルが先住民族であるドラヴィダ民族は自尊すべきであるという自尊運動をはじめ、カースト制を否定した[9]。

現代の状況[編集]

最近の都市部ではカーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧める人々や運動もある。

職業とカースト[編集]

カースト制度における職業と所有権は固定され、強制的であり、生まれによって職業の自由が制限されている[6]。他方、下層カーストやカースト外のアチュートであっても何らかの手段で良い職業に就くこともできる。コチェリル・ラーマン・ナラヤナンはイギリスで教育を受けた後に帰国し、インド大統領となった。

IT関連産業などはカースト成立時期には存在しなかったので、カーストの影響を受けないと言われる。インドでIT関連事業が急速に成長しているのは、カーストを忌避した人々がこの業界に集まってきているからと言われている。しかし、高等教育を受けることが出来ない下層カースト出身者は高度な仕事が出来ない上に、仮に優秀であったとしても上層カースト出身者で占める幹部が下層カースト出身者を重要なポストに抜擢することはなく、表面的にはカーストの影響を受けないIT関連事業においてもカーストの壁が存在するのが現状である[10]。

カーストと選挙[編集]

現在でも、保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世ではいいカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインドの発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。

児童とカースト[編集]

児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子どもは寺院売春を強制されていると国連人権委員会では報告されている[11]。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。

結婚とカースト[編集]

ヒンドゥー教徒の結婚は現在も見合い結婚、それも同一カースト内での結婚が大原則となっており、逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとは言え、一部の大都市でしか未だ見る事ができない。ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。

ダウリというヒンドゥー風習では花婿料(嫁の持参金)として花婿側へ支払われるが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある[12]。1961年にダウリは法律では禁止されているが、風習として残っている[12]。

改宗問題[編集]

改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし、他の宗教から改宗した場合は最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力によりヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。

ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによってカースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナクシプーラム村で不可触民が抗議の意味もふくめてイスラム教に改宗した[9]。またジャイナ教やシク教、ゾロアスター教では現実的な影響力や力によりその社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない裕福層に支持されている。

しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件もおこるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した[9]。こうしたことを背景にタミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラムに改宗することを禁止する法案の強制改宗禁止法を制定した[9]。その後2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)がタミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された[9]。

また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる[9]。

国連人権委員会とカースト[編集]

2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった[11]。

2002年の国連人種差別撤廃委員会における会合で一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別[13]』に関する特別報告をおこない、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された[14]。

2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している[15]。

その他の国のカースト[編集]

ミャンマー[編集]

ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている[16]。

ネパール[編集]

ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは民族と結びついているので複雑である。

ネパールでは1854年のムルキ・アイン法によってカースト制度が導入された[17]。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある[17]。

ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は山岳地帯のマトワリといわれる[17]。

ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている[18]。

バリ島[編集]

詳細は「バリ・ヒンドゥー」を参照

インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった[19]。

比喩的用法[編集]

日本においては、人間関係において上下の差が生じる事を、比喩的にカースト制度に喩える事例が散見される。スクールカーストやママカーストはその一例である。

ブラフマン

ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

概要[編集]

サンスクリットの「力」を意味する単語からきている。特に、物質世界を変える儀式や犠牲(生贄)の力を意味する。そこから、単語の2つ目の意味が出てくる。2つ目の意味はヒンドゥー教の最高のカースト、ブラフミン (en:Brahmins) であり、彼らは上述のような力を持っているとされる。

歴史[編集]

神聖な書物であるウパニシャッドにあるように、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派 (Vedantic) の思想によれば、この単語が指しているのは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。

ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、全ての存在に浸透している。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は1つのブラフマンの現われである。初期の宗教的な文書、ヴェーダ群の中では、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされる。


Great indeed are the Gods who have sprung out of Brahman. - Atharva Veda
偉大なるものは、実に、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。 - 『アタルヴァ・ヴェーダ』

ウパニシャッドの哲学者は、ブラフマンは、アートマンと同一であるとする。ヒンドゥーの神々の体系では、ブラフマンはブラフマーと同一のものと見なされる。ブラフマー(創造者)は三神一体(Trimurti)の神々の1つであり、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている。

ウパニシャッド

ウパニシャッド(梵: उपनिषद्)は、サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物で、一般には奥義書と訳される。



目次 [非表示]
1 概要
2 古ウパニシャッド 2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期

3 日本語訳 3.1 完訳
3.2 抄訳

4 脚注
5 参考文献
6 関連項目


概要[編集]

約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る[1]。

ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。

後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。

ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。但し、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる[2]

古ウパニシャッド[編集]
初期紀元前800年から紀元前500年にかけて成立。古散文ウパニシャッド。中期紀元前500年から紀元前200年にかけて成立。韻文ウパニシャッド。後期紀元前200年以降に成立。新散文ウパニシャッド。
初期[編集]
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期 ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第1期 シャーンディリヤやウッダーラカ・アールニの思想など。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:初期 第2期
アイタレーヤ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
カウシータキ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
ケーナ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第3期

中期[編集]
カタ・ウパニシャッド(カータカ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前350年から紀元前300年頃)
イーシャー・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:中期
シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前300年から紀元前200年頃)
ムンダカ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:中期

後期[編集]
プラシュナ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期
マイトリー・ウパニシャッド(マイトラーヤニーヤ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:後期(紀元前200年頃)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期(1年から200年頃)

日本語訳[編集]

完訳[編集]
湯田豊 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 大東出版社、2000年。ISBN 4-500-00656-7。
: 主要13ウパニシャッド[3]の全訳。

抄訳[編集]
服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1, 中公バックス〉、1979年。ISBN 412400611X。 服部正明 『ウパニシャッド』 中央公論社〈世界の名著1〉、1969年。
: 主要4ウパニシャッド[4]の抄訳(一部全訳)。

岩本裕 『原典訳 ウパニシャッド』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年。ISBN 4-480-09519-5。 岩本裕 『ウパニシャッド』 筑摩書房〈世界文学古典全集3〉、1967年。
: 主要5ウパニシャッド[5]の抄訳(一部全訳)。

佐保田鶴治 『ウパニシャッド』 平河出版社、1979年。ISBN 4892030260。
: 主要12ウパニシャッド[6]の抄訳。
日野紹運、奥村文子 『ウパニシャッド』 日本ヴェーダンタ協会、2009年。ISBN 4931148409。
: 主要12ウパニシャッド[7]の抄訳。

バラモン教

バラモン教(婆羅門教、ブラフマン教、Brahmanism)は、古代インドの民族宗教を指す。ヴェーダなどの聖典を持つ。



目次 [非表示]
1 概要
2 教義
3 歴史
4 ヒンドゥー教との差異
5 関連項目


概要[編集]

古代のヴェーダの宗教とほぼ同一の意味で、古代ヒンドゥー教と理解してもよい。バラモン教にインドの各種の民族宗教・民間信仰が加えられて、徐々に様々な人の手によって再構成されたのが現在のヒンドゥー教である。

バラモン教 (Brahmanism) という名前は後になってヨーロッパ人がつけた名前で、仏教以降に再編成されて出来たヒンドゥー教と区別するためにつけられた。なお、ヒンドゥー教という名前もヨーロッパ人によってつけられた名前であり、特にヒンドゥー教全体をまとめて呼ぶ名前もなかった。

バラモンとは司祭階級のこと。正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読みから、日本ではバラモンということが多い。バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。

最高神は一定していない。儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。

階級制度である四姓制を持つ。司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によりなる。また、これらのカーストに収まらない人々はそれ以下の階級パンチャマ(不可触賤民)とされた。カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。

教義[編集]

『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。

歴史[編集]
紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。
紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成される。
紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。 新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。

1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形でシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。
1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。

ヒンドゥー教との差異[編集]

バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではない。たとえばバラモン教に於いては、中心となる神はインドラ・ヴァルナ・アグニなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。

ヒンドゥー教でもヴェーダを聖典としているが、叙事詩(ギータ)『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、プラーナ文献などの神話が重要となっている。

ヴェーダの宗教

歴史[編集]

詳細は「インダス文明」、「H墓地文化(英語版)」、および「ヴェーダ期(英語版)」を参照

「:en:Proto-Indo-European religion」、「:en:Proto-Indo-Iranian religion」、および「:en:Historical Vedic religion」も参照

[icon] この節の加筆が望まれています。

バラモン教[編集]

バラモン教は、司祭階級バラモン(ブラフミン)を特殊階級として、神に等しい存在として敬う。ブラフミンは、宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるとされ、生けにえなどの儀式を行うことができるのはブラフミンだけだとされる。

1世紀から3世紀にかけて、仏教に押されたバラモン教が衰退した後、4世紀頃にバラモン教を中心にインドの各民族宗教が再構成されヒンドゥー教に発展する。この際、主神が、シヴァ、ヴィシュヌへと移り変わる。バラモン教やヴェーダにおいては、シヴァやヴィシュヌは脇役的な役目しかしていなかった。 シヴァは別名を1000も持ち、ヴィシュヌは10の化身を持つなど、民族宗教を取り込んだ形跡が見られる。

15世紀、イスラムにインドが支配された時代に、一般のヒンドゥー教徒はイスラムの支配にしたがったが、イスラムへの従属をよしとしない一派としてグル・ナーナクによりシク教が作られた。

アンチ・ヴェーダの新宗教[編集]

紀元前5世紀頃に、北インドのほぼ同じ地域で、仏教やジャイナ教をはじめとした、アンチ・ヴェーダの新宗教がいくつか誕生するが現在まで続いているのはそのうちの仏教とジャイナ教だけである。

ヴェーダに対峙する仏教は、バラモン教の基本のひとつであるカースト制度を否定した。すなわち司祭階級バラモン(ブラフミン)の優越性も否定した。しかし、ゴータマ・ブッダの死後において、バラモン自身が仏教の司祭として振舞うなど、バラモン教が仏教を取り込んで、バラモンの特殊な地位を再確保しようという政治的な動きもあった。

また、ゴータマ・ブッダは唯一神の存在を自分の宗教の一部としては認めなかった。ただしゴータマ・ブッダの死後、バラモン教の神が仏法守護神や眷属として取り込まれて行った。従って仏教はバラモン教に対峙して発展したが、民衆の間に広まっていくに連れ、バラモン教の神々を吸収して行ったのである。

もう一つのアンチ・ヴェーダであるジャイナ教の開祖マハーヴィーラは、彼以前に23人のティールタンカラ(祖師)がおり、24祖とされた。ティールタンカラ自身はヴェーダの宗教の一部であったと思われる。マハーヴィーラが24人目のティールタンカラの生まれ変わりであると認定された後に、ジャイナはバラモン教から独立したとする説もある。また、マハーヴィーラとゴータマ・ブッダは、同時代、同地域に生きており、ジャイナ教の伝説ではゴータマ・ブッダ自身も24人目の最後のティルタンカラとなることを望んでいたと言われ、マハーヴィーラに負けたとされている。

ヴェーダ

ヴェーダ(梵: वेद 、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」とは、元々「知識」の意である。

バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが、後世になって書き留められ、記録されたものである。

「ヴェーダ詠唱の伝統」は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。



目次 [非表示]
1 ヴェーダの分類
2 サンヒター
3 一覧表
4 その他
5 ウパヴェーダ
6 ヴェーダンガ
7 ウパンガ
8 日本語訳 8.1 抄訳

9 関連項目
10 参考文献
11 外部リンク


ヴェーダの分類[編集]

広義でのヴェーダは、分野として以下の4部に分類される。
サンヒター(本集)中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。ブラーフマナ(祭儀書、梵書)紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。アーラニヤカ(森林書)人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。最新層は最古のウパニシャッドの散文につながる。ウパニシャッド(奥義書)哲学的な部分。インド哲学の源流でもある。紀元前500年頃を中心に成立。1つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。ヴェーダーンタとも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味。古典サンスクリット語に近い。
   更に、各々4部門が祭官毎にリグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダなどに分かれる。都合4X4の16種類となるが、実際には各ヴェーダは更に多くの部分に分かれ、それぞれに名称がついている。ヴェーダは一大叢書ともいうべきものである。参考文献に挙げてある辻直四郎「インド文明の曙」巻末には、横軸に各ヴェーダ毎、縦軸に分野毎に一覧表とし、現存するヴェーダ著作の全てを表に並べた資料が添付されており、非常に便利である。ヴェーダ文献全体が膨大なものだということが一目で看取できるようになっている。現存ヴェーダ著作だけでもかなりの多さになるが、古代に失われた多くの学派の文献をあわせると更に膨大なものになると考えられている。

サンヒター[編集]

狭義では、以上のうちサンヒターの事をヴェーダと言い、以下の4種類がある。
リグ・ヴェーダホートリ祭官に所属。神々への韻文讃歌(リチ)集。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。全10巻。10巻は最新層のものだと考えられ、アタルヴァ・ヴェーダの言語につながる。サーマ・ヴェーダウドガートリ祭官に所属。リグ・ヴェーダに材を取る詠歌(サーマン)集。インド古典音楽の源流で、声明にも影響を及ぼしている。ヤジュル・ヴェーダアドヴァリュ祭官に所属。散文祭詞(ヤジュス)集。神々への呼びかけなど。黒ヤジュル・ヴェーダ、白ヤジュル・ヴェーダの2種類がある。アタルヴァ・ヴェーダブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。後になってヴェーダとして加えられた。
一覧表[編集]


サンヒター

ブラーフマナ

アーラニヤカ

ウパニシャッド


リグ・ヴェーダ
アイタレーヤ
カウシータキ
アイタレーヤ
カウシータキ
シャーンカーヤナ アイタレーヤ
カウシータキ


サーマ・ヴェーダ
パンチャヴィンシャ
ジャイミニーヤ -
- チャーンドーギヤ
ケーナ

ヤジュル・ヴェーダ

黒ヤジュル
タイッティリーヤ
カタ
-
マイトラーヤニー タイッティリーヤ
カタ
-
マイトラーヤニー タイッティリーヤ
カタ
シュヴェーターシュヴァタラ
マイトリー(マイトラーヤニーヤ)

白ヤジュル
シャタパタ
- ブリハッド
- ブリハッド・アーラニヤカ
イーシャー

アタルヴァ・ヴェーダ
ゴーパタ
-
- -
-
- ムンダカ
マーンドゥーキヤ
プラシュナ

その他[編集]

その他、共に言及される古代文献としては、以下のようなものがある。
シュルティ 古代のリシ(聖人)達によって神から受け取られたと言われ、シュルティ(天啓聖典)と呼ばれる。ヴェーダは口伝でのみ伝承されて来た。文字が使用されるようになっても文字にすることを避けられ、師から弟子へと伝えられた。後になって文字に記されたが、実際には、文字に記されたのはごく一部とされる。
ヴェーダにおけるサンスクリットは後の時代に書かれたものとは異なる点が多くあり、特にヴェーダ語と呼ばれる。アヴェスター語とも極めて近く、言語学的にも重要である(例えばホートリ祭官(Hotṛ/Hotar)はアヴェスター語のザオタル(Zaotar(司祭官))であり、ヴェーダで祭祀そのものを示すyajñaはアヴェスター語のYasna(崇拝・祈祷)である。ヴェーダ語の冒頭に置かれる定型句yajāmaheはアヴェスター語のyazamaide(われらは崇拝す)である)。

スムリティ 聖典には他にリシ達によって作られたスムリティ(古伝書)があり、ヴェーダとは区別される。スムリティには、『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』・『マヌ法典』などがある。

プラーナ

ウパヴェーダ[編集]

副ヴェーダ
アーユル・ヴェーダ
ガンダルヴァ・ヴェーダ
ダヌル・ヴェーダ
スターパティア・ヴェーダ

ヴェーダンガ[編集]

ヴェーダの手足
シクシャ
チャンダス
ヴィヤカラナ
ニルクタ
カルパ
ジョーティシュ(ヴェーダの目、インド占星術)

ウパンガ[編集]
六派哲学

日本語訳[編集]

抄訳[編集]
辻直四郎 『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波書店(岩波文庫)、1970年。ISBN 4003206010。
辻直四郎 『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』 岩波書店(岩波文庫)、1979年。ISBN 4003206517。

サンスクリット

サンスクリット(梵: संस्कृत; saṃskṛta, Sanskrit)は古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。

現在の母語話者は少ないが死語ではなく、インドでは憲法で認知された22の公用語の1つである。宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語であり、その権威は現在も大きい。

日本では、一般には言語であることを明示して「サンスクリット語」と呼ばれる。また、古くは梵語(ぼんご、ブラフマンの言葉)とも呼ばれた。なお、日本における仏教関連の辞典や書物では skt などと略称される。



目次 [非表示]
1 言語としてのサンスクリット 1.1 歴史
1.2 文字・表記
1.3 発音と文法
1.4 文法
1.5 数詞

2 著名な文学・哲学・宗教文献
3 その他 3.1 梵語 - 仏教での伝播、日本での一般認識
3.2 印欧語族としてのサンスクリット
3.3 映画音楽とサンスクリット

4 関連項目
5 引用
6 外部リンク


言語としてのサンスクリット[編集]

歴史[編集]

インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)・インド・イラン(アーリア)語派に属し、狭義には紀元前5世紀から紀元前4世紀にパーニニがその文法を規定し、その学統によって整備された古典サンスクリット(古典梵語)のことを指す。

広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、後の時代の、仏典などが記された仏教混交サンスクリットをも含む。

そのように古典時代から広く使われて多くの文献を残しているため、サンスクリットは、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語・ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されることもある。同じインド・イラン(アーリア)語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似している。

釈迦の時代など日常の生活においてインド各地の地方口語(プラークリットと呼ばれる。パーリ語など)が一般に用いられるようになって以降も、サンスクリットは逆に公用語として普及し、宗教(例:ヒンドゥー教・仏教)・学術・文学等の分野で幅広く長い期間に亘って用いられた。

サンスクリットはプラークリットと共に近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、この2つの古典語はヒンドゥスターニー語などの北インドの現代語の祖語であるのみならず、ドラヴィダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えた。さらには東南アジアの多くの言語や、東アジアの言語にも影響を与えた。

ただし近代インドの諸言語では、特に北インドのインド語派の言語を中心に高級語彙の供給元の言語としてサンスクリットだけでなくインドのイスラーム化と同時に導入されたアラビア語、ペルシア語も広範囲で機能している。そのため純正なサンスクリット系語彙がインド語派に属する系統的に近いヒンドゥスターニー語などでは失われ、却って系統的に遠い南インドのドラヴィダ諸語の中に保存されているということも少なくない。





円形グランタ文字による「ヨハネによる福音書」3章16節。言語はサンスクリット。19世紀半ば。
サンスクリットを公用語としたことがわかっている王朝
グプタ朝(4世紀から5世紀)

13世紀以降のイスラム王朝支配の時代(アラビア語、ペルシア語の時代)からヒンドゥスターニー語(→ウルドゥー語、ヒンディー語)の時代、大英帝国支配による英語の時代を経てその地位は相当に低下するが、実は今でも知識階級において習得する人も多く、学問や宗教の場で現代まで生き続けている。

文字・表記[編集]

サンスクリットの表記には、時代・地域によって多様な文字が使用された。例えば日本では伝統的に悉曇文字(シッダマートリカー文字の一種、いわゆる「梵字」)が使われてきたし、南インドではグランタ文字による筆記が、その使用者は少なくなったものの現在も伝えられている。

現在でも、デーヴァナーガリーを中心とするさまざまなインド系文字で表記される他、ラテン文字による転写方式としても、 IAST方式や京都・ハーバード方式、ITRANS方式(英語版)など、複数の方式が用いられている。

以下の説明においては、基本的にデーヴァナーガリーと、京都・ハーバード方式のラテン文字表記を用いることとする。

発音と文法[編集]

母音

अ 無 a आ ा aa इ ि i ई ी ii उ ु u ऊ ू uu ऋ ृ R ॠ ॄ RR
ऌ ॢ L ॡ ॣ LL ए े e ऐ ै ai ओ ो o औ ौ au 無 ं -M 無 ः -H
表内の左側が母音字(子音が伴わない)、右側が母音記号(子音に付属、M・Hは子音もしくは母音に付属)とする。

子音



無声・無気

無声・帯気

有声・無気

有声・帯気

鼻音


軟口蓋音
क ka ख kha ग ga घ gha ङ Ga

硬口蓋音
च ca छ cha ज ja झ jha ञ Ja

反舌音
ट Ta ठ Tha ड Da ढ Dha ण Na

歯音
त ta थ tha द da ध dha न na

舌音
प pa फ pha ब ba भ bha म ma



半母音
य ya र ra ल la व va

歯擦音
श za ष Sa स sa

気音
ह ha

文法[編集]

名詞は男性、女性、中性に分かれ、単数、両数(双数、dual)、複数の区別と格に応じて曲用する。格は主格、呼格(よびかけ)、対格、具格(…によって)、為格(…の為に)、奪格(…から)、属格(…の、に属する)、処格(…で、において)の8つある。つまり、1つの名詞は24通りの曲用を考えうる。

曲用は規則的なものに限っても性・語幹の末尾によって多くの場合に分かれ、複雑である。

動詞の活用は、動詞の種類によって伝統的に10種に分けられている。注記すべきこととして、能動態と受動態の他に、反射態という、行為者自身のために行われることを表す態が存在する。これはギリシア語の中動態に相当する。また、アオリスト相も存在する。

数詞[編集]

一例として数詞を挙げる。左側は京都・ハーバード方式、右側はIAST方式。括弧内は基数およびカタカナ転写。
1.ekam (eka-, エーカム)
2.dve (dvi-, ドゥヴェー)
3.triiNi/trīṇi (tri-, トゥリーニ)
4.catvaari/catvāri (catur-, チャトゥヴァーリ)
5.paJca/pañca (pañca-, パンチャ)
6.Sat/ṣat (ṣaṣ-, シャト)
7.sapta (sapta-, サプタ)
8.aSTau/aṣṭau (aṣṭa-, アシュトー)
9.nava (nava-, ナヴァ)
10.daza/daśa (daśa-, ダシャ)

著名な文学・哲学・宗教文献[編集]
ヴェーダ関係(シュルティ、天啓文学) ヴェーダ聖典 リグ・ヴェーダ
サーマ・ヴェーダ
ヤジュル・ヴェーダ
アタルヴァ・ヴェーダ

ブラーフマナ
アーラニヤカ(森林書)
ウパニシャッド(奥義書) チャーンドーギヤ・ウパニシャッド
ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド
アイタレーヤ・ウパニシャッド
イーシャー・ウパニシャッド
カウシータキ・ウパニシャッド
ケーナ・ウパニシャッド
タイッティリーヤ・ウパニシャッド
カタ・ウパニシャッド
シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド


叙事詩関係 マハーバーラタ バガヴァッド・ギーター
ナラ王物語
指輪によって思い出されたシャクンタラー
ハリ・ヴァンシャ(英語版)

ラーマーヤナ

ダルマ・シャーストラ関係 マヌ法典
ヤージュニャヴァルキヤ法典

アルタ・シャーストラ(英語版)(実利論)
カーマ・スートラ
ナーティヤ・シャーストラ(演劇論)
ヴァーストゥ・シャーストラ(建築論)
哲学関係 ヴァイシェーシカ・スートラ(英語版)
ヨーガ・スートラ
ニヤーヤ・スートラ
ミーマーンサー・スートラ
ブラフマ・スートラ
サルヴァ・ダルシャナ・サングラーハ(全哲学綱要)

カーリダーサによる戯曲
その他仏教文献(般若経、法華経など。ただし、インド仏教の衰滅に伴い散逸してしまったものも多く、チベット語訳や漢語訳にしか残っていないものが多い。)

その他[編集]

梵語 - 仏教での伝播、日本での一般認識[編集]

仏教では最初、ヴェーダ文献の聖性を否定し、より民衆に近い水準の言葉で文献が書かれたため、サンスクリットが使われることはなかったが、大体紀元の前後を境にして徐々にサンスクリットが取り入れられ、仏教の各国への伝播とともに、サンスクリットも東アジアの多くの国々へ伝えられた。

日本は中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は非常に古く、すくなくとも真言宗の開祖空海まではさかのぼれる。

実際に、仏教用語の多くはサンスクリット由来であり、例えば("僧"、"盂蘭盆"、"卒塔婆"、"南無阿弥陀仏"など無数にある)、"檀那(旦那)"など日常語化しているものもある。

また、経典のうち陀羅尼(だらに、ダーラニー)、真言(マントラ)は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、サンスクリット音のまま直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する(泉鏡花「高野聖」など)。

卒塔婆や護符などに描かれる梵字は、サンスクリットに由来する文字である。(ただし、一般的なデーヴァナーガリーとは多少異なる悉曇(しったん、シッダーム)文字に由来している。)

日本語の五十音図の配列は、日本語のほうが子音の種類がずっと少ないという点を除けば、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列にそっくり倣って作られたものである。

印欧語族としてのサンスクリット[編集]

サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)に属する言語である。ギリシア語、ラテン語、ペルシャ語や、英語を含む現代ヨーロッパの多くの言語と同じ起源をもち、語彙や文法の面でさまざまな共通点をもつ。

1786年、イギリスの東洋学者ウイリアム・ジョーンズが、そうした共通性や“同源”の可能性について指摘した事から、言語の系統関係について研究する学問「比較言語学」が始まった、と言われる。

初期の印欧比較言語学は、とくにギリシア語、ラテン語、サンスクリットの三者を綿密に比較することから最初のステップを踏み出したが、それ以来、サンスクリットのもつ膨大な量の文献資料は非常に大きな役割を果たしてきた。

映画音楽とサンスクリット[編集]

母音の響きがよいという理由で映画音楽でコーラスを投入する際に使用されるケースが有る。
『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』の楽曲「運命の闘い"Duel of the Fates"」では、ウェールズ語で書かれたタリエシン作の"樹作戰"英訳版からサンスクリットに翻訳されたテキストが歌われた。作曲はジョン・ウィリアムズ。
『マトリックス・レボリューションズ』のエンド・クレジットにかかる「ナヴラス"navras"(ヒンドゥーで信じられている「9相の感情」の意味)」では、ヴェーダ収録の「シャンティマントラ(平和の祈り)」がオリジナルのサンスクリットのまま使われた。作曲はドン・デイヴィス(英語版)とベン・ワトキンス(ジュノ・リアクター)。

ヒンドゥー教における釈迦

ヒンドゥー教における釈迦(ゴータマ・ブッダ )はときにヴィシュヌのアヴァターラ(化身)と見られる。プラーナ文献『バーガヴァタ・プラーナ』では彼は25のうち24番目のアヴァターラであり、カルキ(最後の化身)の到来が予告されている。

同様に、ヒンドゥー教の伝統の多くがブッダをダシャーヴァターラ(神の十化身)として知られる最も重要な10の化身の 最も新しい(9番目の)化身を演じさせている。仏教徒のダシャラタ・ジャータカ(ジャータカ・アッタカター461)は菩薩・偉大な叡智の至高なるダルマの王としてのブッダの前世としてラーマを描写している。ブッダの教えはヴェーダの権威を否定し、したがって仏教は一般的に正統的ヒンドゥー教の見解からナースティカ(異端、語源的には「存在しないna astiと主張する者」[1] )の派と見られた。



目次 [非表示]
1 ヒンドゥー教における釈迦観
2 ヒンドゥー教内での釈迦に主導された改革への反応
3 ヒンドゥー教聖典における釈迦
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


ヒンドゥー教における釈迦観[編集]

ヒンドゥー教内の伝統の多様性のため、ヴェーダ伝統の参照内には、釈迦の正確な位置づけへの明確な観点あるいは総意は存在しない。

影響力のあるヴァイシュナヴァ派詩人ジャヤデーヴァ・ゴースワーミーの『ギータ・ゴーヴィンダ』のダシャーヴァターラ・ストートラの部分では釈迦をヴィシュヌの十化身のうちに含め、彼に関する次のような祈りを書いている。



ケーシュヴァよ!宇宙の主よ!ブッダの姿を装った主ハリよ!全ての栄光はあなたに!慈悲深い心のブッダよ、あなたはヴェーダの犠牲の法に拠って執り行われる哀れな動物たちの屠殺を非難なさる。

− [2]

この、主に非暴力(アヒンサー)を促進したアヴァターラとしての釈迦観はクリシュナ意識国際協会(ISKCON)[3]を含む現代のヴァイシュナヴァの多くの団体のうちに一般的な信条として存続している。

サルヴパッリー・ラーダークリシュナンやヴィヴェーカーナンダのような他の顕著な現代ヒンドゥー教の提案者たちは、釈迦を世界中の全ての宗教の背後にある同じ普遍的真実の教師とみなした。



ヒンドゥー教徒のブラフマン、ゾロアスター教徒のアフラ・マズダー、仏教徒のブッダ、ユダヤ教徒のエホバ、キリスト教徒の天の父である彼が、あなたがその高貴な理念を実行するように強さを与えられますように!

− ヴィヴェーカーナンダ、[4]



もしヒンドゥー教徒がガンジスの蔵でヴェーダの祈りをするならば…もし日本人が仏像を崇拝するならば、もしヨーロッパ人がキリストの仲裁を確信するならば、もしアラブ人がモスクでコーランを読むならば……それは彼らの最深の神理解であり、彼らに対する神のこの上なく満たされた啓示である。

− ラーダークリシュナン、[5]

立松和平がインドに行ったとき、マルカスというキリスト教徒が「ヒンドゥー教の考え方」として以下のように語るのを聞いたという。



六道輪廻では八百五十万回生まれ変わらねばならないとされています。そのうち一回だけ人間になれます。この時に輪廻から解脱することができるのです。ブッダはそのことを証明するために、ビシュヌ神の生まれ変わりとして人間界にでてきたというのがヒンドゥー教の考え方です。

− [6]

ヒンドゥー教内では、例えばラーマあるいはクリシュナのようなアヴァターラが一般的に至高の神として崇拝されているが、ブッダに同様な方法でのヒンドゥー教徒からの崇拝が行われているのは、さほど見られない。

ヒンドゥー教内での釈迦に主導された改革への反応[編集]





アヴァターラを描いた絵。最下段中央の多腕の人物が釈迦である。
ガンディーを含む、現代ヒンドゥー教における革命者の多くは、釈迦の生涯と教えとその試みられた改革の多くに霊感を受けた[7]。

仏教は、1979年にアラーハーバードで行われたヴィシュヴァ・ヒンドゥー・パリシャッドの第二回世界ヒンドゥー会議で栄誉を与えられたダライ・ラマ14世ラマ・テンジン・ギャツォとともに同時代のヒンドゥトヴァ運動に好意を見出している[8]。

ヒンドゥー教聖典における釈迦[編集]

ブッダは、プラーナ文献ほぼ全てを含む、重要なヒンドゥー教聖典の中で描写されている。しかしながらそれら全てが同じ人物に言及するわけではない。それらのいくつかは別々の人々を言及し、また「ブッダ」は単に「ブッディ(知性)をもつ人」を意味する。しかし、それらの大部分は仏教の開祖に言及している。それらは二つの役割とともに彼を描写する。悪魔や他のものを惑わすために説教をし、ヴェーダに規定された動物の犠牲を非難する。

ブッダについて言及するプラーナの部分的なリストは、以下の通りである。
『ハリヴァンシャ』(1.41)
『ヴィシュヌ・プラーナ』(3.18)
『バーガヴァタ・プラーナ』(1.3.24, 2.7.37, 11.4.23)
『ガルダ・プラーナ』(1.1, 2.30.37, 3.15.26)
『アグニ・プラーナ』(16)
『ナーラダ・プラーナ』(2.72)
『リンガ・プラーナ』(2.71)
『パドマ・プラーナ』(3.252) など

プラーナ文献では、彼はヴィシュヌの十のアヴァターラのひとつで、普通はその九番目として言及される。アヴァターラとしての彼に言及した別の重要な聖典は、リシ・パラーシャラの『ブリハット・パラーシャラ・ホーラ・シャーストラ』(2:1-5/7)である。

彼はしばしばヨーギーあるいはヨーガチャーリャそしてサンニャーシーとして記述される。いくつかの場所ではブッダの父はアンジャナあるいはジナと名づけられてはいるが、仏教の伝統では、彼の父は一貫してスッドーダナと呼ばれた。彼は白色あるいは青白く赤らんだ容色が美しく、赤茶けた、あるいは赤い衣服を着た人物として描写された[9]。

ほんのいくつかの陳述がブッダの崇拝に言及する。例えば『ヴァラーハ・プラーナ』は美を欲する人は彼を崇拝すべきと述べている[10]。

プラーナのいくつかでは、彼が「悪魔を欺き迷わす」ために誕生を担ったとして記述されている。



悪魔どもを惑わすため、彼(主ブッダ)は子供の姿で進路に立った。愚かなジナ(悪魔)は彼が自分の息子になると思い込んだ。かくして主シュリー・ハリは(アヴァターラ・ブッダとして)、その非暴力の力強い言葉によって、巧みにジナと他の悪魔どもを迷わせた。

− 『ブラフマーンダ・プラーナ』 1.3.28

『バーガヴァタ・プラーナ』では、ブッダはデーヴァに力を取り戻させるために誕生を担ったと言われている。



次に、カリ・ユガのはじまりにおいて、デーヴァの敵どもを混乱させる目的のため、キーカタ人の間で、彼はブッダという名の、アルジャナの息子となる。

− 『シュリーマッド・バーガヴァタム』1:3:24

ただし上記の『バーガヴァタ・プラーナ』の一節について、クリシュナ意識国際協会設立者A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダは、釈迦(に化身したヴィシュヌ)はヴェーダにおける犠牲を否定したのではなくヴェーダの犠牲の名のもとに行われる動物の屠殺をやめさせようとした、と解釈する[11]。

多くのプラーナにおいてブッダは、ヴェーダのダルマから遠くへと、悪魔あるいは人類のいずれか一方惑わせる目的のうちに顕現された、ヴィシュヌの化身として記述される。『バヴィシュヤ・プラーナ』は以下を含む。



次いで、カリの時代を思い出された神ヴィシュヌはシャーキャムニことゴータマとして生まれた。そして十年間仏教徒のダルマを説いた。次いで、シュッドーダナは十二年統治した。そしてシャーキャシンハは十二年。カリの時代の第一段階において、ヴェーダの道は破壊され、全ての人々は仏教徒となった。ヴィシュヌとともに逃げ場を捜した彼らは、迷わされた。

− 『バヴィシュヤ・プラーナ』、[12]

ウェンディ・ドニジャーによれば、様々なプラーナのうちのそれぞれ説明に見出されるブッダ・アヴァターラは、彼らを悪魔と同一視することで仏教徒を中傷するための、正統ブラフミニズムによる企ての表れかもしれない[13]。ヘルムート・フォン・グラーゼナップはこれらの発達は、ヴァイシュナヴァ派のために仏教徒に勝利し、このような重大な異端がインドにおいて存在できた事実を説明しようという、仏教を平和裏のうちに吸収するためのヒンドゥーの欲求であるとした[14]。

ひとりの「ブッダ」が帰された時間は、相互矛盾する。いくつかは彼を紀元500年あたりに押し込み、64年の生涯の中でヴェーダの宗教に従う幾人かの人々を殺害した、そしてジナという名の父を持っていたと記述している。そしてそれはこの独特な人物像がシッダールタ・ゴータマとは別人かもしれないことを暗示する[15]。

仏陀

仏陀(ぶつだ、ブッダ、梵:बुद्ध buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。



目次 [非表示]
1 「佛」の字について
2 仏陀の範囲
3 仏陀への信仰
4 十号
5 菩薩の五十二位
6 俗称・隠語としての「仏」
7 関連項目
8 脚注


「佛」の字について[編集]

「仏」(ぶつ)の字は、通常は中国、宋・元時代頃から民間で用いられた略字として知られるが、唐の時代にはすでに多く使われており、日本の空海も最澄宛の『風信帖』(国宝)の中で使用している。これを漢字作成時の地域による使用文字の違いと見る有力な説がある。

中国において buddha を「佛」という字を新たに作成して音写したのは、おそらく中国に buddha に当たる意味の語がなかったためであろう。この「佛」の語は、中央アジアの "but" もしくは "bot" に近い発音を音写したもので、元北京大学の季羨林教授によれば、この語はトカラ語からの音写であるとするが、根拠は不明である。

4世紀以後に仏典がサンスクリットで書かれて、それが漢文訳されるようになると、buddha は「佛陀」と2字で音写されるようになる。つまり、「佛陀」が省略されて「佛」表記されたのではなく、それ以前に「佛」が buddha を意味していたことに注意すべきである。[1]

「佛」の発音については、「拂」「沸」の発音が *p‘iuet であるから、初期には「佛」も同じかそれに近かったと考えられる。この字は「人」+「弗」(音符)の形声文字であり、この「弗」は、「勿」「忽」「没」「非」などと同系の言葉であって、局面的な否定を含んでおり、「……ではありながら、そうではない・背くもの」という意味を持っている。その意味で、buddha が単に音だけで「佛」という字が当てられたのではなく、「(もとは)人間ではあるが、今は非(超と捉える説もある)人的存在」となっているものを意味したとも考えられる。なお、「仏」の右の旁(つくり)は、「私」の旁である「ム」から来ていると見られている。

仏陀の範囲[編集]

基本的には仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。しかし初期の経典でも燃燈仏や過去七仏など仏陀の存在を説いたものもあり、またジャイナ教の文献にはマハーヴィーラを「ブッダ」と呼んだ形跡があることなどから、古代インドの限られた地域社会の共通認識としては既に仏陀が存在したことを示している。

しかして時代を経ると、その仏陀思想がさらに展開され大乗経典が創作されて盛り込まれた。このため一切経(すべての経典)では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事が説かれた。例を挙げると、初期経典では「根本説一切有部毘奈耶薬事」など、大乗仏典では『阿弥陀経』や『法華経』などである。

また、
多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。
悟り(光明)を得た人物を「ブッダ」と呼ぶ場合があるが、これは仏教、ことに密教に由来するもので、ヴェーダの宗教の伝統としてあるわけではないと思われる。
一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。
近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けて「ニューエイジ」と呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在を「ブッダ」と呼ぶ伝統が一部に広まった。

仏陀への信仰[編集]

釈迦は自分の教説のなかで輪廻を超越する唯一神(主催神、絶対神)の存在を認めなかった。その一方、経典のなかでは、従来は超越的な「神」(deva, 天部)としてインド民衆に崇拝されてきた存在が仏陀の教えに帰依する守護神として描かれている。その傾向は時代を経ると加速され、ヴェーダの宗教で「神」と呼ばれる多くの神々が護法善神として仏教神話の体系に組み込まれていった。また仏滅500年前後に大乗仏教が興隆すると、人々は超越的な神に似た観念を仏陀に投影するようにもなった。

なお、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。そのため当初はレリーフなどでは、法輪で仏の存在を示していた。しかし、死後300年頃より彫像が作られはじめ、現在は歴史上もっとも多くの彫像をもつ実在の人物となっている。とはいえ、死後300年を過ぎてから作られはじめたため実際の姿ではない。仏陀の顔も身体つきも国や時代によって異なる。

十号[編集]

詳細は「十号」を参照

仏典では仏陀をさまざまな表現で呼んでおり、これを十号という。
1.如来(にょらい、tathāgata (sanskrit)) - 多陀阿伽度と音写されている。真如より来現した人。
2.応供(おうぐ、arhat (sanskrit)) - 阿羅訶、阿羅漢と音写されている。煩悩の尽きた者。
3.明行足(みょうぎょうそく、vidyācaraṇa-saṃpanna(sanskrit)) - 宿命・天眼・漏尽の三明の行の具足者。
4.善逝(ぜんぜい、sugata (sanskrit)) - 智慧によって迷妄を断じ世間を出た者。
5.世間解(せけんげ、lokavid (sanskrit)) - 世間・出世間における因果の理を解了する者。
6.無上士(むじょうし、anuttra (sanskrit)) - 悟りの最高位である仏陀の悟りを開いた事から悟りに上が無いと言う意味。
7.調御丈夫(じょうごじょうぶ、vidyācaraṇa-saṃpanna (sanskrit)) - 御者が馬を調御するように、衆生を調伏制御して悟りに至らせる者。
8.天人師(てんにんし、śāstā-devamanuṣyāṇām (sanskrit)) - 天人の師となる者。
9.仏(ぶつ、buddha (sanskrit)) - 煩悩を滅し、無明を断尽し、自ら悟り、他者を悟らせる者。
10.世尊(せそん、Bhagavat (sanskrit)) - 人天の尊敬を受ける栄光ある者。真実なる幸福者。

菩薩の五十二位[編集]

仏陀の悟りの位については、菩薩が仏となる修行過程として52の位が存在するともされている[2]ことが理解の助けとなる。
十信(下位から1段目〜10段目の悟り)
十住(下位から11段目〜20段目の悟り)
十行(下位から21段目〜30段目の悟り)
十廻向(下位から31段目〜40段目の悟り)
十地(下位から41段目〜50段目の悟り) - 41段目の初地の悟りを開いた人は、油断しても悟りの位が退転しない事から、特に「初歓喜地」と言われる。
等覚(下位から51段目の悟り) - 仏の悟りの位に等しい事から等覚と言われる
妙覚(下位から52段目の悟り) - 仏、仏陀、正覚

俗称・隠語としての「仏」[編集]

日本では、俗に死者の遺体を指して隠語で「ホトケ」という場合がある。これは一般的には、死後に成仏するという大乗仏教の考えから、ともいわれるが、それはあくまでも一部でしかなく正解とは言いがたい。たとえば浄土教では、たしかに死後に極楽へ転生すると解釈する。しかし、この娑婆世界こそが浄土であるという解釈を持つ宗派もある。

このため、死者を仏と呼ぶようになったのは、日本の中世以降、死者をまつる器として「瓫(ほとき、ほとぎ)」が用いられて、それが死者を呼ぶようになったという説もある。ただし、古来より日本では人間そのものが神であり(人神=ひとがみ)、仏教が伝来した当初は仏も神の一種と見なされたこと(蕃神=となりぐにのかみ)から推察して、人間そのものを仏と見立てて、ひいては先祖ないし死者をブッダの意味で「ほとけ」と呼んだとも考えられている。

釈迦

釈迦(釋迦、しゃか、 梵: शाक्य [zaakya](Śākya)、シャーキャ)は、仏教の開祖である。

本名(俗名)は、パーリ語形 ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)またはサンスクリット語形 ガウタマ・シッダールタ(गौतम सिद्धार्थ [Gautama Siddhārtha])、漢訳では瞿曇 悉達多(クドン・シッダッタ)と伝えられる。



目次 [非表示]
1 呼称 1.1 呼称表

2 史実 2.1 生没年

3 生涯 3.1 誕生
3.2 出家
3.3 成道
3.4 教団
3.5 伝道の範囲
3.6 入滅

4 入滅後の評価 4.1 ヒンドゥー教、イスラーム、マニ教から
4.2 マルコ・ポーロ

5 釈迦の像
6 釈迦の生涯を伝える文献
7 釈迦を題材にした作品 7.1 小説
7.2 漫画
7.3 映画
7.4 音楽

8 脚注・出典 8.1 脚注
8.2 出典

9 参考文献
10 関連文献
11 関連項目
12 外部リンク


呼称[編集]

「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに、梵: शाक्यमुनि [zaakya-muni](Śākyamuni)、シャーキャ・ムニ)の略である。釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。

称号を加え、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来ともいう。ただし、これらはあくまで仏教の視点からの呼称である。僧侶などが釈迦を指す時は、略して釈尊(しゃくそん)または釈迦尊、釈迦仏、釈迦如来と呼ぶことが多い。

称号だけを残し、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略す。

日本語では、一般にお釈迦様(おしゃかさま)と呼ばれることが多い。

仏典ではこの他にも多くの異名を持つ。うち代表的な10個(どの10個かは一定しない)を総称して仏「十号」と呼ぶ。

呼称表[編集]
釈迦牟尼世尊 釈迦尊
釈尊(しゃくそん)

釈迦牟尼仏陀 釈迦牟尼仏
釈迦仏

釈迦牟尼如来 釈迦如来(しきゃじらい)

多陀阿伽度(たたあかど)
阿羅訶(応供)(あらか)
三藐三仏陀(正遍智)(さんみゃくさんぶっだ)

史実[編集]

釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学仏教学の権威であった中村元はパーリ語聖典『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[1]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲しているが、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多い。よって歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。

しかし、1868年、イギリスの考古学者A・フェラーがネパール南部のバダリア(現在のルンビニー)で遺跡を発見。そこで出土した石柱には、インド古代文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれていた。この碑文の存在で、釈迦の実在が史上初めて証明され、同時にここが仏陀生誕の地であることが判明する。

生没年[編集]

まず釈迦の没年、すなわち仏滅年代の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる二系統の伝承のいずれが正確かを確認する術がない[2]。釈迦に限らず、インドの古代史の年代確定は難しい[3]。日本の宇井伯寿や中村元は漢訳仏典の資料に基づき(北伝)、タイやスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国はパーリ語聖典に基づいて(南伝)釈迦の年代を考え、欧米の学者も多くは南伝を採用するが、両者には百年以上の差がある。

なお、『大般涅槃経』等の記述から、釈迦は80歳で入滅したことになっているので、没年を設定すれば、自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、
紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝(上座部仏教)説
紀元前566年 - 紀元前486年 : 北伝「衆聖点記」説
紀元前466年 - 紀元前386年 : 宇井説

等があるが、他にも様々な説がある。

生涯[編集]
概略
釈迦は紀元前7世紀-紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で菩提樹の下で降魔成道を遂げ、悟りを開いたとされる。まもなく梵天の勧め(梵天勧請)に応じて初転法輪を巡らすなどして、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝ではヴァイシャーカ月[※ 1]の満月の日[※ 2]に80歳で入滅(死去)したと言われている。

誕生[編集]





十六大国時代のインド(紀元前600年)
釈迦はインド大陸の北方(現在のインド・ネパール国境付近)にあった部族・小国シャーキャの出身である。シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、現在のインド・ネパール国境のタライ(tarai)地方のティロリコート(Tilori-kot)あるいはピプラーワー(Piprahwa)付近にあった。シャーキャは専制王を持たず、サンガと呼ばれる一種の共和制をとっており、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた小国であった。釈迦の家柄はrājaラージャ(王)とよばれる名門であった。このカピラヴァストゥの城主、シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの[要出典]執政アヌシャーキャの娘[要出典]・マーヤーを母として生まれ、ガウタマ・シッダールタと名づけられた、とされている。

ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」を意味する言葉で、シッダールタ(シッダッタ)は「目的を達したもの」という意味である。ガウタマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、現在のネパール、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティー(パーリ語:マハーパジャパティー)によって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったことから、マーヤーもマハープラジャパティーもシュッドーダナの妃だった可能性がある。


伝説では「釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えられている。釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。[要出典]

出家[編集]

当時のインドでは、ヴェーダ経典の権威を認めない六人の思想家達(「ナースティカ」、「六師外道」)、ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、自由な思想を展開していた。また社会的にも16の大国および多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増す最中にあった。シャーキャもコーサラに服属することになった。

釈迦出家の動機を説明する伝説として四門出遊の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老も病も死もある(老病死)と生の苦しみを感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった、という。

私生活において一子ラーフラをもうけたことで、29歳の時、12月8日夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。そしてウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。そして出家して6年(一説には7年[要出典])の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑、ろくやおん)へ去ったという。

成道[編集]

そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け悟りを開く。これを「降魔成道」という。降魔成道の日については、4月8日、2月8日、2月15日など諸説ある[8]。(日本では一般に12月8日に降魔成道したとする伝承がある。[4])釈迦の降魔成道を記念して、以後仏教では、この日に「降魔成道会(じょうどうえ)」を勤修するようになった。また、ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。

 7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

 ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

そこで釈迦は鹿野苑へ向かい、初めて五比丘にその方法論、四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この5人の比丘は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、釈迦は喜んだ。この時初めて、釈迦は如来(tathaagata、タター(ア)ガタ)という語を使った。すなわち「ありのままに来る者(タターアガタ)」「真理のままに歩む者(タターガタ)」という意味である。それは、現実のありのままの姿(実相)を観じていく事を意味している。

初転法輪を終わって「世に六阿羅漢(漢:応供、梵:arhant)あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。次いでバーラーナシーの長者、ヤシャスに対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。

教団[編集]

その後、ヤシャスやプルナなどを次々と教化したが、初期の釈迦仏教教団において最も特筆すべきは、三迦葉(さんかしょう)といわれる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。当時有名だった事火外道(じかげどう)の、ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa)、ナディー・カッサパ (nadii kassapa)、ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa) を教化して、千人以上の構成員を持つようになり、一気に仏教は大教団化した。

ついでラージャグリハ(raajagRha、王舎城)に向かって進み、ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

王舎城に入って、ビンビサーラ王との約束を果たし教化する。王はこれを喜び竹林精舎を寄進する。ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。その一人はシャーリプトラ(舎利弗)であり、もう一人はマウドゥガリヤーヤナ(目連、モッガラーナ)であった。この二人は後に釈迦の高弟とし、前者は知恵第一、後者は神通第一といわれたが、この二人は釈迦の弟子で、最初に教化された五比丘の一人であるアッサジ比丘によって釈迦の偉大さを知り、弟子250人とともに帰依した。その後、シャーリプトラは叔父の摩訶・倶絺羅(まか・くちら、長爪・梵士=婆羅門とも)を教化した。この頃にマハーカーシャパ(摩訶迦葉、マハー・カッサパ)が釈迦の弟子になった。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハ(王舎城)を中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。

伝道の範囲[編集]

これより後、最後の一年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

入滅[編集]

釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、入滅前1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになったのであろう。

このプラセーナジットの留守中、コーサラ国では王子が兵をあげて王位を奪い、ヴィルーダカとなった。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトル(ajaatazatru、阿闍世王)を頼って向かったが、城門に達する直前に亡くなったといわれている。当時、釈迦と同年配であったといわれる。

ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)によって死んだと記録されている。釈迦はカピラヴァストゥから南下してマガダ国の王舎城に着き、しばらく留まった。

釈迦は多くの弟子を従え、王舎城から最後の旅に出た。アンバラッティカ(パ:ambalaTThika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(パ:paaTaligaama)に着いた。ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ(paataliputra、華子城)であり、現在のパトナである。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。

次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

“ 比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。[5] ”

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

“ だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように[6] ”

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

“ では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[7] ”

“ 阿難よ、このようにして、比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである[8] ”

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた[9]。

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

Nirvana buddha peshawar.jpg

釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaara) に向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マッラ (malla) 族(マッラ国)のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。[※ 3]。これを仏滅(ぶつめつ)という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

仏陀入滅の後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは、
1.クシナーラーのマッラ族
2.マガダ国のアジャタシャトゥル王
3.ベーシャーリーのリッチャビ族
4.カビラヴァストフのシャーキャ族
5.アッラカッパのプリ族
6.ラーマ村のコーリャ族
7.ヴェータデーバのバラモン
8.バーヴァーのマッラ族

である[※ 4]。

入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。

入滅後の評価[編集]

ヒンドゥー教、イスラーム、マニ教から[編集]

「ヒンドゥー教における釈迦」も参照

釈迦の入滅後、仏教はインドで大いに栄えたが、大乗仏教の教義がヒンドゥー教に取り込まれるとともにその活力を失っていく。身分差別を否定しないヒンドゥー教は、平等無碍を説く仏教を弾圧の対象とし、貶めるために釈迦に新たな解釈を与えた。釈迦は、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)として地上に現れたとされた。偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象になった。ただ、逆に大乗仏教の教義をヒンドゥー教が取り込んだため、ヒンドゥー教も仏教の影響を受けていた、と捉えることもできる。

さらにインドがイスラム教徒に征服されると、仏教はイスラム教からも弾圧を受け衰退の一途をたどる。イスラム征服後のインドではカーストの固定化がさらに進む。このなかでジャイナ教徒は信者をヒンドゥー社会の一つのカーストと位置づけその存続を可能にしたが、仏教はカースト制度を否定したためその社会的基盤が消滅する結果となった。元々インド仏教はその存在を僧伽に依存しており、ムスリムによって僧伽が破壊されたことによってその宗教的基盤を失い消滅した。インドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降である。現在はインド北東部の一部で細々と僧伽が存続する。

釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は崇拝の対象である。ネパールではヒンドゥー教徒が80.6%、仏教徒が10.7%となっている(2001年国勢調査による)。ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。なお、ルンビニは1997年にユネスコの世界遺産に登録された。また、ネパールでは王制時代はヒンドゥー教を国教としていたが、2008年の共和制移行後は国教自体が廃止されたため、ヒンドゥー教は国教ではなくなった。

仏教は仏滅後100年、上座部と大衆部に分かれる。これを根本分裂という。その後西暦100年頃には20部前後の部派仏教が成立した。これを枝末分裂という(ただし大衆部が大乗仏教の元となったかどうかはさだかではなく、上座部の影響も指摘されている)。そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である、等と拡張解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。とくに大乗で強調される仏性の思想は、上座部仏教には無かったことが知られている。

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ[編集]

マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[10]。あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう。」[11]とし、(版や翻訳で文章に差異はあるが)極めて高く評価している。本文中では仏教という言葉は一切登場せず、仏教は他宗教と総称して偶像崇拝教として記述されるが、四門観の場面を描写するなど、釈迦に対する評価である事に間違いない。キリスト教の教義にはいささか反するという矛盾も否定は出来ないが、キリスト教徒としては最上の評価と言ってよいであろう。

釈迦の像[編集]

入滅後400年間、釈迦の像は存在しなかった。彫像のみならず絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、法輪や菩提樹のような象徴的事物に置き換えられた。崇拝の対象は専ら仏舎利または仏塔であった。

釈迦が入滅した当時のインドでは、バラモン教を始めとする宗教はどれも祭祀を中心に据えており、像を造って祀るという偶像崇拝の概念が存在せず、釈迦自身もそのひとりであった。初期仏教もこの社会的背景の影響下にあり、またそもそも初期仏教は、偶像を作る以前に釈迦本人に信仰対象としての概念を要求しなかった。

仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は,先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。

ラホール博物館には苦行する釈迦の像が所蔵されている。

釈迦の生涯を伝える文献[編集]

注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
修行本起経 〔大正・3・461〕
瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。
仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕
仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。
普曜経
方広大荘厳経 - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。
仏所行讃 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴著
Lalita vistara
Mahavastu
遊行経 『長阿含経』中
仏般泥洹経 白法祖訳
Mahaparinibbanna sutta
大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。
『自説経(ウダーナ)』 - パーリ語による仏典。日本語訳:[9]

釈迦を題材にした作品[編集]

小説[編集]
ヘルマン・ヘッセ 『シッダールタ』

漫画[編集]
手塚治虫 『ブッダ』

映画[編集]
『亜細亜の光』 (原題: "DIE LEUCHTE ASIENS" 1925年、ドイツ)
『釈迦』 (1961年、大映 釈迦役: 本郷功次郎)
『リトル・ブッダ』(1993年、アメリカ 釈迦役: キアヌ・リーブス)

音楽[編集]
田中正徳『世尊』(合唱曲)
貴志康一「交響曲『仏陀』」
伊福部昭「交響頌偈『釋迦』」(合唱を伴う管弦楽曲)
ペア・ノアゴー「歌劇『シッドハルタ(シッダルタ)』」

仏教

仏教(ぶっきょう、サンスクリット:बौद्धदर्शनम् [Buddhadarśanam]、英語:Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、あるいはガウタマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教の一つ(信仰のある国の数を基準にした場合[1])で、一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。



目次 [非表示]
1 教義 1.1 世界観 1.1.1 輪廻転生・六道・仏教と神

1.2 因果論 1.2.1 縁起
1.2.2 空

1.3 苦、その原因と解決法 1.3.1 四諦
1.3.2 三法印
1.3.3 中道

1.4 仏教の存在論 1.4.1 無常、苦、無我


2 実践 2.1 戒定慧(かいじょうえ)(三学)
2.2 八正道
2.3 戒律
2.4 五戒
2.5 三宝への帰依
2.6 波羅蜜
2.7 止観・瞑想

3 歴史 3.1 時代区分
3.2 原始仏教
3.3 部派仏教
3.4 大乗仏教

4 分布 4.1 言語圏

5 宗派 5.1 部派仏教
5.2 大乗仏教
5.3 密教

6 仏像
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク


教義[編集]

世界観[編集]

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるインドの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。

仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。開祖の釈迦の思想には偶像崇拝の概念は無かった。

輪廻転生・六道・仏教と神[編集]

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

また、神(天)とは、仏教においては天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約をするという考えも存在しない。

ただしこれらの内容は、民間信仰においては様子が一変していることが多く、それが仏教を分かりづらくする原因の一つとなっている。

因果論[編集]

仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論を基本的考え方にすえている。

生命の行為・行動(体、言葉、心でなす三つの行為)にはその結果である果報が生じるとする業論があり、果報の内容如何により人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、人々に悪行をなさずに善行を積むことを勧める。また個々の生に対しては業の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言う。

輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素だが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴である。

人の世は苦しみに満ち溢れている。そして、あらゆる物事は原因と結果から基づいているので、人々の苦しみにも原因が存在する。したがって、苦しみの原因を取り除けば人は苦しみから抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論である。

また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっている。

輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体(心相続, citta-santana)によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。

縁起[編集]

詳細は「縁起」を参照

以下因果に基づき苦のメカニズムを整理された十二支縁起を示す。
1.無明(現象が無我であることを知らない根源的無知)
2.行(潜在的形成力)
3.識(識別作用)
4.名色(心身)
5.六入(六感覚器官)
6.触(接触)
7.受(感受作用)
8.愛(渇愛)
9.取(執着)
10.有(存在)
11.生(出生)
12.老死(老いと死)

これはなぜ「生老病死」という苦のもとで生きているのかの由来を示すと同時に、「無明」という条件を破壊することにより「生老病死」がなくなるという涅槃に至る因果を示している。

空[編集]

詳細は「空 (仏教)」を参照

あらゆるものは、それ自体として実体を持っているわけではないという考え。

苦、その原因と解決法[編集]

仏教では生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とする。そしてそれを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行の実践を奨励する(八正道)。

このように仏教では、救いは超越的存在(例えば神)の力によるものではなく、個々人の実践によるものと説く。すなわち、釈迦の実体験を最大の根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それを実践することを勧める。

なお、釈迦は現代の宗教が説くような「私を信じなければ不幸になる。地獄に落ちる」という類の言説は一切しておらず、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決を重視していた。即ち、苦悩は執着によって起きるということを解明し、それらは八正道を実践することによって解決に至るという極めて実践的な教えを提示することだった

四諦[編集]

詳細は「四諦」を参照

釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つ。
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)

三法印[編集]

詳細は「三法印」を参照

仏教における3つの根本思想。三法印の思想は古層仏典の法句経ですでに現れ、「諸行無常・諸法無我・一切行苦」が原型と考えられる。 大乗では「一切行苦」の代わりに涅槃寂静をこれに数えることが一般的である。これに再度「一切行苦」を加えることによって四法印とする場合もある。
1.諸行無常 - 一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある
2.諸法無我 - 一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない
3.涅槃寂静 - 苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である
4.一切行苦 - 一切の形成されたものは、苦しみである

中道[編集]

「中道」を参照

仏教の存在論[編集]

詳細は「無常」、「無我」、「五蘊」、「名色」、「業」、および「縁起」を参照

仏教そのものが存在を説明するものとなっている。変化しない実体を一切認めない、とされる。また、仏教は無我論および無常論である[2]とする人もおり、そういう人は、仏教はすべての生命について魂や神といった本体を認めないとする。そうではなくて釈迦が説いたのは「無我」ではなくて「非我」である(真実の我ではない、と説いたのだ)とする人もいる。衆生(生命・生きとし生けるもの)と生命でない物質との境は、ある存在が識(認識する働き)を持つか否かで区別される。また物質にも不変の実体を認めず、物理現象も無常、すなわち変化の連続であるとの認識に立つ。物質にも精神にも普遍の実体および本体がないことについて、「行為はあるが行為者はいない」などと説明されている。

人間存在の構成要素を五蘊(色・受・想・行・識)に分ける。これは身体と4種類の心理機能のことで、精神と物質の二つで名色とも言う。

猶、日本の仏教各宗派には魂の存在を肯定する宗派もあれば、肯定も否定もしない宗派もあれば、否定的な宗派もあるが[3]、本来、釈迦は霊魂 (aatman) を説くことはせず、逆に、諸法無我(すべてのものごとは我ならざるもの (anaatman) である)として、いかなる場合にも「我」すなわち「霊魂」を認めることはなかった[4]。

仏教では、根本教義において一切魂について説かず、「霊魂が存在するか?」という質問については一切答えず、直接的に「霊魂は存在しない」とのべず、「無我(我ならざるもの)」について説くことによって間接的に我の不在を説くだけだった。やがて後代になるといつのまにか「我ならざるもの」でもなく、「霊魂は存在しない」と積極的に主張する学派も出てきた。

無常、苦、無我[編集]

「無常」、「苦 (仏教)」、および「無我」を参照

実践[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

戒定慧かいじょうえ(三学)[編集]

詳細は「三学」を参照

戒律によって心を惑わす悪行為から離れ、禅定により心をコントロールし鎮め、智慧を定めることこの世の真理を見極めることで、心に平穏をもたらすこと(涅槃)を目指す。

八正道[編集]

詳細は「八正道」を参照

釈迦の説いた悟りに至るために実践手段。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定からなる。

戒律[編集]

「戒律」を参照

五戒[編集]

「五戒」を参照

三宝への帰依[編集]

「三宝」および「帰依」を参照

波羅蜜[編集]

「波羅蜜」を参照

止観・瞑想[編集]

詳細は「止観」を参照

釈迦(ゴータマシッダールダ)は瞑想によって悟りを開いたと言われている。

歴史[編集]

時代区分[編集]

近年は異論もあるが、仏教の歴史の時代区分は、原始仏教、部派仏教、大乗仏教に三区分するのがおおかたの意見である[5]。

原始仏教[編集]

仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)にインド北部ガンジス川中流域で、釈迦が提唱し、発生した(初期仏教)。他の世界宗教とは異なり、自然崇拝や民族宗教などの原始宗教をルーツに持たない。当時のインドでは祭事を司る支配階級バラモンとは別に、サマナ(沙門)といわれる出身、出自を問わない自由な立場の思想家、宗教家、修行者らがおり、仏教はこの文化を出発点としている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、とくに初期経典からそのような方向性を読み取れる。当時の世界的な時代背景は、都市国家がある程度の成熟をみて社会不安が増大し、従来のアニミズム的、または民族的な伝統宗教では解決できない問題が多くなった時期であろうと考えられており、医学、農業、経済などが急速に合理的な方向へと発達し始めた時期とも一致している。

釈迦が死亡(仏滅)して後、直ぐに出家者集団(僧伽、サンガ)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。これは「三蔵の結集(さんぞうのけちじゅう)」と呼ばれ、マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)が中心になって開かれた。仏典はこの時には口誦によって伝承され、後に文字化される。釈迦の説いた法話を経・律・論と三つに大きく分類し、それぞれ心に印しているものを持ち寄り、仏教聖典の編纂会議を行った。これが第一回の三蔵結集である。

部派仏教[編集]

仏滅後100年頃、段々と釈迦の説いた教えの解釈に、色々の異見が生じて岐れるようになってきた。その為に釈迦の説法の地であるヴァイシャリーで、第二回の三蔵の結集を行い、釈迦の教えを再検討する作業に入った。この時、僧伽は教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂する(根本分裂)。時代とともに、この二派はさらに多くの部派に分裂する(枝末分裂しまつぶんれつ)。この時代の仏教を部派仏教と呼ぶ。

大乗仏教[編集]

「仏教のシルクロード伝播」も参照





南アジア、西アジア方面への仏教伝播。アショーカ王はヘレニズム諸国や東南アジア、中央アジアに伝道師を派遣した




東南アジア、東アジア方面への仏教伝播
部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(南伝仏教)。

それから又しばらくして、紀元前約3世紀の半ば頃に、仏教史上名高いアショーカ王が第三回の結集をパータリプトラ城(華氏城)で行った。アショーカ王は西方のヘレニズム諸国や東方の東南アジア諸国、北方の中央アジア諸国に伝道師を派遣している。この頃に文字が使われ出し、今までの口伝を基に出来たのが文字で書かれた経典・典籍である。その文字は北インドに広まったのがサンスクリット文字、南の方に発達したのがパーリ語である。パーリ語はセイロンを中心としている。そこで仏典がサンスクリットで書かれたものとパーリ語で書かれたものと二種類出てきた。因みに近来、このサンスクリットの頃の仏典を日本語訳する作業を行った人物に、中村元がいる。

紀元前後、単に生死を脱した阿羅漢ではなく、一切智智を備えた仏となって、積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている(北伝仏教)。

7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(即身成仏)ができるとする。密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。

8世紀よりチベットは僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入した(チベット仏教)。その後チベット人僧侶の布教によって、チベット仏教はモンゴルや南シベリアにまで拡大していった。

仏教の教えは、インドにおいては上記のごとく段階を踏んで発展したが、近隣諸国においては、それらの全体をまとめて仏説として受け取ることとなった。中国および中国経由で仏教を導入した諸国においては、教相判釈により仏の極意の所在を特定の教典に求めて所依としたり、特定の行(禅、密教など)のみを実践するという方向が指向されたのに対し、チベット仏教では初期仏教から密教にいたる様々な教えを一つの体系のもとに統合するという方向が指向された。

現在の仏教は、かつて多くの仏教国が栄えたシルクロードが単なる遺跡を残すのみとなったことに象徴されるように、大部分の仏教国は滅亡し、世界三大宗教の一つでありながら仏教を主要な宗教にしている国は少ない。7世紀に唐の義浄が訪れた時点ですでに発祥国のインドでは仏教が廃れており、東南アジアの大部分はヒンドゥー教、次いでイスラム教へと移行し、東アジアでは、中国・北朝鮮・モンゴル国では共産化によって宗教が弾圧されて衰退している。ただしモンゴルでは民主化によりチベット仏教が復権しているほか、中国では沿海部を中心に復興の動きもみられる。韓国は儒教を尊重した李氏朝鮮による激しい弾圧により、寺院は山間部に残るのみとなった。大韓民国成立後はキリスト教の勢力拡大が著しく、キリスト教徒による排仏運動が社会問題になっている。ベトナムでは共産党政権により宗教の冷遇はされたものの、仏教がベトナム戦争勝利に大きな役割を果たしたこともあって組織的な弾圧を受けることなく、一定の地位を保っている。仏教が社会において主要な位置を保っているのは、仏教を国教または国教に準じた地位としているタイ・スリランカ・カンボジア・ラオス・ブータン、土着の信仰との混在・習合が顕著である日本・台湾・ベトナムなどである。しかし他の国では、近年でもアフガニスタンでタリバーンによる石窟爆破などがあり、中国(特にチベット自治区)・ミャンマー・北朝鮮では政権によって、韓国ではキリスト教徒によって、仏教に対する圧迫が続いている。

しかし発祥国のインドにおいては、アンベードガルにより、1927年から1934年にかけて仏教復興及び反カースト制度運動が起こり、20万あるいは50万人の民衆が仏教徒へと改宗した。また近年においてもアンベードカルの遺志を継ぐ日本人僧・佐々井秀嶺により運動が続けられており、毎年10月には大改宗式を行っているほか、ブッダガヤの大菩提寺の奪還運動や世界遺産への登録、仏教遺跡の発掘なども行われるなど、本格的な仏教復興の機運を見せている。

各地域の仏教については以下を参照。
紀元前5世紀頃 - インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
紀元前3世紀 - セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
紀元後1世紀 - 中国に伝わる(中国の仏教)
4世紀 - 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
538年(552年) - 日本に伝わる(日本の仏教)
7世紀前半 - チベットに伝わる(チベット仏教)
11世紀 - ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
13世紀 - タイに伝わる(東南アジアの仏教)
13〜16世紀 - モンゴルに伝わる(チベット仏教)
17世紀 - カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
18世紀 - 南シベリアに伝わる(チベット仏教)

分布[編集]





中国、重慶市の大足石刻の華厳三聖像




インドネシアのボロブドゥール寺院遺跡群に残る仏像




日本の法隆寺。7世紀の北東アジアの仏教寺院の代表的なものである
言語圏[編集]

伝統的に仏教を信仰してきた諸国、諸民族は、経典の使用言語によって、サンスクリット語圏、パーリ語圏、漢訳圏、チベット語圏の4つに大別される。パーリ語圏のみが上座部仏教で、残る各地域は大乗仏教である。
サンスクリット語圏ネパール、インド(ベンガル仏教、新仏教等)パーリ語圏タイ、ビルマ、スリランカ、カンボジア、ラオス等。漢訳圏中国、台湾、韓国、日本、ベトナム等。チベット語圏チベット民族(チベット、ブータン、ネパール、インド等の諸国の沿ヒマラヤ地方に分布)、モンゴル民族(モンゴル国、中国内蒙古ほか、ロシア連邦のブリヤート共和国)、満州民族、テュルク系のトゥヴァ人やカルムイク人(ロシア連邦加盟国)等。
宗派[編集]

釈迦以後、インド本国では大別して「部派仏教」「大乗仏教」「密教」が時代の変遷と共に起こった。

部派仏教[編集]

詳細は「部派仏教」を参照

アビダルマ仏教とも呼ばれる。釈迦や直弟子の伝統的な教義を守る保守派仏教。仏滅後100年頃に戒律の解釈などから上座部と大衆部に分裂(根本分裂)、さらにインド各地域に分散していた出家修行者の集団らは、それぞれに釈迦の教えの内容を整理・解析するようになる。そこでまとめられたものを論蔵(アビダルマ)といい、それぞれの論蔵を持つ学派が最終的におおよそ20になったとされ、これらを総称して部派仏教という。このうち現在まで存続するのは上座部(分別説部、保守派、長老派)のみである。古くはヒンドゥー教や大乗仏教を信奉してきた東南アジアの王朝では、しだいにスリランカを起点とした上座部仏教がその地位に取って代わるようになり、現在まで広く根付いている(南伝仏教)。部派仏教は、かつて新興勢力であった大乗仏教からは自分だけの救いを求めていると見なされ小乗仏教(小さい乗り物の仏教)と蔑称されていた[6]。

上座部仏教の目的は、個人が自ら真理(法)に目覚めて「悟り」を得ることである。最終的には「あらゆるものごとは、我(アートマン)ではない(無我)」「我(アートマン)を見つけ出すことはできない」と覚り、すべての欲や執着をすてることによって、苦の束縛から解放されること(=解脱)を求めることである。一般にこの境地を涅槃と呼ぶ。上座部仏教では、釈迦を仏陀と尊崇し、その教え(法)を理解し、自分自身が四念住、止観などの実践修行によってさとりを得、煩悩をのぞき、輪廻の苦から解脱して涅槃の境地に入ることを目標とする。

大乗仏教[編集]

詳細は「大乗仏教」を参照

大乗仏教とは、他者を救済せずに自分だけで彼岸(悟りの世界)へは渡るまいとする菩薩行を中心に据えた仏教である。出家者中心のものであった部派仏教から、一般民衆の救済を求めてインド北部において発生したと考えられている。ヒマラヤを越えて中央アジア、中国へ伝わったことから北伝仏教ともいう。おおよそ初期・中期・後期に大別され[7]、中観派、唯識派、浄土教、禅宗、天台宗などとそれぞれに派生して教えを変遷させていった。

大乗仏教では、一般に数々の輪廻の中で、徳(波羅蜜)を積み、阿羅漢ではなく、仏陀となることが究極的な目標とされるが、 自身の涅槃を追求するにとどまらず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への救済に対する誓いを立てること(=誓願)を目的とする立場もあり、その目的は、ある特定のものにまとめることはできない。さらに、道元のいう「自未得度じみとくど先度佗せんどた」(『正法眼蔵』)など、自身はすでに涅槃の境地へ入る段階に達していながら仏にならず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への慈悲から輪廻の中に留まり、衆生への救済に取り組む面も強調・奨励される。

密教[編集]

詳細は「密教」を参照

後期大乗仏教とも。インド本国では4世紀より国教として定められたヒンドゥー教が徐々に勢力を拡張していく。その中で部派仏教は6世紀頃にインドからは消滅し、7世紀に入って大乗仏教も徐々にヒンドゥー教に吸収されてゆき、ヒンドゥー教の一派であるタントラ教の教義を取り入れて密教となった。すなわち密教とは仏教のヒンドゥー化である。

中期密教期に至り、密教の修行は、口に呪文(真言、マントラ)を唱え、手に印契いんげいを結び、心に大日如来を思う三密という独特のスタイルをとった。曼荼羅はその世界観を表したものである。教義、儀礼は秘密で門外漢には伝えない特徴を持つ。秘密の教えであるので、密教と呼ばれた。

「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされ、また、言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だからだとも言う[8]。

仏像[編集]





ガンダーラ仏像
詳細は「仏像」を参照

初期仏教では、具体的に礼拝する対象はシンボル(菩提樹や仏足石、金剛座)で間接的に表現していたが、ギリシャ・ローマの彫刻の文明の影響もあり、紀元1世紀頃にガンダーラ(現在のパキスタン北部)で直接的に人間の形の仏像が製作されるようになり、前後してマトゥラー(インド)でも仏像造立が開始された。仏像造立開始の契機については諸説あるが、一般的には釈迦亡き後の追慕の念から信仰の拠りどころとして発達したと考えられている。仏像の本義は仏陀、すなわち釈迦の像であるが、現在は如来・菩薩・明王・天部など、さまざまな礼拝対象がある。
如来 - 「目覚めた者」「真理に到達した者」の意。悟りを開いた存在。釈迦如来のほか、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来など。
菩薩 - 仏果を得るため修行中の存在。すでに悟りを開いているが、衆生済度のため現世に留まる者ともいわれる。如来の脇侍として、または単独で礼拝対象となる。観音菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩など。
明王 - 密教特有の尊格。密教の主尊たる大日如来が、難化の衆生を力をもって教化するために忿怒の相をもって化身したものと説かれる。不動明王、愛染明王など。
天部 - 護法善神。その由来はさまざまだが、インドの在来の神々が仏教に取り入れられ、仏を守護する役目をもたされたものである。四天王、毘沙門天(四天王の一である多聞天に同じ)、吉祥天、大黒天、弁才天、梵天、帝釈天など。

神の一覧

神の一覧(かみのいちらん)では、各神話の神を列記する。
凡例:日本語名(英語名)一覧は日本語記事があるもの(五十音順)、英語記事しかないもの(アルファベット順)の順になっている。各単語の定義も参照すること : 神、女神、仏、神話、宗教、聖典、世界の宗教。


目次 [非表示]
1 アステカ神話の神々
2 アブラハムの宗教 2.1 ユダヤ教
2.2 キリスト教
2.3 イスラム教
2.4 その他

3 ウガリット神話の神々
4 エジプト神話の神々
5 ギリシア神話の神々
6 日本の神々
7 ゾロアスター教の神々
8 中国の神々
9 道教の神々
10 北欧神話の神々
11 ヒンドゥー教の神々
12 仏教
13 ローマ神話の神々
14 スラヴ神話の神々
15 シュメール神話の神々
16 メソポタミア神話の神々
17 ポリネシアの神話
18 マヤ神話の神々
19 インカ神話の神々
20 ケルト神話の神々
21 アジア 21.1 エヴェンキ族の神話

22 ヨーロッパ 22.1 ダキア人の神々
22.2 エトルリア人の神々
22.3 フィンランド神話の神々(キリスト教以前)
22.4 ラトビア人の神々
22.5 リトアニアの神々
22.6 サルデーニャ島の神々
22.7 古代プロイセン、バルト海地方の神々
22.8 現代の欧米の神々(台所の神々)

23 アフリカ 23.1 アカンバ族の神話
23.2 アカン族の神話
23.3 アシャンティの神話
23.4 ブションゴ族の神話
23.5 ダホメ神話
23.6 ディンカ族の神話
23.7 エフィク族の神話
23.8 イボ神話
23.9 Isoko mythology
23.10 コイコイ人の神話
23.11 ロトゥコ族の神話
23.12 ルグバラ族の神話
23.13 ピグミー族の神々
23.14 トゥンブカ族の神話
23.15 ヨルバ族の神話
23.16 ズールー族の神々
23.17 ドゴン族の神話

24 アメリカ 24.1 アベナキ族の神話
24.2 チペワ族の神話
24.3 クリーク族の神話
24.4 グアラニー族の神話
24.5 ハイダ族の神話
24.6 ホピ族の神話
24.7 ヒューロン族の神話
24.8 エスキモー・イヌイットの神話
24.9 イロコイ族の神話
24.10 クワキウトル族の神話
24.11 スー族の神話
24.12 ナバホ族の神話
24.13 ポーニー族の神々
24.14 ズニ族の神々
24.15 サリシ族の神々
24.16 セネカ族の神々

25 オセアニア 25.1 アボリジニーの神話

26 関連項目


アステカ神話の神々[編集]
イツラコリウキ - 霜の神
ウィツィロポチトリ - 太陽神・軍神・狩猟神
ウェウェコヨトル - 音楽・ダンスの神
オメテオトル(オメテクトリ、オメシワトル) - 創造神。
カンヘル-守護天使(龍人)
ケツァルコアトル - 文化神・農耕神
コアトリクエ - 地母神
シペ・トテック - 穀物神
ショロトル - 金星の神
シワコアトル - 地母神
センテオトル(シンテオトル) - トウモロコシの神
チャルチウィトリクエ - 水の神
テスカトリポカ - 創造神・悪魔
テペヨロトル - 地震・山彦・ジャガーの神
トナティウ - 太陽神
トラウィスカルパンテクートリ - 破壊神
トラソルテオトル - 大地・愛欲の女神
トラロック - 雨・稲妻の神
ミクトランシワトル - 死神
ミクトランテクートリ - 死神
チャンティコ - かまどと火山の火の女神
チコメコアトル - トウモロコシと豊穣の女神
コヨルシャウキ(Coyolxauhqui) - 星の神
エエカトル(Ehecatl) - 風の神
ウェウェテオトル(Huehueteotl) - 古き神
ウィシュトシワトル(Huixtocihuatl) - 塩の女神
イラマテクウトリ(Ilamatecuhtli) - 大地と死と銀河の女神
イツパパロトル(Itzpapalotl) - 農耕の女神、 ツイツイミトル(Tzitzimitl)の女王
イシュトリルトン(Ixtlilton) - 癒しと祝祭とゲームの神
マクイルショチトル(Macuilxochitl) - 音楽と踊りの神
マヤウェル(Mayahuel) - リュウゼツランの女神、パテカトルの妻
メツトリ(Metztli) - 月の神
ナナウトツィン(Nanauatzin) - 卑しき神
パテカトル(Patecatl) - 酒の神、薬の神
パイナル(Paynal) - ウィツィロポチトリの伝令
テクシステカトル(Tecciztecatl) - 古き月の神
テオヤオムクイ(Teoyaomqui) - 死したる戦士の神
トシ(Toci) - 大地の女神
トナカテクトリ(Tonacatecuhtli) - 食物の創造者にして分配者
シロネン(Xilonen) - 若いトウモロコシの実の女神
シウテクトリ(Xiuhtecuhtli) - 死の中の生命を司る神
ショチケツアル(Xochiquetzal) - 花、肥沃、ゲーム、ダンス、農業、職人、売春婦、および妊婦の女神
ショチピルリ(Xochipilli) - 花の神、狩猟の神、祝祭と若いトウモロコシの神
ヤカテクトリ(Yacatecuhtli) - 商人の神、旅人の守護神

アブラハムの宗教[編集]

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信じている。しかし、ユダヤ教徒とイスラム教徒は神を、厳格な唯一神教的な語として思い浮かべるのに対して、ほとんどのキリスト教徒は神は三位一体として存在すると信じている。

日本語版注:これらの宗教に現われる天使達は、他の宗教における神々に近い働きをしている。天使は神ではないが、人間ではなく、人間以上の能力を持つ神の使いである。聖人もまた特定の土地や職業を守護したり、特定の病気を治したりするとされ、他の宗教における神々に近い働きをしている。

詳細は「天使の一覧」および「聖者の一覧」を参照

ユダヤ教[編集]

モーセの十戒の1つ、出エジプト記 20章7節の命令を根拠として、ユダヤ教においては古代から神の名を発音することを避けてきた。このため、現在では正確な呼称を知っている者は少なく、祭司家系の者たちの間で口伝されるのみであると伝えられる。

詳細は「ヤハウェ」を参照

キリスト教[編集]

歴史的には、キリスト教はひとりの神を信じ、「神」として知られ、ひとりの神また神格を成す神聖な三者(三位一体)を信じると公言した。(参照 : アタナシウス信経)。

そのため、三位一体論的一神論者であるキリスト教徒がほとんどであるが、中にはそれに異議を唱える者もいる。以下の記事を参照。

アリウス派、ユニテリアン主義、例えば末日聖徒イエス・キリスト教会、エホバの証人 。これら反三位一体論のグループは、ただひとりの父なる神が神であると信じている。末日聖徒は父と子イエス・キリストと聖霊とが三つの別個の神々を成すと信じている。エホバの証人はエホバ(ヤハウェ)はイエス・キリストより上位であり、聖霊は神の活動する力であると信じている。

イスラム教[編集]

アッラーフはイスラム教のもっとも伝統的な神の名前である。イスラム教の伝統はまた99の神名(99 Names of God)も語る。ユダヤ教やキリスト教よりもある意味では詳細に神の存在の状態を定義しており、キリスト教で伝える三位一体は明確に否定し、その実態については「目なくして見、耳なくして聞き、口なくして語る」物理的な要素はない精神と力のみの存在としている。

その他[編集]

二つの小宗教はアブラハム宗教のどの区分にもまったく該当しない。ラスタファリ運動はジャーを崇拝し、バハーイー教もユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同じ神を崇拝する。

ウガリット神話の神々[編集]

アブラハムの宗教と民族的にも近縁の神話体系。
アーシラト - 神々の女王
アシュタロテ - 豊穣多産の女神
アナト - 愛と戦いの女神
エール - 神を指す言葉
バアル - 嵐と慈雨の神
モト - 炎と死と乾季の神
ヤム・ナハル(en)

エジプト神話の神々[編集]

エジプト神話の神々は実在の動物と関連する姿をとることが多い。例えば、アヌビスは人の体を持つが、頭はイヌである。
アトゥム - 創造神の一柱。
アテン - 太陽の光の化身。
アヌビス - 死体を腐らせない神。死の友。
アメン - 雄羊の神。
イシス - 魔法の女神。ネフテュスの姉妹。
イムホテプ - 知恵、医術と魔法の神。
ウアジェト - コブラの女神。
オシリス - 冥府の神。
クヌム - 創造神の一柱。
ゲブ - 大地の神。
ケプリ - スカラベ、日の出の化身。
コンス - 月の神。
シュー - 大気の神。
セクメト - 戦闘の女神。ライオンの頭を持つ。
セト - 嵐の神。アヌビスの父ともいわれる。
セベク - ワニの神。
セルケト - サソリの女神。イシスの従者。
ソプデト - シリウス星の女神。
タウエレト - カバの女神。
テフヌト - 天候の女神。秩序、公正、時、天国と地獄の守護神。
トート - 月、製造、著述、幾何学、知恵、医術、音楽、天文学、魔術の神。
ネイト - 偉大なる母なる女神。
ネクベト - ハゲタカの女神。
ヌト - 天国と空の女神。
ヌン - 原始の海。
ネフテュス - アヌビスの母。
バステト - ネコの女神。
ハトホル - 愛の女神、音楽の女神、ホルスの妻。
ハピ - ナイル川の神、豊穣の神。
プタハ - 創造神の一柱。
ヘケト - 蛙の女神。
ベス - 出産や娯楽、保護の神-魔神(?)
ホルス - 隼の頭を持つ神。
ホルスの4人の息子 - イムセティ(en)、ハピ(en)、ドゥアムトエフ(en)、ケベフセヌエフ(en)。4個のカノプス壷を人格化した神。
マアト - 真理、調和、秩序の女神。
マヘス(maahes) - ライオンの頭をもつ戦闘の神。
メンヒト(Menhit) - 雌獅子の神。
モンチュ - 戦争の神。
ムト - アメンの妻。ムートとも。
ラー - 太陽神。アヌビスの父ともいわれる。

参照:エジプト観光省のエジプトの神々膨大な資料

ギリシア神話の神々[編集]
アイテール - 原初神、天空神
アスクレーピオス - 医神
アテーナー - 知恵、芸術、工芸、戦略の神
アフロディーテー (アフロディテとも言われる)- 愛と美と性を司る神、戦女神
アポローン(アポロンとも言われる) - 太陽神
アルテミス - 狩猟、純潔
アレース - 戦さを司る神
イーアペトス - ティーターン族
ウーラノス - 天空神
エーオース - 暁の神
エレボス - 暗黒の神
エロース - 恋心と性愛の神
オーケアノス - 海の神
オネイロス - 夢の神
オルペウス(オルフェウス)- 吟遊詩人
ガイア - 大地の女神 
カオス - 混沌の神
キュクロープス(サイクロプス)-単眼の巨人
クレイオス - ティーターン族
クロノス - 農耕の神
コイオス - ティーターン族 
ゼウス - 天空神
セレネー - 月の女神
タナトス - 死の神
タルタロイ(タルタロス)- 地獄・奈落の神
テーテュース - 地下水の女神の母
ディオニューソス - 豊穣とブドウ酒と酩酊の神
ディオーネー - 天空の女神
テミス - 法・掟の女神
デーメーテール - 穀物の栽培を人間に教えた神
ニュクス - 夜の女神
ハーデース - 地下・豊穣の神
パーン - 牧羊神
ヒュプノス - 眠りの神
ヒュペリーオーン - 太陽神・光明神
プロメーテウス - 人に火を与えた神
ヘカテー - 地母神
ヘカトンケイル(ヘカトンケイレス) - 三人の巨人
ヘスティアー - 炉の女神
ヘーパイストス - 炎・鍛冶の神
ヘーベー - 青春の女神
ヘーメラー - 昼の女神
ヘーラー - 結婚・母性・貞節の女神
ヘーリオス - 太陽神
ペルセポネー - 冥界の女王
ヘルメース - 青年神
ポセイドーン - 海洋の神
モイラ(クロートー、ラケシス、アトロポス) - 運命の三女神
モロス - 定業の神
レアー - 大地の女神

以下も参照。

半神、ドリュアース、エリーニュース 、カリス、ホーライ、ムーサ(ミューズ)、ニュンペー、プレイアデス、ティーターン

日本の神々[編集]

日本の先住民の語であるアイヌ語の神名に、アペフチカムイがあり、火の老婆の神とされる。

神道、民間信仰で多数な神がおり、総称して「八百万(やおよろず)の神」といわれる。

民間信仰では、九十九神(付喪神)と呼ばれ、織り目が九十九に見える葛籠織と縄の発明者葛天氏を始めとする人文の祖、すなわち生活道具を発明したご先祖様を崇拝する信仰が江戸時代まであった。

日本神話において天津神・国津神の神々のなかでもとくに三柱の御子が尊いとされ、その天照大神は主神となっている。

縄の発明者である葛天氏の氏族であり、道の祖とされる伏羲と女媧を祭った道祖神。

詳細は「日本の神の一覧」を参照

「神 (神道)」および「日本神話」も参照

ゾロアスター教の神々[編集]
アフラ・マズダー - ゾロアスター教の最高神。
アムシャ・スプンタ - アフラ・マズダーに従う7柱の善神。 スプンタ・マンユ
アシャ・ワヒシュタ
ウォフ・マナフ
フシャスラ・ワルヤ
スプンタ・アールマティ
アムルタート
ハルワタート

ヤザタ - アムシャ・スプンタに次ぐ地位の善神。 アータル
アナーヒター
ティシュトリヤ
ミスラ

フラワシ - 万物に宿るとされる精霊。
アンラ・マンユ - ゾロアスター教の最大の悪神
ズルワーン

中国の神々[編集]

四神
四凶
盤古
三皇五帝の三皇 伏羲
女媧
神農氏 

蒼頡
三清  
玉皇大帝
西王母
東王父
八仙
関帝
哪吒
媽祖
碧霞元君(天仙娘娘)
北斗星君
南斗星君

道教の神々[編集]
元始天王(盤古) - 天地創造の神
天地人三才 天皇 - 元始天王から生まれた神
地皇 - 天皇から生まれた神
人皇 - 地皇から生まれた神

伏羲
女媧
神農
黄帝 - 神農の後裔
顓頊
帝嚳
三清 元始天尊(玉清) - 道士でないと近づき難い最も神格の高い最高神
道徳天尊(太清・太上老君・老子)
霊宝天尊(上清・太上道君)

九天応元雷声普化天尊(雷帝) - 雷神の最高神
五老 西王母(九霊太妙亀山金母)
水精
黄老
赤精
東王公(東王父)

九天玄女
玉皇上帝(昊天上帝・天公) - 道教信仰者にとって事実上の最高神
斗母元君
五斗星君 北斗星君 - 北斗七星の神格化
西斗星君
中斗星君
南斗星君 - 南斗六星の神格化
東斗星君

南極老人(寿星) - 南極老人星の神格化で七福神の寿老人・福禄寿と同一神とされることもある。
四霊星君(四神) 青龍星君
朱雀星君
白虎星君
玄武星君(玄天上帝) - 太極の分身とされる

雷公(五雷元帥) - 雷帝の部下
雷母
三官大帝(三界公)  下元水官大帝 - 水界の神
中元地官大帝 - 地界の神
上元天官大帝 - 天界の神

北辰五至尊 天皇大帝(天帝) - 北極星の神格化
紫微大帝
天一大帝
北辰大帝
北斗大帝

九宮貴神 招揺
軒轅
太陰
天一
天符
太一
摂提
咸池
青龍

五岳神 東岳大帝(泰山府君) - 泰山(山東省)の神
南岳大帝 - 衡山(湖南省)の神
中岳大帝 - 嵩山(河南省)の神
西岳大帝 - 華山(陝西省)の神
北岳大帝 - 恒山(山西省)の神

救済の神 太乙救苦天尊 - 免罪の神
清水祖師 - 国難打破の神

媽祖(天上聖母) - 航海の守護神
衣食神 竈神 - かまどの神
火神

財神 関聖帝君(関帝) - 関羽を神格化した武神・財神
五路財神 趙玄壇 - 趙公明の神格化
招財
利市
招宝
納珍


冥界の神 鄷都大帝 - 地獄の最高神
十殿閻君

斗母元君 - 仏教の摩利支天を取り込んだ神
学問の神 文昌帝君 - 学問の神
蒼頡(制字先師) - 漢字を作ったとされる神

生育の神 碧霞元君
臨水夫人 - 安産の神

斉天大聖 - 孫悟空の神格化
芸能神 伶倫 - 黄帝の臣で音楽の神
田都元帥
西秦王爺 - 唐の皇帝玄宗を神格化した芸能・芸術の神

医神 保生大帝 - 病気治癒の医神
華陀 - 医師の守護神

辟邪神 石敢當
方相氏
鍾馗
門神 - 悪霊の侵入を防ぐ神
中壇元帥(哪吒)

鬼谷仙師
四海龍王
天仙娘々
張天師(張道陵)
劉猛将軍
東華帝君
至聖先師(孔子)
紫姑神 - トイレで殺害された女性の厠神
城隍神(城隍爺) - 城壁都市の支配神
土地公 - 村落・郊外の守護神
后土神 - 墓の守護神
八仙 李鉄拐
漢鍾離
呂洞賓
藍采和
韓湘子
何仙姑
張果老
曹国舅

太歳星君
河伯 - 黄河の神
顕聖二郎真君 - 治水の神
広成子
青面金剛
蒼天
歳徳神

北欧神話の神々[編集]
イズン
ヴァーリ - オーディンの息子
ヴィーザル
ウル
エーギル
エイル
オーズ
オーディン - 神々の王。
クヴァシル
シヴ
テュール
トール
ニョルズ
ノルニル ヴェルダンディ
ウルド
スクルド

ノルン
バルドル
フォルセティ
ブラギ
フリッグ
フレイ
フレイヤ
ヘイムダル
ヘーニル
ヘズ
ミーミル
ユミル
ヨルズ
ロキ フェンリル
ヘル
ヨルムンガンド

ワルキューレ

ヒンドゥー教の神々[編集]
アーディティヤ神群
アグニ
アシュヴィン双神
アルダーナリシュヴァラ
インドラ
ウシャス
ヴァーユ
ヴァイローチャナ
ヴァス神群
ヴァルナ
ヴィシュヌ - 維持の神
カーラネミ
カーリー
ガネーシャ
カーマ
ガンガー
クベーラ
サヴィトリ
サティー 
サラスヴァティー
シヴァ - 破壊の神
スカンダ
スーリヤ
ソーマ
ダーキニー(荼枳尼天)
ディヤウス
ヴィシュヴェーデーヴァ神群(The Visvedevas)
ドゥルガー
ナンディン
ハヌマーン
パールヴァティー
ハリハラ 
パルジャニヤ
プーシャン
ブラフマー(梵天) - 創造の神
プリティヴィー
ラクシュミ
ラートリー
ローカパーラ
ルドラ神群
ヤマ(閻魔)

仏教[編集]

仏教では神は扱われないが、数多くの仏(ほとけ)があり、神のように扱われる場合もある。

詳細は「仏の一覧」を参照

ローマ神話の神々[編集]
アポロ ⇒ アポロン(「ギリシア神話の神々」)参照
バックス
ケレース
キューピット ⇒ クピド
ディアーナ
フォルトゥーナ
ヤヌス
ユースティティア
ユーノー
ユーピテル
ラウェルナ
マイア
マールス
メルクリウス
ミネルウァ
ネプトゥーヌス
プルートー
プルートゥス ⇒ プルートス(「ギリシア神話の神々」)参照
プロセルピナ
サートゥルヌス
ウーラヌス(カイルス) ⇒ ウーラノス(「ギリシア神話の神々」)参照
ウェヌス
ウェスタ
ウゥルカーヌス

スラヴ神話の神々[編集]
セマルグル
スヴァローグ
スヴェントヴィト
ストリボーグ
ダジボーグ
チェルノボグ
トリグラフ
パトリムパス
ペルーン
ベロボーグ
ホルス
モコシ
ヤリーロ
ドレカヴァク(Drekavac)
ヴォロス(Veles)

シュメール神話の神々[編集]

(Sumerian Deities)
アン
エンキ
エンリル
イナンナ
ナンム(Nammu)
ナンナ(Nanna)
ニンフルサグ
ニンリル(Ninlil)
シン
ウトゥ(英語版)(Utu)

「w:Annuna」も参照

メソポタミア神話の神々[編集]
アンシャル - 天の父。
アヌ - 最高の天の神
アプスー - 神々と地下世界の海の支配者
アッシュール - アッシリアの国家神。
ダムキナ - 地球の母なる女神
エア - 知恵の神。
エンリル - 天候と嵐の神。
エヌルタ(Enurta) - 戦争の神。
ハダド(Hadad) - 天候の神。
イシュタル - 愛の女神。
キングー - ティアマトの夫。
キシャル - 地を司る女神(アンシャルの妻にして妹)
マルドゥク - バビロニアの国家神。
ムンム - 霧の神。
ナブー - god of the scribal arts
ニントゥ(Nintu) - 全ての神々の母
シャマシュ - 太陽と正義の神。
シン - 月の神。
ティアマト - 原初の女神。
ラフム - アプスーとティアマトの子。ラハムの夫。アンシャルとキシャルの父。
ラハム - アプスーとティアマトの娘。ラフムの妻。アンシャルとキシャルの母。

ポリネシアの神話[編集]

(Polynesian mythology)
アテア (Atea)
イナ (Ina)
タンガロア、タガロア、タアロア、カナロア (Tangaloa, Tangaroa, Tagaloa, Ta'aroa, Kanaloa)
カーネ・ミロハイ (Kane Milohai)
カマプアア
タネ・マフタ
トゥナ
ハウメア
マウイ
パパトゥアヌク (Papatuanuku)
ペレ
ランギヌイ (Ranginui)
ロンゴ (Rongo)

「メネフネ」および「w:Menehune」も参照

マヤ神話の神々[編集]
ア・プチ
イシュタム - 自殺の女神。
イシュ・チェル - 月の女神。
イシュバランケー - ジャガーの神。
イツァムナー - (Reptile Creator God)
カマソッソ - 蝙蝠の悪神。
キニチ・アハウ - 太陽神。
ククルカン - 羽の生えた蛇の神。
シバルバー(Xibalba) - 死の神。
チャク - 雨の神。
バカブ - 4つの方角の神。
フナブ・クー - 創造神。
フラカン - 創造神。
フンアフプー
フン・カメーとヴクブ・カメー
フン・フンアフプー
ボロン・ツァカブ(Bolon tza cab) - (Ruling God of All)
ヤム・カァシュ - トウモロコシの神。

インカ神話の神々[編集]

インカ帝国は南アメリカのペルーを中心に存在し、インカ人は現在も伝統を伝えている。(Inca mythology)
アポ(Apo) - 山の神
アポカテクイル(Apocatequil) - 稲妻の神
チャスカ(Chasca) - 夜明け、夕暮れ、金星の女神
コニラヤ - 創造神の一柱、月の神
エッケコ(Ekkeko) - 家庭と富の神
イヤーパ(Illapa) - 天候の神
インティ - 太陽神
コン(Kon) - インティとママ・キジャの息子。
ママ・アルパ(Mama Allpa) - 豊穣と収穫の女神
ママ・コチャ(Mama Cocha) - 海と魚の神
パチャママ - 竜の姿をした沃土の女神
ママ・キジャ(Mama Quilla) - 月の女神
ママ・ザラ(Mama Zara) - 穀物の女神
マンコ・カパック
パチャカマック - 創造の神
パリアカカ - 創造神の一柱、水の神
スーパイ(Supay) - 死の神
ウルカグアリー(Urcaguary) - 金属と宝石の神
ビラコチャ - 文明の創造者
ザラママ(Zaramama)
ヤナムカ・トゥタニャムカ - 創造神の一柱
ワリャリョ・カルウィンチョ(Huallallo Carhuincho) - 創造神の一柱、火の神
ワカ(Huaca) - 神的存在

ケルト神話の神々[編集]

(Celtic pre-Christian Deities)
アリアンロッド
アンガス・マク・オグ
エリウ
エポナ
オグマ
グウィディオン(Gwydion)
クー・フーリン
クレーニュ
ケリドウェン
ケルヌンノス
ゴヴニュ
スカアハ
ダグザ
ダヌ
ディアン・ケヒト
ヌアザ
ネヴァン
バンバ
フィン・マックール
ブラン
ブリギッド
ブレス
ベリサマ
ベレヌス
ボアン
マッハ
マナナン・マクリル
ミアハ
モリガン
ルー
リル
ルフタ

アジア[編集]

エヴェンキ族の神話[編集]

エヴェンキはシベリアの民族。
ジャブダル

ヨーロッパ[編集]

ダキア人の神々[編集]

(Dacian Deities)
ザルモクシス(Zamolxis)
(Gebeleizis)
ベンディス(Bendis)

エトルリア人の神々[編集]

エトルリア人はイタリア半島中部の先住民族。(Etruscan Deities)
アルパン(Alpan)
メンルヴァ(Menrva)
ネスンス(Nethuns)
ティニア(Tinia)
トゥラン
ユニ(Uni)
ヴォルトゥムナ(Voltumna)

フィンランド神話の神々(キリスト教以前)[編集]

古フィンランドの宗教に関する文書はあまり残されていない上、神々の名前や崇拝の仕方に関していえば土地土地で異なっていた。次に示すのは、最重要かつ最も広範に崇拝されている神々の概略である。
ウッコ - 最高神。天と雷の神。
ラウニ(Rauni) - ウッコの妻。豊穣の女神。
タピオ - 森と野生動物の神。
ミエリッキ - タピオの妻。
ペッコ(Pekko or Peko) - 草原と農業を司る神もしくは女神(実際の性別は不明)。
アハティ(Ahti) - 川、湖、海の神。
ロウヒ(Louhi) - 冥界の女神。
ペルケレ(Perkele) - 古代のフィン族あるいはエストニア人の神。

ラトビア人の神々[編集]

(Latvian mythology)
明星神アウセクリス(Auseklis)
デークラ(Dēkla)
天空神ディエヴス(Dievs)
カールタ(Kārta)
雷神ペールクアンス(Pērkons)
太陽神サウレ(Saule)
運命神ライマ
豊饒神ユミス
馬屋神ウースィンシュ
祖霊母ヴェリュ・マーテ
地母神マーラ

自然や祖霊を崇拝し、日本神道と似ているラトビア土着信仰「ラトビア神道」における主要な神々は約20柱いる。

リトアニアの神々[編集]
プラアムジス

サルデーニャ島の神々[編集]

(Sardinian Deities) Sardinian deities, mainly referred to in the age of (Nuragici people), are partly derived from (Phoenicia)n ones.
(Janas) - Goddesses of death
(Maymon) - God of (Hades)
(Panas) - Goddesses of reproduction (women dead in childbirth)
(Thanit) - Goddess of Earth and fertility

古代プロイセン、バルト海地方の神々[編集]
(Bangputtis)
(Melletele)
(Occupirn)
(Perkunatete)
(Perkunos)
(Pikullos)
(Potrimpos)
(Swaigstigr)

現代の欧米の神々(台所の神々)[編集]

神々の一覧への追加として、マイナーな神々が何人かいる。現在の西洋文化で話され、もっと真面目に捉えられるか、または、あまり真面目に捉えられない。一般的に台所の神々 (Kitchen Gods) と呼ばれる。
歯の妖精(The Tooth Fairy) - a childish sprite
駐車場の妖精(The Parking Fairy) - 駐車する場所を見つけることをつかさどる
交通信号機の妖精(The Traffic Light Fairy) - 光が緑色に代るのをつかさどる
ガイア(Gaia) - 母なる自然

アフリカ[編集]

アカンバ族の神話[編集]

アカンバ族は、ケニアの先住民族。(Akamba mythology)
アサ(Asa)

アカン族の神話[編集]

アカン族は、西アフリカの民族。(Akan mythology)
ブレキリフヌアデ(Brekyirihunuade)
クワク・アナンセ(Kwaku Ananse)

アシャンティの神話[編集]

アシャンティは、かつてガーナにあった王国。(Ashanti mythology)
アナンシ(Anansi)
アサセ・ヤ(Asase Ya)
(Bia)
ニャメ(Nyame)
オニャンコポン(Onyankopon)

ブションゴ族の神話[編集]

(Bushongo mythology)
ボマジ(Bomazi)
ブンバ(Bumba)

ダホメ神話[編集]

ダホメ(ダオメともいう)は、西アフリカの民族。(Dahomey mythology)
(Agé)
(Ayaba)
ダ(Da)
グバドゥ(Gbadu)
(Gleti)
(Gu)
リサ(Lisa)
ロコ(Loko)
マウ(Mawu)
サクパタ(Sakpata)
ソグボ(Sogbo)
セヴィオソ(Xevioso)
(Zinsi)
(Zinsu)

ディンカ族の神話[編集]

ディンカ族は、北アフリカの民族。(Dinka mythology)
アブク(Abuk)
(Denka)
(Juok)
ニャリッチ(Nyalitch)

エフィク族の神話[編集]

(Efik mythology)
アバッシ(Abassi)
アタイ(Atai)

イボ神話[編集]

イボは、ナイジェリアの民族。(Ibo mythology)
(Aha Njoku)
(Ala)
(Chuku)

Isoko mythology[編集]

(Isoko mythology)
(Cghene)

コイコイ人の神話[編集]

コイコイ人は、南アフリカの民族。「ホッテントット」と呼ばれた。(Khoikhoi mythology)
(Gamab)
(Heitsi-eibib)
(Tsui'goab)

ロトゥコ族の神話[編集]

(Lotuko mythology)
アジョク(Ajok)

ルグバラ族の神話[編集]

(Lugbara mythology)
アドロア(Adroa)
アドロアンジ(Adroanzi)

ピグミー族の神々[編集]

(Pygmy mythology)
アレバティ(Arebati)
 ティンギ
(Khonvoum)
トレ(Tore)

トゥンブカ族の神話[編集]

(Tumbuka mythology)
(Chiuta)

ヨルバ族の神話[編集]

ヨルバ族は、ナイジェリアの民族。(Yoruba mythology)
アジャ(Aja)
アジェ(Aje)
エグングン・オヤ(Egungun-oya)
エシュ(Eshu)
オバ(Oba)
オバタラ(Obatala)
オドゥドゥア(Odudua)
オロドゥマレ(Oloddumare)
オロクン(Olokun)
オロルン(Olorun)
オルンミラ(Orunmila)
(Oschun)
オシュンマレ(Oshunmare)
オヤ(Oya)
シャクパナ(Shakpana)
シャンゴ
ヤンサン(Yansan)
イェマジャ(Yemaja)

ズールー族の神々[編集]

ズールー族は、南アフリカの民族。(Zulu mythology)
(Mamlambo)
(Mbaba Mwana Waresa)
(uKqili)
(Umvelinqangi)
(Unkulunkulu)

ドゴン族の神話[編集]

(Dogon people)
アンマ
ノンモ
ユルグ

アメリカ[編集]

アベナキ族の神話[編集]

アベナキ族は北米、バーモント州のインディアン部族。(Abenaki))
(Azeban) - (trickster)
(Bmola) - (bird) spirit
(Gluskap) - kind protector of humanity
(Malsumis) - cruel, evil god
(Tabaldak) - the creator

チペワ族の神話[編集]

チペワ族は、アメリカのミネソタに住むインディアン部族。(Chippewa mythology)
ナナボーゾ(Nanabozho) - トリックスター。
(Sint Holo)
ウェミクス(Wemicus)

クリーク族の神話[編集]

クリーク族は、アメリカ南東部とオクラホマのインディアン部族、ムスコギー族のこと。(Creek mythology)
(Hisagita-imisi)

グアラニー族の神話[編集]

グアラニー族は、中南米のインディオ。(Guarani mythology)
(Abaangui)
(Jurupari)

ハイダ族の神話[編集]

ハイダ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟民族。(Haida mythology)
(Gyhldeptis)
(Lagua)
(Nankil'slas)
(Sin)
(Ta'axet)
(Tia)

ホピ族の神話[編集]

ホピはアメリカ・アリゾナ州に暮らすインディアンで、彼らの宗教観はニューエイジなど現代の文化に影響を与えている。(Hopi mythology)
アホリ(Aholi)
(Angwusnasomtaka)
ココペリ(Kokopelli) - 収穫の神
(Koyangwuti)
(Muyingwa)
タイオワ (Taiowa) - 原初の創造神
(Toho)
See also カチーナ(kachina)

ヒューロン族の神話[編集]

ヒューロンは、北アメリカ大陸北部の、オンタリオ湖周辺やヒューロン湖周辺などに居住するインディアン部族で、ワイアンドット族のこと。(Huron mythology)
(Iosheka)

エスキモー・イヌイットの神話[編集]

エスキモーはカナダ・アラスカの極北に暮らす狩猟民族。(Inuit mythology)
イガルク(Igaluk) - 月の神
マリナ(Malina) - 太陽の女神
ナヌーク(Nanook) - 熊の神
ネリビック(Nerrivik) - セドナの別名
ピンガ(Pinga) - 狩猟の女神
セドナ(Sedna) - 地母神であり海の女神
アイパルーヴィク(Aipaloovik) - 海の邪神、死と破壊を司る
トーンガルスク(Torngarsuk)
テュロク(Tulok) - イガルクの宿敵、敗れて星となる

イロコイ族の神話[編集]

イロコイはアメリカ合衆国とカナダの間にあるインディアン国家。合衆国憲法の元となった仕組みを持っている。(Iroquois mythology)
(Adekagagwaa)
(Gaol)
(Gendenwitha)
(Gohone)
(Hahgwehdaetgan)
(Hahgwehdiyu)
(Onatha)

クワキウトル族の神話[編集]

クワキウトル族は、カナダ西海岸部のインディアン部族。(Kwakiutl mythology)
(Kewkwaxa'we)

スー族の神話[編集]

スー族は、アメリカの大平原に住むインディアン部族。(Lakota mythology)
ワカンタンカ - 偉大なる天上の大精霊。
インヤン - 石の精霊。
マカ - 母なる大地の精霊。
スカン - 空の精霊。
ウィ - 太陽の精霊。(Wi)
ハンウィ - 月の精霊。 ウィの妻。
タテ - 風の精霊。
ウォペ - ウィとハンウィの娘。偉大なる仲介者。(Whope)
イヤ - 邪悪の精霊。
ワズィヤ - 地下に棲む「オールド・マン」
ワカンカ - 魔女。
アヌング・イテ - ワズィヤとワカンカの娘。二つの顔を持つ。
ハオカー - 雷の精霊。
イクトミ - 蜘蛛の精霊。トリックスター。

ナバホ族の神話[編集]

ナバホ族は、アメリカ南西部に住むインディアン部族。プエブロ族神話を原典に持つ。(Navaho mythology)
(Ahsonnutli)
(Bikeh Hozho)
(Estanatelhi)
(Glispa)
(Hasteoltoi)
ハストシェホガン(Hastshehogan)
トネニリ(Tonenili)
ツォハノアイ(Tsohanoai)
ヨルカイ・エスツァン(Yolkai Estasan)

ポーニー族の神々[編集]

ポーニー族は、アメリカ中西部平原のインディアン部族。(Pawnee mythology)
ティラワ - 創造神。19世紀末までは、人身御供を捧げられた。(Tirawa)
シャクラ - 太陽神。(Shakuru)
アティラ - 大地母神。
パー - 月の神。(Pah)

ズニ族の神々[編集]

ズニ族は、アメリカ南西部のインディアン部族。定住農耕民。(Zuni mythology)
アポヤン・タチュ(Apoyan Tachi)
アウィテリン・ツィタ(Awitelin Tsta)
アウォナウィロナ(Awonawilona)
ココペリ(Kokopelli)

サリシ族の神々[編集]

サリシ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟部族。(Salish mythology)
(Amotken)

セネカ族の神々[編集]

セネカ族は、インディアンのイロコイ連邦の6部族のひとつ。(Seneca mythology)
(Eagentci)
(Hagones)
(Hawenniyo)
(Kaakwha)

オセアニア[編集]

アボリジニーの神話[編集]

アボリジニーは、オーストラリアの先住民族。(Australian Aborigine mythology)
(Altjira)
バイアメ(Baiame)
バマパナ(Bamapana)
(Banaitja)
ボッビ・ボッビ(Bobbi-bobbi)
ブンジル(Bunjil)
ダラムルム(Daramulum)
ディルガ(Dilga)
ジャンガウル(Djanggawul)
エインガナ
ガレル(Galeru)
(Gnowee)
(Kidili)
クナピピ(Kunapipi)
ジュルングル(Julunggul)
マンガル・クンジェル・クンジャ(Mangar-kunjer-kunja)
(Numakulla)
(Pundjel)
ウランジ(Ulanji)
ワロ(Walo)
ワワラグ(Wawalag)
ウリウプラニリ(Wuriupranili)
ユルルングル

宗教

宗教(しゅうきょう)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである[2][3]。






目次 [非表示]
1 宗教の広がり
2 語源
3 定義 3.1 リューバによる定義の分類

4 宗教の歴史
5 宗教の表現形式
6 宗教の大分類
7 各国の宗教概況
8 一覧
9 世界での主な宗教問題
10 日本の主な宗教問題
11 参考文献
12 脚注
13 関連項目


宗教の広がり[編集]

世界の宗教の信者数は、キリスト教約20億人(33.0%)、イスラム教(イスラーム)約11億9000万人(19.6%)、ヒンドゥー教約8億1000万人(13.4%)、仏教約3億6000万人(5.9%)、ユダヤ教約1400万人(0.2%)、その他の宗教約9億1000万人(15.0%)、無宗教約7億7000万人(12.7%)である[4]。

一般に、キリスト教、イスラム教、仏教は世界宗教とよばれ、人種や民族、文化圏の枠を超え広範な人々に広まっている[5]。また、特定の地域や民族にのみ信仰される宗教は民族宗教と呼ばれ、ユダヤ教や神道、ヒンドゥー教[6]などがこれに分類される。

これらよく知られた宗教には、実際には様々な分派が存在する。キリスト教をとっても大別してカトリック、プロテスタント、正教などに分かれ、イスラム教もスンナ派、シーア派などが存在する。また、現在においても新宗教(新興宗教)があらたにおこっている。このように世界にはさまざまな世界の宗教が存在する。




語源[編集]

日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされている。

原語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したものである。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた[7]。

磯前順一によれば[8]、Religionの語が最初に翻訳されたのは日米修好通商条約(1858年)においてであり、訳語には「宗旨」や「宗法」の語があてられた。他にもそれに続く幕末から明治初頭にかけての間にもちいられた訳語として、「宗教」、「宗門」、「宗旨法教」、「法教」、「教門」、「神道」、「聖道」などが確認できるとする。このうち、「宗旨」、「宗門」など宗教的な実践を含んだ語は「教法」、「聖道」など思想や教義の意味合いが強い語よりも一般に広くもちいられており、それは多くの日本人にとって宗教が実践と深く結びついたものであったことに対応する。「宗教」の語は実践よりも教義の意味合いが強い語だが、磯前の説ではそのような訳語が最終的に定着することになった背景には、日本の西洋化の過程で行われた外交折衝や、エリート層や知識人の価値観の西欧化などがあるとされる。

「宗教」の語は1869年にドイツ北部連邦との間に交わされた修好通商条約第4条に記されていたReligionsübungの訳語に選ばれたことから定着したとされる[9][10]。また、多くの日本人によって「宗教」という語が 現在のように"宗教一般" の意味でもちいられるようになったのは、1884年(明治17年)に出版された辞書『改定増補哲学字彙』(井上哲次郎)に掲載されてからだともされている。

定義[編集]

「宗教とは何か」という問いに対して、宗教者、哲学者、宗教学者などによって非常に多数の宗教の定義が試みられてきた[11]とされ、「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」といわれる[12][1]とされる。代表的なものだけを取り上げただけでもかなりの数になる[13]とされ、例えば、ジェームズ・リューバ(英語版)の著書[14]の付録には48の定義およびそれに関するコメントが書かれており、日本の文部省宗務課がかつて作成した「宗教定義集」[15]でも104の定義が挙げられている[16]といい、その気になればさらに集めることも難しくはない[17]という。

リューバによる定義の分類[編集]

リューバは宗教についての多数の定義を三つのグループに分類している。すなわち、主知的(intellectualistic)な観点からの定義、主情的(affectivistic)な観点からの定義、主意的あるいは実践的(voluntaristic or practical)な観点からの定義の3つである[18]。
主知的な観点からの定義代表例で古典的な定義の例としてはマックス・ミューラーによる「無限なるものを認知する心の能力」が挙げられる。比較的近年のそれでは、クリフォード・ギアツによる「存在の一般的秩序に関する概念の体系化」がある。主情的な観点からの定義シュライエルマッハー(F.E.D.)による「ひたすらなる依存感情」。マレット(Marett, R.R.)なども他の学者などにみられる合理主義な観点を批判しつつ、宗教の原型を情緒主義(emotionalism)から論じた[19]という。主意的あるいは実践的な観点からの定義C.P.ティーレによる「人間の原初的、無意識的、生得的な無限感覚」というものがある。
『世界宗教事典』では上記のリューバの分類・分析を踏まえ、また、宗教を成立させている基本要素が超絶的ないし超越的存在(神、仏、法、原理、道、霊など)をみとめる特定の観念であることを踏まえつつ、宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、その観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団である[20]とまとめている。

『世界宗教事典』での上記の定義のまとめに沿って、もう少し具体的な例も含めて示せば[21]、宗教とは、超越的存在(神、仏、法、原理、道、霊など)についての信念、超越的なものと個人の関係、超越的なものに対する個人の態度(信仰など)、信仰に基づいた活動(礼拝、巡礼など)、組織・制度(教会、寺社制度など)、信者の形成する社会、施設(教会堂、モスク、寺院など)等々である。

広辞苑では、神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事、との定義を掲載した[22]。




宗教の歴史[編集]

詳細は「宗教史」を参照

宗教の表現形式[編集]

宗教はさまざまな表現形式を通して時間や空間を超えて伝えられている。神話や伝説、教典の内容や教義は口伝や詠唱、詩、書物を通して伝えられる。また、通過儀礼や年中行事などの儀礼を通して伝えられる場合や、生活習慣や文化の中に織り込まれる場合もある。食事の際に生産者や自然に感謝をする場合などがこれにふくまれる。

また、絵画や彫刻などの芸術、音楽、舞踏、建築などを通して伝えられる場合もある。

宗教の大分類[編集]
一神教と多神教、汎神論
民族宗教と世界宗教
伝統宗教(既成宗教)と新宗教(新興宗教)
自然宗教と創唱宗教
アニミズム・アニマティズム・シャーマニズム・トーテミズム

各国の宗教概況[編集]

「Category:各国の宗教」も参照

一覧[編集]
世界の宗教の一覧
神々の一覧

世界での主な宗教問題[編集]
聖地をめぐる争い(エルサレムを参照)。
宗教戦争(異教徒間、異宗派間で、時として戦争や紛争を引き起こすことがある[23]。このような問題が狭い区域の宗教的多数派の住民と宗教的少数派の住民の間に発生した場合、ヘイトクライムの形をとることが多い)
共産主義を標榜する全体主義国家による宗教全般に対する弾圧、信教の自由の侵害(中国、北朝鮮など)
フランス政府の「セクト対策」[24]
一部の新興宗教団体に集団自殺を引き起こすものがあること。

日本の主な宗教問題[編集]
政教分離の原則とその解釈、適用範囲 靖国神社問題
キリスト教徒の自衛隊員の護国神社合祀、およびその遺族による取り下げ要求の拒否
自民党・民主党の支持団体に宗教団体が含まれる問題
統一教会と一部の保守政治家(自民党・民主党など)の関係
公明党と創価学会が政教一致ではないかとされる問題
岩手県警による黒石寺蘇民祭の全裸禁止問題
宮津市清め塩啓発問題

宗教と学校教育(教育基本法九条の改正をめぐる議論など)
信教の自由と人権(人権尊重と人権侵害をめぐる議論、あるいは新宗教をいかに処遇するかについての議論、エホバの証人の輸血・武道教育拒否問題に見られる子どもの人権と教義の衝突など)
一部の宗教団体、およびその構成員による触法・犯罪行為(オウム真理教、摂理など)

孔子

孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐ; ウェード式: K'ung-tzu、紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。

実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

3500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[1]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

20世紀、文化大革命においては毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国共産党は新儒教主義また儒教社会主義を提唱しはじめている(儒教参照)。



目次 [非表示]
1 時代背景 1.1 周公旦と礼学
1.2 魯国の状況

2 生涯 2.1 出自
2.2 青年期
2.3 大司寇時代
2.4 亡命から晩年まで
2.5 孔子死後の魯

3 思想 3.1 封号

4 人物
5 子路の「醢」
6 子孫
7 系譜
8 伝記(学術)
9 孔子を題材にした作品
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク


時代背景[編集]

周公旦と礼学[編集]

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする王朝国家で、周公旦は周王朝を開いた武王の弟である。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させた。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となるが魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治に当たっていた。

周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。

魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。

魯国の状況[編集]

春秋時代に入ってからの魯国は、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父・叔牙・季友は第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々魯の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。

孔子の生まれた当時は襄公(紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季武氏の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [2]。

生涯[編集]

出自[編集]

紀元前552年(一説には551年)に、魯国昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で陬邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[3]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[4]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[5]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[6]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[7]。

幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めた。しかし、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。

弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[8]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[9]。

青年期[編集]

紀元前542年6月、襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。

紀元前537年に季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。

紀元前534年、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する[10]。翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生。

紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し委吏、乗田となった[11]。

紀元前517年、孔子が36歳のときに第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[12]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、斉へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。魯に帰国したのは翌年とも7年後ともいわれる。魯は紀元前509年に定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。孔子は斉の首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。

紀元前505年、季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[13]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。陽虎は紀元前502年に叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。

大司寇時代[編集]

紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[14]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これは有名な名相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[15]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[16]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[17]。

紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季氏に推薦したうえで、三桓氏の根城を壊滅する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[18]。

亡命から晩年まで[編集]

翌年の紀元前497年に弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。衛に赴き、ついで陳に赴く。 紀元前49年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を暗殺する。 紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後斉に攻められ敗北した。前485年には呉と同じく斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。


紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行う。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。

翌前483年に斉の簡公を討伐するように孔子が哀公に進軍を勧めるが実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。

孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。

紀元前479年に孔子は74歳で没し曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。

孔子死後の魯[編集]

孔子の死後、前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏に反乱を起こすも三桓氏に屈し、衛・鄒と点々と身を置き、越に国外追放され前467年にその地で没した。

孔伯魚の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。

のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。

思想[編集]

『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。





湯島聖堂にある孔子像
封号[編集]

孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。

孔子の封号一覧[19]


時 代

贈った為政者

封 号

年月(西暦)

春秋時代 哀公(魯) 尼父 哀公16年4月(紀元前479年)
前漢 平帝(実質王莽の差し金) 褒成宣尼公 元始元年夏5月(1年)
北魏 孝文帝 文聖尼父 太和16年2月(492年)
北周 静帝 鄒国公 大象2年3月(580年)
隋 文帝 先師尼父 開皇元年(581年)
唐 太宗 先聖 貞観2年(628年)
宣父 貞観11年(637年)
高宗 太師 乾封元年1月(666年)
武則天(武周) 隆道公 天授元年(690年)
玄宗 文宣王 開元27年(739年)
北宋 真宗 元聖文宣王 大中祥符元年11月(1008年)
至聖文宣王 大中祥符5年12月(1012年)
元 成宗 大成至聖文宣王 大徳11年7月(1307年)
明 世宗 至聖先師孔子 嘉靖9年(1530年)
清 世祖 大成至聖文宣先師孔子 順治2年(1645年)
至聖先師 順治14年(1657年)
中華民国 国民政府 大成至聖先師 民国24年(1935年)

人物[編集]

身長は9尺6寸、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。

飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉の細切)の肉を細く切った物などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[20]。[1]

子路の「醢」[編集]

弟子の子路が衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こり、子路は騒動にまきこまれて、殺された。子路の遺体は細かく切りきざまれ、《醢》(遺体を塩漬けにして長期間晒しものにする刑罰)にされたという挿話が『礼記』『孔子家語』『東周列国志』『荘子』などに記されている。孔子は深く悲しみ、『礼記』の記述によると、最後に家にあった「醢」(肉を塩漬けにした食品)を捨てさせたとある[21]。
『礼記』檀弓上の記述では以下の通りである。


檀弓上:孔子哭子路於中庭。有人吊者,而夫子拜之。既哭,進使者而問故。使者曰:“醢之矣。”遂命覆醢。[22]
『荘子』盜跖篇の記述では以下の通りである。


子以甘辭說子路而使從之,使子路去其危冠,解其長劍,而受教於子,天下皆曰‘孔丘能止暴禁非’。其卒之也,子路欲殺衛君而事不成,身菹於衛東門之上,是子教之不至也。[23]
『孔子家語』にも同じ逸話がある。


子路與子羔仕於衞。衞有蒯聵之難。孔子在魯聞之、曰、柴也其來。由也死矣。既而衛使至。曰、子路死焉。夫子哭之於中庭。有人弔者、而夫子拜之。已哭。進使者而問故。使者曰、醢之矣。遂令左右皆覆醢。曰、吾何忍食此。[24]

子孫[編集]

孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(11世孫)、孔融(20世孫)などがいる。孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという。

孔子に敬意を表するため、孔子その人に様々な封号が贈られたのは前述の通りであるが、その子孫にも厚い待遇が為された。まず前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。

孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる。

山東省曲阜市には孔廟、孔林、そして孔府(旧称・衍聖公府)がある。(いわゆる 三孔)。第46代孔宗願から、第77代孔徳成に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、1949年に台湾へ移住している。 中華人民共和国の外交官孔泉は、孔子の76代目の子孫といわれる。

系譜[編集]

詳細は「孔子世家嫡流系図」を参照

孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで83代の系譜を収めたこの家系図はギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されている。なおこの孔子世家譜は2009年現在までに5回の大改訂が行われている。第1回は明時代(1621年 - 1627年)、第2回と第3回は清時代(1662年 - 1723年)、(1736年 - 1795年)、第4回は中華民国時代(1930年 - 1937年)、第5回は中華人民共和国時代(1998年 - 2009年)である。第5回目の大改訂については、2008年12月31日に資料収集が終了[25]。2009年9月24日に完成した[26]。今回の孔子世家譜には初めて中国国外及び女性の子孫も収録され[27]、200万人以上の収録がなされた[26]。

伝記(学術)[編集]
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、ISBN 4061589350
貝塚茂樹 『孔子』 岩波新書青版、1951年、ISBN 4004130441
白川静 『孔子伝』 中公文庫、ISBN 4122041600
和辻哲郎 『孔子』 岩波文庫、ISBN 400331445X
加地伸行 『孔子 時を越えて新しく』  集英社文庫、1991年
蜂屋邦夫 『孔子 中国の知的源流』 講談社現代新書、1997年
ハーバート・フィンガレット[28] 『孔子 聖としての世俗者』 山本和人訳、平凡社ライブラリー、1994年
H・G・クリール 『孔子 その人とその伝説』 田島道治訳、岩波書店、初版1961年、復刊1993年

孔子を題材にした作品[編集]





孔子像
小説
下村湖人 『論語物語』 講談社学術文庫、ISBN 4061584936
中島敦 『弟子』 岩波、角川、新潮の各文庫ほか
井上靖 『孔子』 新潮文庫、ISBN 4101063362
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、新装版2007年、ISBN 462568403X
酒見賢一 『陋巷に在り』 新潮文庫全13巻
李長之 『人間孔子』 守屋洋訳、徳間文庫、1989年
銭寧 『聖人・孔子の生涯』 松岡亮訳、東洋書院、2005年
丁寅生 『孔子物語』 孔健・久米旺生訳、徳間文庫、2008年
三宅昭 『小説 論語物語』 三宅参衛監修 鶴書院、2009年

映画
『孔子の教え』(監督:胡玫(フー・メイ)、主演:チョウ・ユンファ、2009年、中国)

テレビドラマ
『恕の人 -孔子伝-』[2](主演:ウィンストン・チャオ、2012年、中国)

漫画
鄭問 『東周英雄伝』 講談社漫画文庫全3巻、1995年
諸星大二郎 『孔子暗黒伝』 新版集英社文庫 コミック全1巻、1996年
猪原賽原作、李志清画 『孔子と論語』 メディアファクトリーコミック全3巻、2008年

アニメ
『孔子傳』(NHKアニメーション、1995年、監督:出崎統、原作は上記『東周英雄伝』)

コメディ
『哲学者サッカー』 - ギリシア哲学者チームと、ドイツ近代哲学者チームが、サッカーの試合をするというコメディ。孔子は主審を務めるという設定で、「論語 には自由意志が無い」と噛み付いて来たニーチェにイエローカードを渡す。

朱子

朱子(しゅし 1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は中国宋代の儒学者。

姓は朱、諱は熹(き)、字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。朱子は尊称である。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。

1130年(建炎4年)、南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、1200年(慶元)、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。



目次 [非表示]
1 生涯 1.1 父・朱松
1.2 師との出会い
1.3 政治家として
1.4 偽学の禁

2 朱子の業績 2.1 経書の整理
2.2 朱子学の概要
2.3 後世への影響
2.4 著作

3 朱子の書 3.1 劉子羽神道碑
3.2 尺牘編輯文字帖
3.3 論語集注残稿

4 有名な言葉
5 脚注
6 関連項目
7 参考文献


生涯[編集]

父・朱松[編集]

朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱瓌(しゅかい、瓌は懐のりっしんべんを王偏に変えたもの)で、婺源(ぶげん、江西省婺源県)の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。 その八世の子孫が朱熹の父・朱松(1097年 - 1143年)である。

朱松は周敦頤・程・程頤らの流れを組む「道学」の学徒であり、1123年(宣和5年)より任官して県尉(県の治安維持を司る)に任命されていた。1127年(建炎元年)に靖康の変が起き、北宋が滅んで南宋が成立した後の1128年(建炎2年)に南剣州尤渓県(なんけんしゅうゆうけいけん、現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されるが、翌年に辞職して尤渓県の知人の元に身を寄せた。

1130年(建炎4年)、この尤渓県にて朱熹が生まれる。

その後、朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就くが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出されている。1140年(紹興10年)に州知事に任命されるが、これを辞退して祠官[1]の職を希望して認められ、以後は学問に専念して、1143年(紹興13年)に47歳で死去した。

師との出会い[編集]

父と同じく学問の道に入った朱熹は、9歳にして『孟子』を読破し、病床の父から『論語』を学んでいた。父が病死した後は父の遺言により、胡憲・劉勉之・劉子翬の三者に師事するようになる。

1148年(紹興18年)、19歳の時に科挙に合格。この時の席次は合格者330人中278番だった。この頃は高宗の信頼を受けた秦檜が権勢を振るっており、秦檜は金との講和に反対する者を弾圧していた。科挙にもその影響がでており、講和に反対するような答案を提出したものは点が低くなった。朱熹が低い席次であるのにはそうした理由があると考えられている。

1151年(紹興21年)、朱熹は左迪功郎と言う階官(官職の上下を表すもの)を与えられ、泉州同安県(現在の福建省同安県)の主簿(帳簿係)に任官された。この任官途中で父の同門であった李延平と出会い、その教えを受けている。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたのだが、李延平の禅宗批判を聞いてその考えに同調し、以後は禅宗を捨てて儒学だけを志すようになる。

1156年(紹興26年)には主簿の任期である3年を過ぎたが、後任がやって来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞している。1160年(紹興30年)、朱熹は父親と同じように祠官に任命されることを希望し、それが認められると李延平の元で学問に励むようになった。李延平は朱熹に「道学」の真髄を伝授し、朱熹も李延平の教えを次々と吸収したので、やがて李延平に「自分の後継者は朱熹しかいない」と認められるまでになった。

政治家として[編集]

1162年(紹興32年)に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書や武芸の教授)への就任を命じられるが、これを拒否して祠官を続けられるように望み、地元の崇安県に戻った。朱熹と朝廷はその後もこうしたやり取りを何度も繰り返している。

1170年(乾道6年)には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石の青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。1175年(淳熙2年)、呂祖謙の誘いで陸象山と会談(鵝湖の会)。互いの学説の違いを再認識して終わった。

1179年(淳熙6年)からは南康軍(軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。更に1180年(淳熙7年)には凶作が酷かったので、主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。しかし朱熹はこのように精力的に政治を行った一方で、何度も知事の任命を拒否し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と元の祠官の地位を求めている。

1181年(淳熙8年)、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。ここで朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。中でも1182年(淳熙9年)7月から始まる知台州(台州の知事。台州は現在の浙江省臨海県)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。

これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である[2]。 結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。

偽学の禁[編集]

1189年(淳熙16年)、孝宗が退位してその子・光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年(紹熙5年)の孝宗の死後、趙汝愚と韓侂冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は政治顧問に抜擢された。しかし功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。

その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。1196年(慶元2年)、権力をより強固にするため、韓侂冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年(慶元6年)、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。

朱子の業績[編集]

経書の整理[編集]

『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。

朱子学の概要[編集]

朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。

なお朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。

朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。

後世への影響[編集]


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朱子学は身分制度の尊重、君子権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした[3][4]。

日本にも「輸出」されて徳川幕府のイデオロギーとして尊重された。その結果、東アジアの社会秩序が「儒教的」になった原因として、朱子および朱子学が後世の批判を受けるようにもなっているが、当時の体制によりどう運用されたかを検討しないで単純にただ朱子と朱子学を批判するのは蒙昧の謗りを免れまい[要出典]。

著作[編集]

70余部、460余巻あるとされる。
著作の一部『朱自家訓』
『四書章句集注』
『参同契考異』
『童蒙須知』
『資治通鑑綱目』
『楚辞集注』

なお、弟子がまとめた『朱子語類』が存在する。

朱子の書[編集]





朱子の書
朱子は書をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』[5])と記している[6][7][8][9]。

古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある[10]。

韓gが欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のような跋を記している。「韓gの書は常に端厳であり、これは韓gの胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる[10][11]。

朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法[12]の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる[13][6][14][8][15][10][11]。

朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる[6][7][14][8]。

劉子羽神道碑[編集]

『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は1179年(淳熙6年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省崇安県の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。

劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。

劉珙が1178年(淳熙5年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される[8][15][16][14][17]。

尺牘編輯文字帖[編集]

『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、1172年(乾道8年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている[8][18][19]。

論語集注残稿[編集]

『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で1177年(淳熙4年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm[18][8][13][20]。

有名な言葉[編集]
「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として人口に膾炙し、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩はなく、近年は日本人の作だとする説が有力になっている(項目「少年老いやすく学なりがたし」参照)。
精神一到何事か成らざらん

儒教

儒教(じゅきょう、英語:Confucianism)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。



目次 [非表示]
1 概要
2 教典 2.1 四書と宋明理學

3 礼儀 3.1 冠服制度

4 教義
5 起源
6 孔子とその時代
7 孔子以後の中国における歴史 7.1 秦代
7.2 漢代
7.3 古文学と今文学
7.4 三国時代・晋代 7.4.1 玄学

7.5 南北朝時代・南学と北学
7.6 隋代
7.7 唐代
7.8 宋代 7.8.1 道統論
7.8.2 新学
7.8.3 天論
7.8.4 南宋時代
7.8.5 朱熹
7.8.6 道学

7.9 元代
7.10 明代 7.10.1 王陽明
7.10.2 東林学派
7.10.3 朱元璋の六諭

7.11 清代 7.11.1 考証学

7.12 近代 7.12.1 孔教運動

7.13 現代 7.13.1 新文化運動

7.14 中華人民共和国時代 7.14.1 再評価と「儒教社会主義」


8 朝鮮における儒教
9 日本における儒教
10 儒学者一覧
11 儒教研究上の論争
12 その他の学説
13 孔子廟
14 文献 14.1 史書

15 脚注
16 関連項目
17 外部リンク


概要[編集]

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、[1]周礼を保存する使命を背負った、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、(支配者の)徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の(支配者の)武力による覇道を批判し、事実、その様に歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒教が漢代、国家の教学として認定された事によって成立した。儒教は、宋代以前の「五経」を聖典としていた時代である。宋代以降に朱子学によって国家的規模での宋明理学体系に纏め上げられていた。宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「修己治人」あるいは、『大学』にある「修身、斉家、治国、平天下」であり、「経世済民」の教えである。

儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生と呼ぶ[2]。

教典[編集]

儒教の経典は易・書・詩・礼・楽・春秋の六芸(六経)である。

春秋時代になり、詩・書・春秋の三経の上に、礼・楽の二経が加わり、五経になったといわれる。

詩・書・禮・樂の四教については「春秋はヘうるに禮樂を以てし、冬夏はヘうるに詩書を以てす」、『禮記・王制』における「王制に曰く、樂正、四術を崇び四ヘを立つ。先王の詩・書・禮・樂に順いて以て士を造[な]す」という記述がある。

孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった[3]。

武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正统の学問として五経博士を設置することを献策した。靈帝の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立て、熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。








注疏

易経 周易正義
尚書 尚書孔安伝 尚書正義
詩経 毛詩 毛詩正義
楽経
儀礼 礼記 儀礼注疏、礼記注疏
周礼 周礼注疏
春秋 春秋公羊伝 春秋公羊伝注疏
春秋左氏伝 春秋左伝注疏
春秋穀梁伝 春秋穀梁伝注疏
論語 論語注疏
孝経 孝経注疏
孟子 孟子注疏
爾雅 爾雅注疏

四書と宋明理學[編集]

宋代に朱熹が「礼記」のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大學」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。

朱熹は、「『大學』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く[4]。

礼儀[編集]

子日く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。孔子曰く、禮に非ざれば視ること勿かれ、禮に非ざれば聽くこと勿かれ、 禮に非ざれば言うこと勿かれ、禮に非ざれば動くこと勿かれ。周礼は五礼て、つまり吉礼、兇礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によつて国家の天神、祖霊、地神を祭り、兇礼によつて国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によつて周玉室と他国あるいは国家間を友好親箸たらしめ、軍礼によつて国家同士を脇調させ、嘉礼によつて万民を互いに和合する。[5]五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、兇礼(喪葬〕、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。


周礼

解説

名系

吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊
兇礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 既夕礼、虞礼
賓礼 外交(邦国に親しむ) 相见礼、燕礼、公食大夫禮、觐礼
軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 大射、大傩
嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) 饮食之礼,婚冠之礼,宾射之礼,飨燕之礼,脤膰之礼,贺庆之礼

冠服制度[編集]

「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服す。」[6]孔子が、伝説の聖王・禹に衣服を悪しくして美を黻冕に致しついて褒め称えている部分である。[7]周の冕は衣裳です。易経に、黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る。[8]乾は天、坤は地で、乾坤は天地の間、人の住む所の意がある。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色く。だから、冕服(袞衣)の衣は玄にして裳は黄。待った、『尚書』に虞皇の衣服のぬいとりにした文様を言う。 日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彜 藻 火 粉末 黼 黻の十二である。それは『輿服制』の始まりです。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇、『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたそれである。すなわち『儀礼』士冠礼・喪服など、また『周礼』天宮司裳・春宮司服など、さらに『礼記』冠儀・昏儀などの各篇に、周代の服装に関する制度である。

教義[編集]

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。

儒教の考えには本来、男尊女卑の概念は存在していなかった。しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。これは「夫に妻は身を以って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在では看做されており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。
仁人を思い遣る事。孔子以前には、「佞る事」という意味では使われていた。[要出典]白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。義利欲に囚われず、すべきことをすること。(語源的には宜に通じる)礼仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。智学問に励む信言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
起源[編集]

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」[9]として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした[10]。

孔子とその時代[編集]

詳細は「孔子」を参照

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3500人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[11]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

孔子以後の中国における歴史[編集]

秦代[編集]

秦の始皇帝が六国を併せて中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。

漢代[編集]
前漢
漢に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は道家系の黄老刑名の学であった。そのなかにあって叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。

前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。宣帝の時には経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。

董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。
後漢
前漢末から災異思想などによって、神秘主義的に経書を解釈した緯書が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。 緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて讖緯といい、前漢末から後漢にかけて流行した。新の王莽も後漢の光武帝も盛んに讖緯を利用している。一方で、桓譚や王充といった思想家は無神論を唱え、その合理主義的な立場から讖緯を非難している。

古文学と今文学[編集]

前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写されていて今文経といわれる。これに対して、古文経と呼ばれる孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキストが、発見されていた。前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようとして、今文経学との学派争いを引き起こしている。平帝の時には『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。後漢になると、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけていった。章帝の時に今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用されている。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。

古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対して、六経すべてを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。

今文学のほうでは古文学説の弱点を研究して反駁を行った。李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一方で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けている。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。

三国時代・晋代[編集]

魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。

玄学[編集]

この時代に隆盛した学問は老荘思想と『易』に基づく玄学であるが、玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。

南北朝時代・南学と北学[編集]

南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、梁の武帝の時には五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。

南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。梁の費甝(ひかん、「かん」は虎+甘)の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。

北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉Rが出た。

隋代[編集]

北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝の時、劉焯・劉Rの二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉Rの『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。

隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。

唐代[編集]

唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。

こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。

唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。韓愈は著書『原道』で、尭舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。

宋代[編集]
北宋
宋ははじめ唐を継承することを目指しており、儒学においても注疏の学が行われた。聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。

道統論[編集]

しかし、宋の天下が安定した仁宗期になると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。

漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。

新学[編集]

神宗期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が王安石の新学である。王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。新学に異議を唱えたものに程・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。

天論[編集]

この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程の天理は後の朱熹に影響を与えた。このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。また張載は「太虚即気」説を唱え、世界の存在を気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。

南宋時代[編集]

宋朝は北方を金に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。

朱熹[編集]

孝宗の時代には、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼経」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。朱熹の弟子には、黄榦、輔広、邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。

同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。

道学[編集]

陸九淵の学は明代、王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。

寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。

理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗の時には『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。

元代[編集]

従来、金では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。

元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。

元代、科挙で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。

明代[編集]

明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。

永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。

明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。

王陽明[編集]

明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。

この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。

理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。

東林学派[編集]

社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。

朱元璋の六諭[編集]

明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。

一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。

明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。

清代[編集]

明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。

一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。

こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。

考証学[編集]

清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。

乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。その年号から乾嘉の学と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州を中心とする呉派、安徽出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。

道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。

近代[編集]

アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。洋務派官僚の曾国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。

孔教運動[編集]

一方、変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した孔教を提唱した。康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かすものであったため、清朝から危険視され『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折につながる一つの原因となる。しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突することとなり、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失うことになる。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国及びアメリカで活動している。この他に賛同した著名人として厳復がいる。

現代[編集]

新文化運動[編集]

1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。

清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、尭・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。
新儒家 熊十力
梁漱溟
牟宗三
唐君毅
杜維明


中華人民共和国時代[編集]

中華人民共和国では「儒教は革命に対する反動である」として弾圧され、特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていためとされる。なお毛沢東は三国志を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。

再評価と「儒教社会主義」[編集]

だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。

ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている[12]。

ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている[13]。

朝鮮における儒教[編集]

詳細は「朝鮮の儒教」を参照





朝鮮の儒学者
朝鮮は儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。一方で、李氏朝鮮時代に儒教を歴代の為政者が群集支配をするために悪用してきた弊害も存在しているという意見もある。
李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派

日本における儒教[編集]

「日本の儒教」を参照

儒学者一覧[編集]

「儒学者一覧」を参照

儒教研究上の論争[編集]


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儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的[14]だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。儒教は神の存在を完全に否定している事から“宗教として扱われる思想ではない”という見解が多い。一方、加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事が可能である。

その他の学説[編集]
人性論
天人の辨
義利の辨
名分論
命定論
形神論
正統論
復讐論
道統論
理気論
儒仏道論争
朱陸論争
格物致知
未発已発
良知
無善無悪
万物一体論
井田論
封建論
今文・古文
道器論

孔子廟[編集]

詳細は「孔子廟」および「日本の儒教#関連史蹟」を参照

中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟、孔廟、夫子廟ともいう。(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名。)中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。

日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。湯島聖堂が、その代表である。

文献[編集]
概説書加地伸行 『儒教とは何か』 中公新書 ISBN 9784121009890
加地伸行 『沈黙の宗教−儒教』 筑摩書房〈ちくまライブラリー〉 ISBN 9784480051998/ ちくま学芸文庫(2011年4月)
串田久治 『儒教の知恵−矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 9784121016850
鈴木利定 『儒教哲学の研究』 明治書院 ISBN 9784625483028
T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 青土社 ISBN 9784791752980
狩野直禎編 『図解雑学 論語』ナツメ社、2001年、ISBN 4816330461
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、2007年、ISBN 9784625684036
土田健次郎編 『21世紀に儒教を問う』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225
永冨青地編 『儒教 その可能性』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145
伝記白川静 『孔子伝』 中公文庫 ISBN 4122041600
諸橋轍次 『如是我聞 孔子伝』(上下)、大修館書店、1990年
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 9784061589353
武内義雄 『論語之研究』 岩波書店、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊
津田左右吉 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊
宮崎市定 『論語の新しい読み方』 礪波護編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227
五経易経 今井宇三郎 『易経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院 
(上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146
本田済 『易 〈中国古典選〉』 新版:朝日選書 ISBN 9784022590107
高田眞治・後藤基巳 『易経』 岩波文庫 
(上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129

書経 加藤常賢  『書経 (上) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570254
小野沢精一 『書経 (下) 新釈漢文大系』 明治書院 ISBN 9784625570261
池田末利 『尚書 全釈漢文大系』 集英社 

詩経 石川忠久 『詩経 新釈漢文大系』 全3巻:明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。 
(上)ISBN 9784625571103、(中)ISBN 9784625571111、(下)ISBN 9784625673009
白川静 『詩経国風』 平凡社東洋文庫、ISBN 9784582805185
白川静 『詩経雅頌』 平凡社東洋文庫 全2巻、(1)ISBN 9784582806359 、(2)ISBN 9784582806366

礼記 竹内照夫 『礼記 新釈漢文大系』 明治書院 全3巻
(上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292
『礼記』(「漢文大系」冨山房、初版1913年。のち改訂版)
桂湖村 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:早稲田大学出版部、初版1914年
安井小太郎 『礼記』(「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年)
下見隆雄 『礼記』(明徳出版社〈中国古典新書〉、初版1973年)
市原亨吉など 『礼記 全釈漢文大系』(集英社 全3巻)

春秋 春秋左氏伝 鎌田正 『春秋左氏伝 新釈漢文大系』 明治書院 全4巻
(1)ISBN 9784625570308 、(2)ISBN 9784625570315 、(3)ISBN 9784625570322、(4)ISBN 9784625570339
竹内照夫 『春秋左氏伝 全釈漢文大系 4.5.6』、集英社
小倉芳彦 『春秋左氏伝』、岩波文庫全3巻 (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638

春秋公羊伝 林羅山訓点 菜根出版(復刻)
『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝 (日原利国訳) 、筑摩書房、1970年 日原利国著 『春秋公羊伝の研究』 創文社〈東洋学叢書〉、1978年


春秋穀梁伝 野間文史著 『春秋学 公羊伝と穀梁伝』 研文出版〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011


四書大学 宇野哲人 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940
金谷治 『大学 中庸』 岩波文庫 2004年 ISBN 4003322215
赤塚忠 『大学・中庸 〈新釈漢文大系2〉』 明治書院 1998年 ISBN 4625570026

中庸 島田虔次 『大学・中庸 〈中国古典選〉』 朝日新聞社、1967年/ 朝日文庫上下、1978年
宇野哲人 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959
俣野太郎 『大学・中庸』 明徳出版社〈中国古典新書〉、1968年 

論語 吉田賢抗 『論語 〈新釈漢文大系 1〉』 明治書院、初版1960年、ISBN 4625570018
吉川幸次郎 『論語 〈中国古典選〉』(上下)、新版:朝日選書、1996年
金谷治 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 4003320212 
宮崎市定 『現代語訳 論語』 岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000170
貝塚茂樹 『論語』 中公文庫/ 新版:中公クラシックス全2冊、2002年
加地伸行 『論語』 講談社学術文庫、2004年、増訂版2009年

孟子 小林勝人 『孟子』 岩波文庫 (上)ISBN 9784003320419 、(下)ISBN 9784003320426
貝塚茂樹 『孟子』 中公クラシックス版、抄訳版
内野熊一郎・加藤道理 『孟子 〈新釈漢文大系 4〉』、明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
宇野精一 『孟子 全釈漢文大系2』 集英社

関連古典周礼
儀礼  池田末利編訳、東海大学出版会 〈東海古典叢書、全5巻〉

爾雅
孝経 加地伸行 『孝経』、講談社学術文庫、初版2007年
栗原圭介 『孝経 新釈漢文大系35』 明治書院、ISBN 9784625570353

荀子 金谷治 『荀子』 岩波文庫(上下)、(上) ISBN 9784003320815 、(下) ISBN 9784003320822
藤井専英 『荀子 新釈漢文大系 5・6』 明治書院、新書漢文大系(抄訳版)がある。
金谷治・佐川修 『荀子 全釈漢文大系 7・8』 集英社

大戴礼記 栗原圭介 『大戴礼記 新釈漢文大系113』 明治書院、ISBN 9784625571138


史書[編集]
史記 孔子世家
仲尼弟子列伝
孟子荀卿列伝
儒林列伝

漢書 董仲舒伝
儒林伝

孔子家語 宇野精一訳 『孔子家語 新釈漢文大系53』 明治書院 ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。  
藤原正訳 『孔子家語』 岩波文庫 ISBN 9784003320228

朱子学朱子 『論語集註』 笠間書院 ISBN 9784305001559
朱子 『近思録』 湯浅幸孫訳著、たちばな出版(選書版)  上:ISBN 9784886926036、中:ISBN 9784886926043 、下:ISBN 9784886926050
『「朱子語類」抄』 三浦國雄訳注、講談社学術文庫 ISBN 9784061598959
島田虔次著 『朱子学と陽明学』 岩波新書 ISBN 9784004120285
陽明学王陽明 『伝習録』 溝口雄三訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820
朝鮮の儒教と儒学
朝鮮時代の五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」と、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」に基づいて。
日本の儒学荻生徂徠 『論語徴』 小川環樹訳註、平凡社東洋文庫 (1)ISBN 9784582805758 (2)ISBN 9784582805765

聖人

聖人(しょうにん、せいじん)
1.儒教の聖人
2.仏教の聖人
3.キリスト教の聖人
4.イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、サンテリアなどの宗教の聖人

一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝対象となる過去の人物をさすことが多い。一般的な読み方は「聖人」(せいじん)であるが、仏教の場合は「聖人」(しょうにん)と読むことがある。

日本語では元来は儒教の聖人のことであり、次に仏教での聖人のことであった。生きている人にもすでにこの世を去った人にもあてはめられ、世界の多くの宗教で同じような概念があるとして、キリスト教では日本布教の際に"Sanctus"(ラテン語)・"Saint"(英語・フランス語)を「聖人」と翻訳した。そのような宗教の中で、「聖人」と呼ばれる人々は特定宗教の信徒にとり模範となり、その生涯が記録され、後世を語り継がれることが多い。

各宗教によってニュアンスにばらつきがあるが、現代の宗教で「聖人」という概念が存在するのは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、サンテリアなどが挙げられる。ただしこれらの宗教でも宗派・教派によって扱いが異なる場合があり、キリスト教プロテスタントの一部やイスラム教のワッハーブ派などでは聖人崇敬は否定されている。また、聖人に対する崇敬を行うキリスト教教派では、教会によって公式に認定(列聖)されなければ聖人と認められない。



目次 [非表示]
1 儒教
2 仏教
3 キリスト教 3.1 崇敬と歴史
3.2 祝日・記憶日
3.3 洗礼名・聖名・霊名
3.4 聖遺物・不朽体
3.5 聖人認定
3.6 教派別の崇敬のあり方の違い 3.6.1 正教会
3.6.2 カトリック教会
3.6.3 聖公会
3.6.4 プロテスタント 3.6.4.1 ルーテル教会
3.6.4.2 改革派教会等


3.7 崇敬の地域性
3.8 聖人にちなむ地名

4 イスラム教 4.1 聖人として扱われることがある人物
4.2 十二イマーム派の歴代イマーム

5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク


儒教[編集]





孔子(E.T.C. Wernerの、1922年刊行の『中国の神話と遺産』に掲載された挿絵)
中国の儒教における聖人とは、過去の偉大な統治者を指す。政治指導者としてだけではなく、道徳の体現者としても理想とされる人物である。

もっとも理想の聖人とされるのは、堯と舜、二人の聖天子である。続く「三代」と言われる時代の統治者、すなわち夏王朝の創業者である禹、殷王朝の創業者である湯王、周王朝の創業者である武王もまた聖人として位置づけられ、堯と舜をあわせて「堯舜三代」と呼ばれる。

また、周王朝の創業に力を尽くした周公旦、儒学の大成者である孔子もまた聖人として位置づけられている。孟子は聖人ではないが、それに次ぐ存在であるとして「亜聖」と呼ばれる。

宋代になると、士大夫たちは自らを孔子・孟子を継ぐ聖人となることを目指すようになり、「聖人、学んで至るべし」というスローガンのもと、道徳的な自己修養を重ねて聖人に到る学問を模索した。明代の陽明学では「満街聖人」という街中の人が本来的に聖人であるとする主張をし、王や士大夫のみならず、庶民に到るすべての人が聖人となることができる可能性を見いだした。また、日本では近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者中江藤樹は近江聖人と称えられている。

仏教[編集]

日本の仏教宗派の一部の宗祖に対する敬称として、一般的な上人ではなく、聖人(しょうにん)という敬称を付する場合がある。

一般的に「聖人」という敬称で呼ばれる仏教者。
法然(浄土宗)
親鸞(浄土真宗)
日蓮(日蓮宗)
空海(真言宗)
最澄(天台宗)

なお、浄土真宗では開祖の親鸞のみならずその師である法然に対しても「聖人」と呼称されたことがあるが、通例では親鸞に対してのみ「聖人」を用いる。

キリスト教[編集]





『聖カテリーナ』カラヴァッジョ画。1598年頃
キリスト教においては、新約聖書に出る古典ギリシア語: ο Άγιος(ホ・ハギオス「聖なる人」の意 現代ギリシャ語ではオ・アギオス)またその複数形古典ギリシア語: οι Άγιοι(ホイ・ハギオイ 現代ギリシャ語ではイ・アギイ)に由来する。新約聖書では、「ホ・ハギオス」という言葉が、かれらの教会の歴史にとっての重要さにかかわらず、生者と死者の両方にあてはめられている。使徒パウロの手紙の多くは「すべての聖なるものたちに」、あるいは「年長者とともに」と宛てられている。たとえば『エフェソの信徒への手紙』は「エフェソの聖なる人々へ」で始まっている。

聖人への崇敬は教派によって扱いが異なり、正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会などで聖人崇敬が行われている。ただし、対象は歴史的に若干の変動があり、またこれら聖人崇敬・聖人の概念を認める諸教派の中でも崇敬の方法・あり方には差異が存在する。一方、プロテスタントでは聖人に対する崇敬を行わない教派が多い。改革派教会以降のプロテスタントとバプテスト系は、聖人崇敬を否定し、クリスチャンすべてを聖徒と呼ぶ。プロテスタントの中には、キリスト教初期の慣用表現から、「聖人」という語を単にこの世を去った信徒たちを指す言葉として用いるものもある。

正教会、東方諸教会、カトリック教会など、聖書と同様に聖伝(古代からの伝承)を現代に至るまで尊重する諸教派では、聖人への崇敬は伝統によってキリスト教信仰の一部をなしてきた。このような伝統にしたがって、聖人は神のそばでとりなしを行うことで人々の祈りを聞き入れ、神と人間の媒介としての役割を担う[要出典]とみなされてきた。

崇敬と歴史[編集]





エジプトの聖マリアのイコン。17世紀にロシアで描かれたもの。中心に祈りを奉げるエジプトの聖マリアの姿が描かれ、周囲にその生涯についての伝承内容が左上から順に描かれている。
時として、「キリスト教は一神教といいながら、なぜ多神教のように聖人を崇拝するのか」という疑問が提示されることがあるが、聖人の概念を持つキリスト教では、崇敬・尊崇と崇拝は異なる意義付けをなされている。この観点からは、キリスト教徒は聖人を崇拝しているわけではなく、聖人を敬うこと(崇敬)は拝むこと(崇拝)ではない。神への信仰と聖人への敬意はまったく別のものとして捉えられる。

正教会・東方諸教会・カトリック教会では、聖人の像や生涯を描画した聖画像(イコン)を作り、崇敬の対象とする。聖像破壊運動で古代の多くの聖像は失われたが、この運動が及ばなかった地域、とりわけそれ以前にカトリック教会やギリシャ系の正教会と分かれた東方諸教会の聖堂には、古いイコンが残っていることがある。このような古いイコンを収蔵する代表的な存在としては聖カタリナ修道院が挙げられる。

聖人の伝記(聖人伝)を読み書きすることも、聖人を崇敬する上で重要な役割を果たしている。これは古代から行われ、信仰上の模範を示すことで後世の信仰のあり方に大きな影響を与えたものも少なくない。たとえばアタナシオスによる『アントニオス伝』は、修道者に大きな影響を与えた。聖人伝として著名なものにヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』がある。

聖人はつねに個人名で記念(記憶)されるとは限らない。七十門徒などはそのよい例で、七十人の内訳には幾つかの説があり、かならずしも確定していない。古代の殉教者などには、名前の伝わっていない聖人も数多い。聖書に出てくる例では、ヘロデ大王によるベツレヘムの幼児虐殺の死亡者は「聖嬰児」「幼子殉教者」として聖人であるが、彼らの個人名は伝わっていない。

祝日・記憶日[編集]





『ミラの聖ニコライ、無実の三人を死刑から救う』
(画:イリヤ・レーピン)
それぞれの教会において、一年間の中で聖人の祝日(記憶日・記念日)は特定の日付に固定されている。これをまとめたものをカトリック教会では聖人暦(聖人カレンダー)と呼ぶ。正教会においては正教会暦と呼ぶ。多くはその聖人が死亡した日が記念日となるが、異なる場合もある。特に重要な聖人の場合は、複数回の記念日がある(例:ミラのニコラオス)。古代より崇敬される聖人は、カトリック教会と東方教会で記念の日を同じくする(ただし後者のうちユリウス暦を使用する教会では、グレゴリオ暦を使用する教会と日付のずれを生じている)事が多いが、一部の聖人は違った日に記念されることがある(例:エジプトのマリア)。

聖人の祝日は、基本的にそれぞれの聖人に個々に決まっているが、幾人かの聖人は、他の聖人と共通の祝日をもっている。そのような例にペトロとパウロ(聖使徒ペトル・パウェル祭)、キュリロスとメトディオス、正教会における七十門徒などがある。多数の聖人をともに記憶する祭を正教会では「会衆祭」(かいしゅうさい)という。正教会では、十二大祭のいくつかの祭で、その翌日に関連する聖人の祭を行うが、これにも会衆祭と呼ばれるものがある。

洗礼名・聖名・霊名[編集]

聖人崇敬において重要な概念には守護聖人の考えがある。これは正教会・カトリック教会において存在する考え方で、個人のほか、特定の団体や地域に対してある聖人が特別な加護を与えているという概念である。

一般に、洗礼名(正教会では「聖名」・カトリック教会では「霊名」とも)の概念を持つ教派の場合、洗礼を受ける者は聖人にちなんで洗礼名(聖名・霊名)を受ける。この名前の起源となる聖人が、個人の守護聖人となる。

自分の洗礼名の聖人の祝日を、正教会では「聖名日」、カトリック教会では「霊名の祝日」と呼んで祝う習慣がある。一部の地域では誕生日より盛大に祝うこともある。カトリック教会などの西方教会では、洗礼名のほかに堅信のときには堅信名を付ける習慣もあり、これは洗礼名と別の聖人を選ぶこともできる。また修道士は、ある聖人の名前にちなんで自らの修道名をつける。

聖遺物・不朽体[編集]





聖ゲオルギオス大聖堂にある、不朽体が納められている大理石製の聖櫃。
「聖遺物」および「不朽体」も参照

古代のキリスト教では聖人として尊崇された者の多くが殉教者であったが、殉教者を尊び、その遺骸や遺物を集めて墓を立て、崇敬することがなされていた。殉教者の墓(マルティリウム)は聖堂・礼拝堂と並んで、信仰生活の中心となった。こうした崇敬は時に行き過ぎ、聖人の遺骸と称されるものが高額で取引されたり、ある崇敬が過度の熱狂におちいることがあった。アウグスティヌスなど、こうした風潮に警鐘を鳴らし、聖人の遺骸を崇敬の対象にすることに反対を唱えたものもいた。

聖人の遺骸は、カトリック教会では聖遺物、正教会では不朽体と呼ばれる。遺体が腐敗せずに残ることを聖人である証明の一つとみなすことは伝統的な見方である。聖人の遺骸またその一部は古代から中世においては強い崇敬の対象となり、それに関連した奇跡が多く語られている。現在でも一部の教派では聖人の遺骸に接吻するなどして崇敬を表明することもある。正教会においては、聖人の遺骸に対する崇敬の表明は、聖像(イコン)への崇敬の表明と同じ形式を取る。これはイコンと同様聖人の遺骸が、究極には神に由来する聖性が現実界に現れる窓とする考えに基いており、信者の見解によれば、ものそのものが崇拝ないし信仰の対象となっているわけではないとされる。

また伝統的に、教会の祭壇(正教会では宝座)の下には聖人の遺骸または遺物(不朽体)を納めることが必要であるとされる。これは東方教会においては必ずしも必須の要件ではないが、しかしそのようにすることが望ましいと今でも考えられている。カトリック教会においてはかつては必須の要件であったが、現代ではこの要件は撤廃されている。

聖人認定[編集]

聖人に対する崇敬を行う教派では、教会によって公式に認定(列聖)されなければ聖人と認められない。一般に、聖人として認めるための調査は本人の死後に長い時間をかけて行われ、早くても死後数十年、場合によっては死後数百年にも及ぶ厳しい審査を経てようやく認められる(例:ジャンヌ・ダルクが聖人として認められたのは本人の死から489年後であった)[1]。しかもカトリック教会の場合、列聖の前段階として、福者と認められなければならない(列福されることが必要)。正教会の場合は、さらに急ぐのを避け、その人物に対する世間の反響が冷めるまでに十分な時間を割り当てる場合が多い。

教派別の崇敬のあり方の違い[編集]

教派によって、どの聖人を聖人として崇敬するかに違いがある。ある教派で聖人として崇敬されていても、別の教派では聖人と捉えられていないといった事例は数多い。

また、崇敬のあり方にも違いがある。以上に述べた全教派に共通する聖人の一般論とは別に、こうした教派ごとの特徴を以下の節に記す。

正教会[編集]

詳細は「:Category:正教会の聖人の称号」を参照

正教会の場合、聖人には必ず使徒、亜使徒、致命者、克肖者などの称号が付く。これはその聖人の信仰のありようを記憶するために教会が決めるもので、個人が恣意的に変更してよいものではない。ただし「主教」「大主教」等の称号には、地域差が反映されることがある。たとえば新致命者神品致命者聖アンドロニク(ロシア革命で致命)は、世界的には「ペルミの大主教」と呼ばれるが、日本においては初代京都主教という関係を重くみて「京都の主教」と称する。

正教会には、カトリック教会におけるような尊者・福者の概念は存在しない。従って列福といった手続きも存在しない。英語の"Venerable"は正教会では克肖者、カトリック教会では尊者と訳されて異なっている事にも見られるように、訳語にそれぞれの教会の聖人に対する扱いの差が反映されている。

カトリック教会[編集]





福者フラ・アンジェリコの肖像画
カトリック教会には列聖前の段階として、尊者・福者の段階がある[2]。


カトリック教会における列聖の段階


神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人


第2バチカン公会議後のカトリック教会のあり方の見直しの中で、史実での存在が疑われる伝説的な聖人は聖人暦から外された。またキリストの降誕を準備する待降節、復活を準備する四旬節からも、本来の精神を大切にするという意味で聖人の祝い日が移動された。

聖公会[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

聖公会(イギリス国教会)はローマ・カトリック教会から分離したためにプロテスタントに分類される事もあるが、信仰を理由にしてカトリック教会から分離したわけではなく、教義や精神は非常にカトリックに近いことから、聖人の崇敬を行っている。

プロテスタント[編集]

プロテスタントにとってすべてのクリスチャンは聖徒である。ただし、ルーテル教会と他のプロテスタントは異なっている。

ルーテル教会[編集]

「聖名祝日」も参照

マルティン・ルターはローマ教会(カトリック教会)の習慣を残した。ルーテル教会はプロテスタント教派のなかでも、一部では聖人の概念をもち、信仰の模範としてとくに礼拝でとりあげ、洗礼名の根拠としたり、記念日を祝ったりするところがある。

改革派教会等[編集]

ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』で聖人崇敬・崇拝を批判した。改革派教会以降のプロテスタント福音派、バプテスト系は聖人崇敬を崇拝と見なして拒否しており、ルーテル教会の習慣については、ローマ教会の残滓とみなされることがある[3]。

崇敬の地域性[編集]

聖人崇敬は現実の信仰生活のなかで行われるものであって、そこにはおのずと地方や時代の独自性が反映される。聖人のリストは世界で共通であるが、ある聖人とかかわりの深い地域では、その聖人はより重く崇敬される。そのような信仰生活の個別性は、個人や集団の守護聖人への信心に現れている。

例えばラドネジの克肖者聖セルギイの記憶日はロシア正教会やその流れを汲む諸正教会では盛んに祝われるが、他の地域では聖セルギイの記憶日は最も重要な祭日であるとは認識されない。このような事情はブルガリア正教会の著名な聖人であるリラの克肖者イオアンなどについても同様の事が言える。

聖人にちなむ地名[編集]

聖人の名をつけた地名は多い。聖人は各国語でサン(San、Saint)、セント(Saint)、サンタ(Santa)、サント(Santo)、サンクト(Sancto)等になるため、これらで始まる地名は概ね守護聖人の名が使われている。

例:サンフランシスコ(聖フランシスコ)、セントルイス(聖王ルイ)、サンクトペテルブルク、セントピーターズバーグ(聖ペトロ)、サンパウロ(聖パウロ)、サンティアゴ(聖ヤコブ)、サンタモニカ(聖モニカ)、セントヘレナ島(聖ヘレナ)、サンマリノ共和国(聖マリヌス)、アイオス・ニコラオス(奇蹟者ニコラオス)

イスラム教[編集]

宗派にもよるが、預言者ムハマンドの教友であるサハーバや十二イマーム派のイスラム教指導者である十二イマーム(特に初期のイマームはスンニ派・シーア派双方で)などが聖人として扱われている。 イスラム教の教義においてはムハマンドはただの人間であるが、同時にイスラム教をもたらした最も崇敬すべき聖人でもあり、ムハンマドの誕生日は多くのムスリムにとって重要な祭日となっている。 また、ムハマンド以前の預言者たちも聖人として扱われており、イスラム教においてはイエスキリストも聖人の一人として扱われている。 イスラム社会には聖人が住んでいたモスクが多く現存しており、聖人崇拝を行う信者によって巡礼の対象となっている。

シーア派においては歴代のイマームへの崇敬は特に重要な意味を持っており、マシュハドなどイマームの墓廟のある都市は聖廟都市と呼ばれ重要な巡礼地になっている。十二イマーム派を国教とするイランでは歴代イマームの肖像画なども多く描かれているが、基本的にはポスターであり、キリスト教のイコンほどは特別な意味は持たない。

ワッハーブ派などのイスラム原理主義派では聖人崇敬を偶像崇拝であるとして禁止しており、ワッハーブ派を国教とするサウジアラビアやその前身のワッハーブ王国では聖廟に対する破壊活動が行われている。また、原理主義を信奉するイスラム過激派も聖廟の破壊を目的としたテロをしばしば起こしている。ワッハーブ派ではムハンマドの誕生日を祝うことも禁じられている。

聖人として扱われることがある人物[編集]
アブー=バクル - 預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)
ビラール・ビン=ラバーフ - 預言者ムハンマドが所有していた黒人奴隷
マリク・イブン=アシュタル - イスラーム初期の武将

十二イマーム派の歴代イマーム[編集]
1.アリー
2.ハサン
3.フサイン - ウマイヤ朝軍とカルバラーで戦い敗死。
4.アリー・ザイヌルアービディーン
5.ムハンマド・バーキル
6.ジャアファル・サーディク
7.ムーサー・カーズィム
8.アリー・リダー
9.ムハンマド・ジャワード
10.アリー・ハーディー
11.ハサン・アスカリー
12.ムハンマド・ムンタザル(マフディー) - 隠れイマーム

ブダペスト

ブダペストまたはブダペシュト(ハンガリー語: Budapest,英語:play /ˈbuːdəpɛst/, /ˈbuːdəpɛʃt/ or /ˈbʊdəpɛst/; ハンガリー語発音: [ˈbudɒpɛʃt] ( 聞く))はハンガリーの首都であり、同国最大の都市である[2]。

「ブダペスト」として一つの市でドナウ川の両岸を占めるようになったのは1873年11月17日に西岸のブダとオーブダ、東岸のペストが合併してからである[3][4]。

ドナウ川河畔に位置し、ハンガリーの政治、文化、商業、産業、交通の一大中心都市で[5]、東・中央ヨーロッパ (en) では最大、欧州連合の市域人口では8番目に大きな都市である。しばしばハンガリーのプライメイトシティとも表現される[6]。

ブダペストの市域面積は525km2 (202.7 sq mi)[3]で、2011年の国勢調査によるブダペストの人口は174万人[7]、ピークであった1989年の210万人より減少している[8]。これは、ブダペスト周辺部の郊外化によるものである[9]。ブダペスト都市圏(通勤圏)の人口は330万人である[10][11]。

ブダペストの歴史の始まりはローマ帝国のアクインクムとしてで、もともとはケルト人の集落であった[12][13]。アクインクムは古代ローマの低パンノニア属州の首府となっている[12]。マジャル人がブダペスト周辺にやって来たのは[14]9世紀頃である。最初の集落は1241年から1242年にかけてモンゴルの襲来 (en) により略奪された[15]。15世紀に[16]町が再建されるとブダペストはルネサンス期の人文主義者文化の中心となった[17]。続いてモハーチの戦いが起こり、オスマン帝国による150年間の支配が続き[18]、18世紀、19世紀に新しい時代に入ると町は発展し繁栄する。ブダペストは1873年にドナウ川を挟んだ都市の合併が行われると、世界都市となる[19]。また、1848年から1918年の第一次世界大戦勃発まで列強に含まれたオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに続く第二の首都であった。1920年のトリアノン条約によりハンガリーは国土の72%を失い、ハンガリーの文化や経済をブダペストがすべてを占めるようになった。ブダペストはその大きさや人口で圧倒的に優位に立ち、ハンガリーの他の都市を小さく見せていた[20]。ブダペストはハンガリー革命 (1848年)や1919年のハンガリー評議会共和国、1944年のパンツァーファウスト作戦、1945年のブダペスト包囲戦、1956年のハンガリー動乱など数々の歴史的な舞台の場でもあった。

ブダペストはヨーロッパでも最も美しい街の一つで[2][21][22]、ドナウ川河岸を含め世界遺産が広がりブダ城やアンドラーシ通り、英雄広場は良く知られている。ブダペスト地下鉄1号線Millenniumi Földalatti Vasútはロンドン地下鉄に次いで世界で2番目に古い地下鉄である[21][23]。ブダペストの他のハイライトはセーチェーニ温泉を含めた80の温泉で[24]世界でも最大の地下熱水系統がある[25]。世界で3番目に大きなシナゴーグであるドハーニ街シナゴーグや国会議事堂などもブダペストの見所である。ブダペストの観光客数は年間270万人に上り、ロンドンにある民間調査機関ユーロモニターによればブダペストは世界で37番目に旅行者が多い観光地であるとされている[26]。



目次 [非表示]
1 呼称
2 歴史 2.1 古代から19世紀まで
2.2 20世紀から現代まで

3 地理 3.1 地勢
3.2 気候

4 経済
5 観光 5.1 世界遺産
5.2 その他の名所
5.3 温泉

6 統計 6.1 民族
6.2 宗教

7 行政区画
8 交通
9 文化 9.1 ブダペストを舞台にした作品

10 教育
11 スポーツ
12 ブダペスト出身の人物
13 国際関係 13.1 姉妹都市
13.2 協力都市

14 ギャラリー
15 脚注・脚注関連文献
16 関連項目
17 外部リンク


呼称[編集]

ブダペストの名称はドナウ川を挟んだブダとペシュト二つの町の名称を組み合わせたもので、1873年に町が合併され一つになって以来使われている。この際、古いブダを意味するオーブダも一緒に併合された。最初にブダペスト"Buda-Pest"の名が見出されたのは1831年に自由主義貴族セーチェーニ・イシュトヴァーンが出した "Világ" と言う本である[27]。ブダ "Buda"やペスト"Pest" の元の意味は不明瞭である。中世からの年代記によればブダは創建者のブレダから来ているとされ、この人物はフン族の支配者アッティラの兄である。ブダが人名から来ていることは現代の学者も支持している[28]。他の説ではブダはスラヴ語で水を意味する "вода, vodaから来ている言うものもある。これはラテン語のアクインクムでローマ時代のブダペスト名称で、ローマ人の主立った集落はこの地域にあった[29]。また、ペストの名称についてもいくつかの説があり一つの説は[30]"Pest" はパンノニア属州から来ているとするもので、その時以来あったこの地域のコントラ・アキンクムの森はプトレマイオスによりペッシオン ("Πέσσιον", iii.7.§2) と言及されていた[31]。他の説ではペストの元はスラヴ語で洞窟を意味する"пещера, peshtera"か炉を意味する "пещ, pesht"で洞窟で火を燃やしていたか、地元の石がまを言及している[32]。古いハンガリーの言葉では似たような単語でかまや洞窟を意味し、古いドイツ語ではこの地域は "Ofen"と言う名で後にドイツ語でブダ側を"Ofen" と言及している。

歴史[編集]

古代から19世紀まで[編集]





中世のブダ城
最初のブダペスト周辺の集落はケルト人により[12]1世紀に形成された。その後、ローマ人により占められるようになりローマの集落はアクインクムとして106年に[12]低パンノニア(英語版)の[12]中心都市となった。ローマ人は要塞化された駐屯地に道路や円形劇場、浴場、床暖房を備えた住居などを建設した[33]。829年の和平条約によりパンノニアはオムルタグのブルガリアの軍が神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ1世に勝利したことから版図に加えられた。ブダペストでは2つのブルガリアの軍境が生じブダとペストの2つの河岸には要塞があった[34]。アールパードに率いられたハンガリーの人々は9世紀になって今日のブダペスト周辺に定住し[14][35]、後に本格的にハンガリー王国が創建された[14]。研究ではおそらくアールパード朝の初期の居城がブダペストになった場所の近くにあり中央主権的な力であったとされる[36]。

タタール(モンゴル)による侵略が13世紀に起こり、平原での防御は難しいことが直ぐに判明した[3][14]。ベーラ4世は街を囲む石の城壁を補強するよう命じ[14]、自らの王宮もブダの丘の一番上に据えた。1361年にブダはハンガリー王国の首都になった[3]ブダの文化的な役割はマーチャーシュ1世の時代、特に重要であった。ルネサンスは大きな影響を街に与えている[3]。マーチャーシュの図書館であるコルヴィナ文庫Bibliotheca Corviniana[3]はヨーロッパの歴史年代記、哲学、15世紀の科学など多数の蔵書があり、バチカン図書館に次ぐ規模があった[3]。後にハンガリーでは最初の大学がペーチに1367年に設立され[37]、1395年に2つ目がオーブダに設立されている[37]。1473年に最初のハンガリー語で書かれた書物がブダで印刷された[38]。1500年頃のブダには約5,000人が住んでいたとされる[39]。

オスマンのブダでの収奪は1526年に起こり、1529年には包囲され1541年に完全に侵略された。オスマン帝国領ハンガリーの時代は140年以上にわたって続いた[3]。トルコにより多くの優れた浴場施設が街には造られている[14]。オスマン支配下では多くのキリスト教徒はイスラム教に改宗している。それまで多くを占めたキリスト教徒は数千まで減り、1647年には70人を数えるまで減った[39]。トルコに占領されなかった西側部分はハプスブルク君主国の王領ハンガリーであった。

失敗に終わったブダ包囲の2年後の1686年、一新された戦闘が始まりハンガリーの首都に入って行った。この時、欧州各地から集められた倍の勢力の神聖同盟の74,000の兵士や義勇兵、砲手、将校などのキリスト教勢力がブダやその後の数週間でティミショアラ付近を除いて全ての以前のハンガリーの領土であった地域をトルコから奪い返し再征服した。1699年、カルロヴィッツ条約により領土が変わり正式に認められ、1718年全てのハンガリー王国の領域はトルコ支配から除かれた。街は戦いの間破壊された[3]。ハンガリーはハプスブルク帝国に併合されている[3]。

19世紀、ハンガリー人は独立への闘争[3]と近代化が占めていた。ハプスブルクに対する反発が始まり、1848年にはハンガリー革命が起こるが約1年後に破れている。





オーストリ=ハンガリー帝国により建てられたハンガリー国立歌劇場
1867年のアウスグライヒはオーストリア=ハンガリー帝国の誕生をもたらした。





世界で2番目に地下鉄が建設されたブダペスト




1930年頃のブダ城




1919年のハンガリー評議会共和国時代
ブダペストは二重君主制の一方の首都となった。ブダペストの歴史の中で第一次世界大戦まで続く2番目に大きな街の開発に道を開いたのはこの歩み寄りによる。1873年、ブダとペストは公式に合併し古いブダであるオーブダも合併され新しい大都市ブダペストが誕生した。ペストは国の行政や政治、経済、交易、文化の中枢へと劇的に成長した。民族的にもマジャル人がドイツ人を追い越したが、これは19世紀半ばにトランシルバニアやハンガリー大平原からの大規模な流入人口による。1851年から1910年にかけマジャル人の割合は35.6%から85.9%に増加し、言語の面でもハンガリー語がドイツ語に代わり主要な言語になった。ユダヤ人人口のピークは1900年で23.6%を占め[40][41][42]、19世紀から20世紀の変わり目にはユダヤ人の大きなコミュニティが隆盛し、ブダペストはしばしば「ユダヤ人のメッカ」と呼ばれた[43]。

20世紀から現代まで[編集]

1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は戦争により解体され、ハンガリーはハンガリー王国として独立を宣言した。1920年のトリアノン条約によって最終的にハンガリーは3分の2の領土を失い、マジャル人の人口も3,300万人から1,000万人と領土と同様に失っている[44][45]。

1944年、第二次世界大戦末期にブダペストは部分的にイギリスとアメリカの空襲による爆撃を受け破壊されている。1944年12月24日から翌年の2月3日にかけブダペスト包囲戦により包囲された。ブダペストはソビエトやルーマニアの軍隊とナチスやハンガリーの軍隊の戦いにより大きな損害を被っている。全ての橋はドイツにより破壊され、38,000人の市民はこの戦いにより命を落とした。





ドナウ川河岸の第二次世界大戦のユダヤ人記念物
20-40%に当たる250,000人のブダペスト大都市圏のユダヤ人人口はナチスと矢十字党による1944年と1945年初めの時期にホロコーストに遭い命を落とした[46]。スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグはブダペストの数万人のユダヤ人の生命をどうにかして救うためスウェーデンのパスポートを交付し領事の保護下に置く行動を起こした[47]。

1949年、ハンガリーは共産主義の人民共和国として独立を宣言した。新しい共産主義政府はブダ城のような建物を前支配者のシンボルと考え、1950年代に宮殿を破壊し全てのインテリアを壊している。1956年にブダペストでは平和的なデモによりハンガリー動乱が起こった。指導者層はデモを終息させようとしたが、大規模なデモは10月23日に始まった。しかし、ソビエトの戦車がブダペストに侵攻しデモ参加者を潰しにかかっている。戦いは11月初めまで続き、3,000人以上が死亡している。1960年代から1980年代後半までのハンガリーは良く東側諸国からグヤーシュコミュニズム(英語版)(幸せなバラック)と呼ばれ都市の戦時中の被害は最終的に全て修復された。エリザベート橋の再建は1964年に完成している。1970年代初期にはブダペスト地下鉄の東西方向を結ぶ2号線の最初の区間が開業し、3号線が1982年に開業した。1987年にブダ城とドナウ川沿いの建物を含めてユネスコの世界遺産に登録された。2002年にはブダペスト地下鉄 (Millennium Underground Railway) や英雄広場、都市公園 (Városliget) を含めたアンドラーシ通りが世界遺産の登録リストに追加された。1980年代にブダペストの市域人口は210万人に達している。現在では市域人口は減少し、郊外部のペシュト県への人口集中が進んでいる。20世紀の最後の10年間の初めの1989年から1990年にかけては政治体制が大きく変わり、社会の体制も大きく変化し独裁者の記念物は公共の空間から倒された。新しい政治体制に変わってからの1990年から2010年までの20年間、ブダペストの市長として街の開発や市政を担ったのはガボール・ダムスキー(英語版)である。

地理[編集]

地勢[編集]





SPOTによるブダペストの衛星写真
市域面積は525平方キロメートルでブダペストはハンガリーの中央部に位置し、周辺部はペシュト県の市街のアグロメレーション(密集地)である。ブダペストは東西南北に25-29kmの範囲でそれぞれ広がり、ドナウ川は市街地の北側から入り込みオーブダ島とマルギット島の2つの島を回り込む。チェペル島はブダペストのドナウ川にある島では最大であるが、市域に含まれるのは北端の部分だけである。ドナウ川は2つの部分に分けられ、ブダペストには川幅が僅か230mの箇所もある。ペストは平坦な地勢の場所にあり、ブダは丘がちな地勢である[3]。ペストの地勢は僅かに東側に上りの傾斜があり市の最も東側の部分の標高はブダの良く知られた小さな丘であるゲッレールト丘 (Gellért) や城の丘と同じ程度である。ブダの丘は石灰岩や苦灰岩で主に構成され、水により二次生成物が作られる。ブダペストで有名なものにはパルヴギ窟 (Pálvölgyi) やセムルへギ窟 (Szemlőhegyi) がある。丘は三畳紀に形成され、ブダペストで一番高い地点は海抜527mのヤーノシュ山である。一番低い地点はドナウ川の地点で海抜96mである。ブダの丘陵地の森林は環境保護が成されている。

気候[編集]

ブダペストの気候は大陸性気候に属し、比較的寒い冬がやって来て地中海性気候のような乾燥した夏がやって来る。


ブダペストの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




最高気温記録 °C (°F)
18.1
(64.6) 19.7
(67.5) 25.4
(77.7) 30.2
(86.4) 34.0
(93.2) 39.5
(103.1) 40.7
(105.3) 39.4
(102.9) 35.2
(95.4) 30.8
(87.4) 22.6
(72.7) 19.3
(66.7) 40.7
(105.3)

平均最高気温 °C (°F)
1.2
(34.2) 4.5
(40.1) 10.2
(50.4) 16.3
(61.3) 21.4
(70.5) 24.4
(75.9) 26.5
(79.7) 26.0
(78.8) 22.1
(71.8) 16.1
(61) 8.1
(46.6) 3.1
(37.6) 15.0
(59)

日平均気温 °C (°F)
−1.6
(29.1) 1.1
(34) 5.6
(42.1) 11.1
(52) 15.9
(60.6) 19.0
(66.2) 20.8
(69.4) 20.2
(68.4) 16.4
(61.5) 11.0
(51.8) 4.8
(40.6) 0.4
(32.7) 10.4
(50.7)

平均最低気温 °C (°F)
−4.0
(24.8) −1.7
(28.9) 1.7
(35.1) 6.3
(43.3) 10.8
(51.4) 13.9
(57) 15.4
(59.7) 14.9
(58.8) 11.5
(52.7) 6.7
(44.1) 2.1
(35.8) −1.8
(28.8) 6.3
(43.3)

最低気温記録 °C (°F)
−25.6
(−14.1) −23.4
(−10.1) −15.1
(4.8) −4.6
(23.7) −1.6
(29.1) 3.0
(37.4) 5.9
(42.6) 5.0
(41) −3.1
(26.4) −9.5
(14.9) −16.4
(2.5) −20.8
(−5.4) −25.6
(−14.1)

降水量 mm (inch)
38.5
(1.516) 36.7
(1.445) 37.4
(1.472) 47.2
(1.858) 64.5
(2.539) 69.8
(2.748) 50.4
(1.984) 49.5
(1.949) 42.7
(1.681) 46.9
(1.846) 59.9
(2.358) 49.3
(1.941) 592.8
(23.339)

平均降水日数
7 6 6 6 8 8 7 6 5 5 7 7 78

平均月間日照時間
55 84 137 182 230 248 274 255 197 156 67 48 1,933
出典: www.met.hu[48]

経済[編集]





INGの建物




リヒター投資開発の建物
ブダペストは中央ヨーロッパの金融の中心でもあり[49]、マスターカードによるエマージング・マーケット(新興国市場)指標によると65都市中3位にランクされている他[50]、エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによるクオリティ・オブ・ライフの指標では中・東ヨーロッパでは最も住むのに適した都市とされている[51][52]。フォーブスによればヨーロッパでは7番目に住むのにはのどかな場所とされ[53]、UCityGuidesによれば世界で9番目に美しい街とされている[54]。中・東ヨーロッパでは革新的な100都市の指標で最高のランクをブダペストは付けている[55][56]。

ブダペストには 欧州連合の機関である欧州工科大学院 (EIT) が本拠地を置いている。 ブダペストは工業化により世界都市となった。1910年には人口の45.2%が工場労働者であった。1960年代にはハンガリーはヨーロッパでも最大規模の工業都市の一つで60万人の工場労働者がいた。1920年代から1970年代にかけてハンガリーの工業出荷額の半数以上をブダペストが占め、金属加工のFÉGや織物産業、自動車産業のIkarus Busなどは構造変化前のブダペストの産業の主要な部門を占めた[57]。現在、ブダペストではすべての産業の分野が見られる。ブダペストの現在の主要な部門は通信技術、コンピュータアプリケーション、電機、白熱灯などの照明器具である。製薬業もブダペストにおいては重要で Egis、Gedeon Richter Ltd.、Chinoinなどハンガリーの企業は知られている。テヴァ製薬産業もブダペストに部門を置いている。

工業は比較的郊外に立地しており、中心部はハンガリーテレコムやゼネラル・エレクトリック、ボーダフォン、Telenor、オーストリアのエルステ銀行、ハンガリーのCIB銀行、 K&H、ユニクレジット、ブダペスト銀行、INGグループ、アエゴン保険、アリアンツ、ボルボ等々、国内外の様々な大手企業が立地している。ブダペストはサービス、金融、コンサルティング、金融取引、商業、不動産など第三次産業の中心地である。取引やロジスティクスは良く発達し、観光や飲食業界も進んでおり市内には数千のレストランやバー、カフェ、パーティー施設が立地する。

観光[編集]

国会議事堂はネオ・ゴシックの建築様式で、聖イシュトヴァーンの王冠や剣、宝石、王笏など代々ハンガリー王が受け継いで来た戴冠用の品も展示されている。聖イシュトバーン大聖堂にはイシュトヴァーン1世の右手が、聖遺物として残されている。ハンガリー料理やカフェ文化はGerbeaud Café、Százéves、Biarritz、Arany Szarvas、世界的に有名な Mátyás Pinceなどが代表的である。アクインクム博物館にはローマ時代の遺構が残されており、歴史的な家具が ナジテーテーニ城博物館に残されている。ブダペストには200以上の博物館がある。

ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通りは世界遺産に登録されている。王宮の丘には3つの教会と6つの博物館、興味を惹く様々な建物、通りや広場がある。王宮はハンガリーを象徴するもので、13世紀以来戦いの舞台であった。今日では二つの印象的な博物館や国立セーチェーニ図書館がある。 シャンドール宮殿にはハンガリー大統領の執務室や官邸が含まれている。700年の歴史があるマーチャーシュ聖堂はブダペストでも貴重なものの一つで、その隣にある乗馬の彫像はハンガリーの初代国王で漁夫の砦からは市街地のパノラマを一望することができる。トゥルルの像はハンガリーの神話の守護鳥で王宮地区と12区で見ることができる。





聖イシュトヴァーンの王冠
ペスト側で最も重要な見所はアンドラーシ通りでコダーイ・コロンドとオクトゴンの間には多くのショップやフラットな建物が林立している。英雄広場と通りの間は庭園により分けられている。また、アンドラーシ通りの下には欧州大陸では初の地下鉄が通っておりほとんどの駅は開業当時の姿を保っている。ブダペストにはヨーロッパでは最大規模のシナゴーグがある[58]。ブダペスト市内にはユダヤ人地区のいくつかにそれぞれシナゴーグが置かれている。2010年にブダペストでは世界最大のパノラマ写真が撮られた[59]。

世界遺産[編集]

詳細は「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」を参照

世界遺産登録対象に含まれる主要建造物群は以下の通りである。
王宮の丘 ブダ城
マーチャーシュ聖堂
三位一体広場
漁夫の砦

ゲッレールトの丘とその周辺 ツィタデッラ
自由の像
ゲッレールト温泉
ルダッシュ温泉
ラーツ温泉

橋 マルギット橋
セーチェーニ鎖橋
エルジェーベト橋

ペシュトのドナウ河岸 国会議事堂
ハンガリー科学アカデミー
ヴィガドー(コンサートホール)
旧市街聖堂

アンドラーシ通り ハンガリー国立歌劇場
ブダペスト地下鉄1号線

英雄広場

その他の名所[編集]
ヴァーロシュリゲット セーチェーニ温泉

聖イシュトバーン大聖堂




温泉[編集]

ブダペストに温泉がある理由の一つに古代ローマが最初にこの地域を植民化しドナウ川の直ぐ西側に地域の首府となるアクインクム(現代のブダペスト北部のオーブダ)を創建したことに遡る。ローマ人たちは熱水を利用し、享受しており当時巨大な浴場を建設していた。現代でもその遺構を見ることができる。新しい浴場は1541年-1686年のオスマン帝国支配期に入浴と医療的な目的で建設され、今日でも利用されている。ブダペストは「スパの街」と言う定評を受けており、1920年代に最初の温泉による訪問客による経済的な恩恵を達成した。1934年には正式にブダペストは「スパの街」の地位を占めるようになった。今日、温泉はほとんどが年配者に良く利用され「マジックバス」と"Cinetrip" を除いて若い人たちは夏に開かれるlidosを好む。キラーイ温泉 (Király) は1565年に創建され、現代の建物はほとんどがトルコ支配期に遡り、ドーム状の屋根のプールも含まれる。ルダシュ温泉は中心部にあり、ゲッレールト丘とドナウ川の狭い場所に位置し、トルコ支配期に遡る建物が目立つ。主な特徴は八角形のプールで、光輝く直径10mのドーム状屋根を8本の柱が支えている。

ゲッレールト温泉とホテルゲッレールトは1918年に建てられかつてはトルコの温泉と中世期の病院がこの地にあった。1927年に浴場が拡張され、その中には波のプールが含まれ1934年には発泡風呂が加えられた。新古典主義の特徴が良く残され、色鮮やかなモザイクや大理石の柱、ステンドグラスの窓、彫像が含まれる。ルーカチュ温泉 (Lukács) もまたブダにあり、トルコの温泉を元とし唯一19世紀後半に復活した温泉である。スパと医療施設が設立されている。19世紀末の退廃的な雰囲気 (fin-de-siècle) が今でも残されている。1950年代以来、芸術家や知識人の中心と見なされている。

セーチェニ温泉はヨーロッパでも最大規模の複合温泉施設の一つで、ペスト側では唯一設けられた古い医療用の温泉である。内部の医療用温泉は1913年に遡り、屋外のプールは1927年に遡る。雄大な雰囲気があり、すべての場所は明るく巨大なプールはローマ風呂のようで小規模な浴場はギリシャの風呂文化を思い出させ、サウナと飛び込み用のプールは伝統的なスカンジナビアの発散する方法を借りてきている。屋外の3つのプールは冬季を含め年間を通して開いている。屋内のプールは10以上に分かれており、医療用に利用できる。

ハンガリー







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曖昧さ回避 フランツ・リストの交響詩については「ハンガリー (リスト)」をご覧ください。


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ハンガリーMagyarország

ハンガリーの国旗

ハンガリーの国章

(国旗) (国章)
国の標語:なし国歌:賛称(神よマジャル人を祝福し賜え)ハンガリーの位置

公用語
ハンガリー語(マジャル語)

首都
ブダペスト(ブダペシュト)

最大の都市
ブダペスト(ブダペシュト)
政府

大統領
アーデル・ヤーノシュ

首相
オルバーン・ヴィクトル
面積

総計
93,030km2(107位)

水面積率
0.7
人口

総計(2011年)
9,985,722人(80位)

人口密度
108人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年)
26兆7,000億[1]フォリント
GDP(MER)

合計(2005年)
1,562億[1]ドル(44位)
GDP(PPP)

合計(2003年)
1,960億[1]ドル(48位)

1人あたり
19,499[1]ドル


オーストリア・ハンガリー帝国から独立
ハンガリー王国成立
ソビエト連邦による占領
第三共和国成立
1918年10月31日
1920年3月1日
1945年5月8日
1989年10月23日

通貨
フォリント(HUF)

時間帯
UTC +1(DST:+2)

ISO 3166-1
HU / HUN

ccTLD
.hu

国際電話番号
36

ハンガリーは、中央ヨーロッパの共和制国家である。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国であり、首都はブダペスト。

国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる[2]。首都ブダペスト(ブダペシュト)にはロンドン、イスタンブルに次いで世界で3番目に地下鉄が開通した。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年)
2.2 ハンガリー民主共和国時代(1918年 - 1919年)
2.3 ハンガリー・ソビエト共和国時代(1919年 - 1919年)
2.4 ハンガリー王国時代(1920年 - 1946年)
2.5 戦後から社会主義時代(1945年 - 1989年)
2.6 第三共和国(1989年 - 現在)

3 政治 3.1 主な政党
3.2 その他特筆すべき政党

4 軍事
5 地方行政区分 5.1 主要都市

6 地理
7 経済 7.1 工業
7.2 鉱業
7.3 ハンガリーの通貨単位の変遷

8 国民
9 文化 9.1 食文化
9.2 文学
9.3 哲学
9.4 音楽
9.5 科学
9.6 温泉文化
9.7 世界遺産
9.8 祝祭日
9.9 スポーツ

10 参考文献
11 脚注
12 関連項目 12.1 一覧

13 外部リンク


国名[編集]

正式名称はハンガリー語で Magyarország。公式の英語表記は Hungary。

日本語の表記はハンガリー。漢字表記では洪牙利で、洪と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。

ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指すMagyar は日本では「マジャール」と表記されることが多い。実際の音では伸ばさず「マジャル」となる。

歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。

「ハンガリー」は俗説にあるような「フン族」が語源ではなく、「ウンガルン」(独: Ungarn)、「ウガリア」(希: Ουγγαρία)に見られるように元々は語頭の h がなかった。語源として一般に認められているのは、7世紀のテュルク系の Onogur という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。

2012年1月1日より新たな憲法「ハンガリー基本法」が施行され国名が変更された[3]。
1989年 - 2011年 ハンガリー共和国(Magyar Köztársaság(マジャル ケスタールシャシャーグ))
2012年 - ハンガリー(Magyarország(マジャルオルサーグ))

歴史[編集]

詳細は「ハンガリーの歴史」を参照

ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。

古代にはパンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入。1世紀中頃属州パンノニアに分離された。4世紀後半にはフン族が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。





12世紀のハンガリー王国
フン族はその後アキラ(日本では一般的にアッティラ)の時代に現在のハンガリーだけではなくローマ帝国の一部も支配下に収めたが、アキラが40歳で死亡した後、後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。その後、8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、フランク王国はほどなく後退し、9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。

ハンガリー王国時代(1000年 - 1918年)[編集]

10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来(モヒの戦い)を受け大きな被害を受けた。14世紀から15世紀頃には周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。

1396年、オスマン帝国とのニコポリスの戦いで敗北。フス戦争(1419年 - 1439年)。15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになった。1526年には、モハーチの戦いに敗れ、国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)、両帝国のぶつかりあう最前線となった。

三十年戦争(1618年 - 1648年)には、プロテスタント側にトランシルヴァニア公国が、カトリック側に王領ハンガリーが分裂して参加。

1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲された。ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。





オーストリア=ハンガリー帝国におけるハンガリー(赤、1914年)
1848年の3月革命では、コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年にキエッジェズィーシュ(和協)が結ばれた。これにより、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の体制下、資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。

ハンガリー民主共和国時代(1918年 - 1919年)[編集]

1918年10月31日にアスター革命(ハンガリー語版)(ハンガリー語: Őszirózsás forradalom)でハンガリー初の共和制国家であるハンガリー民主共和国が成立し、社会民主党系のカーロイ・ミハーイ (en) が初代大統領及び首相を務める。

ハンガリー・ソビエト共和国時代(1919年 - 1919年)[編集]

1919年3月、ハンガリー共産党のクン・ベーラによるハンガリー革命(英語版)が勃発し、クン・ベーラを首班とするハンガリー・ソビエト共和国(3月21日 - 8月6日)が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される(ハンガリー・ルーマニア戦争)。

ハンガリー王国時代(1920年 - 1946年)[編集]





ハンガリー王国 (1920-1946)。黄が1920年、緑が1941年の領域。
1920年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として統治するハンガリー王国の成立が宣言された。1920年6月4日に結ばれたトリアノン条約により、ハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうち、面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。領土を失った反動、周囲の旧連合国からの孤立などの要因から次第に右傾化した。

1930年代後半からはナチス・ドイツと協調するようになり、1938年のミュンヘン協定、ハンガリーのカルパト・ウクライナへの侵攻(英語版)[4]、1939年のスロバキア・ハンガリー戦争(英語版)、二度のウィーン裁定等で一部領土を回復した。第二次世界大戦では領域拡大とナチス・ドイツからの圧迫を受けて枢軸国に加わり、独ソ戦などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、1944年にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが、ナチス・ドイツ軍と矢十字党によるクーデター(パンツァーファウスト作戦)で阻止されて失脚した。かわって矢十字党の国民統一政府(英語版)が成立、1945年5月8日の敗戦まで枢軸国として戦うことになった。一方でソビエト連邦軍の占領区域では、軍の一部や諸政党が参加したハンガリー国民臨時政府(ハンガリー語版)が樹立され、戦後ハンガリー政府の前身となった。1945年4月4日には、ハンガリー全土からドイツ軍が駆逐され、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏した。

戦後から社会主義時代(1945年 - 1989年)[編集]





首都ブダペストを制圧するソ連軍(ハンガリー動乱)
1946年2月1日には王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかしソビエト連邦の占領下におかれたハンガリーでは、共産化の影響力が次第に高まりつつあった。1947年2月にはパリ条約によって連合国と講和し、占領体制は一応終結したが、ソ連軍はそのまま駐留し続けることになった。ハンガリー共産党は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、1949年にハンガリー人民共和国が成立。ハンガリー共産党が合同したハンガリー勤労者党による一党独裁国家としてソビエト連邦の衛星国となり、冷戦体制の中では東側の共産圏に属した。しかし、ソビエト連邦に対する反発も根強く、1956年にはハンガリー動乱が起こったが、ソビエト連邦軍に鎮圧された。勤労者党はハンガリー社会主義労働者党に再編され、カーダール・ヤーノシュによるグヤーシュ・コミュニズム(英語版)と呼ばれる比較的穏健な社会主義政策がとられた。

1980年代後半になると、ソビエト連邦のペレストロイカとともに、東欧における共産党独裁の限界が明らかとなった。社会主義労働者党内でも改革派が台頭し、ハンガリー民主化運動が開始され、1989年2月には憲法から党の指導性を定めた条項が削除された。5月には西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。また6月には複数政党制を導入し、社会主義労働者党もハンガリー社会党に改組された。

第三共和国(1989年 - 現在)[編集]

1989年10月23日、ハンガリー共和国憲法施行により、多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立した。1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構 (NATO) に、2004年に欧州連合 (EU) に加盟した。

ハンガリー第三共和国の国旗と国章では、ファシズム体制を敷いた矢十字党の「矢印十字」の紋章と、共産党時代の「赤い星」の紋章が消去されている。又、ナチスドイツ、矢十字党、ソビエト連邦、共産党一党独裁による圧制の反動から、「鉤十字」「矢印十字」「鎌と槌」「赤い星」の使用が、1993年の改正刑法にて禁止されている[5]。2008年にはバルト三国全域で、2009年11月にはポーランド第三共和国で、「鉤十字」と「鎌と槌」の両方を禁止する法律が可決された。

2011年に新憲法「ハンガリー基本法」への改正が行われた。

政治[編集]





ブダペストの国会議事堂
ハンガリーの大統領は任期5年で議会によって選ばれるが、首相を任命するなど、儀礼的な職務を遂行するのみの象徴的な元首である。実権は議院内閣制をとる首相にあり、自ら閣僚を選んで行政を行う。

「ハンガリーの国家元首一覧」および「ハンガリーの首相一覧」も参照

立法府の国民議会 (Országgyűlés) は一院制、民選で、任期は4年、定員は386人である。国民議会は国家の最高権威機関であり、全ての法は国民議会の承認を経なければ成立しない。

純粋に司法権を行使する最高裁判所とは別に憲法裁判所が存在し、法律の合憲性を審査している。

主な政党[編集]

詳細は「ハンガリーの政党」を参照
ハンガリー社会党 (MSZP)(中道左派・社会民主主義、ハンガリー社会主義労働者党の後身)
自由民主同盟 (SZDSZ)(リベラリズム・社会自由主義)
フィデス=ハンガリー市民同盟 (FIDESZ-MPSZ)(中道右派・保守主義・キリスト教民主主義)
キリスト教民主国民党 (KDNP)
ハンガリー民主フォーラム (MDF)(中道右派・保守主義・キリスト教民主主義)

その他特筆すべき政党[編集]
インターネット民主党 (IDE)(直接民主主義)
よりよいハンガリーのための運動 (Jobbik)(急進派民族主義・欧州懐疑主義・キリスト教民主主義、MIÉP – Jobbik a Harmadik Útの後身)

軍事[編集]





ハンガリー空軍のサーブ 39 グリペン
詳細は「ハンガリー国防軍」を参照

内陸国であるため海軍は持たず、現在の国軍は、陸軍及び空軍の二軍からなる。1999年に北大西洋条約機構に加盟し、西欧諸国と集団安全保障体制をとっている。

軍の歴史は長く、第一次世界大戦時にはオーストリア=ハンガリー二重帝国として中央同盟軍の一角を占めていた。戦後の独立ハンガリーは1920年のトリアノン条約により兵力を制限されていた。その反動もあって第二次世界大戦時には枢軸国として参戦し、東部戦線にも兵力を出している。1945年にはソ連軍に占領され、冷戦時には共産圏国家として、ワルシャワ条約機構に加盟していた。

地方行政区分[編集]

詳細は「ハンガリーの地方行政区画」を参照

ハンガリーは40の地方行政区分に区分される。うち19は郡とも県とも訳されるメジェ (megye) で、20はメジェと同格の市という行政単位(正確には都市郡; megyei város)。なお首都のブダペスト市はいずれにも属さない、独立した自治体である。





ハンガリーの地理西部 ヴァシュ県の旗 ヴァシュ県(ソンバトヘイ)
ザラ県の旗 ザラ県(ザラエゲルセグ)
ショモジ県の旗 ショモジ県(カポシュヴァール)
ヴェスプレーム県の旗 ヴェスプレーム県(ヴェスプレーム)
ジェール・モション・ショプロン県の旗 ジェール・モション・ショプロン県(ジェール)

中部 コマーロム・エステルゴム県の旗 コマーロム・エステルゴム県(タタバーニャ)
フェイェール県の旗 フェイェール県(セーケシュフェヘールヴァール)
ペシュト県の旗 ペシュト県(ブダペシュト)
ノーグラード県の旗 ノーグラード県(シャルゴータールヤーン)

南部 トルナ県の旗 トルナ県(セクサールド)
バラニャ県の旗 バラニャ県(ペーチ)
バーチ・キシュクン県の旗 バーチ・キシュクン県(ケチケメート)
チョングラード県の旗 チョングラード県(セゲド)

東部 ベーケーシュ県の旗 ベーケーシュ県(ベーケーシュチャバ)
ヘヴェシュ県の旗 ヘヴェシュ県(エゲル)
ハイドゥー・ビハール県の旗 ハイドゥー・ビハール県(デブレツェン)
ヤース・ナジクン・ソルノク県の旗 ヤース・ナジクン・ソルノク県(ソルノク)
サボルチ・サトマール・ベレグ県の旗 サボルチ・サトマール・ベレグ県(ニーレジハーザ)
ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県の旗 ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県(ミシュコルツ)


旧ハンガリー王国の領土(大ハンガリー)に含まれた地域については、ハンガリー王国の歴史的地域を参照。

主要都市[編集]



都市



人口(2005年)


1
ブダペスト − 1,702,297

2
デブレツェン ハイドゥー・ビハール県 204,297

3
ミシュコルツ ボルショド・アバウーイ・ゼムプレーン県 171,096

4
セゲド チョングラード県 167,039

5
ペーチ バラニャ県 156,649

6
ジェール ジェール・モション・ショプロン県 128,808

7
ニーレジハーザ サボルチ・サトマール・ベレグ県 116,298

8
ケチケメート バーチ・キシュクン県 109,847

9
セーケシュフェヘールヴァール フェイェール県 101,755

地理[編集]





ハンガリーの地形
ハンガリーの国土はカルパティア山脈の麓に広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。ハンガリー平原またはハンガリー盆地と呼ばれる国土の中心は、中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、東には大きな支流のティサ川も流れている。国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖であるバラトン湖がある。また各地に温泉が湧き出ており、公衆浴場が古くから建設・利用されてきた。ヨーロッパ有数の「温泉大国」であり、多くの観光客が温泉目当てに押し寄せる。 トランシルヴァニア地方など、ルーマニアとの国境係争地帯を持っている。

大陸性気候に属する気候は比較的穏やかで、四季もある。緯度が比較的高く、冬は冷え込むが、地中海から海洋性気候の影響を受け、冬も湿潤で、曇りがちである。年間平均気温は10度前後。





ドナウ川



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Hortobagy-ziehbrunnen.jpg



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ケレシュ山



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Diosgyorvar.jpg


経済[編集]





首都ブダペスト
ハンガリーは1989年の体制転換以来、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めた。その結果、1997年以降年間4%以上の高成長を続けるとともに、2004年には経済の民間部門が国内総生産 (GDP) の80%以上を占め、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほどであった。また2004年の欧州連合加盟は、当時のハンガリー経済にとって追い風になった。

しかしその後、インフレーションと失業率が増加して貧富の差が広がり、社会問題として常態化した。また巨額の財政赤字も重要な課題であり、現政権が目標とするユーロ導入への見通しは立っていない。

伝統的な産業ではアルコールが強い。特にワインは有名で、ブルゲンラント、ショプロン、ヴィッラーニなど著名な産地があるが、中でもトカイのトカイワインはワインの王と言われる。農業ではパプリカが名産品で、ハンガリー料理にもふんだんに使われる。ガチョウの飼育も盛んであり、ドナウ川西岸(ドゥナーントゥール(ハンガリー語版)地方)が主産地である。ハンガリー産のフォアグラもよく輸出されている。


工業[編集]





北部の都市エステルゴムにあるスズキ工場は6千人の従業員を抱える。
第二次世界大戦前のハンガリーは肥沃な土壌と計画的な灌漑設備により、農業国として成立していた。そのため、食品工業を中心とした軽工業が盛んであった。第二次世界大戦後、社会主義下の計画経済によって重工業化が進められた。特に、車両生産、一般機械が優先され、化学工業、薬品工業がそれに次いだ。しかし、有機鉱物資源とボーキサイトを除くと、工業原材料には恵まれておらず、輸入原材料を加工し、輸出するという形を取った。1970年代には工業を中心とする貿易が国民所得の40%を占めるまで成長した。

共産主義体制から資本主義体制に転換後、1990年代初頭においては、化学工業の比重が次第に大きくなっていく傾向にあった。2003年時点では、全産業に占める工業の割合がさらに高まっており、輸出額の86.8%を工業製品が占めるに至った。さらに貿易依存度は輸出54.5%、輸入59.2%まで上がっている。品目別では機械工業が再び盛んになっており、輸出に占める比率は電気機械36.1%、機械類16.2%、自動車8.2%というものである。世界シェアに占める比率が高い工業製品は、ワイン(1.7%、49万トン)、硝酸(1.5%、31万トン)である。

鉱業[編集]

ハンガリーの鉱業は、燃料に利用できる亜炭とボーキサイトが中核となっている。有機鉱物資源では、世界シェアの1.5%を占める亜炭(1391万トン、2002年)、原油(107万トン)、天然ガス(115千兆ジュール)を採掘する。有力な炭田は南東部ベーチ近郊、首都ブダペストの西方50kmに位置するタタバーニャ近郊の2か所に広がる。油田は中央南部セゲド近郊と、スロベニア、クロアチア国境に接する位置にある。

金属鉱物資源ではボーキサイト(100万トン)が有力。バラトン湖北岸からブダペストに向かって北東に延びる山地沿いで採掘されている。ただし、採掘量は減少傾向にある(1991年には203.7万トンが採掘されていた)。この他、小規模ながらマンガンとウランの採掘も見られる。

ハンガリーの通貨単位の変遷[編集]
フォリント / フィッレール(現行)
ペンゲー
フロリン
クライツァール

国民[編集]



民族構成(ハンガリー)


マジャル人

95%
ドイツ人

1%
その他

4%

ハンガリー共和国の国民の95%以上はマジャル人(ハンガリー人)である。マジャル人はフィン・ウゴル語族のハンガリー語(マジャル語)を母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた民族である。マジャル人の人名は、正式に表記した際に姓が名の前に付く。 なお、この姓に関しては、婚姻の際には、自己の姓を使い続ける(夫婦別姓)、夫婦同姓、あるいは(間にneをはさんだ)結合姓のいずれでも選択可能である。





ハンガリー語話者の分布
マジャル人は旧ハンガリー王国領に広まって居住していたため、セルビアのヴォイヴォディナ、クロアチア北部、スロバキア南部、ルーマニアのトランシルヴァニアなどにもかなりのマジャル人人口が残る。また、マジャル人の中にはモルダヴィアのチャーンゴー、トランシルヴァニアのセーケイや、ハンガリー共和国領内のヤース、マチョー、クン、パローツなどの文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人がアラン人の末裔、クン人がクマン人の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。

その他の民族では、有意の人口を有するロマ(ジプシー)とドイツ人が居住する。ハンガリー科学アカデミーの推計では人口約1000万人のうち約60万人がロマとされる。また、ドイツ人は東方植民地運動の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニアのサース人(ザクセン人)やスロヴァキアのツィプス・ドイツ人のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。

その他の民族では、ルテニア人(ウクライナ人)、チェコ人、クロアチア人、ルーマニア人などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、ユダヤ人人口もかなりの数にのぼったが、第二次世界大戦中の迫害などによってアメリカ合衆国やイスラエルに移住していった人が多い。

ハンガリー人が黄色人種であるという説は、アジアおよびアジア人の定義が曖昧であること、また、過去の人種の定義が現在とは多少異なることからくる誤謬であると言える。

近年の DNA 分析によるとハンガリー人はコーカソイド(白人)に分類されるが、わずかにモンゴロイド(黄色人種)特有のアセトアルデヒド脱水素酵素D型が検出されることから、モンゴロイドとの混血により遺伝子の流入があったと考えられる[6]。

言語的には、ハンガリー語が優勢で、少数民族のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%にのぼる。

宗教はカトリック (67.5%) が多数を占め、カルヴァン派もかなりの数にのぼる (20%) 。その他ルター派 (5%) やユダヤ教 (0.2%) も少数ながら存在する。


文化[編集]





フランツ・リスト
詳細は「ハンガリーの文化」を参照

食文化[編集]

詳細は「ハンガリー料理」を参照

トルテやクレープに似たパラチンタなど、食文化はオーストリアと共通するものが多いが、ハンガリーの食文化の特色は乾燥させて粉にしたパプリカの多用と種類の豊富なダンプリングにある。パプリカを用いた煮込み料理グヤーシュは世界的に有名である。ドナウ川西岸のドゥナーントゥール地方では、古くからフォアグラの生産が盛んである。

ワインの生産も盛んで、トカイワインなどが有名である。

文学[編集]

詳細は「ハンガリー文学」を参照

哲学[編集]

ハンガリー出身の哲学者として、『歴史と階級意識』でソビエト連邦のマルクス=レーニン主義に対する西欧マルクス主義の基礎を築いたルカーチ・ジェルジの名が特筆される。この他、社会学者のカール・マンハイムや、経済人類学者のカール・ポランニー(オーストリア=ハンガリー帝国時代)がいる。

音楽[編集]

詳細は「ハンガリーの音楽」を参照

ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化を持ち、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団(ロマなど)を担い手とする民族音楽は有名である。

また、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)、フランツ・レハール、コダーイ・ゾルターン、バルトーク・ベーラなど多数の著名なクラシック音楽の作曲家も輩出した。多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲した音楽家も多い。また指揮者のゲオルグ・ショルティやピアニストのアンドラーシュ・シフもハンガリー出身である。

科学[編集]





ルービックキューブ。Play
ハンガリーは歴史的に多数の科学者を輩出している。ナチスの迫害から逃れるため、米国に亡命した科学者はコンピュータの開発で活躍した。ハンガリーは優れた数学教育で有名であるが、未だフィールズ賞受賞者はいない。有名な数学者にはエルデーシュ・パールやフランクル・ペーテルらがいる。

ハンガリー人は様々な分野で後世に影響を与える発明をしている。ハンガリー人の発明にはルビク・エルネーによるルービックキューブやブローディ・イムレによるクリプトン電球等がある。ハンガリー出身の科学者は核兵器やコンピュータの開発に貢献した。ナイマン・ヤーノシュ(ジョン・フォン・ノイマン)はコンピュータの開発に貢献した。ケメーニィ・ヤーノシュは米国人計算機科学者のトーマス・E・カーツと共に BASIC を開発した。

温泉文化[編集]

ハンガリーでは温泉が湧き出し、温泉文化が古くから伝わっている。ブダペストにおける温泉文化は2000年近くある。ブダペストのオーブダ地区にある、古代ローマ時代のアクインクム遺跡に、ハンガリー最初の温泉浴場が建設された[7]。当時の浴場跡を今日でも見ることができる。オスマン帝国に支配されていたときに、ドナウ川河畔に発達した。

1937年国際沿療学会議ブダペスト大会で、ブダペストは国際治療温泉地に認定され、世界的に温泉に恵まれた首都と呼ばれるに至った[7]。

オスマン帝国時代の建物をそのまま残す、ルダシュ・キーライなどの浴場は、今日でも親しまれている。1913年に作られたセーチェーニー浴場は湯量毎分3700L[7]という豊かな湯量と豪奢な建物で知られている。





ヘーヴィーズ湖
温水湖であるヘーヴィーズ湖は、自然温水湖である。ハンガリーにおいて最も古くから知られており、古代ローマ時代の記録に遡り、2000年の歴史がある。4.4ヘクタール、水深38m、泉質は硫黄、ラジウム、カルシウム、マグネシウム等のミネラルを含む。泉からは大量に湧き出し、48時間で水が入れ替わる。水温は冬は23-25℃、夏は33-36℃である。


世界遺産[編集]

詳細は「ハンガリーの世界遺産」を参照

ハンガリー国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。さらにオーストリアにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。

祝祭日[編集]


日付

日本語表記

ハンガリー語表記

備考

1月1日 元日 Újév
3月15日 1848年の革命と自由戦争記念日 Nemzeti ünnep 1848年の3月革命を記念
移動祝日 イースターおよびイースター・マンデー Húsvétvasárnap, Húsvéthétfő
5月1日 メーデー Munka ünnepe
移動祝日 ペンテコステ Pünkösd 復活祭から50日後
8月20日 建国記念日(聖イシュトヴァーンの祝日) Szent István ünnepe
10月23日 1956年革命、および共和国宣言の記念日 Az 1956-os forradalom ünnepe, A 3. magyar köztársaság kikiáltásának napja 現在のハンガリーでは1956年の動乱は革命と呼ばれている
11月1日 諸聖人の日 Mindenszentek
12月25日、26日 クリスマス Karácsony

スポーツ[編集]





マジック・マジャール時代の主将プシュカーシュ・フェレンツ
詳細は「ハンガリーのスポーツ」を参照

近代オリンピックは夏季冬季共に、第1回から参加している(1920年と1984年は不参加)。フェンシング、射撃、水球、近代五種競技にて特に活躍が見られる[7]。

最も人気のあるスポーツはサッカーである[7]。ナショナルチームは1950年代に世界でも屈指の強豪国として名を馳せた(詳細はサッカーハンガリー代表・マジック・マジャールの項参照)

雪山がほとんどないため、ウインタースポーツは盛んではない。

参考文献[編集]
伊東孝之、萩原直、柴宜弘ほか著 『東欧を知る事典』 平凡社 ISBN 4-582-12630-8

脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
2.^ 農林水産省. “ハンガリーの農林水産業概況 (HTML)”. 2008年8月9日閲覧。
3.^ 在ハンガリー日本国大使館案内. “ハンガリーの国名変更 (HTML)”. 2012年1月15日閲覧。
4.^ ナチス・ドイツ主導によるチェコスロバキア共和国(英語版)解体(チェコスロバキア併合)の課程でカルパト・ウクライナは独立しカルパトのシーチ(ウクライナ語版)軍が守っていたが、独立直後にハンガリー王国はカルパト・ウクライナへ侵攻し、併合した。
5.^ ハンガリー文化センター 2008年7月6日〜12日のニュース
6.^ 『科学朝日』 モンゴロイドの道 朝日選書 (523) より。北方モンゴロイド特有の酒が飲めない下戸遺伝子 日本人: 44%、ハンガリー人: 2%、フィン人: 0% 下戸遺伝子とは、アセトアルデヒド脱水素酵素 (ALDH) の487番目のアミノ酸を決める塩基配列がグアニンからアデニンに変化したもので、モンゴロイド特有の遺伝子であり、コーカソイド(白人)・ネグロイド(黒人)・オーストラロイド(オーストラリア原住民等)には存在しない。よってこの遺伝子を持つということは、黄色人種であるか、黄色人種との混血であることの証明となる[2]。
7.^ a b c d e 田代文雄『東欧を知る事典』692頁

オーストリア

オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、ドイツ語: Republik Österreich、バイエルン語: Republik Östareich、英: Republic of Austria)、通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都はウィーン。

ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。

中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。その後も1938年にナチス・ドイツに併合され、1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復により現在につづく体制となった。

音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は、同言語同民族でありながら複雑な国家関係が続いてきたドイツとの距離が縮まり、国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。

本項では主に1955年以降のオーストリア共和国に関して記述する。それ以前についてはオーストリアの歴史、ハプスブルク君主国、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、第一共和国 (オーストリア)、連合軍軍政期 (オーストリア) を参照。



目次 [非表示]
1 国名 1.1 オーストラリアとの混同
1.2 オーストリー表記

2 歴史
3 政治 3.1 国際関係
3.2 軍事
3.3 行政区分
3.4 オーストリアの地方名
3.5 主要都市

4 地理 4.1 気候

5 経済 5.1 金融

6 交通 6.1 鉄道
6.2 航空

7 国民 7.1 民族
7.2 言語
7.3 宗教

8 文化 8.1 食文化
8.2 音楽 8.2.1 クラシック音楽

8.3 世界遺産
8.4 祝祭日

9 スポーツ
10 著名な出身者
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称は Republik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ)。

通称 Österreich.ogg Österreich(エースターライヒ)[ヘルプ/ファイル]。Ö [øː] は正確には日本語の「エ」ではなく「オ」と「エ」の中間のような音だが、日本語では「エ(ー)」で表記する慣習がある。er は現代の発音では音節末で 「ア」[ɐ](中舌狭めの広母音)となり、 ドイツ語では短母音だが、日本語では「アー」と表記される習慣がある。ウィーンなどの現地では、「エースタ・ライヒ:['ø:stɐraɪç]」と、南ドイツ語の特徴である滑らかな発音をするのが正しいとされる。

公式の英語表記は Republic of Austria。通称 Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国。通称オーストリア。漢字表記では墺太利(略表記:墺)と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記はエースターライヒ、エスタ(ー)ライヒ、または舞台ドイツ語的表記によるエステ(ル)ライヒであり、専門書や各種サイトなどで使用されている。

国名の Österreich は、ドイツ語で「東の国」という意味である。フランク王国のころにオストマルク東方辺境領が設置されたことに由来する。OstmarkとはOst-markで「東方の守り」を意味する(デンマーク(Danmark)の「マーク」と同じ)。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。

ドイツ語のエスターライヒの reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でも Frankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。reich には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。

なお隣国のチェコ語では Rakousko / Rakúsko と呼ぶが、これは国境の地域の名前に由来している。

オーストラリアとの混同[編集]

オーストリア(Austria)はしばしばオーストラリア(Australia)と間違われるが、オーストラリアはラテン語で「南の地」に由来し、オーストリアとは語源的にも無関係である。しかし、綴りや発音が似ているため、多くの国でオーストリアとオーストラリアが混同されることがある。

日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の「オーストラリア大使館」への地図が掲げられている[1]。

2005年日本国際博覧会(愛知万博)のオーストリア・パビリオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアを「オース鳥ア」、オーストラリアを「オース虎リア」と覚える様に呼びかけている。

両国名の混同は日本だけではなく英語圏の国にも広く見られ、聞き取りにくい場合は "European" (ヨーロッパのオーストリア)が付け加えられる場合がある。しばしばジョークなどに登場し、オーストリアの土産物屋などでは、黄色い菱形にカンガルーのシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に、「NO KANGAROOS IN AUSTRIA (オーストリアにカンガルーはいない)」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。

オーストリー表記[編集]

2006年10月に、駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した[2]。オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。

発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使(当時)とエルンスト・ラーシャン商務参事官(商務部の長)の連名(肩書きはすでに「駐日オーストリー大使」「駐日オーストリー大使館商務参事官」だった)で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。

しかし2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した[3]。ただし、オーストリーという表記が広まることにより、オーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。

その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば、2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では、同国を「オーストリア」と表記している[4]。

大使館商務部の公式サイトは、しばらくは一貫して「オーストリー」を使っていた。しかし、2007年のサイト移転・リニューアルと前後して(正確な時期は不明)、大使館商務部のサイトでも基本的に「オーストリア」を使うようになった。「オーストリー」については、わが国の日本語名はオーストリア共和国であると断った上で
オーストリーの使用はそれぞれの企業の判断にゆだねる
マーケティングで生産国が重要な企業にはオーストリーの使用を提案する
「オーストリーワイン」がその成功例である

などと述べるにとどまっている[5]。

日本では雑誌『軍事研究』がオーストリーの表記を一部で用いている。

歴史[編集]

詳細は「オーストリアの歴史」を参照

ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域には様々なケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた[6]。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占めるカランタニア王国(英語版)(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[6]。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった[7]。





1605年の ハプスブルク皇帝の紋章。
オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表している[7]。1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦い(英語版)でフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[8] 。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[8] 。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[9]。

ザルツブルクはザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)が領主となった。

14世紀から15世紀にかけてハプスブルク家はオーストリア公領周辺領域を獲得してゆく。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。

ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも領地を獲得し始める。1477年、フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国のマリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した[10][11]。彼の子のフィリップ美公はカスティーリャとアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得て、更にその領土のイタリア、アフリカ、新世界をハプスブルク家のものとした[10][11]。1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死した後、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[12] オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになり、特に1593年から1606年までは長い戦争(ドイツ語版、トルコ語版、英語版)(Long War)として知られる。





1683年の第二次ウィーン包囲はオスマン帝国のヨーロッパ侵略を打ち砕いた。
宗教改革運動が始まると神聖ローマ皇帝たるハプスブルク家は旧教派の盟主となって新教派と対立、1618年に三十年戦争が勃発する。ドイツを荒廃させた長期の戦争は1648年にウェストファリア条約が結ばれて終結し、これにより神聖ローマ帝国は形骸化してしまった。

レオポルト1世 (1657年–1705年) の長期の治世では、1683年のウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世)[13] に続く一連の戦役(大トルコ戦争、1683年 - 1699年)の結果締結された1699年のカルロヴィッツ条約によりオーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国・スラヴォニアを獲得した。カール6世(1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711–1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに領土と権威を明け渡してしまった。1731年、ザルツブルク大司教領(英語版)(1278年 - 1803年)のザルツブルク大司教フィルミアン男爵レオポルト・アントン・エロイテリウス(英語版)(在位:1727年 - 1744年)によるプロテスタント迫害(de:Salzburger Exulanten)が始まり、2万人と云われる人口流出が起った。多くのプロテスタントを受け入れたプロイセンが大国として台頭することになった。このザルツブルク追放を題材にして、ゲーテは『ヘルマンとドロテーア』を書いた。

カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。プロイセン領となったシュレージエンを巡って再び七年戦争(1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。オーストリアはプロシア、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割(1772年と1795年)に加わった。





ジャン・バティスト・イザベイ作「ウィーン会議」、1819年。
フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、1806年に形骸化していた神聖ローマ帝国は消滅した。この2年前の[14] 1804年、オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における四つの列強国の一つと認められた。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦がつくられる。未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争の為にドイツは統一国家を目指した[15]1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一は大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦の何れかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年にフランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦いシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークから分離させた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。だが、オーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年に普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦い[15] で敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった[16][17]。





18世紀のウィーン。
1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した[18]。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、更にはイタリア人、ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。

この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を尽くそうとした。例えばチスライタニア(オーストリア=ハンガリー帝国におけるオーストリア部分の呼称)における法律と布告(Reichsgesetzblatt)は8言語で発行され、全ての民族は各自の言語の学校で学べ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対に他の民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。





1910年時点のオーストリア=ハンガリーの言語民族地図。
1914年にフランツ・フェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、これが列強諸国を巻き込み第一次世界大戦へ導いてしまった。

4年以上の戦争を戦ったドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり、異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び事実上の降伏をした。直後に革命が起こり、皇帝カール1世は退位して共和制(ドイツオーストリア共和国)に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉した。

1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、その他の領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の1/4程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった[19]。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツオーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。

戦後、オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ、1925年から1929年には経済はやや上向いて来たが、そこへ世界恐慌が起きて再び財政危機に陥ってしまう。

1933年にキリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)[20][21]。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた[22]。対立が高まり内戦(2月内乱)となる[20][21][23]





進駐ドイツ軍を歓迎するウィーン市民。
内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し[24][23]、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にオーストリア・ナチス党のクーデターが起こり暗殺された[25][26]。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した[27]。3月13日にアンシュルス(合邦)が宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。

オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオーストリアをオストマルク州とし[27]、1942年にアルペン・ドナウ帝国大管区と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日、ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カール・レンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し[28] 、4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は260,000人[29] 、ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は65,000人に上っている[30]。

ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領されオーストリア連合国委員会によって管理された[31]。1943年のモスクワ宣言の時から予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり[28]、ドイツ同様に分断される恐れがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた[32]。

冷戦の影響を受け数年かかった交渉の末に1955年5月15日、占領4カ国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言し、これは今日まで続いているが欧州連合への加盟に従い間接的な憲法改正は加えられている[33]。





インスブルックは1964年と1976年のオリンピックを開催している。
第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年及び1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義:Proporz)に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党に党員に平等に分配されるというものである[34]。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者、事業者、農民)の重要性が増し、立法過程に関与するという特徴がある[35]。1945年以降、単独政権は1966年-1970年(国民党)と1970年-1983年(社会党)だけで、他の期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)の何れかになっている。

オーストリアは1995年に欧州連合に加盟した[36]。国民党と社会民主党(旧社会党)は軍事の非同盟政策について異なる意見を持っている。社会党は中立政策を支持し、一方、国民党は欧州連合安全保障体制との一体化を主張している。国民党の議員の中にはNATO加入すら否定しない意見もある。実際にオーストリアは欧州連合の共通外交・安全保障政策に加わっており、いわゆるピーターズバーグ・アジェンダ(平和維持と平和創造を含む)に参加して、NATOの「平和のためのパートナーシップ」のメンバーになっている。これらに伴い憲法が改正されている。シェンゲン協定により、2008年以降、国境管理を行っている隣国はリヒテンシュタインのみとなった。


政治[編集]





ウィーンの国民議会。
政体は連邦共和制。議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか絶対拒否権を行使できない。国家元首の連邦大統領 (Bundespräsident) は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とする連邦会議 (Bundesversammlung) で行われる。連邦会議は非常設の連邦機関で、この他に任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認がある。連邦政府の首班は連邦首相 (Bundeskanzler)。連邦政府 (Bundesregierung) は国民議会における内閣不信任案の可決か、大統領による罷免でしか交代することはない。

政党には、中道右派のオーストリア国民党 (ÖVP)・中道左派のオーストリア社会民主党(SPÖ, 旧オーストリア社会党、1945-91)・極右のオーストリア自由党 (FPÖ)・同党から分かれて成立したオーストリア未来同盟(BZÖ, 自由党の主要議員はこちらに移動した)・環境保護を掲げる緑の党がある。

2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため、2007年まで7年間続いた中道右派・オーストリア国民党と極右派(自由党→オーストリア未来同盟)との連立政権が解消され、中道左派・社会民主党と国民党の大連立に移行した。2008年7月に国民党が連立解消を決め、9月に国民議会選挙が実施された。その結果、社会民主党と国民党の第1党・第2党の関係は変わらなかったものの、両党ともに議席をこの選挙で躍進した極右派の自由党と未来同盟に奪われる形となった。その後およそ2か月にわたる協議を経て、社会民主党と国民党は再び連立を組むこととなった。中道右派、中道左派、極右派は第一共和国時代のキリスト教社会党・オーストリア社会民主労働党・ドイツ民族主義派(諸政党…「農民同盟」、「大ドイツ人党」、「護国団」などの連合体)の3党に由来しており、1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。

国際関係[編集]

オーストリア共和国は第二次世界大戦後の連合国による占領を経て、1955年に永世中立を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。

欧州経済共同体に対抗するために結成された欧州自由貿易連合には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の欧州連合加盟に伴い脱退した。

加盟した欧州連合においては軍事面についても統合がすすめられており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論がおこっている。

歴史的、地理的に中欧・東欧や西バルカンの国と関係が深く、クロアチアなどの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。トルコの欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは1869年に日墺修好通商航海条約を締結して以来友好な関係である。特に音楽方面での交流が盛んである。第一次世界大戦では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った [37]。

軍事[編集]

詳細は「オーストリア軍」を参照

国軍として陸軍および空軍が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6ヶ月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は連邦大統領であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。北大西洋条約機構には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。

行政区分[編集]





オーストリアの地図。




ザルツブルク旧市街。
9つの州が存在する。

詳細は「オーストリアの地方行政区画」を参照


名称

人口(人)

州都/主府/本部

備考

ブルゲンラント州の旗 ブルゲンラント州
Burgenland 277,569 アイゼンシュタット
Eisenstadt
ケルンテン州の旗 ケルンテン州
Kärnten 559,404 クラーゲンフルト
Klagenfurt
ニーダーエスターライヒ州の旗 ニーダーエスターライヒ州
Niederösterreich 1,545,804 ザンクト・ペルテン
St. Pölten
オーバーエスターライヒ州の旗 オーバーエスターライヒ州
Oberösterreich 1,376,797 リンツ
Linz
ザルツブルク州の旗 ザルツブルク州
Salzburg 515,327 ザルツブルク
Salzburg
シュタイアーマルク州の旗 シュタイアーマルク州
Steiermark 1,183,303 グラーツ
Graz
チロル州の旗 チロル州
Tirol 673,504 インスブルック
Innsbruck
フォアアールベルク州の旗 フォアアールベルク州
Vorarlberg 372,791 ブレゲンツ
Bregenz
ウィーンの旗 ウィーン
Wien 1,550,123


オーストリアの地方名[編集]
アルプス山脈
ドナウ川
イン川
ライタ川
ボーデン湖
ノイジートラー湖
ザルツカンマーグート Salzkammergut
ウィーンの森 Wienerwald
ヴァッハウ渓谷 Wachau
グロスグロックナー山

主要都市[編集]





国内最大の都市であるウィーンは国際機関も集積する、欧州有数の世界都市である。


都市



人口(2006)

1 ウィーン 1,680,266
2 グラーツ シュタイアーマルク州 252,852
3 リンツ オーバーエスターライヒ州 188,968
4 ザルツブルク ザルツブルク州 150,269
5 インスブルック チロル州 117,916
6 クラーゲンフルト ケルンテン州 92,404

アイゼンシュタット
クレムス
ザンクト・ペルテン
シュタイアー
バーデン
バート・イシュル
ゼーフェルト
ハルシュタット
ハル
ブラオナオ
ブレゲンツ
マリアツェル
メルク
リエンツ

地理[編集]





オーストリアの地形。




最高峰グロースグロックナー山




オーストリアは1999年よりユーロを導入している。
国土面積は日本の北海道とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈、同山麓、カルパチア盆地 (パンノニア低地) 、ウィーン盆地、北部山地 (ボヘミア高地) に分けられる。アルプスが国土の62%を占め、海抜500m以下は全土の32%に過ぎない。最高地点はグロースグロックナー山 (標高3798m) である。アルプスの水を集めドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する国際河川がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。

気候[編集]

気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。

経済[編集]

2005年の一人当たりGDPは世界第10位に位置し、経済的に豊かな国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州の自動車産業、オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。大企業はないものの、ドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んである。失業率は他の欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつある。オーストリアにとり日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つAKGは、クラシック愛好者を中心に日本でも有名である。
オーストリア企業の一覧

金融[編集]

バンク・オーストリア、エアステ銀行、ライフアイゼンバンク、BAWAG、フォルクスバンクが主要銀行である。

交通[編集]

詳細は「オーストリアの交通」を参照

鉄道[編集]

ÖBB(オーストリア国鉄)が主要幹線を網羅しており、山岳部では、登山列車なども運行している。ウィーンでは地下鉄やSバーン、路面電車なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。

航空[編集]

ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。日本からの直行便は、オーストリア航空のウィーン・東京間のみ。しかし乗継便は便利で、インスブルック、ザルツブルクなど各都市に1時間前後で移動できる。ウィーン国際空港では、ドイツ語の案内放送の後、英語で案内放送がある。

国民[編集]

民族[編集]


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帝国時代の民族分布。
「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかしオーストリア民族はいない。国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス(de:Hellmut Andics)がオーストリア帝国を評したものであるが、実際にいまのオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなくオーストリア人という概念はきわめて新しい。

ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっており雑多であるが、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。

オーストリア人はドイツ人に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。元々オーストリアはプロイセン、バイエルン等と同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人はバイエルン族である。バイエルン族はゲルマンではなくケルトだと見なす人々もいるが、プロイセン人も純ゲルマン系とは言えない以上、ゲルマン人論議とドイツ人論議は別の問題とも言える)、しかも12〜19世紀の間、オーストリア大公家であるハプスブルク家がドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の帝位やドイツ連邦議長国の座を独占していた。そのため、オーストリア人こそ新興のプロイセン人などよりむしろドイツ民族の本流であるという考え方が、20世紀前半までは残っていた。国籍論議が起こったモーツァルトの書簡には「私たちドイツ人は」「ドイツ人として私は」といった文言が多く用いられている。

よく、オーストリアは南端に位置し、ハンガリーやスラブ諸国との交流が深いため、ドイツ民族としての純度は低いという論がある。しかし、これは北端にあってポーランド等と関係密接なプロイセン(本来はバルト海沿岸地域の部族名であったものを新侵略者のドイツ騎士団が奪った名である。ベルリンという地名もポーランド語起源といわれる)も同様であり、神聖ローマ帝国が形骸化していたとはいえ長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊によって、オーストリアの国土がドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずにドイツへの合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗ってさえいた。

しかし、この民族自決論を逆手に取って、オーストリアのみならずヨーロッパ中に惨禍を招いたオーストリア人ヒトラーの所業に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外したビスマルク体制の方が歴史的例外なのであってヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし実際は両国民とも悪夢のようなナチス時代の記憶から分離のほうが望ましいと考えており、ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、東ドイツ、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるの意識が育ち、さらにはエスニシティにおいてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一、欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。

「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「ドイツ語を話す人」というニュアンスが強い。ドイツ語は英語やフランス語と違ってほとんど他民族では母語化しなかったため、これが民族概念と不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ〜」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られる。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を“ドイツ人”と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、他民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代におけるブルゲンラント州、ケルンテン州でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。

今日ウィーン市内では、ドイツ国歌を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし、元をただせば現在のドイツ国歌は、ハイドンが神聖ローマ皇帝フランツ2世を讃えるために作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』の歌詞を替えたものであり、19世紀後半にはオーストリア帝国の国歌となっていた。作曲当時はオーストリア国家は存在せず、フランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったので、両国共通のルーツを持つ歌ともいえる(ちなみに先代のハプスブルク家当主は1999年まで欧州議会議員を、ドイツ選出でつとめた)。しかし、外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは、国歌のメロディではなく、政治的には外国であるドイツを「わが祖国」と連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。

もっとも、現在のドイツ民族主義者たちに、かつてのように統一国家の樹立を掲げている者はほとんどいない。特にオーストリア側においてはなおのことであり、ともにEU域内に入った現在そうする意味は少ない(ただし合併ではなく現オーストリアの国名を「ドイツ・オーストリア共和国」に戻す主張は右派に根強い)。いわば民族の文化的、精神的結束を重んじるものであり、それだけにイタリアの南チロル、フランスのアルザスなど、隣国のドイツ系住民地域への影響、EU内でのドイツ語コミューンの形成を不安視する声もある。EUに囲まれた未加盟国であり、長らく独・仏・伊3民族の共存国家として平穏を保ってきた(しかもドイツ系が圧倒的に多い)スイスにおいても同様である。

ブルゲンラント州は1918年まではハンガリー王国側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。ケルンテン州にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代における調査によれば1〜2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にも若干の外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。

外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くがトルコ人と旧ユーゴスラビア諸国出身者である。

言語[編集]





オーストリアを含むドイツ語の方言区分。
ドイツ語(オーストリアドイツ語)が公用語であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部等と同じ上部ドイツ語(Oberdeutsch)系の方言である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの(スイスドイツ語に近い)を除き、バイエルンと同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語である。オーストリアでは、テレビ、ラジオの放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。 標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。

またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。

東オーストリアの方言では
-l Mädl(Mädchen)
nの後にlがくる場合、nがdになる:Pfandl(< Pfann(e) フライパン)、Mandl(< Mann 人、男性)

-erl Kipferl
Ein Momenterl (少々お待ちください)


となる。

南部のケルンテン州にはスロベニア人も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったハンガリー・チェコ・イタリアなどの諸国の言語の影響が残っていると言われている。

また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在する他、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるので注意が必要である。
Kategorie:Österreichische Sprache - オーストリアのドイツ語に関するリンク集。

宗教[編集]

宗教は、5.530.000人(66,0 %)がローマ・カトリックに属している(2009年)。 プロテスタントのうち310,097人(3,7 %)がルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に, 14.000人(0,165%)が改革派のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。 515.914人(6,2 %)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、ユダヤ教もいる。

文化[編集]

食文化[編集]

詳細は「オーストリア料理」および「:Category:オーストリアの食文化」を参照

音楽[編集]

オーストリア人の音楽文化への態度は保守的と評されたのも、今は昔の話であり、傑出した作曲家が若手の世代からデビューすることも増えてきた。近年ではキプロスやポーランドといった国の出身の者がオーストリアへ市民権を移し、オーストリア人によって積極的に評価され優れた作品を生むものも存在する。クラシック音楽のみならず、即興音楽やテクノ、エレクトロニカなどのジャンルに於いても、未来をになう人材を輩出中である。また、国が芸術家を支援する態度も充実しており、才能があればすぐ委嘱がくるとまで言われている。インターネットラジオも、充実度が高い。

クラシック音楽[編集]





ウィーン国立歌劇場。




モーツァルトはザルツブルクに生まれ、25歳からウィーンに定住した。




フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。
オーストリアからは多くの作曲家・演奏家を輩出し、ドイツ圏全体として圧倒的に世界一のクラシック音楽大国として知られ(オペラですら本場イメージの強いイタリアの4倍の上演数を誇っている)、名門オーケストラや国立歌劇場、音楽学校を擁する首都ウィーンは「音楽の都」と呼ばれている。特にこの分野に大物作曲家をあまり輩出していない日本や英米においては強い権威を誇る。作曲家人気調査などでは上位三傑はドイツのベートーヴェン、J・S・バッハにオーストリアのモーツァルトが加わるのが常であり(ベートーヴェンもウィーンで活動していた)、十傑でもブルックナー、シューベルト、マーラーといったオーストリア出身者に、ドイツ出身のブラームス(ブラームスを含む4人とも活動の本拠をウィーンに置いていた)らが入る状況である。実際には18世紀半ばまではイタリアやフランスの方がどちらかといえば音楽先進国であり(例えば、モーツァルトのオペラの大半は、台詞がイタリア語で書かれている)、音楽大国ドイツ・オーストリアの歴史は18世紀後半にウィーン古典派の台頭とともに急速に形成されたものではある(今日音楽の父とまで呼ばれるバッハは生前は国際的には無名に近く、同時代のヘンデルはイギリスが拠点だった)が、現況として愛好されているクラシック音楽としてはやはりずば抜けた割合を占めていることは事実である。演奏家については、ナチスの迫害によってユダヤ系を中心に人材が流出してしまったことなどから急速に人材が乏しくなったが、最近は回復傾向にある。音楽家についてはオーストリアの作曲家を参照。
オペラ・オペレッタ ウィーン国立歌劇場
ウィーン・フォルクスオーパー

演奏団体 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン交響楽団
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

祝祭上演 ザルツブルク音楽祭
ザルツブルク復活祭音楽祭
ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭
ザルツブルク国際モーツァルト週間
ブレゲンツ音楽祭


世界遺産[編集]

ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件存在する。さらにハンガリーにまたがって1件の文化遺産が登録されている。詳細は、オーストリアの世界遺産を参照。

祝祭日[編集]

祝祭日[38]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日 Neujahr
1月6日 公現祭 Heilige Drei Könige
移動祝日 復活祭の日曜日 Ostersonntag
移動祝日 復活祭の月曜日 Ostermontag
5月1日 メーデー Tag der Arbeit
移動祝日 主の昇天 Christi Himmelfahrt 復活祭から40日目の木曜日
移動祝日 聖霊降臨祭 Pfingstsonntag
移動祝日 聖霊降臨祭の月曜日 Pfingstmontag
移動祝日 聖体の祝日 Fronleichnam 聖霊降臨祭から12日目の木曜日
8月15日 聖母の被昇天 Mariä Himmelfahrt
10月26日 建国記念日 Nationalfeiertag 1955年に永世中立国宣言をしたことによる
11月1日 諸聖人の日 Allerheiligen
12月8日 無原罪の聖母の祝日 Mariä Empfängnis
12月24日 クリスマスイブ Heilig Abend (Weihnachten)
12月25日 クリスマス Christtag
12月26日 聖ステファノの祝日 Stefanitag

スポーツ[編集]

詳細は「オーストリアのスポーツ」を参照

冬季オリンピックで数多くのメダルを獲得することから分かるように、ウィンタースポーツが盛んに行われている。中でもアルペンスキーは絶大な人気を誇り、冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得しているヘルマン・マイヤーは国民的スターである。2006-07年シーズンでは男女計12種目のうち実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。

また、ノルディックスキーも人気が高く、ノルウェー、フィンランド、ドイツなどとともに強国として名高い。アンドレアス・ゴルトベルガー(ジャンプ 1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、フェリックス・ゴットヴァルト(複合 2001年FIS・W杯総合優勝)、トーマス・モルゲンシュテルン(ジャンプ 2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年ではトリノオリンピックのジャンプ競技で金メダルを獲得。

モータースポーツも盛んに行われ、国内でのF1開催は26回に上る。

伝統的にサッカーの人気が高く、イギリスを除くヨーロッパ大陸では最も古い歴史を誇るプロフェッショナル・サッカー・リーグであるオーストリア・ブンデスリーガ(1部)を筆頭にサッカーリーグは9部まである。

オーストリア最高峰リーグであるオーストリア・ブンデスリーガをステップアップとしてサッカーのブランドネーションに移籍する選手が多く、毎年のようにドイツ・ブンデスリーガやイタリア・セリエAに移籍する選手が数多く輩出されている。

2008年にはUEFA欧州選手権2008をスイスと共同で開催した。オーストリア代表チームはドイツやクロアチアを相手に善戦したもののグループリーグで敗退を喫した。

自転車ロードレースでは、ゲオルク・トーチニヒ(ドイツ語版、英語版)がツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアといった世界最高峰のレースで活躍した。現在はベルンハルト・アイゼルなどが知られている。オーストリア最大のステージレース(複数の日数にわたって行われるレース)「エースターライヒ・ルントファールト」はUCIヨーロッパツアーのHC(超級)という高いカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。

積雪の多い気候ゆえ、卓球やハンドボール、アイスホッケー、柔道などの室内スポーツの競技人口も多い。

著名な出身者[編集]

詳細は「オーストリア人の一覧」を参照

ウィーンでは、オーストリア・ハンガリー各地の出身者が活躍した。

(参照:オーストリア=ハンガリー帝国、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド(ガリツィア)、スロベニア、クロアチア、ルーマニア、ブコビナ、イタリア(南チロル))

チェコ

チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika 英: Czech Republic)、通称チェコは、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はプラハ。

歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきた。ヨーロッパ共産圏の消滅後、再び中欧または中東欧に分類される。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。

1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。



目次 [非表示]
1 国名
2 歴史 2.1 古代〜中世
2.2 民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで
2.3 共産主義政権とその崩壊後

3 政治
4 軍事
5 地方行政区分 5.1 主要都市
5.2 都市・村の一覧

6 地理
7 経済 7.1 伝統産業
7.2 交通

8 国民
9 文化 9.1 食文化
9.2 文学
9.3 音楽
9.4 スポーツ
9.5 世界遺産
9.6 祝祭日

10 著名な出身者
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク


国名[編集]

正式名称(チェコ語)は Česká republika (チェスカー・レプブリカ、発音 [ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka] ( 聞く):チェコ共和国)。通称は Česko(チェスコ)、または Čechy(チェヒ)。

英語での公式名称は Czech Republic(チェク・リパブリック)。チェコ外務省が1993年に提唱した通称に、ラテン語風の Czechia があるが、現在一般的に使われているとは言い難く、“Czech Republic” をそのまま用いることが多い。

日本語ではチェコ共和国(日本国外務省統一表記)。通称チェコ。かつての外務省書類等ではチェッコという表記が使用された。なお、「チェッコ」という場合は、日中戦争期のチェコスロバキア製軽機関銃を指すこともある(→ZB26軽機関銃)。

かつて一つの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族による一つの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。

チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。 プラハを中心とした “Čechy”(チェヒ、ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava”(モラーヴァ、ラテン名・モラヴィア)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko”(スレスコ(英語版)、ラテン名「シレジア」)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。

ボヘミア地方を示す “Čechy”(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、チェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、 “Česká republika”、 “Czech republic” を用いるのが正確であり、世界的には一般的な考え方である。

現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける “Česko” は、チェコスロバキア時代の通称 “Československo” から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。だが、新しい呼称のため、定着したといえるのは最近であり、公の場や正式な文章では用いられない。

歴史[編集]

詳細は「チェコの歴史」を参照

古代〜中世[編集]

古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後、ゲルマン人が定住したが、[独自研究?]6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。つづいてアバール人が支配者となった。9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。





カレル1世時代のボヘミア王冠領
西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時にボヘミア王の称号(DuchyからKingdomに昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。

13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国(英語版)は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。

15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱がおきた(フス戦争)。

その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。

民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで[編集]





チェコスロヴァキア共和国
18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議(英語版)を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。

第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、民族自決の理念のもとチェコスロヴァキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼ全てを支配し、スロバキア人と対立した。そのためスロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した。


共産主義政権とその崩壊後[編集]





共産党体制下のチェコスロバキア
第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんど全てが財産を奪われた上チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン公国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2009年までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた[2])。

1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5カ国の軍が介入、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、「正常化」路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。

1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。

2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。

2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。

政治[編集]





第3代大統領ミロシュ・ゼマン
国家元首は議会によって選出される大統領である。任期は5年で3選は禁止され、2013年以降はミロシュ・ゼマンが務める。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2010年5月28-29日に実施された総選挙の結果、中道左派のチェコ社会民主党が第1党となったものの議席の過半数には程遠く、また連立政権の樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党と新党のTOP 09、公共の物との間で中道右派の連立政権を発足させることで合意し、その首班には市民民主党党首のペトル・ネチャスが任命された。しかし、ネチャスは2013年、自身の首席補佐官で愛人と噂されていたヤナ・ナジョヴァーが逮捕されるというスキャンダルで引責辞任し、後任に同党のイジー・ルスノクが就いた。

議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。

軍事[編集]

詳細は「チェコ共和国の軍事」を参照

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地方行政区分[編集]

詳細は「チェコの地域区分」を参照

チェコの地方行政区画は2000年に再編され、プラハ首都特別区および13のクライと呼ばれる行政区に区分されている。





チェコ共和国の歴史的な領域と現代の行政区
主要都市[編集]

チェコの都市人口順位



都市



人口 (2010)

1 プラハ 1,249,026
2 ブルノ 南モラヴィア州 371,399
3 オストラバ モラヴィア・スレスコ州 306,006
4 プルゼニ プルゼニ州 169,935
5 リベレツ リベレツ州 101,625
6 オロモウツ オロモウツ州 100,362

都市・村の一覧[編集]

チェコの有名な市・村(地方自治体)


地名

チェコ語名

ドイツ語名

備考



ビーラー・ホラ(白山)
Bílá Hora Weißenberg ビーラー・ホラの戦い(1620年、三十年戦争)

ブランディース・ナド・ラベム
Brandýs nad Labem Brandeis an der Elbe ユダヤ人街

ブルノ(ブリュン)
Brno Brünn モラヴィアの中心地

ブジェツラフ
Břeclav Lundenburg

ブジェゾヴァー
Březová Pirkenhammer 陶器ブランド

ツィーノヴェツ(ツィンヴァルト)
Cínovec Zinnwald(-Georgenfeld) チンワルド雲母の産地。

チェスケー・ブジェヨヴィツェ(ブトヴァイス)
České Budějovice Budweis バドワイザー(ブジェヨヴィツキー・ブドヴァル)。司教座。近郊にホラショヴィツェ、フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ(Hluboká nad Vltavou)、トシェボニ(Třeboň)などがある

チェスキー・クルムロフ(ベーミッシュ・クルーマウ)
Český Krumlov Krumau 世界遺産。近郊にホルニー・プラナー(Horní Planá)がある

ドマジュリツェ
Domažlice Taus ドマジュリツェの戦い(1631年、フス戦争)

ドヴール・クラーロヴェー(ラベ河畔の)
Dvůr Králové nad Labem Königinhof

フリードラント
Frýdlant Fiedland ヴァレンシュタイン(ヴァルトシュタイン)家

ホドニーン
Hodonín Göding

ホラショヴィツェ
Holašovice Hollschowitz 歴史的集落が世界遺産

ホレショフ
Holešov Holleschau ユダヤ人街

フラデツ・クラーロヴェー(ケーニヒグレーツ)
Hradec Králové Königgrätz 司教座。サドワの戦い(ケーニヒグレーツの戦い)

フラニツェ
Hranice Mährisch-Weißkirchen ユダヤ人街

ヘプ(エーガー)
Cheb Eger ヴァレンシュタイン暗殺

ホドフ(ホーダウ)
Chodov Chodau 陶器ブランド

イヴァンチツェ
Ivančice Eibenschütz, Eibenschitz ユダヤ人街がある。グイード・アードラー、アルフォンス・ムハらの生地。

ヤーヒモフ(ザンクト・ヨアヒムスタール)
Jáchymov Sankt Joachimsthal トレル(ドルの語源)貨幣鋳造

ヤンコフ(ヤンカウ)
Jankov Jankau ヤンカウの戦い

イフラヴァ(イグラウ)
Jihlava Iglau 銀鉱、マーラー

カルロヴィ・ヴァリ(カールスバート)
Karlovy Vary Karlsbad 温泉町(鉱泉、鉱塩)、カールスバート決議

カルルシュテイン
Karlštejn Karlstein カルルシュテイン城

クラドノ
Kladno 工業都市

コリーン
Kolín Kolin, Köln an der Elbe コリーンの戦い(1757年、七年戦争)

クルノフ(イェーゲルンドルフ)
Krnov Jägerndorf かつて一侯国。クルノフ・シナゴーグ(Krnovská synagoga)など。

クロムニェジーシュ
Kroměříž Kremsier 世界遺産

クトナー・ホラ(クッテンベルク)
Kutná Hora Kuttenberg 銀鉱、グロシュ 銀貨鋳造

レドニツェ
Lednice Eisgrub 世界遺産

リベレツ(ライヒェンベルク)
Liberec Reichenberg

リディツェ(リジツェ,リヂツェ)
Lidice Liditz ナチス・ドイツによる虐殺

リトムニェジツェ
Litoměřice Leitmeritz

リトミシュル
Litomyšl Leitomischl スメタナ出生地。リトミシュル城が世界遺産

ロヴォシツェ(ロボジッツ)
Lovosice Lobositz, Lovositz ロボジッツの戦い(1756年、七年戦争)

マレショフ
Malešov Maleschau マレショフの戦い(1424年、フス戦争)

マリアーンスケー・ラーズニェ(マリエンバート)
Mariánské Lázně Marienbad 温泉町、映画祭

ミクロフ(ニコルスブルク)
Mikulov Nikolsburg ニコルスブルク和約、ユダヤ人街。近郊に、レドニツェ&ヴァルチツェがある。

ムニホヴォ・フラジシチェ
Mnichovo Hradiště Münchengrätz

ナーホト
Náchod Nachod ナーホトの戦い

ヴルタヴァ川(モルダウ川)
Vltava Moldau スメタナの交響詩集『わが祖国』(Ma Vlast)の第2曲で有名な川


地理[編集]





チェコ共和国の衛星写真
チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェジカ山である。

経済[編集]





首都プラハ
オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命等の混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリー等と並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している。

2004年にチェコが欧州連合に加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、一つの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。「安くて良質な労働力」を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。 打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向 [2]。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。

主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである。


伝統産業[編集]





ボヘミア・ガラス
ビール製造については「チェコ・ビール」を、ガラス製造については「ボヘミア・ガラス」を参照




交通[編集]

詳細は「チェコ共和国の交通」を参照

国民[編集]





伝統的な衣装をまとった男女
詳細は「チェコ共和国の人口動態(英語版)」を参照

チェコ人が90.4%である。さらに、モラヴィア人(英語版)が3.7%である。少数民族としては、スロバキア人が1.9%、ポーランド人が0.5%、ドイツ人が0.4%、シレジア人が0.1%、マジャル人が0.1%、ロマが0.1%である。

かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後のドイツ人追放によりそのほとんどがドイツに追放された。又戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人(チェコ語版)を参照)。

チェコではフス戦争などの複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。その他、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。

キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、火葬率はイギリスと並び高い。

文化[編集]





文学者、フランツ・カフカ




作曲家、ベドルジハ・スメタナ




作曲家、アントニン・ドヴォルザーク
食文化[編集]

詳細は「チェコ料理」を参照
ビール - チェコはビールの国民一人当たりの年間消費量が世界一である。2005年統計では一人当たり161. 5Lで日本の3.3倍の消費量。 ピルスナー・ウルケル
ブドヴァル(ブドヴァイゼル。英語読みはバドワイザー。ただし、バドワイザーは登録商標である)

クネドリーキ(クネーデル)
グラーシュ
ブランボラーク
スマジェニー・ジーゼック
スマジェニー・スィール
スヴィチュコヴァー
クグロフ
パーレック・フ・ロフリーク--「ロールの中のソーセージ」という意味で、パンロールにマスタード・ソーセージを入れたもの。
トゥルデルニーク−小麦粉に砂糖を混ぜて練りこみ、シナモンをかけて生地を鉄棒にらせん状に巻きつけて焼いたもの。

文学[編集]

詳細は「チェコの文学」を参照
フランツ・カフカ
アロイス・イラーセク
ボジェナ・ニェムツォヴァー
オタ・パヴェル
カレル・チャペック
ヤロスラフ・ハシェク
ヤロスラフ・サイフェルト
ミラン・クンデラ
イヴァン・ヴィスコチル
イヴァン・クリーマ
ボフミル・フラバル
ミハル・アイヴァス
アニメーション作家 イジー・トルンカ
カレル・ゼマン
ヤン・シュヴァンクマイエル


音楽[編集]

詳細は「チェコの音楽」を参照
ベドルジハ・スメタナ(ベドジフ・スメタナ)
アントニン・ドヴォルザーク(アントニーン・ドヴォジャーク)

スポーツ[編集]

詳細は「チェコのスポーツ」を参照





長野オリンピックのアイスホッケー決勝試合
チェコでもっとも人気のあるスポーツはアイスホッケーであり国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属し、国内リーグでも首都プラハに本拠を置く2つのクラブチームは100年の歴史を誇る。ナショナルチームは長野オリンピックではドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪である。 ちなみに2004年にはこの長野五輪の活躍を描いたオペラが上演された。また同国出身で、長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーの背番号は、いろんなチームに移籍しても常に68(「プラハの春」の年)である。 フィギュアスケートでもトマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなどオリンピック選手を輩出している。

また、他のヨーロッパ諸国同様にサッカーも人気があり、チェコスロバキア時代はワールドカップで2度の準優勝(1934、1962年大会)を誇る。チェコ代表はFIFAランキング最高2位まで上がったヨーロッパの強豪として知られ、ヨーロッパ選手権では1996年大会で準優勝するなど実績があるが、選手層が厚くないためかワールドカップではヨーロッパ予選をなかなか突破できず、1993年のスロバキアとの分離後は2006年大会以外出場できておらず、世代交代に失敗した2000年代後半からは低落傾向にある。代表的な選手にパベル・ネドベド(引退)、ヤン・コレル(引退)、トマーシュ・ロシツキー(アーセナル)、ペトル・チェフ(チェルシー)、ミラン・バロシュ(ガラタサライ)、マレク・ヤンクロフスキ(FCバニーク・オストラヴァ)などがいる。

日本では、ヘルシンキオリンピックでの男子マラソンのエミール・ザトペック、1964年東京オリンピックでのヴィェラ・チャースラフスカー(ベラ・チャスラフスカ)の女子体操が古くから広く知られている。

テニスでもマルチナ・ナブラチロワ、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、イワン・レンドル、ペトル・コルダなどの名選手を輩出している。近年では、ラデク・ステパネク、ニコル・バイディソバ、トマーシュ・ベルディハ、ペトラ・クビトバなどの若手の活躍もめざましい。

自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカ(Ondrej Sosenka)はツール・ド・ポローニュで二度の総合優勝を果し、UCIアワーレコード(一時間でどれだけの距離を走れるかの世界記録)を保持している。2008年ツール・ド・スイスでは22歳のロマン・クロイツィガーが総合優勝している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。

世界遺産[編集]





世界遺産プラハ歴史地区(プラハ城)
詳細は「チェコの世界遺産」を参照

チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。

祝祭日[編集]


日付

日本語表記

現地語表記

備考

1月1日 元日 Nový rok
変動祝日 イースターマンデー Velikonoční pondělí
5月1日 メーデー Svátek práce
5月8日 勝戦記念日 Den osvobození 1945年のヨーロッパでの第二次世界大戦の終結を記念
7月5日 ツィリルとメトジェイの日 Příchod Cyrila a Metoděje na Moravu
7月6日 ヤン・フスの日 Upálení Jana Husa ヤン・フスの命日
9月28日 チェコ国体記念日 Den české státnosti
10月28日 独立記念日 Vznik Československa 1918年のチェコスロバキアの独立記念日
11月17日 自由と民主主義のための闘争の日 Den boje za svobodu a demokracii 1989年のビロード革命を記念
12月24日 クリスマス・イブ Štědrý den
12月25日 クリスマス První svátek vánoční
12月26日 ボクシング・デー Druhý svátek vánoční

著名な出身者[編集]

詳細は「チェコ人の一覧」を参照

ドレスデン

ドレスデン(Dresden、ドイツ語発音: [ˈdʁeːsdən])は、ドイツ連邦共和国ザクセン州の州都でありエルベ川の谷間に位置している都市である。人口は約51万人(2008年)である。



目次 [非表示]
1 地勢
2 歴史
3 文化
4 経済
5 交通
6 その他
7 姉妹都市
8 関連項目
9 ドレスデンが舞台の作品 9.1 映画

10 引用
11 外部リンク


地勢[編集]

エルベ(Elbe)川沿いの平地に開けた町である。ドイツの東の端、チェコ共和国との国境近く30キロメートルほどに位置する。陶磁器の町として有名なマイセンまで約25キロメートルと近く、エルベ川を通じて交通がなされてきた。





1900年頃のドレスデン市街遠望
歴史[編集]

ドレスデンは、1206年にドレスデネ(Dresdene)という名称で歴史に現れている。1350年には、エルベ右岸の地区が「古ドレスディン(Antiqua Dressdin)」という名称で現れ、1403年に都市権を与えられている。これが現在の新市街(ノイシュタット)で、エルベの右岸と左岸は、1549年まで別の町として扱われていた。





1750年のドレスデン市街図。星型要塞に周囲を囲まれている
ドレスデンが発展するきっかけとなったのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ2世の2人の息子、エルンストとアルブレヒトが、1485年に、兄弟で領土を分割(ライプツィヒの分割)したことに始まる。ドレスデンを中心とする領土を与えられた弟アルブレヒトは、ザクセン公を称し、ドレスデンを都として地域を支配することとなった。こうして、ドレスデンは、アルベルティン家の宮廷都市として栄えることになる。

その後、アルベルティン家は1547年のモーリッツの時に選帝侯となり、ドレスデンがザクセンの中心地として発展することになった。エルベ川に沿ったアウグスト通り沿いの外壁には、歴代君主たちを描いたおおよそ100メートルにわたるマイセン (陶磁器)による壁画「君主たちの行列」がほぼオリジナルの状態で現存している。





1900年頃のツヴィンガー宮殿




現在(2007)のツヴィンガー宮殿




ピルニッツ宮殿にある山の宮殿




君主たちの行列




ブリュールのテラス付近の夜景
ドレスデンが最も発展したのは、1711年から1728年のフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強王)の治世である。ドレスデンを代表する建築物となっているツヴィンガー宮殿(Zwinger)は、アウグスト強王が、ダニエル・ペッペルマンに命じ、1711年から1728年に、城から近い場所に自らの居城として後期バロック様式によって建立させたものである。同時に、エルベ川の10キロほど上流にあるピルニッツ宮殿も、大幅に増築されている。一方、市の中心部では、1726年に聖母教会(フラウエン教会)の建築が開始されている。こうして形成されたドレスデンの町並みは、18世紀中期の姿がベルナルド・ベッロットによる絵画として残されている。 1806年に神聖ローマ帝国が解体し、ザクセン王国が成立した後は、ドレスデンはその首都となった。

第二次世界大戦では徹底した爆撃にあい市内中心部はほぼ灰燼に帰した(ドレスデン爆撃)。ソ連占領地域にあったため、戦後はドイツ民主共和国(東ドイツ)領となり、ライプツィヒなどと並ぶ工業都市として発展したほか、近年では観光地としての開発も顕著で、東部ドイツ有数の大都市として賑わいを見せており、1990年の東西ドイツ統合後、歴史的建築物の再建計画が一層推進されつつある。廃墟のまま放置されていた王妃の宮殿(Taschenbergpalais)が再建されて高級ホテルに生まれ変わったほか、同じく瓦礫の堆積のままの状態で放置されていた聖母教会の再建には、世界中から182億円もの寄付が集まり、2005年10月に工事が完了した。瓦礫から掘り出したオリジナルの部材をコンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業は「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」と評された。新しい部材との組み合わせがモザイク模様を描き出しているこの建物は、新しい名所となっている。





修復された聖母教会
文化[編集]





クリスマスマーケット(Striezelmarkt)
音楽はザクセン侯宮廷の傾向を反映して、古くからイタリアの影響を受けてきた。シャイト・シュッツらはルター派典礼音楽にイタリア音楽の傾向を付け加えた。ミヒャエル・プレトリウスもしばらくドレスデンで活動したこともあり、17世紀ドイツにおける音楽の中心地のひとつであった。モーツァルトもまたドレスデンで作品の初演を行っている。オペラ座、通称ゼンパー・オーパーは新古典主義建築の代表作としても知られ、オペラ座のオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデン(「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」と呼ばれることも多い)は、最古のオーケストラとして知られている。ドイツ鉄道ウィーン〜ドレスデン間の夜行特別列車「ゼンパーオーパー」はこの劇場の名にちなんだものである。

ザクセン侯の美術コレクションは現在ツヴィンガー宮殿の一角を占めるドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館(Alte Meister)などで展示されている。アルテ・マイスターのコレクションの中にはラファエロの「システィーナの聖母」が含まれる。そのほかレンブラント、ルーベンス、ルーカス・クラナッハ、デューラーなどヨーロッパを代表する画家たちの膨大な数の作品が公開されている。この美術館はヨーロッパでも重要なコレクションを有する施設のひとつと言ってよいであろう。

上記の様な旧市街(アルトシュタット、Altstadt)で主に見られる文化の他に、新市街(ノイシュタット、Neustadt)の文化も興味深い。

名前だけから見ると若そうにとれる新市街は、実は旧市街よりも歴史はかなり古い。ザクセン選帝侯時代、今の新市街地区のほぼ全域を焼失させる大火災があった。そこから比較的早く復興したため、それを記念し、全く新しく生まれ変わって繁栄してほしい、という願いを込めて、選帝侯がノイシュタットと名付けられたと言われている(原典不明)。

築 100 年を超える建物が多く、世代を超えても当時の雰囲気を比較的良く保っている、数少ない街である。空襲で完全に焼け落ちたにもかかわらず、歴史的建造物を除きアルトシュタット以上によく保守された地区と言ってもよい。

街の空気がやや古典的で、狭い路地が続く町並みには、レストランやバーが無数に存在し、週末は地元人達で賑う。また、美術・芸術家などの個展や、演奏会・音楽サロンが街のあちこちで毎週のように開かれ、地元人の関心も常に高い。文化・芸術が生活と密接に関わっているドレスデンならでは、と言えよう。


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経済[編集]





グレーゼルネ・マヌファクテュア
中部のグローサーガルテン (Großer Garten) 地区にフォルクスワーゲンの自動車工場である「グレーゼルネ・マヌファクテュア」(Gläserne Manufaktur、ガラスの工場の意)が設立されている。同工場は2002年に操業開始し、フォルクスワーゲン・フェートンなどの製造を行っている。

また、近年では独インフィニオン・テクノロジーズ社から独立したキマンダ社、米AMD社の半導体製造部門が独立したGLOBALFOUNDRIES (グローバルファウンドリーズ)社 などの製造拠点が置かれ、欧州における半導体製造拠点のひとつとなっている。


交通[編集]





ドレスデンの市電




カーゴトラム




「ドレスデン・モノレール
* ドレスデン空港
ドレスデン中央駅は、ベルリン、プラハ、ニュルンベルクとの間に直通列車を持つ。 2006年の市誕生800年のお祝いに向けて、ドレスデン中央駅の周辺は整備計画が進行中である。最近、駅舎の改修工事の一部が完成をみた。これらの整備に伴い、今後数年間のうちに中央駅周辺は大きく発展することが期待される。

市内交通を担う存在として、ドレスデン交通企業体の運営による路面電車がある。東西ドイツ分断の頃にモータリゼーションの影響が遅れたため、路線廃止が行われていない為、人口50万人の都市としてはかなり長い総延長130km余りの路線を有する。車両はかつては東欧のタトラ社製の「タトラカー」が主力だったが、東西ドイツ統合後は超低床車のコンビーノ(シーメンス社製)やフレキシティ・クラシック(ボンバルディア社製)が投入され、老朽化したタトラカーを順次置き換えを進めている。利用者が多い為、列車編成も約45mと長大である。 またドレスデンでは世界的にも例を見ない電車方式の貨物列車、「カーゴトラム」 (CarGoTram) を2001年より運行している。これは前述のフォルクスワーゲンのグレーゼルネ・マヌファクテュアの設立に端を発する。乗用車の生産に伴って発生する有害物質の削減等、エコロジーに重点を置いている同工場は、敷地面積が若干狭く、資材や部品の倉庫を設置できなかった為、市西部にあるドイツ鉄道の貨物駅に隣接して倉庫を建設した。そこで部品運搬の手段が問題となり、試算した結果工場と倉庫を一日170台の大型トラックが往来する事となり、大気汚染等の環境問題、道路交通の安全性等の懸念から、既存の路面電車を活用する事となった。工場と倉庫には本線と接続した引込み線が設けられ、実に60t、トラック約3台分の荷物を積載が可能な5~7両編成の貨物列車(両端が電動車、中間が付随車のいずれも有蓋車)が40分間隔で、約18分掛けて往復している。四代目となるフォルクスワーゲン・ゴルフが発表された際、荷台にゴルフを載せて市民にお披露目するというプロモーションを行った事もある。このカーゴトラムは、自動車と鉄道という相反する物を有機的に結び付けただけでなく、環境問題への取り組みとして注目されている。
市東部のエルベ川に「青い奇跡」(Blaues Wunder(de)、正式名称はロシュヴィッツァー橋)と呼ばれる鉄骨構造の橋が架かっているが、その北岸の丘陵地に、ケーブルカーとモノレールがある。ケーブルカーは路線の長さ547m、高低差95mで、1895年に開業しており、モノレールは長さ274m、高低差が84mで、1901年の開業である。両交通機関は、1893年に完成した橋「青い奇跡」と並んで、世界遺産ドレスデン・エルベ渓谷の産業遺産とされていたが、ヴァルトシュロッセン橋の建設により、2009年に世界遺産の登録が抹消されている。


その他[編集]





ドレスデンの63%の地域が緑に囲まれている




冬のドレスデン2002年夏の洪水によりドレスデンも大きな被害を受けた。
2004年、歴史的建造物の残る文化的景観が評価され、ドレスデン・エルベ渓谷が世界遺産に登録された。ドレスデンを中心にしたエルベ川流域18kmが対象であった(面積1930ha)。しかし、交通量の増加に対応するためにエルベ川に車両用の橋を建設する案が検討されたことから、2006年に危機にさらされている世界遺産リストに登録され、その後、ユネスコの世界遺産委員会からの警告にもかかわらず建設が推進されたため、2009年の第33回世界遺産委員会で世界遺産リストからの登録抹消が決議された。
町の中心部近くにある聖母教会は正式には2006年に再建完成の予定だが、2004年には内部の見学が一部可能となった。
旧東ドイツの名門サッカークラブである1.FCディナモ・ドレスデンは、東西ドイツ再統一後に一時低迷していたが、その後持ち直しており2011年現在ブンデスリーガ2部で活躍中である。
2008年にはドレスデンで第38回チェス・オリンピアードが開催された。
2011年、グリュックスガス・シュタディオンでFIFA女子ワールドカップが開催された。

姉妹都市[編集]

ポーランドの旗 ヴロツワフ(ポーランド)
チェコの旗 オストラヴァ(チェコ)
イギリスの旗 コヴェントリー(イギリス)
アメリカ合衆国の旗 コロンバス(アメリカ合衆国オハイオ州)
オーストリアの旗 ザルツブルク(オーストリア)
ロシアの旗 サンクトペテルブルク(ロシア)
マケドニア共和国の旗 スコピエ(マケドニア共和国)
フランスの旗 ストラスブール(フランス)
ドイツの旗 ハンブルク(ドイツ)
イタリアの旗 フィレンツェ(イタリア)
コンゴ共和国の旗 ブラザヴィル(コンゴ共和国)
オランダの旗 ロッテルダム(オランダ)


関連項目[編集]
森鴎外 1884年から約4年間のドイツ留学をしていた鴎外は、1885年10月11日から翌1886年の3月初旬まで、約5ヶ月間ドレスデンに滞在していたことがある。小説『文づかひ』はドレスデンを舞台にした作品である。

ゲーテ ドレスデンが気に入ったゲーテは、幾度かこの地を訪れている。彼はエルベ川からみて旧市街地側の川に沿って続く小高い歩道を好んで散歩した。それは森鴎外が滞在するおよそ100年前のことであった。

ゼンパー・オーパー - ドレスデン歌劇場
エーリッヒ・ケストナー - ドレスデン出身の詩人・作家
ローター・シュミット - ドレスデン出身のチェスプレーヤー
ドレスデン交通企業体 - ドレスデンの公共交通会社
ドレスデン・ポルツェラン

ドレスデンが舞台の作品[編集]

映画[編集]
ドレスデン、運命の日 - 2006年のドイツ映画。第二次世界大戦末期のドレスデンを舞台にしている。

フィレンツェ

フィレンツェ(イタリア語: Firenze ( 聞く))は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。

中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。

市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。



目次 [非表示]
1 名称 1.1 語源

2 地理 2.1 位置・広がり・地勢 2.1.1 隣接コムーネ


3 歴史
4 行政 4.1 分離集落

5 社会 5.1 経済・産業

6 自然・環境 6.1 気候

7 観光
8 スポーツ
9 交通 9.1 鉄道
9.2 市内交通
9.3 空港

10 姉妹都市
11 フィレンツェの著名な人物
12 フィレンツェが登場するフィクション 12.1 小説
12.2 戯曲
12.3 映画
12.4 コンピュータゲーム
12.5 漫画

13 関連項目
14 脚注
15 外部リンク


名称[編集]

語源[編集]

古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア (Florentia) と名付けた事が語源とされている。周辺国ではフィレンツェのことを、英語でFlorence(フローレンス)、スペイン語でFlorencia(フロレンスィア)、ドイツ語でFlorenz(フロレンツ)、フランス語でFlorence(フロランス)と呼ぶことにもその名残が見られる。

地理[編集]

位置・広がり・地勢[編集]

フィレンツェはSenese Clavey Hillsの盆地に位置している。アルノ川と三つの小川が当地を流れる。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。
バーニョ・ア・リーポリ
カンピ・ビゼンツィオ
フィエーゾレ
インプルネータ
スカンディッチ
セスト・フィオレンティーノ

歴史[編集]

フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設されたが、直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。中世には一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。フィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。

1300年頃、二つの党派、教皇派・教皇党ネーリ(黒党)と皇帝党のビアンキ(白党)による内乱がはじまった。内乱は終止符が打たれ、敗れたビアンキに所属し、医師組合からプリオリに推されていたダンテ・アリギエーリは1302年、フィレンツェから追放される[4]。この間の事情については、当時のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニが年代記を残している。このような内部抗争が起ころうとも、都市は繁栄していた。

その後、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になった。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことでフィレンツェは安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を所有していた。 メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手した。14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。

1433年、労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。だが、翌年コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。彼の死後は、その子ピエロにその権力を継承し、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。

ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェは一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフローリン金貨は、全欧州の貿易の基準通貨となってフィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。

ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年秋にナポリ王国の回復と称してイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に対して20万グルテンの賠償と、かつて征服したピサをフランスに渡すという屈辱的な譲歩をした[5]。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含む一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長ジロラモ・サヴォナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサヴォナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持を失っていった。1498年、サヴォナローラはとうとう民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。

1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。フェルディナンド3世は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は被害をまぬがれたが、ヴェッキオ橋をのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また1966年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。

行政[編集]

分離集落[編集]

フィレンツェには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
Galluzzo, Settignano, Le Piagge, Gavinana, Isolotto, Trespiano, Legnaia, Ponte a Greve, Rovezzano, Novoli, Careggi, Peretola, Sollicciano, Rifredi, San Frediano, Oltrarno

社会[編集]

経済・産業[編集]

観光業、繊維工業、金属加工業、製薬業、ガラス・窯業、ジュエリーや刺繍などの工芸が盛んである。 観光はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、サンタ・クローチェ聖堂、サン・ロレンツォ聖堂、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、ウフィツィ美術館などの歴史的な建造物が中心である。 貴金属、靴、皮ジャケットなどの革製品、フィレンツェ紙や、手作り香水や化粧品、焼き物など、伝統的手工芸製品の小売店も多い。

自然・環境[編集]

気候[編集]

フィレンツェは温暖湿潤気候 (Cfa) と、地中海性気候 (Csa) の境界線上である。[6]当地は活発な降水によって蒸し暑い夏と、涼しく湿った冬が特徴である。いくつもも丘に囲まれて、7月から8月にかけては蒸し暑くなる。また盆地ゆえ風が少なく、夏の気温は周りの沿岸部より高い。夏の降雨は対流によるもの。一方冬の降雨降雪は別の理由によるものである。最高気温の公式記録は1983年7月26日の42.6°Cで、最低気温は1985年1月12日の-23.2°Cである。[7]



[隠す]フィレンツェの気候




1月

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10月

11月

12月




平均最高気温 °C (°F)
10.1
(50.2) 12.0
(53.6) 15.0
(59) 18.8
(65.8) 23.4
(74.1) 27.3
(81.1) 31.1
(88) 30.6
(87.1) 26.6
(79.9) 21.1
(70) 14.9
(58.8) 10.4
(50.7) 20.1
(68.2)

平均最低気温 °C (°F)
1.4
(34.5) 2.8
(37) 4.9
(40.8) 7.7
(45.9) 11.3
(52.3) 14.7
(58.5) 17.2
(63) 17.0
(62.6) 14.2
(57.6) 10.0
(50) 5.5
(41.9) 2.4
(36.3) 9.1
(48.4)

降水量 mm (inch)
73.1
(2.878) 69.2
(2.724) 80.1
(3.154) 77.5
(3.051) 72.6
(2.858) 54.7
(2.154) 39.6
(1.559) 76.1
(2.996) 77.5
(3.051) 87.8
(3.457) 111.2
(4.378) 91.3
(3.594) 910.7
(35.854)

平均降水日数
9.4 8.4 8.6 9.1 8.6 6.3 3.5 5.9 5.7 7.4 10.0 8.8 91.7
出典: 世界気象機関(国連)[8]

観光[編集]





サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂




橋上家屋で有名なヴェッキオ橋サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
サンタ・クローチェ聖堂
サン・ロレンツォ聖堂
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局 - 世界最古の薬局

ウフィツィ美術館
バルジェロ美術館
アカデミア美術館
科学史研究所博物館
フィレンツェ考古学博物館
スペーコラ美術館
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ橋
ヴァザーリの回廊
ピッティ宮殿
ボーボリ庭園
フィレンツェ歴史地区(世界遺産)も参照のこと。

スポーツ[編集]

イタリアサッカーリーグのセリエAのACFフィオレンティーナ (ACF Fiorentina SpA)が本拠を置いている。かつて、中田英寿が在籍していた。6月末の聖ヨハネの日にはこのフィレンツェの守護聖人にちなんで、サンタ・クローチェ聖堂の広場で古式サッカー(Calcio Storico)が4つのチームで行われる。

交通[編集]

鉄道[編集]





フィレンツェSMN駅前のトラム
鉄道では、トレニタリアの路線がいくつもフィレンツェを一つの拠点とし、各都市とを結んでいる。街のターミナル駅は市街地に近いフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(フィレンツェSMN駅)で、ユーロスター・イタリアをはじめとする優等列車、さらにはヨーロッパの他国へ向かう国際列車が発着する。

街の外縁にはフィレンツェ・リフレディ駅やフィレンツェ・カンポ・ディ・マルテ駅といった中核駅があり、頭端式ホームを採用しているフィレンツェSMN駅での折り返しを避けるため、短絡線を経由して同駅に立ち寄らず、代わりにそれら外縁の駅をフィレンツェにおける停車駅としている列車が存在する。

市内交通[編集]

市内の交通はこれまでもっぱら路線バスが担っており、軌道系交通機関は長く存在していなかったが、フィレンツェSMN駅前から隣町のスカンディッチまで通じるトラムが2010年2月14日に開通した[9]。またフィレンツェSMN駅の周辺には都市間バスのターミナルがあり、ルッカ、プラート、アレッツォ、サン・ジミニャーノなどへ向かうバスが発着している。

空港[編集]

空港は中規模空港であるフィレンツェ・ペレトラ空港が北西の郊外にあり、ヨーロッパ各地とを結んでいる。しかし滑走路が1,700m程度しかなく大型機の発着は困難であるため、フィレンツェから西に鉄道(レオポルダ線)ないしバスで1時間程度行ったところにある、ピサのガリレオ・ガリレイ国際空港も実質的にフィレンツェの玄関として機能している。

姉妹都市[編集]

フィレンツェ市には多くの姉妹都市がある。

ドイツの旗 ドレスデン、ドイツ
スコットランドの旗 エディンバラ、スコットランド
フランスの旗 ランス、フランス
フィンランドの旗 トゥルク、フィンランド
ギリシャの旗 アテネ、ギリシャ
西サハラの旗 アイウン、サハラ・アラブ民主共和国
日本の旗 岐阜、日本
エリトリアの旗 アスマラ、エリトリア
イランの旗 エスファハーン、イラン
モロッコの旗 フェズ、モロッコ
アメリカ合衆国の旗 フィラデルフィア、アメリカ合衆国
ウクライナの旗 キエフ、ウクライナ
日本の旗 京都、日本
クウェートの旗 クウェートシティ、クウェート
中華人民共和国の旗 南京、中華人民共和国
イスラエルの旗 ナザレ、イスラエル
ラトビアの旗 リガ、ラトビア
ブラジルの旗 サルバドル、ブラジル
アルバニアの旗 ティラナ、アルバニア


フィレンツェの著名な人物[編集]
ダンテ・アリギエーリ
政争に敗れ、死刑宣告を受けてフィレンツェを追放される。その大著『神曲』の中では、フィレンツェの堕落を嘆き、悪し様に罵っている。『神曲』天国篇完成後、1321年ラヴェンナで客死して当地に埋められた。フィレンツェは遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。アメリゴ・ベスプッチ
ロレンツォ・デ・メディチ
サンドロ・ボッティチェッリ
ミケランジェロ・ブオナローティ
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ジロラモ・サヴォナローラ
ニッコロ・マキャヴェッリ
バッチョ・ダーニョロ
ロベルト・カバリ:ファッションデザイナー
サルヴァトーレ・フェラガモ:イタリア南部の生まれだが、1927年にフィレンツェで開業

フィレンツェが登場するフィクション[編集]

小説[編集]
眺めのいい部屋
マリア様がみてる:「フィレンツェ煎餅」なるインチキ名物が登場
冷静と情熱のあいだ Blu・Rosso
メディチ家の暗号:マイケル・ホワイトのミステリー。
春の戴冠:辻邦生が、名画「ヴィーナスの誕生」のボッティチェッリを通し、ルネサンス期のフィレンツェを描いた大長編小説
銀色のフィレンツェーメディチ家殺人事件:塩野七生の歴史小説、マルコ・ダンドロと美貌の娼妓の冒険。ヴェネチア編、ローマ編の三部作の2作目
わが友マキアヴェッリ:塩野七生の歴史小説
地上のヴィーナス:サラ・デュナントが描く14歳の少女の物語。メディチ家が崩壊した直後のフィレンツェが舞台
真夜中の訪問客:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブのミステリー。フィレンツェの街と人々の描写が秀逸
検察官:イギリスの女流作家、マグダレン・ナブ作のポリティカル・ミステリー。ジャーナリストのパオロ・ヴァゲッジとの共著
未完のモザイク:ジュリオ・レオ−ニの小説で、14世紀のフィレンツェを舞台に「神曲」の作者ダンテが殺人事件を捜査
殺しはフィレンツェ仕上げで:コーネリアス・ハーシュバーグのミステリー。1964年のエドガー賞受賞作
星の運命:ミカエラ・ロスナーの小説。少年とミケランジェロの交友を描くファンタジー歴史小説
女ごころ:サマセット・モームのサスペンス風小説。ショーン・ペン主演の映画「真夜中の銃声」の原作

戯曲[編集]
フィレンツェの悲劇 ツェムリンスキー
ジャンニ・スキッキ プッチーニ

映画[編集]
わが青春のフロレンス (1969, イタリア)
フィレンツェの風に抱かれて(1991年、東映/出演:若村麻由美、ジュリアーノ・ジェンマ、仲代達矢)
羊たちの沈黙(レクター博士が獄中でフィレンツェの絵を描いている場面)
ハンニバル(レクター博士は逃亡先のここで、ダンテ研究者のフェル博士を名乗って隠匿する)
冷静と情熱のあいだ
眺めのいい部屋(主に前半)

コンピュータゲーム[編集]
BITTERSWEET FOOLS(当地を舞台に、青年と少女の交流を描くインタラクティブ・ノベル)
月光のカルネヴァーレ
サフィズムの舷窓(ヒロインの一人の出身地。追加シナリオでは舞台にもなり、また、「メディチ家の子孫」という設定のキャラクターも登場)
シャドウハーツII
アサシン クリード II(主人公の出身地かつ舞台。ロレンツォ・デ・メディチやレオナルド・ダ・ヴィンチなど史実上の人物が多数登場)

漫画[編集]
GUNSLINGER GIRL(フィレンツェで大立ち回りを繰り広げる)
チェーザレ 破壊の創造者
岸辺露伴 グッチへ行く
白のフィオレンティーナ

アメリゴ・ヴェスプッチ

アメリカ大陸の発見(アメリカたいりくのはっけん)とは、特定の地「アメリカ大陸」に先史と有史の上で初めて実際に到達したことを指して言う歴史学等の分野の用語である。ただし、個々の文化圏によって「到達した事実」の捉え方・意味合いが異なり、したがって、(土地の)発見史というものは関連した文化圏の数だけ存在し得る。



目次 [非表示]
1 概説
2 個々の文化圏における発見 2.1 アメリカ州の先住民族
2.2 ノルマン人
2.3 ノルマン人以外のヨーロッパ人
2.4 ポリネシア人

3 上記以外の他の航海者
4 関連項目


概説[編集]

未知なる土地(ここでは大陸)の存在を概念として言い当てていても(通常の言葉ではそれも「発見」と言うが)実際に到達していなければこれを「(○○の地の)発見」とは呼ばない(cf. 発見#発見するということ)。その一方で、クリストファー・コロンブスがそうであるように、到達した地が新天地であると理解していなくとも(到達者が到達[発見]を認識していなくとも)事実として到達していれば、歴史上で「(○○の地を)発見した」と認められている。

個々の文化圏における発見[編集]

アメリカ州の先住民族[編集]

アメリカインディアン(アジア人種インディアン)、インディオを始めとするアメリカ州の先住民族は、アメリカ大陸に最初に居住した人類である可能性が高く、後期旧石器時代 (en) に属する紀元前12000年頃(cf. 紀元前10千年紀以前)、ヴュルム氷期(最終氷期。cf.)にベーリング地峡経由で陸路、アジア大陸からアメリカ大陸へ移動を果たしたと考えられている(別項「アラスカの歴史」も参照のこと)。彼らの移入によってアメリカ大陸の生物相(特に動物相)は以後、激変することになり、当地の環境全体に対して人類史上で最も大きな影響をもたらした出来事であったことは間違いない。

ノルマン人[編集]

詳細は「ノース人によるアメリカ大陸の植民地化」を参照

アイスランド系ノルマン人(ヴァイキングの一派)の航海者・レイフ・エリクソンとその船団は、10世紀の末(帰還した1000年より少し前)にアイスランドおよびグリーンランド経由で海路、アメリカ大陸に到達し、歴史時代の人類としては初めて新天地として発見した。東部海岸沿いに南下してニューファンドランド島などに進出し、ここを新天地「ヴィンランド」と呼んで定住を試みたものの、ほとんど世代を重ねることも無く入植は短期間のうちに頓挫している。

ノルマン人以外のヨーロッパ人[編集]

詳細は「ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化」を参照

ノルマン人以外のヨーロッパ人(日本語では俗に「西欧人」とも呼ばれるが、正確ではない)は、1492年、クリストファー・コロンブスによって初めてアメリカ海域に到達した。歴史時代においては後世に最も多大な影響を与えた探検事業である。1492年にコロンブスが到達したのはサン・サルバドル島であり、アメリカ大陸ではない。実際にアメリカ大陸に到達したのは1498年になってからである。

コロンブス以前にも、6世紀前期のクロンファートのブレンダン(事実であればレイフ・エリクソンよりさらに5世紀近く古い)や、1170年のウェールズ王子マドック (en) が到達していたという説もあるが、これらは伝説に色濃く装飾されて史実が判然としない。

ポリネシア人[編集]

ポリネシアではコロンブス以前から南米大陸原産のサツマイモが栽培されており、ポリネシア人が南アメリカ大陸から持ち込んだと考えられている。クック諸島では紀元1000年前後の痕跡がある。現在の学説ではポリネシアには紀元700年頃に持ち込まれたと考えられている。よって、少なくともその当時以降ポリネシア人は南アメリカ大陸と交流が有ったと思われる。

上記以外の他の航海者[編集]

中国は明代の武将にして朝貢外交および貿易の航海責任者であった鄭和は、彼が率いる船団の分隊が15世紀初頭にアフリカ大陸東岸に到達しており、アメリカ大陸にもコロンブスより70年から80年ほど早く到達していたと主張する者も存在する。

アメリゴ・ヴェスプッチ

アメリゴ・ヴェスプッチ (伊: Amerigo Vespucci、1454年3月9日 - 1512年2月22日) は、アメリカ州を探検したイタリアの探検家にして地理学者。フィレンツェ生まれ。身長約160cm(5ft3in)[1]。



目次 [非表示]
1 出身について
2 「新世界」の概念
3 引用
4 関連書籍
5 関連項目


出身について[編集]

アメリゴ・ヴェスプッチはフィレンツェ共和国の公証人ナスタジオ・ヴェスプッチとその妻エリザベッタの息子として生まれる。蜂(vespa)に由来する姓であることから蜂の図柄の入った家紋を持つヴェスプッチ家はプラートに源を持つため、プラート門に近いオニッサンティ地区に住んでいた。この地区には画家ボッティチェッリとギルランダイオの家もあり、彼らはヴェスプッチ家のために多くの仕事をこなした。オニッサンティ教会にあるギルランダイオが描いたヴェスプッチ家の集団肖像画に幼いアメリゴの姿がみられる。

父ナスタジオの弟ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチから教育を受け、ラテン語とギリシア語を習得し、プラトンを始めとする古代古典の文学や地理学に親しむようになる。当時高名な人文主義者として知られたジョルジョ・アントニオはメディチ分家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの文化人サークルに属していた。ボッティチェッリとギルランダイオもこのサークルと関係を持った。メディチ家追放後にフィレンツェの指導者となったピエロ・ソデリーニとはジョルジョ・アントニオの元で共に学んだ仲であり、アメリゴは『四回の航海』を彼に献じている。「あの過ぎ去った日々に、私たちは畏敬すべき善知識にして聖マルコ派の修道僧、ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ師のよき手本と理論のもとに文法学の初歩を聴講したものでありました。[2]」

ヴェスプッチ家はメディチ本家と分家の両方に関わっていたが、一族の中でも最も出世頭であったグイド・アントニオ・ヴェスプッチは本家のロレンツォ・イル・マニフィコに仕えていた。1478年、グイド・アントニオがフィレンツェ大使としてフランスに派遣された際、彼は当時24歳のアメリゴを秘書官として同行させた。当地に約2年滞在して任務をこなした後、ボローニャとミラノの宮廷を経由してフィレンツェに帰国した。

アメリゴは最終的には分家の当主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに仕えることとなる。ヴェスプッチ家のセミラミデがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに嫁いだ時、アメリゴは彼の家の執事として仕え始める。スペイン、セビリアにあるメディチ銀行の代理店に不正の疑いがかかった時、1489年に分家当主はアメリゴをその調査のため現地に派遣した。アメリゴはそこで親しくなった在スペイン歴の長いフィレンツェ人ジャンネット・ベラルディを信用のおける新支店長候補とし、1〜2ヶ月滞在の後フィレンツェへと引き揚げた。その帰途でピサに立ち寄り、金130ドゥカートで航海地図を購入している。

ベラルディ商会がセビーリャにおけるメディチ銀行代理店となったので、アメリゴは1491年に再びセビリアに赴く。ここでベラルディ商会に入り、メディチ家の事業を監督することになった。

スペインのカトリック国王フェルナンドが西インド探検航海を企画し、参加要請を受けたアメリゴ・ヴェスプッチは43歳にして初航海に出る。1497年から1498年にかけてカリブ海沿岸を探検した。1499年から1500年の第二回航海ではカリブ海から南下してブラジル北岸まで探検を行った。

この頃1500年カブラルが、ポルトガル王の命によって喜望峰を超えてインドに向かう途上で、南緯16度52分の地点でブラジルを発見した。ポルトガルはトルデシリャス条約によって、この領土を主張した。ポルトガル王は、発見された土地が単なる島なのか、あるいはスペインが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望んでいた。マヌエル1世はこの探検隊にブラジル北岸の探検経験をもつアメリゴ・ヴェスプッチを抜擢し、セビリアから呼び寄せる。

アメリゴ・ヴェスプッチ

1501年から1502年にかけた第三回航海で南米大陸東岸に沿って南下した。あまりの寒さと暴風雨の厳しさに耐えかね引き返さざるを得なかったが南緯50度まで到達することができた。当初ヴェスプッチに指揮権は無く、ゴンサロ・コエーリョ (Gonçalo Coelho) の指揮下にあったが、最終的にヴェスプッチが責任者となった。

アメリゴはこの第三回航海の最中にヨーロッパ人初の南半球での天体観測を行ったが、その記録はポルトガルの航海に関わる機密情報とみなされてマヌエル王によって没収された。地理学書の執筆に必要なその記録の返還を求め続けたが結局戻されることはなかった。『新世界』でも「第三の日誌を当ポルトガルロ国王陛下からお返ししていただきますならば[3]」、「当国王陛下からいまだ記録をお返ししていただかないという理由を御了承いただけるものと存じます[4]」と何度か触れて、他国への機密流出のためではなく純粋に学術的目的のために返還を求めているのだと訴えている。

1503年から1504年にかけての第四回航海では南米北東部沿岸を探検した。ポルトガル王の元で二回の探検調査を終えた後、アメリゴは1505年にスペインのセビリアに帰還する。

当時のスペインではインディアス航海に関わる業務(航海技術の問題、地理情報の管理など)が日々膨れ上がっていた。これらを通商院から切り離すため、フェルナンド王はポルトガルに倣って航海士免許制、航海訓練所創設、王立地図台帳といった制度をスペインに導入することを決める。アメリゴ・ヴェスプッチとファン・デ・ラ・コサ、ビセンテ・ヤニェス・ピンソン、ファン・ディアス・デ・ソリスの四名で1507年から準備を開始、1508年にアメリゴ・ヴェスプッチが初代の航海士総監(Pilot Major)に任命される。

1512年、セビリアで死去。

「新世界」の概念[編集]

アメリゴは1503年頃に論文『新世界』を発表する。1499年から1502年にかけての南米探検で彼は南緯50度まで沿岸を下った。南米大陸がアジア最南端(マレー半島、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の経度をはるかに南へ越えて続くため、それが既知の大陸のどれにも属さない「新大陸」であることに気づいた。ちなみに当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は南米大陸についてのみ論じている。ヨーロッパの古代からの伝統的世界観、アジア・アフリカ・ヨーロッパからなる三大陸世界観を覆すこの主張は当時最先端の知識人層である人文主義者たちにはセンセーショナルに受け入れられたが、ヨーロッパ全体にすぐ浸透したわけではない。

1507年、南ドイツの地理学者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリゴの『新世界』を収録した『世界誌入門』(Cosmographiae Introductio)を出版した。その付録の世界地図にアメリゴのラテン語名アメリクス・ウェスプキウス (Americus Vespucius) の女性形からこの新大陸にアメリカという名前が付けた。これがアメリカ大陸という名を用いた最初の例となった。

1513年のバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの探検で北米と南米の二つの大陸が陸続きで繋がっていること、南の海(太平洋。パナマ地峡の南にあたる。)が確認された。しかしその後もインディアスという呼称は慣習的に根強く残った。

引用[編集]
1.^ 当時のアメリカでは、この身長でも平均ほどの高さであった。
2.^ 長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『四回の航海』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、263頁。
3.^ 長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、336頁。
4.^ 長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、337頁。

関連書籍[編集]
Arciniegas, German (1955) Amerigo and the New World: the life & times of Amerigo Vespucci. New York: Knopf. 1955 English translation by Harriet de Onís. First edition published in Spanish in 1952 as Amerigo y el Nuevo Mundo, Mexico: Hermes.
Pohl, Frederick J. (1944) Amerigo Vespucci: Pilot Major. New York: Columbia University Press.
シュテファン・ツヴァイク著「アメリゴ 歴史的誤解の物語」(「ツヴァイク全集18 マゼラン」及び「マゼラン ツヴァイク伝記文学コレクション」関楠生・河原忠彦訳、みすず書房)
アメリゴ・ヴェスプッチ 謎の航海者の軌跡 色摩力夫 中公新書、1993
アメリゴ・ヴェスプッチの書簡集(長南実訳 増田義郎注) 大航海時代叢書 第1 (航海の記録) 岩波書店

アメリカ大陸

アメリカ大陸(アメリカたいりく)とは、南アメリカ大陸と北アメリカ大陸をあわせた呼称。両アメリカや新大陸などとも言う。

N60-90, W150-180 N60-90, W120-150 N60-90, W90-120 N60-90, W60-90 N60-90, W30-60
N30-60, W150-180 N30-60, W120-150 N30-60, W90-120 N30-60, W60-90 N30-60, W30-60
N0-30, W120-150 N0-30, W90-120 N0-30, W60-90 N0-30, W30-60
S0-30, W60-90 S0-30, W30-60
S30-60, W60-90 S30-60, W30-60
30 degrees, 1800x1800

南北に分かれた二大陸であるが、両者はパナマ地峡で接続しているため、まとめて超大陸と見做すこともできる。なお、広く「アメリカ(米州)」というときは、カリブ海やカナダ北部の島々・海域をも含める場合が多い。

「アメリカ」と言う名称は、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの名から付けられた。詳細はアメリカ州を参照。
北アメリカ大陸はローラシア大陸から分裂して生成した。
南アメリカ大陸はゴンドワナ大陸から分裂して生成した。
両者は約500万年前(鮮新世)にパナマ地峡で結ばれるまで隔絶していたため、生物は独自の進化をしている。そのため、両者の生物相はかなり異なる。(新北区、新熱帯区も参照)

アメリカ大陸

アメリカ大陸(アメリカたいりく)とは、南アメリカ大陸と北アメリカ大陸をあわせた呼称。両アメリカや新大陸などとも言う。

N60-90, W150-180 N60-90, W120-150 N60-90, W90-120 N60-90, W60-90 N60-90, W30-60
N30-60, W150-180 N30-60, W120-150 N30-60, W90-120 N30-60, W60-90 N30-60, W30-60
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S30-60, W60-90 S30-60, W30-60
30 degrees, 1800x1800

南北に分かれた二大陸であるが、両者はパナマ地峡で接続しているため、まとめて超大陸と見做すこともできる。なお、広く「アメリカ(米州)」というときは、カリブ海やカナダ北部の島々・海域をも含める場合が多い。

「アメリカ」と言う名称は、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの名から付けられた。詳細はアメリカ州を参照。
北アメリカ大陸はローラシア大陸から分裂して生成した。
南アメリカ大陸はゴンドワナ大陸から分裂して生成した。
両者は約500万年前(鮮新世)にパナマ地峡で結ばれるまで隔絶していたため、生物は独自の進化をしている。そのため、両者の生物相はかなり異なる。(新北区、新熱帯区も参照)

大西洋

大西洋(たいせいよう、羅: Oceanus Atlanticus、英: Atlantic Ocean)とは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。 なお、大西洋は、南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。これらの大陸の分裂は、ほぼ同時期に発生したと考えられており、したがって南大西洋と北大西洋もほぼ同時期に誕生したとされる。



目次 [非表示]
1 地理 1.1 水深
1.2 海底
1.3 海水
1.4 海流

2 生物
3 歴史
4 大西洋に接する国と地域 4.1 ヨーロッパ
4.2 アフリカ
4.3 南アメリカ
4.4 カリブ海
4.5 北アメリカ、中央アメリカ

5 大西洋ニーニョ
6 関連項目
7 出典


地理[編集]





大西洋
大西洋の面積は約8660万平方km。これはユーラシア大陸とアフリカ大陸の合計面積よりわずかに広い面積だ。大西洋と太平洋との境界は、南アメリカ大陸最南端のホーン岬から南極大陸を結ぶ、西経67度16分の経線と定められている。また、インド洋との境界は、アフリカ大陸最南端のアガラス岬から南極大陸を結ぶ、東経20度の経線と定められている。そして、南極海との境界は、南緯60度の緯線と定められている。大西洋の縁海としては、メキシコ湾やカリブ海を含むアメリカ地中海、地中海、黒海、バルト海があり、縁海との合計面積は約9430万平方kmである。

水深[編集]

他の大洋と比較した場合、大西洋の特徴は、水深の浅い部分の面積が多いことである。とは言っても大西洋に水深4000mから5000mの部分の面積が最も多いということは、他の大洋と変わらない。しかし、全海洋平均では31.7%がこの区分に属するが、大西洋の場合は30.4%である。そして、水深0mから200m、いわゆる大陸棚の面積が大西洋では8.7%を占める(太平洋5.6%)、0mから2000mの区分では19.8%(同12.9%)となる。このため、大西洋の平均深度は三大大洋(太平洋、大西洋、インド洋)のうち最も浅い3736mである。なお、大西洋での最大深度は8605m(プエルトリコ海溝)。

海底[編集]





大西洋と大陸の地形図
海洋底の骨格となる構造は、アイスランドから南緯58度まで大西洋のほぼ中央部を南北に約16000kmに渡って連なる大西洋中央海嶺である。なお、海嶺(海底にある山脈)の頂部の平均水深は2700mである。地質時代にプレートの運動によって南北米大陸と欧州・アフリカ大陸が分裂し、大西洋海底が拡大していった。中央海嶺はマントルからマグマが噴き出た場所である。太平洋と比較すると、海嶺(大西洋中央海嶺を除く)や海山の発達に乏しい。

海底に泥や砂あるいは生物遺骸が堆積しているのは、他の大洋と同様だが、大西洋は他の大洋と比べて、水深の浅い場所が多い。大西洋の沿岸部では河川などによって陸から運ばれた物質が溜まって、厚く堆積している。そして沖合(遠洋)には、粒子の細かい赤色粘土、軟泥(プランクトン死骸など)が堆積している。こうした大西洋の堆積物は、最大で約3300m堆積している。大西洋の堆積物は、太平洋の堆積物と比べると非常に厚い。この理由としては、太平洋に比べ大西洋が狭く、堆積物の主な供給源である陸地からどこもあまり離れていないこと、太平洋に比べて注ぎ込む大河が多い上に、河川の流域面積も広く、河川が侵食して運搬してきた大量の土砂などが流れ込むこと、などが挙げられる [1] 。

また、海底にはマンガン団塊のような自生金属鉱物も見られる。

海水[編集]

大西洋の平均水温は4℃、平均塩分濃度は35.3‰。この水温と塩分濃度は、ともに他の大洋とほぼ同じである。なお、海水の塩分濃度は均一ではなく、熱帯降雨が多い赤道の北や、極地方、川の流入がある沿岸部で低く、降雨が少なく蒸発量が大きい北緯25度付近と赤道の南で高い。また、水温は極地方での-2℃から赤道の北の29℃まで変化する。なお、大西洋の南緯50度付近には、表面付近の海水温が急に2度〜3度変化する潮境が存在し、ここは南極収束線と呼ばれる [2] 。 ちなみに、この南極収束線はインド洋や太平洋にも存在し、インド洋の場合も南緯50度付近だが、太平洋は南緯60度付近と位置が大きく異なっている [2] 。

海流[編集]





海水大循環
大西洋の表層に存在する主な海流は、北から、東グリーンランド海流(北部、寒流)、北大西洋海流(北部、暖流)、ラブラドル海流(北西部、寒流)、メキシコ湾流(西部、暖流)、カナリア海流(東部、寒流)、アンティル海流(西部、暖流)、北赤道海流(東部、暖流)、赤道を超えて、南赤道海流(西部、暖流)、ベンゲラ海流(東部、寒流)、ブラジル海流(西部、暖流)、フォークランド海流(南部、寒流)である。また、現在の地球の海には地球全体を巡る海水大循環があり、大西洋の極海で冷やされた海水は大西洋深層流として南下し、太平洋やインド洋で暖められ、アフリカ南部から北上して戻ってくる。一方、赤道を境にそれぞれ北大西洋と南大西洋の表層では海流が大きな渦として循環する。これらの海流(循環)は、地球全体の気候に影響を与えるくらいに、多くの熱を輸送している。

ところで、北大西洋の中央部にあるサルガッソ海には、目立った海流が無い。これは、南赤道海流・メキシコ湾流・北大西洋海流・カナリア海流によって構成される大循環の中心に位置し、これらの循環から取り残された位置に、このサルガッソ海が存在するからである。また、ちょうどこの場所は亜熱帯の無風帯に属するため風もほとんど吹かない。このため上記4海流から吹き寄せられた海藻類(いわゆる流れ藻)が多く、風がない上に海藻が船に絡みつくことから、航海に帆船を使用していた時代には難所として知られていた。なお、このサルガッソ海付近は、大西洋の中でも海水面が少し高くなっている場所であることでも知られている [3] 。

生物[編集]

大西洋は生物の種数が少ない。様々な分類群において太平洋やインド洋に比べて数分の1程度の種数しか持たない。これは、大西洋が大陸移動によって作られた新しい海であること、他の海洋とは南北の極地でしか繋がっていないために生物の移動が困難であることなどによると考えられる。ちなみに、大西洋の魚類の総種数より、アマゾン川の淡水魚の種数の方が多いとも言われる[要出典]。

大西洋の各地には漁場が点在するが、とくに大西洋北部はメキシコ湾流が寒冷な地方にまで流れ込むために海水の攪拌がおき、世界屈指の好漁場となっている。メキシコ湾流とラブラドル海流が出会う北アメリカ・ニューファンドランド沖のグランドバンクや、北海やアイスランド沖などの大西洋北東部が特に好漁場となっている。

歴史[編集]

大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスのコーンウォール地方と錫の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。13世紀末には大西洋のヨーロッパ沿岸航路が活発化し、ハンザ同盟が力を持っていた北海・バルト海航路と、ヴェネツィアやジェノヴァが中心となる地中海航路が直接結びつくこととなった。これによって、それまでの内陸のシャンパーニュ大市に代わってフランドルのブリュージュが[4]、その後はアントウェルペンがヨーロッパ南北航路の結節点となり、ヨーロッパ商業の一中心地となった。

最も古い大西洋横断の記録は、西暦1000年のレイフ・エリクソンによるものである。これに先立つ9世紀ごろから、ヴァイキングの一派であるノース人が本拠地のノルウェーから北西に勢力を伸ばし始め、874年にはアイスランドに殖民し、985年には赤毛のエイリークがグリーンランドを発見した。そして、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンがヴィンランド(現在のニューファンドランドに比定される)に到達した。しかしこの到達は一時的なものに終わり、グリーンランド植民地も15世紀ごろには寒冷化により全滅してしまう。

一方そのころ、南のイベリア半島においてはポルトガルのエンリケ航海王子が1416年ごろからアフリカ大陸沿いに探検船を南下させるようになり、1434年にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていたボハドール岬(スペイン語版)(スペイン語: Cabo Bojador アラビア語: رأس بوجدور‎ ra's Būyadūr ラス・ブジュドゥール)を突破[5]。以後も探検船は南下し続け、1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。

1492年にはスペインの後援を受けたクリストファー・コロンブスが大西洋中部を横断し、バハマ諸島の1つであるサン・サルバドル島に到着した。以後、スペインの植民者が次々とアメリカ大陸に侵攻し、16世紀初頭にはアメリカ大陸の中央部はほとんどがスペイン領となった。一方、コロンブスの報が伝わってすぐ、フランスの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、メキシコ湾流とラブラドル海流が潮目を成すことで世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖にてタラをとるようになった。

16世紀には新大陸で取れた銀がスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となるが、やがてオランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島やアメリカ南部に運んで砂糖や綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった[6]。

19世紀に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。

大西洋に接する国と地域[編集]

ヨーロッパ[編集]

ベルギーの旗 ベルギー
デンマークの旗 デンマーク
ドイツの旗 ドイツ
スペインの旗 スペイン
フランスの旗 フランス
フェロー諸島の旗 フェロー諸島
ガーンジー島の旗 ガーンジー
マン島
アイルランドの旗 アイルランド
アイスランドの旗 アイスランド
ジャージー島の旗 ジャージー
オランダの旗 オランダ
ノルウェーの旗 ノルウェー
ポルトガルの旗 ポルトガル
スウェーデンの旗 スウェーデン
イギリスの旗 イギリス

アフリカ[編集]

モロッコの旗 モロッコ
アンゴラの旗 アンゴラ
ベナンの旗 ベナン
ブーベ島の旗 ブーベ島
コートジボワールの旗 コートジボワール
カメルーンの旗 カメルーン
コンゴ民主共和国の旗 コンゴ民主共和国
コンゴ共和国の旗 コンゴ共和国
カーボベルデの旗 カーボベルデ
西サハラの旗 西サハラ (モロッコ占領中)
スペインの旗 スペイン (カナリア諸島)
ガボンの旗 ガボン
ガーナの旗 ガーナ
ギニアの旗 ギニア
ガンビアの旗 ガンビア
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ
赤道ギニアの旗 赤道ギニア
リベリアの旗 リベリア
モーリタニアの旗 モーリタニア
ナミビアの旗 ナミビア
ナイジェリアの旗 ナイジェリア
セネガルの旗 セネガル
セントヘレナの旗 セントヘレナ
シエラレオネの旗 シエラレオネ
サントメ・プリンシペの旗 サントメ・プリンシペ
トーゴの旗 トーゴ
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国

南アメリカ[編集]

アルゼンチンの旗 アルゼンチン
ブラジルの旗 ブラジル
チリの旗 チリ
コロンビアの旗 コロンビア
フォークランド諸島の旗 フォークランド諸島
フランスの旗 フランス (フランス領ギアナ)
ガイアナの旗 ガイアナ
サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島の旗 サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島
スリナムの旗 スリナム
ウルグアイの旗 ウルグアイ
ベネズエラの旗 ベネズエラ

カリブ海[編集]

アルバの旗 アルバ
アンギラの旗 アンギラ
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ
バハマの旗 バハマ
Flag of Saint Barthelemy (local).svg サン・バルテルミー
バルバドスの旗 バルバドス
キューバの旗 キューバ
キュラソーの旗 キュラソー
ケイマン諸島の旗 ケイマン諸島
ドミニカ国の旗 ドミニカ国
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
フランスの旗 フランス (マルティニークおよびグアドループ)
グレナダの旗 グレナダ
ハイチの旗 ハイチ
ジャマイカの旗 ジャマイカ
セントルシアの旗 セントルシア
Flag of Saint-Martin (fictional).svg サン・マルタン
モントセラトの旗 モントセラト
オランダの旗 オランダ (BES諸島)
プエルトリコの旗 プエルトリコ
セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス
シント・マールテンの旗 シント・マールテン
タークス・カイコス諸島の旗 タークス・カイコス諸島
トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ
セントビンセント・グレナディーンの旗 セントビンセント・グレナディーン
イギリス領ヴァージン諸島の旗 イギリス領ヴァージン諸島
アメリカ領ヴァージン諸島の旗 アメリカ領ヴァージン諸島

北アメリカ、中央アメリカ[編集]

ベリーズの旗 ベリーズ
バミューダ諸島の旗 バミューダ諸島
カナダの旗 カナダ
コスタリカの旗 コスタリカ
グリーンランドの旗 グリーンランド
グアテマラの旗 グアテマラ
ホンジュラスの旗 ホンジュラス
メキシコの旗 メキシコ
ニカラグアの旗 ニカラグア
パナマの旗 パナマ
サンピエール・ミクロンの旗 サンピエール・ミクロン
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

大西洋ニーニョ[編集]

数年に一度の頻度で発生する現象で、太平洋のエルニーニョ現象ほど水温偏差は大きくない。周辺地域の南アメリカやアフリカの気候への影響は大きく、熱帯域で洪水や干魃を発生させる要因となっているほか、エルニーニョにも影響を与えていることも示唆されている。発生のメカニズムはエルニーニョ現象と同様に、「数年に一度、弱まった貿易風の影響で、西側の暖水が東へと張り出す」タイプと「赤道の北側で海洋表層の水温が通常よりも暖められ、暖められた海水が赤道域に輸送される[7]」があると考えられている。

グレートブリテン島

グレートブリテン島(グレートブリテンとう、英:Great Britain、羅:Britannia Maior ブリタンニア・マーイヨル、和訳で「大ブリテン島」)は、北大西洋に位置する島で、アイルランド島、マン島などとともにブリテン諸島を構成する。ヨーロッパ大陸からみるとドーバー海峡を挟んで北西の方向にあたり、ヨーロッパ地域の一部である。面積は、219,850km2で、世界で9番目に大きい島である([1]参照)。イギリスの国土の中心的な島で、同国の首都ロンドンをはじめとする多くの大都市を有する。

グレートブリテン島は、政治的に見ると、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国」からなる。





グレートブリテン島の位置


目次 [非表示]
1 名前の由来
2 分類
3 都市
4 地形
5 関連項目


名前の由来[編集]

グレートブリテン島の名前の記録は、最古のものとしては、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にあるアルビオンである。その後、紀元前4世紀のギリシャ人商人の航海記にあるプレタニケから、現在のブリテン諸島を指す言葉としてブリトニという呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語でブリタンニア(Britannia)と呼ばれるようになった。

ブリトン人(Britons)は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域をブルターニュ(Bretagne; ブリタニアのフランス語形)と呼び、本来のブリタニアをグランド・ブルターニュ(Grande-Bretagne; 大ブリタニア)と呼んで区別した。ヨーロッパの地名は、近い方を「小」、遠い方を「大」とする慣習がある。これが英語に輸入され、英訳された形のグレートブリテンという地名が定着する。

分類[編集]
北部:スコットランド
南部:イングランド
西部:ウェールズ

都市[編集]
グラスゴー
エディンバラ
マンチェスター
バーミンガム
ロンドン
カーディフ

地形[編集]

古期造山帯に位置しているため、平坦な土地である。アイルランド島との間をアイリッシュ海、スカンディナビア半島およびユトランド半島との間を北海とよぶ。
カンブリア山脈
テムズ川

イングランド

イングランド(英: England)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する四つの「国(イギリスのカントリー)」(英: country)の一つである。人口は連合王国の83%以上[1]、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。

イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。



目次 [非表示]
1 用語法
2 歴史
3 政治 3.1 行政区画
3.2 主要都市

4 地理 4.1 気候

5 経済
6 国民 6.1 宗教 6.1.1 キリスト教
6.1.2 その他の宗教

6.2 教育

7 文化 7.1 音楽 7.1.1 クラシック音楽
7.1.2 ポピュラー音楽

7.2 文学
7.3 食文化
7.4 スポーツ 7.4.1 サッカー
7.4.2 ラグビーおよびクリケット
7.4.3 ロンドンオリンピック


8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


用語法[編集]

日本においては、「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば(通常は「連合王国」の意味で用いられる)「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがある。また、日本に限らず、文脈によってはウェールズを含めた意味で、または連合王国全体を指してイングランドに相当する単語が用いられることもある。しかし、いずれも正確でなく、ポリティカル・コレクトネスに反する(政治的に正しくない)とされる。

歴史[編集]

詳細は「イングランドの歴史」を参照

イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、ウェセックス王アルフレッドが最後にヴァイキングに打ち勝ってロンドンを奪還し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となる。一時イングランドはデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが、その後再びアングロ・サクソンの王家が復興する。しかし1066年ノルマンディー公ギヨームに征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン王朝が開かれた。ノルマン人の征服によってアングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。その後、プランタジネット王朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。そして最終的に、14〜15世紀に起こった百年戦争によってほぼ完全にフランス領土を失い、このような過程を経て現在に繫がるイングランド王国が成立し、民族としてのイングランド人が誕生した。

政治[編集]





ウェストミンスター宮殿
1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していたが、1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成した。合同法によって両国の議会は統合された。

1996年に北部アイルランド、1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。

行政区画[編集]

詳細は「イングランドの行政区画」を参照

イングランドの地方行政制度は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、ロンドン市役所はサッチャー政権によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、2000年にブレア政権によってグレーター・ロンドン地域として復活した。

現在のイングランドは行政的に九つの「地域」[2] に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。

つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア労働党政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だが、保守党は反対している。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州[3]または都市州[4]であり、都市州の下級行政単位として区[5]が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州[6]以外に伝統的な州[7]も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。

主要都市[編集]


都市



人口

ロンドン グレーター・ロンドン 7,172,091
バーミンガム ウェスト・ミッドランズ 970,892
リヴァプール マージーサイド 469,017
リーズ ウェスト・ヨークシャー 443,247
シェフィールド サウス・ヨークシャー 439,866
ブリストル ブリストル 420,556
マンチェスター グレーター・マンチェスター 394,269
レスター レスターシャー 330,574
コヴェントリー ウェスト・ミッドランズ 303,475
キングストン・アポン・ハル イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー 301,416
人口は2001年国勢調査より。

地理[編集]

イングランドはグレートブリテン島の南部約3分の2とランズエンド岬南西の大西洋上にあるシリー諸島、イギリス海峡にあるワイト島などの周辺の小さい島で構成されている。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33km である。

東側は北海に面し、西側はトゥイード河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、アイリッシュ海沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端ランズエンド岬に達する。北境にあたるスコットランドとの境界は、西のソルウェー湾からチェビオット丘陵にそって東のトゥイード河口まで、南はイギリス海峡に面している。

地形は変化に富み、ティーズ川とエクス川を結ぶ線で分けられる。北部と西部は全般に山岳地帯で、ペナイン山脈がイングランド北部の背骨を形成している。北西部カンブリアにはカンブリア山地があり、標高 978m で最高峰のスコーフェル山はイングランドの最高峰でもある。またここは大小様々な湖が連なる湖水地方として知られ、ピーターラビットの舞台としても有名である。また、平地の部分もあり、フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。

イングランドの最大の都市はロンドンであり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は蒸気機関で有名なジェームズ・ワットが生涯のほとんどを過ごしたバーミンガムである。英仏海峡トンネルによってイングランドは大陸ヨーロッパと繫がっている。イングランドで最も大きい天然港は南海岸のプールである。オーストラリアのシドニーに次いで世界で2番目に大きい天然港という主張もあるが、これには異論もある。

気候[編集]

イングランドは温帯であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの偏西風が大西洋の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は2003年8月10日にケント州のブログデールの 38.5℃である[8]。最低気温の記録は1982年1月10日にシュロップシャー州のエドグモンドの -26.1℃である[9]。年平均気温は、南部で 11.1℃、北西部で 8.9℃。月平均気温は、もっとも暑い7月で約 16.1℃、もっとも寒い1月で約 4.4℃ある。-5℃以下になったり、30℃以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4℃、7月が 17.8℃である。霧やくもりがちの天気が多く、とくにペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月がもっとも多い。

経済[編集]

詳細は「:en:Economy of England」を参照





イングランド銀行
イングランドの経済はヨーロッパで2番目、世界で8番目に大きい。連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する[10]。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。化学工業、製薬、航空業、軍需産業、ソフトウェアなどが発達している。

イングランドは工業製品を輸出し、プルトニウム、金属、紅茶、羊毛、砂糖、木材、バター、肉のような資源を輸入している[11]。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している[12]。

ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの金利と金融政策を決定する中央銀行であるイングランド銀行やヨーロッパ最大の株式市場であるロンドン証券取引所がある。

イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している[13]。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。

イングランドではポンドが法定通貨である。

国民[編集]

詳細は「イングランド人」を参照

宗教[編集]

かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。

キリスト教[編集]





カンタベリー大聖堂
キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。

16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。

イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。

近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。

その他の宗教[編集]

20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。

イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。

教育[編集]

詳細は「イギリスの教育#イングランドの教育制度」を参照

イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は 90% が公立である。

大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学をのぞいて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。

文化[編集]

詳細は「en:Culture of England」を参照

現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。

イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。

音楽[編集]

クラシック音楽[編集]
イングランドの作曲家にはウィリアム・バードやヘンリー・パーセル、エドワード・エルガーらがいる。
イングランドの演奏家にはクリフォード・カーゾン(ピアニスト)やジョン・バルビローリ(指揮者)、サイモン・ラトル(指揮者)、デニス・ブレイン(ホルン奏者)、キャスリーン・フェリアー(コントラルト歌手)らがいる。

ポピュラー音楽[編集]
1960年代にはビートルズが登場した。その後ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン等が現れた。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こる。
1970年代にはグラム・ロックやプログレッシヴ・ロックのバンドが現れた。
1980年代には MTV ブームの中、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ等が登場した。
1990年代にはオアシス、ブラー、スパイス・ガールズ、プロディジー等が登場した。

文学[編集]
ウィリアム・シェイクスピア
メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』)

食文化[編集]

イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。

スポーツ[編集]

クリケット、ラグビー、ラグビーリーグ、サッカー、テニス、ゴルフ、バドミントンといった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカーとクリケットは依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツである。スヌーカーやボウルズといった競技もイングランド発祥である。

サッカー[編集]

過去サッカー発祥の地である。1863年10月26日にザ・フットボール・アソシエーション (The FA) と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する The FA は世界で唯一国名の付かない最古のサッカー協会である。

不景気やフーリガン問題で一時低迷したが、現在国内リーグのプレミアリーグは世界中から優れた選手を集め、最高峰のリーグと称される。クラブチームではマンチェスター・ユナイテッド FC、リヴァプール FC、チェルシー FC、アーセナル FC などが強豪として世界に知られている。欧州サッカー連盟の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。サッカーイングランド代表は、自国で開催された1966年の FIFA ワールドカップで優勝した。しかし、それ以来主要な国際大会(FIFA ワールドカップ、UEFA 欧州選手権)では決勝まで進めていない(1990年のワールドカップで準決勝進出、2002年と2006年ワールドカップは準々決勝に進出)。2008年の欧州選手権予選では24年ぶりに本大会に進めず終わった。

ラグビーおよびクリケット[編集]

ラグビーイングランド代表とクリケットイングランド代表は世界大会で活躍している。ラグビーでは2003年のラグビーワールドカップで優勝し、クリケットでは2005年のアッシュシリーズで優勝した。ラグビーのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。

ロンドンオリンピック[編集]

2012年夏季オリンピックは7月26日から8月12日まで首都ロンドンで開催された。ロンドンは1908年、1948年にもオリンピックを開催しており、同じ都市で3度開催されるのは史上初である。(実際には1944年に開催が予定されるも、太平洋戦争による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4回目の開催で史上最多であることには変わりはない)

イングランド

イングランド(英: England)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する四つの「国(イギリスのカントリー)」(英: country)の一つである。人口は連合王国の83%以上[1]、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。

イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。



目次 [非表示]
1 用語法
2 歴史
3 政治 3.1 行政区画
3.2 主要都市

4 地理 4.1 気候

5 経済
6 国民 6.1 宗教 6.1.1 キリスト教
6.1.2 その他の宗教

6.2 教育

7 文化 7.1 音楽 7.1.1 クラシック音楽
7.1.2 ポピュラー音楽

7.2 文学
7.3 食文化
7.4 スポーツ 7.4.1 サッカー
7.4.2 ラグビーおよびクリケット
7.4.3 ロンドンオリンピック


8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


用語法[編集]

日本においては、「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば(通常は「連合王国」の意味で用いられる)「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがある。また、日本に限らず、文脈によってはウェールズを含めた意味で、または連合王国全体を指してイングランドに相当する単語が用いられることもある。しかし、いずれも正確でなく、ポリティカル・コレクトネスに反する(政治的に正しくない)とされる。

歴史[編集]

詳細は「イングランドの歴史」を参照

イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマ領ブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルト系ブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、ウェセックス王アルフレッドが最後にヴァイキングに打ち勝ってロンドンを奪還し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。その後、エドガーの時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域の王国となる。一時イングランドはデンマーク王クヌーズ(カヌート)に征服されるが、その後再びアングロ・サクソンの王家が復興する。しかし1066年ノルマンディー公ギヨームに征服され、ギョームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン王朝が開かれた。ノルマン人の征服によってアングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語が国王・貴族の公用語となった。その後、プランタジネット王朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。そして最終的に、14〜15世紀に起こった百年戦争によってほぼ完全にフランス領土を失い、このような過程を経て現在に繫がるイングランド王国が成立し、民族としてのイングランド人が誕生した。

政治[編集]





ウェストミンスター宮殿
1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していたが、1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成した。合同法によって両国の議会は統合された。

1996年に北部アイルランド、1999年にはスコットランドに292年ぶりに議会が復活しウェールズ議会も開設され、地方分権的自治が始まったが、「イングランド議会」は議会合同以来存在しない。

行政区画[編集]

詳細は「イングランドの行政区画」を参照

イングランドの地方行政制度は時の政府の政策によって変遷が激しく、歴史的な実態と必ずしも対応していない。たとえば、ロンドン市役所はサッチャー政権によって廃止され、一種の区役所のみが正規の行政組織として機能していたが、2000年にブレア政権によってグレーター・ロンドン地域として復活した。

現在のイングランドは行政的に九つの「地域」[2] に区分される。このうち大ロンドン地域のみが2000年以降市長と市議会を有するが、その他の地域には知事のような首長は存在せず、議会を設置するかどうかは住民投票によって決まるので、議会が存在しない地域もある。地域を統括する行政庁は存在するがそれほど大きな権限はない。

つまり「地域」は行政上存在してもあまり実体のある存在とはいえない。ブレア労働党政権は「地域」の行政的権限を強化したい意向だが、保守党は反対している。したがって現在のところ、実体のある地方行政組織は行政州[3]または都市州[4]であり、都市州の下級行政単位として区[5]が存在する地域もあるが、都市州がなく区のみが存在する地域もある。行政州[6]以外に伝統的な州[7]も名目的ながら現在も使用されるが、行政的な実体はない。

主要都市[編集]


都市



人口

ロンドン グレーター・ロンドン 7,172,091
バーミンガム ウェスト・ミッドランズ 970,892
リヴァプール マージーサイド 469,017
リーズ ウェスト・ヨークシャー 443,247
シェフィールド サウス・ヨークシャー 439,866
ブリストル ブリストル 420,556
マンチェスター グレーター・マンチェスター 394,269
レスター レスターシャー 330,574
コヴェントリー ウェスト・ミッドランズ 303,475
キングストン・アポン・ハル イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー 301,416
人口は2001年国勢調査より。

地理[編集]

イングランドはグレートブリテン島の南部約3分の2とランズエンド岬南西の大西洋上にあるシリー諸島、イギリス海峡にあるワイト島などの周辺の小さい島で構成されている。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。連合王国の中で最もヨーロッパ大陸に近く、対岸のフランスまで約 33km である。

東側は北海に面し、西側はトゥイード河口からスコットランドとの境界沿いに南西へむかい、アイリッシュ海沿岸部、ウェールズとの境界線をとおって、グレートブリテン島の西端ランズエンド岬に達する。北境にあたるスコットランドとの境界は、西のソルウェー湾からチェビオット丘陵にそって東のトゥイード河口まで、南はイギリス海峡に面している。

地形は変化に富み、ティーズ川とエクス川を結ぶ線で分けられる。北部と西部は全般に山岳地帯で、ペナイン山脈がイングランド北部の背骨を形成している。北西部カンブリアにはカンブリア山地があり、標高 978m で最高峰のスコーフェル山はイングランドの最高峰でもある。またここは大小様々な湖が連なる湖水地方として知られ、ピーターラビットの舞台としても有名である。また、平地の部分もあり、フェンと呼ばれる東部の湿地帯は農業用地になっている。

イングランドの最大の都市はロンドンであり、世界でも最も繁栄した都市の一つである。第二の都市は蒸気機関で有名なジェームズ・ワットが生涯のほとんどを過ごしたバーミンガムである。英仏海峡トンネルによってイングランドは大陸ヨーロッパと繫がっている。イングランドで最も大きい天然港は南海岸のプールである。オーストラリアのシドニーに次いで世界で2番目に大きい天然港という主張もあるが、これには異論もある。

気候[編集]

イングランドは温帯であり、海にかこまれているため気候は比較的穏やかであるが、季節によって気温は変動する。南西からの偏西風が大西洋の暖かく湿った空気を運んでくるため東側は乾燥し、ヨーロッパ大陸に近い南側が最も暖かい。高地地帯から離れた地域においては頻繁ではないが、冬や早春には雪が降ることがある。イングランドの最高気温の記録は2003年8月10日にケント州のブログデールの 38.5℃である[8]。最低気温の記録は1982年1月10日にシュロップシャー州のエドグモンドの -26.1℃である[9]。年平均気温は、南部で 11.1℃、北西部で 8.9℃。月平均気温は、もっとも暑い7月で約 16.1℃、もっとも寒い1月で約 4.4℃ある。-5℃以下になったり、30℃以上になることはほとんどない。ロンドンの月平均気温は、1月が 4.4℃、7月が 17.8℃である。霧やくもりがちの天気が多く、とくにペナイン山脈や内陸部で顕著である。年降水量は 760mm ほどで年間を通して降水量が豊富であるが、月別では10月がもっとも多い。

経済[編集]

詳細は「:en:Economy of England」を参照





イングランド銀行
イングランドの経済はヨーロッパで2番目、世界で8番目に大きい。連合王国(イギリス)の中では最大である。ヨーロッパの上位500社のうち100社がロンドンに存在する[10]。イングランドは高度に工業化されており、世界経済の中心の一つであった。化学工業、製薬、航空業、軍需産業、ソフトウェアなどが発達している。

イングランドは工業製品を輸出し、プルトニウム、金属、紅茶、羊毛、砂糖、木材、バター、肉のような資源を輸入している[11]。ただし、牛肉に関してはフランス、イタリア、ギリシャ、オランダ、ベルギー、スペインなどへ輸出している[12]。

ロンドンは国際的な金融市場の中心地であり、イギリスの金利と金融政策を決定する中央銀行であるイングランド銀行やヨーロッパ最大の株式市場であるロンドン証券取引所がある。

イングランドの伝統的な重工業はイギリス全体の重工業と同様に、急激に衰退した。一方でサービス業が成長し、イングランドの経済の重要な位置を占めている。たとえば観光業はイギリスで6番目に大きな産業であり760億ポンドの規模である。2002年時点では労働人口の 6.1% にあたる180万人をフルタイムで雇用している[13]。ロンドンには世界中から毎年数百万人が観光に訪れる。

イングランドではポンドが法定通貨である。

国民[編集]

詳細は「イングランド人」を参照

宗教[編集]

かつてはイングランド国教会以外の宗教、とりわけローマ・カトリックが禁圧されたが、現在のイングランドには多様な宗教が存在し、特定の宗教を持たないあるいは無宗教の人の割合も多い。宗教的な行事の位置づけは低下しつつある。2000年時点のイングランドの宗教の比率は以下の通りである。キリスト教、75.6%;イスラム教、1.7%;ヒンドゥー教、1%;その他、1.6%;特定の宗教を持たないあるいは無宗教、20.1%。

キリスト教[編集]





カンタベリー大聖堂
キリスト教はカンタベリーのアウグスティヌス(初代カンタベリー大主教)の時代に、スコットランドやヨーロッパ大陸からイングランドへやってきた宣教師によって到来した。685年のウィットビー教会会議によってローマ式の典礼を取り入れることが決定された。1536年にヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚しようとした問題によってローマと分裂し、宗教改革を経てイングランド国教会と聖公会が生まれた。他のスコットランド、ウェールズ、北アイルランドとは違い、イングランドではイングランド国教会が国家宗教である(ただしスコットランド国教会は法律で定められた国家教会である)。

16世紀のヘンリー8世によるローマとの分裂と修道院の解散は教会に大きな影響を与えた。イングランド国教会はアングリカン・コミュニオンの一部であり、依然としてイングランドのキリスト教で最も大きい。イングランド国教会の大聖堂や教区教会は建築学上、意義のある重要な歴史的建築物である。

イングランドのその他の主なプロテスタントの教派にはメソジスト、バプテスト教会、合同改革派教会がある。規模は小さいが無視できない教派として、キリスト友会(通称クエーカー)と救世軍がある。

近年は女性聖職者を認める聖公会の姿勢に反発する信徒などによるローマ・カトリックへの改宗も少なくない。

その他の宗教[編集]

20世紀後半から、中東や南アジアとりわけ英連邦諸国からの移民によりイスラム教、シーク教、ヒンドゥー教の割合が増加した。バーミンガム、ブラックバーン、ボルトン、ブラッドフォード、ルートン、マンチェスター、レスター、ロンドン、オールダムにはムスリムのコミュニティがある。

イングランドのユダヤ教のコミュニティは主にロンドン、特にゴルダーズグリーンのような北西部の郊外に存在する。

教育[編集]

詳細は「イギリスの教育#イングランドの教育制度」を参照

イングランドとウェールズでは義務教育は5歳から16歳までであり、学校は 90% が公立である。

大学は全部で34あるが、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学をのぞいて、19〜20世紀に創設されている。大学以外の高等教育機関として、工業・農業・美術・商業・科学などの専門学校がある。

文化[編集]

詳細は「en:Culture of England」を参照

現代のイングランドの文化はイギリス全体の文化と分かち難い場合があり、混在している。しかし歴史的、伝統的なイングランドの文化はスコットランドやウェールズと明確に異なっている。

イングリッシュ・ヘリテッジというイングランドの史跡、建築物、および環境を管理する政府の組織がある。

音楽[編集]

クラシック音楽[編集]
イングランドの作曲家にはウィリアム・バードやヘンリー・パーセル、エドワード・エルガーらがいる。
イングランドの演奏家にはクリフォード・カーゾン(ピアニスト)やジョン・バルビローリ(指揮者)、サイモン・ラトル(指揮者)、デニス・ブレイン(ホルン奏者)、キャスリーン・フェリアー(コントラルト歌手)らがいる。

ポピュラー音楽[編集]
1960年代にはビートルズが登場した。その後ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン等が現れた。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こる。
1970年代にはグラム・ロックやプログレッシヴ・ロックのバンドが現れた。
1980年代には MTV ブームの中、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ等が登場した。
1990年代にはオアシス、ブラー、スパイス・ガールズ、プロディジー等が登場した。

文学[編集]
ウィリアム・シェイクスピア
メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』)

食文化[編集]

イングランドには様々な食べ物がある。たとえばコーンウォール州の錫鉱山の坑夫の弁当から発達したコーニッシュ・パスティー (Cornish Pasty) には挽肉と野菜が入っている。縁が大きいのは錫を採掘したときに付く有害物質を食べないようにするためで、縁は食べない。また、レストランやパブのメニューにはシェパーズパイがあり、スコーンも有名である。

スポーツ[編集]

クリケット、ラグビー、ラグビーリーグ、サッカー、テニス、ゴルフ、バドミントンといった数多くの現代のスポーツが19世紀のイングランドで成立した。その中でもサッカーとクリケットは依然としてイングランドで最も人気のあるスポーツである。スヌーカーやボウルズといった競技もイングランド発祥である。

サッカー[編集]

過去サッカー発祥の地である。1863年10月26日にザ・フットボール・アソシエーション (The FA) と12のクラブの間で会議が開かれ、同年12月までに6回のミーティングを行って統一ルールを作成した。この統一ルール作成により現代のサッカーが誕生した。イングランドにおいてサッカーを統括する The FA は世界で唯一国名の付かない最古のサッカー協会である。

不景気やフーリガン問題で一時低迷したが、現在国内リーグのプレミアリーグは世界中から優れた選手を集め、最高峰のリーグと称される。クラブチームではマンチェスター・ユナイテッド FC、リヴァプール FC、チェルシー FC、アーセナル FC などが強豪として世界に知られている。欧州サッカー連盟の四ツ星以上のスタジアムの数はイングランドが最も多い。サッカーイングランド代表は、自国で開催された1966年の FIFA ワールドカップで優勝した。しかし、それ以来主要な国際大会(FIFA ワールドカップ、UEFA 欧州選手権)では決勝まで進めていない(1990年のワールドカップで準決勝進出、2002年と2006年ワールドカップは準々決勝に進出)。2008年の欧州選手権予選では24年ぶりに本大会に進めず終わった。

ラグビーおよびクリケット[編集]

ラグビーイングランド代表とクリケットイングランド代表は世界大会で活躍している。ラグビーでは2003年のラグビーワールドカップで優勝し、クリケットでは2005年のアッシュシリーズで優勝した。ラグビーのプレミアシップではバース、ノーサンプトン・セインツ、レスター・タイガース、ロンドン・ワスプスといったクラブチームがハイネケンカップで優勝している。

ロンドンオリンピック[編集]

2012年夏季オリンピックは7月26日から8月12日まで首都ロンドンで開催された。ロンドンは1908年、1948年にもオリンピックを開催しており、同じ都市で3度開催されるのは史上初である。(実際には1944年に開催が予定されるも、太平洋戦争による戦局悪化により返上された。夏季五輪は非開催となった大会も回次に加えるので、公には4回目の開催で史上最多であることには変わりはない)

ハンプティ・ダンプティ

ハンプティ・ダンプティ(英: Humpty Dumpty)は、英語の童謡(マザーグース)のひとつであり、またその童謡に登場するキャラクターの名前である。童謡のなかではっきり明示されているわけではないが、このキャラクターは一般に擬人化された卵の姿で親しまれており、英語圏では童謡自体とともに非常にポピュラーな存在である。この童謡のもっとも早い文献での登場は18世紀後半のイングランドで出版されたもので、メロディは1870年、ジェイムズ・ウィリアム・エリオット(英語版)がその著書『わが国の童謡と童歌』において記録したものが広く用いられている。童謡の起源については諸説あり、はっきりとはわかっていない。

もともとはなぞなぞ歌であったと考えられるこの童謡とキャラクターは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』(1872年)をはじめとして、様々な文学作品や映画、演劇、音楽作品などにおいて引用や言及の対象とされてきた。アメリカ合衆国においては、俳優ジョージ・L・フォックス(英語版)がパントマイム劇の題材に用いたことをきっかけに広く知られるようになった。現代においても児童向けの題材として頻繁に用いられるばかりでなく、「ハンプティ・ダンプティ」はしばしば危うい状況や、ずんぐりむっくりの人物を指す言葉としても用いられている。



目次 [非表示]
1 詞とメロディ 1.1 古形

2 起源をめぐる説
3 引用・言及 3.1 『鏡の国のアリス』
3.2 その他の創作作品

4 比喩として
5 出典
6 外部リンク


詞とメロディ[編集]





W.W.デンスロウのマザーグース物語集(1902年)の1ページ。ここではなぞなぞ歌として、「卵」という答えとともに童謡の詞が記載されている。
現代においては一般に以下の形の詞が知られている。




Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.[1]




ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
王様の馬と家来の全部がかかっても
ハンプティを元に戻せなかった

AABBの脚韻のパターンをもつ一組の四行連の詩であり、韻律は童謡においてよくつかわれるトロキーである[2][3]。詞はもともとは「卵」をその答えとするなぞなぞ歌として作られたものと考えられるが、その答えが広く知れ渡っているため、現在ではなぞなぞとして用いられることはほとんどない[4]。メロディーは一般に、作曲家であり童謡収集家だったジェイムズ・ウィリアム・エリオット(英語版)が、その著書『わが国の童謡と童歌』 (ロンドン、1870年)において記したものが使われている[5]。童謡とそのヴァリエーションを番号をつけて編纂しているラウド・フォークソング・インデックス(英語版)においては13026番に記録されている[6]。

『オックスフォード英語辞典』によれば、「ハンプティ・ダンプティ」(Humpty Dumpty)という言葉は、17世紀においてはブランデーをエールと一緒に煮た飲み物の名称として用いられていた[1]。さらに18世紀になると「ずんぐりむっくり」を意味するスラングとしての用法も現われている。ここから「ハンプティ・ダンプティ」の語は、おそらく上述のなぞなぞにおける一種のミスディレクションとしてこの童謡に採用されたものと考えられる。この想定の上に立てばこのなぞなぞは、「ハンプティ・ダンプティ」がもし「ずんぐりむっくりの人間」のことであるならば、塀から落ちたとしても大きな怪我を負うはずはないだろう、という想定を根拠として成り立っているということになる[7]。

またhumpには「こぶ」という意味があるほかにこれだけで「ずんぐりむっくり」を表すことがあり、dumpには「どしんと落ちる」という意味もあるため、Humpty Dumptyという名前の中にすでに「ずんぐりしたものがどしんと落ちる」という出来事が暗示されていると考えることもできる(後述の『鏡の国のアリス』には、ハンプティ・ダンプティが「僕の名前は僕の形をそのまま表している」と述べる場面がある)[8]。このほか、HumptyはHumphreyという名前に通じる一方、DumptyはHumphreyの愛称であるDumphyやDumpに似ているという指摘もある[8]。

「ハンプティ・ダンプティ」と同様のなぞなぞ歌は、民俗学者によって英語以外の言語においても記録されている。フランス語の "Boule Boule"(ブール・ブール)、スウェーデン語・ノルウェー語の "Lille Trille"(リル・トリル)、ドイツ語圏の "Runtzelken-Puntzelken"(ルンツェルケン・プンツェルケン)または "Humpelken-Pumpelken"(フンペルケン・プンペルケン)といったものであるが、いずれも英語圏におけるハンプティ・ダンプティほどに広く知られているものではない[1]。

古形[編集]





『マザーグースの童謡集』(1877年)より、ウォルター・クレインが描いたハンプティ・ダンプティのイラスト。この例のように人間の姿で描かれることもある。
この童謡が記録されている最古の文献は、作曲家サミュエル・アーノルド(英語版)による1797年の著書『少年少女の娯楽』である。この文献においては、童謡は以下のような形の詞になっている。




Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
Four-score Men and Four-score more,
Could not make Humpty Dumpty where he was before.[1]




ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
八十人の男にさらに八十人が加わっても
ハンプティ・ダンプティをもといたところに戻せなかった

1803年に出版された『マザー・グースのメロディ』の原稿には、より遅い時代に現われた、次のような別の最終行のヴァージョンが書き留められている。"Could not set Humpty Dumpty up again"(ハンプティ・ダンプティをまた立たせることはできなかった[1])。『ガートンおばさんの花輪(詩文集)』の1810年の版では以下のような詞になっている。




Humpty Dumpty sate〔ママ〕 on a wall,
Humpti Dumpti〔ママ〕 had a great fall;
Threescore men and threescore more,
Cannot place Humpty dumpty as he was before.[9]




ハンプティ・ダンプティが塀に座った
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
六十人の男にさらに六十人が加わっても
ハンプティ・ダンプティをもとのところに戻せなかった

ジェイムズ・オーチャード・ハリウェル(英語版)が1842年に出版した童謡集では以下の形のものが収録されている。




Humpty Dumpty lay in a beck.
With all his sinews around his neck;
Forty Doctors and forty wrights
Couldn't put Humpty Dumpty to rights![10]




ハンプティ・ダンプティが小川に寝た
自分のすべての筋を首の周りに集めて
すると四十人の医者と四十人の職人にも
ハンプティ・ダンプティを立たせられなかった

起源をめぐる説[編集]





ハンプティ・ダンプティはリチャード三世を指しているという説もある
前述のようにもともとなぞなぞ歌のひとつとして作られた歌と考えられるが、この童謡が特定の歴史的な事件を指し示す歌であったとする説も多く存在する。よく知られているものの一つは、キャサリン・エルウェス・トーマスが1930年に提唱したもので[11]、「ハンプティ・ダンプティ」がヨーク朝最後の王リチャード三世を指しているという説である。リチャード三世はせむし(humpback) であった言われており、彼は薔薇戦争の最後のボズワースの戦いにおいて、その軍勢にも関わらずリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)に敗れて戦死している。ただし、せむしを示す言葉である「humpback」という英語は18世紀以前には記録されておらず、また童謡とリチャード三世を結びつける直接的な史料も見つかっていない[12]。

ほかにも、ハンプティ・ダンプティは「トータイズ」(tortoise)という、イングランド内戦時に使われた攻城兵器を指しているという説もある。骨組みに装甲を施したこの兵器は、1643年のグロスターの戦いにおいてグロスター市の城壁を攻略するのに用いられたが、この作戦は失敗に終わっている。この説は1956年2月16日の『オックスフォード・マガジン』においてデイヴィッド・ドーブ(英語版)が提示したもので、この戦いについての同時代の記述に基づいて立てられており、発表当時は学会から喝采を浴びたが[13]、在野からは「発明それ自体のためになされた発明」("ingenuity for ingenuity's sake") でありでっちあげだとして批判を受けた[14][15]。この説についても、やはり童謡との直接的なつながりを示すような史料は見つかっていないが[16]、この説はリチャード・ロドニー・ベネットによる子供向けのオペラ『オール・ザ・キングスメン』(1969年初演)で採用されたため一般にも広く知られることとなった[17][18]。

コルチェスターの観光局のウェブサイトでは、1996年以降、「ハンプティ・ダンプティ」の起源が1648年のコルチェスターの戦いにあるという解説を掲載している[19]。この解説によれば、当時城壁に囲まれた街であったコルチェスターの聖マリア教会(St Mary-at-the-Wall)の壁の上には、王党派の防護兵によって巨大な大砲が一つ据えられており、この大砲が周囲から「ハンプティ・ダンプティ」という愛称で呼ばれていた。しかし議会派からの砲撃によってこの壁が崩れると「ハンプティ・ダンプティ」は壁の上から転げ落ちてしまい、その巨大さのため何人かかっても再び起こして設置しなおすことができなかったのだという(「ハンプティ・ダンプティをもとにもどせなかった」)。

2008年に出版された『イタチがとびだした ―童謡に隠された意味』において著者のアルバート・ジャック(英語版)は、このコルチェスターの説を裏付ける二つの詩を「ある古い書物」から発見したと報告した[20]。しかし彼が紹介した詩の韻律は、いずれも17世紀のものでもなければこれまでに存在が確認されているいかなる韻律とも合致せず、またその内容も「王様の馬と家来」に言及していない、古いヴァージョンの「ハンプティ・ダンプティ」には合致しないことが指摘されている[19]。

引用・言及[編集]

『鏡の国のアリス』[編集]

「鏡の国のアリス」および「鏡の国のアリスのキャラクター」も参照





『鏡の国のアリス』より、ジョン・テニエルが描いたハンプティ・ダンプティ
ハンプティ・ダンプティは、ルイス・キャロルの児童小説『鏡の国のアリス』(1872年)に登場するキャラクターの一人としてもよく知られている。この作品では、鏡の国に迷い込んでしまった少女アリスに対し、塀の上に座ったハンプティ・ダンプティは尊大な態度で言葉というものについて様々な解説を行う[21]。


「「名誉」という言葉をあなたがどういう意味で使っているのか、よくわからないわ」アリスが言いました。
するとハンプティ・ダンプティは馬鹿にしたような笑いを顔に浮かべました。「もちろんわからないだろうさ、僕が説明しないかぎりね。僕は「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」という意味で「名誉だ」と言ったんだよ!」
「でも、「名誉」という言葉に「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」なんて意味はないわ」アリスは抗議しました。
「僕が言葉を使うときはね」とハンプティ・ダンプティはあざけるように言いました「その言葉は、僕がその言葉のために選んだ意味を持つようになるんだよ。僕が選んだものとぴったり、同じ意味にね」
「問題は」とアリスは言いました「あなたがそんなふうに、言葉たちにいろんなものをたくさんつめこむことができるのかということだわ」
「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」
アリスが困ってしまって何も言えなくなると、少ししてハンプティ・ダンプティが続けました「言葉っていうのはね、それぞれに気性があるものなんだ。あいつらのいくらかは、とりわけ動詞はだが、とても高慢ちきだ。形容詞だったら君にでもどうにかなるかもしれないが、動詞は無理だね。でも僕なら大丈夫、なんでもござれさ!」[22]

以上のくだりは、イギリス貴族院が法令文書の意味を捻じ曲げたことの是非をめぐってなされたLiversidge v. Anderson [1942]の判決において裁判官ロード・アトキンによって引用された部分である[23]。その後の行政の自由裁量をめぐる議論において大きな影響力を持ったイギリスのこの判決のほか、上記の場面はアメリカ合衆国でも裁判の法廷意見においてしばしば引用されており、ウエストローのデータベースによれば2008年4月19日の時点までに、2件の最高裁における事例を含む250件の判決で同様の引用が記録されている[24]。

またA. J. Larnerは、以下の場面をもとにキャロルのハンプティ・ダンプティを相貌失認と結びつけて論じている。


「顔っていうのは、それで一人一人の見分けができるものよ、ふつう」アリスは考え深く意見しました。
「そこがまさに僕が不満を言いたいところなんだよ」ハンプティ・ダンプティは言いました「君の顔は他の人たちの顔といっしょじゃないか、こう目が二つあって(親指で空中に目の場所を示しながら)、それで真ん中に鼻だろ、口はその下だ。いつもおんなじ。たとえば片側にだけ目が二つあるとかさ、口がてっぺんにあるとか、そんなふうにしてくれたら見分けるのに少しは助けになるんだけど。」[25]

その他の創作作品[編集]





アメリカ合衆国の漫画雑誌『パンチ&ジュディコミックス』に掲載されたハンプティ・ダンプティの漫画(作者不詳、1944年)
ハンプティ・ダンプティは英語圏においては非常にポピュラーな存在であり、『鏡の国のアリス』のほかにも多くの文学作品でキャラクターとして登場したり、詩の引用が行われたりしている。例えばライマン・フランク・ボームの『散文のマザーグース』(1901年)においては、「ハンプティ・ダンプティ」のなぞなぞ歌は実際にハンプティ・ダンプティの「死」を目撃したお姫様によって作り出される[26]。ニール・ゲイマンの初期の短編作品「二十四羽の黒つぐみ事件」では、ハンプティ・ダンプティの物語はフィルム・ノワール風のハードボイルド作品に脚色されている(この作品ではまたクック・ロビンやハートの女王など、マザー・グースでおなじみのキャラクターが多数登場する)[27] 。ロバート・ランキン(英語版)の『黙示録のホローチョコレート・バニー』(2002年)においては、ハンプティ・ダンプティはお伽噺のキャラクターを狙った連続殺人事件における被害者の一人である[28]。ジャスパー・フォードは『だれがゴドーを殺したの?』(2003年)と『ビッグ・オーバーイージー』(2005年)の二作でハンプティ・ダンプティを登場させており、前者では暴動の首謀者として、後者では殺人事件の被害者としてハンプティ・ダンプティを描いている[29][30]。キャラクターが登場するものではないが、いわゆる見立て殺人の題材に使われた例としてはヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929年)があり、ここでは登場人物の一人が童謡になぞらえられて塀の上から突き落とされることによって殺されている[31]。

ハンプティ・ダンプティの童謡はより「真面目な」文学作品でも言及されている。例えばジェイムズ・ジョイスの最後の小説『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)においては、ハンプティ・ダンプティは「落ちる男」のモチーフを表現するものとして繰り返し言及される[32]。ロバート・ペン・ウォーレンの『オール・ザ・キングスメン』(1946年)は、大衆主義的な地方政治家が州知事となり、やがて汚職に手を染め堕落していく様を描いた小説で、表題は「もう元にもどらない」状況を表すものとして童謡から引用されている。ルイジアナ州の上院議員ヒューイ・ロングをモデルにして書かれており、ウォーレンはこの作品で翌年のピュリッツァー賞を受賞した。またこの小説を原作とする映画は1949年にアカデミー賞最優秀作品賞を受賞している[33]。2009年にはショーン・ペン主演でリメイク映画も制作された。同様の発想はボブ・ウッドフォード(英語版)によるウォーターゲート事件を扱った著作『オール・ザ・プレジデントメン』でも繰り返されており、この作品もロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンの主演で1976年に映画化されている[34]。このほかポール・オースターの処女小説『シティ・オブ・ザ・グラス』(1985年)では、ハンプティ・ダンプティは登場人物間の議論において「人間の状況のもっとも純粋な体現者」として、『鏡の国のアリス』からの長大な引用とともに言及されている[35]。

ハンプティ・ダンプティは19世紀中、アメリカ合衆国の俳優ジョージ・L・フォックス(英語版)の舞台において、パントマイム劇や音楽の題材にされ、ここからアメリカ合衆国でも広く知られることとなったが、ハンプティ・ダンプティは現代のポピュラー音楽においてもしばしばモチーフとして用いられている。たとえばハンク・トンプソンの『ハンプティ・ダンプティ・ハート』(1948年)[36]、モンキーズの『すべての王の馬』(1966年)とアレサ・フランクリンの 『オール・ザ・キングス・ホーシズ』(1972年)(ともに原題は同じ"All the King's Horses")[37]、トラヴィスの『ハンプティ・ダンプティ・ラヴ・ソング』(2001年)[38]などである。ジャズ音楽においてはオーネット・コールマンとチック・コリアが、同じ「ハンプティ・ダンプティ」の題名でそれぞれ異なる楽曲をつくっている(ただしコリアの作品はルイス・キャロルから着想を得た1978年のコンセプトアルバム『マッド・ハッター』(1978年)のうちの一曲として作られたものである)[39][40]。

比喩として[編集]

前述のように「ハンプティ・ダンプティ」は17世紀のイギリスにおいて「ずんぐりむっくり」を指す言葉として使われていたものであったが、英語圏では現在でも童謡のキャラクターのイメージから、「ずんぐりむっくり」や頭が禿げていてつるつるしている人を言い表す言葉として用いられているほか[41]、童謡の内容から「非常に危なっかしい状態」あるいは「一度壊れると容易には元に戻らないもの」を指し示すための比喩としてもしばしば用いられている[42]。

またハンプティ・ダンプティは、英語圏においては熱力学第二法則を説明する際の比喩として用いられることがある。この法則は熱量の移動の不可逆性を記述しており、エントロピーの概念と密接に関連する法則として知られているものである。この比喩に従えば、ハンプティ・ダンプティがはじめに塀の上に無事に座っている状態が「エントロピーが低い」状態、つまり乱雑さの少ない状態であり、彼が落下して自分の破片を撒き散らしてしまった状態が「エントロピーが高い」状態、すなわち乱雑さの高い状態であるということになる。そして潰れてしまったハンプティ・ダンプティを元の状態に戻すことは(完全に不可能ではないにしても)困難であり、これは孤立した系においてはエントロピーが決して低い状態に移行しないということを示している[43][44][45]。
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