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佐田内記兵衛友忠と御許山騒動

佐田内記兵衛友忠(秀)

天保十一年(天保十年ともいう)三月十日、豊前国宇佐郡佐田村に誕生。母は某女。父は内川野村庄屋佐田友貞。長子。幼名五郎作(ごろうさく)。俗名内記兵衛。諱は友忠。



和歌を熊本の本家・佐田玄景(熊本町奉行)に学び、のち、物集高世(もずめ・たかよ)に師事した。

また、皇典を近藤弘之に学んだ。

幕末の多事に際して、東西の志士と交わり、家を弟に譲って、志士・青木武彦らと楠公会を起こして、勤王倒幕思想を鼓吹していた。

慶応元(1865)年、山国谷木ノ子岳の高橋清臣邸で志士と会し、討幕計画を密議したが、日田代官の捕吏に覚られ、安心院の重松義胤邸に、さらに、宇左祠官時枝重明邸にと移りながら謀議を重ねたが、何れも捕吏の狙うところとなった。

佐田内記兵衛(秀)は、長州報国隊に身を投じた。

慶応四年一月三日〜四日、鳥羽・伏見の戦い。六日、徳川慶喜は、大阪を出帆し、江戸に向かった。翌七日、新政府は、慶喜追討令を発し、十日、慶喜以下27名の官位を奪い、旧幕領を直轄とした。

佐田内記兵衛たちは、二豊の志士たちと、正三位左中将花山院家理卿を奉じて、御許山に挙兵しようとした。

同一月十四日の夜更け、60名ほどの浪士たちが、豊前四日市の、当時は久留米藩預かりとなっていた日田天領四日市陣屋を襲った。大砲や弾薬などを奪い、陣屋に火を放った浪士たちは、役人たちが逃げ込んだ東本願寺別院にも放火し、近くの民家7軒も類焼した。

翌十六日早朝、奪った大砲2門を引いた浪士たちは、宇左八幡神発祥の地といわれる御許山(馬城峰)に登り、山上の僧坊に陣を構え、錦の御旗を掲げた。

しかし、長州藩の誤解をうけて、同藩の討手の軍勢を差向けられた。

佐田内記兵衛は、宇左で、その大将と会見し、誤解を解くため、同志・平野四郎は、割腹自殺までしたが、聞き入れられず、会所を辞去して帰りかけたところを不意に切り倒され、首級は、四日市に晒された。

のち、首級は、佐田の先塋に運ばれて埋葬された。






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佐田倉太の墓

佐田(賀来)倉太(万延元〜昭和九)。

万延元(1860)年、誕生。父は、佐田友忠(秀)。

慶応四(1868)年、九歳。父が、御許山騒動に斃れ、叔父友道が父に替わって内川内の庄屋となり、その叔父に鞠育され、賀来氏となった。

明治十一年、十九歳。山蔵外四ヶ村の戸長に任命された。

のち、志を立て、東京に出て、税務官となり、各地の税務署長を勤めた。

明治卅二年、台湾に渡り、総督府警務課に入って、同三十九年、警視に昇進した。蕃務に当たり、蕃族討伐などの功労あり、従五位高等官四等に叙せられた。

その間、漢詩・短歌をつくり、遺著遺稿がある。

昭和九年、退官し、内地湘南に居を構えたが、まもなく、病没した。(以上『安心院町誌』参照)。

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真木和泉守保臣と山梔窩(筑後市)

真木和泉守と山梔窩(くちなしのや)=筑後市水田

山梔窩(真木和泉守遺跡)=筑後市水田

  天保十五(1844)年、卅二歳。四月三日、有馬筑後久留米第9代藩主頼徳(48歳)、死去。
  六月、有馬頼永(よりとう)が、久留米第10代藩主に就任した。頼永は、頼徳の四男ではあったが、幼少時代から聡明で、文政9年に世子に指名されていた。
  保臣は、水戸遊学から帰藩し、水戸における直接の見聞、合沢正志斎らの人々との意見交換を素材として、天保学派の人々と、一層の自信と抱負とを以て互いに切磋琢磨し、あるいは積極的にそれらのグループを指導し、従前よりも一層活発な活動を見せ始めた。保臣は、まず、久留米藩において武士道を振起することに意を注いだ。島原の乱を最後に戦争と呼ぶべきものは一つもなく、町民の文化は目覚ましい興隆を見せたが、反面、武士はとかく利益にひかれて本分ともいうべき道義を忘却し、その気風は質実剛健をはなれて甚だ惰弱となり、華美となり、まことにあさましい風俗となり果てていた。
  木村・村上・真木保臣の三人は、天保学派の指導者の立場にあり、一般からも天保学の三尊と呼んで尊敬されていた。保臣らは集会を催し、武士の武士たる所以、武士のあるべき姿を説き、それは第一に忠孝という道徳の根本を理解し実践すること、武士たるものは先ず志を高く大きく立てて学業に励むべきこと、利害によって左右されることなく節操を守るべきこと等を、若い人の心によく沁(し)みこむように懇切に具体的に指導した。
  七月、オランダ軍艦が、長崎に来航し、使節コープスは、開国を勧告するオランダ国王書翰を呈した。ここに、久留米藩では、藩の兵制改革を藩主に進言すべく同士の二藩士が脱藩するという事件が起こり、それは久留米藩内に衝撃を与え、ひいては一般の士気を鼓舞することともなって、保臣らの指導の効果を倍加させた。保臣ら天保学派は、藩政刷新運動の中で、有馬頼永の襲封・帰国に期待を寄せた。頼永は、世子時代から将来を嘱望され、彼自身、村上を水戸に派遣して研究するなど政治について、かねて考えていた。
  十二月二日、弘化と改元。
  弘化二(1845)年、卅三歳。久留米藩主頼永、帰国。頼永の帰国にあたり、保臣は、科戸風(しなどのかぜ)なる一文を呈して天保学派の登用希望を述べていた。一方、かねて天保学派の勃興を悦ばない人々は、これを撲滅すべしと藩主に陳情したが、頼長はむしろ天保学派の材を登用した。保臣らは、藩政の改革を構想する機会に恵まれた。頼永は、藩の財政難を再建するため、5年間の倹約による緊縮財政、綱紀粛正、軍制の近代化、外国情勢の入手、海防の強化、有用な人材の登用など、藩政改革に乗り出した。
  弘化三年、卅四歳。春、保臣は、さらに敢言、総論、四部箇条とそれぞれ題する献言書を呈し、藩政の眼目について、意見を述べた。上書の目的は、改革の目的でもあった。何よりも人材任用すべきこと、それらの人材を藩政府、郡官および刑官に重点をおいて配置すべきことを説き、十八項目に亘る至急に検討実施すべき事項、三十七項目にのぼる長期構想の項目を列記してこれを示した。幕末における諸藩の改革が財政の建て直しを直接意図したのに対し、保臣の久留米藩政革新の目論見(もくろみ)は、一藩の改革を日本の国全体の改革の雛形と考えて、やがて幕府政治が排除され、皇室が日本の政治を執行されるようになった時には、そのままで日本中に実施できる模範的な藩政を実現すべきであるというところにあった。明治維新より二十五年も前に、幕府の廃止と王政の復活を前提に藩政改革の計画を試みたのは、真木和泉守保臣以外には無い。
保臣らが絶大な期待を寄せた藩主頼永(25歳)は、倹約令を発し、兵制の改革に着手し、村上ら天保学派の人材を登用するなどして、藩政改革の実行に臨んだが、改革をはじめた矢先に、尿血症(腎臓結核)に倒れ、改革を思うように進めることが出来なかった。頼永が重篤となったため、異母弟の頼多(20歳)が養子となった。六月廿日、頼永、死去した。暗愚な藩主が多かった久留米藩の中で、頼永だけは、自ら藩政改革を押し進めた。しかし、在位二年で若死にしたため、改革は効果を発揮できなかった。
頼永の死にともなって家督を継承した頼多は、将軍家慶の偏諱を賜って慶頼(明元年には頼咸と改名)と改名した。
頼永に抜擢された村上は、今井、野崎の天保学派系の士とともに頼永を助け、真木保臣や木村らもこれら同志の活躍に期待したが、在野の保臣・木村とは、おのずから意見が分かれ、遂に天保学派は、村上を中心とする内同志(うちどうし)と、真木・木村を中心とする外同志(そとどうし)とに分裂し、それは、時勢の進むにつれて、尊攘・佐幕の朋党軋轢(あつれき)とも関連し、お互いに救いがたい惨劇を招いた。
  嘉永三(1850)年、卅八歳。六月、村上は、江戸の藩邸において、参政・馬淵貢を刺して傷つけ、自らも刺されて死亡した。事の真相は明らかではないが、真木保臣や、その同志は、村上およびその一派が藩主慶頼(頼咸)を廃して代わりに末弟を藩主として擁立することを意図し、国家老・有馬主膳の意を受けて村上等をひそかに監視する馬淵を敢えて刺したものと信じ、村上の死後も、執政・有馬河内、参政・有馬豊前、不破孫市らは矢張り藩主の廃立を企てているものと判断していた。
  嘉永五年、四十歳。保臣ら同志は、執政河内らの三人を排除し、馬淵ら有為の材を登用しなければ藩政の改善はできないと結論し、同志のひとり家老・脇稲次因幡はひそかに目安箱に一書を投じて三人を弾劾したが、その効果の無いのを見て、藩主慶頼に謁して直接三人の排斥を訴えた。慶頼は、稲次因幡の言を聞いて怒り、早速、三人を措置しようとしたが、証拠があってのことではなく、却って執政河内の反撃に遭い、逆に稲次以下数十人の天保学派の同志が検挙され、五月、外同志の主なもの四人すなわち稲次因幡、水野丹後、木村三郎、真木和泉守保臣は、それぞれ無期の禁獄に処せられた(久留米藩疑獄事件)。保臣は、勤番長屋に禁固されていたが、罪が決まって、寺社奉行・馬淵貢宅に召喚され、罪状を申し渡され、水天宮神官の職を解かれ、久留米の南十二キロの地にある下妻郡水田村大鳥居理兵衛(保臣の弟敬太=信臣)の水田天満宮の地に「三里構ひ」となった。
  この時、末子菊四郎は、まだ、10歳であった。以後、青年期を迎えるまでの十年間、古稀近い祖母、五十半ばの母、そして温厚な兄主馬と姉小棹のもとで過ごした。
  水田天満宮留守別当職であった理兵衛は、二百石を受けながら無為に過ごしては申し訳ないといい、水田地方の子弟教育に従っていた。貧家の子弟には、書物を購うて与え、みずから倹約を守って朝は必ず粥をすするなどして水田の文運をすすめ、この地方の人々の信頼をあつめていた。
  五月十七日、真木保臣が謹慎を命ぜられ、水田に移ると、水田の村民の間に、「大イナル人ガ来ラレタ」との噂が流れた。やがて周囲の青年たちの間で保臣に従学することを望む者が多かった。保臣は、尊王志士の中では、最も早く討幕意見を持った人であった。
  九月廿二日、真木保臣の次男主馬が真木家の家督を相続し、第二十三代水天宮神官となった。
  保臣は、大鳥居家の東北隅に四畳半と四畳よりなる一小舎を建て始めた。
  嘉永六年、四十一歳。八月六日、大鳥居家東北隅に小舎が完成し、「保臣口さがしきをもて罪を得ければ、今は何事をもいはじ、と書よむ所をも口なしのやと名付け」というように、山梔窩(くちなしのや)と名付けた。
  十月十六日、保臣は、水田の青年たちと師弟の盟約を結ぶに至った。






同上







山梔窩(復元・移築)=久留米水天宮境内
水田の山梔窩を模して久留米水天宮境内に復元・移築したもの。






同上






真木和泉守保臣と水天宮

真木和泉守保臣


真木和泉守保臣銅像(久留米・水天宮境内)
明治100年を記念して建てられた。

  文化十(1813)年三月七日、誕生。筑後の人。母は中村柳子。父は真木左門施臣(としおみ)。
  真木家の始祖は、「真木家略系譜」によると、大和国石上神社神官某の娘・伊勢で、伊勢は、平知盛および清盛の時子(二位の尼)に仕え、建礼門院(徳子)の入内とともに宮中に入り、按察局と称し、壇ノ浦における平氏滅亡の際、遺命により、安徳天皇以下一門の跡を弔うべく、筑紫国に流れ来たり、筑後川のほとり、鷺野原の地、すなわち、現在の所に住みついたという。平知盛の子に、従四位少将知時なるものあり、壇ノ浦より、肥後五家荘に逃れたが、その四男(平清盛曾孫)右忠は、ある日、伊勢を訪ねて、筑後の地に来たり、ついに、その養子となって、平氏の血脈を伝えることになったという。文治・建久の頃、伊勢は、鷺野原に、平氏一門を祀ったが、これが、すなわち、水天宮の創始といい、右忠が水天宮第一代の神職となったという。
  江戸時代に入り、慶安三(1650)年、右忠16代の孫・忠左衛門重臣は、有馬筑後久留米藩第二代藩主忠頼に、水天宮社殿の改築を願い出て、忠頼の意志により、今日の瀬下町の地に、壮大な社殿を築かせ、社地として、三潴郡京隈村(久留米市京町)のなかに七畝二十八歩を与え、物成免とした。
  この忠左衛門重臣は、肥後真木村(熊本県菊池郡大津町真木)の出身で、先代竜臣の養子となったが、出身地の名をとって、真木姓を称するに至ったという。以後、17代・与平次、18代・忠左衛門是臣、19代・右門三臣、20代・右門重臣と続き、保臣の父・左門施臣に至った。
保臣が誕生した時、すでに姉二人がいたが、はじめての男子誕生であった。
保臣は、幼名を湊といい、やや長じて久寿、または鶴臣と称し、のち、保臣と改めた。通称、和泉守。号は紫灘(したん)。紫灘と号したのは、利根川の坂東太郎に対し、筑紫次郎と呼ばれる筑後川が水天宮の社殿の近くに大きく澱んでいるのに因んだという。
文化十四(1817)年、五歳。弟の亘(のちの大鳥居敬太信臣)、誕生。
文政元(1818)年、六歳。十一月、有馬筑後久留米藩主頼徳の命により、江戸芝赤羽の久留米藩邸内に水天宮を分祀した功によって、父・左門は、中小姓格に列し、年額米六十俵を扶持されることとなり、以後、真木家に伝えられた。
文政二年、七歳。弟の登(のちの小野加賀氏伸)、誕生。
文政四年、九歳。末弟の摩須男(のちの真木外記直人)、誕生。
文政六年、十一歳。父・左門(34歳)が、急病死。わずか11歳になったばかりの保臣が家督を相続し、真木家を代表することとなった。久留米水天宮の祠官であったが、江戸・水戸に遊学し、会沢安の影響を受けた。

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 保臣は、身長五尺八寸。しばしば、力士に間違われるほど肥満した体躯で、角張った赤銅色の顔、広く秀でた額、はねあがった薄い眉、威力のある目、大きな耳と口、太く短い首、そしてやや猫背の容姿をしていたという(山口宗之『真木和泉』)。
  天保元(1830)年、十八歳。弟・理兵衛(14歳)は、水田天満宮先代信宜(八兵衛)の養子となった。水田天満宮は、嘉禄二(1226)年、筑前太宰府より水田庄(筑後市水田)へ勧請され、菅原道真を祭神とした。天文〜天正年中には、社地六百二十三町余を持ち、豊臣秀吉時代、小早川秀包から一千石、慶長六年、田中吉政より一千石、田中氏の改易後、元和七年、幕府上使板倉豊後守より更に一千石、有馬筑前久留米初代藩主より二百五十石、立花筑後柳川藩主宗茂より五十石の寄進を受け、都合三千三百石の社領を有した。十八代神官信岩の時まで水田において太宰府の司務職を兼ねたが、久留米藩主忠頼の臣梶村覚左衛門の子利兵衛を得て、別家大鳥居家として水田の社領二百石を分知し、天満宮の留守別当とし、これに対し、藩庁は馬廻格の待遇を与えた。
  天保五年、廿二歳。妻睦子、男子(長男)を出産。麟太と命名した。
  天保六年、廿三歳。十一月廿七日、妻睦子、男子(次男)を出産。幼名時次郎。通称主馬。名を佐忠・道文・彇・文臣という。
  天保八年、廿五歳。妻睦子、男子(三男)を出産。彦三郎と命名した。
  天保九年、廿六歳。保臣には、妻睦子との間に、長男麟太・次男主馬・三男彦三郎の三子があったが、この年、長男麟太(5歳)・三男彦三郎(2歳)が共に夭折した。
  天保十年、廿七歳。長女小棹、誕生。
  天保十四年、卅一歳。九月十九日、四男菊四郎、誕生。名は道武、弦。主馬より八つ、小棹より四つ若く、末っ子であったが、保臣は二男と呼んていたとう。
  天保年間(1830〜43)、久留米に、水戸学が伝えられ、天保学と呼ばれた。水戸義公に淵源する水戸学は、幕末に至り、水戸斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖、合沢正志斎らにより、形成された。木村三郎、村上守太郎によって、この水戸学が久留米に伝えられ、当時、藩の青年武士等、将来有為の人々は、この斬新な学風に惹かれた。藩内に広がった新しい学風は、おのづから旧来とは異なった一派を形成し、世間では、これら一派の人々を称して、天保学と呼んだ。

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水天宮(久留米)神門














久留米水天宮=福岡県久留米市

久留米・水天宮 全国の水天宮の総本社

水天宮・拝殿
(平成23年8月15日撮影)

全国に散在する水天宮の総本社。

  祭神は、安徳天皇・その生母建礼門院(平中宮徳子)・外祖母二位尼平時子、ほかに、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を合祀する。

  水天宮の成立については詳らかではないが、水神信仰・母子神信仰に基づく神社であろう。

  社伝によると、承安元(1171)年、大和国石上神社神官某の娘で平知盛および清盛の妻平時子(二位の尼)に仕えていた伊勢は、建礼門院(徳子)の入内とともに宮中に入り、按察局と称した。 文治元(1185)年、壇ノ浦における平氏滅亡の際、按察局(伊勢)は、遺命を受けて、安徳天皇以下一門の跡を弔うべく、筑紫国に流れ来たり、筑後川のほとり、鷺野原の地、すなわち、現在の水天宮鎮座の地に住みついたという。

  平知盛の子に、従四位少将知時なるものあり、壇ノ浦より、肥後五家荘に逃れたが、その四男(平清盛曾孫)右忠は、ある日、伊勢を訪ねて、筑後の地に来たり、ついに、その養子となって、平氏の血脈を伝えることになったという。

  文治・建久の頃、伊勢は、鷺野原に、平氏一門を祀ったが、これが、すなわち、水天宮の創始といい、右忠が水天宮第一代の神職となったという(「真木家略系譜」)。

  このように、中宮徳子に仕えた按察使局伊勢が、筑後川に逃れ、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇をはじめ、平家一門の霊を弔い、同時に住民に加持祈祷を行ったのが始まりと伝えられている。

  しかし、水天宮という社名と、筑後川の守護神とされていることなどから推測すると、本来は、筑後川水系の水神信仰が母体となっているのであろう。水天は、バラモン教の水神ヴァルナが仏教に取り入れられたものである。十二天の一つで、西方の守護神。元来は天空の神であり、龍族の王。五龍冠をいただいて亀に乗り、海中に坐して左手に羂索、右手に剣を持つ。

  はじめの頃、社地は、しばしば移動したという。これは、筑後川の氾濫と関係があるのかもしれない。

  元和六(1620)年、有馬豊氏は、丹波福智山から久留米に移封となり、これにともなって、福智山にあった瑞岩寺を移し、元和七年、禹門玄級を請じて開山として、大竜寺を創建し、150石を与えた。

  寛永三(1626)年、藩祖則頼の墓を、播磨国三木郡天正寺から改葬し、則頼の法号梅林院殿をとって寺号を梅林寺と改称し、さらに寺領200石を与えた。

  慶安三(1650)年、右忠16代の孫・忠左衛門重臣は、有馬筑後久留米藩第二代藩主忠頼に、水天宮社殿の改築を願い出て、忠頼の意志により、今日の瀬下町の地に、壮大な社殿を築かせて旧に復し、社地として、三潴郡京隈村(久留米市京町)のなかに七畝二十八歩を与え、物成免とした。

 この忠左衛門重臣は、肥後真木村(熊本県菊池郡大津町真木)の出身で、先代竜臣の養子となったが、出身地の名をとって、真木姓を称するに至ったという。

  以後、17代・与平次、18代・忠左衛門是臣、19代・右門三臣、20代・右門重臣、21代・左門施臣、22代・和泉守保臣と続いた。

  寛文十(1670)年に社司が藩庁に提出した由緒書によると、祭神は中央が尼御前大明神、左右は荒五郎・安坊大明神という。

 当時、筑後川の水神は尼御前大明神(二位尼)、支流の巨勢(こせ)川の水神は九十九瀬(こせ)大明神(清盛)と信じられ、社の護符「五文字(いつもじ)」を受けると河童を退け、水難を避けられると信じられていた。

  寛延二(1749)年、若津(瀬下港と一体である川港)に出入りする大坂借船船頭中から神輿が寄進された。

  文政元(1818)年、9代藩主頼徳が、江戸の赤羽の上屋敷に分霊した。この年、真木左門施臣(和泉守保臣の父)は、有馬筑後久留米藩主頼徳の命により、江戸芝赤羽の久留米藩上屋鋪邸内に水天宮を分祀した功によって、中小姓格に列し、年額米六十俵を扶持されることとなり、以後、真木家に伝えられた。

  この頃から、水天宮の呼称が見られるようになるという。

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水天宮・拝殿
(平成23年8月15日撮影)

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水天宮・拝殿
(平成21年11月29日撮影)

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水天宮の社叢と筑後川(ちっこがわ)

日向・福島港=宮崎県串間市今町

日向・福島港=宮崎県串間市今町

天保十二(1841)年九月、賀来飛霞「日向遊歴写生帳残簡」に、「○九月八日写於福島今街客舎。○タニツリ方言、重陽日於立渦漁戸」とある。

福島港(平成22年7月撮影)






福島港(大正4年頃・『宮崎縣大観』より)






福島港(平成22年7月撮影)






福島今町・神戸家(昭39年7月頃撮影)






立宇津=串間市都井











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田中河内介慰霊塔=日向細島

田中河内介父子慰霊塔&黒木庄八翁の碑=日向細島・小島



文久二年四月廿七日、薩摩藩船宿寺田屋の事変に際し、2階に集結していた薩摩藩士廿二名=西郷信吾(のち従道)・大山弥助(のち巌)・篠原冬一郎(のち国幹)・伊集院直右衛門(のち兼寛)・永山万齋(のち弥一郎)・三島弥兵衛(のち通庸)等は、上意に応じて投降したが、寺田屋には、他藩の脱藩士や公家侍=田中河内介・磋磨介父子・真木和泉守・吉村虎太郎など久留米・秋月・土佐・佐土原の諸藩士廿余名も詰めていた。彼等も薩摩藩の京都藩邸(錦小路屋敷)に連行され、軟禁状態に置かれた。その後、諸藩士の多くは、釈放されたが、田中父子とその甥(おい)千葉郁太郎(但馬多気郡栗山村出身)、その義弟中村主計(肥前島原出身)と海賀宮門(かいが・みやと=黒田筑前秋月藩士)の五人は、薩摩に潜伏することを希望したので、鹿児島に護送されることになった。
 大坂から鹿児島に向かう途中、五月一日、田中河内介父子は、播磨灘あたりで、警固の者によって斬られ、翌日、遺骸は、讃岐の小豆島に漂着した。残りの海賀・千葉・中村の三人は、別の船に乗っていて、田中父子の最期を知らなかった。護送の薩摩藩士らは、わざと時事について口論を仕掛け、五月四日、日向細島に着くと、果たし合いを挑んで、この小島で、三人を殺害した。当地の黒木庄八は、三士の遺骸を発見し、小島に墓碑を建て、供養を続けた。現在も、地元の人々は、「黒田家臣の墓」といって大切にして守っている。

黒木庄八翁の横に、田中河内介父子の慰霊の木塔も建てられている。

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幕末勤王家三士終焉の地・細島

幕末勤王家=海賀宮門・千葉郁太郎・中村主計

                   終焉の地=日向細島・小島



文久二年四月廿七日、薩摩藩船宿寺田屋の事変に際し、2階に集結していた薩摩藩士廿二名=西郷信吾(のち従道)・大山弥助(のち巌)・篠原冬一郎(のち国幹)・伊集院直右衛門(のち兼寛)・永山万齋(のち弥一郎)・三島弥兵衛(のち通庸)等は、上意に応じて投降したが、寺田屋には、他藩の脱藩士や公家侍=田中河内介・磋磨介父子・真木和泉守・吉村虎太郎など久留米・秋月・土佐・佐土原の諸藩士廿余名も詰めていた。彼等も薩摩藩の京都藩邸(錦小路屋敷)に連行され、軟禁状態に置かれた。その後、諸藩士の多くは、釈放されたが、田中父子とその甥(おい)千葉郁太郎(但馬多気郡栗山村出身)、その義弟中村主計(肥前島原出身)と海賀宮門(かいが・みやと=黒田筑前秋月藩士)の五人は、薩摩に潜伏することを希望したので、鹿児島に護送されることになった。
 大坂から鹿児島に向かう途中、五月一日、田中河内介父子は、播磨灘あたりで、警固の者によって斬られ、翌日、遺骸は、讃岐の小豆島に漂着した。残りの海賀・千葉・中村の三人は、別の船に乗っていて、田中父子の最期を知らなかった。護送の薩摩藩士らは、わざと時事について口論を仕掛け、五月四日、日向細島に着くと、果たし合いを挑んで、この小島で、三人を殺害した。


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千葉郁太郎・海賀宮門・中村主計の墓

右: 贈正五位 千葉郁太郎嘉胤墓 文久二年五月四日卒 大正二年一月 但馬遺族建之

中: 海賀直求之墓 文久二年壬戌五月四日卒 明治二十七年七月 某建之

左: 肥前中村主計重義之墓 文久二年五月四日卒 大正二年一月 千葉遺族建之


当地の黒木庄八は、三士の遺骸を発見し、小島に墓碑を建て、供養を続けた。現在も、地元の人々は、「黒田家臣の墓」といって大切にして守っている。


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海賀宮門辞世歌碑
文久二(1862)年五月四日卒。

「なつのよの みしかきとこの ゆめたにも くにやすかれと むすひこそすれ

 黒田家臣
   海賀直求辞世

 平成二年三月建之
    日向市観光協会」

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(表)「赤心報國之碑

     元帥公爵山縣有朋」


(裏)「海賀宮門名直求 筑前秋月人

   千葉郁太郎名嘉胤 但馬氣多郡人

   中村主計名重義 肥前島原人

           大正三年五月 有志建之」


「赤心報国之碑ト黒木庄八翁之碑ヲ旭公園ヨリ此ノ地ニ移ス
                 昭和四一年秋
                   日向市教育委員会
                   黒木庄八曾孫黒木弘茂
                     施工者 東洋建設 」
「善行の記
 一八六二
 文久二年四月に起きた寺田屋騒動
の犠牲者海賀宮門中村主計千葉郁太郎の
三士はこの小島で若い命をおとした。
縁あって三士の骸を発見した黒木庄八翁
は当地に墓碑を建て、供養を続けた善意
の人として知られている。
庄八翁の遺志は子孫にも受け継がれ
現在は黒木ヒデと長男弘茂が中心と
なって三士の墓を守り続けている
      日向市教育委員会     」

「寄贈〈職業訓/練法人〉日向高等職業訓練校
       平成十二年七月吉日 建立   」



小倉城(その2)=豊前国企救郡

小倉城=豊前国企救郡=北九州市小倉北区城内

永禄十三年、大友一族で、毛利についた高橋鑑種が、小倉城に入り、毛利氏と大友氏との北九州争奪戦に一応の決着をみた。

天正十四年、島津氏は、九州統一をめざし、九州内八州を制圧する勢いを示し、豊臣秀吉の九州出兵となり、小倉は、その前線基地となった。十月、秀吉軍の先兵をつとめる吉川・小早川軍は、秀吉の使者黒田勘兵衛らと小倉にわたり、三日には毛利輝元も渡海して、四日には、小倉城を陥落させた。秀吉軍は、豊前を制圧し、仙石秀久を小倉に置いて守らせた。


天正十五年三月廿八日、豊臣秀吉が、小倉に着陣。秀吉は、赤間関より船で小倉に渡った。海上三里。

五月、島津氏は、秀吉軍に降伏。

六月、秀吉は、毛利(森吉成)勝信に田川・企救2郡を与え、小倉城に封じた。勝信時代の小倉城下は、紫川左岸の海岸に近い小規模なものであった。




















宮本武蔵・誠心直道之碑=小倉城公園

宮本武蔵(天正12〜正保2)

天正十二(1584)年、美作国吉野郡宮本村に誕生。母は宮本氏。父は新免無二斎武仁(あるいは武二)。美作の人あるいは播磨の人という。はじめ新免を称したが、母方の姓をとり宮本武蔵と名乗った。若年から、諸国を遍歴。伝記は確かではないが、武道修行のため諸国を漫遊し、二刀流を案出し、その祖になったといい、京都で吉岡清十郎、奈良で宝蔵院、小倉で佐々木小次郎と試合をして勝ったという話は有名。
寛永二年、「五輪書」を著した。
寛永十一年(寛永十七年ともいう)、細川肥後熊本藩主忠利に招かれ、客分として禄高三百俵、十七人扶持、大組頭格を賜った。宗元画の減筆法を基礎にして鋭い気力のこもった水墨画を描き、特に禽鳥類を得意とした。「鵜図」「枯木鳴鵙図」「布袋見闘鶏図」などがある。
正保二(1645)年、熊本で死去。肥後国飽田郡五丁手永弓削村に葬られた。





















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真木和泉守保臣とその家族

真木和泉守保臣とその家族

  弘化三年、真木和泉守保臣らが絶大な期待を寄せた有馬筑後久留米藩主頼永(25歳)は、倹約令を発し、兵制の改革に着手し、村上ら天保学派の人材を登用するなどして、藩政改革の実行に臨んだが、改革をはじめた矢先に、尿血症(腎臓結核)に倒れ、改革を思うように進めることが出来なかった。頼永が重篤となったため、異母弟の頼多(20歳)が養子となった。
  六月廿日、頼永、死去した。暗愚な藩主が多かった久留米藩の中で、頼永だけは、自ら藩政改革を押し進めた。しかし、在位二年で若死にしたため、改革は効果を発揮できなかった。
頼永の死にともなって家督を継承した頼多は、将軍家慶の偏諱を賜って慶頼(明元年には頼咸と改名)と改名した。

  頼永に抜擢された村上は、今井、野崎の天保学派系の士とともに頼永を助け、真木保臣や木村らもこれら同志の活躍に期待したが、在野の保臣・木村とは、おのずから意見が分かれ、遂に天保学派は、村上を中心とする内同志(うちどうし)と、真木・木村を中心とする外同志(そとどうし)とに分裂し、それは、時勢の進むにつれて、尊攘・佐幕の朋党軋轢(あつれき)とも関連し、お互いに救いがたい惨劇を招いた。

  嘉永三(1850)年、保臣、卅八歳。六月、村上は、江戸の藩邸において、参政・馬淵貢を刺して傷つけ、自らも刺されて死亡した。事の真相は明らかではないが、真木保臣や、その同志は、村上およびその一派が藩主慶頼(頼咸)を廃して代わりに末弟を藩主として擁立することを意図し、国家老・有馬主膳の意を受けて村上等をひそかに監視する馬淵を敢えて刺したものと信じ、村上の死後も、執政・有馬河内、参政・有馬豊前、不破孫市らは矢張り藩主の廃立を企てているものと判断していた。

  嘉永五年、四十歳。保臣ら同志は、執政河内らの三人を排除し、馬淵ら有為の材を登用しなければ藩政の改善はできないと結論し、同志のひとり家老・脇稲次因幡はひそかに目安箱に一書を投じて三人を弾劾したが、その効果の無いのを見て、藩主慶頼に謁して直接三人の排斥を訴えた。慶頼は、稲次因幡の言を聞いて怒り、早速、三人を措置しようとしたが、証拠があってのことではなく、却って執政河内の反撃に遭い、逆に稲次以下数十人の天保学派の同志が検挙され、五月、外同志の主なもの四人すなわち稲次因幡、水野丹後、木村三郎、真木和泉守保臣は、それぞれ無期の禁獄に処せられた(久留米藩疑獄事件)。保臣は、勤番長屋に禁固されていたが、罪が決まって、寺社奉行・馬淵貢宅に召喚され、罪状を申し渡され、水天宮神官の職を解かれ、久留米の南十二キロの地にある下妻郡水田村大鳥居理兵衛(保臣の弟敬太=信臣)の水田天満宮の地に「三里構ひ」となった。

水田天満宮(筑後市)


  この時、末子菊四郎は、まだ、10歳であった。以後、青年期を迎えるまでの十年間、古稀近い祖母、五十半ばの母、そして温厚な兄主馬と姉小棹のもとで過ごした。
  水田天満宮留守別当職であった理兵衛は、二百石を受けながら無為に過ごしては申し訳ないといい、水田地方の子弟教育に従っていた。貧家の子弟には、書物を購うて与え、みずから倹約を守って朝は必ず粥をすするなどして水田の文運をすすめ、この地方の人々の信頼をあつめていた。
  五月十七日、真木保臣が謹慎を命ぜられ、水田に移ると、水田の村民の間に、「大イナル人ガ来ラレタ」との噂が流れた。やがて周囲の青年たちの間で保臣に従学することを望む者が多かった。保臣は、尊王志士の中では、最も早く討幕意見を持った人であった。





  九月廿二日、真木保臣の次男主馬が真木家の家督を相続し、第二十三代水天宮神官となった。
  保臣は、大鳥居家の東北隅に四畳半と四畳よりなる一小舎を建て始めた。
  嘉永六年、四十一歳。八月六日、大鳥居家東北隅に小舎が完成し、「保臣口さがしきをもて罪を得ければ、今は何事をもいはじ、と書よむ所をも口なしのやと名付け」というように、山梔窩(くちなしのや)と名付けた。


山梔子家(筑後市・水田天満宮傍)



  十月十六日、保臣は、水田の青年たちと師弟の盟約を結ぶに至った。
  安政四(1857)年、四十五歳。二月二日、長女小棹が山本善次郎応平に嫁したが、蟄居謹慎中ゆえに親しく婚礼の席に臨むことも叶わず、しかも、一年にもたらぬ十二月十三日、破婚。実家に帰った。保臣は、弟外記からこのことを聞き、「はつか(僅か)一年にもたらす、私もゆめの様に御座候」と驚き、これまでの縁とあきらめ、婚家の悪口などいわぬがよろしく、嫁入道具は痛まぬようしまっておいて、いよいよ身をつつしむべきである。さすれば、「小棹これよりいよいよひょうばんよろしく候ハゞ、かへりてくらしよき所に参り可被下とぞんじ参らせ候」と慰めた。
  安政五年、四十六歳。この年一月ヵの妻睦子宛書簡で、保臣は、「此もの(菊四郎)はわしもつもり御ざ候間、がくもんは十分致させ申度」と述べている。
  四月廿三日、井伊直弼、大老に就任。
  八月八日、徳川将軍家定(35歳)、死去。
  九月七日、小浜藩浪士梅田雲浜が京で逮捕された。以後、京都・江戸で尊攘派志士が次々に逮捕され、安政の大獄が始まった。
  安政の大獄の頃、真木保臣は『大夢記』を書いて、天皇が天下の政治を行うべしとし、徳川氏は甲斐・駿河二国の領主とすべしと述べている。







  この安政五‐六年ヵの書簡に保臣は、「菊四郎事はどうなり申候哉と日々たよりを相待申候。とてもわしの所にてなくてハむつかしく」云々と認めている。
  安政六年、四十七歳。五月廿二日、17歳の菊四郎は、7歳年上の忠五郎娘某女(はつヵ)をさらったところ、この女性と同じ町と思われる新町悪少年が抗議してきた。そこで、母睦子の実家石原家の方で応対した結果、菊四郎の行状不埒とみて、彼を三畳間におしこめにした。母睦子は、この菊四郎の行状については、「とかく菊をひゝきしてわるい事はわしにかくしおき、此女の事なともしりつゝかくしお」いたが、ついに思いあまって保臣に対してこの女性を「もらひきり」にしたいと相談した。これに対し、保臣は、少年のうちに監禁処分にすると一生を駄目にしてしまうゆえ、「心を入れかへてしづかになりさへすれば、かくもんともなにとも存じ不申」と考え、「一しやうすたりものになり申候はゞ、とてもの事に一はりこみ、おとこらしくはらもきらせ候がよろし」とまで思いつめ、「先日からゆめにはかり見申候て、時々むねをきりわらるゝ様の心もち存し、夜前からめしものどに通りかねおもひやの申」す有様であったが、また、「わるい子はなほさらむざうかとむかしより申候て」云々とも書いている(安政六、妻睦子宛ヵ、書簡、水天宮所蔵)。安政六年か、翌万延元(1860)年にかかる頃、この一件は「はつ」を菊四郎の妾とすることを許すというかたちで解決したと考えられる。
  この頃、山梔窩が手狭になったので、水田天満宮内の延寿王院の本坊を借りて授業が行われた。 水田に釘付けにされた保臣に代わって、その耳目となり、手足となって、諸国を歩き、情報蒐集につとめ、これを保臣にもたらしたのは、弟外記および嗣子主馬であり、また山梔窩に従学した弟子たちであった。


山梔子家(その2)
















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