真木和泉守と山梔窩(くちなしのや)=筑後市水田
山梔窩(真木和泉守遺跡)=筑後市水田
天保十五(1844)年、卅二歳。四月三日、有馬筑後久留米第9代藩主頼徳(48歳)、死去。
六月、有馬頼永(よりとう)が、久留米第10代藩主に就任した。頼永は、頼徳の四男ではあったが、幼少時代から聡明で、文政9年に世子に指名されていた。
保臣は、水戸遊学から帰藩し、水戸における直接の見聞、合沢正志斎らの人々との意見交換を素材として、天保学派の人々と、一層の自信と抱負とを以て互いに切磋琢磨し、あるいは積極的にそれらのグループを指導し、従前よりも一層活発な活動を見せ始めた。保臣は、まず、久留米藩において武士道を振起することに意を注いだ。島原の乱を最後に戦争と呼ぶべきものは一つもなく、町民の文化は目覚ましい興隆を見せたが、反面、武士はとかく利益にひかれて本分ともいうべき道義を忘却し、その気風は質実剛健をはなれて甚だ惰弱となり、華美となり、まことにあさましい風俗となり果てていた。
木村・村上・真木保臣の三人は、天保学派の指導者の立場にあり、一般からも天保学の三尊と呼んで尊敬されていた。保臣らは集会を催し、武士の武士たる所以、武士のあるべき姿を説き、それは第一に忠孝という道徳の根本を理解し実践すること、武士たるものは先ず志を高く大きく立てて学業に励むべきこと、利害によって左右されることなく節操を守るべきこと等を、若い人の心によく沁(し)みこむように懇切に具体的に指導した。
七月、オランダ軍艦が、長崎に来航し、使節コープスは、開国を勧告するオランダ国王書翰を呈した。ここに、久留米藩では、藩の兵制改革を藩主に進言すべく同士の二藩士が脱藩するという事件が起こり、それは久留米藩内に衝撃を与え、ひいては一般の士気を鼓舞することともなって、保臣らの指導の効果を倍加させた。保臣ら天保学派は、藩政刷新運動の中で、有馬頼永の襲封・帰国に期待を寄せた。頼永は、世子時代から将来を嘱望され、彼自身、村上を水戸に派遣して研究するなど政治について、かねて考えていた。
十二月二日、弘化と改元。
弘化二(1845)年、卅三歳。久留米藩主頼永、帰国。頼永の帰国にあたり、保臣は、科戸風(しなどのかぜ)なる一文を呈して天保学派の登用希望を述べていた。一方、かねて天保学派の勃興を悦ばない人々は、これを撲滅すべしと藩主に陳情したが、頼長はむしろ天保学派の材を登用した。保臣らは、藩政の改革を構想する機会に恵まれた。頼永は、藩の財政難を再建するため、5年間の倹約による緊縮財政、綱紀粛正、軍制の近代化、外国情勢の入手、海防の強化、有用な人材の登用など、藩政改革に乗り出した。
弘化三年、卅四歳。春、保臣は、さらに敢言、総論、四部箇条とそれぞれ題する献言書を呈し、藩政の眼目について、意見を述べた。上書の目的は、改革の目的でもあった。何よりも人材任用すべきこと、それらの人材を藩政府、郡官および刑官に重点をおいて配置すべきことを説き、十八項目に亘る至急に検討実施すべき事項、三十七項目にのぼる長期構想の項目を列記してこれを示した。幕末における諸藩の改革が財政の建て直しを直接意図したのに対し、保臣の久留米藩政革新の目論見(もくろみ)は、一藩の改革を日本の国全体の改革の雛形と考えて、やがて幕府政治が排除され、皇室が日本の政治を執行されるようになった時には、そのままで日本中に実施できる模範的な藩政を実現すべきであるというところにあった。明治維新より二十五年も前に、幕府の廃止と王政の復活を前提に藩政改革の計画を試みたのは、真木和泉守保臣以外には無い。
保臣らが絶大な期待を寄せた藩主頼永(25歳)は、倹約令を発し、兵制の改革に着手し、村上ら天保学派の人材を登用するなどして、藩政改革の実行に臨んだが、改革をはじめた矢先に、尿血症(腎臓結核)に倒れ、改革を思うように進めることが出来なかった。頼永が重篤となったため、異母弟の頼多(20歳)が養子となった。六月廿日、頼永、死去した。暗愚な藩主が多かった久留米藩の中で、頼永だけは、自ら藩政改革を押し進めた。しかし、在位二年で若死にしたため、改革は効果を発揮できなかった。
頼永の死にともなって家督を継承した頼多は、将軍家慶の偏諱を賜って慶頼(明元年には頼咸と改名)と改名した。
頼永に抜擢された村上は、今井、野崎の天保学派系の士とともに頼永を助け、真木保臣や木村らもこれら同志の活躍に期待したが、在野の保臣・木村とは、おのずから意見が分かれ、遂に天保学派は、村上を中心とする内同志(うちどうし)と、真木・木村を中心とする外同志(そとどうし)とに分裂し、それは、時勢の進むにつれて、尊攘・佐幕の朋党軋轢(あつれき)とも関連し、お互いに救いがたい惨劇を招いた。
嘉永三(1850)年、卅八歳。六月、村上は、江戸の藩邸において、参政・馬淵貢を刺して傷つけ、自らも刺されて死亡した。事の真相は明らかではないが、真木保臣や、その同志は、村上およびその一派が藩主慶頼(頼咸)を廃して代わりに末弟を藩主として擁立することを意図し、国家老・有馬主膳の意を受けて村上等をひそかに監視する馬淵を敢えて刺したものと信じ、村上の死後も、執政・有馬河内、参政・有馬豊前、不破孫市らは矢張り藩主の廃立を企てているものと判断していた。
嘉永五年、四十歳。保臣ら同志は、執政河内らの三人を排除し、馬淵ら有為の材を登用しなければ藩政の改善はできないと結論し、同志のひとり家老・脇稲次因幡はひそかに目安箱に一書を投じて三人を弾劾したが、その効果の無いのを見て、藩主慶頼に謁して直接三人の排斥を訴えた。慶頼は、稲次因幡の言を聞いて怒り、早速、三人を措置しようとしたが、証拠があってのことではなく、却って執政河内の反撃に遭い、逆に稲次以下数十人の天保学派の同志が検挙され、五月、外同志の主なもの四人すなわち稲次因幡、水野丹後、木村三郎、真木和泉守保臣は、それぞれ無期の禁獄に処せられた(久留米藩疑獄事件)。保臣は、勤番長屋に禁固されていたが、罪が決まって、寺社奉行・馬淵貢宅に召喚され、罪状を申し渡され、水天宮神官の職を解かれ、久留米の南十二キロの地にある下妻郡水田村大鳥居理兵衛(保臣の弟敬太=信臣)の水田天満宮の地に「三里構ひ」となった。
この時、末子菊四郎は、まだ、10歳であった。以後、青年期を迎えるまでの十年間、古稀近い祖母、五十半ばの母、そして温厚な兄主馬と姉小棹のもとで過ごした。
水田天満宮留守別当職であった理兵衛は、二百石を受けながら無為に過ごしては申し訳ないといい、水田地方の子弟教育に従っていた。貧家の子弟には、書物を購うて与え、みずから倹約を守って朝は必ず粥をすするなどして水田の文運をすすめ、この地方の人々の信頼をあつめていた。
五月十七日、真木保臣が謹慎を命ぜられ、水田に移ると、水田の村民の間に、「大イナル人ガ来ラレタ」との噂が流れた。やがて周囲の青年たちの間で保臣に従学することを望む者が多かった。保臣は、尊王志士の中では、最も早く討幕意見を持った人であった。
九月廿二日、真木保臣の次男主馬が真木家の家督を相続し、第二十三代水天宮神官となった。
保臣は、大鳥居家の東北隅に四畳半と四畳よりなる一小舎を建て始めた。
嘉永六年、四十一歳。八月六日、大鳥居家東北隅に小舎が完成し、「保臣口さがしきをもて罪を得ければ、今は何事をもいはじ、と書よむ所をも口なしのやと名付け」というように、山梔窩(くちなしのや)と名付けた。
十月十六日、保臣は、水田の青年たちと師弟の盟約を結ぶに至った。
同上
山梔窩(復元・移築)=久留米水天宮境内
水田の山梔窩を模して久留米水天宮境内に復元・移築したもの。
同上