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真木和泉守保臣と水田天満宮

真木和泉守保臣と水田天満宮(筑後市)

真木和泉守保臣銅像(久留米水天宮境内)
明治100年を記念して新しく建てられた銅像


文化十(1813)年三月七日、誕生。筑後の人。母は中村柳子。父は真木左門施臣(としおみ)。

保臣が誕生した時、すでに姉二人がいたが、はじめての男子誕生であった。
保臣は、幼名を湊といい、やや長じて久寿、または鶴臣と称し、のち、保臣と改めた。通称、和泉守。号は紫灘(したん)。紫灘と号したのは、利根川の坂東太郎に対し、筑紫次郎と呼ばれる筑後川が水天宮の社殿の近くに大きく澱んでいるのに因んだという。
文化十四(1817)年、五歳。弟の亘(のちの大鳥居敬太信臣)、誕生。
文政元(1818)年、六歳。十一月、有馬筑後久留米藩主頼徳の命により、江戸芝赤羽の久留米藩邸内に水天宮を分祀した功によって、父・左門は、中小姓格に列し、年額米六十俵を扶持されることとなり、以後、真木家に伝えられた。
文政二年、七歳。弟の登(のちの小野加賀氏伸)、誕生。
文政四年、九歳。末弟の摩須男(のちの真木外記直人)、誕生。
文政六年、十一歳。父・左門(34歳)が、急病死。わずか11歳になったばかりの保臣が家督を相続し、真木家を代表することとなった。久留米水天宮の祠官であったが、江戸・水戸に遊学し、会沢安の影響を受けた。
 保臣は、身長五尺八寸。しばしば、力士に間違われるほど肥満した体躯で、角張った赤銅色の顔、広く秀でた額、はねあがった薄い眉、威力のある目、大きな耳と口、太く短い首、そしてやや猫背の容姿をしていたという(山口宗之『真木和泉』)。





  天保元(1830)年、保臣、十八歳。弟・理兵衛(14歳)は、水田天満宮先代信宜(八兵衛)の養子となった。

水田天満宮鳥居から神門を望む

水田天満宮は、嘉禄二(1226)年、筑前太宰府より水田庄(筑後市水田)へ勧請され、菅原道真を祭神とした。天文〜天正年中には、社地六百二十三町余を持ち、豊臣秀吉時代、小早川秀包から一千石、慶長六年、田中吉政より一千石、田中氏の改易後、元和七年、幕府上使板倉豊後守より更に一千石、有馬筑前久留米初代藩主より二百五十石、立花筑後柳川藩主宗茂より五十石の寄進を受け、都合三千三百石の社領を有した。十八代神官信岩の時まで水田において太宰府の司務職を兼ねたが、久留米藩主忠頼の臣梶村覚左衛門の子利兵衛を得て、別家大鳥居家として水田の社領二百石を分知し、天満宮の留守別当とし、これに対し、藩庁は馬廻格の待遇を与えた。





  天保五年、保臣、廿二歳。妻睦子、男子(長男)を出産。麟太と命名した。
  天保六年、廿三歳。十一月廿七日、妻睦子、男子(次男)を出産。幼名時次郎。通称主馬。名を佐忠・道文・彇・文臣という。
  天保八年、廿五歳。妻睦子、男子(三男)を出産。彦三郎と命名した。
  天保九年、廿六歳。保臣には、妻睦子との間に、長男麟太・次男主馬・三男彦三郎の三子があったが、この年、長男麟太(5歳)・三男彦三郎(2歳)が共に夭折した。
  天保十年、廿七歳。長女小棹、誕生。
  天保十四年、卅一歳。九月十九日、四男菊四郎、誕生。名は道武、弦。主馬より八つ、小棹より四つ若く、末っ子であったが、保臣は二男と呼んていたとう。
  天保年間(1830〜43)、久留米に、水戸学が伝えられ、天保学と呼ばれた。水戸義公に淵源する水戸学は、幕末に至り、水戸斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖、合沢正志斎らにより、形成された。木村三郎、村上守太郎によって、この水戸学が久留米に伝えられ、当時、藩の青年武士等、将来有為の人々は、この斬新な学風に惹かれた。藩内に広がった新しい学風は、おのづから旧来とは異なった一派を形成し、世間では、これら一派の人々を称して、天保学と呼んだ。





  天保十五(1844)年、卅二歳。四月三日、有馬筑後久留米第9代藩主頼徳(48歳)、死去。
  六月、有馬頼永(よりとう)が、久留米第10代藩主に就任した。頼永は、頼徳の四男ではあったが、幼少時代から聡明で、文政9年に世子に指名されていた。
  保臣は、水戸遊学から帰藩し、水戸における直接の見聞、合沢正志斎らの人々との意見交換を素材として、天保学派の人々と、一層の自信と抱負とを以て互いに切磋琢磨し、あるいは積極的にそれらのグループを指導し、従前よりも一層活発な活動を見せ始めた。保臣は、まず、久留米藩において武士道を振起することに意を注いだ。島原の乱を最後に戦争と呼ぶべきものは一つもなく、町民の文化は目覚ましい興隆を見せたが、反面、武士はとかく利益にひかれて本分ともいうべき道義を忘却し、その気風は質実剛健をはなれて甚だ惰弱となり、華美となり、まことにあさましい風俗となり果てていた。
  木村・村上・真木保臣の三人は、天保学派の指導者の立場にあり、一般からも天保学の三尊と呼んで尊敬されていた。保臣らは集会を催し、武士の武士たる所以、武士のあるべき姿を説き、それは第一に忠孝という道徳の根本を理解し実践すること、武士たるものは先ず志を高く大きく立てて学業に励むべきこと、利害によって左右されることなく節操を守るべきこと等を、若い人の心によく沁(し)みこむように懇切に具体的に指導した。
  七月、オランダ軍艦が、長崎に来航し、使節コープスは、開国を勧告するオランダ国王書翰を呈した。ここに、久留米藩では、藩の兵制改革を藩主に進言すべく同士の二藩士が脱藩するという事件が起こり、それは久留米藩内に衝撃を与え、ひいては一般の士気を鼓舞することともなって、保臣らの指導の効果を倍加させた。保臣ら天保学派は、藩政刷新運動の中で、有馬頼永の襲封・帰国に期待を寄せた。頼永は、世子時代から将来を嘱望され、彼自身、村上を水戸に派遣して研究するなど政治について、かねて考えていた。

久留米・水天宮鳥居を望む


  十二月二日、弘化と改元。
  弘化二(1845)年、卅三歳。久留米藩主頼永、帰国。頼永の帰国にあたり、保臣は、科戸風(しなどのかぜ)なる一文を呈して天保学派の登用希望を述べていた。一方、かねて天保学派の勃興を悦ばない人々は、これを撲滅すべしと藩主に陳情したが、頼長はむしろ天保学派の材を登用した。保臣らは、藩政の改革を構想する機会に恵まれた。頼永は、藩の財政難を再建するため、5年間の倹約による緊縮財政、綱紀粛正、軍制の近代化、外国情勢の入手、海防の強化、有用な人材の登用など、藩政改革に乗り出した。





  弘化三年、卅四歳。春、保臣は、さらに敢言、総論、四部箇条とそれぞれ題する献言書を呈し、藩政の眼目について、意見を述べた。上書の目的は、改革の目的でもあった。何よりも人材任用すべきこと、それらの人材を藩政府、郡官および刑官に重点をおいて配置すべきことを説き、十八項目に亘る至急に検討実施すべき事項、三十七項目にのぼる長期構想の項目を列記してこれを示した。幕末における諸藩の改革が財政の建て直しを直接意図したのに対し、保臣の久留米藩政革新の目論見(もくろみ)は、一藩の改革を日本の国全体の改革の雛形と考えて、やがて幕府政治が排除され、皇室が日本の政治を執行されるようになった時には、そのままで日本中に実施できる模範的な藩政を実現すべきであるというところにあった。明治維新より二十五年も前に、幕府の廃止と王政の復活を前提に藩政改革の計画を試みたのは、真木和泉守保臣以外には無い。









久留米水天宮と真木和泉守

久留米水天宮と真木和泉守

久留米水天宮拝殿


久留米水天宮は、筑後久留米瀬ノ下にある神社。祭神は、安徳天皇・その生母建礼門院(平中宮徳子)・外祖母二位尼平時子、ほかに、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を合祀する。全国に散在する水天宮の総本社。水天宮の成立については詳らかではないが、水神信仰・母子神信仰に基づく神社であろう。社伝によると、中宮徳子に仕えた按察使局伊勢が、筑後川に逃れ、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇をはじめ、平家一門の霊を弔い、同時に住民に加持祈祷を行ったのが始まりという。しかし、水天宮という社名と、筑後川の守護神とされていることなどから推測すると、本来は、筑後川水系の水神信仰が母体となっているのであろう。水天は、バラモン教の水神ヴァルナが仏教に取り入れられたものである。十二天の一つで、西方の守護神。元来は天空の神であり、龍族の王。五龍冠をいただいて亀に乗り、海中に坐して左手に羂索、右手に剣を持つ。はじめ、社地は、しばしば移ったという。これは、筑後川の氾濫と関係があるのかもしれない。元和六(1620)年、有馬豊氏は、丹波福智山から久留米に移封となり、これにともなって、福智山にあった瑞岩寺を移し、元和七年、禹門玄級を請じて開山として、大竜寺を創建し、150石を与えた。寛永三(1626)年、藩祖則頼の墓を、播磨国三木郡天正寺から改葬し、則頼の法号梅林院殿をとって寺号を梅林寺と改称し、さらに寺領200石を与えた。慶安三(1650)年、二代藩主忠頼は、この梅林寺山から筑後川畔の現在地に社地を寄進し、旧に復したという。寛文十(1670)年に社司が藩庁に提出した由緒書によると、祭神は中央が尼御前大明神、左右は荒五郎・安坊大明神という。当時、筑後川の水神は尼御前大明神(二位尼)、支流の巨勢(こせ)川の水神は九十九瀬(こせ)大明神(清盛)と信じられ、社の護符「五文字(いつもじ)」を受けると河童を退け、水難を避けられると信じられていた。寛延二(1749)年、若津(瀬下港と一体である川港)に出入りする大坂借船船頭中から神輿が寄進された。文政元(1818)年、9代藩主頼徳が、江戸の赤羽の上屋敷に分霊した頃から、水天宮の呼称が見られるようになるという。明治五(1872)年、この江戸の水天宮は、有馬屋敷とともに、現在の東京都中央区日本橋蠣殻町に移された。

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文化十(1813)年、真木和泉守保臣、誕生。筑後の人。父は真木左門施臣(としおみ)。

真木和泉守保臣銅像(久留米水天宮境内)


  真木家の始祖は、「真木家略系譜」によると、大和国石上神社神官某の娘・伊勢で、伊勢は、平知盛および清盛の時子(二位の尼)に仕え、建礼門院(徳子の入内とともに宮中に入り、按察局と称し、壇ノ浦における平氏滅亡の際、遺命により、安徳天皇以下一門の跡を弔うべく、筑紫国に流れ来たり、筑後川のほとり、鷺野原の地、すなわち、現在の所に住みついたという。平知盛の子に、従四位少将知時なるものあり、壇ノ浦より、肥後五家荘に逃れたが、その四男(平清盛曾孫)右忠は、ある日、伊勢を訪ねて、筑後の地に来たり、ついに、その養子となって、平氏の血脈を伝えることになったという。
  文治・建久の頃、伊勢は、鷺野原に、平氏一門を祀ったが、これが、すなわち、水天宮の創始といい、右忠が水天宮第一代の神職となったという。
  江戸時代に入り、慶安三(1650)年、右忠16代の孫・忠左衛門重臣は、有馬筑後久留米藩第二代藩主忠頼に、水天宮社殿の改築を願い出て、忠頼の意志により、今日の瀬下町の地に、壮大な社殿を築かせ、社地として、三潴郡京隈村(久留米市京町)のなかに七畝二十八歩を与え、物成免とした。
  この忠左衛門重臣は、肥後真木村(熊本県菊池郡大津町真木)の出身で、先代竜臣の養子となったが、出身地の名をとって、真木姓を称するに至ったという。以後、17代・与平次、18代・忠左衛門是臣、19代・右門三臣、20代・右門重臣と続き、和泉の父・左門施臣に至った。
通称、和泉守。名は保臣。号は紫灘。久留米水天宮の祠官であったが、江戸・水戸に遊学し、会沢安の影響を受けた。


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  文政元(1818)年十一月、藩主頼徳の命により、江戸芝赤羽の久留米藩邸内に、水天宮を分祀した功によって、中小姓格に列し、年額米六十俵を扶持されることとなり、以後、真木家に伝えられた。
  天保年間(1840〜43)、久留米に、水戸学が伝えられ、天保学と呼ばれた。水戸義公に淵源する水戸学は、幕末に至り、水戸斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖、合沢正志斎らにより、形成された。木村三郎、村上守太郎によって、この水戸学が伝えられ、当時、すでに藩の青年武士等将来有為の人々は、この斬新な学風に惹かれ、藩内に広がった新しい学風は、おのづから旧来とは異なった一派を形成し、世間では、これら一派の人々を称して、天保学と呼んだ。
弘化三(1846)年、有馬筑後久留米第十一代藩主となった頼咸(よりしげ)は、佐幕的態度をとり、尊攘派真木和泉守保臣らの藩政改革策をおさえたので、保臣は脱藩して尊攘運動に挺身した。嘉永五(1852)年、保臣は、久留米藩藩政改革を企て、失敗し、幽閉された。彼は、尊王志士の中では、もっとも早く倒幕意見を持った人であった。



安政五(1858)年、江戸幕府は、尊王攘夷運動を弾圧した(安政の大獄)。
安政の大獄の頃、真木和泉は『大夢記』を書いて、天皇が天下の政治を行うべしとし、徳川氏は甲斐・駿河二国の領主とすべしと述べている。
文久年間になると、その説は、ますます尖鋭となり、具体的な討幕策までに発展していた。
文久元(1861)年十二月、「義挙三策」をつくり、第一策‐諸侯にすすめて事を挙げる、第二策‐諸侯の兵を仮(か)りて事を挙げる、第三策‐義徒のみによって事を挙げる、第一・第二策では、その兵力で大坂城を占拠すべしとし、第三策では、五、六百人の同志は動員できるが、これでは大坂城奪取はむずかしいから、京都市内攪乱戦術をとり、天皇を比叡山に移すべしと述べていた。
出羽庄内藩田川郡の郷士出身の清河八郎は、安政四年には駿河台で塾を開いていたが、尊攘思想にとりつかれてヒュースケン殺害事件に関係して幕吏に追われ、関東から奥羽にかけて転々として身をひそめていた。文久初年頃には、各地に清河八郎を匿(かくま)う同志がいた。清河は、その後、上京してさらに九州に赴き、文久元(1861)年十二月、保臣と会見した。平野国臣・伊牟田尚平(薩州藩士)の二人は、島津久光が明春大兵を率いて上京して勅命を得て江戸に下り幕府に改革を要求せんとする議あるを知って入薩し、形勢をさぐった後、十二月廿五日、松村大成宅に待機していた清河八郎とともに、瀬高へ来て、この夜、和泉守はひそかに山梔窩を抜け出て会談し、清河・伊牟田は上京してさきに連絡のある田中河内介を通し青蓮院宮(中川宮)の令旨を奉じてふたたび西下し和泉守と平野は筑・豊・肥の志士を糾合して決起の準備をし令旨の西下を待って水田を脱出し鹿児島へ走ることに決まった。




安井息軒旧宅=宮崎市清武町

安井息軒旧宅=生家=宮崎市清武町加納甲3368-1

寛政十一年一月一日、誕生。32歳まで、ここに住んでいたという。


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天保二(1831)年、藩校振徳堂が再興され、総裁に安井滄洲が、助教授に息軒が任命され、この居宅を隣人に譲渡し、飫肥城下に転居した。

昭和39年の台風被害で、茅葺きだった屋根は瓦葺きとなった。
安井息軒旧宅は、長い歳月のうちに、形を変えてきており、史実に沿った整備が必要とされるようになった。
昭和59年、国指定史跡となり、
平成4年度から5年度にかけて、旧宅の保存修理を中心とした史跡整備事業が行われ、奈良国立文化財研究所の指導のもとに、旧宅を敷地内のもとの位置に移動させるとともに、屋根を茅葺きにするなど、ほぼ、安井息軒在住時の姿に復元された。



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日向・木喰行道「五智如来坐像」(その2)

日向・木喰行道「五智如来坐像」

大日如来







阿弥陀如来







薬師如来












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日向・木喰行道「五智如来坐像」

寛政四年頃・木喰行道「五智如来坐像」=日向国分寺址・五智堂

五智堂


日向国分寺址は、西都市三宅に所在する。天平勝宝八年十二月廿日条『続日本紀』に国分寺初見。古代律令国家の解体とともに衰退。江戸時代、寛政初年、木喰行道は、この地に留錫し、寺基の復興に尽力したが、同三年正月、火災に罹り、翌年より再建に着手。大日如来像のほか、宝生・阿シュク・阿弥陀・釈迦の五智如来を彫造した。

左から薬師如来・大日如来・阿弥陀如来

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五智は、仏の五種の智慧で、大日如来の智を五種に分けたもの。
  @法界体性智…法界(真理の世界)の本庄を明確にする智→大日如来
  A大円鏡智…鏡のように万象を顕現する智→阿閦(アシュク)如来
  B平等性智…諸々の事象が平等であるということを観ずる智→宝生如来
  C妙観察智…諸々の事象の差別相を正当に観察する智→阿弥陀如來
  D成所作智…自己および他人のために成すべきことを成就させる智→不空成就如来。
 五智は、それぞれ、大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の五如来に配当される。

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 五智如来は、密教で、五智のおのおのを成就した五如来で、即ち、大日・阿弥陀・宝生・無量寿・不空成就の総称。

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兼六園(蓮池亭)=金沢市(その2)

兼六園(蓮池亭)=石川県金沢市

根上松
前田加賀金沢藩第13代藩主斉泰(なりやす)公が、若松を、土を盛り上げてお手植えされ、成長後に、徐々に土を除いてあらわしたものという。高さ約15mの黒松。枝分かれした根が、地上に約2mほど表れている。







雪と水路






明治記念之標

西南戦争で戦死した郷土軍人の霊を慰めるために建てられた。中央に日本武尊像(身長5.5m)、左は石川県戦士尽忠碑を据える。両脇に植えられた赤松は、手向松(たむけまつ)と呼ばれ、当時、京都の東西両本願寺の門跡から移されたものという。













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兼六園(蓮池亭)=金沢市(その1)

兼六園(古くは蓮池亭ともいう)=江戸時代初期の開創・前田加賀金沢藩主の庭園

松平定信が、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六長を兼ねる意で兼六園と命名した。日本の代表的回遊式庭園。

徽軫(ことじ)灯籠と霞ヶ池
徽軫灯籠は、霞ヶ池の北岸に配された、兼六園を代表する景観となっている。足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているので、その名が付いたと言われている。高さは、2.67m。





唐崎松を案内するガイドさん

唐崎松は、前田加賀金沢藩13代藩主斉泰(なりやす)が、近江八景の一つである琵琶湖の唐崎松から、種子を取寄せて育てたという黒松。兼六園のなかで、最も枝振りの見事な松といわれている。

雪吊りと唐崎松






雪中の菊桜










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鞆城(備後)=広島県福山市

鞆城(備後)=広島県福山市

古代以来、鞆は、潮待ち港として栄えていた。

南北朝時代、鞆の津に隣接する島に、大可島城が築かれていた。

天文廿二(1553)年、備後地方の豪族・渡辺氏が、毛利元就の命により、鞆の市街中心部の丘陵に、「鞆要害」を築いた。

天正四(1576)年、京都追われた足利義昭が、鞆要害に滞在し、毛利氏の庇護の下で、「鞆幕府」とされた。

鞆城址・石垣











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鞆の町並

平成廿年五月十六日撮影・道路の拡幅も進められていた。






鞆の浦の家並


万葉集にも歌われた古代以来の港町。





鞆ノ浦


本来、「鞆の浦」は、「鞆にある入江」の意で、鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼んでいる(「ウィキペディア」による)。





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小倉城=豊前国企救郡=北九州市

小倉城 = 豊前国企救郡 = 北九州市小倉北区城内

規矩川(紫川)の河口部に位置する堅城。
 
  勝山城・勝野城・指月城・湧金城・鯉ノ城ともいう。


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井筒屋8階星ヶ岡茶寮より撮す













雄略18年(五世紀後半)8月戊申条に、「筑紫聞物部大斧手」が登場する。

「きく」(聞・企久・規矩・企救・伎久などと書く)は、筑紫の最北部、北は関門海峡、東は周防灘に面していて、古くから、鎮西の要衝にあたっていた。

古代、企救郡には、杜崎・到津の2駅があり、安閑紀では大抜屯倉も設置され、また、登美・板櫃には軍鎮が置かれていた。

天平12(740)年9月、藤原広嗣が反乱を起こし、板櫃川で官軍と戦った。板櫃軍鎮の大長三田塩籠や小長凡河内田道などは、広嗣軍の加わり殺された。

保元2年、平康盛が豊前国司となって下り、企救郡の豪族長野氏の祖となったという。

古代末期には、小倉城の起源となる城があったことが推測されているが、その遺跡は明瞭ではない。

文永年間(1264〜75)、維方大膳亮惟重が、小倉城を築き、以後、数代、居城していたが、延慶年間(1308〜11)、水原備中守のため落城したというが、確証はない(『角川日本地名大辞典福岡県』江戸時代小倉藩士春日信映「倉城大略誌」)。

元徳二(1330)年、黒崎土佐守が小倉に築城したというが、これも、確証はない。

観応二(1351)年十一月五日、宗像資村は、一色道猷の手に属し、小倉城を攻略した(観応3年3月23日の宗像資村軍忠状写)。これが信頼できる史料上の初見。

永禄十一(1568)年、毛利氏は、翌年の筑前攻めのため、海上通路の要所として、小倉津に平城を構え、南条勘兵衛を入れた。






















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肥後人吉藩米良小川城址=宮崎

日向・米良小川は、小河谷(おがわだに)ともいう。米良地方は、日向国でありながら、江戸時代は、肥後国球磨郡のうちとされていた。九州山地中央部、一ツ瀬川上流域、同川支流小川川(おがわがわ)中流の山間部に位置する米良山中の一村。肥後国人吉藩領。但し、人吉藩の付属ながら、旗本交代寄合衆として参勤交代を勤めた米良氏が、幕府鷹巣山として支配していた。






 宝永元(1704)年、米良神社を勧請したという。祭神は磐長姫命で、大山祇命・豊玉姫命を合祀する。寛政四(1792)年閏二月、米良山を訪れた高山彦九郎は、『筑紫日記』に、「下りて米良の小川也、米良主膳殿の在所也、五ツに及んで板橋を渡りて小川八十吉所に宿す」「小川に一ノ宮と天神の社有り、館主榊原左京、同ク内記、禅院済福寺、真言宗不動院とて有り、家六十軒」と記している。

※米良氏は、菊池氏末裔といい、菊池氏同様に揃い鷹羽を家紋とする。その始源については、菊池能運の子重為(あるいは重次)の入山とする説、能運(または重朝)の弟重房の入山とする説などがあり、確証はない。宝永三(1706)年建立の西米良村小川に所在する第十代則重墓碑には、「氏は菊池、姓は天」とし、武重十一世の孫石見重次の入山と記す。城は村の中央の高台にあり、御尋間・控の間・小書院・大書院・御学問所などを備えた本邸のほか、裏には穀物蔵・馬屋・御金蔵・火焼の間などが置かれていた(『西米良村史』)。










 則重から後、米良本宗家は代々、主膳を号した。

 第十七代の米良主膳則忠は、幕末・維新期にあって、つよい菊池末裔意識をもち、尊攘派として活動した。元治元年、則忠が、相良家に提出した米良山系譜(相良家文書)には、米良石見を名乗った初代重次は菊池石見守国重の嫡子で、米良山に入ると、銀鏡(しろみ)に居館を構えたという。




 明治元年、則忠は、菊池姓への復姓願いを出し、翌年正月、菊池広次郎忠と名乗り、同十七年、菊池広次郎忠の嫡男武臣は、男爵を授けられた。











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