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国東半島五辻不動尊

五辻不動堂
160929-1・20160921-1516・五辻不動堂DSCF7787.JPG

 平安時代後期、五人の僧が、千燈岩屋に住していた。
 長承四(1135)年三月廿一日の僧行源解状案(余瀬文書)に、「千燈岩屋 住僧 五人」とある。

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160929-2・20160921-1517・五辻不動より岐部谷を望むDSCF7788.JPG



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大分県国東市 富来八坂社 鳥居

天徳3年1月、豊後国国東郡富来に、播磨国飾磨郡広峯神社の分霊を祭祀したという。

 明治25年1月11日より7月28日迄抜粋との奥書のある「豊後国東国東郡神社明細帳抜粋 全」(鈴木家記録)に、「当社(郷社八坂社)牛頭天皇ハ播磨ノ国飾磨郡広嶺ノ神社ノ分霊ナリ。村上天皇天徳三年己未正月常陸国石井村ノ禰宜岡仁兵衛政弘(岡政弘ハ常州石井村ノ岡宮内大夫政安ノ子ナリ后改テ鎌田式部大夫ト云フ岡生ヲバ孽子ニ譲ル)此神社ニ祈願ノコトアリテ一七日祈念ス。
 満願ノ暁神託アリテ曰ク、朕分身シテ西海ニ遊バント欲ス。汝速ニ小船ヲ造リ、朕トヲ載セテ海上ニ供奉スベシ其船ノ止マル所ニテ庶民守護ノ地ヲ卜サン。而シテ汝ノ本願朕ガ言ノ虚妄ナラザルヲ識ラン。政弘夢ノ如ク覚メテ希遇ノ心ヲ生ズ神勅ノ尋常ナラザルヲ覚ル。則謹テ神像ヲ彫刻シ、以テ教示ノ如クス。海波穏静微風モ起ラズ御船西ヲ指テ馳ス。其疾コト飛ガ如クニシテ富来三ツ石ニ止マル。其石ヲ名ケテ影向石ト云フ。此ニ正弘纜ヲ繋テ村里ニ告グ、人民悉ク奉迎ス。而シテ此礒辺ニ於テ神饌ヲ供ス(里人此所ニ小祠ヲ立テテ崇敬シ礒ノトモ礒ノ御膳トモ云フ)。本社造営ノ間富来丸山ニ遷シ奉ル。仝年十月社殿成ル。十一月朔日新営ノ社ニ遷ス。神徳日新ニシテ人民挙テ敬畏ス矣」とある。


 (製作中)

平成27年9月17日、撮影。額銘「牛頭宮」の鳥居 
160729-1・20150917-1222・富来八坂社鳥居「牛頭宮」DSCF7066.JPG

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富来祇園社鳥居


160729-3・20150917-1230・富来八坂社鳥居「富来神社」DSCF7079.JPG

国道222号線 道の駅酒谷 ☆宮崎県日南市酒谷

国道222号線 道の駅酒谷
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平成28年7月1日、撮影 道の駅酒谷。

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平成28年7月1日、撮影。道の駅酒谷 シンボルタワー

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平成28年7月1日、撮影 オリーブ 於・道の駅酒谷。

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豊後國堅来村弁財天の由来

享保19(1734)年、豪珍大和尚は、松平民部武郷から禄を賜り、豊後国国東郡堅来村に、弘法大師御作とされる弁財天を安置して、天台宗明徳山浄満寺を草創した。

 弁財天は、弁才天とも書く。もと、インドで河川を神格化したもので、ヴェーダにおいては、インドの五河地方の河神として崇拝され、後に、梵天の妃とされた。音楽・弁才・財福・智慧の徳がある天女形で、吉祥天とともに最も尊崇された女神である。音楽・弁才・福智・延寿・除災・得勝を司る天で、大弁天・音妙天(妙音天)・美音天・弁天・大弁才功徳天ともいう。仏教に入って、『金光明最勝王経』大弁才天女品に詳述されて、古くから、造像された。後世、吉祥天と混同し、福徳賦与の神として弁財天と称された。
 日本では七福神の一として信仰された。もと河の女神であったから、日本でも、弁天の祀堂は、湖辺・海辺にある。

160613-1・18310961・弁財天由来写00-2表紙2.JPG

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 天台宗明徳山浄満寺(今の白砂山明徳寺)は、養老4年に仁聞菩薩の開基と伝えられているが、実際の創建年次は不明。千古の名刹も長い星霜とともに、頽廃していたという。

160614-1・20150917-1126・国東DSCF7047.JPG明徳寺 仁王と山門


 浄満寺(明徳寺)の所在する豊後国国東郡堅来は、国東半島の東部、伊予灘に面し、堅来川と支流鳴川の流域に位置している。

 堅来日向に鎮座している稲田姫神社は、建仁年間(1201〜04)に、大友親秀が、出雲国簸川から、鎮疫のために勧請したと伝えられている。




(製作中)

松平民部武郷 (まつだいら・みんぶ・たけさと 生年未詳〜元文3) その略伝


松平民部武郷 (生年未詳〜元文3)

元禄十三(1700)年頃、誕生。母は、松平正晴が女。父は、松平(能見)直堅。長男。通称、源七郎。織部。民部。

父・直堅は、松平直政の男。寛永8(1631)年に、誕生。翌寛永9年、松平重直(直政の父・武郷の曽祖父)は、摂津三田三万石から、三万七千石で豊前竜王に入封。同16(1639)年、領内の豊後高田に築城して移った。

重直は、寛永19年、領地高三万七千石のうち、二男重長に三千石、三男直政(武郷の祖父)に二千石を分知した。しかし、幼年のため、知行地はつけなかったという。重直は、この年11月に死去し、翌寛永20年1月、長男英親が、家督を相続した。

松平英親は、正保2(1645)年、豊後木付(のち杵築と書く)へ分知領を合わせて三万七千石で所替を命ぜられた。この時、旧領地のうち幕府領となった国東郡「高田領見目、香々地、都甲、田染」の一万七千八百十七石を預かることになった。しかし、この幕府領は、寛文9年に一万石余が肥前島原藩領となった。


松平重長・直政への実際の分知が、天和2(1682)年に行われたらしい。

武郷が誕生した頃、すなわち元禄13年11月、旗本庶子の拝謁および養子について䂓定された。

元禄十四年三月、播州赤穂藩主浅野長矩、江戸城中で高家吉良義央を傷つけ、切腹・改易された。

元禄十六年十一月廿三日午前二時頃、関東地方を巨大地震が襲った。江戸市中の被害は大きく、江戸大火により、湯島天神・聖堂などが罹災した。

この地震とほぼ同時に、豊後でも強い地震があり、府内領で潰家があり、由布院でも被害が著しかった。

宝永元(1704)年十二月、将軍綱吉は、甥の徳川甲府藩主綱豊を養嗣子に定め、家宣と改名させた。

綱豊(家宣)は、寛文3(1663)年の誕生で、母は田中氏、父は甲府藩主徳川綱重。長男。三代将軍家光の孫にあたり、幼名を虎松といった。

柳沢吉保は、甲府へ転封となり、15万余石に加増された。

宝永二年正月、間部詮房は、西丸側衆となった。

宝永三年正月、幕府は、武家奉公人不足につき、知行所百姓の使用を認めた。

宝永六(1709)年正月、徳川将軍綱吉(64歳)、死去。

この月、幕府は、新井白石を登用した。生類憐みの令を廃止した。

四月、幕臣の子息700余名を新規に召し出した(惣御番入)。

五月、徳川家宣、第6代将軍に就任した。

家宣は、間部詮房を老中として、生類憐みの令を解き、前代の権臣柳沢吉保を退け、新井白石を信任して政治の刷新をはかった。

六月、柳沢吉保、致仕。

十二月、前代までの幕臣の拝借金返済を免除した。

正徳元(1711)年三月十八日、武郷は、はじめて、徳川家宣(文昭院殿)に拝謁した。



享保七(1722)年七月十一日、武郷は、家督を継承し、寄合(よりあい)となった。

武郷が継承した領地は次のようなものであったと推測される。

石高二千石 豊後国国東郡のうち、
・鬼籠村  220石1斗2升
・伊美中村 424石1斗
・岐部村  532石6斗
・深江村  194石8斗
・堅来村  217石0斗2升
・岩戸寺村 217石0斗9升
・新涯村  194石2斗7升 (以上)

寄合は、旗本のうち、三千石以上ないし布衣(ほい)以上の者で無役の者ということであるが、武郷は、二千石でも寄合とされたのであろう。

享保十一(1726)年正月十八日、武郷は、御使番となった。

使番(つかいばん)は、若年寄に所属する職名で、戦時には側近にあって命令伝達を担当したが、平時には、将軍上使として、代がわりの時に諸国巡回して大名や遠国諸役人の監察、城の受渡しの立合い(監督)、大名火消の指揮、また、二条・大坂・駿府・甲府などの要地への目付として出張、などがその任務となっていた。

享保十一年十二月廿八日、武郷は、布衣を着する事を許された。


享保十九年五月廿八日、武郷は、駿府の定番に転じた。


元文二年七月廿三日、武郷は、御不審を被りて、秋田信濃守ョ季に召預けられた。


元文二年九月十一日、武郷の罪を定められた。

『寛政重修諸家譜』によると、「武郷駿府の定番として守れる虎の四足門は、酉刻を過れば人の出入を許さゞる掟なるに、夜中に及びてもひそかに出入せしめ、また平日行跡よからざるよし聞召れ、かれこれ其罪輕からずとて采地を歿収し、永く信濃守ョ季が許にめし預けられて家たゆ。妻は有馬攝津守純富が女」とある。

『杵築市誌』(昭和43年7月土井寛申ほか)には、「駿府定番だったが、取り調べを受け奥州三春城主秋田信濃守へ身柄を預けられ、九月十一日「永の御預け」の裁が下り、十月六日には、このことが杵築藩へ通達され、日田代官岡田庄太夫へ預けられた。知行二千石は没収され、十一月六日にこの引き渡しを終えた」とある。



元文三年五月晦日、武郷、死去。

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松平民部武郷の墓松平民部武郷の墓 大分県国東市国東町堅来。

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